方舟の島①
海斗はボートのエンジンを吹かしながら、九条島の岸へ向かっていた。
九条島は青ノ島から約70キロメートル離れている。
島には二つの大きな山があり、晴天の空に輪郭がくっきりと見えた。
ボートが港に近づくと、島民たちが数人、桟橋に立っていた。
海斗のボートが桟橋につくと、日焼けした年配の男・古賀が声をかけてきた。
「お前さん、どこから来たんだ?」
海斗は一礼して答えた。
「青ノ島から来ました」
「ここまでボートで来るとはな。何しに来た?」
「青ノ島の村長に頼まれて、手紙を届けに来ました」
「そうか、それはご苦労な事だ。役場まで連れて行ってやろう」
「ありがとうございます」
海斗はボートを桟橋に繋ぎ、古賀が運転する軽トラックに乗って役場へ向かった。
「この島にはバグは来てますか?」
「ああ、時々な。一頃よりは減ったかな。本土から離れてるから、そんな数は飛んでこないな」
「青ノ島もほとんど飛んでこないですね」
「バグより大洪水の方が被害は大きいな。連絡船も沈没しちまった」
「じゃあ、本土との連絡は途絶えてるんですか?」
「ああ、残った船で何度か本土まで行かせたが、帰ってこないな」
それを聞いて、海斗は黙り込んでしまった。
自分がこれから行こうとしている場所は生きて帰れないかもしれないと思うと、身震いがした。
やがて、海斗の乗った軽トラックは村役場に到着した。
役場の中に入ると、そこには九条村の村長が待っていた。
七十代半ばで、白髪混じりの髪を後ろで束ね、深い皺を刻んだ顔が厳格な印象である。
「九条村の村長の白川と言います」
「蒼井海斗といいます。青ノ島の村長から手紙を渡してくれと言付かりました」
海斗はポケットから封筒を取り出し、白川村長に渡した。
白川は封を切り、中の手紙に目を通す。
各島の村長様へ
拝啓 皆様のご無事をお祈り申し上げます。
私たちの世界は、パンデミックと大洪水により都市が廃墟と化し、国家も崩壊する未曾有の苦難に直面しています。このような状況下で、島ごとに閉じこもるだけでは生き延びることが難しくなっております。
我々青ノ島も厳しい状況にありますが、なんとか自給自足を続けています。しかし、これからの苦難を乗り越えるためには、互いの協力が不可欠です。物資の融通や知恵の共有、人の往来を通じて助け合い、この苦境を共に乗り越えられればと願っております。
未来への道は険しいものですが、共に力を合わせれば必ず道は拓けると信じています。どうか、ご協力をお願い申し上げます。
敬具
青ノ島村長 谷中正芳
白川は、ゆっくりと顔を上げた。
「手紙をありがとう。本土からの連絡は、もう長いこと途絶えています。大洪水を受けた後、なんとか立ち直りつつあるが、島民たちは将来を案じています。政府が機能していない今となっては、谷中村長の言う通り、島どうしの協力を強化していくしかないと思います」
「白川村長、お願いがあるのですが、ボートの燃料を分けていただけないでしょうか」
「ああ、他の島にも行ってくれるなら協力しましょう」
「ありがとうございます!」
海斗は礼を言って、持ってきたポリタンクに軽油を入れてもらった。
夕暮れ時、海斗は港でボートに燃料を補給していた。ひんやりとした潮風が吹き抜ける中、背後から声がかかった。
「青ノ島から来たの?」
振り返ると、一人の女性が立っていた。二十代後半の美しい女だった。
長い黒髪を後ろで束ね、淡い紫色の着物のような服をまとっている。
「はい」
「もう日が暮れるわ。うちに泊まっていきなさいよ」
海斗は女の誘いに戸惑った。
「旅館の方ですか?」
女性は微笑んだ。
「まあ、そんなとこね」
海斗は少し考えた。夜の航行は危険なので、この島で泊まり、明日の朝に出発した方がいいだろう。
「この島で一泊していこうと思います。よろしくお願いします」
「私は神薙淑恵。よろしくね。ついてきて」
そう言って、淑恵は海斗を案内した。
道を歩くにつれ、村の家々は少なくなり、やがて二人は山道へと入った。
木々が生い茂り、辺りは薄暗くなっていく。
「ずいぶん山の中にあるんですね」
「もうすぐ着くわ」
海斗は訝しんだが、淑恵は気にせず先へ進んでいく。
しばらくすると、木々の間から異様な光景が現れた。
そこには巨大な木造の方舟があった。
暗闇の中にそびえるその姿は、まるで神話の世界から抜け出してきたかのようだった。
「これは……?」
「方舟よ」
淑恵は、方舟の入り口へと進んでいった。
海斗が後を追って中に入ると、すぐに異様な気配に気づいた。
方舟の内部には、檻に入れられた動物たちがいた。鳥や犬、猫、さらには山羊までが並んでいる。
「ノアの方舟は知ってるわよね?」
「ええ……」
「もうすぐやってくる大洪水に備えてるのよ」
「また……大洪水がくるんですか?」
「教祖様に聞くといいわ」
淑恵は扉を開けて、海斗を教祖の部屋へと導いた。
松明の炎がゆらめく薄暗い部屋の奥に、紫の法衣をまとい長髪で髭面の男が豪奢な椅子に座っていた。
「ようこそ、方舟へ」