呑躯術
李博の体が、突如としてせりあがってきた影に呑み込まれた。
その光景を遠くから目撃してしまった子狼は、先ほどまであった仄かな酔いなど完全に吹き飛んでしまったのである。
これまで維氏の将として何度も戦場に出て、その度に何があろうと恐れることはなかった子狼であるが、今は全身を震えと怖気が支配している。一瞬の戦慄が子狼の体を縛り――それでもすぐに、わずかながらに理性を取り戻した子狼は、すぐさま気配を殺して近くにあった幕舎の物陰に隠れた。
そこから片目だけで前を見ると、そこには李博が立っている。何事もなかったかのようであるが、しかし、顔つきも背格好も、衣服に至るまですべて先ほどの李博と同じなのだが、笑う顔の貪婪さは影に耳目をつけたが如き妖しさなのである。
――あれはまさか、“呑躯術”か?
眼前で起きた出来事について、子狼は一つだけ心当たりがあった。
何で読んだのかは子狼でさえも覚えていないのだが、世の中には他人の影に潜り、やがて影の中に相手を取り込んで肉体を自分の物にしてしまう外法の術があるという。
子狼はそれを知った時には、そんなものが実在するはずがないと思い、今の今までほとんど忘れていたのである。しかし、自身の両眼でしっかりとそれを見てしまった以上、恥ずべきは自分の不見識のほうだと思い知った。
そして、ならば子狼は向後のことを考えなければならない。
李博はすでに死に、その容姿をした何者かが李博の地位をそのままに陣中を闊歩することになる。ならばその者の思惑は何であるのかこそ、子狼がまず考えなければならないことだ。
――この使節の中で狙われる立場にあるのは、我が君と子伯異どのだ。
この使節は奄国への使者の一行ではあるが、大した金品や兵糧を運んでいるわけではない。
また李博にしても、薊国の中でその地位が決して高いというわけではなく、ただなり変わったところで利点があるとは言い難い。
そうなると、この使節を潰滅させ、薊国と奄国が和平を交わすのを妨げることが目的であろうと子狼は考えた。
そうなって得をするのは、薊奄二国の中では、練孟、岸叔の二公子と、奄国の田仲乂である。二公子は言わずもがな、田仲乂にしても、ここで両国に結ばれてしまえば自らの派兵について問責されるので、両国の破断を望んでいる。
――だがそれは、あくまであの男がただ人の手先として動いている、という仮定の話だな。
これは子狼自身、考えながら絶えず戒めるようにしているのだが、相手は人ならざる術を使う人妖なのである。誰かの手先になっているとは限らぬし、そもそもただの人たる子狼の考え方が通じるかどうかさえ定かではないのだ。
そして、この危機がとても余人には信じがたく、また確たる証拠が子狼の双眸の中にしかないというのも厄介である。
姜子蘭ならば、真剣に訴えればあるいは信じてくれるかもしれないが、子伯異から見れば、せいぜいが李博への中傷か、そうでなければ気が触れたと思われるだろう。
しかし子狼は、悩みはしたが姜子蘭にだけは打ち明けることにした。
主君の身に危機が迫っているのに、それを知らせないのは不誠実だと感じたからである。すぐに密かに姜子蘭の下を訪れた子狼は、夜に参上した非礼を詫びつつ李博の身に起きたことをすべて話した。
「……そうか。分かった、子左丞相の身辺には私も気を付けよう」
しかし姜子蘭は、李博の死に対して怒りと悲しみを浮かべつつも、絞り出すような声を出して子狼に答えた。
驚いたのは子狼のほうである。まず疑いから入るだろうと思っていたのだが、姜子蘭は子狼の言葉をすんなりと信じたのである。無論、子狼のことを信頼しているというのもあるのだろうが、それにしても呑み込みが早すぎると子狼は感じた。
――もしや我が君は、前にもそういう外法の術を見たことがおありなのか?
子狼はそう推察した。そしてそれは当たっている。かつて鬼哭山で姜子蘭は盧武成、脩と共に、喰魂鴉という、全身を無数の鴉に変える術を操る老人と対峙したことがあった。
しかしそのことは知らず、またこの場で聞こうという気もない子狼にとっては、今は姜子蘭が信じてくれるだけで少し気が楽になった。
「ところで子狼。その……呑躯術、だったか? それに対抗するための方策は何かあるのか?」
「術者が影に隠れている間は、その影に断腸草を煎じた薬湯を染み込ませると苦しんで死ぬとありますが、他者に寄生している間は対処する方法がないとのことです。首を刎ねてもその体はかりそめの物であり、殺したことにはならぬ――というような話であったかと」
子狼は苦々しげな顔をした。対処法の一つとして挙げた断腸草だが、これは大陸の南方でしかとれぬ薬草であり、しかも内服すれば劇薬となる物である。当然、この陣中にはない。
子狼は万が一に備えて、五十名とは別に夏羿族の男を一人と、范氏の家人を一人借り受けて帯同させていた。この二人に書簡を渡して盧武成の元へ走らせたのである。それでも断腸草が甲燕やその近隣で手に入るかは運であった。
そして、他にも何か記述があったはずなのだが、子狼はそれを思い出せていないのだ。何せ子狼自身、疑いながら読んだ話であるので、対処法についてもその仔細を十全に思い出せていないのである。
なので今は、盧武成からの返信を頼みとしつつ、翌朝から姜子蘭と子狼の二人は、李博とは変わらぬ風に接しながら警戒ながら子伯異の身辺を密かに守ることとなったのである。




