恒崋山の山賊
成王十九年、季夏の制周城の日々は変わり映えのないものになるはずであった。
しかし、もう月が改まろうという日になって、いつも通り城壁の上から北岐山脈を眺める顓項の元を訪れた紀犁の顔は、いつになく深刻である。
「良いのか悪いのかは分かりませんが、兵を出さねばならない事態になりそうです」
口うるさく堅物な家宰にそう言われて、顓項は眉をひそめる。
「何事かは知らんが、そちらは我が城自慢の軍師どのにお願いすることにしよう。六博で培った戦略の腕を、ようやく戦場でお目にかかることが出来そうだ」
「ええ、勿論です。すでに顓遜様にもこちらに向かっていただいております」
紀犁の手回しはよかった。やがて顓遜が億劫そうな顔を浮かべて合流すると、三人は蒼天の下、熱気と涼気のまじった風を受けながら軍議を始める。秘事を一義とする軍においては不用心この上ない有様だが、紀犁が諫めないということは、そういう密偵を放ってくるような敵ではないらしい。
――まあそうであろうな。この制周に起こりうる危機と言えばせいぜいが三つ。そのうち二つは、間者などを用いるようなことはすまい。
一つは、北岐山脈を越えてくるかもしれぬ北狄――陶族や勲尭ら騎馬民族である。その次には、南方にいくつかいる山賊くらいであろう。そのどちらかであれば、制周城内にまで忍び込んで軍議の内容を盗み取るような智慧があるとは思えなかった。
最後の一つの懸念は、今のところはないだろうと顓項は思っている。
案の定、紀犁が言う出兵の危機とは、山賊であった。
「恒崋山を拠点とする山賊が、このところ滎倉と制周を往来する我らの兵を度々襲っております。これまでは大した被害が出ていなかったので兵を増強するなり、道を変えるくらいの策で対応できていましたが、近頃はそうもいかなくなってきました」
紀犁は城壁の石床の上に布に描かれた地図を広げる。恒崋山は制周城の南東に位置する山である。距離的な話をするのであれば、制周城よりも、制周の東にある支城、潁段城のほうが近い。そして滎倉というのは、虞領随一の物資の集積地のことである。
「ここから直に兵を出すよりも、潁段城に陣を張るほうがよろしいでしょうな」
顓遜が軍師らしいことを言う。顓項はこの年若い季父が、六博と下世話なこと以外を口にするのを始めて聞いた。
「しかし恒崋山を攻めるとなると、いかに相手が山賊といえど、それなりに兵がいるでしょう。あちらも守りを固めているでしょうし、城を攻めるのと変わりがないかと」
「ええ。ですので常道は、虢へ向かう偽の部隊をこしらえ、山賊どもがそれを襲うのを待ってその後背を攻めることでしょうな」
顓遜は、これまた軍略めいたことを口にする。少なくとも顓項が聞いた限りでは、理に適った策のように思えた。
「ですがまあ、出兵は早くとも半月後です。軍備と兵糧を整えなければなりませんし、斥候も放つ必要があるでしょう」
「相手はたかが山賊だぞ。軍備と兵糧はともかく、斥候まで放つ必要があるのか?」
少しだけ見直しかけた季父に、顓項は再び懐疑の眼差しを向ける。戦場に赴きたくないがために、理由をつけて時間稼ぎをしているのではないかと感じたからだ。
だが顓遜は、顓項と同じ蒼い眼を大きく開いた。
今の顓遜は素面である。思えば、酒がまったく入っていない顓遜というのも顓項からすれば珍しい。それはつまり、戦となれば真剣になっている証である。顓項は息を呑んでその視線に向き合った。
「制周と二つの支城の周囲は、大して作物が育ちません。それ故に狩りで得た毛皮や、北岐山脈から採れる鉱石を滎倉に納めることで兵糧を賄っているのです」
作物が育たないといっても、庶人が食べていける程度のものは採れる。しかしそこに少しでも賦税を課すと途端に生活が立ち行かなくなるほどに厳しい。
そこで歴代の制周城の城主は、賦税として糧食の代わりに鉱石を納めることを命じたのである。そして手にした鉱石を虞に運び、兵糧と代えてきたのだ。
虞の有史以来、一度も攻められたことがないと書いたが、それでも兵を配備しない訳にはいかない。制周城とその支城二つの兵はそれぞれの城内やその周辺の百姓が交代制で就いており、兵役の間の寝食を用意するのは城主の責務である。
加えて顓項は、兵役に参じた民には些少ではあるが食貨を与えている。それも、鉱石の取引から捻出していた。
これ以上、山賊に手を焼いていれば三城の兵を十分に配備することさえ危うくなる。それを思えば、顓遜が慎重になるのは当然のことであった。
「分かった。今日より当面、兵らの食事は減らすことにしよう。俺も、一日一食でよい。膳も減らせ。それで兵に不満があれば俺から説得する」
決断すると顓項は思い切ったことを命じた。ただしその後に顓遜を睨み、
「季父上も山賊退治が終わるまでは禁酒するように。これは城主命令です」
と厳命した。兵の食い扶持を減らし、甥も食事を制限するとなると反論も出来ず、顓遜は渋々ながらに頷くしかなかった。
個人的な作者の想いでしかないのですが、どうしても吐き出したくてあとがきで書かせていただきます。
毎日、更新のたびに最新話にリアクションを下さる読者の方がおられます。小説を書いていると、趣味と割り切っていても心が苦しくなったり、筆を折ってしまおうかと悩むことがあるのですが、その度に毎日リアクションをくださる方の存在を思い出して助けられております。
他に何をしてほしいとか、これからも読んでくださいという圧をかけている、という話ではありません。ただ、なろうではリアクションをくださった方が誰なのかを知る機能はなく、それでも、自分の中にある日々の感謝をどうしてもお伝えしたいと思った次第です。




