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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
暗影蠢動
107/167

碑龍山の息吹

これまでのあらすじはこちらとなっております↓

https://ncode.syosetu.com/n8340kx/7

内容は気になるけれど一から読むのは面倒くさい、ここまでの話がちょっと自信ないという方はご活用ください!!

 巍々として聳え立つ山並みから吹き降ろされる風が、炬火をゆっくりと揺らしていく。冬の寒さと夜の昏さ、そしてここが他国であるということも相まって、兵士たちは、鎧で固めた胸の下に薄気味悪さを感じていた。

 奄の国都、殷丘(いんきゅう)へ向かう使節団が夜営のために陣を張っているのは、碑龍山(ひりゅうざん)と呼ばれる山のふもとであった。ここは既に奄国の領内であり、殷丘までへはあと二日ほどの道のりである。


「お疲れではありませんかな、姜子蘭どの」


 この使節の正使である子伯異は、姜子蘭の帷幕を訪ねてきてそう聞いた。お気遣い痛み入りますと、姜子蘭は恭しく頭を下げる。

 姜子蘭は座を設け、子伯異に上座を進めて酒を出すように近くにいた者に命じた。しかし子伯異は、大丈夫ですと、やんわりと断る。姜子蘭は申し訳なさそうな顔をしつつ、子伯異に上座を勧めた。

 この使節の中では姜子蘭は副使なので、子伯異を上座に着かせることは何もおかしくない。しかし、薦められるまま上座に腰を下ろして、子伯異は値踏みするような目で姜子蘭を見る。

 利幼が自分への監視のためにつけたということは分かり切っている。

 しかしそもそも、姜子蘭という少年は何者なのかというのが、子伯異のもっとも気になっていることであった。


 ――樊の公子か、智氏の縁者か。いずれにせよ西から来たのであろう。権力争いに敗れ、再起を図るために流浪しているというところではないか。


 というのが、子伯異の考えであった。

 話す言葉に王畿の典雅さがあり、育ちがよさそうである。蒼天のように澄んだ青い眼は珍しいが、それだけで下賤の者が高貴なふりをしていると思えないほどに、姜子蘭の挙措には年季が入っている。

 その下に仕える二人の臣も、武勇あり知略ありと子伯異は聞いていた。事実として、姜子蘭が客将となったことで利幼は太子となったのだ。姜子蘭とその臣だけの力ではなくとも、その功績が多大なることは誰の目にも明らかである。


「ところで姜副使よ」

「私はまだ弱冠の身でございます。私的な場では、子蘭と(あざな)で呼んでいただいてかまいません」

「そうですか。では子蘭どの。聞けば貴殿は利幼太子のために大いなる尽力を果たされたとお聞きしています。となれば、太子が子蘭どのにお与えになる褒賞もまた多大なるものでありましょうな」


 聞きにくい話を、子伯異は世話話の軽さで聞いた。姜子蘭は困ったような顔をしている。

 しかし、姜子蘭にしても考えないことではなかった。三公子の争いが決着を見るまでは利幼のため、薊国のためだけを思って行動してきたが、姜子蘭の大願は兵を率いて、虞王朝を壟断する顓を撃滅することなのである。

 子狼が薊国へ向かうといったのは、やはり三公子の争いを収めるために戦い、その恩をもって薊から兵を借りるつもりだったのだろう、と姜子蘭は思っている。

 そして子伯異も、姜子蘭が虞の王子だとまでは思い至っていないが、故郷に戻って勢力を挽回するために兵を借りるつもりなのではないかと睨んでいた。

 姜子蘭はどう答えるか考えた。向後のことについて子狼は何も教えてくれない。姜子蘭が聞かなかったというのもあるのだが、子狼には自身の策について未だ時宜ならずと思えば君主にさえその意を秘するきらいがある。

 姜子蘭は黙り込んでから、表情を引き締めた。


「無論、利幼太子の公平さと賢明さは信じております。つまらぬ悋気(りんき)を見せるお人だとは思っておりません。なれど我らにはこれから奄男との交渉という大任がありますので、恩賞のことを考えるのは、太子に復命した後に致します」


 姜子蘭はそう言ってうまく逃げた。君命を帯びて他国にある時に褒美のことを考えるのは不純であると言われてしまえば、子伯異にも返す言葉はなく、この話はここで取りやめとなった。

 それよりも、と姜子蘭は、声を低くし、子伯異に近づいて聞いた。


「差しさわりなければ教えていただきたいのですが、太子は奄男に何を求めておられるのですかな?」


 姜子蘭が聞いたのは、奄国との交渉の落としどころである。

 表立って対立しないようにというのは当然のことであるが、それだけで終わらせるのか。それとも、田仲乂の専行の咎を責め、田仲乂の身の引き渡しや奄国からの賠償を求めるところまでいくのか。そのあたりのことを姜子蘭はまだ聞かされていなかった。

 副使とは正使の補佐をし、正使の身に不測の事態が起きればその代行をしなければならないのである。この確認は必要なことであった。

 真剣な顔で迫られて、つい子伯異は苦笑してしまった。

 それまでは、老いていても目に力があり、常に張り詰めた人物だったので、姜子蘭は初めて子伯異の笑った顔を見たのである。


「わかりました。では、そのあたりの相談をするといたしますかな」


 そう言って子伯異は、利幼から奄男へ宛てた書簡を取り出した。




 姜子蘭と子伯異が使節の任について話しあっている頃、子狼は李博と二人で酒を呑んでいた。

 といっても、ここは他国であり、李博については兵を総括する立場でもあるので、軽く舌をうるおす程度である。

 二人とも帷幕の外に出て、小さな酒瓶を置いて立ちながら呑んでいる。


「ところで子狼どのはご主君についておられなくてよろしいのですかな?」

「我が君であれば今ごろ、子左丞相どのに色々とご教授いただいているでしょうからな」

「それでよろしいのですか? 子左丞相は、元は練孟公子についていた御方ですが」


 李博は怪訝な目をしている。李博は生まれも育ちも望諸であり、子伯異について詳しくない。ただ、利幼の敵に仕えていた臣という認識しかないのだ。


「あの御仁は無難で平凡な丞相でございましょう」


 李博はそれを酷評だと感じた。しかし子狼はそんな李博の顔を見て首を横に振る。


「いやいや、勘違いなさるな李氏よ。この無難で平凡というのが、とても得難いことなのですよ」


 そう口にする子狼の声は陽気であり、そこに他人を中傷するような陰湿さは微塵もなかった。

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