三子に有徳の者なし
君主となる者は武威ではなく徳を示すべきである。姜仲繪の言葉は正しいことではある。
しかし頑迷で暗愚な者を説き伏せるまでそれを続け、その結果として起こることは薊国のさらなる混乱であるとなれば間違いであった。
これ以上、三公子が争って薊国に利することなど一つもないのだ。
しかし姜仲繪はそのようなことを顧みることはなく、あくまでも他の二人に認められることを自分の太子となる者の条件にすると決めているようである。
その言葉を聞いた利幼は心の中で葛藤していた。
そもそも、こうなることを予想していなかったわけではない。利幼は思っていなかったのだが、劇迴と辛明はそれもありうるかもしれないと進言していたのである。
子狼も推測していたことであるが、これについては劇迴と辛明は子狼の考えとは関係なく利幼に忠告していた。
利幼はそんなことはないと否定した。父への孝心がそう言わせていたのだが、感情的になる利幼を二人は険しい顔で見つめたのである。
『父子の情としては、公子の言葉は美しくございます。なれど、事と次第によりますれば、その華麗さは薊国の民の血と涙で彩られることとなりましょうな』
劇迴は荒い言葉を皮肉でつつんで言った。
『誤解のなきように申し上げますが、我らは薊侯がそう仰せになることを望んでいるのではありません。なれど、そうなった時に公子がどうなされるおつもりか――そのことをお聞かせ願いたいだけでございます』
辛明は余計なことは言わず、ただただ真摯にそう問いかけた。本心であり、このまま何事もなく利幼が太子となれればよいと心の底から思っている。それは薊国のためにというのもあり、利幼にこれ以上の苦難を背負ってほしくないという私心もあった。
それでも辛明としては、この問いかけの答えだけはどうしても聞いておかねばならなかった。
つまり――そうなった時は、薊侯を武力で脅してでも薊の君主となるのか。それとも、父の言葉に従って再び不毛な国人同士の争いを行うのか。
そして利幼は悩んだ末に出した言葉は――。
利幼の出した答えは、いざとなれば武力を用いてでも自分が次代の薊侯となる、というものであった。
そうはならぬと思いながら、しかしそうなってしまった時には腹を括るのだと覚悟を決めて劇迴、辛明の二人に宣言した。
しかしいざそうなる、やはり心の中に揺れ動く心がある。
孝行者であることを貫いて国人の血を呑むか。
あるいは、国民のために不孝者という名の泥濘を進むか。
どれだけ心を固く決めたつもりでも、いざその決断の場に直面すれば、逡巡するなというほうが無理な問題である。
もしこの先、利幼が薊侯となって善き政治を行えば、父を恫喝した愚挙さえも美談となるだろう。
しかしその治世に翳りが起こり、国難に瀕すれば、父を脅して君主となった不孝者には、それに相応しい末路があるのだと悪罵されるに違いない。
その時に利幼の脳裏に思い浮かんだのは、かつての姜子蘭との対話である。
姜子蘭は利幼よりも若い身でありながら、保身よりも薊国のことを一義に思う気持ちはあるのかと問いかけた。利幼は、怯えながらも薊国の名誉と百姓のために生きると口にした。その言葉を虚言にしたくないと――懊悩する利幼の最も深いところにある心はそう叫んでいた。
そして、断崖に身を投げるが如き覚悟で、父の言葉に――二人の兄を解放し、所領を返せとの言葉に答える。
「お断りいたします」
「……何?」
姜仲繪は愠色を見せた。しかし利幼は、背筋に震えを覚えつつもそれを隠して毅然とした態度を取った。
「確かに父上の通り、徳は武威よりも勝りましょう。しかし二人の兄に大徳があれば、私がいかに苛烈なる武威や策略を有していたとてそれに屈するはずはありますまい」
「――なんだと?」
「お諦めください、父上。我ら不肖の三人には有徳の子はいなかったのです。力によって他者の上に立つは次善なれど、最善を選べる者がいないのであれば次善に長けた者が上に立つほうが薊国のためになりましょう」
利幼は進み出て姜仲繪に近寄った。既に覚悟を決めた利幼の顔には真に迫るものがある。
しかし利幼には、あくまでも穏やかな形で父から君位を譲り受けたいという気持ちがあった。そのための論法を考えて口を開く。
「父上が私を太子としていただけぬのであれば、私は望諸、列亢、僖陽の地とその兵を合わせて薊侯となるつもりでございます。それをなさば我が名は不孝者で野心家と史書にその悪名を残しましょう。なれど――その端となった父の名もまた、愚かな侯であったと記されることでございましょうな」
故事を好み、過去の聖人君子を好む者は、自分にとって不名誉なことを最も厭う。それだけに利幼の言葉には心を揺さぶられた。
もっとも、これが姜仲繪の恐ろしいところでもある。三公子を争わせることを廷臣が名誉や故事を引いて説いても姜仲繪は聞き入れなかった。姜仲繪はそれを不名誉だと思っていなかったのである。
姜仲繪にとってはこの戦いの果てに次代の薊侯になる子は間違いなく名君となり、その子を選んだ自分の名もまた名君として高まると思っていたのである。
かつて盟主として諸侯の上に立ち、虞を救うという大功を立てて名君になろうとした。
それが叶わず、もはや老齢に差し掛かった身で、自分の功績では後世、その名が史書の中に埋没すると焦った姜仲繪は、名君の父という形で名を残そうとしたのである。
しかし利幼はどんな手を使ってでも薊侯になる肚であるらしい。そうと分かった時、姜仲繪の浅はかな目論みは消え去ったのだ。
そう思うと、くだらぬ名誉欲にかまけて数多の臣民を戦火に巻き込んだこの老君主は、いっきに精気を失ってしまった。
「……そうか。わかった。そのようにしよう。今日より、利幼を太子として定める」
姜仲繪は頷き、正式に竹簡にその胸を記させた。
記させた、というのは、そうと決めた姜仲繪は急激に全身から力をなくし、筆の重みにも耐えきれぬほどの弱々しさだったので、近侍の者が代筆したのである。
この書簡そのものは私的なものであるが、しかし薊侯の印璽が押されているものであり、効力としては十分である。後日、朝議の場で利幼がこの書簡を示し、姜仲繪がそれを認めれば晴れて利幼は正式に太子と認められるのだ。
余談ながら姜仲繪は、利幼を太子として認めてからは朝議に出ることはなく、後宮に引きこもって酒浸りの生活を過ごし、半年後に薨じたのであった。