兵書への興味
囮部隊と伏兵を束ねて潁段城に帰ってきた顓遜を、しかし顓項は責めなかった。
むしろ、よく兵を損ねずに帰ってきてくれたと称賛の言葉をかけ、兵士たちには酒を振舞った。
そして今は、潁段城の執務室に三人の男がいる。顓項と顓遜、そして潁段城の城主である李遼という短躯の男であった。
「季父上ほどの御方であっても勝てませなんだか」
顓項は、揶揄する気などなしに声を絞る。しかし顓遜は露骨に不貞腐れた顔であった。
「無能の軍師気取りとして、見せしめに首を刎ねるつもりか?」
「そんなことはしませんよ。季父上の策が良いと思ったのは私と紀犁も同じですからね。こうなると、敵が上手であったということでしょう」
それは顓項の本音である。今、制周城とその二つの支城の中に、顓遜よりも軍略に長けた者はいない。というのも顓遜は顓族の中でも数少ない、虞の文化でも装飾でもなく、兵書に興味を示した人物だからである。
顓遜が放逐されたのは、虞の兵学に感銘を受け、軍略や兵制を顓軍に取り入れようと盛んに訴えたからであった。
しかし顓戯済らは、虞の贅沢は好むくせに、軍事を倣おうという心はまるでなかったのである。
これは顓戯済の言い分として、
『我らは策や兵制など無くとも、それを有する虞を破ったぞ』
ということであり、一応の理はあるように思える。しかし顓遜はなおも食い下がったため、遂には北辺に追われたのであった。それが、顓遜が十五の時のことである。
顓項は、そういった物の有用性は分かるつもりでいるが、しかし具体的な理論などはまるで分からない。一度、顓遜に勧められて兵書を読みはした。しかしそこに記されていることの半分も理解出来なかったのである。
そして、顓遜が敗れた今となっても、兵法というものに向ける感情は変わらない。むしろ、顓遜は策を策で敗られたのだから、いっそうその有用性を痛感した。
――しかし、ならば恒崋山の山賊とは何なのだ?
顓遜を破った者の智恵は、ただの山賊の機転とは思えない。あるいは恒崋山の山賊にも、兵法に通じている者がいるのかもしれないと思うと、顓項は空恐ろしいものを感じた。
「ですが、これからいかがなさいます? 決して顓遜どのを責めるつもりはありませんが、制周と滎倉の道を確保せぬ限り、我らは兵を維持することすらかないませんん」
そう口を挟んだのは李遼である。この男は齢が四十一で、体があまり強くなく、顓族が行商をしていた時は経理を務めていた人物である。顓が虞を占領してから治粟尉という、税の取り立てと管理を行う官についていた。
しかし、作物の豊凶に合わせて賦税の比率を変えるべきと訴えたために左遷されたのである。そして制周城で兵糧の管理をしていたのだが、その計算の厳格さを見込んだ顓遜が推挙し、不在であった潁段の城主になった人物である。
「いっそ、事情を説明して滎倉より兵糧を送っていただいてはいかがでしょう?」
李遼は緊迫した声で訴えたが、顓項は乾いた笑みを浮かべた。
「虢の我が父兄に、そのような道理が通るものか。謀叛でも企んでいると思われ、兵糧と共に大軍がやってきて制周に血の河が流れることになるだろう」
虢にいる顓戯済らは、とにかく顓項らを疎ましく思っている。鉄鉱石と兵糧を交換しているのでさえ、快くは思っていないだろう。何か口実を与えてしまえば、その真偽など関係なしに攻められてしまう。そうなれば、よくて制周以北への放逐か、悪ければ顓項が言った通りに鏖殺の憂き目を見るに違いない。
「もういっそ、本当に謀叛でも起こしてしまうか?」
顓遜が小さくこぼす。あまり冗談とは思えぬ顔で口にしたため、場の空気はとたんに剣呑なものとなった。暫しの沈黙の後、李遼が厳しい口調で窘める。
「そのようなことを軽率に言ってはなりませんぞ、顓遜さま」
顓遜はその言葉を聞くと神妙な顔をして、失言でございました、と顓項に頭を下げる。
――謀叛か。私が、父や兄を相手に……。
顓項にはそのような心は少しもない。自分が疎まれ、遠ざけられているのを自覚してはいるが、だからといって刃を向けようとまでは思えないのである。第一、これはこの場にいる全員が把握していることだが、それだけの余力など制周城にはない。
兵は最低限で、兵糧に余裕はない。鉱石の産地を近くに持つだけに、武器だけは大量にあるが、それを扱う兵がいないのだ。
「今のは聞かなかったことに致しましょう、季父上。それよりもまずは山賊退治です。何か良策はありませんか?」
「考えつくことはある。だが、巧くいくかはわからんぞ」
「戦などそんなものでしょう」
戦に向き合う城主の言葉としては、顓項のそれは軽いものであった。だが、顓遜の他には軍事に精通した者のいない現状では、大まかな軍の動かし方などは顓遜を頼むしかないのである。
しかし、日が明けて、顓項と顓遜が兵を整えて出陣しようとしたとき、制周城で留守を務めている紀犁から早馬が来た。それによると――北岐山脈を越えて、千を超える騎兵の軍が制周城へ迫っているとのことである。
信頼し、留守を任せた家宰からの報せといえども、顓項はすぐにその報告を信じることが出来なかった。
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