狼のぬくもり
子狼に問いかけられたことについて姜子蘭は真剣に考え込んでいた。
しかし、考えすぎて段々と頭が煮詰まってきたらしい。もうすぐ殷丘に着くということもあり、子狼は、
「今はあまり根をつめすぎてもこの後に差し支えましょう」
と言った。姜子蘭はそれならばと、これからの奄男との会談について話そうとした。しかし子狼は、そちらは子伯異に任せておけばよいと他人事のように言う。無論、子狼はいざとなれば姜子蘭に知恵を授けて苦難を乗り越えるための算段はしているのだが、この会談自体が行き詰まることはまずないだろうと考えている。
他国と戦いたくない薊国と、窮国との争いに専念するために薊国と事を構えたくない奄国で、既に利害が一致しているのだ。後は交わす条約についての細かい落としどころを決めるくらいであろうと思っている。
子狼にとってこの使節団の難所とは往復の道中であったり、殷丘に逗留している最中にこそあり、二国の講和そのものを纏めるための障害というものは少ないと思っている。
しかも今は、奄男の信任厚い若き武官――鄢玖亮と、彼の率いる五百の兵に護られている。無論、気を抜くわけではないが、殷丘までの道中ではまず何も起こるまいと子狼は考えていた。
「昨夜はあのような奇怪なことがございましたのでな。なんでしたら、少し眠っておられてもかまいませんぞ」
子狼がそう言うのは――今の子狼は姜子蘭と同じ車に陪乗しているからである。
奄国は正使たる子伯異と副使の姜子蘭、さらには副使の臣に過ぎない子狼にさえも一乗ずつ車を用意すると申し出たのだが、姜子蘭は話し相手が欲しいからといって子狼を自分の車に招いたのである。
大陸において臣下が君主の車に陪乗するということは、信任を示す最大の証である。子狼としては畏れ多く、一度は辞したのだが、姜子蘭が強く勧めるので同じ車に乗ることになったのだ。
しかし一度陪乗してしまえば子狼はいつもの調子であり、萎縮している様子は少しもなかった。
正直のところ、姜子蘭としてもまだ昨夜の出来事が尾を引いており、疲れがないと言えば嘘になる。しかし姜子蘭は臣下の甘言に惑わされることなく、毅然とした態度を貫いた。
「……流石にそういうわけにはいかないだろう。利幼太子の顔を汚すことになる」
「では、他愛のない話でも致しましょう。武成の顔は何故あれほどまでに怖いのか、などはいかがですかな?」
唐突なその言葉を聞いて姜子蘭は思わず吹き出してしまった。しかしその言葉も、自分を和ませようと思っての言葉だと思うと、姜子蘭としても肩の力を少しだけ抜くことが出来た。
その時に姜子蘭は、ふと気になることがあって子狼に聞いた。
「子狼は昨日、狼に育てられたと言っていたが、あれはどういうことなのだ?」
昨夜、子狼は確かにそう言った。その時は、直後に騒動が起きてそれどころではなくなったのだが、こうして危機が去った今に改めて思い出すと、その詳細について聞きたいと好奇心を掻き立てられたのである。
「言葉の通りでございます。まだ私が六つの頃に、家宰と共に霊戍の山中を散策していたことがございましてな。その頃の私は悪童でございましたので、ふと魔が差して、家宰を撒いて一人で霊戍の山を探検してみたいと思い立ったのでございます」
盧武成が聞くと、今のお前は悪童ではないのかという指摘が入りそうな物言いである。
しかし姜子蘭にとって子狼は、肝勇があり、智謀に長けた頼もしい臣下なのでそのような茶々を入れて話の腰を折ることはしない。
「それで、実際に家宰から逃げることは出来たのですが、調子に乗って走り回っている間に崖から落ちてしまいましてな」
「……それは、聞いてよい話なのか? 辛い思い出を想起するのであれば、やめてもよいのだぞ?」
姜子蘭は、悪いことを聞いたような後ろめたさを覚えた。しかし、過去に幼さ故に危地に陥ったという話であるのに、当人たる子狼は涼し気な顔をして笑っている。
「ご配慮は有り難く思いますが、お気になさいますな。過去に何があったとしても、私は今こうして四肢無欠に生きているのです。であれば、過去に死にかけた話などすべて笑い話か雑談の種でございますとも」
「そ、そういうものなのか?」
「はい。その場においては火急なれど、過ぎ去ってしまえば昔日でございます。むしろ今は、その昔日を振り返りながら我が君にお話しできることを喜ばしいとさえ思っております」
そう語る子狼の顔はとても朗らかである。姜子蘭もそういった言葉を返されると、気後れよりも好奇心が勝ってしまい、続きを催促した。
「幸いにして崖というのはそこまで急ではなく、落ちながらに頭を庇えばすぐに死ぬようなものではありませんでした。しかし底まで落ちた時にはあちこちの骨が折れており、血を多く流していて意識も朦朧としていたのです。その時ふと――雷鳴のような音が聞こえたと思うと、私の眼前に灰色の毛並みをした狼がおりました」
滔々と語る子狼に、姜子蘭は息を呑むような緊迫した顔を向けた。その眼差しが心地よく、子狼の語りもまた熱を帯びていく。
「その後、事情を聞いた肥翁が三日三晩、山中を駆けて私を探してくださったそうにございます」
肥翁とは維氏の宿将であり、子狼が霊戍にいた頃には子狼の家宰として姜子蘭たちを歓待してくれた老人である。
「そして三日目の夜になった時に、肥翁の前に一匹の狼が現れたとのことでした。肥翁は警戒し、背負っていた弓に手を掛けようとしたのですが――その狼には殺意がなく、それどころか自分を招いているようであったとのことでございます。そして、疑りながらも狼の後をついていくと、そこに私がいたのだとか」
「つまり……子狼はその三日間、狼に助けられて生き永らえたということか?」
「はい。その灰狼は私の傷を舐め、飢えた私に雀や兎の肉を与えてくれました。それも、そのままでは呑み込めぬだろうと、自分の口で咀嚼して柔らかくしてから与えてくれたのでございます。そして、夜の寒さで私が凍えぬようにと、日が暮れれば私に寄り添ってくれました。私は――その毛のぬくもりを、今でも確かに覚えています」
子狼の言葉はあまりにも常識から乖離していて俄かには信じられないものであった。しかし子狼は、言葉を重ねるほどに感傷的になっていく。それらが偽言であり、あるいは虚妄や幻想であるとは姜子蘭にはとても思えなかった。
「その後の私は肥翁に助けられ、父と再会することが叶いました――と、まあ話してしまえばこれだけの話でございます」
「……これだけ、というには、余人の為し得ぬ稀有な体験であると思うぞ?」
姜子蘭は率直な感想としてそう口にした。自分の世間知らずを差し引いても、滅多にないことなのではないかと考えており、その感性に違いはない。大陸広しといえど、野獣に養育された過去を持つ者など、いたところでもう一人くらいしかいないのだ。
「まあそうかもしれませんな。子狼という私の字も、元は別のものがあったのですが、この一事の後に維少卿の命で改めたものにございますので」




