虞王に罪有り
関所での一件があってから、姜子蘭はめっきりと口数が減ってしまった。それでも盧武成が馬術を教えればしっかりと聞いているし、身分を隠すために襤褸を着ることも厭わなくなったのは心境の変化なのだろう。
均はそんな姜子蘭にどう接すればいいのか分からずおどおどとしていた。しかし盧武成は、放っておけと冷たく言った。
これは姜子蘭の問題であり、盧武成にも、ましてや均にはどうにも出来ないことである。
ある夜。
どこも泊めてもらえるような民家などがなく、野宿することになった。盧武成は寝ており、姜子蘭と均で焚き火の番をしながら野獣などの警戒をしている。
「子蘭様も、お休みになってかまいませんよ」
均は気遣いでそう言った。均には姜子蘭がここのところ、どうにも満足に休めていないような気がしたのである。
しかし姜子蘭は首を横に振った。
「今日は、もう少し起きていたい気分だ」
声に疲れがある。まぶたも重く、目の下にはうっすらとくまが出来ていたが、しかし姜子蘭は寝ようとしなかった。
焚き火に薪をくべつつ、姜子蘭が均にか細い声で聞いた。
「均は虞王のことをどう思っているのだ?」
均は言葉に詰まった。
姜子蘭を気遣って言葉を選ぼうとしたというわけではない。そもそも均は、王とか王朝というものを意識して生きてきたことがない。そういうものがあるとは知っていたが、それは均にとって白雲の上に何があるのかと考えるのに等しいことであり、そんなことを真面目に考えたことがなかったのである。
范旦は熱心な虞王の信奉者であり、均にもよく虞王朝の歴史について教えてくれた。しかしそれらの話は難しくて均は半分もその内容を理解していなかった。
「私は、よく分かりません。ですが私の主人は虞王様のことを尊敬なさっておりました」
「主人はどんな人だ? 虞の臣下か?」
「いいえ、商人です。虞の……ええと、東遷というのですか? その時に東へ逃げられたのですが、少しでも虞王様の近くにいたいとのことで孟申に来られたと聞いております」
「ふむ。虞の王家と交流があったのか?」
「特にそのような話は聞いておりません」
姜子蘭の顔が少し明るくなった。
利害のない市井の商人さえも虞王朝を敬仰している。それは虞王朝がこれまで築き上げてきた徳であると思うと我がことのように誇らしくなったのだ。
「ところで、その人はどこにいる? まだ孟申に残っているのか?」
そう聞くと均は俯いて暗い顔をした。迂闊なことを聞いてしまったかと姜子蘭は少し申し訳なく思ったが、均は声を低くしながらも、
「……お亡くなりになりました」
そう言った。姜子蘭は均の肩に手をやって慰めた。均はその時のことを思い出していた。そして、問われてはいないのにその理由について話し始めた。
「主人は廬どのと私が東へ旅に出る前に、自死なさったのです。その時に、我虞王に殉ず、と書き遺してあったと盧どのから聞きました」
そう言って均は、堪えきれなくなって泣きだした。
姜子蘭はなんとか慰めようとしたが、どう言葉をかけていいか分からなかった。
范旦は怪我を負い、車も馬もない旅の足手まといになるまいと死んだという事情もある。姜子蘭はそんなことは知らない。しかし知ったとしても、やはりそんなことを書き残して死ぬ理由は分からないに違いない。
姜子蘭はこれまで王宮の中でしか過ごしたことがなかった。
虞の東遷の後に生まれ、物心ついた時には虞は顓の傀儡であった。
そんな中にあって、かつての虞王朝の栄光と繁栄を教えられ、虞王が万民の父として天下にその威光を示すことで大陸の平和は守られる。それこそがあるへまき姿だと教えられてきた。
――ならば、天子の威光がなく、顓ごとき戎のなすがままにされていたために均の主は死んだ。盧武成の言う虞王の罪とはこれか。
姜子蘭は少年らしい純粋さで、周囲から教えられたことを本心から信じていた。
そして今、その純粋な心で范旦の死を自らの罪だと思ったのである。
――ならばこそ、一日も早く虞を再興せねばなるまい。
姜子蘭は虢から出た時に、魏氏の兵を借りるまでは帰らぬと誓いを立てていた。そして今、改めて己の心にそう誓った。
それからの道中で、姜子蘭に変化があった。
盧武成に剣を教えてくれと頼んだのである。盧武成は面倒だと思い、断りを口にした。しかし姜子蘭は馬から降りて跪いて請うてきたので、そうされると盧武成は重ねて否と言うことが出来なかったのである。
といっても、旅の早さを落とすことは出来ない。
野営の時や休憩の時間を使うことを条件にし、剣の鍛錬が旅を遅らせることがあれば打ち切ると条件をつけた。
それで構わないと頷いた姜子蘭は真剣な目をしている。
姜子蘭にはすでに馬術を教えており、均に御も教えている。そしてその他、寝床の手配や食料調達など旅に必要なことの多くは盧武成が行っていた。
この上さらに姜子蘭に剣の稽古をつけるとなると盧武成の負担も増すのだ。
と言って、こうも真摯に頼まれれば断れないのが盧武成という男の性分であった。