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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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喰肉の交わり

 姜子蘭、子狼と呉西明が話しているその頃。

 奄男と薊国正使としての子伯異による公式の会談は終わり、奄国右師、魚伯元と薊国左丞相、子伯異による密議が行われていた。

 その内容はもちろん、薊国の使節団に刺客を向けた田仲乂への処遇である。


「此度、利幼太子は練孟公子と争うに当たった夏羿族を使いなさったと聞いています。今、我らには窮国という敵があり、それに打ち勝つには従来の兵制を保ったままでは足りないでしょう


 魚伯元はそう口を開いた。子伯異は黙って聞いている。


「馬に跨る行為は蛮なれど、その有益たることは此度の利幼太子、そして樊の維氏が証明してくださいました。我らで新たな騎兵を用いるのは無理かもしれませぬが、夏羿族を傭兵として窮国に当たるというのは方策として悪くないのではないかと考えております」


 魚伯元は声に張りを持たせた。

 しかし、その言葉は虚言だと子伯異は考えている。

 維氏や利幼には北方の騎馬民族と、敵対という形でありながらも交流があった。それ故に互いの習俗について否応なしに理解があり、また、敵であったが故に時にはその強さを認めあうこともあった。だからこそ維氏は胡服騎射という異質の軍制改革を成し遂げ、利幼は傭兵としてその兵を一時的といえど傘下に収めることが出来たのである。

 しかし奄国にはこれまで、夏羿族に限らず北方諸民族との交流など少しもなかった。そのような状況で夏羿族を傭兵として自国の軍に組み込むとなると、困難と危殆のほうが圧倒的に多いのだ。

 実際に、魚伯元の言葉は心にもないことである。そして、それを見抜かれていると悟った上で魚伯元は、真剣に国難に当たる宰相のような振る舞いで言葉を続けた。


「そこで薊の利幼太子には、どうか我が国から夏羿族へ派遣する友誼の使者の仲立ちをしていただきたい。こちらは――田仲子を送ろうと思っております」


 田仲子とは田仲乂のことである。子は敬称であり、貴位の人を尊んで呼ぶ時に用いられる。


「なるほど。事情は分かりました。なれど、我ら薊国にとっても夏羿族は未だ未開の地。田仲子に万一のことがあれば、我らとしても責を負いかねますし、不測の事態が起きれば、それを契機に薊奄の交誼に亀裂が入るやもしれません」

「ご憂慮なさいますな。もしそのようなことがあれば、我らは田仲子の決死を訓戒とし、夏羿族との友好を断念いたします」


 魚伯元は、顔に汗一つかかずにそう言った。使者として殷丘を出た後の田仲乂の生死については薊国に委ねるということであり、田仲乂は売られたことになる。


 ――魚氏と田氏は、奄建国の朋輩であったが、代を経ればこういうことにもなるか。


 田仲乂が、奄建国の功臣、田季敬の甥であることは先に書いた。

 そして奄建国のもう一人の功臣を魚韓仲(ぎょかんちゅう)といい、田季敬とは言葉を交わさずとも互いに信頼しあった無二の友であったという。その関係は“喰肉の交わり”と呼ばれ、どちらかが道半ばで果てれば、生き残った者が死んだ相手の肉を喰らって糧としてでも宿願――奄建国を果たすと誓い合ったほどであると巷間に伝わっている。

 魚伯元は、田季敬とその苛烈な友誼を交わした魚伯元の長子なのである。

 しかし魚伯元はそんな父代の関係など少しも気にすることなく、田仲乂を薊国に売ったのだ。そしてその行為についても、奄国のためというのもあるだろうが、


 ――政争の匂いがするな。


 と、子伯異は感じた。奄国としてではなく、魚伯元の利害として田仲乂を疎んでいるように映ったのである。

 つい先ほどま子伯異は、奄男との講和が為れば薊国は安泰だと考えていた。利幼らも薊国でそう思い、子伯異からの吉報を待っている。

 しかし今の子伯異は、その考えはあまりに楽観が過ぎたと改めた。窮国との戦いにおいて援軍を求められるくらいならばましなほうであり、事と次第によれば――複数に割れた奄国の諸勢力から助勢を求められることもあるかもしれない。

 薊国の首脳が一枚岩であると見ていた奄国は、その内実は、未だ表に顕れていないだけの多頭の獣であるやもしれない。少なくとも子伯異は、そう考えを改めることにした。




 向後の奄国との外交に対して新たな憂慮を見出してしまいつつも、子伯異はどうにか魚伯元との密議を終えた。最後に、田仲乂を売買するという旨を記した書簡を交わし、そこに二人が自家の印を押したことで、交渉は成立したのである。

 ちなみにこの書簡は表に出すための物ではなく、薊奄のどちらかが田仲乂の存在を政治利用した時には、子伯異と魚伯元が独断でその身柄を差配したことを示す――この密議を白日に晒すための物である。言わば、口約束を相手が反故にした時のための保険であった。

 こうして、一刻(二時間)ほどの密議を終えて与えられた客間に戻った子伯異は、大きく息を吐いた。

 そこへ二人の来客があった。姜子蘭と子狼である。


「魚右師とのお話しはいかがでございましたか?」


 姜子蘭は世話話のように聞いた。密議であるが、その内容は、公然に晒されないだけの周知のものなのである。とはいえ姜子蘭は、ここで子伯異が建前だけを話すのであれば、この場では深く立ち入らぬつもりであった。

 しかし子伯異は、正直に魚伯元との会話の内容を話してくれた。誠実であるというよりも、姜子蘭と子狼に対しては隠すことにさほど意味はないと感じたのである。


「なるほど。それで子左丞相どのは、買い取った田仲子をどうなさるおつもりですかな?」


 今度は子狼が聞いた。姜子蘭はすぐにその言葉を叱責し、子狼の無礼を詫びた。しかしこれは、あらかじめ打ち合わせていた芝居である。

 だが子伯異は立腹することなく、それどころか子狼の疑問に答えを投げたのである。


「太子のお気持ちは分からぬ。だが私は……暫くは、生かし留めておくほうがよいのではないかと考えておる」

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