城郭都市
剣の教えを受けるようになってから、姜子蘭はいっそうよく盧武成の言うことを聞くようになった。
旅のことの多くを盧武成が行っているといっても、それは盧武成がこの中では一番年長であり旅慣れしているからである。
姜子蘭も均もこれまでの人生で旅などしたことはなく、しかもまだ幼いので体力的にも精神的にも負担は多いだろう。
ただ車に揺られているだけでも消耗する中で、二人は弱音も吐かず健気に従っていた。
ある日の夜。
夜の警戒の交代の時刻になって盧武成が目を覚ますと、姜子蘭の頰にあざが出来ていた。何かあったのかと聞くと、なんでもないと姜子蘭は言う。
だが、後で均に聞くと眠気に負けそうになったので自分で自分を殴ったのだという。
そんなことがあったのに、次の日の朝には出立よりも早く起きて盧武成に剣の稽古を頼んだ。
「そういえばお前、どうして急に剣など覚えようという気になった?」
今さらながらに盧武成は聞いた。
「末子と言えど虞王の子であり、武王の裔だ。剣の一つもまともに振れぬとあっては恥であろう」
「宮廷では剣は教わらなかったのか?」
「顓からの制約があり、我ら王子が武器や兵書に触ることは禁じられていた。この剣も顓の目を盗んで隠していた王家の剣なのだ」
なるほど、と盧武成は納得した。それで稽古を始めたころの姜子蘭はまったくの素人だったのかと納得したのである。
「ならばいずれは弓矢も教えてやろう。むしろ、馬や戦車に乗るのであれば剣は役に立たんぞ」
「そうなのか?」
「戦車の戦いとは戈という長柄の武器で敵の戦車に乗るものを落とそうとするものだ。それに、弓の腕に長じていれば離れたところから敵の御者を射て、瞬く間に相手の戦車の動きを抑えることも出来る」
「なるほど、そういうものか」
兵を借りて顓を倒そうとしていながら、姜子蘭は戦のことをまるで知らない。こういった事も機を見て教えてやらねばならぬか、と思った時に、
――何を考えているのだ俺は。
と思い直した。
姜子蘭とは所詮、魏氏のところへ送り届けてやるまでの仲である。その後に姜子蘭が虞を救うために立ち上がろうが、魏氏に冷遇されようが盧武成の知ったことではない。
旅の面倒を見てやりながら剣を教えるので手一杯であるのに、そこまで気にかけてやる義理はない。
盧武成はそう思い、先ほどの思考を打ち消した。
盧武成、姜子蘭、均の一行は武庸に着いた。
武庸は巨大な城郭都市である。
城とは君主が住む宮廷のことを指し、郭とは民衆の住む地帯を指す。それらの巨大都市が遠大な城壁で囲まれた都市形態を城郭都市と呼んだ。
武庸の城壁は円形であり、全周約二十四里(十二キロメートル)という巨大さであり、城壁から正反対の城壁に出るまで直線で進んでも八里(約四キロメートル)はある。その広大な城壁の中に多くの人間が住んで生活しているのだ。
しかも武庸の町は珍しいものであふれていた。往来は盛んであり、あちらこちらに珍しいものがある。こまごまとした日用品を売る店から、服屋、青物や肉などの食料を売る店があり、果てにはそれらを調理した軽食を売る屋台まである。
均のいた孟申はここまで栄えてはいなかった。それだけに何もかもが珍しかった。
虢に住んではいたが市街に出たことなどはない姜子蘭にとっても実に心が躍る光景である。
「はぐれるなよ」
あちらこちらに興味を引くものがある。それらにふらふらと吸い寄せられそうになる二人を見て、盧武成は二人を馬車に乗せた。
ちなみに今は盧武成も馬の手綱を曳いて徒歩で移動している。
乗馬が風習として根付いていないという話は前にもした。その証拠に、馬や牛に荷を背負わせたり車を引かせることはあっても、馬の背に乗る者を今のところ三人は武庸で見ていない。
無論、軍には騎兵もいるだろうと盧武成は思っている。しかし今のところ、兵士は見てもそれらは皆、戦車に乗っていた。
「街中を往来する兵士が多いように思うが、気のせいであろうか?」
姜子蘭が盧武成に小声で聞くと、盧武成はわずかに眉をあげた。
「さてな。とりあえず、目を合わせずに大人しくしていろ。見られたと思えば、背を曲げて靴の先を見つめながら戦車が去るのを待て」
雑な指示をした。
しかし内心では、よく見ていると感心していた。
治安維持のために兵士が街中に出ることはおかしなことではない。だがそれにしては数が多く、しかも兵士たちの雰囲気は物々しい。
そのせいか武庸の市街は、確かに物にあふれ人々が絶えず行きかってはいるのだが、どこか張り詰めた空気があった。見えない何かに圧迫されているようでもある。
――まあ、仕方がないところもあるか。
智氏は樊という大国の筆頭の大夫である。今の樊は実質的には智氏、魏氏、維氏の三氏で分割されていると言ってよい。いや、厳密なことを言うのであれば――智氏と魏氏に二分されていると言うほうが正しかった。