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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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惑う剣先

 子伯異の部屋に刺客がなだれ込んだその頃。

 姜子蘭もまた、子狼とともに与えられた部屋で刺客に備えていた。姜子蘭はその手に剣を、子狼は弓を手にして箙を背負っている。

 田仲乂が放った刺客のことを子狼が知れた理由は簡単である。夏羿族の密偵、羊が李博を尾行しており、その李博が呉西明らと接触したからであった。

 もし李博がよけいなことをしなければ、あるいは呉西明らは薊国の使節に気取られることなく子伯異と姜子蘭を暗殺していたかもしれない。しかし下心を出したがために、かえってその企みを悟られてしまったのである。


「……そろそろ、なのであろう。子伯異どのはご無事であろうか?」


 姜子蘭は、明かりのない真っ暗な部屋で子狼と背中合わせになりながら、小さな声で聞いた。

 命を狙われているのは自分も同じであるというのに、姜子蘭は他人の心配をしているのである。その在り方は美徳であるが、少しは自分を優先して欲しいとも子狼は思った。


 ――もっとも、それでこそ我が君主に相応しいとも言えるのだがな。


 そして、そういう主君の至らぬところを補うためにこそ自分や盧武成がいるのだとも思っている。

 子狼は姜子蘭を力づけるように、声を低くして返答した。


「あちらには牟がおります。まず問題はないでしょう。今はご自身の身を一義となさいませ。我が君は客将とはいえ、薊国の副使でございますからな」

「……そうだな。しかし、私には子狼がいてくれる。それに、羊という優れた援軍もいるのだろう?」

「そうですな。羊は頼りになりますとも。それに不肖この子狼めも、夜目と嗅覚については人並み以上と自負しておりますとも。何せこの身はかつて、狼に養育されたことがございますもので――」


 それは頼もしい、と相槌を打とうとして、姜子蘭は子狼の最後の言葉に眉をひそめた。最後の最後で、とても奇妙なことを言われたからである。

 姜子蘭がそれを問いただそうとしたときである。兵士たちの叫び声が聞こえて来た。声は、失火だ、火事だと言っている。

 それを聞くと子狼は、失礼、と呟くと姜子蘭の身を抱えて部屋の戸を破り、庭へと出る。そして姜子蘭を降ろすと、弓を取って構えた。そして姜子蘭も子狼と背中合わせになって剣を構える。

 すると突如、二人を囲む五つの黒影が現れた。しかし次の瞬間、影は三つにまで減ったのである。

 子狼は敵を確認するや、箙から矢を二本取り出して弓に番える。そして月明りだけを頼りに、二人の刺客の肩に矢を命中させたのである。

 子狼には刺客を殺すつもりはなく、敢えて肩を狙ったのだ。そしてそれは、善心からではない。

 しかしただ肩を射ただけでは、その後の反撃を許すかもしれない。それを封じるために、矢の先端には漆をふんだんに塗りたくってある。射られた刺客たちは、激痛と同時に襲い来る全身の痒みに耐えかねて悶絶した。


「さて、これで数の利は減ったぜ。大人しく武器を捨てて降るのであれば、命ばかりは助けてやろう」


 子狼にそう呼びかけられて、しかしかえって昂然の気を吐いた者がいる。呉西明だ。

 呉西明は腰に帯びていた剣を抜き放つと、姜子蘭めがけて駆けて行った。後ろにいる二人の者は、短剣を取り出して左右に散る。

 呉西明は、他の刺客が持っている毒剣を有してはいない。暗澹で働く刺客にまで落ちようとも、毒を頼みとするほどの卑劣に走ることはその矜持が許さなかった。

 月明かりを受けた剣光が走る。姜子蘭もまた、剣を持って応戦した。

 ここに、共に盧武成から剣の教えを受けた二人の戦いが始まったのである。

 無論、残る二人は姜子蘭が呉西明と撃ち合っている間隙をついて毒剣でその肌を裂こうと狙ってきている。しかし子狼は、今度は一矢ずつを弓に番えて、的確に二人の刺客の胸を貫いた。


 ――証人は二人もいれば十分だ。


 子狼が最初の二人を殺さなかったのは、生きたまま奄男に差し出し、田仲乂の手の者であることの証とするためであった。しかしこの場の全員を生かしておくのは危険である。故に、もし刺客の中に矢傷や漆の痛痒を越えて本願を果たさんとする気骨ある者がいれば姜子蘭の身が窮地に晒されてしまう。

 それでも、二人程度であれば対処は出来る、というのが子狼の考えであった。

 そして子狼は、目線は呉西明と苛烈に撃ち合う姜子蘭を追いつつも、その警戒は周囲に向けていた。とはいえ、もし姜子蘭が窮地に陥ればいつでも呉西明を撃ち抜ける備えはしている。

 一方、その姜子蘭と呉西明の戦いは一進一退であった。

 若い頃より無頼で鳴らした呉西明にとって荒事は得手である。それでも、姜子蘭は一歩も譲らなかった。その凄まじさに呉西明は、本気でその命を奪おうとしている身でありながら、内心で驚嘆せざるを得なかった。

 姜子蘭には子狼という味方がいる。呉西明がその矢を警戒しているとはいえ、その憂いだけでなく、姜子蘭は気迫と技量で呉西明と互角でいるのだ。


「なるほど、流石は、虞の王子ですな」


 小さくこぼしたその言葉を姜子蘭は聞き逃さなかった。


「……貴殿は何者だ? 私のことを知っているのもそうだが、その剣筋は刺客のそれとは思えない。歪みがなく、迷いがあり、それが剣筋を鈍らせているように思えます」


 それはここまで姜子蘭が呉西明と剣を交わして感じたことである。その白刃は自分の命を狙うものでありながら、しかし刃がもたらす命の危機に畏れながらも、それを振るう眼前の人物を憎むことが出来ないでいたのだ。


「……甘い言葉ですな。その身には大願がございましょうに。なれば、一介の刺客など歯牙にもかけず進まれることこそが御身の正義でございましょう」


 姜子蘭の言葉に呉西明は後ろめたい感情を覚えた。自分はとうに堕ちた身であり、蠕虫(ぜんちゅう)の如くに払い捨てられたほうが気楽であるとさえ思っているのである。むしろそうなることを望みながら、しかし田仲乂から受けた恩義が全身に力を込め、剣を震わせている。そんなあり方を滑稽だとさえ思っていた。

 そして呉西明は、姜子蘭の背後に控える子狼を睨む。いや、表情こそ険しいが、その双眸の奥にあるのは懇願であった。

 自分では自分を制することが出来ぬ。故に、姜子蘭の臣として自分を射殺してくれと願う眼差しである。

 しかし子狼はその訴えに素知らぬふりをした。

 それは、呉西明に対して思うところがないからではない。

 それ以上に警戒していた者が、今まさに近づいてきたからである。

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