廃都
海斗は無言でボートの舵を握りしめていた。
エンジンの音が、沈黙に支配された東京湾を響き渡る唯一の存在だった。
彼の視界に広がるのは、かつて世界有数の大都市だった東京の変わり果てた姿だった。
防毒マスク越しにも、潮と腐敗臭の入り混じった嫌な空気が肌にまとわりついてくる。
水面は重く淀み、黒ずんだ波が鈍くうねるたび、ひび割れた高速道路の橋脚や、崩れた建築資材が水面に浮かんでいた。
この場所は、まさに“死の都”だった。
海抜九十メートル以下はすべて水没し、今では高層ビルの上層部だけが海面から顔を出している。
それらはまるで骸骨の骨のように、灰色の空へと虚しく突き出していた。
ガラスは砕け、鉄骨はむき出しになり、時折、ビルの内部からは風が吹き抜け、まるで都市そのものが呻いているかのようだった。
海斗はエンジンを絞り、ボートを漂わせた。
双眼鏡を取り出し、ビルの残骸を観察する。
ビルの壁面には無数の青白い塊がびっしりと貼り付いていた。
それらは一メートルほどの大きさで、表面は半透明、内部には不気味な影が蠢いていた。
体液らしき粘液がじわりと染み出し、時折、泡立つように脈動している。
「……これがバグの卵か?」
思わず海斗は呟き、心臓の音が高鳴った。
目を凝らしていると、そのうちの一つがプツンと音を立てて破裂した。
固い繭のような表面に亀裂が入り、殻が割れて、中から茶色な幼虫がずるりと這い出してくる。
ねっとりとした体液を滴らせながら、卵の殻から這い出てくる。
幼虫は急速に成長を始めた。体表が硬化し、黒光りする外骨格へと変わっていく。
赤い複眼が妖しく光り、開いた口元から鋭い牙がのぞく。
「……成長が早いな」
海斗は息を呑んだ。
孵化したビッグバグは、身体をバタつかせると、羽を少しづつ広げていった。
その羽は薄い膜状で、陽の光を受けて虹色に輝いている。乾燥を終えると、ビッグバグは低く唸るような羽音を立て、空へと舞い上がった。
あちこちの卵が次々と弾け、中から同様の幼虫たちが這い出しては成長し、羽ばたいていく。やがて空は、無数のビッグバグで覆われ始めた。
群れは旋回し、隊列を組み、秩序だった動きを見せる。
「この街はビッグバグに乗っ取られている……」
海斗は背筋が寒くなった。
東京はもはや人類の都市ではない。
そこは、巨大昆虫たちの巣窟だった。
エンジン音を絞り、海斗は静かにその場を離れた。
ビル群の隙間を縫うように進んでいると、巨大な構造物が視界に現れる。
朽ち果てた東京都庁。
ツインタワーのうち片方は倒壊し、もう片方は無惨に焼け焦げ、煤けた外壁をむき出しにしていた。
それでもなお、空に向かって突き出す姿は、都市の亡霊そのものだった。
その時だった。
低くうねるような重低音が海斗の耳に響いた。
慌てて上空を見上げる。
黒い影が東の空から接近していた。
「……なんだ?」
彼は双眼鏡を覗き込んだ。
黒い軍用ヘリだった。
「……世界連合軍のヘリか?」
その正体に戸惑う間もなく、ヘリの側面ドアが開いた。
中から迷彩服に身を包んだ兵士が現れ、アサルトライフルをこちらに向けた。
「――撃ってくるのか!?」
海斗は本能的に舵を切り、全速力でボートを加速させた。
直後、連射音が空気を切り裂き、弾丸が水面に雨のように降り注ぐ。
跳弾がボートの縁をかすめ、火花が飛び散った。
「くそっ!」
海斗はジグザグに操船し、必死に逃げる。
しかしヘリは低空を保ったまま執拗に追い続け、弾丸の雨を浴びせてきた。
弾丸がボート後方の弾薬箱に命中。
次の瞬間、爆発が起こり、バラバラに砕け散った。
「うわあああッ!」
爆風に吹き飛ばされ、海斗の身体は宙を舞った。
冷たい海へと叩きつけられ、彼は必死にもがきながら水面へ顔を出した。
上空ではヘリが旋回していたが、やがて深追いを諦めたのか、ゆっくりと上昇し、遠ざかっていった。
「……助かった……」
海斗は水面にボートの破片とともに浮いていた救命胴衣を身につけて、一息ついた。
海斗は水面に浮かんだまま、ただ虚空を見つめていた。
救命胴衣は彼の身体をかろうじて支えていたが、寒さと疲労で意識は朦朧としている。
かつて幾千万人が暮らした東京は、今や静寂の海と化していた。
崩れかけたビル群を背景に、海斗はまるで忘れ去られた漂流物のように、緩やかに、流されていった。
どれだけの時間が経ったのか。
海斗は気を失ったまま、岸辺に打ち上げられていた。
身体は重く、四肢に力が入らない。まるで全身が鉛に変わったようだった。
「……おい、生きてるか?」
誰かの声が聞こえた。
かすかに瞼を開けると、視界に鮮やかな紫の髪と鋲だらけの革ジャンが映った。片側を刈り上げたヘアスタイル、黒いリップ、そして耳に並んだ無数のピアス。
パンクスそのものの風貌の女だった。
彼女はニヤリと笑い、手を差し伸べる。
「立てるか?」
腕を掴まれ、海斗は呻きながらも立ち上がった。
あたりを見渡すと、そこには打ち上げられた瓦礫だらけだった。
「ここはどこ?」
「八王子だ」
海斗は驚いた。新宿から、そんな遠くまで流されていたのか。
「生きた人間が打ち上げられたのは久しぶりだよ。あんた、名前は?」
パンクスの女が尋ねた。
「……海斗。蒼井海斗」
「あたしは沙羅って言うんだ。よろしくな」
彼女はどこか悪戯っぽく微笑み、海斗の肩を抱くようにして歩き出した。
「ここはあんたみたいな坊やが、のんびりする場所じゃない。あたしに付いてきな」
海斗は沙羅に連れられて廃墟の街へと足を踏み入れていった。