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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
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曇天の夜

 陣中を警戒するにあたって子狼がまず行ったのは、故意に不審火を起こすことであった。

 子狼は将兵に被害が起こらぬように細心の注意を払いつつ、陣中で火災を起こしたのである。それも、失火でなく外部の何者かが侵入したかのような形跡をわざわざ細工したのだ。

 これは、使節団全体に危機感を覚えさせるためである。

 子狼は敢えてその火災の第一発見者になりつつ、白々しい顔をして、外部の者が火をつけたと偽証をした。そして兵らに警戒心を植え付けたのである。

 無論、そうして厳戒態勢となった兵らを指揮するのは李博なので、よいことばかりではない。しかし今は、まず兵士らの気持ちを引き締めることを優先した。

 もう一つの対策として、子狼はなるべく李博を見張るか、姜子蘭と行動するようにしている。

 そして姜子蘭のほうもなるべく子伯異と離れないようにしていた。

 その日の夕刻。子狼がひとまず李博から離れ姜子蘭のところへ向かっている道中。不意に幕舎の影から声がした。その方向を横目でちらりと見ると、そこには黒衣を纏った若い女が膝をついて座っていた。覆面で顔を隠している。


「何者だ?」


 子狼の誰何に女は、声を低くしたまま答える。


「盧氏に遣わされてきた者で、(よう)と申します」

「武成の使者か。夏羿族の者か?」

「はい。子狼どのの耳目を補うようにと仰せつかってまいりました。もう一人、私の弟で(ぼう)という者も同行しており、今はそちらが李博なる将を監視しております」


 羊と牟という二人の姉弟は夏羿族で主に偵察を行っている者らしい。薊国と争うとなれば、時には長城を越えて敵陣の中に忍び込んで諜報を行ったり、必要ならば陣中に火を放って攪乱することもあるという。李博を密かに監視するには適任の二人であった。


「そうか。しかし敵は――他者の姿を奪う術を持っている。弟と連絡を取る時の合言葉くらいは決めてあるな?」

「はい、勿論でございます」


 静かに、こともなげに語る羊を見て子狼は頼もしさを覚えた。

 そして、子狼が送った書簡を読んですぐに、夏羿族の中から適任の者を選んで迅速かつ秘密裡にこのような頼もしい援軍を派遣してくれた盧武成の手際にも感謝していた。

 こうして殷丘までの道中、李博の監視は羊と牟の姉弟に任せ、子狼は策を巡らせつつ姜子蘭と子伯異の身辺を警戒することに注力出来たのである。




 奄の国都、殷丘の夜には曇天がかかっていた。月の光が夜の街を照らすことはなく、それはこの男の今の心境そのもののようである。

 殷丘の南にある豪邸でその男――田仲乂(でんちゅうがい)は酩酊していた。部屋の中には酒精の香りがこれでもかとしており、傍に控える侍女たちはむせ返る甘い香りにうんざりとしている。といって、顔を背けたり嫌気を表に出せば懲罰が飛んでくる。そうでなくても田仲乂の機嫌は悪いのだ。少しでもおかしなことをすれば、それを口実に何をされるか分かったものではない。

 といって、田仲乂としても愠怒が溜まるのは当然のことで、そして、酒を呑む以外にすることもないのだ。

 先の薊国への派兵と敗戦の後、田仲乂は殷丘に召還された。そして薊への出兵の咎で軟禁されていたのである。仄聞したところでは薊国からの使者が殷丘に向かっているという。それがまたいっそう、田仲乂をいら立たせてた。

 今の薊国には奄国と争うゆとりはないが、実は奄国のほうも薊国と争う余力などないのだ。

 奄の東方、窮の晏孟軌(あんもうき)という将に攻められて国境の要衝である伍代(ごだい)城を奪われているのだ。前にも書いた通り、奄国は窮国の首都を落とし、その公族を東に追いやって成立した国である。

 当然ながら窮国は失地回復を宿願としており、しかもここ数年はその勢いがますます盛んになってきていた。

 それを許すことなど出来ない奄は、今は東に集中するしかなく、薊国とまで戦ってなどいられないのである。

 田仲乂が独断で練孟と結んだのにはこのあたりの事情も関係していた。練孟が首尾よく次代の薊侯になれば奄国と薊国の中は良好になり、さらに練孟からの対価として薊国の土地を割譲させればその力を削ぐことにもなる。奄国にとっては善いことしかなく、独断を責められることもなかろうと考えていたのだ。

 しかし利幼が太子となってしまえば事情は変わってくる。

 奄男は薊国と結ぶために田仲乂の身柄を渡す腹積もりであろう。それが分かっている田仲乂にとって、殷丘に向かっている使節団は自分の身を破滅へと近づける黄泉からの使者に等しい。

 その恐怖を紛らわすために酒を大盃であおると、手近な壁に向かって投げつけた。盃が砕け、侍女が悲鳴を上げる。

 しかしこのような八つ当たりをしたところで状況は何も変わらない。むしろ苛立ちと不安が増していくだけである。


 ――いっそ、薊国の使節など潰滅してくれればよいのだが。


 そう考えた時、田仲乂の腹に悪辣な策が思いついた。そして、呉西明を呼ぶように命じた。

 呼ばれてきた呉西明は部屋にこもった甘い香りに僅かに眉をひそめつつも田仲乂に拝跪する。


「おう、来たか西明。先の遼平での敗戦のせいで私は今、窮地に立たされている。それはつまり、あの場で敵の将を倒せなかったお前の責であるということだ」


 田仲乂は横柄な態度で言う。しかし今の呉西明は田仲乂の客分であり、しかも敵将――盧武成との戦いに負けたことは事実なので言葉を返すことが出来なかった。


「だが、お前の腕は承知している。故に挽回の機を与えよう」

「……何をすればよろしいでしょうか?」

「簡単なことだ。殷丘に向かっている薊国の使節団に忍び込み、正使と副使の首を取ってこい」


 初めから一変して穏やかな口調になった田仲乂の言葉には、その穏やかさと部屋に満ち満ちた酒精の甘い香りでも覆い隠せないほどの毒を孕んでいる。田仲乂は奄国の功臣の一族でありながら、その身の安泰のためだけに奄薊二国が相争うための謀略を仕掛けようとしているのだった。

歴史短編書きました。中国神話の蚩尤の小説です。タイトルは「風雨と霹靂」です。こちらも是非よろしくお願いします!!


 https://ncode.syosetu.com/n0912le/

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