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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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使節の帰国

 国都、甲燕を出た薊国の使節団は、年明けに先駆けて無事に帰ってきた。

 子伯異と姜子蘭が正使、副使としての復命を終えると、三人は利幼の私室に向かった。子伯異はその場で、姜子蘭の身分について口にしたのである。

 この時、姜子蘭は一人であるが、その懐には虞王からの勅書を抱いている。これはその勅書の内容を利幼に命じようというのではなく、虞王の印璽が押されたそれを持って王子という身分の証明に使うためだ。

 素性を明かされた利幼は暫くの間、呆けてしまった。思いもよらぬことであり、事実に頭がついていかなかったのである。

 しかし事実が実感となって体に巡り始めると、床に膝を突こうとした。しかし姜子蘭はその行動を制止する。


「私は身分をひけらかしたいわけではなく、また、貴方を従わせるために素性を明かしたのではありません。まして私は不慮の珍客です。どうか気楽になさってください」

「そういうわけにはいきません。まして王子には、父の起こした国難を収めるために多大なるお力添えをいただきました。薊侯の子として、そして薊国の一臣民として、万謝の念に()えません」


 利幼の言葉に偽りはない。姜子蘭がここまで身分を明かさずにいたのは、王子と名乗れば利幼やその臣下たちが窮屈するからであり、だからこそ礼制からすれば目下になる利幼の客将に甘んじていたのである。

 そのことを思うと利幼は、跪かずにはいれなかった。姜子蘭が止めて聞かず、強引に膝をつき、手を合わせて感謝を示したのである。


「それで、王子が我らの国に来られましたからには、顓と戦うための兵を求めてのことでございましょう。既に国内に乱はなく、奄との和平も成りました。王子の大恩に報いるためにも、どうぞ我らに何なりとご命令ください」


 利幼は若さ故の激情と、自分もまた姜姓――虞王と祖を同じくする者であるという想いから、言葉に熱気を込めてそう宣言した。

 この時、姜子蘭は胸に棘のようなものが刺さったような戸惑いを覚えた。

 薊国に来て利幼と会った時に利幼は、薊国の百姓のためにも、二人の兄に薊侯を継がせるわけにはいかないと言った。その言葉は心からのものであった。

 しかし今は、自らの臣民を、遠く西にある虞を救うために兵として出すことも厭わぬような姿勢を見せたのである。

 それは姜姓である利幼にとっては当然の考えである。

 しかし今は、内乱が収束した薊国に新たな戦火をもたらしてまで虞王を救おうとすることは、薊国の民にとっては正しくないことなのではないかと感じた。

 しかもそれは、かつて姜子蘭が魏氏や維氏に求めたことである。その頃の姜子蘭であれば、当然のようにそれを要求し、利幼の行動に対して感涙を覚え、その忠義を称賛していたことだろう。だが今は手放しでそうは思えなかったのである。


 ――子狼は、こうなることまで見越して、私にあんな助言をしたのかもしれんな。


 既に姜子蘭は盧武成、子狼と相談し、利幼に求める見返りについて決めていた。その時の姜子蘭は、兵を借りるつもりでおり、盧武成もそういう運びになるだろうと思っていたのだが、子狼が否を口にしたのである。

 そして、その内容については既に子伯異にも相談してある。

 王子という身分について明かしてから、子狼と子伯異で相談し、今の薊国にとって可能な落としどころを調整してもらったのだ。


「太子のお気持ちは有り難く、その忠心を聞くだけで胸が熱くなりました。なれどまだ薊国は多難であり、それ以上に、臣民は度重なる戦火に倦んでおりましょう。今は人心を慰撫することを第一義となさいませ」

「――もったないないお言葉でございます。ですが、なれば我が国は王子の大恩に対して何をもって報いればよろしいのでしょうか?」


 そう反問されて姜子蘭は、自分の求めるところを利幼に告げた。




 姜子蘭が利幼と話しているその頃。子狼は盧武成の下を訪れていた。

 盧武成は眉間にしわを作り、険しい顔をしている。しかし子狼はそのようなことはお構いなしに、酒瓶と盃を手にして、盧武成に酒を進めた。


「留守の間、ご苦労だったな。頼んでいたことの首尾はどうだ?」

「……大きな不備はない」


 元から愛想というものに欠ける盧武成だが、今はいつにも増して不愛想で、そして顔が恐ろしい。子狼でなければおっかなくて声を掛けることさえ躊躇うほどである。


「そうか。それは何よりだ。流石はルーペイ・ツーイーの化身だけあって、あの程度のことはお手の物というわけか」

「――今はお前の軽口を聞くつもりはない!! 真面目になれ、子狼!!」


 盧武成の前に盃を置いて酒を注ぐが、盧武成に怒鳴られて子狼は、小さく肩を竦めながら、鈍く眼光をよどませた。


「……そう怒るなよ。少しくらい、現実的な話をさせてくれ。あの幻妖についてどう話せばいいか、俺とてすぐには分からないんだ」

「――まあ、それもそうか。確かに、お前の気持ちは痛いほど分かるとも」

「そんな言い方をするってことは、お前もかつてどこかで、あの奇怪な術を使う奴らに会ったことがあるということだな?」


 子狼に聞かれて、盧武成は素直に頷いた。

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