兵を飢えさせるは、将の罪なり
夏羿族の言葉について子狼があっさりと習得したことについて、盧武成は少しだけ妬みを覚えていたのである。
それなりに物覚えはよいつもりでいたが、それでも大陸の言葉を知る者らの補助を借りつつ、どうにか覚えられたのだ。しかし子狼のほうはそういう苦労をした素振りがない。頭の出来にも天与の差異はあるのだと思うと、少しだけ僻む心があった。
「まあ、陶族の言葉と似ているからな」
「そうなのか? というよりも、陶族の言葉も分かるのかお前は?」
「そりゃそうだろ。俺は維少卿の麾下にいた頃は、陶族と争ってたんだぜ。敵の言葉くらい知らなきゃ尋問さえ出来ないだろ」
子狼にとって、敵のことをなんでも学ぶというのは、当然のことなのである。特に子狼の出身であった維氏は多数の民族、部族と融和して勢力を伸ばした族であり、それらの族には独自の言語がある。そこで部将であった子狼は、敵味方を問わず北狄の言語に精通していたのだ。
「それにどうもな、北の民の言語というのは、根底のところに近しいものがあるんだよ。思うに、北の民というのはもとは一つの族であったのが、山岳や豪雪に阻まれるうちに分断され、やがて多様な族として枝分かれしていったんじゃないかなと考えている」
「ほう、まるで史官のような言説じゃないか」
少し斜に構えた称賛が盧武成の口からこぼれる。子狼のほうも、己惚れるように頷いた。
「まあ、史氏の令息にそう言っていただけるのは嬉しい限りだ。なにせ俺は、二十五までに自分の道が決まらなければ、北地を逍遥して文化を調べ、書にしようかと考えていたくらいだからな」
子狼は壮大なことを口にした。盧武成は前に望諸城の守将、劇迴から、維弓の後継は末子たる子狼と目されていると話していた。それはあくまで風聞であり、実際に維弓が何を考えていたかは分からない。
しかし子狼の言動を見ていると、少なくとも子狼にそういうつもりはまるでなかったということは分かる。
天命は二十二の子狼を姜子蘭という主君とめぐり合わせた。それはともすれば、大陸の北地探索という観点から見ると、大きな滞留であるのかもしれない。
――しかしまあ、樊の少卿に、北地の探検家に、虞の王子の直臣か。
なんとも多彩な人生である。姜子蘭に仕えるまで、自分の旅路に前途というものを思い浮かべたことがなかった盧武成は、少しだけ羨ましく思った。
今に不満があるわけではない。人生に真摯に向き合った末に、姜子蘭への臣従を決めたことがわかるからこそ、
――俺はどうも、己に対して不誠実に生きてきたのかもしれんな。
と思ったのである。
そんなことを考えると、ふと、かつて旅をしていた時のことを思いだした。奇縁から知り合った少年から、自分に仕えないかと言われたことがある。思えば、盧武成にとっての人生の一つの転機がそこであり、しかもその時は、深く考えず、ただ旅を続けたいというくらいの理由で断ったのである。
悔いはないが、盧武成が旅を始めて間もない時のことであったので、ふと懐思してしまった。
――あの時の少年は、ちょうど、今の我が君と同じくらいであったな。今は、どこで何をしているやら。
夏羿族の練兵もひと月を過ぎたころである。
兵糧については、利幼からもらったものがあるが、こちらは、夏羿族の兵らの家族に配り、後は西への進軍のために備蓄しておかなければならない。そのため子狼は、なるべくは狩りや採集などで食事を賄うように徹底した。
この食料事情についても、部隊として数十人から百人単位で行うとなれば練兵の一環となる。
しかし、多方から聞く事情を聞いて、子狼は渋い顔をしていた。三千の軍となれば、一日に食べる量だけでも尋常でなく、それが雪の融けるまであと二月は続くのである。
――このままじゃ俺たちは、勲尭と戦うよりも前に、寒さに加えて飢えと戦うことになるな。
子狼の廟算では、兵を出す季春までは恙なくやれるはずなのだった。だが実情を見ると、子狼は自分の見立てが甘かったことを悟ったのである。
維弓の下で将をしていた頃は、兵糧の調達や輸送は子狼の職分ではなかった。それでも、運ばれてくる兵糧で今の兵を養えるか、自陣まで運び込む経路に敵の伏兵が出ないかということには注意を払っていたが、それより踏み込んだことを意識してはいなかったのである。
方策を色々と考えはしたのだが、子狼は仙術にも外法の術にも通じておらず、無から糧秣を生む術などない。
子狼は姜子蘭、盧武成と諮り、利幼から与えられた兵糧に手を出すことにした。
そして暫くの間、食事を減らすことにした。
「臣の不手際でございます。如何ようにも罰しください」
額を冷たい地につけて詫びる子狼に、姜子蘭は気を楽にするような言葉を投げた。だが、子狼は頑なになって伏したままでいる。
「軍を動かすにあたり、兵を飢えさせるは将の最大の罪でございます。臣は我が君から信任を受けながら、その職分を怠りました。臣が任を果たせなかった時は、罰を与えるのも主君の役目でございます」
子狼は頭を下げながら、しかし口にしているのは主君への諫言である。
地面から跳ね返って姜子蘭の耳を叩くその声は、怒っているようであった。それが不甲斐ない自分へのものか、臣下に対して優しさと甘さを取り違えている若き主君に向けられたものなのかは分からないが、舌端に激しさをこめた。
この中で最も将としての経験が長いのは子狼であり、兵糧や軍資の不足は、いかなる大軍、強兵であっても立ち向かえず、優位の勝負を一気に敗勢へと傾かせることなのだ知っている。だからこそ自分の不手際をことさらに際立ててでも、その罪を咎めるようなことを口にしているのだ。
その強弁に、姜子蘭も頷いた。
そして、子狼に罰を与えることを決めたのである。
「ならば子狼。明日より出陣の日まで、山野から二人分の食べ物を集めるように。ただし、一切の武具を使ってはならぬ」
「――御意に。ですが、二人分というのは?」
「一食は私の分だよ。為せなかった子狼に責もあろうが、任せた私が何も負わぬわけにもいかないだろう。ああ、これも罰として言うが、私とお前とで食事に差異をつけてはならないぞ」
ようやく顔を上げた子狼は、言葉を返そうとして、やめた。
自分の失態が主君に我慢を強いることになってしまった。その心の重さも、自分への罰の一つとして受け入れることに決めたのである。




