老いた若者
白と黒と扉が支配する僕の故郷。いつもの始まりの場所。ここに、僕たち家族五人はいた。ミリアが一つの扉の前に立ち、僕らに背を向けている。
「……本当に行くの?」
「愚問ですね。私はあなたの娘としての義務を果たしました。私は、私の生活に戻らせていただきます」
振り返ることもなく、ミリアは言った。冷たい言い方だけど、仕方ないとも思った。むしろ、もっとひどいことを言われても僕には何を言う資格もないんじゃないだろうか。
「トレース。お父さん達を、頼みました」
「キミに言われるまでもない。ボクはボクのなすべきことをなす」
「……信じていますよ」
そうトレースに言い残すと、ミリアは扉を開け、別れの言葉一つ言わずに、彼女は世界の中に入っていった。
「ミリア……」
「不安か、主人。だが、大丈夫だ。ボクがいる」
トレースの言葉に、僕は半ば無理矢理、心を納得させた。
「行こうか、みんな」
不安を抱えながらも、僕はみんなに言った。……ミリアは、一番最初に家族になった女の子。彼女は驚くほど早く成長して、大人になった。そんな彼女はもう、僕の力を必要としていない。だから、自分の世界に戻っていったんだろうか。そんな想像をしながら、黒が大部分を占める世界を娘達と一緒に歩く。
「……ね、ねえ、ルウ。ここ、何? 不気味なんだけど……」
リリーはこの世界がお気に召さなかったようで、僕の服のすそをつまんで、おっかなびっくりついてきている。
「さあ。それは私にもわからないわ。不気味、というのには賛同だけどね」
ララはため息をひとつついて言った。不気味、かあ。……なんだか胸の辺りがもやもやする。なんだろう、この感覚……。
「お父さん、ごめんなさい。それは不快感、というものだと思う」
「不快感?」
僕の心を読んだララに、オウム返しに聞く。すると彼女はうなずいて、口を開いた。
「きっと、母親がいるこの空間を馬鹿にされたからだと思う」
「何、ここには主人の母上がいらっしゃるのか!?」
ララの解釈に、トレースが反応した。
「え、何トレース。そこって、重要なところ?」
「当たり前だ、主人! ボクは下僕として、一度は挨拶に伺いたかったのだ! まさか、ここだったとは……」
トレースは意味もなく興奮している。……はあ。
「トレース。悪いけど、母さんはもういないよ」
「……何?」
ボクはため息をついてトレースに告げる。……悲しいけど、嘘をつこう。トレースにこれ以上、母さんのことで言われたくない。
「もう、いないんだ。ここに母さんが『いた』のは事実だけど」
僕は過去形であることを殊更に強調して言った。頭のいいトレースなら、その意味がきっと理解できるはず。
「……あ……」
予想したとおり、申し訳なさそうな顔をして、固まった。
「す、すまない、主人。……その、無礼を」
「気にしないで。知らなかったんだから」
僕は黒い空を見上げながら言った。ここに母さんがいる。いるのは間違いない。……でも、一言も語ることのない人間を、『いる』と伝えるのは……どうしても、できなかった。無用な心配を与えるだけ。そう思った。
「……お父さん」
「……」
ララが、不思議そうな目で僕を見た。どうして嘘を吐くのかわからないのだろうか。
言わないで。お願い。
僕は強く心に思った。
「……うん」
納得したように、ララはうなずいた。
「ララは、ルウと何を話してたの?」
「なんでもないよ、リリー」
リリーはまだ僕のことを『お父さん』と呼んでくれない。僕に父親の威厳がないからなのか、はたまた別の理由があるのか。……きっと、前者なんだろうな。僕、まだ生まれたてだし、ろくに娘を幸せにしてあげれてないし。
「……お父さん、疲れた。早く次の世界へ行こうよ」
「え? あ、ああ、うん」
ララに言われるまま、僕は近くの世界を見繕う。大き目の扉で、扉の色は黒。縁取りはなく、木製っぽい感触。
「……リリー。覚悟してね」
「え? 何を?」
「もしかしたら、次の世界があなたの墓場になるかもしれないから」
「……え」
ララの言葉に、リリーは呆然となる。
「ララ、脅かすのはよくないよ」
「脅しじゃないよ。わかっているくせに」
「……行こうか」
ろくに反論できないまま扉を開けて、僕たちは世界に入った。
「……ふむ」
「なにこれ」
「……」
トレースと娘たちは、この世界に入るや否や驚きの声を上げた。……何を驚くことがあるのだろう? 見渡す限りの土と岩。乾燥した荒野が延々と続いているだけなのに……。
「ねえ、トレース、近くに人はいるかな?」
「……人以前に、主人は何も思わないのか?」
「何に? 何にもないじゃないか」
ずいぶんと変なことを聞くんだな、トレースは。
「……何もないことに何か感じないのか? と聞いたつもりだったのだが……伝わらなかったか?」
「うん」
僕は軽くうなずいた。果てしなく広い空に、見渡す限りの荒野。さっぱりとしていて、いい景色じゃないか。
「本気で言っているのか?」
「冗談に聞こえた?」
僕は周りを見渡しながら言う。本当に何もないなぁ。枯れ木が点在はしているけど……それ以外は全然、なあんにもない。
「ルウ、あんた変だよ?」
「僕が?」
リリーに奇異の視線を向けられて、僕は思わず目を丸くした。
「うん。あたしは、いろんなことを感じてるよ? 怖い思いとか、寂しい思いとか。ルウは? 本当の本当に、な~んにも思わないの?」
「うん」
僕はうなずく。こんなに広くて見通しがいいのに、恐怖なんて感じるわけないし、トレースやミリア、ララにリリーまでいるんだ、寂しさなんて感じようがない。
「う~ん……」
僕はそう思うんだけど、どうもみんなは違うみたいだ。ララを除くほぼ全員が首をかしげてうなっている。
「……あたし、大変な人についてきちゃったかも」
「今頃後悔? 今からでも戻って、誘拐犯達に八つ裂きにされてくる?」
ララは微かに笑いながらキツイことをリリーに言った。
「あ、あはは……そうだよね。あたしは、サラサみたいになりたくないもん」
「なら、文句言わずについていくべき」
ララは淡々とリリーに返した。でも、そう言う彼女の表情の端々に、リリーとの会話を楽しむような節があることに、僕は気づいた。
「リリーとララは、仲いいよね」
僕は二人に話しかけた。そういえば、二人って何か接点があるのだろうか。最初会った時からずいぶんと親しげだったけど……
「私とリリーは友達だったのです。お父さんを待っている間の短い時間だけ共に過ごすつもりだったのだけど、まさか妹になるなんて」
「む、あたしが妹? ちょっと不満かも。どっちかと言えば、あたしがお姉ちゃんでしょ?」
「家族になった順番の方が優先。私が姉」
「む~!」
なんだか、ララもリリーも楽しそうだった。僕がトレースと二人で訓練していた三週間で、ララもずいぶんと明るくなった。
「楽しいか、ララ?」
トレースが確認するかのように聞いた。
「うん、楽しいよ。オリジンにされたことを忘れれるぐらいには」
ララの返答は、僕にとっては随分と重いものだった。彼女の返答はすなわち、まだあのときのことが彼女の心に重くのしかかっていることを示していた。忘れようと必死なのだろう。
「オリジンって誰?」
「怖い人。すっごく、すごく怖い人」
「……珍しいね、ララがそこまで言うなんて」
「……うん」
不意に、ララの楽しげな表情がかき消える。まるで、三週間前に戻ったかのように。
「……あのときは本当にごめん、ララ」
「もういいって言わなかったっけ、お父さん。私、もうあきらめたから。……だから、リリーも、お父さんも、この話はもうしないで。……せっかくかき集めた大切なモノが、ちりぢりになりそうになるから」
「うん、わかった」
僕は声に出して言った。リリーも、不思議そうにしながらもうなずいた。
「……ルウ、ここからしばらく行ったところに人間が二人いる。行くか?」
「うん」
話題を切り替えてくれたトレースに僕はうなずいて、彼女が指で示した方向に向かって歩き出す。
「そういえば、リリー」
「なに、トレース」
リリーの返事を隣で聞きながら、僕は思う。リリーは誰に対しても敬語や丁寧語を使わない。彼女が特殊なのだろうか、それとも、ミリアやララが特殊なのだろうか。よくわからない。常識で言えばきっと、二人が正しいんだろうけど、なんだか敬語が徹底された子供っていうのも変な気がする。どうしてかな。
「キミは瞬間移動ができるのだろう?」
「え? ああ、うん、まあ」
「ここからならどこまでいける?」
「……さあ。私、自分が見たことのある場所しかいけないから、きっとあの水平線の向こうまでが限界だと思う」
自分の能力のことを話すリリーは、少しおどおどとしていた。怖いのかな? たぶん、そうだと思う。
「そうか。ならば、人がいる場所までは歩くか。せっかくだしな」
「うん、それがいいよ」
トレースの提案に、僕はうなずいた。
「……何が『せっかく』なの? わけわかんない」
「……考えるだけムダ。彼らは私たちとは全く違う思考体系をしている。今は特に問題もないし、黙ってついて行く」
「もし問題ができたらどうすんの?」
「さあ。そこまでは」
「……はあ」
二人の会話がいやに胸に刺さる。二人が文句を言い始めたら素直に従うことにしようか。
そう思うと、僕は人がいるという方角へと、さらに歩を進める。しばらく足を進めると、彼女が言ったとおり、この荒野に二人の人間がいた。
「人だ! おーむぐ」
「だめ」
叫んで、二人を呼ぼうとしたリリーの口を、ララがふさいだ。
「むぐ、むぐうっ!?」
「まだあの二人の心が読める位置にいない。何を思っているかわからない今は、近づくのはできるだけ避けた方がいい」
ララの言葉に、僕は、はっとなる。あとちょっと彼女の言葉が遅かったなら、リリーの次ぐらいには彼らを呼んでいたかもしれない。
「トレースはどう思う?」
「あの二人か? 警戒するほど敵意があるようには思えんがな」
荒れ放題の広野に立つ二人の人間。二人とも男で、年はだいたい十六程度だと思う。二人はなぜか、何かあきらめたような面持ちをしていた。
「……二人はここにいて」
「わかった」
僕はララの返事を聞いて、安心して二人に向かって歩き出す。トレースは何も言わずに、僕についてくる。ララとリリーを残したのは、僕とトレースだけならなんとかなる。そう確信していたから。
「こんにちは」
「……人? 人だって? おまえが? まさか! 幻覚だろう?」
「いや、もしかしたら幽霊かもしれんぞ、タクや」
僕は、二人の男性の反応に首をかしげた。なんでこんな反応になるんだ? 僕らって、そんなに変な格好してるかな?
「ボクらは幻影ではない。ボクの名前はトレース。キミらは?」
「……ワシの名前はストラ。こっちが曾孫のタクトじゃ」
ストラ、という若者はそう自己紹介をしてくれた。……え?
「ひまご……って、なんだっけ、トレース」
僕の記憶が正しければ、孫の子供、ってことになるんだろうけど……。この世界では意味が違うのかな?
「孫の子供のことだな。ストラ。本当に、その意味でタクトは曾孫なのか?」
「ああ、そうじゃよ。タクトはワシの曾孫じゃ」
僕は二人をよく見た。ストラさんはどうみても人当たりのよい好青年にしか見えないし、タクトさんにしたって、ちょっととげとげしい印象はあるけどちゃんとした少年で、ストラさんの曾孫には見えない。
「てか、何おまえら。いきなり現れて偉そうじゃね? 特に後ろのオマエ」
タクトさんは不快感あらわに、トレースに向かって言った。
「すまないな。ボクは主人以外に敬語丁寧語を使わないようきめているのだ」
「じゃあその主人連れてこいや。ぶん殴ってやるからよ」
「キミの目の前にいるが、殴ればキミの腕が飛ぶぞ」
今度はタクトさんが驚く番だった。
「……オマエがこいつの主人? マジで言ってんの?」
「えっと……。違うよ? トレースは、僕の仲間」
「だが、同時に道具でもあり奴隷でもあり。ふふふ、本当に不思議な関係だな、ボクらは」
僕は思わず肩を落としてため息をついた。全く、仲間だって言っているのになあ。
「なんか変なの、おまえら。てか、どっから来たんだ? ひっさびさに人が来たから、驚きすぎてその疑問が吹っ飛んじまったよ」
「ひさびさ? 最後に人にあったのはどれくらい前なのだ?」
それは僕も気になっていた。目の前に現れた人間が幻影であるかどうかを疑うって、どれくらいの間人と関わらなかったんだろうか。
「う~んと。どれくらいだっけか、ひいじいちゃん?」
「昨日で百年じゃな」
「だとよ」
僕たちは絶句した。