恒崋山の軍師
伏兵を見破られ、さらに伏兵で返された。そう気づいた時に、それでも顓遜は戸惑って錯乱することはなかった。すぐさま兵に命じ、囮の輜重隊のほうへ軍を走らせる。顓の騎兵が輜重隊を囲むように円陣を組んだ。
「この荷を奪われてはならぬ!! これをただの物と思うな、我らと家族の命と思って死ぬ気で守れ!!」
顓遜が裂帛の気勢を挙げる。その叫びに応じるように、兵士たちは目を血走らせながら声を唸らせた。
先ほど顓遜に声を掛けた山賊の頭目は、それを見て小さな舌打ちを夜闇に飛ばした。
囲んだ輜重隊は偽装であり、積み荷は空だろうと踏んでいた。その上で、相手の策を潰すべく兵を出したのである。
恒華山の山賊には軍師と言うべき人物がおり、その者曰く、
『策を用いる相手には策を以て当たるべきです。そうすれば、知恵者を自負する者ほど躍起になって、やがて自滅するでしょう』
とのことであった。この頭目の気質としては、策を武力でねじ伏せることを好むのだが、自分の軍師には敬意を払っているので、その進言に従っている。
その上で、ここからどうすべきか逡巡した。
軍師の読みでは、敵は伏兵に向かってくるか、撤退するかのどちらかであった。しかし顓遜はそのどちらも選ばず、輜重隊を守るという行動に出たのである。
こうなると一つの疑念が生まれる。
それは、あの輜重隊は囮などではなく、本当に物資を積んでいるのではないかということだ。
そうなると山賊のほうも考えなければならない。
というのも、山賊たちはここまで度々、顓軍から物資の強奪を続けてきた。山賊たちの言い分とすれば、顓はろくな政治も行わないくせに取るものだけはしっかりと取るのだが、それも元を正せば民のものである。それを返してもらっているに過ぎないということになる。
だがそういう本音とは別に、
――あまりやりすぎると、相手も必死になる。
ということは分かっている。
もしあの輜重隊が囮などではないとなれば、顓軍は死戦するだろう。それでも勝つ自信はあるのだが、此度の奇襲は、策に策で打ち勝って顓の気勢を削ぐのが目的であり、決死の兵を相手に泥臭く勝つとなると、当初の目的から大きく外れる。
さらに厄介なのは、まだあの輜重隊が空荷である可能性が捨てきれないことだ。
顓の将はそれを兵士たちには教えていないから兵士が死戦をしようとしているのか、それとも、荷を守るかどうかは二の次で、山賊相手に後れを取ることが許せないのか。あるいは――そこまですべてが演技なのか。
その判断は出来かねるが、もし荷車が空だとすれば、死ぬ気で応戦してくるかもしれない敵にこちらも決死で向かっていき、挙句に得るものがないことになる。
「やめた、阿呆らしい。撤退だ」
頭目は、傍にいた部下に命じて打ち鐘を鳴らさせた。その音を合図に、山賊たちは五人一組となって俊敏に退いていく。暗い山道を快足で逃げ去る馬術の技量に舌を巻きながらも、顓遜はなおも警戒を続けた。
しかしようやく、周囲から完全に敵の気配が消えたのを確かめると、みっともなくその場に座り込んだのである。
「……し、死ぬかと思った」
それは、曲がりなりにも一軍の将の姿ではなかった。軍師を自称しながら、実は顓遜はこれが初陣である。山賊に囲まれた時に囮の輜重隊を囲んだのは、そうするのが一番、敵が退く公算が高いと考えたからなのだが、実際にその通りになるまでは、剣を敷いた牀の上に伏しているような心地だったのである。
そして兵士の一人は、顓遜のそんな様などお構いなしに向後の指示を仰ぐ。
顓遜はもちろん、この空荷をこのまま南下させても無益なので、足早に潁段城に退くことを命じた。
潔く恒崋山に撤退した山賊たちは、浮かない顔をしている。山頂に気づいた砦で頭目らを迎えた老人は、怪訝な顔をしていた。
「不首尾でございましたか? ええと……頭目?」
老人は帰ってきた自分の主人にそう声をかける。頭目、という呼び方には歯切れの悪さがあった。
この老人こそが恒崋山の山賊たちの軍師である。この山賊一行は、元は恒崋山よりも南を拠点として活動し、顓軍と戦っていたのだが、そこから今日までただの一度も負けたことがない。その戦果の半分は頭目の武勇によるものだが、もう半分はこの老人の知略によるものであった。
「いいや、お前の読みは当たっていたよ。だが、敵が死戦の構えをみせたので、やめた。本気か虚勢かは分からぬが、大した胆勇だったよ」
管楽のような麗しい声で粗野な言葉遣いをしながら、頭目は吐き捨てる。自分で撤退を命じておきながら、今更ながらに、やはり戦うべきだったかという後悔が胸中に押し寄せてきていたのである。
「なるほど、顓戎にも人無きに非ず、というところですかな」
軍師は愉快そうにからからと笑っている。それが、自分に向けられた嘲笑のように思えて、頭目は岩と岩とが擦れたような歯ぎしりをした。
「笑いごとじゃないぞ? お前の献策に従って拠を北に移したが、まだ私たち全員が満足に食っていくには足りないんだ。今の調子じゃもって二月だぞ?」
「ならば、ひと月のうちに良策を献じますので、暫しお待ちください。『余力ある凡夫は切迫した賢者に勝る』とも申します。老い先短いこの白髪首が落ち着いているのですから、年若き……頭目も、少しゆとりをお持ちください」
軍師の言葉には、自分が子ども扱いされているような心地になったが、しかしこの老人の手腕には信頼と敬意を払っているので、頭目は、
「そうか。ならしっかり頼むぞ」
と、短い言葉で一任した。
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