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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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先始憶、次受教、而後行得功、以為一歩

 薊国使節団と奄男――子河(しか)との会談は終始穏やかに終わった。

 子河は田仲乂の咎への賠償として薊国へ二千石(約三万三千八百キロ)の穀物を贈ることになり、薊国からは後日、奄国への友誼の証として伝国の玦と馬五百頭を届けるという条約が交わされ、ここに両国の和平は成立したのである。

 姜子蘭は副使として、何かあれば子伯異を補佐するのが役目であるが、実際にはただ下座に座って眺めているだけで終わった。それほどにつつがなく、この会談は終わったのである。

 退席し、自室に戻った姜子蘭は、牀にどさりと身を腰を下ろすと大きな息を吐いた。


「ふう、薊国と利幼太子にとっては上首尾であるが、私はやたらと疲れたぞ。何ひとつ問題はなく、私は一言も口を開いていないのに、戦場の中にいるような緊迫感があった」


 姜子蘭は、珍しく愚痴のような嘆きを零した。隣に控えている子狼は苦笑しながら、(すもも)の汁物を姜子蘭に勧める。冷たく、酸味のあるそれを姜子蘭は一口で杯の半分ほど飲み干した。


「子左丞相どのの御手腕は流石という他ないな。しかし子狼よ、今更ではあるがこれでよかったのか?」

「と、申されますと?」

「利幼太子は薊侯になれば辛明どのを右丞相となされるお心積もりであっただろう。しかし子左丞相どのの手腕が明らかとなり、此度の大功があれば辛明どのではなく子左丞相どのを右丞相に繰り上げるということもあり得るのではないだろうか?」


 子狼は、自分は不遜にも主君の前で酒杯を手にしてその喉を潤しつつ、姜子蘭に向けて微笑した。


「それは利幼太子がお決めになさることでございます」

「まあそうなのだが、しかし……ここまで苦境の利幼太子を支えてきたのは辛明どのであるし、それに子狼も辛明どのとは親しくしていただろう?」

「なれどそれは百姓には無縁のこと。才幹と智慧ある者が君主を補佐し、善政を敷くことこそが国にとっての正道でございます。極論を申すのであれば、主君に累代の忠義を示した家の者であろうとも民を飢えさせる宰相は悪であり、かつて主君の命を脅かしたことがあれど、民に暖衣飽食を与えることが出来れば善なのです」


 こういった観点については、子狼はどこまで、結果のみに対して俯瞰的である。そしてそこに一切の私情を挟まないのだ。子狼は薊の三公子の乱の渦中で辛明と意気投合し、共に苦難に当たった身である。しかし、辛明がその苦労に見合う高官に就いて欲しいとは少しも思わないのだ。

 辛明の苦難はあくまで辛明が自分で選んだことである。しかしいざ国を治めるにあたっては。その才に相応しい地位に就くべきであり、苦労が報われて位人臣を極めるべきだとは思っていない。それは国の在り方としては正しいが、見方を変えれば人として薄情でもある。


「……それはつまり、君主は情や功績ではなく、適性のみを見て臣を擢登すべきである、ということか?」

「はい。例えば、これまた極論を申しましょう。一国の最大の顕職となれば丞相でございましょう。なれば我が君は、宿願が天に通り、その功として天子より一国を賜ったとして――功績を鑑みて盧武成を丞相となさいますか?」


 そう直截に聞かれた姜子蘭は、露骨に渋面を見せた。それは決して盧武成への誹謗というわけではなく――本人が厭いそうであり、不向きであり、そして何よりも、稀代の豪傑たる盧武成の最大の長所を殺すような擢登であると感じたのである。


「まあつまり私が申したいのは、位の上下や官職などというのはどこまでいきましても、国を円滑に回すためにあるものだということです」

「な、なるほど……。ううむ、いつもながら、子狼には教えられることばかりだ。虢を出てから数か月、いかに自分が物知らずであったかと痛感することしかないな」


 姜子蘭は未熟な自分を愧じるような言葉を口にした。


「そのように謙遜なさいますな。学問とは、“()ず憶えるより始め、次に教えを受け、(しか)る後に行いて功を得て、以て一歩と為す”と申します。」


 子狼は諛言を含まずにそう言った。子狼は姜子蘭の知識と感性において、まず憶えるべき学識を修めていることへの疑いはないのである。


「私とて非才の身で知ったような口を聞いておりますが、まだまだ若輩でございますれば――どうか我が君は、他者の言に耳を傾ける素直さと、三疑の信条を併せ持っていただきたく存じます」


 三疑――“師の言、疑うべきなり。書の文、疑うべきなり。己の考、疑うべきなり”という訓戒である。

 子狼は姜子蘭に、素直さと、他者の言葉に盲目的にならない思考とを求めている。それはともすれば背反するものでもある。とても難しいことなのだが、姜子蘭に対して多いなる期待を抱いている子狼は敢えて姜子蘭にそれを求めているのだ。


「――子狼はいつも、私に厳しいな」


 姜子蘭は、少しだけ弱音のような言葉を吐いた。小さく笑いながら、それでも、自分の吐いた言葉に呑み込まれないようにと気丈さを保とうとしている。子狼はそんな姜子蘭が、とても頼もしかった。

 子狼にしても、自分が姜子蘭を前にして持論を饒舌に口にしてしまう嫌いがあることは自覚している。それは、姜子蘭が子狼のことを臣として頼みとし、軽蔑されないように努めているにのと同様に、子狼のほうも、姜子蘭という若い君主に失望されたくない、そして――信頼されたいと思っているのだ。


「では、厳しいついでに早速、擢登の実践と参りましょう。子左丞相には許しを得てありますので――昨夜、我が君に白刃を向けた刺客とお会いになってみませんか?」


 子狼がそう語った人物は、田仲乂の刺客にまで身をやつしながら、しかし非道なる暗殺者にまで堕ちきれなかった男――呉西明である。

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