方舟の島②
教祖は自己紹介を始めた。
「私は「方舟の会」の教祖をしています神薙國男です」
海斗は慎重に口を開いた。
「ボクは蒼井海斗といいます。青ノ島から来ました」
「ホホ―ッ、青ノ島から……この島に何しに来たのかね?」
「青ノ島の村長の手紙を九条島の村長へ届けに来ました」
教祖は鼻をフンと鳴らし、嘲笑する。
「村長どうしで連絡し合ったところで、どうなるものでもないだろう。日本の政府は大洪水で消失した。日本国はもうないのだ。頼れるものは神しかいないのだよ」
「九条島の村長に会いましたが、こんな場所があるとは聞いていませんでした」
「当然だ。この方舟は、選ばれし者のためのものだからな」
教祖は、じっと海斗の目を見据えた。
「まもなく神の裁きが落ちる。人類はそれで選別されるのだ」
教祖は低く、よどみのない声で言った。
「前回の大洪水は、ほんの序章にすぎない。この世界は堕落した。人類は我欲を貪り、罪を犯し続けた。その結果、神の怒りが大洪水となったのだ。そして今、さらなる裁きが訪れる。方舟に乗れるのは、神の意思を信じて選ばれし者だけが救われるのだ」
海斗は視線を逸らさずに言葉を返した。
「三年前の大洪水は天災ではなく、人工的に引き起こされた気象兵器による人災でした。大洪水を神の裁きと呼ぶには……少し無理がある気がします」
教祖の顔から笑みが消える。
「私の予言を……疑うのかね?」
「いえ、そういうわけでは……」
淑恵が一歩前へ出て、海斗の肩に手を置く。
「教祖様は、あなたに『方舟の会』に入ってほしいと思ってらっしゃるのよ」
淑恵の忠告に、海斗は静かに頭を振る。
「……僕には、助けなければならない人がいます。申し訳ありませんが、入信するわけにはいきません」
教祖は海斗を睨んだ。
「私の誘いを……拒否するのか?」
その言葉は、警告に近いニュアンスがあった。
「入信しないと……大変なことになるわよ」
海斗の耳元で、淑恵が囁く。
「……僕は東京へ行かなくてはなりません。ここで失礼します」
神薙は鼻先で笑った。
「フン……ここから出られるとでも思っているのか」
そう言って、隣のサイドテーブルからワイングラスを取り上げ、赤く澄んだ液体を口に含み、ゆっくりと笑う。
「失礼します!」
海斗は踵を返し、部屋を出ようとすると――
その瞬間、背後から鋭い衝撃が後頭部に叩きつけられた。
「うっ!……」
視界が歪み、足元が崩れ落ちていく。
床に倒れこみ、意識が遠のく。
倒れ込んだ海斗の視界の先に、顔を覗き込む淑恵の姿が映る。
美しい顔は微笑みを浮かべていたが、その目はどこまでも冷たかった。
「……だから、注意したのに」
海斗の意識は、闇の中へと沈んでいった。
――海斗が目を覚ますと、そこは牢屋のような場所だった。
コンクリート造りの部屋の中は暗く、湿っており、簡易ベッドと洗面台と便座が見える。
鉄製の分厚いドアは鍵を閉められ出ることはできない。
彼は監禁されたのだ。
外からは信者たちの祈りの声がかすかに聞こえてくる。
「おーい!ここから出してくれー」
海斗は助けを呼び、何度か扉を叩いたが、誰も応じる気配はなかった。
彼は壁にもたれかかり、どうすればよいのか思考を巡らせていた。
どれほどの時間が経ったかわからない。
腹の虫が鳴る頃、鉄の扉の下部にある小さな窓が開いた。
「ん?」
開いた窓からプラスチック製のトレイが滑り込んできた。
上にはパンとスープが乗っている。
「……ご飯です」
か細い少女の声が聞こえた。
海斗は小さな窓に顔を横にして突っ込んで叫んだ。
「頼む!ここから出してくれ」
薄い青色の法衣を着た少女の足が見えた。
「私は食事を運ぶだけなので……」
「助けてくれ!ボクは東京へ行かなきゃいけないんだ」
「ご、ごめんなさい……」
少女はその場を走り去っていった。
「おーい!助けてくれー」
海斗の叫びは空しく廊下へ響き渡った。