6話
「…………貴様、誰の許可を得て入室した」
ヨアナの様子がおかしい。
自分が悲しくないのか、不快ではないのかと問うたのが原因だと思う。
だから様子のおかしいヨアナに声をかけようとしたのに、招かれざる客の登場に眉間に深い溝ができる。
衛兵やヨガンたちはどうしたというのか。
レイエルは自分の機嫌が急降下しているのを感じながら、なによりヨアナとの時間を邪魔され二人の空間に他者が入り込んだことが許せないと思いながら、愛する番に荒々しい姿を見せるわけには……と己を律しているのだがそれも長くは続かないだろう。
「許可もなにもあたしはレイエル様の婚約者ですわ。婚約者なのにそんなもの必要ですの?」
心底不思議そうに問うエレンティアにレイエルの眉根は更に寄る。
こんな頭の悪そうな女に偽りだとしても婚約者という肩書を口にされるたび不快感が湧き上がり、今すぐにでも叩き出してしまいたい。
(だが父上から好きに泳がせろと言われたからな……。どうしたものか……)
せめてもの救いはヨアナが誤解する心配がないことだ。
もしヨアナが普通の令嬢だったらきっと不安に駆られレイエルも相当に焦っていたことだろう。
しかしそうしなくていい分、問題に集中できるのでレイエルの精神はこれでも安定していると言える。ヨアナのスリッパは返す予定はないが。
「あれぇ……どうしてあたしは呼ばれていないのに女性がいるの? レイエル様ぁ、浮気はいけませんよぉー?」
「貴様……今すぐその口を閉じろ」
浮気なんてするわけがないことを口にされレイエルのこめかみが反応する。
本当ならこの場で八つ裂きにしてやりたいほどの苛立ちなのだが国交などを考えるとそうもできないのだから、他国との共生など面倒で仕方がない。
「こちらの女性は誰ですぅー? この人は遊び相手ですよね、あたしが婚約者なのだから!」
そうヨアナをバカにするよう笑ったエレンティアに我慢という文字は一瞬で消え去った。
「ヨ……っ」
「……あら、あなたこそどちら様かしら? レイエル様の番であるわたくしが、既に婚約者であり実質的な妻なのだけれど……」
ヨアナを愚弄するなっ! とエレンティアに怒鳴ろうとしたところで突如、凛とした声が室内の雰囲気を一掃した。
それは先程まで口を閉ざし微動だにしなかった愛しい番のもので、そこに感じていた気持ちの揺らぎは見受けられない。
芯が一本通った、いつものヨアナの姿がそこにあった。
「わたくしはヨアナ・ハークライト。あなた様と同じ、ピシリア国の者ですわ」
そう笑う様は王家のものの風格で、普通の令嬢ならばいきり立つか嘆くかのどちらかの反応しかしないだろう状況での微笑はなによりも強い武器だ。
それを見事に扱えるヨアナの努力は並大抵のことではなかっただろう。
どれほどの辛さだったか、王家に生を受けたものとしてわからなくもない。だからこそ尊敬の念を抱かずにはいられない。
自分より年下の少女が何度歯を食い縛ってひとり耐えていたのかと想像するだけで、なぜ……と思ってしまう。
どうして幼い頃に出会えなかったのかと、後悔しても意味のないことが心に重くのしかかる。
(……侮っていたな。ヨアナに最初から事情を打ち明けていればよかった)
まさかこんなに強い女性だとは思わなかったのだ。
危険が及んだら怯えて震え、どこかに閉じこもってしまうだろう。国へと帰ってしまうだろうと思っていた。
なのに、意外すぎる。
これでは自ら危険に踏み入りそれを解決してしまうではないか。
そんな女性、この国でも他国でも見たことがない。
(これからは違う理由で目が離せないな……)
これまでは密かにつけている護衛に危険が及ばないようにと伝えていたのに、逆だ。
自ら危険に飛び込まないように行動をしっかり見張れと命じるしかなくなった。
「ヨアナ……」
レイエルのなんとも言えない、どこか弱った声にこちらへ視線を移した彼女はそれはもう……見事に笑った。
とても勝ち気で、それ見たことかと言わんばかりの美しい笑みはレイエルがヨアナの覚悟を甘く見たことに対する意趣返しだろう。
こんな……こんな魅力的な女性。
たとえ本能的に番だと感じなくても。自分が人間だとしても……。
────愛さずにはいられない。
そう感じたレイエルは場違いにも頬を赤らめ目尻を下げた。
これほどにも自分を魅了して止まない女性はいない。
「さあ、お次はあなた様の番ですわ。お名乗りになって?」
優美な仕草で相手に手のひらを上向けて促す様も、少しばかり首を傾けている姿も愛しくて、本当なら自分がその手を取りたいぐらいなのに……この、邪魔な人間が不愉快でならない。
その思いのままにレイエルはエレンティアへ冷たい眼差しを送るが彼女が気づくわけもなく、こともあろうにヨアナへと食ってかかった。
「あたしを知らないの!? 同じ国だったなら知ってるでしょ、ロードヴァーグ伯爵の孫娘よ! 立場をわきまえなさいッ!」
目をつり上げてレイエルに対する甘えた声からは程遠い険を含んだ声色で怒鳴りつけるエレンティアにも怯まず、ヨアナはにこにこと社交界の見本のような笑みを崩すことはない。
婚約者を名乗るなんて図々しい。いますぐこの城から出ていけ。レイエル様と結婚するのはあたしだ。と様々な言葉を浴びせかけられても、ヨアナの顔から笑みが消えることは一瞬たりともなかった。
これがエレンティアには異常に見えたのだろう。先程までの気迫はどこへやら、恐ろしいものを目にしたとばかりに腰は引け相貌には怯えが浮かんでいる。
「……どうされましたの? もう言いたいことは終わりかしら?」
にこにこにこ。
声も穏やかで淡々としているわけでもなく、ただ不思議だとばかりなそれにエレンティアの喉からヒッ……! と引きつった音が漏れる。
「本当にどうされましたの? 他にも言いたいことはおありでしょう? よろしいのよ、いくらでも聞いて差し上げるわ」
ただし……とヨアナはそこで初めて微笑を控えさせ、鋭くエレンティアを見据えた。
「その言動に伴うすべての責任はあなたのものよ。きちんとそれは、覚悟されているのよね……?」
「────ッ!!」
逃げることは許さない。
そう言外に告げるヨアナの言葉についにエレンティアは唇を噛み締め、なにも言わずに足音荒く部屋を出ていった。
これを見つめていたヨアナは彼女が戻ってくる気配がないことを確認するとやっと、重い溜息を吐き出す。
「はあああぁぁぁぁ……っ!! もうっ、なんなのあの子! 言いたいことだけ言って逃げるなんて、それでも淑女かしら!」
そう憤るヨアナの姿にレイエルは目を丸くするも、すぐさまふき出してしまう。
「……なんですの? レイエル様もなにか言いたいことがありまして?」
拗ねたような不満そうな顔でこちらを見る番の初めて見る年相応の、十八の少女らしい態度に頬が緩んでしまう。
「……いや、ヨアナでもそんな顔をするんだな。そうしていると普通の少女と変わらないな」
「わたくしだって普通の少女ですわ。ただ他の方よりもきちんとしていなくてはならないだけで、特別でもなんでもありません」
頬を少しばかり膨らませて告げるヨアナは本当にその言葉通り、血筋に王家が混じっているだけに厳しくされたのだと思う。
ハークライト家は何よりも系譜を重んじる一族だと向こうの王からの書簡に記されていたのを思い出すに、きっとそれに恥じぬようにとうるさく言われてきたのだろう。
だからこそ“淑女の鑑”と呼ばれる高嶺へとたどり着けたのだろうが、ヨアナは本当はただの十八の少女だ。
そんな娘がいままで自分を押し殺してきたのだと想像するのはやはり胸が痛むし、こういう顔をするヨアナを見ると本当はこんなにも表情豊かなのにずっと微笑んでいるだけだったのかと考えるだけで心服する。
────だからこそ、レイエルはこんなことをしてしまったのかもしれない。
「っ……レイエル、さま……?」
無意識のうちにヨアナの金糸で長い髪へと伸びた手は指先でサイドのそれをすくい上げ口元へ寄せると、ささやかなリップ音を鳴らして口付けた。
愛しい紫の少し勝ち気そうな瞳と視線を交えながらしたそれに、ヨアナの頬が一瞬で赤らんだことに気づいたが拒絶の色が見えないのをいいことに髪から手を離し、その熟したいちごへと指先を伸ばす。
一瞬ヨアナの肩が跳ねるのがわかったが香りにもこちらを拒むものは含まれていない。
ならばとそのまま右手の平で頬を包み、優しく親指で白く滑らかな肌を撫でること数回。徐々に顔を近づけていく。
長いまつげに縁取られた瞳が見開かれるのを眺めながらレイエルは陶然と目を細めゆっくり顔の角度を変えていき、もうすぐ唇がヨアナの可憐なそこへ触れようとしたその時…………スリッパが落ちた。
ぽとん。
そんな間抜けで軽い音により、二人の間に流れていた甘く緊張感のある気配は霧散され、蕩けたように眇められていたレイエルの瞳は大きく開かれ身体は凍りつき、左手は俊敏にジャケットのポケットを探るが……そこに、スリッパ(精神安定物)は入っていない。
「れい、える……さま? なにか音が……」
レイエルから放たれていた艶やかな雰囲気に当てられ茫然とした様子のヨアナがそちらを向こうとするのを止める術もなく、彼女が朝晩とナイトワンピースに着替えてから履いている淡いピンクのふわふわモコモコの心地よいスリッパを……見られてしまった。
「……………………」
「……………………」
流れる沈黙。口を開けないレイエル。状況が飲み込めないものの、すごいスピードで頭の中の情報を処理していくヨアナ。
「ッ………………!!」
パアァァァァァンッ!!!! と鋭い音がした直後、ヨアナは部屋を飛び出した。
「こっっっの、変態野郎ッ!!」
とても淑女とは思えない口汚い捨て台詞を残して。
「………………………………」
そしてその場には膝から崩れ落ち、頬へくっきりハッキリと赤い手形を宿したレイエルが死にそうな顔で蹲っていた。左手にスリッパを握り締めて。
「レイエル様ー! 大変ですっ、あの女が部屋から脱走ッ………………どうしたんですか?」
ヨガンが遅い情報とともに部屋へと入室してくるが、レイエルはそれに答える元気もない。勝手に察してくれ……と情けなく思っていたりする。
「………………」
「あー……ヨアナ様にやっぱりバレました? だからスリッパはさすがにやめときましょうって言ったじゃないですか。獣人みんながそんなへんた……変……へっ…………おかしな行動取ると思われたらどうしてくれるんですか? それされて喜ぶのマジでイヌ科だけですからね?」
「………………」
側近にまで。むしろイヌ科の獣人しか喜ばないなんて初耳なのにまさかな愛情表現が変態とは……どうしたらいいのだろう。
そう思いながらも手は自然とヨアナのスリッパを鼻先へと当てにいく。やってしまうのだ、番に全力で拒絶され傷ついた心を慰めるために。
「……いやマジで引くんすけど、それどうにかならないんですか? そんな落ち込んでるくせにまだやるって……レイエル様、真正なんすか?」
側近からの若干の軽蔑を含んだ眼差しにも不敬な言葉にもレイエルはなにも返せない。
自分でもうっすらとそうなのかもしれない……と思ってきているなど認めたくはないが、これはさすがに認めるしかないのかもしれない。
なぜならヨアナにぶたれた頬の痛みにさえ、愛しさと喜びを感じてしまうのだから……。
これはもう、変態ではないのだろうか。
(なんっなのよ、あの変態ッ! またしても私のお気に入りを……っ!!)
執務室をあとにしたヨアナはズンズンと勢いよく前屈みになって足早に廊下を突き進んでいた。
若干怒りの理由がずれているのだがヨアナ自身がそれに気づくことはなく、ハンカチに引き続き……と気に入りの物ばかりが被害に遭っていることに我慢ならなかった。
加えて先程のあの……初めて体験した不思議な空気。
「──────ッ!!」
カァァッと思い出すだけで一気に顔が熱くなる。
その熱さを冷ますように頬に両手を当てるがそうするとまたレイエルに触れられたことを思い出してしまい、更に温度を増していく。
(なっ、なんなのよーッ!! あ、あれは……なんだったの!?)
淑女として異性とあんな近距離、それも触れられながらなんてことは一度もなかっただけにヨアナは戸惑って仕方がない。
確かにダンスでは近くに男性はいたかもしれないが記憶に残っていないうえに、さすがに唇が触れそうなほどでは……とまたしても先程の光景が蘇り今度は全身にまで熱が広がった。
間近で見たレイエルの顔はやはり精悍で目元は少し野性味を感じさせるつり目だが先程はなぜかとろんとしていて頬も上気し、柔らかい印象があった。
いや、あれは柔らかいというよりむしろ…………。
「いやっ、なに考えてるのよ!?」
ヨアナは浮かんだ言葉のあまりの淫らさに慌てて首を振った。
まさか色っぽいと……そんな単語が浮かんでしまうなんて、自分もあの変態に感化されてきているのかもしれない。
ならもうあまり近づかないほうがいいのかもしれない。
相手を知ろうとしても変態だということ以外に収穫はないし、時間の無駄だろう。
────そう思うのに、なぜか離れるのは寂しいと……思ってしまうのだ。
これがなにを意味するのか。ヨアナにはまだ、わからない。
「……まあ、いいわ。どうせこの先もずっと一緒なのだから、そのうち違う一面も見えるでしょ……」
溜息を吐いて嘆くよう呟くものの、ヨアナの表情は明るい。
いつか彼の……レイエルのもっと色んな顔が見てみたいと。そしてもう一度、あの温度に出会いたいと……そう、思ってしまう。
人のお気に入りの物ばかり奪っていくあんな変態だというのに、それでも……彼とこれからもずっと一緒にいられることがなぜか嬉しいのだ。
(家族といるよりも……母国にいた頃よりも、こっちのほうが楽しいと思うなんておかしいのかしら)
ピシリアにいた頃は常に監視されているようで落ち着かず、ソワナを始めとする友人たちといるときが少しの安息だった。
“淑女の鑑”としてではなく、ただのヨアナを少し表に出せる大切な時間。
それが……ここではどうだろう。
少し気を抜けば淑女の仮面なんて消え去り、ただのヨアナがすぐに顔を出す。
さっきもそうだった。あんな言葉、淑女としては決して口にしてはいけないものなのに、気づけば音を伴って感情が飛び出していた。
……レイエルとかかわるといつもそうだ。
ピシリアにいた頃のように気持ちがうまく扱えない。
(きっと変態だからだわ。向こうがまともじゃないから私もつられてしまうのよ!)
なんて迷惑極まりないやつなのか。そう思いながら足を動かしていたヨアナは唐突に歩みを止めた。
「あなた……」
自室に戻るために渡らないといけない庭園の、その入口へ続く扉の前を塞ぐようにしてエレンティアが立っていたからだ。
「ヨアナ様。先程は大変な失礼をいたしましたこと、お許しください」
ドレスを摘んで頭を下げるそれは見事なカーテシーだった。とても先程あんな無礼な態度をしてきた人物だとは思えないほど……。
「あたくしはロードヴァーグ伯爵の養女であり孫娘のエレンティアと申します。おじい様の名代として、そしてヨアナ様をこの国からお救いするために参りました」
(救う……?)
ハッ、ふざけんな。
そう自分が吐き捨てたらこいつらはどんな顔をするのか。
考えただけでもヨアナは心の中で舌打ちが止まらない。
「救う……ですか。失礼ですがエレンティア様、今更遅いのではありませんか? 既にわたくしは輿入れをし、帝王様へのご挨拶も済んでおります。それを今更違えるなど、国際問題になることは理解しておりますの?」
瞳を細め無感情に告げるもエレンティアは不気味に笑うだけ。
つまり、すべて理解したうえでの行動ということだ。
「ヨアナ様はまだレイエル様とはご結婚されておりませんでしょう? でしたら変えがききます。ヨアナ様ではなく、あたくしと結ばれればいいのです。そうすればこの国との国交も無事、ヨアナ様も当初の予定通りピシリアのための婚姻ができるようにもなりますわ!」
「…………変え、ね」
(まるで私が、心からそれを望んでいるように言うのね……)
本当に……国のための、誰ともしれない相手と結婚することが幸せだと。そう、思う人間がどこにいるというのだろう。
(…………ほぉら、誰ひとり……私の気持ちなんて必要としていないのよ)
国のため、国のため。すべて……国のため。
────バカらしくてやっていられるか。
「────!?」
そう思った自分にヨアナは驚いた。
いままでそうすることが、そう思われるよう行動することが当たり前だったのに。それを……バカらしい?
(…………あーあ……)
自由になれていたらしい。そういうしがらみから。国のための、いい子な淑女のヨアナから。
(だって彼が……レイエル様が“私”を受け入れてくれるから)
最初こそなんだこのクソ男! と思ったし迷惑でしかなかったが、他のどんな人間か……高齢で好色かもしれない相手かもしれなかった自分の未来を変えてくれた男性は他の誰でもない、獣人で過保護で……変態が過ぎているけれど、優しいレイエルだ。
ならば…………。
(見せてあげるわよ……あなた達が望む、淑女の鑑の本性をね)
さぁ、あなた達に受け止めきれるかしら?
そう思うと口角が上がる。楽しくて仕方がない。
嫌われることを、拒絶されることを恐れていた幼い頃とはもう違う。
────これは、居場所があるという強み。
レイエルが自分に与えてくれた、絶対的な防御であり──武器だ。
他の誰が拒んでも、レイエルだけは決してヨアナを傷つけない。嫌わない。
こう思える安心感を、安らぎを……平穏を、彼は知っているのかしら。
レイエルが自分にしてくれることはきっと、彼自身が知っている痛みだからだろう。
だからその傷口が広がらないように、痛まないように、レイエルは無意識でヨアナへと接してくれている。
そこに押しつけがましさも傲慢さも含まれてはいないから、こうして素直にその気持ちを受け入れ傷へと浸透し癒やされていたのかもしれない。
そんな優しさを与えてくれていたなんて気づかなかった。気づけなかった。
エレンティアがとっくの昔に乗り越えたと思っていた痛みを引きずり出してくれなければ、彼の自然すぎる優しい優しい思いやりに気づくことはこの先もきっとなかったことだろう。
そう思うと彼女の存在は、自分たちにとって僥倖なものなのかもしれない。
────それなら、あとは私に任せなさい。
レイエルからの思いに応える一番の返しはヨアナがずっと傍にいること。
これだけは思い上がりでもなんでもなく、本当にそうだと信じられる。
……彼が変態的な行動に出てしまうのは想いが返せていないから。応えられていないからだろう。
いまもヨアナはレイエルへ同じ想いも返せるとは思っていない。応えられるとも思っていない。
けれど、隣に立つ同じ傷を持つものとして。同志としてなら、応えられるかもしれない……。
だからこの場は自分に任せてほしい。
これはピシリア王国のヨアナ・ハークライト。そして、レイエルの番へと売られた喧嘩だから。
「好き勝手言ってくれるわね。本当にそれが私の望みだとでも?」
ヨアナは顔から一切の笑みを消し、バカにするようエレンティアを斜に見る姿同様の侮蔑を含む声色で告げた。
「いいわ? あなた達のそのバカげた戯言をこのわたくしが、聞いて差し上げるわよ」
だから場所を移さない?
そう好戦的に笑うヨアナの変貌にエレンティアは目を見開いて絶句している。
ヨアナはこの本来の自分を家族にさえ見せたことはない。そんなことは一度として許されなかったからだ。
だから良い子のヨアナしか知らない、淑女の鑑を妄信している者たちにとってはこの姿は到底受け入れられないだろう。
(だからいいのよ。あなた達は私だけじゃない、レイエル様までバカにしたんだから)
まだ彼らにとっても敵国の意識が強いだろう場所で番だと言って求婚してきたほどの想いをエレンティアは、ロードヴァーグ伯爵はバカにした。
自分が言える立場でないのは承知の上だが、それでも彼らの番を変えればいいという言葉は癇に障る。
そういう主張があるならヨアナが嫁ぐ前に言えばよかったのだ。なのに無言だったのだから今更でしかない。
……この話し合いから戻ったとき。新しく得た防御の、武器の名前を……私は、わかるようになっているのかしら。
こんな怪しげな者と二人で話すなんて怖いけれど、レイエルの姿を思い浮かべるだけで勇気が湧いてくる。弱くなりそうな心を守ってくれる。
その名前を、理由を、私は知りたい……。
ヨアナは悟られないよう手を一度握り締めると悠然と庭園のほうへ右手を真っ直ぐ伸ばす。
「そちらに密談するには最適な場所がありますの。……さあ、移動しましょう?」
にっこり微笑んでエレンティアを促し、ヨアナは宮殿をあとにした。
これは淑女としての、ヨアナとしての、レイエルの番で妻としての戦い────。
その勇敢で無鉄砲な背を、一羽の黒と白のまだら模様をしたインコが追いかける。
天高くから素早いスピードでやって来たそれは小鳥の姿に反してまるで鷹のように鋭い目つきをしていた。