東遷前夜
「虞朝起こる。姜姓の国なり。
時に焱朝天下を治むる。焱朝は姫姓の国なり。焱の紂帝、暴虐を尽くし天下尽くこれに叛く。
東に虞国有り。君主は姜猷なり。姜猷、紂帝の暴虐に天下の民の嘆くを知り、兄弟と諸侯とを率いて征西す。赫泉の野にて焱朝を破る。
諸侯、姜猷に天子にならんと望む。姜猷、三度辞した後にこれを受く。これ虞朝の始まり也。
姜猷、兄弟と諸侯を大陸に封建す。凡そ今の大陸において姜姓を持つものは皆虞朝の縁者なり――」
薄暗い室である。
青年は竹簡を卓上に置き、それを読んでいた。
その横にある牀には幼子が白布にくるまれて心地のよさそうに横たわっている。そこへ、一人の壮年の男がやってきた。この家の主人であり、幼子の父である史文である。おだやかな顔をした、線の細い学者肌の人物だ。
「さすがに、まだ生まれて間もない赤子に『虞史』は分からないだろう」
史文は苦笑した。しかし青年は一礼すると、真剣な顔をした。
「人というものは存外、物ごころがつく前のことや母の腹の中にいた時のことを覚えているものです。いや、覚えているというよりは、そういった時に見聞きしたものもその人を形づくるための一助になる、というべきでしょうか」
「ほう、そういうものか」
「少なくとも私はそう思っております。真偽は分かりませんが、若君の養育を任された身としては、その成長に役に立つと思うことはなんでもしたいと思っております」
青年は史文の家臣であり、史文の子――史錬の傅でもある。
といって、錬はまだ生まれたばかりであり、史文としては成長したら教育してほしい、というつもりで頼んだのだが、この若い家臣は日夜、錬の下に訪れてはあれやこれやと書を読み聞かせていた。
「そう言ってくれるのはあり難いことだ。私は善き家臣を持った。錬も幸せであろう」
「いいえ。この子は、人並みの幸福というものを得ることは出来ないでしょう」
青年は不吉なことを言った。
それは呪詛のような言葉であるが、史文は咎めなかった。むしろ、そのことに自覚があるようで苦々しい顔をした。
「お前は本当に聡いな。それでこそ、錬を任せられるというものよ」
改まった態度でそう言うと、史文は家臣の前に座った。
この大陸には今、虞という王朝がある。四百年の昔に天下を治めていた焱王朝に悪逆の王が生まれ、虞王朝の開祖である姜猷――武王と諡された人が焱を倒して建てた王朝である。史文は当代の虞王――姜転の異母兄であり、虞の史官であった。
史文の史は氏であり、姓名の話をするならば姜文となる。年長の王子でありながら母の身分が低いがために史文は太子にはなれなかった。
さて、史氏は代々史官を司る家であり、しかも姜姓である。折しも史家に後嗣がなく、しかも史文は聡明であったので、後継問題を起こさないためにと養子に出されたのだ。
虞王朝の治世は大過なく続いていたが、それは姜転より以前の話である。
姜転は酒に溺れ、女色に耽り、政務をないがしろにしていた。
姜転の寵姫に夏娰という女性がいた。絶世の美女であり、彼女に入れ込んだ姜転は何から何まで夏娰の言いなりになり、ついには夏娰との間に生まれた子を太子に立てて先の太子を廃嫡してしまったのである。
先の太子は字を孟発といい、その母は西方の諸侯、秦の公女であった。秦は虞建国の功臣の末裔であり、虞の治世を長く支えた国である。その娘の生んだ子が不当に廃嫡されたとあって、秦は大いに怒った。
秦は西にあって不穏な計画を企んでいるらしい。しかしそういった報告を姜転は無視し続け、後宮での夏娰との交わりに溺れた。
――虞王朝の命数はいよいよ尽きようとしている。
史文は朝廷にあってそんなことを思っていた。
史官は文字通り、歴史に携わる官職であり、政治には関与しない。しかし史書を読み、日々の朝廷での出来事を記している立場であれば、あちらこちらで起きる様々な事件に亡国の兆しを見て取っていた。
このままでは、虞朝滅ぶ、という一文を自らの手で書くことになるかもしれない。
その覚悟を胸に抱えて今日まで生きてきたのである。
「若君のことは私にお任せください。どうか我が君におかれましては、悔いなく王兄としての責務を全うなさいますように」
「王兄の責務ときたか」
主人に厳しい家臣だ、と史文は思った。
史文としては、自分は史官であるという想いが強い。史書に携わる者が最も念頭におくべきことは、述べて作らず、である。私見を挟まず、独断を容れず、偽りを書かず、事実のみを粛々と書き綴る機構であるべきだという考えだ。
亡き養父からそう教えられ、今や史文は最後まで虞の史官として生きねばならぬと心に決めていた。
だから史文は、この先何が起ころうとも虞王朝の動乱の中に身を置き、最後まで渦中に立ち入ることなく事実を史書に残すことこそが己の為すべきことだろうと考えていたのである。
しかしこの家臣は王兄――時の如く王の兄としての責務を果たせという。
当然ながら、その王朝が滅亡の危機に瀕すれば王族はその滅びを避けるために尽力するべきである。史文も乱の中に身を投じ、虞王朝が存続できるように戦うべきである、とこの若い家臣は言っている。史文が史官として生きようとしているのを諫めたのだ。
「しかし、一介の史官である私に何が出来るであろうか」
「燃え盛る炎の中に飛び込むだけが勇気ではありません。火の弱いところにあるものを手にして逃がすことも勇気です。王朝というものが血と姓によって主催されるものであれば、我が君はそれが絶えぬように努め、遠方から火が静まるのを待てばよろしいでしょう」
つまり、公子の誰かに近づいて王都から逃がせばよいということである。
今の虞都吃游と姜転を諦め、秦が攻めてきたら王子を逃がして雌伏し、ほとぼりが冷めた時に虞を再興するようにとの献策である。
史文はその策に従い、次の日から王子たちに接近しはじめた。
同時に、私兵を密かに集めて有事に備えることとした。しかし、その備えが実るより先に変事が起きた。秦が西方の戎、顓と組んで吃游に攻め入ったのである。
史文は最後まで吃游で奮戦し、凶刃に倒れた。しかしこの奮戦のおかげで、王子の一人、姜寒を東へ逃がすことに成功した。姜寒は吃游から東に百二十里(約六十キロ)離れた虢の地に留まり、ここを新たな虞王朝の都にすると宣言し虞王を名乗った。
これが世にいう虞の東遷である。
そして、吃游が秦と顓の兵に攻め滅ぼされた日の夜。
史家の家臣であり、史練の傅たる青年は岐山の山嶺から吃游を見下ろしていた。
岐山とは吃游の東方にある山であり、かつて悪逆なる焱朝を打ち倒した虞の武王はこの地で諸侯の盟主として誓いを交わしたとされている。
遠い昔、武王が天下の信頼と輿望を集め、大義を掲げて見下ろしていた光景は、今では薄暗い闇の中でいくつもの戦火が舞い踊っている。顓と秦の兵は吃游に火を放ったのだ。
「興りては滅び、滅びから新たなるものが生まれる。終あれば始あり、天の行わるるなり、だな」
昨日まで住んでいた城市が炎に包まれ、主人が死んだというのに青年はひどく冷淡な声をしていた。その腕の中では史練が声をあげて泣いている。幼いその顔を青年はじっと覗き込んだ。
しかし、真っ赤な顔をさらに赤く染めながら喚く主家の赤子を見て青年は思う。
――やはり、他人の顔などまじまじと観るものではないな。
そう思い、青年は視線を空に向けた。地上の血なまぐさい争いを見下ろして笑うように、群青色の夜空には無数の星が煌々として健在であった。
「虞王朝の命運は未だ尽きていない。しかし北方、南方、東方にて覇が起きる――か」
星見の知識もある青年は、天の彩る兆しを眺めながらこの大陸でさらなる動乱が巻き起こることを見て取った。
無論、星見とはそこにこの世のすべてを描くわけではない。
天下の春秋をまるで定まりきったことのように示しながら、時に起こり得ぬ異聞をも地上の人々に照射する夜の陽炎のようなものでもある。されどこれから世が乱れる。そのことだけは間違いないであろうと青年は思った。
後の史書に虚王二十六年と記されるこの年――虚王姜転は顓によって弑され、虞は望まぬ遷都を余儀なくされた。