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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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暗影顕現

 呉西明と対峙する姜子蘭と子狼の下に、兵を率いた李博が現れた。その背後ではいつの間にか、宿舎の一角が炎上して、夜空を朱色に染め上げている。


「姜副使、子狼どの!! ご無事でございますか!?」


 李博は息せきを切らしながら、今まさに刺客に襲われている二人の身を案じた。

 だが子狼は李博の必死の問いかけに答えず、懐に手をやった。そこから取り出したそれは、小さな笛のようなものである。子狼はそれを口にくわえて吹く。

 しかしそれは、形状こそ笛のようであるが、子狼がどれだけ息を吹き付けても、ただ子狼の吐息が掠れて外に漏れるだけで何の音も発することはなかった。

 姜子蘭も呉西明も、そして李博の連れて来た兵士らも子狼のその行動に何の意味があるのか分からなかった。

 しかしただ一人――李博だけは、子狼が音のしない笛に息を吹きかけた途端、頭を抱えて悶絶しだしたのである。


「おや、どうなされた李氏よ? 斯様な、音もせぬ笛の音がそれほどまでに不快でございますかな?」


 子狼はそう問いかけたが、しかし李博はなおも頭を抑えながら、やめろ、と子狼に向けて叫ぶ。


「おや、やめろは心外ですな。これは犬笛といって、一部の獣か――影と闇に親しむ外法の術士でなければ、聞き取れもせぬ無害なものであるのですがな」

「き、貴様……。まさか、すべて、知っていたのか…………?」


 李博はなおも苦しみ続け、今や目を充血させ、口元を歪め、滝のようによだれを垂れ流している。その異様な光景に、李博に率いられていた兵士たちも、戦っていた姜子蘭と呉西明も、思わずその場に立ちすくんで李博のほうを見ていた。


「そこは俺の手柄ではなく、僥倖の為せることだとも。天が我が君を外道の凶刃から守らんと欲し――てめぇが李氏の体を奪う場に俺を導いてくれたのさ」

「おの、れ……!!」


 李博――その体を乗っ取っている外法の術士が剣を振り上げ子狼に飛び掛かる。しかし子狼はさっと後ろに跳び退ると懐から瓢箪を取り出した。そしてその中にいれてあった液体を李博の顔めがけてかける。

 瓢箪の中身は漆の樹液である。矢に塗って射られただけでも耐えがたい発疹を与えるそれを全身に掛けられたのだから、外法の術士は猿のような甲高い叫び声をあげた。


「その体には痛痒があるらしいな。まあそうだろうと思ったぜ。外法の術には死骸を操るものもあると聞くが――お前からは、腐臭がしない」


 子狼は自分の鼻先を、人差し指で軽く叩いてみせた。

 世の中には死体の腐臭を隠すための香油も存在するのだが、死体が放つ匂いというのはとてもそれだけで覆い隠せるものではない。子狼にも、そして他の兵士たちからも体からの悪臭を隠すということは不可能である。

 子狼は李博と何度か話している間にそういった腐臭がせず、そしてそれを隠している様子もないことから、中身は外法の術士であろうとも、肉体は普通の人と変わらないことを確信していた。

 ならば、痛みや苦しみも普通に感じるということになる。前に子狼が姜子蘭に話したとおり、それで首を刎ねて殺しても術者を殺したことにはならないのだが――その体に耐えがたい苦しみを与え続ければ、李博の体から出ていくだろうと考えたのである。


「とっとと李博の体から出ていけよ。いかに中身が外道とはいえ、知己の体を損なうのも、苦しむ様を見るのも、あまり心休まるものじゃねぇからな」


 子狼は冷徹な顔をしているが、しかしその舌鋒には胡蜂(すずめばち)のような鋭さがある。そこに込められているのは静かな怒りであった。


「そうか……。ならば、お望み通り捨ててやるともさ――」


 そう叫んだと同時、李博の体から黒いもやが吐き出された。そして李博の体は棒きれのように、指の一つも動かさずに地面に倒れ落ちる。

 そうして、李博から出たもやはそのまま子狼の影に溶け込んでいった。瞬間、子狼の影が膨張する。


「次はお前の体を奪い、その手で忠誠を尽くす主君の首を刎ねてやろうではないか!!」


 膨れ上がった影は、先に李博を呑み込んだ時のように牙のような形となって子狼に襲い来る。それはさならが黒き洪水だった。

 姜子蘭が子狼の身を案じて叫ぶ。

 しかし間に合わず、子狼の体は黒い濁流に呑みこまれていった。いいや、仮に間に合ったところで、人の身で姜子蘭に出来ることなどないのだ。

 そして、姜子蘭の心配に反して、子狼がその体を外法の術士に奪われることもなかった。

 黒影が激しく弾ける。その中から現れたのは、先ほどの影よりもさらに濃い黒の外套を纏った男であった。その恰好は、かつて鬼哭山で喰魂鴉(じきごんあ)を駆使して姜子蘭たちを襲った老人ととても似通っている。


「蛇の毒も外法に効く、というのも正しかったらしいな」


 子狼は黒い外套を纏った外法の術士を見下ろしている。外法の術士は、その腹から血を噴き出してうずくまっていた。

 そして子狼は剣を抜き放って手にしている。その刃には赤黒い液体がしたたっていた。

 これもまた外法の術への対処策の一つである。子狼が後で思い出したことなのだが、どうも外法の術を扱う者は蛇を嫌うとのことであった。そこで子狼が用意したのは、蝮酒に蝮の血と砕いた毒牙を溶かし混ぜたものである。それを鞘の中に注いで、外法の術士に対して特攻となる毒剣としたのだ。


「さて、我が君よ。暫し離れていてくだされ」


 子狼が姜子蘭をそう言って制したのは、毒の滴る剣を再度振るうにあたって、その飛沫がかからぬようにである。

 姜子蘭は言われた通りに兵たちのほうへ行き、子狼と術士から離れた。

 それを確認すると子狼は、蛇毒にまみれた毒剣を振るう。その一閃で術士の胴と頭は永久に泣き別れになり、首から噴き出した鮮血は周囲に飛んで雷花(かみなりばな)のような紋様を地に描いた。


「外道であろうと血の色は同じか。何とも不愉快なことだ」


 そう冷淡に吐き捨てながらも、子狼は術士が確かに死んだことを確かめると、兵士に命じてその骸を燃やさせた。

 それは李博の死への報復でもあり、また、ここから生き返らぬと断言出来ぬが故の措置であった。

 それと同時に、術士が抜けた李博の体を検分させる。しかしこちらは、確かに先ほどまでは生きていたらしいのだが、その悪性が体から抜けた途端に、すでに脈動なくこと切れていたのである。

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