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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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飾り無い言葉

 士直たちは隗不壬の邸に戻ると、そこに姜子蘭と盧武成の姿を見て思わず目を疑った。

 立場上、見送ることは叶わなかったが、盧武成からは内々に、甲燕を去るという話は聞いていたからである。士直も、その横にいる均も、まるで幽鬼でも見たかのような顔をしたが、しかし実際にそこに二人はいるのである。


「ええと、子蘭どのに、盧どの? 甲燕を発たれたのでは?」


 士直に聞かれて、盧武成は姜子蘭を見る。それとなく会話を誘導しようかとも考えたのだが、盧武成にそういう器用さはない。

 そして当の、臣下に我儘を言い、駿馬を飛ばしてまで引き返してきた姜子蘭はというと、どう切り出すべきか分からずに黙り込んでいた。

 だが、やがて腹を括り、先ほど隗不壬に預けた書簡をもらうと、均の前に出て手渡した。


「均……どの。おぬしには、私が(かく)を出て右も左も分からぬ中で色々と世話になった。故に、一言もなしに去るのは不義理だと…………」


 ぎこちなく、堅苦しい言葉である。急に話しかけられた姜子蘭は、戸惑っていたが、さらに均を困らせたのは、姜子蘭が急に言葉を止めたことである。

 これでは、ただ王子として均に接していたかつてと変わらない。横柄な振る舞いが消え、礼儀正しさに変わっただけのことである。

 戸惑いながら、しかし自分に何かを言おうとしている姜子蘭を、均はじっと見つめた。そして、次なる言葉が投げられるのを静かに待っていた。

 そしてついに姜子蘭は腹を括った。喉を震わせながらも、おどおどと口を開いたのである。


「均。私は、今はなすべきことがあって、もう行かねばならない。だが……私の志が天に届き、やるべきことを(まっと)う出来れば、また会える日もあるだろう。その時は、共に茶を飲んだり、遊びに行かないか?」


 今語る言葉がこれでよいのか姜子蘭には分からない。ただし、姜子蘭にとっての飾り気ない赤心である。

 一方の均は、どう応対していいのか分からなくなった。均は姜子蘭が虞の王子であることを知っている。初めて会った時には王朝や天子というものをよく分かっていなかった均であるが、范玄の下で色々なことを学ぶうちに、身分や礼というものを少しずつ知った。

 そして、姜子蘭が語ったことは、王子と商家の侍童が共にするようなことでないとも分かっている。

 畏れ多い。均がそう言おうとしたときに、士直がその肩を小さく叩いた。


「均よ。あのお方が身分卑しからぬ方だということは分かる。しかし、それを理由にお断りをするのは、迷いながらも本心を告げてくださった子蘭どのに対して不実であろう。お前も、難しく考えずに、自分の心のうちを言葉にしなさい」


 士直がそう囁く。均は、喉まで出かかっていた言葉を呑み込んで頷き、姜子蘭のほうを見た。


「……分かりました。では、その日が来るのを、心待ちにしております。道中、お気をつけください」

「うむ、ありがとう。均も、よく士直どのや士叔來どのに教わり、范氏をお助けするようにな」


 姜子蘭と均は、互いに激励の言葉を交わして笑い合った。二人とも、その顔は年相応の少年のそれであった。




 均たちと別れ、今度こそ未練を残さずに甲燕を去った姜子蘭と盧武成は、北に向かって全速で馬を走らせていた。


「余韻もなにもあったものではありませんな」


 仕方のないことではあるが、盧武成は小さく嘆息した。表には出さなかったが、もう少しゆっくりと均と言葉を交わしたいという思い入れはあったのである。


「まあ、よいではないか。これで、顓戎を倒した後の楽しみができた」


 そう語る姜子蘭の顔は明るい。


「私は今まで、顓戎を(はら)い、天子をお救いすることだけを想ってきた。その後のことなど考えたこともなかった。だが、少なくとも一つ、約束が出来た。たったそれだけで、進むべき道が明るくなったような気がするぞ」

「それは、ようございましたな」


 追従ではなく、本心である。かつて、何も為せずに死ぬことは父祖に対して申し訳が立たないと口にした姜子蘭が、今は大事を為した後の展望を口にしている。それは虞の王子という身分に対してとても些細なものであるが、姜子蘭にはとても大切なことなのである。

 姜子蘭がそういうものを見つけられたことが、盧武成にはとても嬉しかった。


「その時にはもちろん、武成にもついてきてもらうぞ?」

「ええ、喜んでお供させていただきます。均の師として、御の腕の上達ぶりも確かめたいですからな」


 顔は変わらず、岩のような無骨さのままである。その言葉を疑っていないだけに、姜子蘭は盧武成が表情というものをほとんど顔に出さないのがかえっておかしかった。


「そうだな。均と私にとって、武成は御と馬術の師であったな。だから均にも対等にしろとも言われたが、今になってその言葉の深意を痛感しているぞ」

「……そのようなこともありましたな」

「生まれてから今まで、私には対等な相手などいなかったから、どうしていいか分からなかった。だが今ならば胸を張って言えるぞ。均は私にとって――はじめての友であると」


 晴れやかな笑顔である。均が姜子蘭のことをどう思っているかは分からないが、同じ気持ちであれば嬉しいとも思っている。そういうことを考えはじめると、いっそう、再び均と会える日のことが楽しみになった。


「ところで武成、もう一つ聞きたいのだが……」

「なんでございましょうか?」

「先ほどの私の均への振る舞いは、友への接し方としておかしなところはなかっただろうか?」


 不安そうな顔をしながら、姜子蘭が聞いてくる。姜子蘭は盧武成のことを、聞けば何でも教えてくれる博識の相手だと思っていた。

 しかし盧武成は、十五になるまで養父と山で二人きりの暮らしをしており、その後、姜子蘭に仕えるまで諸国を旅していたのである。巷間で言うところの友人づきあいというものを経験したことなどないのだ。

 盧武成にとって唯一、友と呼べる相手といえば、子狼くらいのものだ。

 しかし子狼は、友は友でも悪友である。その関係性は、姜子蘭と均の関係とはまるで似つかない。


「……そうですな。あれで、よろしかったと思います」


 それは盧武成がそう感じたことなので嘘ではないのだが、その語気は些か弱々しいものであった。

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