呉西明の処遇
薊国の兵士によって捕らえられた田仲乂の刺客たちは、今は体を縛り猿ぐつわをかまされて荷車に俵のように積まれていた。姜子蘭は薊国の兵に命じてその中から呉西明だけを連れてこさせた。
姜子蘭は子狼に命じて縄と猿ぐつわを解かせる。その行動に呉西明は怪訝そうな顔をした。
「少し窮屈な思いをさせてしまいましたな、呉西明どの」
姜子蘭は呉西明に対して友好的である。
実は姜子蘭と子狼は奄国に来る前に盧武成から、呉西明のことを聞いていたのだ。といっても、田仲乂に仕えている男の中にかつて自分が武術を教えた若者がいる、という程度の話ではあるが。
しかし呉西明はそのようなことは知らず、そもそも姜子蘭の振る舞いは、自分の命を脅かした刺客の一人に向けるものでないので、呉西明は困惑と警戒を抱いていた。
「……私を、どうなされるおつもりですか?」
「少なくとも我が君には、貴殿を殺す腹積もりはありまぬよ。その気であらせられるなら、外に引き出しております。奄男の好意が血に汚れてしまいますのでな」
軽佻浮薄な物言いをしながら子狼は、静かに歩いて客間の扉のほうへ移動する。自然な動作で呉西明の退路を断ったのだ。
もちろん、まだ呉西明が姜子蘭に襲い掛かる危惧もある。しかし姜子蘭、子狼が佩剣しているのに対して呉西明は徒手である。加えて、姜子蘭が座っている台の後ろには衝立があり、そこには牟が控えていた。
呉西明はそのことは知らないが、刺客であった男と何の用心もなしに対面する貴人はいないだろうと思っているので、姜子蘭の命を狙うことは諦め、まずは素直に話を聞いてみることにした。
「それで呉西明どの。私からの話はだな――」
「……はい」
「私の臣下になっていただけないか、ということです。いかがでしょうか?」
意外な言葉であり、呉西明は、熟睡しているところを急にたたき起こされたような気の抜けた顔をした。
「刺客たる我が身に、虞の王子から直々にそう言われるとは汗顔の至りでございますな」
言葉だけでなく、呉西明は本心で恐縮していた。
「ほう、我が君のことまで話していたのか。その時は臣下ではなかったといえ、武成も存外におしゃべりな奴だな」
「いえ、聞いたのではありません。我が家に少し伝手がありまして、師匠が虞の王子と逃げられたということは知っておりました。私としても、師匠の後を追って家を出てきたのです」
そう言って呉西明はここまでの経緯を説明した。
人相を見てもらい、その言葉を頼みに東に向かったこと。その道中で山賊に襲われて盧武成の剣を奪われてしまい、行き倒れていたところを田仲乂に拾われたところまですべて説明したのである。
「なるほど。命の恩がある故に、人倫に欠け、官人としても尊敬すべきところはない相手なれど、背信は出来ぬと。呉氏はなかなかに義理堅き御仁のようでございますな」
堅苦しい場の雰囲気を読まず、子狼は敢えて揶揄うような調子で口を開いた。しかし呉西明にとっては、義理を果たすということは自らの命よりも重いことなのである。
「では、呉西明どの。貴方が田仲乂に恩を返すことが出来れば、その時は私に臣従していただけますか?」
姜子蘭のその提言に、呉西明は言葉を詰まらせる。姜子蘭の臣下となれば、また盧武成の近くにいることが出来る。尊敬する師と共に同じ君主に仕えることが出来るというのはとても魅力的なことであった。
しかし、ここで手のひらを反すようにその言葉に頷いてしまうのは、とても厚顔無恥のようにも思えたのだ。
だが子狼はそんな呉西明の心境をくみ取って横から口を挟む。
「呉氏は生真面目な方なれど、そう難しく考えなさいますな。これは何も我が君や呉氏だけでなく、貴殿の恩人たる田仲乂にも利となることでございます」
「利、ですか?」
怪訝そうな顔で頷くと、子狼は姜子蘭のほうに視線をやった。姜子蘭は軽く頷いて、
「呉西明どのが田仲乂の助命を請われるのであれば、私から子左丞相と利幼太子に、その一命を保つよう頼んでみようと思います」
「本当ですか? なれど――」
利幼にとって田仲乂は、薊国の後嗣争いに私欲で容喙してきた憎き相手である。ともすれば二人の兄よりも許すことが出来ず、また薊国内においても良く思われていない相手を生かす理由はない。それを、功があるとはいえ姜子蘭の一言で覆すなど、考えにくいことであった。
「いえいえ、利幼太子は仁徳の御方ですからな。ひとまずは薊国で牢につながれることになりましょうが、薊侯に即位なさった暁には、恩赦という形で放免してくださるでしょう」
その時には田仲乂は貴族としての身分を取り上げられ、庶人に落とされているだろう。しかし一命だけは取り留めることが出来るのだ。
しかしそれは、貴位にある者には耐えがたい恥辱でもある。田仲乂がこの申し出に対して、憤慨して跳ね除け、生き恥をさらすよりも潔く死ぬ道を選ぶとなるとこの話は前提から崩れてしまう。
そしてその時は、呉西明も恩人に殉じて自刎する道を選ぶであろう。
これについては子狼にも読めぬことであった。子狼から見た田仲乂は、利に聡く保身に走る小人でしかない。しかし生まれながらの貴族であることにも違いなく、富貴を捨てて巷間で生きるくらいならば死を選ぶかもしれないのである。
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