表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
129/168

均への書簡

 脩から均の話をされて、姜子蘭は馬を止めた。

 姜子蘭は本当は、始めから均のことは気にしていたのだ。しかし考えすぎると後ろ髪を引かれているような気になるので考えないようにしていたのである。その感情が、脩の言葉によって呼び起こされてしまったのだ。

 脩の言葉はまったくその通りなのである。盧武成、均と旅をしていた時の姜子蘭は随分と性格の悪い人間であった。その時の姜子蘭には誰一人として信頼出来る相手がおらず、不安と恐怖を、自分が虞の王子であると自他に言い聞かせることで誤魔化していたのである。

 しかし、その横柄な振る舞いに付き合わされる相手からすれば、そのような心境など知ったことではないのだ。だがそんな中でも脩は、姜子蘭によくしてくれた。

 そう思うと姜子蘭は、無性にもう一度、均と会って話したくなった。

 しかし、馬首を翻そうとした姜子蘭に、遠慮がちに子狼が告げる。


「……我が君。我らの旅程にあまり余裕はありませんぞ?」


 姜子蘭は、分かっていると頷く。しかしその顔は、子狼の言葉に正しさを認めていても納得はしていなかった。そんな姜子蘭を見るに見かねて、盧武成が口を挟む。


「まあ待て子狼。我が君はこれから、命を賭けて顓戎に挑もうとなされているのだ。そのためにも、ここに悔悟を残していくのはよくないだろう」

「まあ、そりゃそうだがな……」


 子狼は苦言を呈しつつも、姜子蘭の望むようにさせてやりたいと顔に書いてある。詐術と謀略に長けた男であるが、君主の損得が関わらぬところでは嘘が下手なのだった。


「幸いにして我が君の馬と俺の馬は駿馬だ。お前たちは決めていた通りの旅程を進むがいい。俺は今から、我が君と二人して甲燕に引き返す」


 盧武成はそう言った。確かに二人が乗る馬――迅馬(じんば)饕朱(とうしゅ)であれば無理な話ではない。しかし問題は他にもあるのだ。


「我らは今、利幼太子に送っていただいている最中なんだぞ? 今日の夕刻には宴席を設けてくださるとも仰ってくださっているのだ。その好意を無碍にするわけにはいくまい」

「ならば、その刻限までに甲燕に行き、用を済ませて戻ってくる。それならばよいだろう?」


 盧武成は頑として譲らない。まるで盧武成のほうが、甲燕に心残りがあるかのように強情である。幸いというべきか、利幼は姜子蘭を先導すべく前陣にいるので、引き返した露見することはないだろう。加えて盧武成が同行するのであれば、大事にはならないとも思って入るのだが、まだ考えあぐねている。しかし、最後には折れた。

 話がつくと、二人はすぐさま馬首を返して甲燕を目指す。その速さは夜空を引き裂く流星のようであった。

 脩はあっという間に地平の彼方に姿を消した二人の背を見やってから、子狼のほうを見る。


「子狼も武成も、口じゃ厳しいことを言ってるようでいて、子蘭に甘いよね?」


 子狼は黙り込んだ。


「西明、だったっけ? あんたもそう思わないかい?」

「……まあ、そうですね。師匠は、情に厚く面倒見のよい方なのは知っていますが――子狼どのは、血の代わりに水銀が流れているような怜悧酷薄の人かと思っておりました」


 以前、自分の信じる義理を徹底的に否定されたという経緯があるため、呉西明は子狼に対して辛い言葉を投げた。それでも、ここで二人を行かせたのを見て、呉西明は子狼の中にある情を垣間見た気がしたのである。


「ま、人臣としては、たまには主君の御機嫌取りもしておかねばならないんだよ。厳しいことばかり言いすぎて、肝心な時に強情を張られても困るからな」


 口笛の音のような軽い言葉である。そんな子狼を見て、脩は小さく肩を竦め、呉西明は思わず苦笑した。


「ねえ西明。一応言っとくけど、子狼のこれは照れ隠しだよ」

「ええ、まあそんなところでしょうね」

「なんだい子狼。前に人を騙すのが得意だとか言ったくせに、全然へたくそじゃないか?」


 脩から指摘された子狼は、誤魔化すように笑う。実際、今の子狼は自分でも分かるくらいには、嘘にも作り笑顔にも精彩を欠いているのだった。




 その頃、姜子蘭と盧武成は風のような速さで疾駆していた。そうして、半刻(一時間)と経たぬうちに甲燕に帰ってきたのである。

 早朝に出立し、三刻(六時間)をかけて進んだ道のりを、その六分の一の速さで引き返してきたのである。無論、行きの旅程には荷車があり、ゆっくりとした旅速ではあったのだが。

 だが既に日は天頂よりも西に傾いている。そう長々としたゆとりはなかった。

 加えて、甲燕の城内では、騎乗をすることは出来ない。奇異であり、人目を引きすぎるからである。ことによっては夏羿族と間違われて巡吏が駆けつけてくる恐れさえあるのだ。二人はなるべく歩速を勧めつつ、士直が世話になっている甲燕の商人、隗不壬(かいふじん)の邸を訪れた。

 しかし折悪く、士直は均らを連れて出かけているのことであった。それならばと、姜子蘭は頼み込んで、均に書簡を残すことにした。

 自らの書斎と筆を貸しながら、この屋敷の主人である老人、隗不壬は目を白黒させている。

 この人もまた、范氏や呉氏のように、商人として数多の修羅場を越えてきた人物である。しかし、何かしら為すべきことを抱えて甲燕を出た貴人――隗不壬は姜子蘭の素性については知らないが、身分卑しからぬ人だろうとだけは悟っていた――が、引き返してきて、しかも范氏の家人たる士直でなく、まだ年少の均に書簡を残すというのである。


「隗氏よ。これをお手渡しください」

「……確かに、受け取りました」

「不慮の来訪にも関わらず、快い応対をしていただきましたこと、幸甚の至りでございます」


 姜子蘭は、書簡を受け取った隗不壬に拝手した。

 そして、邸を去ろうとしたその時である。ちょうど、士直たち范氏の家人たちが帰ってきたのである。その中にはもちろん、均の姿もあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ