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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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天下に義戦無し

 子狼による外法の術士退治はこうして終わった。

 しかし誰しもが、悪い夢でも見ていたかのようで、未だ動揺を隠せないでいる。

 それは呉西明も同じであった。そしてその虚をつくかのように呉西明の背後から黒い影が現れたかと思うと、両腕で首を締めあげてたちまちにその意識を落としてしまったのである。

 呉西明の意識を落としたのは羊である。羊は先ほどまで李博を警戒しており、李博が本性を現してからは姜子蘭の身を案じていたのだった。

 羊は呉西明を締め落とすと、その首筋に短剣を当てつつ姜子蘭の前で拝跪する。


「貴女が羊どのか。ありがとう、助かったぞ」


 姜子蘭は穏やかな声で羊に感謝の意を伝えた。その素直さに少し驚きながらも、羊は顔を伏せて答える。


「私は務めを果たしたまでにございます。子狼どのの下知に従い、姜どのの身を守るようにと盧氏から厳命されておりますので」

「そうか。その言葉、頼もしく思うぞ」

「それでこちらの男ですが、いかがします? ――この場で始末致しますか?」


 羊は労いの言葉に形ばかりの礼儀を見せると、起伏のない声で聞いた。姜子蘭の下知があれば羊はいつでも呉西明の喉笛を切り裂ける状態である。

 しかし姜子蘭はそれをやめさせた。田仲乂を追い詰めるためにも刺客の生き証人はいる。それと、剣を交えてみたこともあってか、姜子蘭は呉西明のことを憎めなかったのである。全霊で自分の命を狙いに来たことに疑いはない。しかしそう分かっていても、命の危機から解放された今、敢えて殺そうという気にならなかったのだ。




 その夜の騒動の処理は明け方まで続いた。とりわけ小殷の城主と官吏たちは、真冬だというのに雪よりも冷たい汗を背中にかくことになった。

 彼らは奄男が薊国と友誼を結ぼうとしていることは知っており、もし今回の騒動が奄国にとって不利に働くとなればその身がどうなるか分かったものではない。

 しかし子伯異は正使として、彼らを安堵させるようにこう言った。


「我ら薊国の兵は寒さに弱く、それがために暖を取ろうとして失火を起こしてしまったことを申し訳なく思います」


 子伯異は、賊などいなかった、薊国の兵が火事を出してしまったと告げたのである。それはつまり、賊が侵入したことについて小殷の官吏らにその責を求めるつもりはないとのことであった。


「なあ子狼よ。子左丞相は何故あのように仰せになったのだ?」


 翌日、殷丘までの道すがら。姜子蘭は気になって子狼に聞いた。

 姜子蘭のほうでは子狼と羊の活躍あって三人の刺客を捕らえているし、子伯異のほうでも三人を虜囚としており、そのうち一人は田仲乂の甥である。彼らの存在を仄めかすだけで奄男との交渉を優位に運ぶことが出来るであろう。しかし子伯異はそういった事実を、自分のほうからなかったことにしたのである。


「親しみたい相手に対して恫喝を用いすぎるのは下策ということでございます。相手の不祥事を見たとしても、時にはそれを表に出さずにいたほうが心象をよくすることもありますからな」


 なるほど、と姜子蘭は頷く。弱みを握って強弁を用いれば、一時的に有利な条件で結べるかもしれないが、後々にそのことが禍根になるかもしれぬということもありうる。

 いずれ戦うことになる相手に、その場しのぎの講和を求めるのであれば恐喝も手段の一つである。しかし子伯異がそれをするつもりがないということは、薊国――少なくとも利幼は、今後も奄国と表立って争うつもりはないということであった。

 そこまで聞いて姜子蘭は考え込む。そして、やがて顔をあげた。


「なあ子狼。そうなると、もしや此度の薊奄の講和を最も恐れているのは、実は薊の二公子でも田仲乂でもないのではないか?」

「おや、お気づきになられましたか」


 そう語る子狼は、臣ではなく師の顔をしていた。そして姜子蘭に答え合わせを求める。


「二国が親しむことを最も嫌い、そして恐れているのは窮国ではないのか?」

「まさに、その通りにございます」


 奄国が薊国と対立したくない最大の理由とは、窮国との戦いに専念したいからである。

 一方、窮国としてはなんとしても奄を攻め滅ぼして失地回復を成し遂げたいのだ。しかし独力でそれをなすほどの力はない。そうなると他国と結ぶ必要があり、奄に隣接していて有力となると、薊か奄の南にある(かん)国。あとは、国ではないが樊の魏中卿となる。

 しかし管は奄とは友好的であり、しかも小国だ。

 魏氏のほうも、奄と対立こそしているが、それはあくまで国境の小競り合い程度の話である。

 そうなると窮国にとってもっと頼みに出来そうなのは薊国であった。窮国の国祖は虞王朝建国の功臣であり、姜姓の薊国であれば同盟を求めやすい。家同士の繋がりということもさながら、薊国も窮国も、建前上は虞の秩序に従っているのである。国内の一邑が乱を起こし、その挙句に国として起きたという謀反を認めることを善しとしないだろうと――それが、窮国にとっての望みであった。


「しかし利幼太子は、奄と結ぶことをお決めになった。つまり、窮国には味方しないことを示したと見ていいのだな?」


 姜子蘭に問われて子狼は頷く。


「これについては薊国のほうにも道理のある話でございます。というのも、いかなる経緯があれど、奄は天子から国として認められている。ならば――その決断に異を唱え、奄領を侵す窮国こそ天子に叛くものである、というところでしょう」

「それは……まあ、そうなのだが」

「ですがそれは建前です。本音としては、今の薊国はどの国とも戦をしたくはないでしょうからな。窮国には、父祖の不始末は独力で拭えと突き放すより他にありますまい」


 完全に他人事であるためか、子狼は素っ気ない言い方をした。しかし姜子蘭は真剣に思いつめている。それは、今は他人事であるこの問いかけがいずれ自分自身に深く突き刺さることがわかっているからだ。


「ならば子狼よ。この世に、完全なる義戦というものはないのであろうか?」

「ございませんな。戦をするとなった時点で、それは最善ではないのです。なれど、最善ならずとも義戦に近しいものはございましょう」

「……それは、なんだ?」

「単純なことでございます。戦いの果てに、死ぬ者や苦しむ者よりも、救われる者のほうが多いことです。その差が大きいほど、完全無欠ではなくとも、その戦は義戦に近しいものとなりましょう」


 子狼はつまり、極論を言うのであれば、一万人の不幸を生もうとも十万人に幸福を与えられるのであればそれは正義に近い戦であると言っている。

 とはいえ、これは先に子狼が姜子蘭と盧武成に語ったことであるが、大前提としてあくまで戦という行為は悪なのである。それでも避けられぬのであれば、少しでも犠牲を減らし、その果てに生まれる幸福を増やし、次なる戦を抑止するために行わなければならない。そういう戦こそが、世で義戦と呼ばれるものに近い戦なのだと子狼は言っているのである。

 これは試問である。

 姜子蘭は以前、顓を倒すのは顓が暴政を行っているからだと言った。

 子狼は、その戦いに挑むにあたって如何なる戦を為すべきかと、姜子蘭という主君に新たな問いを投げかけたのである。

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