少年の話
僕がどうしてこの街にやって来たのかというと、よくわからない、というのが正直なところだった。
ただ、攫われた妹を取り戻すために、あの「隊長」と名乗った眼帯の男を追いかけているうちに、たどり着いたのだろうとは想像できる。
記憶を遡ってみると、妹を連れ去られたあと、彼を追いかけ、村を出て、すぐに倒れてしまったところまでは、はっきりとしている。それから、誰かに拾われて、この街に向かっていたであろう間のことは、うっすらとしか覚えていない。
次の記憶はというと、知らない街の、知らない家のベッドの上で寝転び、怖いくらいに静かな部屋で、天井をじっと見つめている今の状況なのであった。
首を横にし、室内を軽く見回す。
おおよそ正方形と思われる部屋は、僕の寝転ぶベッドが置いてある位置から、ちょうど向かいの壁に扉がついていた。
広さは八畳ほどで、ベッドの他には、壁際に背の低い本棚が置いてあるだけの寂しい空間だった。
本棚にはたくさんの本が並べられていた。小説に絵本、図鑑や歴史書など、ジャンルは統一されておらず、けれど、その無秩序さが情味を感じさせるバリエーションではあった。
個人部屋にしても客室にしても殺風景で、しかし、物置部屋として使われているわけでもなさそうで、それなら、この部屋の用途はいったい何なのだろうかと考えてしまう。
部屋は小綺麗で――細かな塵や埃、生活感のある屑一つ見当たらなくて、かえって気味が悪いけれど――窓も照明もないのに何故か明るくて、何より気になったのは、ここがあまりに静かなことだった。
どこからも音の漏れる隙間がなく、外界との繋がりが絶たれたかのような、ぴったりと鎖されてしまった空間に思えた。
僕の呼吸だけが聞こえ、息を吐くたびに空気が動くのがわかる。この室内は僕を中心に秩序が保たれ成り立っている世界で、あるいは僕以外の生命をまったく認識しない孤独を感じさせる。そんな不気味な静けさに満たされていた。
こうして寝転んで考え事をしていると、これまでの人生における出来事が、すべて夢だったかにも思えてくる。
自分は「田舎村に住むとある少年の人生」という夢を見ていて、たった今、その夢の世界から帰還したのでは、といった感覚だった。
夢の世界に時空の概念は存在しない。どういう原理で訪れるのか、解明されてはいないが、一説には自分の過去の体験が元になるともされている。これまでに経験したことが、特にそれが自分にとって印象的であればあるほど、眠りについた時、夢の世界として顕現するのだという。
しかし、となると、まったく異なる人間の人生を夢で見ることはあり得ないから、やはり的外れな見解なのだろうか。
とにかく、今、僕がこの部屋にいることは現実で、自称隊長である、あの眼帯の男を追いかけているのは——彼に妹を奪われたこの憎しみややるせなさは、紛れもない現実のものなのだ。それだけは、はっきりとしている。
呼び鈴が鳴った。
扉を叩く音がする。
僕はベッドから上半身を起こした。誰か来たようだ。
起き上がると、立ち眩みがした。ふらっとよろめきながらも、冷たい板張りの床をしっかりと裸足で踏み締めて、僕はこの建物の玄関を目指した。
この家の玄関がどこにあるのか知らなかったが、来訪者は扉を叩き続けてくれているので、音のする方へと向かえば大丈夫だろう。なんだか、光に吸い寄せられる虫になったような気分だが、来訪者があった時、家主というものは誰しもこんな心地で玄関の戸を開けるものなのだろうかと、呑気なことを考えてみる。くだらないことを思考するだけの平常心は、まだあるみたいだと、自分の内を冷静に分析している自分もいる。
部屋を出て、廊下を進み、すぐ左手に現れた階段を降りる。段に足を落とすたび、ぎゅうと無機的な物体の悲鳴みたいな音がする。
どん、どん。
扉を叩く音が大きくなる。力がこもった叩き方だった。先ほどよりも強く、来訪者は玄関の扉を叩いているらしい。
しかし、怒りや焦りといった感情が、その叩き方に滲んでいる風ではなかった。中にいる人物に確実に自分の来訪を伝えようとする意思の強さの表れにも思え、居留守は許さないぞという執念のようなものも感じる。
廊下の果ての広間から、玄関の扉が見えた。
扉を開ける。
そこには、世にもまれな美少女が立っていた。
僕は息を呑む。彼女と目が合った一瞬、思考が止まり、すぐに言葉を発することができなかった。
そんな僕の様子を見ながら、彼女は微笑んでいた。つり目気味な二重瞼には気が強い印象を受けるが、笑った顔には無邪気な子どもじみた愛らしさがある、年齢不詳の美女だった。
白のようで銀のような、明るい色の髪を側頭部で二つ結びにしている。細身で背が高い。黒を基調にして、ところどころに白いラインが入った衣装の胸元には、目を引く縞模様の大きなリボンがあった。丈の短いスカートと底のあるブーツの組み合わせは、なんとも「都会風」な装いだ。いわゆる学生服である。
「マガツ区へようこそ」と、唐突に彼女は言った。
妙な馴れ馴れしさがあったけれど、不快感はなかった。初対面のはずの彼女には、どことなく懐かしい雰囲気があり、僕はその理由に気づいてはいたけれど、言及せず、この仕組まれた邂逅に向き合うことにした。
僕は自分で想像していたよりも、彼女を警戒してはいなかったらしい。「お邪魔します」と、答えている。ほとんど反射的に出た言葉だった。
「私はマガ子さん。マガツ区のマガ子さん」彼女は、そう名乗ることを生き甲斐としているかのように、はつらつと言った。
「マガ子さん」それが名前なのか。
「うん。トイレの花子さんよろしく、マガツ区のマガ子さん」
「はあ、そうですか」
僕はおそるおそる名乗り、よろしくの挨拶もなく、訊きたいことがあるんですけど、と言いかけた。
「言いたいことがあるんだけど」と、何気ない態度でマガ子さんが先に口を開いた。僕の考えを読み取って牽制してきたかにも思えた。
「宿屋のことは、気にしなくていいからね」
「え」と、僕は溢す。「もしかして、管理人さんのことですか」
そうか、あれは夢じゃなかったのか。
「そうだよ。代理をしているんでしょう。この宿屋の管理人の」と、彼女は足元を指した。
「はい。ここの管理人さんに頼まれてしまったので」
僕は、先ほどまでいた部屋のベッドの上で、意識を取り戻した時のことを思い出した。
どういった運びでそうなったのか、気がつくと僕は、この宿屋に来ていた。
知らない景色に困惑し、自分がこんな状況に置かれることとなった経緯について考えてみるも、どうしても理由がわからなかった。
顔を横にしてみると、すぐ脇には男が立っていた。
寝起きでぼんやりとしていたので顔はよく覚えていないが、歳を食った風な大柄な男だった。
何か話をしたかどうかもあまり覚えていないけれど――僕は寝起きだったため、まだ覚醒しきっていなかったのだ――彼は、接客業務に向いていないのではと思わせるような不愛想な態度で、自分はこの宿屋の管理人であり、これから少し出掛ける用があるから、留守を頼まれてくれという旨を伝えてきた。帰ってくるのが遅くなれば、この宿屋をくれてやる、とも付け加えた。
状況が呑み込めず、僕はぼうっとしたまま、二度寝を試みていた。そんな僕を気にするでもなく、男は部屋を出て行った。
それから、少し時間が経過して、今度ははっきりと目を覚まし、ベッドに寝転んだまま、これまでのことやこれからのことを考えていた。すると、呼び鈴がなり、扉を叩く音が聞こえてきたわけだ。
そうして、僕はマガ子さんに出会った。
「宿屋のことはどうでもいいからさ、出掛けようよ」マガ子さんは、遊び盛りな子どものように言ってくる。
「いい、というのは?」僕は訊ねた。
「留守を任されているんでしょ。そのことだよ。もうここの留守番はしなくていい」
「しなくていいんですか」
「うん、しなくていい」
何を根拠にそんなことが言えるんですか、と言いかけたところで、マガ子さんが、先に「ここの管理人に頼んだのは、私なんだから」と、言った。
「頼んだ?」と、僕は訊き返す。「頼まれたんじゃなくてですか?」
「うん、頼んだの。君に、この宿屋の管理人の代理を頼むように、頼んだ」
「どうして」
「君をここから出さないようにするために」
その言葉を聞いて、僕は「つまり」と、口を開く。「軟禁していたってことですか」
「人聞きの悪いことを」マガ子さんは、けらけらと笑った。
「僕を閉じ込めていたつもりじゃないと」
「出られなくしていただけだよ」
「同じじゃないですか」
「捉え方しだいかな。君にとってみればこの宿屋は単なる軟禁場所だけど、私にとってみればここは、君を安全に待機させておく場所だったんだから」
「待機させておく?」
「私が迎えに行くまで」
「つまり、今の今まで」
「そう。今の今まで、君をここで待機させておきたかったの」
マガ子さんがあまりに悪びれる様子もなく言うので、僕も、そうか、ただの待機場所だったのかと思うしかなかった。
「そんなわけだから、ね。宿屋のことなんか放っておいて、さっそく出発しよう」マガ子さんが、ぱんと手を叩く。
「どこにですか」と訊きつつ、奔放な性格なのかと、彼女のことを分析した。
「時計塔だよ、時計塔」
「時計塔?」
頭の奥がずきりと痛む。妹を連れ去った男も、そんな言葉を口にしていたのを思い出した。
「時計塔を目指してこい」と、確か、そんなことを。
そうだ、時計塔だ。
僕が目指すべき場所は時計塔なのだ。
「何があるんですか、そこに」
「この街の時計塔にはね、人間の願いを叶えてくれる不思議な力があるの」
「願いを叶えてくれる不思議な力があるんですか」僕は彼女の言葉を繰り返して言ってみる。
言ってみて、奇妙な響きのセリフだと思った。おとぎ話でしか聞かないような、あやしげな言葉だ。
「君がこの街に来た理由は知ってるよ。攫われた妹を取り戻すためでしょう」マガ子さんは、まっすぐな目で僕を見つめてくる。頭の中を覗き込んで、真意を探ろうとしているかのようだ。
「お見通しなんですか」と、僕は驚いてみせる。
「お見通しなんだよね」マガ子さんは、ふふんと得意そうにした。それから「この街のことはなんでもわかるんだよ。だって、マガツ区のマガ子さんだから。君の考えることもお見通しなんだ」と、続けて言った。
意味がわからなかったので、僕は無視をすることにした。
そして、初対面である彼女が、どうしてこちらの事情を知っているのかも気にしないことにした。聞いてみようかとも思ったが、些細な問題だと思い直したからだ。