姜子蘭の素性
田仲乂の処遇について、姜子蘭と子狼はどうにか助命する方向へ持っていきたいと考えていた。
子狼はそのための弁論についてもすでに三つは有しており、姜子蘭と諮って子伯異に持ち掛けるつもりであったのだが、子伯異は田仲乂を生かす方向で物事を考えているらしい。
――活かすことに積極的というよりも、殺すことに消極的というところかな?
子狼はそう見ていた。謀臣がそのようなことを考えている傍で、姜子蘭は安堵に胸を撫でおろしていた。
田仲乂を生かすというのは利己であり、子狼はそこに利幼と薊国への利をも与えることは出来ると説明したが、しかし一国の国是に私欲で反対することに気乗りしていなかったのもまた本音である。
「安堵なされた顔ですな。姜子蘭どのにも何かしら、田仲子に生きていてもらいたい事情があったということですか?」
子伯異に指摘されて姜子蘭は思わず口に手をやった。こういう、他者の感情の機微に聡いのを見て、子伯異という人はやはり才幹と機転で一国の宰相をしていた人であると、姜子蘭は改めて思い知った。
「流石は子左丞相でございますな。ですが、ならば一つ――それは、誰かの助命であってのことという態にしてはいただけませぬか?」
子狼は、主君の素直さによって思惑が露見したというのに、むしろ開き直って子伯異にそう申し出る。厚顔無恥という言葉がこれほど似合う男は、世にそうはいないだろう。
「それは出来ぬ相談ですな。殺すつもりを取りやめたのと、始めから殺すつもりがなかったのとでは、残る遺恨が異なります。とりわけ田仲子のような器量の御仁にはな」
「ふむ、まあそれもそうですな。彼の人は、恩は忘れやすく、仇は忘れない人でございましょう」
子狼と子伯異は、ともに田仲乂への忌憚ない私見を口にする。二人の見解は同じであり、その内容は田仲乂にとっては不名誉なものであった。しかし実際、田仲乂とはそういう人物なので、人を見る目に狂いがないとも言える。
そんな二人の会話を聞きながら姜子蘭は目を白黒させている。姜子蘭の思惑としては、呉西明を自分の臣下にするために、田仲乂への助命をする必要がある。しかしその行動が薊国に不利に働くやもしれぬのに、敢えて利己を求めることも出来ない。
そしてそんな姜子蘭の葛藤は、子狼にも子伯異にもお見通しであった。
「子狼どの。まずは主殿に、感情を貌に出さぬように教えるか、謀略の場に出さぬようにしたほうがよろしいのでは?」
子伯異は皮肉のような言葉で、しかし真剣に姜子蘭のことを案じてそう口にした。
「嘘が下手であらせられるのは我が君の美徳でございますよ。それに、人を騙すような会談に我が君が不得手というのは――無論、私としてはも承知いたしております」
子狼は喉をくつくつと鳴らして笑いながら、称賛とも誹謗ともとれる言葉を口にした。子伯異からすれば悪態でしかない言葉であるが、しかし姜子蘭は少しだけ負い目を感じつつも、子狼に対して苦言を呈するようなことはしない。
「……姜子蘭どのは少し、家臣に対して厳しくなられてもよろしいのでは?」
その言葉もまた、老婆心から出た言葉である。
「主人たる私の瑕疵を理解し、それを補うべく粉骨してくれる臣を責める道理はございません。ただただ、未熟な己を愧じるばかりでございます」
姜子蘭は落ち着きを持ってそう返した。しかもそれが、口の巧い相手に騙されているという感じがしないのが、子伯異にはかえって不思議である。
子狼の言葉を受けた姜子蘭の反応は、臣下に諫められた君主というよりも、まるで兄に叱られて身を正す弟のようであった。まともな君臣ならばあり得ぬことである。
子狼は大概、不遜な臣下であるが、それを従える姜子蘭もまた、奇特な主人だと――少なくとも、子伯異にはそう映った。
「まあ、素直にそう言えることは、確かに美徳であるやもしれませんな。では、嘘がお下手な姜子蘭どのは、私と利幼太子に何を望まれますかな?」
「……ええと。子左丞相と利幼太子の思惑がどうあれ、田仲子への助命を請わせていただこうと思います」
ひねりのない言葉である。だが子伯異は頷いた。
だがその後に、眦を細めつつ、姜子蘭と、そして子狼のほうを見る。
「分かりました。利幼太子にはそのように言上させていただきます。ただし――一つ、条件があります」
「条件、ですか?」
「はい。姜子蘭どのには、今この場で素性を明かしていただきたい」
子伯異がそのように聞いたのは、一つには、これから利幼の下で薊国が運営されていく中で、その即位に尽力した者の正体を知っておかねばならないという左丞相としての責務から来るものである。
だがそういう真剣な理由と共に、既に老齢に達した身にふと沸いた好奇心が確かにあった。
どうするべきか姜子蘭は逡巡した。振り向いて子狼に相談しようかと思ったが、子伯異は老練な猛禽が獲物を狙うような静かで鋭い視線を向けている。あくまで一人で考えて答えるようにと無言の圧をかけているのだ。
姜子蘭は最初こそ戸惑ったが、しかし、
――窮したら子狼にばかり頼っていてはいけない。
と思い直し、自分の意志を決めて息を大きく吸い込んだ。
「私は虞王の第四子にございます」
そして、子伯異と視線を合わしてそう答えたのである。




