12話
エレンティアは窓の外へ向けて笑いかけるヨアナの姿に顔を歪めた。
その姿に見覚えがあったからだ。
百年前の、王妃になるはずだった平民の女。
彼女の姿が重なって胸が嫌な音を立てる。身体が震えてくる。
これは、血の記憶だ。遺伝子に決して忘れないようにと刻みつけられた、呪いの光景だ。
夢で何度も何度も見てきた。愛しの夫のもとへ帰ることを信じ、祖国から離れていく景色を希望に満ちた思いで見送った女の横顔を。そして夫のもとへ戻った女が絶望して狂乱した様も。
この血を継ぐものは、ずっと……苛まれる。
気が狂いそうなほどの愛しさと、自分を許せないあの地獄の感情を、延々と繰り返し見せられる。こちらの気がおかしくなるほどに、精神を病ませるほどに。
(でも……変えられるかもしれない)
目の前の気高く誇り高い彼女を、無事にバヤーシアへ帰せたなら。
再びレイエルへと会わせることができたなら、自分たち──“”の本当の願いが叶ったのなら。
──その時が、この百年も続く呪いに終止符を打つことができるかもしれない。
そう思ってエレンティアは手を握り締めた。
自分を鼓舞するように。そして百年もの間叶わなかった“大切なもの”を守るという役割を果たすために。
(……あたしの大切なものではないけどね。現バヤーシア王家の皇子の、大切な人という意味だけど……いいわよね。お母様……)
母はきっとロードヴァーグ伯爵と出会った頃には心を壊していた。
だから恋にのめり込み、最期にはそれが原因で命を落とした。
死因は恋わずらい。それが、情けなく哀れな女の身体を蝕んだ。
(ダメな母親だわ。そんなに恋い焦がれた男なのだからと期待していたけど、……最低だった)
自分の娘が亡くなったばかりでも平然として、妻がエレンティアの存在について口うるさく詰問したら身ひとつで放り出して。
……そして、エレンティアには獣の血の入った化け物だと蔑む目を向けて。
『あなたのお父様はとても優しくて素敵な方なのよ。私が獣人だということに驚いていたけど仕方ないわ……この国は獣人への差別が強いもの。でもきっと、いつか受け入れて私たちを迎えに来てくれるわ。だから待ちましょうね』
そう信じて疑わない、少女のような笑みを浮かべた母の顔はいまでも忘れない。
それをともに信じていた、愚かなあたしのことも……。
「……どうかしたの?」
いつの間にか瞼も閉じて力強く手を握っていたあたしにヨアナ・ハークライトが声をかけてきた。
目を開いた先にあるこちらを心配する顔に眉が寄る。
(……どいつもこいつも、本当に……)
恋するものはみんなこうなのだろうか。
優しく人に心を傾けて、元凶たる存在の心配までして……。
────愚かで、理解できない。
「…………あたしの母親はね、」
なのに、なぜか口が開く。心が、聞いてほしいと叫ぶ。
そんな不思議な感覚から音に乗せて記憶を吐露すると彼女は目を見開いた。
説明が終わり、再びエレンティアが口を閉ざすとヨアナはおずおずと告げてくる。
「……話して、よかったの?」
また眉を下げて心を砕いてくれている様に笑ってしまう。
「いいのよ、もう……。……ひとりでは重すぎたの。だから、あなたにあげるわ。ロードヴァーグ伯爵の弱点と言えるかどうかはわからないけど」
きっと彼女なら上手く使ってくれるだろう。
そして言ってくれるかもしれない。ひとりの女を弄んだ男に国のことを語る権利はないのだと。
(いえ……きっと自分で言えと言うわね。でも、あたしはきっと……)
それを自分の口から伝える機会はないだろうから。
だから託す。自分になにかあったときのために。
あの男は。ロードヴァーグ伯爵は、失敗したものを許さない。裏切りを許さない。
だから実の娘とも思われていない自分は。むしろ実の娘であり獣人との子である自分は、まっさきに命を狙われるだろう。
(まあ、それでも……ヨアナ様が無事に帰るところを見届けるまでは粘りたいけどね)
でないとこの忌まわしい記憶が“彼”からも消えることはないから。
エレンティアの様子がおかしいのは馬車に乗ってから。
なにか決意を秘めた瞳に嫌な予感が襲ってくる。
(ロードヴァーグ伯爵に立ち向かう決意をしたわけではなかったのかしら……)
彼女も共に戦うのだと思っていたが、どうやら方向性は違うようだ。
バヤーシア帝国からピシリア王国までは馬車で半日。そして現在は更にその半分地点まで来ているからあと数時間ほどで着くだろう。
それまでに、彼女の憂いは晴れるだろうか。決意の種類は変わるだろうか。
エレンティアが決めることだから強制するつもりは毛頭ない。
しかし彼女のどこか危うげな眼差しは、まとう雰囲気は……自らの命を差し出すものに似ている。
もしロードヴァーグ伯爵と会うことが彼女の命を奪うことなら。それだけ危険をはらむものだというのなら……。
(やはり、彼女は王家で保護するべきね。私の家でもいいかと思ったけれど、バヤーシアの名を出して王宮で保護してもらうほうがより安全だわ)
もしかしたら自分もレイエルの番、妻だということで王宮に部屋を用意されるかもしれないことを考えればそれが最善だろう。
「…………あたしの母親はね、」
そうヨアナが考えていると突然エレンティアが母親について話し出した。
ロードヴァーグ伯爵を無邪気に信じて待っていたこと。心から愛していたこと。
そして、だからこそ恋心で命を落としたこと。
これらを聞いてヨアナは胸が痛くなった。社交界でもよく聞く話だ。
婚約者が自らの姉妹に心変わりした。ずっと別の女性を心に住まわせていた。彼が必要としたのは家格だけで自分はいらなかったのだと泣き叫ぶ女性たち。
そして、中には自ら命を絶つ者もいた。
エレンティアの母親も彼女たちと同じだった。違うのは純粋だったこと。だからこそ心が耐えられず身体を蝕まれた。
その娘のエレンティアも、父親を信じていたのに裏切られた。
「………………」
ヨアナはそっと膝の上で手を重ねる。
同情も、憐れみも、激情も。いまは必要ない。だから己を律する。
────でないと口汚く罵ってしまいそうだ。
(クソ野郎の最低男が……ッ! 会ったら絶対一発ぶん殴ってやる!)
すでに心の中ではこんなにも罵倒しているヨアナだ。いま口を開けばエレンティアのことを考えず感情のままに余計なことを口走る。
それを自覚していても、ここで黙ったままでいるのは違う。
だからこそ、出たのが話してよかったのかと問うことだった。心の傷は開いていないのかと。
この質問に返ってきたエレンティアの言葉に確信する。彼女は命を賭すつもりだと。
──ならば、自分がすべきことはエレンティアを無事にバヤーシアへ連れ帰ることだ。
彼女の身柄はバヤーシアのもの。今回は皇太子の許可があって連れて来られただけに、本当なら許されることではない。
だからこそ、エレンティアも無事に連れ帰らないといけない。
(絶対、させないわ)
百年前の血を引くものを、再びピシリアで犠牲にするわけにはいかない。
皇太子から預かったものを、傷つけるわけにはいかない。
……ずっと傷ついてきた子を、これ以上傷つけてはならない。
「……安心しなさい。あなたは私が、きっちり守ってあげるわ」
ヨアナは不敵に微笑む。
自分もエレンティアも、ちゃんと無傷でバヤーシアへ帰る。どちらも犠牲にはしないと、そう胸に刻んで。
ヨアナの表情に瞠目するエレンティアに再び笑みを向けて、窓の景色へ視線を移す。
(……絶対、卑怯なやつらには負けない。見てなさい……ロードヴァーグ伯爵ッ!!)
私をバカにしたこと。レイエル様を見下したこと。……エレンティアを、蔑ろにしたこと。
────すべてまとめて、あなたに返してあげる。
自らの行動は自身へ還る。よく言われる話だが、本当の意味で知っているものは少ないだろう。
貧しい人をバカにすれば自身がそこへ落ち、人を陥れれば自らの足も引っ張られる。
この世は巡って巡って、すべて循環するものだ。
──だから、百年前の下劣な行いも早々に還るべきだったのだ。非道な者の血肉へと。
なのにこれを愚かにもバヤーシアの王が妨げた。なんらかの盟約を交わして。
だからロードヴァーグ伯爵家は栄え、脈々と罪を重ねている。被害者を増やし続けている。エレンティアを、その母を。そしてバヤーシアとも関係のないピシリアの令嬢である元妻でさえも。
(痛い目どころじゃない。謝って償えるものでもない。……それは、ピシリア王家も同じこと)
どんな理由であったとしても。たとえ脅されたのだとしても。
決して屈してはいけないことが人にはあったはずだ。
それは尊厳に関わること。自身の安否へ関わること。大切なものを守ること。
……だというのに、百年前のピシリアの王は屈した。決して譲ってはならないことを相手に委ねた。
(その罪は……どう、償えるの……)
彼らにとってはたったひとつの夫婦。けれどそれは決して軽んじてはならない夫婦。
バヤーシアの皇太子だったからじゃない。上のものが判断する“たった”という犠牲の本当の名は“国の宝”だからだ。
他国の民だからと軽んじていては回り回ってこちらの民が蔑ろにされる理由となる。そしてこれを見た自国の民へ深い動揺をもたらし、国の安寧が揺らぐからだ。
だから、絶対に……決して、見捨ててはいけなかった。犠牲にしてはならなかった。
そうした結果がいまのピシリアだ。
人々は自分の幸せしか求めず、他者を思いやらず、蹴落とし優位に立つことばかりを考える。
……これは、百年前の“たった”を大事にできなかった結果だろう。
誰かを蔑ろにした。それも国が。だから民に伝播した。
「……愚かなことをしたわね」
すぐに“たった”を犠牲にするのだ、人は。それこそが大事なものだとも知らずに。その“たった”が明日の自分だとも思わずに。
車内の沈鬱な空気を知りもせず、馬車は速度を緩めることなく進む。
──もうすぐ、二人にとっての因縁の地。ピシリア王国へと着く。
少しの休憩を挟みながらもピシリアへは七時前には到着した。
車内の女性陣を気遣っての速度にしていたわりには早いほうだろう。
ヨアナたちが馬車から降りるとそこには王家が勢ぞろいし、宰相であるハークライト一家も揃っていた。
「ようこそ、ピシリアへ。よく無事に着いてくださった、ヨアナ様」
王が一歩前へ出て両手を広げ歓迎の言葉を述べてくれるがその顔は青い。きっとバヤーシアがなにを考えているのかわからず不安なのだろう。
「ご無沙汰いたしております。国王陛下、王妃様。そしてリティーシア王女様」
ドレスを摘んで笑顔で頭を下げて挨拶をすると空気が柔らかくなったのを感じる。ピシリアにとって悪い意味での来訪ではないと安心したのだろう。
……気が早いものだ。
「よく来たわね、ヨアナ。さあ、両親へも挨拶をなさい。あなたが帰ってくるのをとても楽しみにしていたのよ」
「感謝いたします、王妃様。お父様、お母様、お兄様。このヨアナ、ただいま輿入れ先のバヤーシア帝国から一時的にですが帰国いたしました。お久しぶりでございます」
王妃の言葉に微笑みを浮かべて家族へ挨拶をすると彼らも満更でもない様子でこれを受け入れている。
母など涙ぐんでようやく帰ってきてくれたと呟いているが兄だけがなぜか、不快そうに顔を歪めている。
「よくぞ帰ってきたな、ヨアナ。そこの娘は侍女か? バヤーシアは侍女も着飾るのか」
たいしたものだ、とまるで揶揄するような口ぶりにヨアナはにっこりと笑みを浮かべた。
「ええ、わたくしの侍女ですもの。みすぼらしい格好をされてはわたくしの格が落ちますわ。第三皇子といえど立派な王家の妃ですから、侮られることがあってはいけないでしょう?」
言外に「第三皇子の妃の侍女に対して無礼だぞ」と言っているのだが額縁通りにしか言葉を受け取れないのか不承不承頷く父親にヨアナは内心で溜息を吐く。
エレンティアはレイエルの婚約者だと名乗りをあげたときと同様にきらびやかなドレスを身にまとい、髪飾りも豪華につけた侍女というには相応しくない装いをしているが彼女はこれから必要になる立派な取引材料だ。
それを父親に説明する必要はないがバヤーシアが彼女を冷遇していると取られるような地味な格好はさせられない。
ロードヴァーグ伯爵にまだ、エレンティアは利用価値があると思い込ませなければならない。失敗したと、悟られてはいけない。
でないとすぐにでも命を狙われかねないし、そうなってはこの来訪そのものが意味を失ってしまう。
皇太子がエレンティアを伴うことを許してくれたのはきっとロードヴァーグ伯爵を油断させる意味もあるのだろう。
そのためには彼女を尊重していると周囲に思わせなければならない。
「さすがヨアナだな、振る舞いをよくわかっている。さぁ、中に入ってもっとよく話を聞かせてくれ」
すっかり油断しきっている王が中へと促してくれたのを皮切りに王妃たちも室内へと入っていく。
ヨアナもこれに続き、もちろんエレンティアと護衛たちも後に続いた。
(ここからが勝負よ……)
淑女の鑑のヨアナにしか用がない人たちと、百年前の真実を手に入れるための戦いが始まる────。




