方舟の島③
翌朝、暗がりの部屋で寝ていた海斗は足音で目覚めた。
足音の響きから少女のものだと推測できる。
彼はベッドから静かに身体を起こし、扉のそばまで、そっと歩み寄った。
息を殺して、足音に耳を澄ませた。
その足音は、扉の前で止まった。
「朝食です」と少女の声がした。
扉の下の小窓からバナナと水が乗ったトレイが差し出される。
海斗は咄嗟に跪き、窓から手を伸ばして少女の手首を掴んだ。
「は、離して!」
少女が戸惑っている声が聞こえた。
慌てて手を引き離そうと抵抗する感触が、彼の手に伝わってきた。
しかし、彼は力を緩めなかった。この瞬間しか、チャンスはないのだ。
「頼む、話を聞いてくれ!」
「痛い、離して」
「話を聞いてくれたら手を離すよ」
しばしの沈黙の後、少女の手から力が抜けた。
海斗はゆっくりと言葉を選びながら話しかけた。
「ボクは蒼井海斗。青ノ島から来たんだ。君の名前は?」
「……奈美」
「ボクはある人を助けるために東京に行かなくちゃいけないんだ。だから、この部屋から出して欲しいんだ」
奈美はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「この部屋を出るには信者になるしかないわ。それを拒否すれば拷問が待っているの」
「拷問って……」
彼は唖然とした。
「入信しないと、死ぬまで出られないの……」
「ここから出してくれ、ここで死ぬわけにはいかないんだよ」
「私は、部屋の鍵を持っていないわ。ここに食事を運んでくる事しかできないの」
「……信者になるしかないのか」
「信者になっても、ここから出られるわけではないわ。逃げても捕まえられて、“修行”と称して船を作る作業をさせられるの」
奈美の冷静な語りに、海斗はそっと手を離した。
「話してくれて、ありがとう。手を掴んで悪かった」
「また、時間になったら食事をお持ちします」
そう言って、奈美はその場を立ち去っていった。
海斗は深いため息をついた。
「どうしたらいいんだ……」
海斗は頭を掻きむしりながら、自分の不甲斐なさに苛立っていた。
ベッドに横たわり思考を巡らせていると、また足音が近づいてきた。
今度は地面を打つ硬い音が廊下に鳴り響いている。
足音が鉄の扉の前で止まった。
覗き窓から顔を見せたのは神薙淑恵だった。
「そろそろ信者になりたくなったかしら?」
海斗はベッドから起き上がり、扉まで駆け寄った。
「ここから出してください。ボクはやるべき事があるんです」
淑恵は不敵な笑みを浮かべた。
「あなたがやるべき事はここにあるのよ。この島には若い働き手が少ないからね。観念なさい」
海斗は怒りのあまり、鉄の扉を拳で叩きつけた。
「ボクは奴隷なんかじゃない!信者になんかなるもんか」
淑恵の眉間に皺がより、海斗を睨みつける。
「フン!それじゃあ、あんたには拷問じゃなくて生贄になってもらうからね!」
「生贄?」
彼女は冷たい目つきで言い放った。
「方舟を無事に作り上げるための人柱になってもらうわ」
それだけ言い残すと、淑恵はハイヒールの音を響かせて去っていった。
「何でこんなことに……」
海斗は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
夕方になって、奈美が夕食を持ってきた。
「夕食です」
扉の下の小窓が開いて、食事の乗ったトレイが差し出される。
海斗は壁にもたれ掛かったまま、ため息をついた。
「海斗さん、大丈夫ですか?」
「ほっといてくれ、もう……ここで死ぬしかないんだ」
奈美はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。
「……諦めるのは、まだ早いと思います」
「……えっ?」
「私も、いつかはこの教団から逃げようと思ってます」
「何で入信したんだ?」
「両親が、教祖に騙されて教団に入り、全財産を寄付してしまいました。また大洪水がくるという予言で恐怖を植え付けて、人の弱みに付け込んだんです」
彼女は冷静に状況を分析しており、海斗には洗脳された信者とは思えなかった。
「親子三人はバラバラで、私は毎日、食事を運ぶだけの役目――私の家族は教団によって、破壊されたんです」
「どうしてすぐ逃げなかったんだ?」
「お父さんとお母さんも一緒に教団から抜け出したいから……でも二人は洗脳されてしま
っていて、私の言う事を聞いてくれないの」
「両親を見捨てられないのか……」
「うん……」
「君は何歳なんだ?」
「十三よ」
「そうか……しっかりしてるんだな」
奈美が声を潜めて言った。
「今夜は宴会があるの。皆、お酒を飲んで油断しているから逃げるチャンスよ」
「本当か!鍵はどうする?」
「私が、管理部屋に潜入して盗んでくるわ。食事のトレイを取りに来るから、その時に……」
「うん、わかった!」
奈美が立ち去るのを、海斗は覗き窓から見送った。
「よし、腹ごしらえだ」
海斗は教団から支給された夕食を貪るように食べた。
日が暮れると、方舟の前の広場では大きな焚き火がたかれ、宴が始まっていた。
教祖の神薙國男を中心に幹部らが酒を酌み交わして、豪華な食事が振舞われている。
信者の女たちが白い法衣を揺らし、太鼓のリズムに合わせて踊った。
松明の煙が夜空に立ち上り、狂気と享楽が混じり合う異様な光景が広がる。
そんな喧騒から離れて、奈美は物陰から管理部屋へと忍び込む。
彼女は壁にぶら下げられた鍵束を見つけ、監禁部屋の鍵を手に入れた。
監禁部屋で海斗は奈美を待っていた。
そこへ走ってくる足音が聞こえてくる。
奈美は扉の前で立ち止まり、鉄の扉の鍵を開ける。
「助けてくれて、ありがとう!」
部屋から飛び出した海斗は、奈美の手を握りしめ感謝する。
「はやく逃げて」
「奈美、一緒に逃げよう」
奈美は首を横に振った。
「お父さんとお母さんを置いては行けないわ……」
奈美の親を思う気持ちが海斗に痛いほど伝わってきた。
「いつかきっと、家族一緒に逃げるんだぞ」
「うん……気をつけてね」
「ああ」
海斗は奈美に別れを告げ、廊下を走り去っていく。
教団の建物から逃げる海斗を見つけた信者が叫ぶ。
「脱走者だー!」
宴の最中だった信者たちは、我に返って松明を持ち脱走者を追いかけた。
暗い森の中を、海斗は息を切らせながら走った。
木々の間を抜けるたびに枝が顔を掠め、湿った土に靴底が沈む。
背後で松明の炎があちこちで揺らめいているのがわかる。
松明を持った信者たちが、怒号を上げて追いかけてきていた。
海斗は森の急斜面を駆け降りて、アスファルトの道路に出ると、前方からライトの光が彼を照らした。
目の前に軽トラックが急ブレーキで地面を鳴らして停車する。
運転席から顔を出したのは古賀だった。
「おい、心配したぞ。港にボートが置きっぱなしになってたから探してたんだ」
「おじさん、助けて!あいつらに追いかけられてるんだ」
信者たちが森から道路にわらわらと出て来て、二人に迫ってくる。
「あいつらか……」
古賀は軽トラックから降り、手に猟銃を握りしめて前に歩き出す。
信者たちは異様な形相で海斗と古賀の前に立ちはだかり、睨みつけた。
「おい、そいつを渡せ!」
古賀は猟銃を信者たちに銃口を向けて構える。
「撃たれたくなかったらな、さっさと、ここを立ち去れ!」
信者たちは、銃を向けられて怯えたように顔が歪む。
「ひ、卑怯だぞ!銃を使うなんて」
「お前らは村を破壊する害獣と一緒だ!」
古賀は空に向かって弾を一発撃つと、銃声が山の中を響き渡る。
「ひぃぃぃっ!」
信者たちは驚いて、慌てて走り去っていった。
古賀は笑って彼らを見送っていた。
「まったく……迷惑な連中だ」
「おじさん、ありがとう」
「今日はもう遅いから、うちに泊まっていけ」
海斗は古賀の軽トラックに乗り込み、山道を下っていった。
翌朝、港まで古賀に送ってもらった海斗はボートに乗り込む。
「東京は危ねえから、気をつけな」
「はい、色々とお世話になりました」
古賀に見送られて、海斗はボートに乗って九条島を後にした。