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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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若き宰相

 呉西明の説得を終えた後、盧武成は子狼に詰め寄っていた。


「あいつを説得するために芝居をするのなら、せめて初めにそう教えておけ」


 盧武成は子狼の服の襟を掴んでいる。


「いいや、芝居じゃねえよ。西明に言ったことは一つ余さず俺の本心だとも」

「だとしても、打算はあっただろう!?」

「そりゃ勿論」


 子狼は少しも悪びれずにそう答えた。盧武成の手にさらに力が込められていく。


「あのようなやり方をする必要はないだろう? これから同輩になるという者にわざわざ喧嘩を売る意味があるのか?」

「無論、あるさ。西明は義を重んじすぎる性格のようだからな。ああいう手合いは――より重い恩を受ければ、そちらに傾く恐れがある。だから、今のうちに釘を指しておく必要があるんだよ」

「だからといって、自ら不和の種を蒔かなくともよいだろう!!」

「いいや、あるね。義理に堅すぎる味方というのは、時に敵よりも危ういんだよ」


 子狼は舌鋒を尖らせる。どうやら子狼は子狼で、個人的な感情だけであのようなことをしたわけではないらしい。そしてその意図は、呉西明に多少なりとも共感できる盧武成には分からないのだ。


「……ならば、あいつとの不和で厄介事になった時は、お前の責任でどうにかしろ。それで我が君に迷惑をかけることは許さんぞ」


 それを分かってしまうと、盧武成としてはもう、そう言うより他になかった。




 東の空から白日が姿を現す。それは昨日までのそれとは違う、新たな年の始まりを告げるものであった。

 史書に成王十九年と記されることになるこの年――姜子蘭という人物にとって、そして大陸にとっても激動の年となる。

 薊の国都、甲燕の城内に与えられた一室で新賀を迎えた姜子蘭は、利幼に挨拶に向かおうとした。しかし部屋の前に辛明がやってきて、止められる。


「王子に置かれましては、公の行事が終わってから歓待させていただきたいと太子は申しております」


 辛明は利幼から、姜子蘭の身分について教えられていた。今、薊国で姜子蘭が王子であることを知っているのは、利幼、子伯異、辛明の三人だけであり、公表はしていないのである。


「ですが私は、表向きは太子の客将に過ぎません。それが太子に新年の挨拶をせぬというのは不敬でしょう」


 そう言われると辛明は言葉に困る。結局、姜子蘭は辛明と共に利幼の下へ赴いて簡略的な挨拶だけを交わし、後は利幼の私室にて歓待を受けることとなった。その場には無論、盧武成と子狼、そして脩も招かれている。

 姜子蘭は呉西明も誘ったのだが、呉西明は、先に奄軍として利幼と敵対したことを引け目に感じて遠慮していた。

 利幼にはまだ国事があり、姜子蘭を接待するのは辛明であった。


「歓待いただけるのは光栄ですが、辛明どのはこちらにおられてよろしいのですか? 次代の丞相として、太子を翼佐しなければいけないのでは?」


 子狼が探るように聞いた。


「いいえ。次の丞相は子伯異どのです。太子にはそうなって欲しいと言われたのですが、私のほうで辞退いたしました」

「ほう、それは寡欲なことですな。頭を下げてでも偉くなりたい者ばかりのこの世で、主君に請われてなお断るとは勿体ないことをなさる」

「まだ若輩の私には荷が重く、その責に耐えかねるというだけでございます」


 辛明はそう謙遜した。そして、子狼はそんな辛明の態度を称賛したが、心の中では辛明と同じ考えである。

 これは辛明の素質の問題ではなく、一国の宰相として辛明は若すぎるのだ。それに、自分に近しいからといって即位してすぐに家宰を宰相として擢登するのは外聞もよくない。

 といって、子伯異も老齢である。とりあえずは子伯異を丞相に据えてその下に辛明を着け、国政の経験を積ませるつもりだろうと子狼は見た。


 ――若くして位人臣を極めると、何かと碌なことがないからな。


 そんなことを考えつつ、ふと気になった子狼は、隣で黙々と酒を呑んでいる盧武成に聞いた。


「なあ武成。虞の列国で一番弱年の丞相となると誰だ?」

「……何故、俺に聞く?」

「お前は史氏の子であり、養父も史氏の家臣だろう。歴史について聞くにお前より適任はおるまい?」


 史氏の子という事実は盧武成にとってあまり好ましい評価ではなく、愠色を見せたが、それでも生真面目な性格故に、頭の中の知識を総攬した。


茨国(しこく)敖賈(ごうか)という人物だろうな」


 茨国とは虞のさらに南方にある国である。()姓の国であり、その祖は、虞によって封建された国ではない。元は南方の小勢力だったのだが、やがて勢力を伸張させていき、二百年ほど前に虞に礼物を収めて子爵の位を授かったのである。故に史書などで茨国の君主は茨子(しし)と記される。

 しかし茨国は莫大な財物を収めたにも関わらず、虞は茨国を南の蛮族と見て低く見ていた。そのため、今でも爵位こそ有しているが、虞の秩序に従順ではない。


「茨の敖賈か。その名は知らねぇな」

「俺とて書で習ったわけではない。南を旅している時に聞いた話だ。その時の茨国はあちこちに問題があり、丞相――茨国では令尹(れいいん)というのだが、その成り手がいなかったらしい。それで、茨国の名族の長であった敖賈がその座に就いた。その時、敖賈はまだ二十に満たなかった聞いている」

「なるほど。それで、手腕のほうはどうだったんだ?」


 子狼は南方の情勢には疎い。北辺で生まれ育ったため、情報が届いてこなかったためである。


「善政を施し、茨国を立て直した名令尹として、今でも茨国から敬仰されている人物だ。それでいて、自らは質素倹約を旨とし、封邑の加増や加禄をすべて辞した清廉な人でもあった」


 清貧を掲げた臣の逸話というのはあるところにはある。ただし性根がひねくれている子狼は、そういう逸話が事実を記しているのか、名臣としての箔をつけるために作られたものかは分からない、とも思っていた。


「ちなみにその敖賈というのは、どれくらい昔の人なんだ?」

「四年前、俺が茨国を旅した時にはご存命だったぞ。流石に令尹の職は辞しておられたがな」


 ほう、と子狼が感嘆の息を吐く。子狼は、知識があまりないこともあって、ますます南方の情勢について知りたくなった。その時である。部屋の扉が開いた。国事を終えた利幼が、姜子蘭を歓待すべく訪れたのである。

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