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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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碑龍山の伝承

 子伯異に素性を問われて姜子蘭は、自分が虞の王子であると明かした。

 ただし姜子蘭には、それを口にすることに迷いはないのだが、信じて受け入れてもらえるか、という懸念がある。姜子蘭の手には今も虞王からの勅書があるので、それを見せれば受け入れられはするだろう。しかし、今この場で子伯異がどういう反応をするかというのが、姜子蘭の肝を冷やしていた。 

 だが子伯異は、まず驚いたような顔で目を丸くすると、次に――その場に膝をついたのである。

 姜子蘭は思わず駆け寄って、自らも床に膝をついてその手を取った。


「これは王子――。私の如き陪臣には似合わぬ応対でございますな」

「いやその……。名乗っておきながら言うことでない気もするのですが、私の言葉を信じなさったのですか?」


 かつて――はじめて盧武成と会った時には、自分の素性を躊躇なく晒し、それに懐疑を向けられることに怒りもあった。しかし今は、名乗るとかえって怪しまれるという感性を持っている。

 子狼が利幼に素性を隠せと言ったのも、身分が高いことがよくないというよりも、疑われるか怪しまれるかということを危惧したのではないかと、今ならば姜子蘭は思うのだ。


「ならば、今のお言葉は虚言ですかな?」

「……いいえ。そういうわけではございませぬが」


 子伯異に問い返されて姜子蘭は戸惑い、何と返していいか分からずに口をまごまごとさせた。決してそれは嘘ではないのだが、それをどう説明していいか自分でも分からないのである。


「子左丞相、あまり我が君を困らせないでくださいませ。我が君は虞王の勅書を持ち、樊の魏中卿、維少卿の両者より王子の待遇を受けております」

「子狼どの。私は一言も、姜子蘭どの――いいえ、子蘭王子の言を疑ってはおらぬのですがな? むしろ、王子が一人で戸惑っておられるというほうが、この場合は正しいでしょう」


 子狼が口を挟むと、子伯異は瘦せた頬をわずかに膨らませて笑貌をつくった。

 子伯異の言葉を聞いた子狼は、それもそうですなと口元を綻ばせる。そしてそのまま、緩んだ顔を主君たる姜子蘭に向けた。


「言われてみれば、まったく子左丞相の仰る通りでございます。疑われたり怪しまれたならまだしも、その言を信じていただいたというのに何を困っておられるのですか?」

「む、まあ……。それは、そうなのだが」


 姜子蘭の口から、力ない同意の言葉が漏れた。


「ですが、私がこの場で信じたからといってご油断なされますな。甲燕に戻るまでは、公の場では私の副使として振る舞っていただきますぞ」


 子伯異にそう言われて、かえって姜子蘭は気が楽になった。




 奄都、殷丘から薊都、甲燕への帰路。

 利幼からは年が明けるまでに復命してくれればいいと言われており、今の旅程であれば、ゆるりと進んでも歳末の三日前には辿り着く。そうとなれば、子伯異は敢えて使節団の足取りに余裕を持たせた。


「せっかくここまで来たのであれば尤山(ゆうざん)を見ていきたかったな」


 道中、姜子蘭は子狼にそう零した。

 尤山は霊山として名高く、そして――盧武成が育った山である。参詣と好奇心の二つの心が、姜子蘭に小さなわがままを言わせたのだ。


「お気持ちは私にも分かります。ですが、尤山は窮国の領内でございますからな。此度は縁がなかったと思いましょう」


 奄国と交誼を結びに来た薊国の使節が窮国の領内に立ち入ることは出来ない。そういう最もらしい理屈を姜子蘭に説きつつ、しかし子狼にも尤山を見てみたいという思いはあった。だがそれを口にすることはしない。


「代わりになるかは分かりませんが、今夜は早めに陣を敷き、碑龍山(ひりゅうざん)の山麓で夜営をするとのことでございます。彼の山にもまた地に根付いた伝承があるとのことでございますので、一つこちらに詣でるというのはいかがでしょう?」

「碑龍山の伝承とはいかなるものなのだ?」

「はい。姜饕餮(きょうとうてつ)が尤山に向けて東辺への旅を続ける最中、留まった山中にて龍なる、大蛇よりもさらに巨大な長巻の怪物と遭い、これを斬り伏せました。なれどそれは、姜饕餮でさえも苦戦するほどの難敵であり、撃ち果たした後の姜饕餮はその勇戦を称えて亡骸を弔い、碑石を立てたと聞いております」


 姜饕餮とは、虞の開祖、武王の弟である。武勇に置いて並ぶものはなく、焱との戦いにおいては万夫不当の戦功を挙げたとされている。前に書いた武王四桀――窮国の祖、風於菟(ふうおと)ら虞王朝開闢(かいびゃく)の功臣の一人であり、その筆頭とされる人物でもあった。

 そして武王四桀は、姜饕餮を除く三名はいずれも封土を与えられたのだが、姜饕餮は虞王で大司馬――軍事の長となった。しかし一年もたたずに官を辞して旅に出たのである。

 一説には、武王は自分の子ではなく姜饕餮を後嗣にと考えており、兄の意図を感じ取った姜饕餮は国乱を避けるために敢えて下野したのではないかとも言われている。他にも諸説あるが、姜饕餮の真意を史書は語らず、その行動は今もって虞の歴史の大きな謎となっている。

 とにもかくにも、下野した姜饕餮は東を目指した。その旅路には人助け、怪物退治など様々な逸話があり――その果てに辿り着き、その生を全うしたのが尤山であると虞王朝の史書たる『虞史』は記している。

 それだけに霊験(あらた)かであり、尤山は、尊王を掲げる者、俗世を倦む者にとっての聖域とされているのだ。


「その碑石を見ることは出来るだろうか?」

「迅馬の足であれば可能かと」

「ならば、宿営の段取りが済めば向かうとしよう。未熟な裔孫なれど、偉大なる姜饕餮に由来ある史跡を拝んで我が大願の成就を祈願しようと思う」


 その言葉に頼もしさを覚えながら、子狼は御意に、と努めて平静に応じた。

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