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春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
公子三人
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陰中有徳

 子狼は盧武成に、練孟が敗走すればこれを追うようにとあらかじめ命じていた。

 しかしその際に、道中で練孟を捕らえず、奇襲をして逃げ足を速めるようにと言っておいたのである。

 盧武成からすれば不可解な指示であり、当然ながら反論した。逃げ道に先回りして兵を伏せておき捕らえるほうが手早いではないかと思ったからである。

 だが子狼に言わせてみればそれは違うのだ。


『厄介なのは僖陽という堅城だ。ここで勝ち、練孟を捕らえればおそらくは薊侯は利幼公子を太子と認めてくださるであろう。だが――そうはならぬかもしれない』

『お前の懸念はなんだ? 三公子に争わせ、二人の公子を虜囚とすれば、利幼公子が太子となるのが道理であろう』

『ああそうだ、それが道理だ。しかし忘れるなよ武成。そもそもは薊侯が、まともな君主が有しておるべき道理を持たぬが故に、薊国に無用の擾乱が起きているのだということをな』


 そう言われては盧武成としても返す言葉がない。既に理知ある者には思い及ばない奇想を実現させている薊侯にまともな考え方が通用すると思うほうが危険なのである。


『故に利幼公子には、望諸、列亢、僖陽という三つの要所を抑えておいていただかねばならない』

『……お前は、どこまでも非凡な男だな』


 盧武成は思わず慄然として体を震わせた。子狼の意図を察したからである。

 もし薊侯がこのまま利幼を太子として認めるならばよい。しかしそうならなかった時には、利幼がここまでに得た軍勢と要地をもって薊侯を恫喝するもやむなしと暗に告げているのである。かつて君主たる姜子蘭に徳を説いたのと同じ口で、君主に誤りあれば恫喝してでも国君となるための方策を仄めかしているのだ。


『まあ、そんなことはないに越したことはないんだがな。そして、そうなったとしてもその時に利幼公子がどうなされるかまで容喙するつもりはないさ』

『お前は、我が君に直接は関わらぬ他国のことと思って随分と気楽に言うのだな』

『なんだよ。そりゃ心外だぜ武成。俺は確かに腹黒く陰謀と策略が骨の髄まで染みたような男だがな――自分の主君に進言できぬことを他人に勧めるほどの人でなしじゃないぜ』


 子狼は快活に笑っている。

 つまり子狼は、必要とあれば姜子蘭に、その親、つまり天子を武力と勢力によって脅迫することさえ進言するということだ。

 そう思うと一瞬だけ子狼が恐ろしく思えたが、しかし冷静になって考えてみれば、そもそも盧武成自身、天子の威光とか朝廷の権威というものは大嫌いなのである。盧武成が姜子蘭に臣従しているのはあくまで姜子蘭という君主に仕えているに過ぎず、その後ろにある天子や朝廷にひれ伏しているわけではないのだ。

 そしてもし、天子が理不尽を姜子蘭に強いて、姜子蘭が天子と争うことになれば、盧武成は一片の迷いもなく天子とその兵を相手取って武器を振るうことだろう。それを悪逆だとは思わず、むしろ使命に燃えながら戦い、死力を尽くして姜子蘭にとっての最善を手繰り寄せることだろう。そう思う自分の心に疑いは微塵もなかった。

 そういう点で、自分と子狼の性情は似ているのだと盧武成は思い知った。

 異なるところと言えば、子狼は力を振りかざして戦わずに自分の意を通すことを悪と思っていないということである。盧武成はそれを悪であり陰湿だと思っているが、しかし激突して勝ち取ることは悪と思っていないということだった。


 ――しかし、軍の指揮者、百姓の統治者という観点からすれば俺よりも子狼のほうが正しい。


 子狼は、自らは悪徳を背負うが、その代わりに無用の争いを避けようとしている。

 そして盧武成は、正々堂々という大義を掲げながら、血で血を洗う決戦を否定していないのだ。

 そう考えると盧武成はふと、


『……お前は、君子であり徳者だな』


 そう口にしていたのである。それは小さな呟きであり、子狼の耳には届かなかった。

 子狼はなんと言ったか聞き返したが、盧武成は照れくささと愧ずかしさもあって言いなおすことはしなかった。


『気にするな。それよりも、策は承知した。我が君と利幼公子のために、必ず僖陽城を落としてくる』


 これが、遼平の戦いの前夜の話である。

 そして盧武成は子狼の下知の通り、逃げる練孟に奇襲をかけつつも寸でのところで逃げられるように手を緩めた。

 練孟は生きた心地はしなかったが、それでも必死に戦車を走らせて、旭日が東の地平をうっすらと白めたくらいの時刻に、どうにか僖陽城が目と鼻の先にあるというところまで逃げ延びたのである。

 あと十度も馬に鞭打てば僖陽城へ駆け込めるというところまできた。練孟を取り巻く兵は、五乗の戦車に乗る二十人にまで減っていた。

 その時である。

 背後で喚声が起きた。遠くに騎影を見たと思うと、百を優に超える騎兵が大挙して迫っていたのである。

 この時、僖陽城の城壁の上にいる兵士たちからも練孟が追われているのが見えた。迂闊に門を開けば敵がそのままなだれ込んでくるかもしれず、といって見逃すわけにもいかない。

 兵士たちはやむを得ず、門を開けて兵を繰り出した。練孟を守りつつ追手を撃退するためである。しかし他の門を守っている兵士たちと連携する時間などはなく、出撃した兵はわずかに歩兵が五百ばかりであった。

 鉄の門扉が開き、兵が出撃するその寸前になって、盧武成と率いる夏羿族は馬の脚を急がせた。これまで盧武成は敢えて追撃の手を緩めていたのである。

 しかしいざその気になればあっさりと練孟を虜囚にすることは出来た。

 戟を振るい練孟を戦車からはたき落すと、部下に命じて練孟を取り押さえさせた。そして自らは特に快足の馬に乗る三十騎とともに出撃してきた兵を馬脚にて押しのけつつ僖陽城の城内へなだれ込んだのである。

 子狼からはなるべく殺さないようにとも言われていたので、群がる兵士たちには戟の柄で打ち払った程度だが、それでも盧武成の武威を示すには十分である。

 そうして城主たる練孟を人質にして城内に押し入った盧武成は大音声で叫んだ。


「聞くがいい、僖陽城の将兵よ!! ここに練孟がいるのを見て分かる通り、すでに貴様らの主君は敗れた。次なる薊国の君主は利幼公子となるのだ。ここで武器を捨てて降れば利幼公子は寛大なる処置を下さるであろう。しかしあくまで反抗するというのであれば利幼公子の仁徳もその身命には届かぬと思え!!」


 既に城主たる練孟は囚われており、しかも会戦に敗れたらしい。そのうえ、五百の騎兵に城内になだれ込まれたとあっては士気も上がらず、兵は一人、また一人と武器を捨て始めた。

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