姜仲繪
盧武成が僖陽城内になだれ込んだころ、ようやく状況を聞きつけた子伯異が兵を纏めて駆け付けた。
僖陽の会戦に多くは動員されているがそれでもまだ城内には千を超える兵がいる。そのうち、武器を捨てて降った者を除いても、盧武成の率いる夏羿族よりも多かった。
「公子を解放し、降伏しろ。お前らは夏羿族のようだがその実は利幼公子に雇われた者であろう。こちらに降るのであれば利幼から得た報酬の倍をくれてやるぞ」
子伯異は弓兵に矢を番えさせながら叫ぶ。主君を人質に取られていながらその顔は少しも臆しておらずむしろ強気であった。
――恫喝して生死を選ばせるのではなく、損得を提示して交渉するか。なかなか頭の切れる御仁のようだ。
流石は一国の左丞相よ、と盧武成は胸中で感心していた。下手に脅かして敵に決死の覚悟をされてしまえば自陣の被害が大きくなる。それよりは取り込んでしまえばいいと子伯異は考えたのである。
「子左丞相どのよ。その申し出は有り難く思いまする。なれど――すでに、我らがこの城から得るものはござらぬ。いいや、もう間もなく無くなることでしょう!!」
盧武成は獣の咆哮のように声を張り上げながら、その言葉に敬意を込めて返した。
子伯異がその意図に気づいた時には、僖陽城内のあちこちから黒煙が上がっていた。それらはすべて糧食庫のある場所からである。
山岳地で過ごす夏羿族は馬の扱いに長けており、同時に健脚でもある。盧武成は特に快足で軽捷の者を選りすぐって平服を着させ、城内に複数ある糧秣庫に向かわせて火を着けさせたのだ。
「さてどうなされる、子左丞相よ。ここで練孟を見殺しにして我らを殺し、兵糧も援軍もない城で籠城するか? それとも潔く下って、次なる薊侯の慈悲に縋るか!!」
次の薊侯、という言葉を盧武成は特に強調した。ここで抗ったところで無駄な抵抗としか思えなくなったからである。子伯異は観念して兵に武装を解かせ降伏することを決めた。
こうして、僖陽城もまた利幼の物になったのである。
遼平の戦いから三日後。
薊国の首都、甲燕にて利幼は父たる薊侯と相まみえた。その横には縄目を受けた練孟と岸叔がいる。二人にすればこの上ない屈辱であった。
首座に座る薊侯――姜仲繪は自身の息子の内二人が縛られているという状況でるにも関わらず、悠然と首座のひじ掛けに左手を置き、右手で白髪ひげを撫でている。顔には皺が目立つやや痩せぎすの彼は、まるでこの状況を楽しむようにしわがれた声を出した。
「利幼よ。それに、練孟に岸叔よ。久しいな。兄弟三人揃ってこの父に年の瀬の挨拶に参ったか?」
三公子の争いは姜仲繪が仕掛けたことであり、白々しい台詞である。しかし利幼は虚礼と自覚しつつ丁寧な所作で頭を下げた。
「如何にも、挨拶に参りました。なれど練孟、岸叔の二人の兄上はその慶賀を祝う気はなく薊国で無用の擾乱を引き起こしております。すでに百姓らは騒然とし、これから薊国はどうなるかと憂慮して年が明けるのを喜ぶことさえ出来ません」
「ほう、それはいかんな。どのような年であれど、苦しみを耐えて明けてしまえば慶事があると思うからこそ百姓はそれを祝う。然るに年の瀬に起きた凶事が年を跨ぎ民心を昏くさせるのは君主としての不徳である」
姜仲繪はもっともらしいことを口にする。いや、姜仲繪は心の底からそう思っているのだ。
しかしその言葉に反して、姜仲繪の言動こそが薊国の行く末に翳りを生じさせているのだ。だが姜仲繪はそのことに気づいていない。
子として、公子として、そのことを諫めたいという気持ちが利幼にはあった。しかし先にそれをして受け入れられなかった。また同じ轍を踏むよりは、この場で自分が君主となることを認めてもらおうと利幼は強く思った。
自分に善き君主たる素質があるとは思っていないが、それでも父や二人の兄が薊国の長であるよりはましだろう、という程度の自負はある。
「なれば父上――この場で、私たち三人のうち、誰が父上の後を継ぐのかをお示しいただきたい」
利幼は語気を強め、顔を強張らせて聞いた。床に膝を突き、両手を合わせているのだが、その丁寧さのまま恫喝するように目に力を込めて姜仲繪を睨みつけた。
しかし姜仲繪は、この故事好きで老獪な君主は少しも動じていない。それどころか、幼子を諭すような柔らかさを含んで利幼に聞いた。
「ふむ。ならば利幼よ。お前は、誰を太子に選べばよいと思う? 先にお前は二人の兄のどちらが君主となってもその治世を輔翼すると言ったが、その気持ちは今も変わらぬか?」
利幼は思わず言葉に詰まった。しかしその時に利幼の脳裏に浮かんだのは遼平の戦いで死んだ将兵たちの顔である。彼らは利幼の檄に応じ、自分が生きることこそが薊国のためと信じて奮戦してくれた。ここで退けば彼らの気概を踏みにじることになる。
「いいえ。今は、二人の兄上には薊国の行く末を任せてはおけぬと思っております。そして今、こうして二人を捕らえて参ったことで私の力量もお示しいたしました。どうか――私を太子にしていただきたい」
父にここまでの強弁を向けることは、利幼にとっては戦場で戈矛や矢の雨に身を晒すことよりもずっと勇気が必要であった。それでも利幼は歯を食いしばり、腹の底から声を引き絞ってそう宣言したのである。
しかし姜仲繪はそんな勇気など歯牙にもかけていない。それどころか、利幼のことなど気にせずに練孟と岸叔のほうを見た。
「利幼はこう言っておるが、おぬしらはどうじゃ? 余の次の薊侯に利幼が座るのを認めるか?」
そう聞かれれば練孟、岸叔が素直に諾と言うはずはない。二人は利幼に対してあらん限りの罵倒を尽くした。利幼としても反論したくはあったが、口を開こうとすると姜仲繪がそれを制したのである。
曰く、お前はすでに言い分を尽くしたのだから、兄らの言葉にも耳を傾けろと。
そして――半刻(一時間)にも渡る二人の言葉を聞き終えた姜仲繪は、利幼に穏やかな目線を向けた。
「利幼よ。真に善き君主とは力ではなく徳によって人の上に立つものだ。お前は巧緻に長け、武威に優れていたかもしれん。しかし名君となるに最も重要な徳が欠けており、二人の兄に縄目をかけることは出来ても心服させることは出来なかった。ならばそなたに太子たる資格はない。二人の兄の縄目を解き、得た地を返し、再び薊国のために競うがよい」
その言葉に利幼は唖然とした。暫くは、あまりの騃言にどう返していいかさえ分からずにいた。