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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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二人の宰相

 かつて霊戍の山中で遭難し、狼に一命を救われた昔日のことを子狼は懐かしそうに口にした。

 それはまるで家族の思い出を口にしているかのような表情である。

 少なくとも子狼にとってはそれに等しいらしく、霊戍の城に戻った後も、時折、家人の目を盗んではその狼のところへ通っていたらしい。子狼はその狼を銀嶺(ぎんれい)と呼んで大切にしていたが、三年ほど前に老衰で死んでしまったらしい。


「……思えば、私が涙というものを流したのはあれが最初で、そして今に至るまで二度目というのはございませんな」


 哀愁を漂わせて子狼は小さくこぼす。銀嶺という狼とのことを話すにあたって、子狼には山中で死にかけたことよりも、狼に助けられたことよりも、そうして自分を救ってくれた狼が今はこの世にないということを再認することが一番堪えるらしい。


「……その気持ちは、私にも少し分かる気がするぞ。命の親ではなくとも、親のように慕う相手がいることもあるだろう。そういう人の死を見るのは…………とても、苦しいな」


 その時、姜子蘭が思い出していたのは巫帰(ふき)のことである。宦官であり、姜子蘭の唯一の世話係であり、学問の師であった人である。

 密命を帯びて虢から脱出した姜子蘭に同行し、追手の足止めをするために留まり、その後のことは分からない。しかし、生きている望みは皆無に等しい。子狼の話を聞きながら姜子蘭は、もうこの世にいないであろう巫帰のことを思い出していた。

 いいや、思い出してしまったというほうが正しいだろう。忘れることなど出来ようのない相手なのだが、考えると、使命の最中にありながら弱気が生まれてしまう。だからこれまでは、なるべく考えないようにしていたのだ。


「我が君にとってそれがいかなる御方なのかはお聞きいたしませぬ。ですが、もし畏敬を抱いておられるのでしたら、いずれ我が君の身辺が落ち着かれました時に喪に服してはいかがでしょうか」

「……そうか。そうだな」

「はい。私も、三月の短さではありますが銀嶺の死に際して服喪いたしましたので」


 服喪とは大陸の風習で、親や親族の死を悼んで生臭を断ち、家に籠ることである。その長さは二十五か月であるが、そういう儀礼を行うのは基本的に貴族である。また、貴族であっても事情があれば一年や三か月と短く区切って略式で行う場合もある。

 当然ながらここでいう死者とは人であり、獣が死んだときには行わない。

 しかし姜子蘭はそういったことを口に出さず、むしろ子狼のその行動を尊いことだとさえ思った。

 余談ながら子狼は二十五か月の服喪を行うつもりであったのだが、父である維弓に叱られた結果、三か月の略式での服喪となったのである。それでも狼の服喪そのものは認めたあたり、維弓は子狼に対して甘かったと言えるだろう。




 その日の昼前。薊国の使節団一行は殷丘の城に入った。

 姜子蘭から見ても殷丘は、ごくありふれた城郭という印象である。姜子蘭には、外から見た限り、智氏の拠点たる武庸に比すれば些か小さく感じられた。

 使節団を迎えたのは、細目で太鼓腹の、初老の男性である。この人物は奄の右師(ゆうし)魚伯元(ぎょはくげん)であった。右師とは奄独自の官位であり、奄では最高位となる。

 薊国の正使として子伯異は拝手して、


「これは魚右師、御自らのお出迎えとは汗顔の至りでございます」


 と、短くはあるが丁寧に礼を述べた。

 その後には姜子蘭が副使として、魚伯元に礼を示す。

 魚伯元は二人の言葉を受けて朗らかに笑い、そのまま、子伯異を自分の車へと誘った。恐縮であると子伯異は二度ほど断ったが、魚伯元はなおも強弁してくる。姜子蘭はそこで、子伯異の後ろへ進み出た。


「子正使どの。若輩なれど私には、魚右師は子正使に、ひいては薊国に親しもうとしてくださっているように思います。あまり頑なに断られてはかえって魚右師に対して礼を失するのではないでしょうか?」


 そう言われて子伯異は、軽く相好を崩した。


「そうですな。どうにも齢を重ねると、無駄な深慮をするようになっていけません。それでは魚右師のお言葉に甘えさせていただくと致しましょう」

「ええ、そうしてください。あまりに固辞されますと、私としても立つ瀬がございませんのでな」


 魚伯元もほがからに笑う。弛緩した笑貌には、憎み切れない愛嬌と、しかしその中に鋭い眼光を秘めていた。


 ――肥えた宰相と痩身の宰相か。並んでいると、まるで土寓(どぐう)木寓(もくぐう)のようだな。


 寓とは人形のことを指し、土寓と木寓はどちらも呪術に使うための道具である。基本的に他者を(まじな)うためのものなのであまり良い喩えとはいえず、一国の宰相を見て胸中だけとはいえどそのように不遜なことを考えるのは、子狼しかいない。

 そしてそんな、土人形、木人形と喩えられた二人の宰相は、そのようなことを知らずに歓談している。

 その中で不意に子伯異が周囲を見やってから、声を潜めた。


「ところで魚右師には、後で折り入ってお頼みしたきことがあるのですが」

「はて、なんですかな?」

「既にお聞き及びかと思いますが、小殷での失火のことでございます。こちらにつきましては、私の不手際でございますので、薊国ではなく、私のほうから賠償をさせていただきたい。魚右師の多忙は承知なれど、奄男との会談の後にお時間をいただけないでしょうか」

「――なるほど。分かりました、よいでしょう」


 それだけで魚伯元は子伯異の深意を察した。使節団を襲った刺客たちのことについては外交の場で公にするつもりはないので、子伯異と魚伯元の間で落としどころを決めようということである。既に魚伯元としても、田仲乂の仕業であろうと突き止めてはいたのだが、襲われた側からすればそれを楯に交渉を有利に進めることも出来る。

 そして子伯異は、誠意を見せてくれるのであれば奄男に不利になるようなことはしないと暗に告げたのだ。ならば魚伯元としても断る理由はなく、この時、魚伯元は既に田仲乂を完全に見捨てる算段を胸の中で始めたのだった。

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