2話
レイエルは黒を基調とした自身の執務室で書類を片付けながら幾度目かになる溜息を吐いた。
(折角ヨアナに会えたのに……来てくれたのに……)
父が顔を上げさせず声も出させなかったためどんな表情をしていたのかはわからないが番だけが嗅ぎ取れる匂いが伝えてきたのは怒り……。
それもただの怒りではなくグツグツ煮えたぎるようなもので、あれは自分の発言がきっかけだった。
確かに強引に嫁に来いと言っておいて妻扱いしないなど誰が言ってるんだ。
しかしあれには父も自分も事情があった。ああしなければならない事情があったのだが……。
「ヨアナぁぁ……」
あれは嫌われた。絶対嫌われた。
もとから好かれていなかったのに、面倒な存在だと思われていたのに、あれで決定的に嫌われた。
そう思うと悲しくてきちんとした人型だったのが崩れ半獣化してしまう。
ヨアナが出ていくときもこうなってしまい父上に叱られた。情けない声を出すなと。
ペタリと耳も尻尾も下げて情けない声でクウゥン……と鳴いてしまうのは仕方ないだろう。最愛の番に「バカか! 来るな! クソ男!!」としか思われていないのだ。匂いがそう伝えてくる。
パーティーのときは呆れの匂いだったのに今日に至っては嫌悪感だ。もうダメだ、番にあんなにも嫌われたら生きていけない……。
「クウウウウゥン……クウウウウゥーンッ……!」
子犬が母を求めるようにしくしく鳴き声を上げ始めついには机に伏せってしまう。
それを見て同じ部屋で執務に当たっていた側近であるヨガンはドン引きした。
自分は番とは出会っていないし必要もないと思っているが、いつも冷静で対処力に長けたレイエルをこうまで情緒不安定にさせるその存在が恐ろしくて堪らない。
レイエルでさえ対処できないほどの衝撃を与える番というものは本当に獣人にとって致命的な弱点だ。
だからこそバヤーシア帝国の民たちは番に出会いたいなどとは思わない。むしろ出会った者を哀れとすら思う。
百年前のピシリア国の悲劇はこちらでも悲劇とされている。
獣人は半分が獣の本能で出来ているからか番に出会うと理性が働かない。
いち早く自分のものにしなければ、という本能がただでさえ強くなるのにその見つけた番から他の男の匂いがしていれば上書きしなければという動物のマーキング行動が著しく表に出てしまう。
その間は周りなど見えていないため夫である……獣人からすると敵の前でそれをしてしまった。結果、男の妻で獣人の番であるその女は病んだ。
しかしそれに気付かず獣人は本能で番を自国の家に連れ帰り彼女が孕むまで同じことを繰り返し……やっと気付いたのだ。番の腹に自分の子とは別のものも存在していることに。
慌てたものの今どうにかすれば我が子まで危ない。だから生まれるまで静かに待ったが、その番は人間の姿をした我が子だけを泣きながら抱き締めていた。動物の姿で生まれた獣人の子は存在すら意識されていなかった。
そこでもまた獣人は本能に駆られその他の男の子を害そうとしたが番が頑として離さないため歪な家庭環境が出来上がってしまう。
獣人の子は母をそれはそれは心から求めるが件の番はその我が子を穢らわしいとばかりに蔑ろにし、元夫の子だけを偏愛した。
その人間の子は逞しく弟だけを可愛がる父を求めたが、そちらからは殺気を向けられ暴言を吐かれ……孤独を抱えることになった。
そして成長した父の違う兄弟は互いに憎み合い、人間の兄は獣人の父を母と共謀して殺し、獣人の弟はその兄を殺し周囲の人と番になっていた者たちさえも殺し回った。
その後母に邪魔者はいなくなったから自分を愛してほしいと泣きながら頼むもその願いは叶わず、心底求めた母に目の前で自害された弟はこのバヤーシアから去り、その後どうなったのかは誰にもわからない。
この話はずっとこの国で語り継がれており番に出会うのは不幸とさえされているが、いつか会ったときに同じ過ちを繰り返さないようにと本能を抑える薬の研究が行われてきた。
現在その研究で結果を出し、薬の開発販売をした立役者がレイエルだ。
だからもし出会っても大丈夫だろうとレイエルをピシリアのパーティーへ行かせたのに、まさか似たようなことを仕出かしてくるとは思いもしなかった。
愕然としたのは本人もで、薬を服用していたからこそ襲うことはしなかったが発言までは制御出来なかったと頭を抱え本能への敗北に打ちひしがれていた。
そこで再度研究の見直しがなされている今、こんな情けなくクゥンクゥン鳴いている暇はないというのに……!
「レイエル様! 仕方ないでしょ、すべてはヨアナ様を守るためです! 切り替えてさっさと片付けていきますよ!」
「ヨガンは番がいないからそう言えるんだ……。精神にものすごくクるぞ……もう、立ち上がれないほどに…………ヨアナぁぁぁ……」
一瞬顔を上げた主の死にそうな顔に溜息が出る。
また悲しげに番の名前を呼んでいるしどうしたら……。
「あっ、メイドに頼んでヨアナ様の髪の毛でも持って来てもらいましょうか? 番の香りがあれば少しは落ち着くでしょ?」
「お前はバカか? そんな変態みたいなことをしたらますます嫌われるだろ」
「………………そのハンカチ離してから言ってもらえます?」
スンスンとヨアナが来城した際に荷物から盗み出してもらっていたハンカチを嗅ぎながら真剣な顔で言ってくる主にヨガンは額に手を当てた。
「仕方ないだろう……イヌ科の獣人は番に出会ったらその香りを嗅いでないと落ち着かないんだ」
恥ずかしそうにハンカチに鼻を埋める姿は立派な変態ですよ、と言いたいが少し精神が安定してきたらしい主に肩をすくめる。
耳も尻尾も消えて人型を保てるようになってきたし、変態行為をしていてもヨアナ本人にバレなきゃ問題はないだろう。
そう軽く考えていたヨガンがバカだったと思い知らされるのはわりとすぐだった。
色とりどりの花が咲き誇る庭園をゆったりと白いレースの日傘を差して散歩していたヨアナの視界に噴水のふちに腰掛けるレイエルの姿が入ってきた。
(あのクソ男暇そうにしてるわね。私が誰のせいで初日から大変だったかなんて想像もしていないんでしょうね、バカだもの)
他国で戦争一歩手前な発言をした自覚もなくお気楽なものだと息をつく。
大人しくしておけと言われた手前遭遇するのも面倒だと踵を返そうとした瞬間、見覚えのある物が目の端に映る。
(ん……!?)
淡い緑に白い花々が描かれふちをレースで飾ったあのハンカチは……!? 屋敷から持ってきたはずなのに荷解きしても見つからなかったあのハンカチは……!?
バッ! と勢いよく振り返り目を細めて改めて凝視していると、その自分の物疑惑があるハンカチをレイエルが鼻先に当てる様を見てしまった。
「────ッ!!!!」
(キモッ……ち、悪ッ!!)
ゾゾゾッと全身を怖気が走る。
あんな恍惚と香りを吸い込むように何度も何度も………………変態だ。変態がいる。変態でしかない……!
(いやぁぁぁぁぁぁぁッ!!!! 気に入ってたのにぃぃぃ……!!)
内心半泣きでドン引きするも表面にはおくびにも出さず素早く回れ右をして高速で足を動かす。
一刻も早く変態と距離を取りたい。同じ空気を吸いたくない。
ヨアナはその一心で淑女の体裁を保ちつつ、けれどスピードは騎士のように猛攻の足さばきで庭園を後にした。
後ろに控えていたイヌ科の老齢の侍女はレイエルの行動を微笑ましそうに見つめていたものの、ヨアナの動きに人間でもこんなに早く動けるものなんだなと感心して後を追う。
獣人がそう思うほどにはヨアナの動きは素早かった。変態から逃れるために。
「あれ……ヨアナ様?」
優雅な身のこなしなのに異常に早く立ち去っていく第三皇子の妃であり番のヨアナの姿を見たヨガンはどうしたのだろうと首を傾げた。
あまりにレイエルが鬱陶しいため偶然ビックリ遭遇ハプニングを計画し庭園へ連れてきたのに間に合わなかったのか……。
ヨアナが去った方角は来客用の宮殿。番で妃なのだがまだ結婚式は挙げられない状況なうえに、レイエルたちの住まう私用の宮殿に部屋を作れば命の危険と貞操の危険どちらもあるため離しているのだが……まさか、真ん中に位置する庭園でさえも遭遇しないとは番にだけでなく運命にも嫌われているのだな……とヨガンは主を哀れんだ。
「レイエル様、ヨアナ様とは…………」
絶句。
外では絶対やるなと言っておいたのに番のハンカチをスンスンスンスンと執拗に嗅いで幸せそうな顔をしているレイエルにヨガンは急いで先程ヨアナがいた方向を見た。
その動作を三回ほど繰り返し得た事実は……。
「やっちまったぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
ヨガンは頭を抱えてその場に蹲った。
番に嫌われ情緒不安定なレイエルにいつもの冷静さがないのはわかっていたことなのに外に連れ出すべきじゃなかった。
学校でも家でも番に出会ってしばらくは情緒不安定だと習っていたのに、更にその期間に番に嫌われようものならストーキングする可能性、もっといえば犯罪さえ起こす危険があると言われていたのに……!
「やっちまったぁぁぁ……。まさか……見られた。どうしよう……見られちまった……!!」
まさか遭遇はしてもハプニングはこちら側が請け負うなんて想像もしていなかった。
この事実をどうレイエルに説明するか……。いや、今告げたらただでさえ不安定な彼がどうなるか想像できない。
(確かヨアナ様のとこに犬の獣人がいたよな……? そいつにイヌ科の習性説明してもらうか?)
そうだ、それがいい。そうすればどれだけ番を愛してるかも伝わるだろう。
名案だとヨガンは急いで使用人部屋へ向かった。
そこでヨアナ付きのメイドに説明するよう告げたのだが、あいにく……彼女は今日は午前で帰宅する予定だった。
よって、本日中にはヨアナに弁解はされなかったのだった。
「ヨアナ、食事はどうだ。口に合うか?」
「…………ええ。食事は、合いますわ……」
歯切れ悪く、含みも持たせているヨアナにレイエルは眉をしかめる。
顔もどことなく引きつっているように感じるしどうしたというのか。
それに番の香りが漂ってきて幸せではあるのだがなにか……どす黒い呪言のようなことを呟かれている気がするのだが……?
(まあ、思い違いだろう。対面の席以外で顔を合わせたのは今日が初めてなのだから、なにか思われるようなこともしていない)
知らぬが仏とはよく言ったものだ。
もしレイエルがヨアナに心の中でエンドレスに変態変態と呟かれているなどと知れば、完全に獣化してしまうほどに精神崩壊を起こしたことだろう。
思い当たる節がないためレイエルは機嫌よく、食事するヨアナを視界の端に収めながら自身も大きめに切った肉を口に運んだ。
ヨアナは目の前で食事するレイエルをチラチラ伺い見ていた。
昼間に庭園で見たあの衝撃的な姿……。
(うえっ……思い出したら吐き気までしてきた……)
なんだったのだろう、あれは……。
この精悍でこちらに対し本当に興味もなさそうな今の表情と庭園で自分のハンカチに鼻を埋めて恍惚としていた顔が結びつかない。
あれは双子の弟です、と言ってくれないだろうか。そうすればこちらも安心してレイエルと会話ができる。
「あの……第三皇子様。つかぬことをお尋ねしますが……双子の弟君などはいらっしゃいますか?」
さあ、いると言ってくれ!! との願いも虚しくレイエルは首を振った。
「いや、下には誰もいないし双子でもない。……どうかしたのか」
ナイフとフォークを皿に置いてこちらを神妙な顔で見つめてくるレイエルにどうしたもこうしたもお前のせいだよ! と叫びたくなる。
むしろあの変態行為はなんだったのだろう。なんの必要があってしたのかわからない。
(確かこの皇子は狼の獣人なのよね……。ならたまたま見つけたハンカチの持ち主を探していたとか…………は、無理ね。それならあの表情の説明がつかないわ)
「いえ……その、似た方を庭園でお見かけしたものですから。お忙しい第三皇子様がいらっしゃるわけもないので、王家の他のご兄弟かなと……」
「ああ……。庭園で見たのならそれは俺だ。息抜きにちょっとな……なんだ、お前もいたのか」
どう言ったものかと悩んだ末の言葉に返ってきたそれに、ヨアナは一瞬意識が飛んだ。
(嘘でしょ……!? ちょっ、え……! あ、あんな偉そうに言ってたくせに変態行動取るって一体なんなの!?)
自分に対し妻扱いしないと言ったのに、帝王も大人しくしておけと言ったのに、なのにっ!!
…………あの変態行動はなんなのか。獣人の習性なのか、個人の趣向なのか。人間であるヨアナには到底判別できるものではなかった。
「え……? イヌ科?」
翌日、ヨアナは犬のメイドであるシャリーテからの言葉に耳を疑った。
なんでもイヌ科の獣人は番に出会うと名実ともに結ばれるまでは情緒不安定になり、それを落ち着かせるために番の匂いが必要だという。
これにヨアナは思い当たる節が一つだけあった。あの変態行為だ。
(……ならあれは変態なんじゃなくて、獣人としては普通の行動だっていうの……!?)
思えば庭園から帰ったあと青ざめている自分に老齢の侍女は殿下は可愛らしいと言っていた。
つまり、彼女はあの行為を見たうえで言っていたのだ。
……てっきり、見ていないからそう言えるのだと思っていた。
「それは……その、人間が番で嫌っていても起こるものなの?」
「まさか! そもそも嫌っているのに番だなんて言いませんよ!」
「…………そうなの?」
あれ……おかしい。
なら、どうしてレイエルはあんなことを言ったの?
このバヤーシア帝国に単身一人で嫁入りをしたのに、かけられた言葉は酷いものだった。
でも王ともども人族に嫌悪感や差別感情があるのだろうと思っていたのに、まさか……違う?
(待って……。でも、違うなら尚更おかしいわ。他国の王女の誕生パーティーであんなことを言い出しておいて、半ば命令で嫁がせておいて……どういうこと?)
ならば帝王に遠慮をした?
それもなにか違うような気がしてヨアナは顎先に指を押し当て考え込む。
もしかしたらレイエルが番だとあの時は言ったものの、あとから後悔してしまったということもあり得るのではないだろうか。
そう思いシャリーテに尋ねるもまたしても否定されてしまう。
……だとしたら、もう考えつくことは一つしかない。
「その番というのが“運命の”番だから、ということかしら? だから気づかぬうちに本能的に口にしてしまったのではなくて?」
これならすべての辻褄は合う。
運命だから本能で番認定してしまったものの、理性が戻ると個人の差別意識や蔑視が優位に立ち嫌悪感をあらわにした。
この考えでならレイエルの行動は矛盾していない。
だというのにメイドは笑うのだ。あり得ない、と……。
「番様は夢見がちなんですね。 運命って……ふふっ! そんなのありませんよ。ただ好き! と本能的に感じた方を番だと呼ぶだけです」
ヨアナの考えと何が違うのか聞くと番認定は運命ではなく、それこそ動物的意識。本能で遺伝子的相性や子供の出来やすさなどを瞬時に悟り、これを感じると相手が愛しくて愛しくて堪らなくなるそうで、その感情は結ばれたからといって決して消えるものではないというのだ。
「もちろん浮気がないとは言いませんよ? それぞれが引き継いだ動物の特性もありますから」
ライオンの獣人はハーレムを作りやすく、毎年相手を変える動物の獣人は浮気をしやすいという。
しかしこの獣人は番という感覚がわかっていないことが多々で、もし理解したら一途だろうというのがシャリーテの見解だそうだ。
「人間の国に伝わるものとは話が違うのね……。こちらでは獣人族には必ず運命の番というものがいて、それに出逢うと正気を失うと聞いたわ」
「それ、百年前のやつが原因ですよね!? 違いますよ、アイツがもとからおかしいだけなんです! それに今は第三皇子様が本能を抑える薬を開発してくれたから、昔ほどわたしたちも本能に振り回されませんよ」
「薬……?」
首を傾げると得意げにシャリーテが説明してくれた。
それを聞いてヨアナは驚愕した。
まさか全然反省していないと思っていたレイエル、ひいてはこの国への評価を根底から覆すことになったからだ。
話を聞いてだから百年前の話よりも理性的だったのかと納得するとともに、怖くもなった。
長年研究を続け、薬を服用していても……あれ(・・)なのだ。
もし薬がなかったら……。自分は、どうなっていたのか。
そう思うと獣人が恐ろしくて堪らない。
(でも……彼らも反省して、前に進んでいたのよね。だとすると……)
人と、事件前の関係に戻りたいという思いがどこかしらにあったのだろう。
そしてその思いは消えていないからずっと研究は続けられてきた。
(狭量なのは人のほうかもしれないわね……)
獣人はこちらに歩み寄ろうと日夜励んでいたのに、人側は過去を非難ばかりして現在の彼らを知ろうともしなかった。
……そんな人族へと謝罪した前帝王は、それを許した側近や高官の方々は、どれほど勇気を振り絞ったのだろう。
下手をすれば処刑されかねなかったかもしれない。それほどに前帝王と先王の時代までは苛酷な状態だった。
今でさえ深すぎる溝はあるが、それでも殺伐さはあまり感じなくなった。これらは先のお二人の立派な功績だ。
(恥ずかしいわ……。結局は私も彼らをちゃんと見ていなかった。一度、殿下ときちんと話し合う必要があるわね)
そうしないとこの“番”という関係はきちんと築けないだろう。
自分が百年前の悲劇をまた引き起こすわけにはいかない。だからこその対話だ。
それに、この百年間の彼らの気持ちに報いたい。
獣人にとって本能は大事だろうに人間と関わるために努めてくれた彼ら────レイエルのためにも、自分が壁を作っていてはいけない。
「ありがとう、シャリーテ。少しだけれど、獣人(あなた達)についてわかった気がするわ」
そう言うとシャリーテは目を丸くして、ついで破顔した。尻尾をブンブン左右に振って「レイエル様は他にも──」と嬉しそうに語る姿にこちらも頬が緩む。
同時に、いくら仕事への責任感がなかったり妻となる者への態度ではないと腹を立てたからといっても、調教やら躾やらとただの出来の悪いペットと同列に扱ったことへの罪悪感が湧き上がる。
しかしこんなに喜んでいるところに水を差すのも違う気がして、動物扱いしてごめんなさい、とヨアナは心の中でそっと呟いた。