1話
ヨアナ・ハークライトはピシリア王国の公爵令嬢だった。
みなの見本となるべき素晴らしい所作と言葉遣いで国内外問わず彼女を妻にと望む声は多かったが王家の血縁ということもあり、いつどこでその役目を発揮することになるか分らない情勢と貴族の力関係で嫁がせる家門がなかなか決まらず、婚約者を立てることも出来なかった。
だから余計に自分にもチャンスがあるのではと勘違いした輩からの申し出もあったりと王家公爵家は大変だったが、本人は普段と変わらず淑やかで見目麗しい外見と違わず優しく思いやりある性格で周りを魅了し続けた。
彼女がすごいのは大抵そういう人間は同性に嫌われるものだが人気は男性よりも女性からのほうが圧倒的にあった。むしろ異性よりも純粋で熱量がある想いを寄せてきていたのは同性という稀有な令嬢だった。
────そんな彼女がいま、隣国のバヤーシア帝国の帝王の間で蔑視を一身に受けているなどと知ったら王国の令嬢方はどうするだろう。
「ヨアナ・ハークライト。貴様は我の息子である第三皇子、レイエル・セレンディーア・バヤーシアの番であるからこの国へ嫁入りを許した。その意味をよくよく考えその身を捧げよ」
帝国の王、今日から自分の義父になる存在からの言葉に淡いピンクの上に花柄のレースがあしらわれたドレスの両端を持ち上げ頭を下げることで応える。
発言の許可をくだされていないのに口を開くのは失礼に値する。顔を上げることもだ。
ヨアナはこの広間に入るときから目を伏せ顔も上げていない。
普通なら顔を上げろと王から許可がくだり面を上げて挨拶するのだがここ、バヤーシア帝国は獣人の国。それも人を蔑み軽視した価値観が横行して久しい。
ゆえに人間であるヨアナは声を発することも許されず顔も上げさせてもらえず、更には屈辱的な発言をされても淡々と礼を取るしかなかった。
「勘違いするな。お前は確かにオレの番だが妻扱いするつもりはない。ただ傍でオレの気分の安定のためだけに生きろ」
そのうえ帝王の隣に立っていた夫であるレイエルにさえそんなことを言われても、ヨアナはただ黙っているしか出来なかった。
(ふざけんなよクソ男)
そう腸が煮えくり返り口を開けば火が出るのではと思われる激情に駆られているのは自国で蝶よ花よと持て囃され、ほとんどの令嬢からの熱視線を集めていたヨアナ・ハークライトその人だ。
実はこのヨアナ、淑やかなのは見た目だけで中身は男顔負けの男前。竹を真っ二つにスパーンッと切ったような性格であり、自分だからでなく女性に対しこのような物言いをする男が許せない。
それにいくら人族が先に獣人を獣だと迫害し差別したからとしても、見た目は同じ人間の姿なのに……しかも百年近くも前の話なのに……い・ま・だ・にっ! こうして蔑む獣人族の性根が問題なのでは? と内心奥歯をギリギリしながらヨアナは思った。
そもそもどうして人族が獣人を迫害したか。それは人間同士の夫婦だった妻を突然現れた獣人が番だと言って襲ったからだ。
これに抗議した人間側に対し獣人は番なのだから仕方ない、こちらの番と勝手に婚姻していたそちらに非があると難癖をつけてきた。だから人族は「この獣がっ!!」と言って国から一切の獣人を追い払い、長年国交も断絶させたのだ。
なのにこの言い草……。
(性根が腐り切ってるわ。百年も経つのに反省ひとつ出来ないわけ?)
そもそもなぜヨアナがこの国へ嫁いできたのか。
妻扱いしないという王子の一言のせいだ。
百年続いた国交断絶。これが解除されたのはバヤーシアの前国王が人間側に頭を下げたからだ。百年前、一つの夫婦仲を壊す暴挙に出てすまなかったと。
これに驚いたもののそう長年の溝は埋まらないし納得もできない。しかし国交が復活すれば得られる旨味は双方ともにある……どうするか。
そして大臣たちが話し合った結果、国交は復活した。
当時ピシリア王国は飢饉に瀕していた。そしてバヤーシア帝国は水不足にあえいでいた。
水が豊富、しかし度重なる自然災害により作物が育たずにいたピシリア。
そして安定した気候で自然災害など滅多に起こらないバヤーシアは突然水源が枯れていっていた。
両国の救いのために再度繋がれた国交は実を結び、互いの国の王たちが気が合ったこともあって後継者の代には王国祭やパーティーにも招待し合う関係にまで国家間の仲は回復していた。
だからピシリアの王女、リティーシア・レベロ・ピシリアの生誕祭にバヤーシア帝国も招待された。
しかし先代とは違い現帝王のシシェールは人族に対し差別意識が強く、後継者である第一皇子は友好国の慰問に赴く用があり、第二皇子は西の国へ留学しているため末の皇子であるレイエルが来ることになった。
きらびやかで華やかで、とても優雅な王国のパーティー会場。
ヨアナはいつもと変わらず令嬢に囲まれ談笑していると絡みつくような強い視線に襲われた。
いつも向けられる眼差しとは違う雰囲気に不思議に思ってそちらを見れば、まるで熱に浮かされたように瞳を潤ませ歓喜に笑んだ表情を浮かべている灰色の短髪に青い眼をした背丈の高い青年に首を傾げる。
(あんな方いたかしら……?)
この国の貴族ではないだろうとどこか獰猛さ感じさせる気配にすぐ察せられた。では問題はどこの国の貴公子なのかだが……それも、すぐに察することとなった。
「見つけたぞ! オレの愛しの番ッ!!」
(あーーーーーー!! バヤーシアの皇子かッ!!)
相手が叫んだと同時にヨアナも心の中で絶叫した。罵倒する思いで。
いくら国交が復活したとはいえまだ火種は至るところに燻っている。それほど両国間の溝は深いのだ。
だと、いうのに……!
(なんてことをなんて場で叫ぶの!? 国際問題になったらどうするつもり!?)
レイエルが口にした言葉は百年前、両国間の深い溝となる原因の獣人が叫んだ内容と一字一句違わずまったく同じだった。
だからこそピシリア国の貴族が大半集うこの国では決して口に出してはいけないものだというのに、あのバカ皇子はなにを考えているのか。
思わず優雅に微笑んでいた口元がひきつるのを感じながらもヨアナにはどうすることも出来なかった。
なぜなら件の皇子はしっかりと自分を見て叫んだからだ。それはもう、しっっっっかりと。
更にまだ誰に向かって発されたかわかっていない自国の貴族たちが各々の婚約者や伴侶を庇うように自らの背で隠しているため、もしバヤーシアの皇子がこの侮辱行為に気付けばそれこそ戦争になりかねない。
それほどにまだ両国間の民の気持ちにはわだかまりが硬すぎるほど残っている。
カツカツと靴音を鳴らして足早に向かってくるレイエルにヨアナは心の中で「来んなッ!!」と叫ぶも願いは虚しく、目前に立たれてしまった。
(倒れないかしら……。でもここで意識を失ったらこいつに連れ去られそうでそれはそれで怖い……)
なにが怖いか。それは貞操ではなく戦の火種をこのバカが撒きそうなことだ。
きっと周囲が止めるのも構わず自分の番を介抱してなにが悪い! と叫ぶのだろう。悪いことだらけだ。お前と私は初対面だ。
そう思うとどれも悪手な気がして、ヨアナは優雅にゆったりと微笑むことにした。
「あら、もしやバヤーシア帝国の……確か……第三皇子殿下ではございませんか? なにかご用でしょうか。わたくし達は初対面のはずですが……」
訳。顔も見知っていない間柄なのだからさっさと目の前から失せろ。婚約者でもないのに不躾に令嬢の前に立つな、だ。
「いかにも。オレはバヤーシア帝国の第三皇子、レイエル・セレンディーア・バヤーシアだ。お前とも初対面だが、そんなことは関係ない。お前はオレの番だ。このパーティーが終わり次第オレと共に国へ来い」
しばいたろか。
シンプルかつ正直に思った。本当に、ひっぱたいてこの場から追い出してやろうかと心底思う。本当にこいつは皇子なのか? 王族教育は受けているのか?
(バカなのっ!? バカでしょ! とりあえず先に婚約者の有無を確認しなさいよ!)
王族どころか貴族としての立ち居振る舞いすら危ういこの皇子にヨアナは頭痛がした。
誰だ、こんな外交に不向きな皇子を寄越したのは。
そもそも獣人族に理性はないのだろうか。些か疑問である。
「あ、ら……それは……あの、父や国王様とお話してくださいませんか? 他国へとなるとわたくしは公爵家の者ですので国が絡みます。それに令嬢の婚姻については家長である父親が……」
「そんな事はどうでもいいっ! お前はオレの番だ! なんとしても国へ連れ帰る!!」
横暴だぁぁぁぁぁ!!!! とヨアナは胸中で全力で叫んだ。きっと周囲の者たちもそうだろう。
そしてこうも思ったはずだ。「バヤーシア帝国は、獣人は、百年もの間全く反省していなかったんだな」と。
(あーーーーもうっ!! ダメだこいつ!)
そう思ったヨアナは人差し指をレイエルの口元へそっと押しつけた。勿論、本心では冷や汗ダラダラ。この精悍でお綺麗な顔へ手のひら全体を押しつけたい思いを我慢した。
折角ヨアナが遠回しの遠回しに振る舞いを非難したというのにあろうことか、どうでもいい? 下手したら宣戦布告にも取られかねない発言を、どうでもいい?
「殿下、そんなことを仰られても困ってしまいますわ。わたくしが共に行きたいと願ったとしても、お父様や国王様が反対されれば叶わないことです。それにバヤーシアの帝王様は人がお嫌いでしょう? わたくしを受け入れてはいただけないと思いますので、先に殿下お一人で戻って事の次第をお話くださいませ。そちらへ参るかどうかのお話はそれからですわ」
優雅なる令嬢の微笑を浮かべて甘えるように囁く。
獣人は番認定した者には優しいと聞く。だからこうして告げれば聞き入れてくれるだろうと考えたのだが、どうやら間違ってはいなかったようだ。
目に見えて毛を逆立てた獣のような雰囲気だったのが落ち着いて、頬なんてほんのり色付いている。
「父上か……。そうだな。先に父上を説得してからでも遅くはないかもしれん……」
私の指をそっと黒手袋をした右手で優しく離させるとブルーダイヤのような瞳を愛しげに細めて静かに呟き、こちらをじっと見つめてきた。
「それまで待っていてくれるか。公爵令嬢だというが名前はなんだろうか」
先程までの傍若無人ぶりはどうしたのか、見た目通りの貴公子然とした受け答えをするレイエルにヨアナは目を丸くする。
こんな理性的な振る舞いもできるのか。獣人族は番に出会うとあまりの興奮状態に正気を失うとは聞いたことがあるが、まさかそれがあの状態のことだとは……。
(でもさっきのが正気をなくした状態だとしたら……百年前の獣人はなんだったの?)
夫婦がいる家に押しかけ一方的に主張すると夫の見ている前で……という話だと聞いたが、どこかで話がねじ曲がったのだろうか。
そんなことを考えながらヨアナはにっこりと勝手に番だと言い張る失礼な男へ淑やかにドレスの片方だけを上げて名乗った。
その後パーティーが終わるとともにレイエルは国王、ヨアナの父と面会し番だから寄こせと主張して帰っていった。
そしてすぐにバヤーシア帝国から嫁入りを許可する旨の手紙が届き、父であるハンゼルと母のヨセンフィーナが立腹するも国王からの命令もあってこの度の輿入れとなったのだが…………。
(この仕打ち……! あのパーティーの時の甘い空気はなんだったのよ!?)
ドレスを摘んだままの指に力が入りギリギリと生地が傷む音がする。
「フンッ……挨拶も済んだ。貴様は妻などという思い上がりをせず部屋で大人しくしておけ。そしてレイエルの安定のために力を尽くせ」
尊大に告げると帝王は目障りなものを視界から排せと指示するように手を横に薙ぐ。
それを受けて侍従が退室するよう私に促してきた。
(言われなくてもとっとと失せてやるわよ、このクソジジイッ!!)
ベーッ! と心の中で舌を出しくるりと半回転するとヨアナはやっと顔を上げられた。その勢いのままにカツカツカツ、とそれはもう足早に天井に届きそうな大きく重厚な木製の扉へ向けて突き進む。
後ろから自分を見つめる暑苦しく粘着質な夫からの視線を一刻も早く振り切るように。
あまりの速さに扉の両脇へ控えていた侍従たちがギョッとし、慌てて左右に開いてくれたところで後ろから声がかかる。
「ヨアナ……ッ!」
それは少し切羽詰まったような、もどかしく恋い焦がれるような声色だったが呼ばれた当人であるヨアナは聞こえないふりをして素早くそこをくぐり出た。
残されたレイエルが半獣化して立派な狼の耳と尻尾をペタン……と情けなく下げているなど思いもせずに、ヨアナは動き辛いドレスやヒールを着用しているとは思えない速さであてがわれた部屋へと直行した。
「…………なんですの、これは……。どうしましたの……?」
ヨアナはバヤーシア帝国の洗礼を受けていた。まさかここまで両国間の溝が深く、獣人からの人間蔑視がひどいとは思わなかった。
まさかまさか、仮にも第三皇子の番で妻の自分がこんなことをされるとは想像もしていなかった。していたけれど“これじゃない”。
「すみませぇーん。人間の好みはわからなくてぇー……」
「わたしたち獣人とは違うんですもの、勝手にできませんわぁー」
「ふふっ、気に入らなければ番さまがご自分で部屋を飾り立てればよろしいのよ」
ま、さ、か。まさかまさかまさかっ! 自分のあてがわれた部屋が……納戸。それもクモの巣、割れた窓、穴の開いた床を部屋にされるなんて想像できるかっ!
(か、仮にも皇子に乞われてやってきた他国の令嬢をこんな扱い!? そもそも王城なのにこんな手入れのされていない部屋があるってどういうことなのよッ!!?)
あらゆる面で腹の立つヨアナは先程のこともあってもう我慢できなかった。
せめて休む部屋ぐらいは平穏であってほしかったのに……。そうだと信じていたのに……。
こいつら、メイドですらないな。
主から部屋を用意するよう指示されただろう。ならば主に恥をかかさないようにきちんとした部屋を準備しなければならない。それを…………!
────パシンっ!
ヨアナは両手を力強く叩いた。
それはチーターや猫、犬の耳をしたこの自分の立場を理解していないメイドたちのキャハキャハうるさい口を黙らせるためだ。
結果、目論見通り耳のいい“獣”たちは静かになった。猫など耳を押さえて涙目になっている。
ヨアナは彼女たちへしっかり顔を見合わせた。それはもう、優雅で隙きのない満面の笑みで。
「!!!!」
三匹がビクッと肩を跳ねさせ互いに抱き合うのも構わずヨアナは静かに、しっかりと、抑揚少ない少し低めの声で告げた。
「……これは、帝王様が指示されたお部屋? それともレイエル様かしら? …………もし、どちらでもないのなら…………わたくしを、気遣ってくれる、立派な……メイドのあなた達なら、………………わかるわよ、ね……?」
絶対零度の笑みとはこのことだとばかりに身の危険を知らせてくる本能に三人は震え上がり、急ぎ新しい部屋を準備した。最短記録で。
「あらあら……とても素敵なお部屋ね。先程のは祖国を離れ寂しがっているわたくしを励ますためだったのかしら? ……ありがとう。おかげで寂しさはどこかへいってしまったわ。やっぱりバヤーシア帝国の王城で働く方々は優秀なのね。気遣いが人とは違って細かくて……とても、気持ちが高揚したわ」
怒りで、とは言わない。優美な笑みを浮かべて心から感謝しているという風に見せてこそ、立派な淑女だ。
それは獣人にも適応するようでさっきまで怯えていた三匹も顔を明るくさせ喜んでいる。
(悪い子はきちんと躾し直さないとね……)
ただの動物と獣人、もっと言えば人間でさえ調教は必要だ。
主人に逆らう。無駄吠えする。過ぎた悪戯もするとあっては輪を乱す。
……第一関門、突破。
使用人からの嫌がらせは予想内。ただ部屋の段階からだとは想像していなかっただけ。
三匹の躾のなってないメイドはとりあえず、実生活に支障ない程度には調教できた。
(待ってなさい……傲岸不遜なクソ男! 私の夫というならその根性、叩き直してやるからっ!!)
ヨアナの目下の目標は“打倒、レイエル!”だ。
すべての元凶を私の快適生活のために躾し直してやる!!
気概十分に内心で拳を握り、ヨアナはご褒美とばかりに甘み辛み素材味の様々な菓子を三匹の前に取り出して見せ好きなものを持っていくように告げた。
こうして王国一の淑女と勝手に番認定したのに偉そうな皇子との戦いが幕を開けた。