偽典:あるいは、二人目の
■■■、■■■
我らの愚かを、お裁きください
■■■、■■■
我らの欲深きを、お諌めください
我らは間違っていた
貴方に、違うものを見出した
■■に非ざれば、■たる人
■たる人に非ざれば、■たる炎
それでも■であったがゆえに
我らはそれを欲し、奪ってしまった
ああ、■■■。
成れの果てになった、■■■。
とある廃堂の碑文より
(一部、判読不可)
ようやく、終わった。
それはうろの中に落ちていった。そうして炎の中、どろどろに焼かれ、溶けていった。炎を衣にしたものは、炎によって消えていった。
傷だらけだった。血みどろだった。息も上がっている。
もうきっと、他のものはいない。おれが剣を手にし、戦いはじめてから。あいつらを殺しはじめてから、あいつらはあいつら同士で争いはじめた。
大きなものは、今のやつを含めて三つ。ひとつは先に、元にいた場所に帰ったそうだ。もうひとつは海から来て、今のやつと正面から争い、海の中に消えていった。
あいつだけだった。朱い目をした、あいつ。
これで終わるんだ。それひとつで、体は軽くなった。
帰ろう。
ずっと遠くまで来てしまっていた。でも、どこへ帰ろうか。よくしてくれたあの谷の人々も、焼かれてしまった。平野の羊飼いたちはどうしているだろうか。おれをありがとうしてくれて助けてくれた六人は、まだ生き残っているだろうか。
そうだ。あのひとのおはかを建てなければ。そう、決めていたんだった。
すべて終わったら、この名前をくれたあのひとにありがとうをする。それは、この旅の中で、おはかというものを知って、それができることを泣いて喜んだ。おれもあの人に、ありがとうができるんだって。
そうしよう。おはかを建てに。そして、そのそばで。
倒れていた。
違う。押さえ付けられているのか。生き残っていたやつらがいたのか。
「ああ、■■■よ。あなたは、■となり、■を倒した。ふたつの■となったのです。素晴らしいことです」
聞いたことのある声だった。六人のうちの、ひとり。
見渡した。人。目が、濁っている。よくないことを考えている目だ。
「でも、それはきっとよくないことなのです。■はひとつの体に、ふたつあってはいけない。だから再び、私どもが、あなたをお救いします」
体を、起こされた。目が合う。長老。剣を持っている。
やはり、その目は濁っていた。笑ってすらいた。
待ち構えていたのか。おれがこうなるまで。あいつをおれが、倒すときまで。
どうして。
「これは、あなたのためなのです」
痛みが、広がった。
おれは、きみたちのために戦ったのに。おれは、おれのために、そしてきみたちが、生きて欲しいと思って戦ったのに。どうして、おれを。
ねえ、どうして。
どうして。
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1.
夢なんだろうか。どう受け止めるべきか、わからない。
暗い。林の中だと思った。眼の前に、光があった。夜のこわさがアンリを包んでいた。だからそれに誘われるように、そちらに進んだ。
しばらくして、そこにたどり着いた。焚火。木の爆ぜる音。やはり、林の中。
そして影、ひとつ。
誰かが地べたに座り込んで、火に小枝を投げ入れていた。男かも知れない。輪郭の柔らかな、でも、お化けのようにも覚えた。
なにより、ひとりぼっちで、寂しそうだった。
「聞こえるかい?」
聞こえた。
感じた、が近いだろうか。そのひとの口は、動いていなかった。
「はい。戸惑いはありますが、聞こえます」
「おれには声がない。このようなかたちになることを、どうか、ごめんなさいをさせてほしい」
やはり、口は動いていなかった。
声がない。その意味は、わかりかねた。
ひとまず、正面に、と思ったが、吸い寄せられるように、そのひとの隣りに、座り込んでいた。
生成りの、厚手の綿織物だろうか、おそらくは古い時代の装束。頭巾を被っているが、時折見える、男とも女ともとれ、あるいはとれないような、しかし美しい顔立ち。銀というよりは白金が近いだろうか、目元まで伸ばした髪。そしてそこから覗く、七色に燃える瞳。
こわかった。でも、知っている人のような気もした。
「御使さま、なのでしょうか?」
「今の人々は、よくそう呼ぶ。それでいい」
向けた顔は、少しだけ、悲しそうに微笑んでいた。
「けどおれは、おれのこころで戦った。誰かのお願いではなく、おれのお願いとして」
やはり、その人だった。
「申し訳ありませんでした。存じ上げなかったがために」
「いいよ。受け入れることが難しい、というぐらいだから」
素敵な声だった。やはり男とも女とも、そしてそのいずれでもないような、それでいて、穏やかな声。
しばらくふたり、火を眺めていた。
そのうち、どうしてか、肩を委ねていた。きっと温かいひとだと思っていたが、熱は感じなかった。骸のようだった。
「しばらく、そうしておくれ?おれは、寂しかった。だから、きみを呼んだ」
「ミュザさまはあまねく人の隣りにいらっしゃると教わりました。そうではなかったのですね」
「きみの知っている人々がよく言うように、語り継がれるものと、ほんとうに起きたこととは、別だから」
言葉の選び方は、独特だった。真実と事実は別。それをそのように表現するのは、どうしてなのだろうか。
でも、考えればきっと、悲しいところにたどり着くような気がして、やめた。
肩に、手を回された。
ほとんど抱き寄せられるかたちだったが、ときめきなどは感じなかった。寂しさや哀しさばかりが伝わってきた。
空いている手を取った。やはり、冷たかった。そのひとは、ミュザさまは、やはり悲しそうに、それでも微笑んでくれた。
御使のミュザ。
アンリにとっては、伝説の、そして信仰の対象。何度もその名を借りたひと。幼い頃、このようにして、あるいは別のかたちで、夢の中で見え、思いを託されたのは、今でもアンリの道標になっていた。
ただ、そのときのミュザさまとは違う人のように思えた。御使として神託を授けてくださった英霊ではなく、ほんとうの、ひとりの、ミュザさま。
「幼き頃、貴方さまより神託を授かりました。自分は人を照らすことしかできない。照らす光の中で、人が傷ついていくのをみるのがつらい。だから、人を助けてほしい。それは今でも、私の中で、私そのものとして生き続けております。そしてそのために、幾度となく、そのお名前をお借りしました」
「そうだったね。あの時のおれとは別のかたちだから、きっと、びっくりしたろうね」
「はい。あのときのミュザさまは、まさしく教えの中にあった御使のミュザ、そのものでした。今はほんとうに、ただひとりの、ミュザさま。私が、ただひとりのアンリエット・チオリエであるのと同じように」
「今は、このかたちできみと会いたかったから。ほんとうのおれとして、きみと会いたかった」
「ありがとうございます。でも、どうして私なのでしょうか?今でも思い悩むことがあります。もっと力のある人も、もっと心の強い人もいます。私のように、弱く、小さく、泣いてばかりのものを、ミュザさまはどうして、お選びいただいたのでしょうか?」
しばらく、答えはなかった。ただ少しだけ、触れた場所、触れてくれた場所から、小さな震えを感じた。
もう少しだけ、体を寄せられた。
「おれも、そうなんだ。きみならわかってくれると思ったから、きみにしたんだ」
ミュザさまの頬は、濡れていた。
手で、その頬を、涙を、拭った。心の中に、ありがとうと、ごめんなさいが伝わってきた。たくさん、たくさん。
わかってあげようと、思った。これまでずっと頼ってきたミュザさまの、本当の姿を。
そう思うたび、ミュザさまの顔は、つらく、悲しいもので歪み、そして多くの涙で濡れていった。いっぱいの、ありがとうが聞こえた。
「おれの話を、少しだけ、しようと思う」
ひとしきり落ち着いて、またふたり、火を眺めながら。肩を抱き寄せ合いながら。ミュザさまは語りはじめた。
物心付いたときから、ひとりだったという。棄てられたかもしれないけれど、それはわからなかった。自然の中で、けものや、人のようであり、そうでないようなものと共に暮らしていた。それぞれはそれでも、ミュザさまを、人として育ててくれたという。
南の方から、大きな生き物たちが押し寄せてきた。
龍。
すべてを壊され、燃やされてたという。大陸のすべてを、新しい住処にしようとしていたそうだ。
それが、許せなかった。泣いて、たくさん泣いて、戦うことを決めたという。それも、ひとりで。
小さな龍から。それでも、身の丈の倍ほどもあるもの。
ぼろぼろになりながら、それでも殺したと言っていた。生き残った人からは、ありがとうをされた。つまりは、感謝されたという。
ミュザさまには声がないから、答えれないことがつらかったらしい。それでも、ありがとうが、嬉しかったと。
ひとりの男。龍に襲われて、死にかけていた。襲った龍を倒し、その男を助けようとした。
頭では、もう駄目だと思ってしまった。それでも、助けたかった。
男の名は、ミュザといった。死ぬ前にありがとうをしたいから、名前を教えてくれと。
でもミュザさまには、名前がなかったし、それを伝える手段もなかった。何とか身振り手振りでそれを伝えて、ごめんなさいをしたという。
男は、名前をくれた。男と同じ、ミュザという名前を。文字と呼ばれるものでも、それを教えてくれたらしい。ミュザさまは文字も知らなかったから、頑張ってかたちで覚えたという。
ありがとう、ミュザ。そうして、男は死んだ。
その骸の前で、ミュザさまは、ありがとうとごめんなさいを繰り返しながら、泣いていたと。
「だからおれは、ミュザなんだ。ふたりめの、ミュザ。それがおれの、ほんとうの名前」
穏やかな、微笑みだった。突き刺さるほどに、柔らかい。
心が、どうしようもなくなっていた。ぼろぼろと、こぼれていた。抱きしめていた。冷たい体だった。
ミュザさまは、同じようにぼろぼろと泣いていた。声がない。だから自分とは違って、声として吐き出すことがない。だから、自分よりもっとたくさん、涙を流していた。
「ミュザさまは、おつらい思いをされてこられたのですね。二人目のミュザさまは、そうやって、戦ってこられたのですね。だから今、私たちが、いるのですね」
「うん。だから、きみが、きみたちが生きてくれている。それが本当に、うれしいことなんだ。おれが戦った。おれが龍を倒したから、今のきみたちが、いてくれる。うれしい。やってきて、よかった。アンリエット、ありがとうね。産まれてくれて、生きてくれて、ありがとうね。そして、おれの声を、おれの話を聞いてくれて、ありがとうね。そして、ごめんね。おれのせいで、いっぱいのつらいをさせてしまって、いっぱいの傷を負わせてしまって、ごめんね。おれが、あんなことをお願いしなければ、きみはきっと穏やかに、幸せに生きてこれたはずだった。でも、おれの声が届く人が、きみしかいなかったんだ。ずっとずっと、探していた」
「ありがとうございます。私を、見つけて下さって。二人目のミュザさまのためなら、私は、二人目のミュザさまの名を頂戴し続けます。託してくれた思いと、戦いを続けたく思います。二人目の、そしてただひとりのミュザさまのために。ただひとりのアンリエットは、戦います」
「ありがとう。そして、ごめんね。アンリエット」
またひとしきり、落ち着いて、また泣きながら、ミュザさまは目を合わせてきた。
「でもね?やめても、いいからね?きみは、おれと同じようなものに、なりそうになっている。今の人の言葉だと、聖人とかいうものに。おれの時の言葉だと、神さまというものに」
「二人目のミュザさま。私は、それを受け入れました。聖人と、向こう傷の聖女と、呼ばれることを。二人目のミュザさまが、きっと神さまと呼ばれることを、受け入れたように」
「つらくは、ないかい?きっと、いっぱいのつらいがあるだろう?だからね、会いたかった。もう、見てられなくなってきたから。おれのせいで、アンリエットがアンリエットでなくなってしまうのが、いっぱい、つらいから」
「つらいです。でも、皆がいます。そして御使さまが、二人目のミュザさまがいるから。こうやって、お話をしてくださったから、私は戦えます」
「ありがとう。やっぱり、ありがとう。アンリエット」
抱き合わず、ふたり、顔を合わせたまま、涙を流し続けていた。
二人目のミュザさまと、もう一度出会えた。二人目のミュザさまは、人だった。自分と同じように、弱くて、泣き虫な、そして声のない、ひとりぼっちの人。
だから、友だちになりたかった。ミュザさまの、友だちに。
このひとは、神話の御使でもない。伝説の英雄でもない。過去に、ずっとずっといにしえに、本当に生きていた、自分たちと同じ、人だったのだ。
やがて火が、昏がりに飲まれはじめた。
「今度はきみが呼んでおくれ?いつだっていい。うれしいこと、かなしいこと、つらいこと。こうやって、お話をしたい。ようやく見つけたアンリエットと、話がしたい。おれから呼ぶと、きっとつらいものばかりを話し合ってしまうから、きみが、呼んでおくれ?」
「はい。ミュザさま。二人目の、ミュザさま」
闇の中。その柔らかな輪郭は、最後まで、隣りにいた。
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霊峰ヴァルハラ。あるいは、アルドホギヤルとも。
コルカノ大陸北西部に並ぶ山脈の中にあり、現在確認されている中では世界最高峰の山である。
ヴァーヌ聖教では、御使たるミュザが荒廃の龍と相対し、これを討ったのち、そのうろに骸を投げ入れた聖地のひとつとされているが、現状の調査範囲内では、龍を投げ入れたであろううろと思われる噴火口、あるいはカルデラは確認されておらず、また、こんにちまでの観察において、ヴァルハラ山が噴火したことは、一度も確認されていない。
さる考古学者の提言によると、“本当の霊峰”は、もっと東、大平原と北方ツンドラ地帯の境にある、名前もない山であるという。そこには確かに長大な山脈と、一際大きな山があり、その山頂には、今も煮えたぎる溶岩をなみなみと湛える巨大な火口が存在する。
あるいは大王の時代、大ヴァルハリアの君主として君臨したミヒャエル・マイザリウスの、無謀とも評される大東征は、この山を確保することで、御使たるミュザの末裔であることの正当性を確保するために行われたのではないか。そう推測する歴史学者は、少ないながらも存在する。
ヴァーヌ聖教における守護聖人や、ミュザの庇護者とされる歴々は、実際に存在した人物や、もしくは、それらをモチーフとして創作、脚色された存在である。しかしただひとり、現在においても、あらゆる古文書、歴史書において、存在が確認されていない、あるいは、それに該当する人物が見当たらないものがいる。
記されざるひと、ミュザ。それが、その名の所以である。
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2.
燎原の火。
立ち尽くしていた。あたり一面が燃え盛り、骸ばかりが散らばっていた。
見せるな。
重なった。かつての景色。ヴァーヌの、火。すべてを燃やし尽くされた、あの一夜。
叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。
見せないでくれ。これは、私の罪だ。私が犯した、過ちだ。
誰も、誰も守れなかった。誰も救ってあげられなかった。
やめてくれ。突きつけないでくれ。私がいかに愚かだったかを。私がいかに弱かったかを。
夢であってほしかった。
そうして、ごうと、音が爆ぜた。
炎が、舞い上がっていた。眩しい。腕で顔を隠してしまうほどに。
正面。転がる骸のうち、ひとつが立ち上がった。よろよろと、しかしそのうち、なによりも力強く。
男。細く小柄だが、堂々と、そして、神々しかった。
たなびくは陽炎の翼。そして戴くは、炎の冠。
あれは。もしや。
「問われたならば、名乗るべき名は、ただひとつ」
傲然と、脳内に響き渡る声。荘厳な鐘の音のように。
「我は、ミュザ」
白金の髪。七色の、光。
「その名を名乗り、斃れたものの名を受け継ぎ。その名を呼びながら、斃れたものの心を受け継ぎ。朱き瞳の龍より、その炎を受け継いだもの。人より神と成りて、炎に至れり」
古い綿織物の装束と、頭巾。そこから少しだけ覗く、美貌。そして、刀身が燃え盛る、金色の剣を携えて。
「神炎の、ミュザ。あるいは、二人目のミュザである」
御使のミュザ。
ヴァーヌ、そしてヴァルハリアそのもの。私から、すべてを奪い、塗りつぶした、そのもの。
湧き上がっていた。血も、涙も、怒りも、悲しみも。そして、声も。
お前が、お前が。お前の纏う炎が、全部。
「お前がいなければ」
叫んでいた。
「お前がいなければ、ヴァーヌ聖教が無ければ、私は何も失わずに済んだ。何ひとつ、塗り潰されずに済んだ」
戦慄いていた。涙が、溢れていた。
こいつさえ、こいつさえいなければ。
頭の中に広がる、つらさと、悲しみが、すべて怒りとなって、声と、涙になっていった。
「朱き瞳。お前もまたかつて、すべてを焼き滅ぼした。互いに思うところはあろう。我はそれを受け入れた」
「くそたわけが、ほざくなっ」
ひときわに吠えていた。
きっともう、人のかたちすら保てなくなっていただろう。それぐらいに、溢れていた。
「私の愛するものを、私を愛するものを、お前は、お前たちは、すべて焼き焦がし、塗りつぶした。お前の真実などいらぬ。お前がいた事実すらも、認めぬ。御使だろうが、神炎だろうが、何人目のミュザだろうが知ったことか。その名前に恨みがある。その歩んだ道に、怒りがある」
許さない。許さない。許されようと、絶対に、許さない。
「私はシェラドゥルーガだ。朱き瞳の、シェラドゥルーガだっ」
襲いかかった。
爪を振り、尾を叩きつけ、ふたつの顎で噛みつき、あるいは灼熱を吹いて。人が恐れるであろうすべてを、体の内から迸らせた。
溶岩の涙。炎と化した、叫び。
あれを焼き尽くすためなら、何だって使い尽くしてやる。アンリの勇気も、我が愛しきオーブリー・リュシアンの俤も、出会ったそれぞれと育んできた、すべての愛も。
それでも、やはり英雄。すべて躱され、払われ、切って捨てられた。怒りも、涙も、育んできた愛も。爪は爆ぜ、皮膚は焼け、牙は折られた。炎の剣。傷は焼かれ、血を吹くことも許されず。喉を突かれ、叫ぶことも、許されなかった。
助けておくれ。アンリ。リュシアン。そして、神さま。
そのうちに、何も無くなった。燃え殻のようになった、人の姿だけが、残された。
崩折れ、跪いていた。
英雄は。現人神は、眼前にて立ちはだかっていた。かつてのアンリと同じように、七色の炎を纏いながら。
「我は誰の使いでもなく、我の意志の使いであるが故、我が炎がある。朱き瞳よ。そなたには、何がある?」
何も、残っていなかったはずだった。
体のうちを探した。少しだけ、残っていた。アンリも、リュシアンも、皆も。
これで、生きてきた。
「愛。ただ、それだけ」
意志も何もなく、漏れていた。
「人を愛し、人に愛されることを、望んだ。願い続けた。それを、お前の火は、許してはくれなかった」
涙は、頬をつたう前に、熱されて消えた。
もういい。もうやめたい。こんな思いをしてまで、生きていたくない。何のために産まれたのかもわからず、ようやく見つけたものも否定され、育んだものは、燃やされた。
もういらない。もう、消えてしまいたい。
「燃やしておくれ。もう、疲れた。愛が消えゆくことに。愛が、潰えゆくことの、つらさに。もう、堪えられない」
これで、終われる。ただつらいだけの日々と。
しばらくして、俯いた頬に、手が差し伸べられた。
温かい。お日さまの、温かさ。
そのひとは、屈んでいた。目線を、合わせてくれていた。
綺麗な顔だった。どこかで、見たことがある。
そうだ。鏡の前で、それを見たことがある。
「我らが愚を、許してくれとは、申さぬ」
その白い頬に、何かがつたった。
「願わくば、そのつらさを分け与え給う。そしてそなたの愛もまた、分け与え給う。我の火は、今やただ、燃やし、塗りつぶすだけのものに成り果てた。そなたの火が持つ、温もりも、愛も消えていった。だからどうか、分け与え給う」
優しい言葉。求めていた、言葉。
ミュザ。あなたもまた、愛してくれるのですか。
炭となった腕で、求めた。応えてくれた。抱きしめてくれていた。泣きながら、ミュザは、私のすべてを焼き払ったであろうその熱で、温もりを伝えてくれた。
燃え殻になった体が、戻っていく。シェラドゥルーガとしての姿が、そしてパトリシア・ドゥ・ボドリエールとしてのかたちが蘇っていく。木漏れ日の柔らかさが、使い切った思い出を拾ってきてくれる。
哭いた。声を上げて、哭いていた。ミュザもまた、震えながら、涙していた。
そうだ。私も、あなたも。すべて、奪われたのでしたね。
「朱き瞳。我に宿りし炎。そして、我が死した後、静かに爆ぜ、散っていった、我が残り火よ。もはやそなたは、課せられたそのすべてではない。そなたは、朱き瞳でも、シェラドゥルーガでもない。あるいは、パトリシア・ドゥ・ボドリエールでも、そしてこの、ミュザでもない」
お互い涙を流しながら、目を合わせた。何を言っているのかは、よくわからなかった。
「そなたは、そなただ。名乗りたい名を、名乗るがいい」
嬉しかった。でもすべて、借り物の名前。名乗りたい名は、あるだろうか。
奪った名。恐れられ、叫びの中から見出した名。神として崇められたとき、他の神と区別をするためだけの、名。
愛してくれた人から貰ったものだけは、無かった。
「そなたは炎のうちより、そなたが愛と呼ぶものを見出した。愛することを望み、愛されることを望んだ。その中で、傷つき、あるいは人を傷つけ、害した。それでもそなたは、愛することを、愛されることをやめなかった。ならば、その愛に殉じ給う。そなたの見出した、そなたのための生き方を。だからこそ、今がある。だからこそ、そなたの今までが、あるのだから」
「私はまだ、生きなければならないのですか?」
「愛とは永久にありて。なればこそ、愛そのものたるそなたもまた、人の傍らにて、永久にあるべし」
そう言って、温もりは、その手を放した。
行かないで。伸ばした手に、やはりそのひとは、首を横に振った。
「また見えんことを願っている。我が愛しき娘、シェラドゥルーガ。愛の化身。そして我が、残り火のひとつ」
愛の化身。私は遂に、愛、そのものになったのか。ミュザに、あの英雄に、そう呼んでもらえた。
私は、愛だった。
「そしてどうか、その愛の炎を、絶やすことなかれ」
眼の前で、すべてを受け入れてくれた炎は、ただの炎になっていった。
私は、愛。炎より産まれいでた、愛の化身。
私は、生きている。そうやって、生きていく。
3.
目が醒めた時、まだ、暗かった。
冴えていた。屋敷の中。きっとひとり。ダンクルベールは、つとめて落ち着いて上体を起こし、周りを見回した。
知っているが、何かが違う。
起き上がる。寒かった。まだそういう季節ではないはずと思いつつ、自然と箪笥からガウンを取り出していた。
そこで、家具も、その配置も違うことに気付いた。
家の中を歩き回った。知っている。知っているが、違う。
前の屋敷。
吐き気がこみ上げてきた。娘ふたり。そして、あれと、見えざるもうひとりの娘。
俤。そして、“ロ・ロ”。さざなみが、聞こえてくる。
「大丈夫だよ、お父さん」
声が聞こえた。
「わたしは、マリィじゃないから」
きっと、女の子だった。
歳の頃、十五か、六。何も着ておらず、見覚えのある花が咲いた、小さな鉢植えを抱えていた。整っていて、幼い、可愛らしい顔をしていた。
髪は、金色ではなかった。目も、栗色ではなかった。肌だけは白かった。
「シェリィでも、マギーでもない」
耳にすっと入る、やはり幼い声。
改めて、よく見る。闇の中、輪郭がぼんやりと光るほどの、白い肌。金よりも、銀に近い、肩ぐらいまで伸ばした髪。
瞳。虹、あるいは炎。七色の光。
「そして、クロデットでもない」
その名前に、怖気がたった。
「どうして、あれの名まで?」
クロデット・ジェラルディーヌ・フィリドール・ダンクルベール。浜に上がったうちの、ひとり。
こみ上げてくる恐ろしさを感じ取っていないように、そのこは軽く、はにかんだ。リリアーヌや、キトリーの小さい頃にも、よく似ているような気がする。
「お父さん、背負いすぎちゃってるんだもん。ここに来る途中、いっぱい、こぼれ落ちてたの。ごめんね?驚かせて」
そう言って、笑った。
違和感に気付いた。言葉は聞こえる。表情も、変わる。
だが、唇が、動いていない。耳に直接、入ってくるような感覚だった。
自分の内に潜む、何か別の俤なのだろうか。
とりあえず、羽織っているガウンを、そのこに掛けてあげた。
膝を折り、近寄った時、胸の僅かな膨らみの上、左胸のところ。刃物か何かを刺されたような傷跡があることに気がついた。
屈んだまま、頬に手を伸ばした。知らない俤だった。
「君は、誰だろうか?」
自分の問いに、そのこは、いたずらっぽく笑った。
「ミュザ。お父さんが、付けてくれた」
ミュザ。それは、女の名ではない。
御使のミュザ。ヴァーヌ聖教の、信仰対象。
「御使さま、なのですか?」
「違うってば。いつも言ってるじゃん。忘れたの?」
そう言って、ミュザは頬を膨らました。どこか、怒った時のアンリエットを、思い出した。
「お父さんが、私を拾った時に、付けてくれた名前。本当の名前は、わかんない。お父さんの、恩人だって聞いたよ?だから私は、二人目のミュザ。この名前、すっごく気に入ってるんだ。ありがとう、お父さん」
そのこは、鉢植えを抱えたまま、頬に軽いベーゼをくれた。不思議と、熱は感じなかった。
行こう。そう言って、あの屋敷の居間まで、そのこは手を引いてくれた。杖はなかったが、左足は、問題なく動いた。そうしてふたり、あの屋敷の居間に据えたソファに腰掛けた。
ランプを付ける。ほのかに、明るくなった。
宅に置かれた鉢植えの花は、ゼラニウムだった。
それに見惚れているうちに、二人目のミュザは台所に駆けていって、しばらくした後、ホットチョコレートを淹れた器をふたつ、持ってきてくれた。
並んで座る。飲み物の熱は感じたが、二人目のミュザからは、熱を感じなかった。
「子育て、ようやく終わったね。お疲れ様」
微笑みながら、二人目のミュザは、そう言ってくれた。
「リリィもキティも、すっかりお母さん。マギーも、お父さんじゃなくって、マギーになれた。シェリィは覚えている?」
そう言いながら、そのこは、卓の上のゼラニウムを指さした。あのこが好きだった、ゼラニウム。
「ミシエル」
「そう、ミシエル。ずっと、シェリィって呼ぼうとしてたんだもんね。だからお父さん、すごく、つらかったと思う」
「そうだな。つらかった。そう呼ぼうと、思っていた」
ミシエル。
“足”のひとり。路地裏で生きていた、痩せた娘。
拾って、育てた。いつの間にか情が湧き、娘と思って接していた。
ゼラニウムが、好きだった。
「でもシェリィは、ゼラニウムになったんだ。お父さんがシェリィって呼ぼうと思ってたこと、シェリィにも伝えたの。喜んでたよ。ほら、待ってるよ。呼んであげな?」
花弁を、撫でた。感触が蘇る。
お父さん、ありがとう。お父さんのおかげで、あたしも、みんなも、あの冷たい道端から抜け出せたんだ。
「シェリィ。ああ、シェリィ」
聞こえた声に、涙がこみ上げてきた。シェリィの、頬の温かさが、手に蘇ってきた。
娘と思っていた。花壇を育ててくれた、何人目かの、俺の娘。
「ようやく言えた。シェリィ。俺の、シェリィ。お前は、ゼラニウムになっていたんだね。俺の側に、ずっといてくれたんだね。気付いてあげられなくてすまない。そして、ありがとう、シェリィ。おかえり、おかえり。シェリィ」
泣きながら、思っていたことが、言えた。
どこかから微かに、そう、聞こえた気がした。
ただいま。確かに、シェリィの声で。
ひとしきり泣き終えた後、二人目のミュザは抱きついてきた。
やはり、熱は感じなかった。
「クロデットとマリィはさ、海を渡っていったよ」
あれと、あれの腹の中にいたはずの子。
「エルトゥールルに行くんだって。お父さんの血の故郷。行ってみたかったって。向こうで、ふたりで暮らすってさ。ようやく自分と同じ色の肌だ。ようやく髪も、瞳も、おんなじ色だって、喜んで育ててるよ。ひとりだから大変かなって思ってたけど、クロデットももう、三人目だもんね。こないだ会いに行ったけど、しっかりやってたよ」
「そうなのか。そればかり、気がかりだったんだ」
「パトリシアおばさんにも、相談してたもんね」
言われて、ちょっと、うろたえた。そのこは、からからと笑っていた。
やはり言葉を出す時に、口は動かさなかった。
「わたしも、いっぱい愛情をもらった。わたしさ、喋れなかったじゃん?でもお父さん、言葉とか文字とか、心とかで教えてくれた。育ててくれた。大好きだった。お父さんが、すっごく好きだったんだ。ありがとう、お父さん」
このこを、育てた記憶はなかった。でも何故か、そんな気持ちが、そんな思い出が、どこかにあった。
思い出していた。二人目のミュザには、声が無かった。
ふたり、ホットチョコレートを飲みながら、体を寄せ合っていた。ランプの仄暗さが、心地よかった。
「ミュザ。俺は、いい父親だっただろうか?」
やはり、漏らしていた。
自信が、いつだって無かった。
娘ふたり、男手ひとつで育てた。嫁いで母親になった。ふたりとも、ふたりずつの、お母さんになっていた。
マリアンヌと名付けた俤は、海へ還り、“ロ・ロ”として森で蘇った後、あれと一緒に、砂漠へと渡った。
マギー。サラ・マルゲリット・ビアトリクスは、自分に憧れを持って、着いてきてくれた。ダンクルベールになりたいと、目を見て、言ってくれた。嬉しかった。
だから、ダンクルベールにしてあげようと、熱を入れて育てた。それが駄目だった。心を折ってしまった。
今ではすっかりマギーだが、後悔の念に苛まれることもある。最初からマギーとして、育ててあげてやれば。そう思うことは、未だにある。
そして、シェリィ。
ゼラニウムになった。俺があれを、ゼラニウムにしてしまった。
「当ったり前じゃん」
とびきりの笑顔で、二人目のミュザは、笑っていた。
「お父さんのお陰で、皆、幸せになれたし、幸せを感じているよ。だから次は、お父さんの番。もう、何も背負わなくたっていいから。何も、抱え込まなくたって、大丈夫だから。友だちだって、お仕事の仲間だって、いっぱいいるし。私たちだっている。皆が大好きな、お父さんなんだから」
笑っていた。本当に、嬉しかった。
「君を、幸せにできなかったかもしれない」
どうしても、そこに目が行ってしまった。ガウンの隙間から見える、左胸の上の、傷。
「ばれちゃった?」
ちょっと気恥ずかしそうに。ガウンの前をしっかり閉じて、また笑った。えっち。そう、小さく呟いて。
そのあと、二人目のミュザは、ホットチョコレートをすすりながら、ひとすじだけ流した。
「いっぱい頑張ったんだけどね、駄目だったみたい。全部終わって、ようやく帰れる。ようやく皆、幸せになれるって、思ってたんだけどね。捕らえられて、殺されちゃった。何でなんだろう?皆のために、頑張ったはずなのに。わたし、すごいんだよ?あの、朱き瞳の龍ってやつ。わたしがやっつけたんだから。でも、駄目だった。認めてもらえなかった」
寂しそうに、笑っていた。
やはり、二人目のミュザは、あの御使のミュザ、その人なのだろうか。
殺されたことまでは、残っていない。
抱きしめていた。小さな体だった。かつてのリリィとキティ。そして、シェリィと、マギー。あるいはアンリエットや、インパチエンス。そしてその、すべて。自分の育ててきた、娘たちに、重なった。
涙がまた、溢れていた。
「また泣いちゃってさ。お父さんが泣き虫だから、私にも伝染っちゃった。泣いてばっかり。やっぱり、お父さんの子どもだ。嬉しいなあ。でもさ、大丈夫だから。もう、泣かなくていいからさ」
「泣くさ。お前たち、娘のためだから」
「嬉しい。ありがとう、お父さん」
そうやって、二人目のミュザとふたり、薄暗がりの中、抱き合いながら、泣いていた。
ランプの油が切れそうになった時、二人目のミュザは立ち上がった。
「そろそろ、行ってくるね」
「どこに行くんだい?」
「次はね、おばさんのところ。パトリシアおばさん」
パトリシア。つまり、シェラドゥルーガ。
「そうだ。お父さんさ、変なくせ、あるよね?」
突然、二人目のミュザは、自分の顔を見て笑った。
「女の子の、呼び方。気付いてる?リリィとキティはいいけど、アンリエットは、皆がアンリって呼んでるのに、お父さんだけ、アンリエット。マギーなんて、ファーストネームがサラじゃん?なのに、サラじゃなくって、マギー」
「そういえば、そうだな」
気付いていなかった。言われてはじめて、気付いた。
「リリィとキティも、自分がそう呼びたいからって、クロデットを押し切ったもんね。あとは、インパチエンスも。花の名前、まんま付けちゃたりしてさ。女の子の名前に、こだわりがあるの?自分が呼びたい呼び方、そういうのとか、あったりするのかな?へんなの」
「どうなんだろう。きっと、そうなんだと思う」
「たぶんさ、それが皆、嬉しいんだと思うよ。お父さんの娘になれたって気がして。わたしは何でも良いけどね。ミュザでも、二人目のミュザでも。ミューズ?ちょっと違うかな?好きに呼んでよ。だってずっと、お父さんの娘だから」
そう言って、やっぱりそのこは笑っていた。可愛かった。自分の、娘だった。
「娘に、恵まれたんだね。俺は」
「私たちは、お父さんに恵まれた」
「ありがとう。じゃあ、行ってらっしゃい」
「うん。行ってくる」
二人目のミュザはそう言って、また頬に、軽いベーゼをしてくれた。自分もそのまま、二人目のミュザの頬にベーゼをした。
温かさが、あった。
「そうだ、お父さん」
玄関まで行ったはずの二人目のミュザの声が上がった。
「パトリシアおばさんに、ちゃんとプロポーズしなよ?おばさん、好きとか、愛してるって、いっつも言ってるのにさあ。お父さんが返事しないから、婚期逃しちゃったって怒ってるんだからね。それと、ちゃんとおばさんの呼び方も、決めてあげてね?それじゃあ、行ってきまぁす」
玄関が、閉まった音がした。
そのこの最後の言葉に、ずっと、固まってしまっていた。
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4.
三人。牢獄の、中。
不思議な夢を見た。ダンクルベールに、それを伝えた。受け止めるのが難しいから、夫人にも、お話させて欲しいと、お願いした。
特に何も言わず、馬車を手配してくれた。副官のペルグランは伴わず、ふたりで、あの牢獄に向かった。
ダンクルベールは、一冊の、小さな日誌を持っていた。どうしてかはわからなかったし、でも、思い当たるところはあった。自分も便箋を何枚か、懐に入れていた。あの夢を忘れたくなくて、そうしていた。
幼い頃に見た、御使さま。
神託。そう思って、自分だけの戦いに身を投じた。それが再び、起こったとも思った。でも、どこか違った。やめてもいいからね。二人目のミュザさまは、そう言ってくれた。
はたして牢獄の中、黒いカーテンの奥、書庫の林を抜けた先、夫人はソファに座って待っていた。
いつものような歓迎はない。ああ、アンリ。そして我が愛しき人。どうぞ、お掛けなさい。その程度。
卓の上には、結構な量の原稿用紙が、置いてあった。
夢を見た。御使さまの、二人目のミュザさまの。そう言った途端、ふたりとも口を揃えて、実は、と言い出した。そして三人、顔を見合わせて、お前もか、となっていた。
なぜか、この三人が、あのミュザと呼ばれた神話の存在と、夢の中で見えていた。
それから皆、持ち寄ったものを、回していった。
アンリと夫人は、ダンクルベールのそれだけは、ぼろぼろと泣きながら読み進めた。
夫人が、紅茶とお茶菓子を出してくれた。蜂蜜と生姜、香辛料をちょっとだけ。夫人の好みである。
「夢だったんだろうな」
ダンクルベールが、落ち着いた様子で言った。きっと夢の中で、後片付けが済んだのだろう。泰然としていた。
「夢で、いいんじゃないか?夢にしたい。私は、そう思う」
夫人は、少し残った鼻声で、そう答えた。こちらはまだ、受け入れられていないのかもしれない。まだ、その美しい、朱い瞳には、涙が残っていた。
「夢でした。私は、それを思い出にします」
「アンリエットは、そうしなさい。ただ、二人目のミュザさまが仰った通り、つらくなったら、二人目のミュザさまをお呼びしたり、あるいは聖人であることをやめてもいい。俺も、そう思う」
オーブリーお父さんは、そう言ってくれた。
「アンリはやっぱり、聖女なんだね。生きたまま聖人になれるなんて、誰にもないことだよ。本当の姿のミュザに見えるなんてさ。でもミュザも、アンリと同じ、意地っ張りの泣き虫だっていうのは、ほんと、驚きだったね」
「何ですか、パトリシアおばさん」
「おばさんだって?この、小娘が」
「よしなさい、ふたりとも。ミュザさまが見ておられる」
やっぱり、お父さんが窘めてくれた。それで皆、笑った。
お父さんと、おばさんと、娘。居心地が、良かった。
不思議な夢と、素敵な出会い。それぞれの、過去と、これからのこと。
あるいは、二人目のミュザさまとは、このひととき、そのものなのかもしれない。
「我が愛しき人」
ひとしきりの話が落ち着いて、さて帰るか、と、ふたりで立ち上がったとき、夫人が一言、漏らした。
「また何か、隠したろ?」
不機嫌そうな声と、目。
きっと、日誌の最後に書こうとしていたもののことだろう。確かに、パからはじまっていたようにも読めた。
言われて、ダンクルベールは、ばつの悪そうな顔ひとつ、そのあと、大きなため息を吐いた。観念したようだった。
「立ちなさい」
「何で?」
「いいから」
そうして並んだふたり。
こう見ると、身長差はかなりある。夫人も背の高いひとだが、やはりダンクルベールは大男だった。夫人の美貌が、そのひとの目を見るために顎を上げ、その美しさを更にひけらかすほどに。
傍らに杖を置き、ダンクルベールは、夫人の両の二の腕に、軽く手を添えて。
そして。
「愛している」
そうした後、静かに、言い残した。
ベーゼ。唇への。
固まってしまっていた。とんでもないものを見た。ダンクルベールが、夫人への愛に、かたちで応えた。
夫人もまた、固まっていた。その髪や瞳のように、頬は燃え盛っていた。目が大きく、驚きに広がっていた。
「随分、遅くなってしまったな。すまなかった」
「我が愛しき人。それって、どういうことかしら?」
「皆まで言わせるな。言ったとおりだ」
つまり、求婚。
驚きばかりだった。あの口下手なダンクルベールから、愛しているだなんて。なんて素敵なんだろう。でも、至って平静な声と仕草だった。
対して夫人は、面白いぐらいにかっちこちだった。
「今までも、そして、これからも。名前は、そのうちな」
ダンクルベールは、ちょっとだけ微笑んだ。
帰ろう、アンリエット。そう言って、真っ赤になったままの夫人を置いて、ダンクルベールは踵を返した。
夫人は彫刻のようになっていた。頬をぺちぺちと叩く。呆然。脈をみると、すごいことになっていた。でもちょっとだけ、口角は上がっていた。
おめでとうございます。とりあえず、つとめて平静に、一言を残して、ダンクルベールを追った。
杖つきの老人だが、大男だし、歩幅が大きい。走らなければ追いつけないぐらいである。
牢獄の入口で、お父さんは待っていた。
「本部長官さま。あれは、どういう」
馬車に乗り込んだ後、改めて、尋ねてみた。
「他意はない。思いを、言葉と行動に、出しただけだ」
いつもどおりの、ダンクルベールだった。しじまのような声と佇まい。そこにいる、それだけで、心を落ち着かせる力のある、褐色の大男。
思いを、言葉と行動に出した。やっぱり、相思相愛だったんだ。ずっと伝えられていたものに、ただ、応えていないだけだったんだ。
大人の恋愛って、こういうものなのかな。ときめいていた。
でもやっぱりダンクルベールは、面倒くさい男の人。きっと二人目のミュザさまにけしかけられたんだろう。でも素直になりたくなくて、日誌にも残さなかった。
夫人も夫人で、面倒くさい女の人。それを見抜いたくせに、あえて言わせるなんて。そのくせ、やられたらやられたで、あんなにみっともなくなっちゃって。
どっちもどっち。お似合いの、ふたり。
「最後の、名前というのは?」
「ああ、思いつかなくてな。パトリシアからパティでもいいが、あの見た目だと、合わんだろう。お前をアンリではなく、アンリエットと呼ぶようなものだ。ビアトリクスは、マギー。あれの家内は、インパチエンス。全部、同じさ」
確かに、このひとの日誌にも、書いてあった。
女の人、特に親しくしている人に対し、ダンクルベールは、他の人たちと同じ呼び方をしていない。
自分はアンリと呼ばれることが多いが、アンリエットと呼んでくれる。
ビアトリクスは、今でこそマギー監督なんて呼ばれているけど、はじめては課長だったの、と、今でも嬉しそうに語っていた。
ペルグランの愛しい人に、花の名前を付けたのは、この人だった。でもラクロワは、ラクロワがいいと言うし。
独占欲とか、あるのかな。あるいは父親をやっていたから、そうなのかな。変なくせ。でも、素敵なくせ。
アンリエット。そう呼ばれると、ちょっとだけ、嬉しかった。
あのひとの愛称。確かにあの人に、パティは合わない。ちょっと可愛すぎる。何にするんだろう。シェラドゥルーガから、セラ、とかかな。ちょっと、期待していた。
夫人の次の作品、すごいことになりそうだな。ゼーマンか、ラ・ラ・インサルか。あるいはどっちも一緒に出すかもしれない。あるいは別の名義で、惚気みたいなことを書くんだろうな。くどいぐらいのボドリエール節で。
「まったく」
ため息ひとつ、いつも通り、紙巻を取り出した。
「うちの娘も、お節介を焼いてくれたものだ」
ぼんやりと、ダンクルベールは、外を眺めていた。その様子がどこかおかしくて、思わず吹き出してしまった。
(おわり?)