表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
春秋異聞  作者: ペンギンの下僕
公子三人
101/108

君主の賢愚

 利幼と練孟による薊国後嗣の地位を巡った“遼平の戦い”は、奄軍三千が壊走したことで利幼有利に傾いた。

 この戦況を見て、左軍の姜子蘭と中軍の利幼は一つの懸念があった。

 前に子狼が話したことである。追い詰められた将が兵を死や人質で恫喝して強引に死兵にするかもしれないということである。

 左軍において自分の隣にいる子狼に向かって姜子蘭は物憂げな顔をして聞いた。

 しかし子狼は、先には自分が発した言葉でありながら今は悠然としていてまるでそういう心配をしている様子がないのである。


「御心配には及びません、我が君。練孟公子がそれをするのであれば、この会戦が始まった時にするべきでございました。ですがこの期に及んでそれを用うることは出来ません。劇薬が痛みを消し、半死人を健全以上にするといっても――手足のもげた者に武器を持たせ、立ち上がらせることは出来ぬのでございます」


 子狼の言葉は、すでに練孟軍は敗北したと告げているに等しい。

 そしてその言葉は正しい。奄軍の壊走を見た練孟軍には動揺が走り、逆に利幼軍は活気づいている。その圧に耐えかねて練孟はついに、百人ばかりの供回りのみを連れて戦場を後にした。

 惨めな敗走に思える。事実、そうであることは否定できないが、練孟にはまだ希望と呼べるものがあった。

 練孟が拠点とする僖陽城は薊国随一の要塞であり、凡将が弱卒を率いても五倍の敵を相手に一年は持ちこたえることが出来ると評されるほどだ。僖陽城まで逃げ込めば利幼に手出しは出来ず、守っている間に情勢を回復させればよいというのが練孟の目算である。

 利幼もそれを分かっているからこそ、声が枯れるほどに兵を激励して練孟を追わせた。

 しかし戦場の混乱と、総大将が逃げたことによって降伏を望む兵が多く、それらの処理に手を煩わせている間に練孟を逃してしまったのである。

 夕刻になって兵を纏めた利幼の陣営で、劇迴と辛明は憮然とした顔をしていた。

 遼平の会戦それそのものは利幼の大勝利なのだが、練孟を逃がしたことが尾を引いているのである。追手を出してはいるが、それが首尾よく練孟を捕らえられるとも限らない。

 しかし子狼だけは姜子蘭の後ろで鷹揚な笑みを見せている。そして姜子蘭に小さく耳打ちをした。


「ええと、その……我が臣、子狼の申すところによりますと――明日の正午までには僖陽城は利幼公子のものとなることでしょう、とのことでございます」


 姜子蘭は、口にしながら信じられないような顔をして子狼の言葉を利幼たちに伝えた。

 何故そんなことを断言できるのかという思いのほうが強いが、しかし子狼はここまで、その手段はどうあれ利幼の状況を有利にしてきたことは事実なのである。

 子狼はまた姜子蘭を通じて、今は利幼軍の兵士らの敢闘を労るほうがよいと進言した。

 利幼としても彼らの戦いには感謝しているし、降伏してきた兵士たちにも咎めることはしないという姿勢を示して安堵させてやらなければならないと思っているので、その日は兵たちに酒を振る舞い、自ら陣中を見回って彼らの苦労に対する称賛の言葉をかけて回った。

 そんな練孟の様子を見ながら、劇迴は変わらず眉間にしわを作って苛立ちを露わにしていた。

 練孟の行方が未だ定まらぬからではない。利幼が子狼の言葉に言われるがままに動いているのが面白くないのだ。

 若き家宰の辛明は、そんな劇迴を遠目に見て胸の辺りが軋むような感覚を覚えていた。

 その横に、振る舞い酒の余慶にあずかって頬を紅潮させている子狼が現れた。


「劇将軍からすれば、まあ私のような男はさぞかし不愉快でございましょう。ですがこれは天地に誓って申し上げるのですが、私は利幼公子のことを言葉巧みに動かせる御しやすい人であるなどとは思っておりませんぞ」

「はい、それは承知しております。ですが……」


 辛明は弱々しい声を吐いた。兵士を慰撫すべきであるという子狼の言葉は正しいのだが、利幼があまりに他者の言に従順すぎるのが辛明には不安になるのだ。そんな悩みを子狼は見て取った。


「ま、君臣の在り方というのは難しいものでございます。臣下に賢人が揃い、君主は英邁さに乏しくとも善悪の分別がつく御方であれば、ひたすらに臣下の言いなりであった形だけの人物と余人の目には移りましょう。といって、万事に精通し一から十までを独裁するような君主であれば、ひとたび大過を犯すと、諫言に耳を貸さずに国を危うきに陥らせた暗君ということになりますからな」


 子狼は回りくどい言い方をして利幼を褒めた。分かりにくくはあるが、これは称賛なのである。

 そして、短いながらに子狼の気質を分かっている辛明はその言わんとすることを察した上でなお顔色を沈鬱の色で染めた。


「利幼公子が次代の薊侯となられればおそらく辛氏が丞相となられることでしょう。利幼公子がどのように評されるかも辛氏にかかっているということでございますよ」


 子狼は辛明の心を見透かしたように言った。辛明として自分が丞相になるとまでは思っていないが、それでも臣下の在り様次第で利幼の見られ方が変わるということを思うと、巨岩に組み伏せられたような重圧を喉と胸に感じずにはいられなかったのである。


「まあ、利幼公子は人を見る目に間違いはないと思われますので、辛氏は与えられた地位を拝命して尽力されるがよろしいかと思いますぞ」


 重圧をかけているような言葉は、子狼なりの激励である。辛明は困ったような顔をしながら、兵士たちの間に飛び込んで振る舞い酒を飲みに行った。

 そして、次の日。血で染まった遼平の野を照らす太陽が天頂に届くかという頃、一騎の伝令が利幼の陣に駆けこんだ。

 その報告によれば子狼の言葉の通り、僖陽城を攻め落としたとのことである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ