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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
北岐烈風
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北岐烈風

 北岐山脈を越えて騎兵が現れたと聞いて、ともかく顓項と顓遜は制周城に帰ることにした。

 恒崋山の山賊も重要な問題であるが、今はそれどころではない。おそらく虞の有史始まって以来の変事が起きているようである。

 北の防衛線として築かれた城で、初めて北の異民族を迎え撃つのが、虞を一度は滅ぼした顓族だというのはなんという皮肉だろうかと、顓項は思わざるを得なかった。


「今日が(つつが)なく終われば、明日も同じと人は思ってしまうものです。それが何百年と繰り返されれば、人はそれに慣れてしまう。その虚を突かれた形ですな」


 顓遜はまだ見ぬ敵を褒めるようなことを言った。しかし実際、一応の備えこそあったものの、実際に北岐山脈という天険を越えて敵が来ようとは誰も思っていなかったのである。この場合はむしろ、空が落ちてくるような起こり得ぬ僅かの危惧に備え、全軍を恒崋山に向けなかった顓項の差配を褒めるべきであった。


「愚行というのか、勇敢というべきか、分からぬ行軍だな。しかし――解せぬことがある」

「なんですか、季父上?」

「北狄には多数の族があるが、何故、わざわざ険阻なこの道を選んで制周を侵しにきたのかということだ」


 顓遜の疑問は顓項も考えていたことである。顓項は、北狄が主に狙うのは樊の維氏か薊国であるということも知っていた。そしてその二氏は北狄の戦術に通暁しており、度々、北狄を撃退していることもまた知っていたのである。

 その二氏に勝てず、困窮した末に、このような暴挙ともいえる進軍を選んだのではないかと顓項は考えた。


「とにかく、今は一刻も早く制周城へ戻りましょう。騎兵の敵となれば、城攻めは得手ではありません。門を閉ざし、城を固く守っていれば、そう恐れるものでもないかと」

「……そうだといいがな」


 顓遜の言葉に、しかし顓項は苦々しい顔をする。実は顓遜も、これは顓項と、そして自分を落ち着かせるための気休めに過ぎないと自覚しているのだ。

 北岐山脈は岩ばかりの荒れ果てた山で、山中に食べられる草木などほとんどなく、その高さ故に鳥さえも境を越えられぬので、狩りをすることも出来ない。それでいて山道は、道という字を用いることに気後れするほどの悪路なのである。

 そんなところを越えてきた敵には、退路というものがない。

 そのような道のりであるので、兵糧も最低限しか輸送出来ないであろう。

 つまり敵には、制周城を陥とすより他に活路などないのである。顓遜の言った通り、乗馬の民が城攻めを不得手とすることに違いはないが、死戦を覚悟した兵を相手取るとなると楽観はできない。

 顓項率いる一千の兵は強引な行軍をして、半日で制周城へ帰った。往路には二日掛けたので、その四倍の速度で進んだことになる。


「紀犁、仔細を話せ!!」


 城主のために作られた執務室に向かうなり、顓項は叫ぶ。顓項が城主となってからほとんど使われていなかった部屋であるが、今は紀犁を含む制周城の部将が五人ほど集まっていた。

 紀犁は地図の書かれた布を広げて説明する。

 その話によれば、鉱石の採掘のために北岐山を越えた民が、ちょうど顓項らが出立した日に、騎馬を率いる軍らしき集団を目撃したらしい。この時にはまだ見た者が数人しかいなかったので改めて紀犁が密偵を走らせたところ、北岐山の北側の中腹あたりに、確かに百を超こる騎兵の軍を見つけたのである。

 他にも、北岐山のあちこちで夜営の跡があったらしい。それも数人ではなく、小規模なものでも三十人ほど、大がかりなものであれば百人はいたであろうという、石を積み上げて作った竈があったという。

 こうなると最初の目撃者からして間違いでなく、そして旅人や流民ということもないだろう。

 いずれの族かは分からぬが、北狄が大挙して制周城を攻めようとしていることは明らかであった。

 さらに翌日。制周城の西の支城、沃周(よくしゅう)城から早馬が来た。その報せによると、千を超える騎兵に包囲されたので援軍を求める、というものである。

 沃周城は支城のため、兵は五百ほどしかない。城内の臣民を合わせても二千いるかどうかであり、その半数は女子供と老人である。支城とは名目ばかりになっていたため、兵糧や軍資にも乏しい。

 さらに驚愕すべき情報として、沃周城を囲む騎兵は、車輪のついた移動式の櫓のようなものを複数、保有しているとのことであった。


「季父上、どう思う? この書簡と使者そのものが、敵の罠ということはあるまいな?」


 顓項は陸にあがった魚のように口元を震わせながら、沃周からの書簡を顓遜に見せた。


「……割符も、城主の印璽も符合しております故、それはないと思います。ですが、俄かに信じがたい、という心中はお察しいたします」


 城を攻めるための、巨大な木組みの移動式櫓――攻城兵器と呼ばれるものがある、という話は顓遜もかつて、何かの文献で読んだことがある。しかしそのようなものを駆使する北狄など聞いたことはない。そもそも、虞を占領した顓の軍中にいた顓遜でさえ、一つとしてそれらの実物を見たことはないのだ。


「だが……これが本当ならば、すぐに救援を出さねばなるまい」


 顓項はそう、城主としての意志を示した。しかし顓遜の顔は暗い。


「私が危惧するのは、沃周を囲んだことが敵の策であり、我らが制周から援軍を出したところを野戦で迎え撃つ腹ではないかということです」

「……なるほど。兵法とは、こういう考え方をするものか」


 先だって二人で、北狄の兵は野戦を得手とし、攻城戦は苦手だという話をした。愚直な考えをしていた顓項であったが、顓遜の言う通りで、野戦を望むのであれば、こちらと野戦するために動くだろうと思い直したのである。


「ならば兵糧と軍資だけを送る、というのは?」


 紀犁が口を挟むが、顓遜は苦い顔をした。


「守る兵がいなければ、それらはすべて敵の腹に収まり、沃周に向けられることになるでしょう。この場で我らが採る道は二つでございます」

「二つ、か」

「一つは、沃周に援軍を送ること。もう一つは、敵の様子をうかがいながら沃周城には守戦に徹させ、相手の兵糧が底をつくのを待つことです」


 つい数日前までは、ただ風を受けながら灰色の山並みを眺めているだけでよかった少年が、今は城主として何千の将兵の命を左右する決断を迫られることとなった。


「……千五百の援軍を、沃周に出す。沃周には、もし北狄が東に向かう兆しあらば、すぐさま門を開いてその後背を討てと指示せよ」


 悩みあぐねて顓項が出した答えはこのようなものであった。

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