暗影蠢動
前にも少し書いたが、今の薊侯――姜仲繪の在位のうち、今日までの間のおよそ半分の時を、子伯異は左丞相として過ごしたのである。
ちなみに虞では左右では右のほうが尊いということも前に書いたが、では薊国の右丞相は今どうしているのかというと――不在なのである。前は姜台という人物が右丞相であった。この人物は薊国の中でも名高い名宰相であり、姜仲繪の異腹の兄である。姜台はよく姜仲繪を補佐したのだが、病魔に倒れ故人となった。
その時に左丞相であった子伯異が次の右丞相に、という話になったのだが、姜仲繪が、私にとって右丞相とは兄一人であると言ってその地位を空席にしてしまったのである。丞相は必ずしも左右を置かねばならないという決まりもないので、薊の廷臣はその決定に従った。それは姜台の功績と遺徳が為したことでもあった。
それからの間、子伯異は左丞相としての任を大過なくこなしてきた。
無難で平凡という子狼の評価は外から見たものであり、対外的にそう見えるということはとても難しいことなのである。姜仲繪は幼年で即位しており、その在位は今年が五十年目である。そのうち、子伯異が左丞相であった期間は二十三年であり、そして今に至るまで薊国では三公子の争いまで動乱はなく、薊国は一寸の地も得ていない代わりに、一寸の地も失っていないのだ。
「一時、何かを得るよりも、得た物を保つほうが難しいのです。盃に酒を注ぐことは容易くとも、それを持ったまま一滴もこぼさず、口にも運ばずに立ち続けることが難しいようなものですよ」
子狼は李博が手にしている盃を指さして言う。そう言われると李博も納得はした。
「あのご老人に足りなかったのは婿を見る目だけです。いいや、それにしても、まだ練孟公子が薊侯を継ぐと誰もが思っていた時のことですので、娘を婚家させるのは当然のことでしょうな」
「子狼どのは随分と、子左丞相のことを高く評価されておられるのですね?」
「ええ、もちろんですとも。李氏にとっては主君の敵であり、また敗軍の将だからといってそれが子左丞相の価値を下げるものではありません。人には得手不得手がございますからな。医者が厨房で右往左往し、力士が巫術に長けていないからといって、それでその人に無能の烙印を押すのは軽慮でしょう」
酔いの助けもあって子狼は少し饒舌であるが、吐いた言葉は本心である。
今あるもの、新たに得たものを保全する。それはともすれば、何かをただ手にして増やすよりもずっと難しいことだと子狼は分かっている――いいや、感じているからだ。
子狼の出身である維氏は、一たび北に勢力を伸張させると、破竹の勢いで領土と兵力を増やしていった。今の維氏に衰兆はないが、しかし勢力を維持するために武威を用いている。だがそれでは、いつか大敗した時に維氏は容易く瓦解するのではないかという懸念を、子狼は昔から感じていた。
しかし薊国はそれを為してきたのである。少なくとも子伯異が左丞相であった間に、東では窮国が奄という邑の軍に国都を追われ、しかも奄は国となることを虞王から認められるという大事があったのだが、しかし薊国はその影響を受けていないのである。そんな時に左丞相であった男が無能であるはずはないと子狼は思っている。
そして――だからこそ、なおさら解せないのが姜仲繪の愚行なのである。
会盟を開こうとして、今は国の分裂さえも厭わず三人の子を争わせるようなことをした。少しでも良識があればそれらがいかに愚かであるかは分かるはずなのである。ましてそれ以前の姜仲繪の足跡を思えば、その良識がないとも思えない。会盟未遂より前に、姜仲繪が故事好きゆえに倒錯したような話を子狼は聞いたことがないのだ。
無論、いつまでも変わらない人などいない。若いころは賢良だった者が、壮年の野心、老いの欲望に目覚めることもあるだろう。しかし――それを教唆したであろう、姜仲繪に気に入られたという方士のことが、子狼にはどうしても気にかかるのである。
そんな風に、話しながらいつの間にか黙り込んで思考をめぐらせていた子狼を李博が心配したような顔で覗き込んでくる。
「おや、これは失礼を致しました。少し飲みすぎたようです」
「いえ、構いませんよ。ですが大丈夫ですか子狼どの?」
「ええ、お気になさらないでください。ですが、夜も更けてまいりましたので今宵はこのあたりにしておきますか」
その言葉に李博も、そうですなと頷いて一礼してから自分の帷幕へと戻る。
子狼はもう少しだけ夜風にあたって酔いを醒ましてから姜子蘭のところへ戻ろうと考えていた。そして、ようやく少し頭が冴えてきて、地面に何かが落ちていることに気づいた。木札である。どうやら李博が落としたらしい。今ならばまだ間に合うので届けようと思い、子狼は李博の後を緩慢な歩みで追いかけた。
碑龍山から吹く冷たい風を全身に受けて酔いを醒ましながら、李博はゆっくりと自分の帷幕へ歩いていた。
李博は生粋の武人であり、子狼の考えていることは分からないし、話していることについても分からないことのほうが多い。それでも、共に酒を呑んで話しているのは楽しかったのである。
――また、折を見て呑みたいものだ。
そう考えながら、ふと視線を下におろす。そこでは、炬火に照らされた旗の影が風に当てられて舞っていた。それだけならば何もおかしなことはないのだが、そこにふと奇怪なものを見つけた。旗の影から、人の頭のような形の丸い影が生えていたのである。
先ほどまでの酩酊を捨て去り、李博は剣柄に手をかけて振り返る。しかしそこには、ただ旗が風にたなびいているだけで他には何もなかった。
「……いかんな。どうも、少しのつもりが深酒をしてしまったようだ」
そう呟いて剣から手を離した時である。李博の影が膨張したかと思うと、獣が牙を剥いて大口を開けたような形へと変わる。しかも影はそのまま地面からせりあがってきて、瞬く間に李博の全身を呑み込んで、また地面に融けていったのである。
そして、やがて影の中から黒い靄が噴き出してくる。その靄も段々と晴れ、そこから現れたのは李博である。容姿にしても衣服にしても、何一つとして変わっていない。
ただしその顔は醜悪な笑みを浮かべており、天まで積み上げた魚の死体よりも生臭い負の気配を漂わせていたのである。




