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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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姜子蘭と脩

 利幼がやってきたので、姜子蘭は改めて新年の挨拶と、国事の疲れを労う言葉をかけた。

 盧武成と子狼も、姜子蘭の臣として姜子蘭に続き、利幼に挨拶をする。

 利幼もまた、薊国の太子として、姜子蘭を王子として接した上で新年を祝う言葉を口にした。

 そして、一通りの形式的な儀礼が終わると、先ほどまでの宴会に利幼が加わった形となる。新年を迎えたこの日に政治を持ち出すつもりはなく、姜子蘭と利幼は隣に座り、気さくに言葉を交わしていた。

 子狼もまた、利幼への挨拶を終えたことで気を緩め、酒を喉に通す速さが増していく。場は賑やかなものとなった。

 だがここに二人。緊迫感を持ってこの酒席に挑む者たちがいた。

 盧武成と脩である。


「――おい、脩よ。分かっているな?」


 盧武成にそう言われて、それまではただ、珍しい料理に舌鼓を打つだけの脩も表情を強張らせる。


「分かってるよ――。もう二度と、あんな目に合うのはごめんだからね」


 二人が恐れていること。それは、酩酊した子狼が歌いだすことである。

 子狼は酒が回り上機嫌になると歌いだす。それくらいであれば酒飲みとしてそう珍しいことでもないのだが、問題は子狼の歌というのが、霹靂の轟き、火山の唸り、大地の鳴動を合わせたが如き大騒音であることなのだ。

 そしてさらに厄介なのは、そのような、聞く者の耳を破壊する凶器のような悪声を、子狼の主君たる姜子蘭が気に入っていることである。この場で唯一、子狼を止められる可能性のある姜子蘭が、むしろ子狼に歌うことを推奨してしまう恐れがあるのだ。

 姜子蘭の名誉と、何よりも二人の耳の安寧を守るためにも、子狼に歌わせることだけはなんとしても阻止しなければならない。

 二人はそのための方策を打ち合わせる。盧武成にとっては、戦場での駆け引き以上に真剣であった。

 そこで二人が考えたのは、子狼の興味を他にやりつつ酔い潰すことである。

 そのために盧武成は、子狼にどちらが多く呑めるかという対決を挑むことにした。この策によって盧武成と脩の目的は――半分は成功した。

 子狼は意地になって酒を呑んで、歌うことも忘れて酔い潰れた。盧武成は辛明と共に、寝潰れた子狼を(へや)まで運ぶことになったのだが、二人に肩を借りて歩いている間に少し酔いが醒めたらしく、部屋の牀の上で意識が戻った子狼は、盧武成と辛明を捕まえて上機嫌で歌い出したのである。

 一応、姜子蘭の臣が騒音を響かせて利幼の耳を汚すという事態は避けることが出来たが、代わりに、盧武成と辛明の耳が犠牲になった。




 盧武成と辛明が子狼を連れて退室したことで、宴席は静かになった。

 この場に残っているのは姜子蘭、利幼と脩だけである。


「武成の奴と辛明さんは遅いね」


 脩はそう言いながら、楽しそうに出された料理を口にしている。子狼の歌という驚異がなくなったことで心にゆとりが生じ、顔には喜色を浮かべていた。


「存外、酔いが回ったというのは口実で、齢の近い三人で飲みなおしているのかもしれませんな」


 利幼のその言葉は、当たらずも遠からずである。実際はそのような心安いものではないのだが、三人が子狼の部屋で一緒にいるという意味では間違いではない。

 そんなことを話していると、不意に利幼が口元を抑えた。どうやら欠伸を隠したらしく、すぐに、失礼いたしましたと姜子蘭に詫びる。


「お気になさいますな。太子も今日はお疲れでございましょう。我らのことはどうかお気になさらず、お休みください」

「いえ、ですが……」


 申し訳なさそうな顔を浮かべながら、利幼はもう一度、欠伸をしかけた。姜子蘭は立ち上がって利幼の侍従を呼び、


「太子を寝所までお連れください」


 と頼んだ。利幼はその好意を無碍にすることは出来ず、宴席の主人たる自分が先に座を離れる無礼を詫びると、侍従たちに運ばれていった。後に残ったのは姜子蘭と脩だけである。

 部屋に二人きりになったのを確かめると、姜子蘭は脩に真面目な眼差しを向けた。


「……どうしたんだよ、子蘭?」

「ああ。年も改まったので、改めて聞いておきたいことがある。私に為さねばならぬことがあり、武成、子狼と共にこの地を離れる。脩は――どうする?」

「どうするって……そりゃ、ついて行くに決まってるだろ。だいたい、最初に一緒に来て欲しいといったのは子蘭のほうじゃないか?」


 そう言われると姜子蘭は弱い。それでも、毅然とした態度を崩すことはなかった。


「これから私たちが向かう先にあるのは、脩の嫌いな、くだらない人同士の争いだぞ?」

「……」

「脩は殺し合いなどは好まないだろう。だが、私と共に来るとなると、時にはその意に添わずとも、殺されたり、敵を殺さなければ生きられない事態に巻き込まれるかもしれないぞ」

「……まあ、そうなんだろうね」


 脩は力なくそう口にした。

 姜子蘭はこれより前に、姜子蘭たちが薊国で戦っている間、脩がどうしていたかを均に聞いていたのである。子狼の提言で脩は士直ら范氏の者たちに庇護してもらっており、その中で脩と均は姉弟のように仲良くなったという。

 場合によっては士直に頼み、脩を范玄のところに迎えてもらうということも、姜子蘭は考えていた。


「子蘭が私のことを心配してくれてるのは分かるよ。でも、私は着いていく。お前は、目を離すと死んじゃいそうだからな」


 脩は、姜子蘭の気遣いを分かった上でそう言った。姜子蘭としても、それ以上強く脩を拒絶することは出来なかった。

 しかしこの時、二人は相反する覚悟を決めていた。

 姜子蘭は――何があっても、脩に人を殺させぬこと。

 そして脩は――もし姜子蘭に命の危機があれば、その相手を殺すことになろうとも、姜子蘭を守ることを、心に決めたのである。

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