樊の三卿
維氏はかつて北に領邑を持っていたが、それは樊全体の国土からすれば些少なものである。
しかも維氏の領邑は樊の北端であり、そのさらに北は様々な遊牧民族、山間民族が混住する荒野と山岳地帯であった。しかし維氏は自領で軍制改革を行い、北方への拡張政策を取った。その結果として勢力を大きく伸ばしたのである。
さて、智氏の長――智嚢が樊で勢力を伸ばし、魏氏の長――魏盈が維氏の長――維弓と組んで智嚢と戦い、しかし魏盈が独断で智嚢と和睦したという話は前に書いた。この和睦の際に魏盈は、智嚢に自分の領邑を加増するように頼んだ。
智嚢は無論、これを断ろうとした。魏盈が力をつければいずれまた自分と敵対することは明らかだったからである。しかしそうもいかなかったのは、戦況という意味でならば智嚢のほうが劣勢だったからである。
――このままでは負けるやもしれぬ。
そう思った智嚢はこの提案を呑まざるを得なかった。
智嚢には思惑があった。というのは、この和睦は魏盈の独断だということは見えていたからである。智嚢からすれば魏盈よりも維弓のほうが厄介であり、これを容れれば魏盈の勢力は大きくなるが、魏盈と維弓は決裂する。
同程度の勢力であれば、智嚢は魏盈に勝つ自信があった。加えて、維弓を味方に引き込めるかもしれないという算段もあった。
一方の魏盈としては、戦況有利なこのまま、智嚢を一気に滅ぼしてしまおうかと考えないでもなかった。
しかし追い詰めすぎれば、決死の覚悟で苦境に挑むのが人間である。
手負いの犬でも退路がなくなれば我武者羅になり、ついには狼に勝つこともあるかもしれない。いや、勝つことは出来ずとも、狼に深手を負わせることは出来る。そうなる前に、程よい落としどころを用意して自分の腹を膨らませたほうが得である、というのが魏盈の考えだった。
結果として、智嚢と魏盈は樊をほぼ二分する勢力となった。
しかしそのために、今は智嚢と魏盈の間は緊迫していた。いつ激突してもおかしくはない状態である。
戦となれば、当然、互いに相手の情報を得ねばならない。どこに密偵がいてもおかしくはなく、また、智氏の拠点に潜入して何かしらの妨害を行うということも起こりうる。武庸のこの物々しさはそういった情勢から来るものではないかと盧武成は思った。
しかしそういった二氏の争いは盧武成には関係のないことである。
これから先、魏盈に密勅を授けてその助力を得んとする姜子蘭にとっては頭を抱えるべき事態であろう。しかし盧武成は、自分には無縁であると考えていた。そうであると、自分に言い聞かせているような思考でもあった。
「着いたぞ。おそらくここだ」
遠大な武庸の中を馬車に揺られながら、ついに盧武成は目的地へとたどり着いた。
范旦の息子――范玄という人物が営んでいる商店である。大きな構えの、二階建ての建物であり、その繁盛ぶりがうかがえる。軒先を掃いている丁稚らしき少年に、盧武成は声をかけた。
「すまない。そこの少年――」
声を掛けられて少年は均と同い年くらいである。声のした方を見ると、少年はまるで真冬の池に飛び込んだように背を震わせはじめた。
そして、やがて大声で泣き始めてしまったのである。
何ごとかと店の中から家人が出てくる。そして泣いている少年と、その前に立つ盧武成を見れば、盧武成が何かをやって少年を泣かせたと思うのは当然のことであった。
家人らは手近な長物やら陶器を構え、物騒な者は剣把に手をかけている。
盧武成は眉を潜めながら姜子蘭と均を見た。
姜子蘭は、この店の者らも自分を狙っているのではないかと疑ってかかっていた。しかし均は、怯えながら呟いた。
「ええと、その……。そちらの子が泣いてしまわれたのは……」
「なんだ均? なるべくすんなりと言ってくれ。このままではけが人を出してしまう」
盧武成とて手荒いことはしたくない。しかし、剣を抜かれてしまえば、こちらも身を護るために相手の骨の一つや二つは折らねばならなくなってしまう。
均とてその緊迫した状況は分かっているのだろう。申し訳なさそうな顔をしつつも言った。
「その、盧どののお顔が……怖いからではないでしょうか?」
「……なんだと?」
盧武成は均の言葉の意味が分からなかった。
均は少し考えてから、車を降りて泣いている少年に近寄る。そして、その背中をさすった。
「こちらの方は、お顔は怖いですが悪い方ではありません。安心してください」
自分と年の近い均にそう言われると、少しずつ少年は落ち着いてきた。
少年は何度も、確かめるように盧武成のことを、悪い人ではないのか、怖くないのかと尋ねた。均はそのたびに、心根の優しいお方です、人を見た目で判断するのはよくないことです、と諭すように言った。
均と少年のそんなやりとりを聞きながら盧武成は瞼をひくつかせたり、眉を険しく寄せたりしていた。
そして、後ろでは姜子蘭が口元を抑えてうずくまっている。明らかに声をあげて笑うのを堪えている様子であった。
「おい子蘭。何か思うことがあるならば言ってみろ?」
「くく、うむ……。そう、だな。まあ、鬼神の如きその勇敢なる顔つきも、ひとえに武成の強さ故であろう。そう気を落とすな」
そう話しながら姜子蘭は、ついに我慢できなくなって大声で笑いはじめた。
そして奉公人たちはどうしていいか分からなくなり、困り果てていた。
その時である。店の奥から若い男が出てきた。
「どうにも店先が騒がしいね。何があったと言うんだ?」
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