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夢の終わり、夢のはじまり

 本日、本官が憲兵総監の役職を拝領したのは、かつての父祖の名を復興するためではなく、国民の安寧と治安を維持する責務を負うためである。

 未だ本国の情勢は穏やかならず、他国からの干渉、内部諸勢力の不穏な動向、そして何よりも民衆を脅かす脅威そのものの盾となり、またそれらに立ち向かうための剣となることこそ、国家憲兵隊の担うべき職責である。

 父と定めた恩師の背中を追い、死線を越えて、守るべきものを得て、男となったからこそ、本官は諸君らの範となり、それを示す責任がある。

 今ここに、本官はそれを誓う。諸君らの先頭に立ち、恐るべきものに立ち向かうことを。弱きものたちの前に立ち、卑劣なるものの魔の手からそれらを守り抜くことを。常に諸君らの傍らにあり、行くべき道に導き、目指すべき道標となることを。


 諸君、男たれ。人として、確固たるものであれ。

 守るべきは名ではなく、信念であれ。


ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグラン大将

国家憲兵総監就任挨拶より


1.


 鹿。距離は、遠眼鏡を使ってようやく、という程度。それでもマレンツィオは、構えはじめていた。

 はじめて見るかもしれない構えである。あぐらをかくように座り込んでから、前足の膝を立て、その膝を抱きかかえるようにして銃を保持している。使うのは旧式の、前装式の施条ライフル銃だった。

 構えてから撃つまで、そう時間を要さなかった。

「お見事」

 ペルグランは、思わず声を漏らしていた。

 ほぼ、眉間である。施条ライフル銃とはいえ、旧式の前装式。しかも遠眼鏡の搭載無し。話には聞いていたが、ここまでの腕前とは、思いもしていなかった。

 マレンツィオは、いつもの豪放磊落な様子は一切なく、獲物を仕留めた後も真剣そのもの。打ち終わった銃を従者に渡し、装填済みのものと交換していた。

「あれかな」

 ぼそりと。

 何を見つけたのかは、わからなかった。

 数歩動いてから、またどっかりと腰を据え、先ほどと同じ構え。

 その先を遠眼鏡で見やる。

 兎。それもちょうど、動くところだった。

 銃声。

 標的より、マレンツィオを見てしまっていた。

 使い込まれた、頭巾フード付きの油合羽あぶらがっぱ。小雨の中、あぐらをかいて旧式銃を構える、初老の太った男。

 野生動物に対する、偏差射撃。

「閣下、お見事」

「うむ」

 モルコの声に、やはり真剣な面持ちのまま、返答だけが返ってきた。

 ガブリエリとマレンツィオに誘われ、狩猟に来ていた。

 第三監獄襲撃事件について、親族が関与していたことが明らかになった。先遣隊として突入し、そこで出会った信頼できる人をうしなったペルグランとしては、許せないことだった。

 だから実家に対し、抗議声明と絶縁を叩きつけた。

 世論はペルグランに味方してくれた。あるいは他家や宮廷すらも。各方面から追求が行われ、ニコラ・ペルグランの名は今まさに、崖っぷちに立たされていた。

 狩猟の誘いが来たのは、ペルグランとしてのやることが、ひとしきり片付いたころだった。気晴らしにどうかね、ということである。折角だしと、射撃に自信があるというモルコも誘ってもらった。

 マレンツィオの射撃の腕前については、ダンクルベールからは、たまに話に聞いていた。一度は見ておくべきだ、ということも。

 精密射撃手マークスマンは数多かれど、ここまでのものは、そうお目にかかれないだろう。それほどの腕前である。

 特に、その構え。手解きを受けたところ、確かに安定性が桁違いであった。これなら伏射よりも早く、行動に移れる。

「いつぞやに人狩りマンハンターを相手取ったときに、向こうがやっていた構えだな。撃ったらすぐ動けるし、なにより俺はこの通りの体だから、伏射よりはこっちの方が安定するのだよ」

「前装式の施条ライフル銃というのは、慣れの都合でしょうか?」

「そうとも。それと後装式の施条ライフル銃というよりは、つまりは金属式薬莢の問題だがな。薬莢を回収しないと撃った場所がばれちまう。場所選びのがわかれば、次に移動する場所が予測される。あとは、他のやつの弾を借りれるのも大きい。まだまだ配備数は少ないだろうしな」

 そこまで言って、ようやく、いつもどおりの豪放磊落な笑いを見せてくれた。

「ご実家と、戦っているようだね」

 別邸に招き入れられた後、ちょっとしたもてなしの中で、マレンツィオはペルグランに、そう問いかけてきた。

「あえてお尋ねいたす。父祖の築いた名と血を閉ざす覚悟や、如何に」

 まっすぐと、見据えられた。だから、見据え返した。

 男の問答。礼を逸してはならない。

「母は、俺を男として産んで下さり、男として育てて下さいました。名乗るべき名は、男の名です。嫁いできてくれた女から家名を奪い、陰謀に加担するような家の名なぞ、男が戴く名ではありません」

「ならば不肖、フェデリーゴ・ジャンフランコ・デ・マレンツィオ・ブロスキより、ルイソン・ペルグラン殿に、注文がひとつ」

 咥えていた葉巻を、灰皿に押し付けつつ。

「徹底的に頼む。塵ひとつ、残すでないぞ」

 その目には、強い光があった。圧されるほどに、気高いものが。

「天下御免、ありがたく頂戴します」

 その光を、受け取った。

 国民議会議長、ブロスキ男爵マレンツィオ。

 ヴィジューションでの街道沿い連続殺人を捜査する中で、偶然出会った。その頃は、名の知れた貴族院議員であり、またダンクルベールのもと上司であるという認識ぐらいだった。前評判では、嫌味で偏屈な癇癪持ちとだけ、聞いていた。

 顔を合わせるうち、それは改められていった。

 ひとりの、男だった。

 男たることを目指し、愛しき人を守り、共に歩む事ができる男。捜査官としての才覚は無かっただろうが、褐色の巨才たるダンクルベールの公私を支え、その活躍を促した。高貴な生まれながら民衆と接することを好み、国民の顔として選ばれた。幼き親友が憧れた油合羽あぶらがっぱへの道に理解を示し、その道のりを案内した。

 天下御免。世を憚ることなく、己の信念を貫き、己の信ずるものたちが堂々と振る舞えるように差配する、巨大な舞台そのもの。

 男の頼み。そしてこれまでの恩に、報いたい。

「レオナルドが色々と動いている。使ってやってくれ」

 頷いた。それをみとめてか、マレンツィオの隣に座っていたガブリエリが、資料の束を差し出してきた。

「“いもうと”を作って正解だった。貴様の実家を含む、ニコラ・ペルグラン一族の後ろ暗いものが山盛り出てきた。これをマスメディアなり悪党なりに流しつつ、貴様が行動を起こしていけばいい」

 目が、燃えていた。

 レオナルド・ガブリエリ。いつだって隣りにいてくれた。支えてくれた。ひとりの親友であり、これもまた、男。

 これほどの男が、支えてくれる。これほどの心強いことはない。

「まずは女性問題だ。認知していない婚外子を持つ男どもを挙げている。これをそれぞれの配偶者に流し、正規の手順で離婚手続きを行わせるといい。他家から嫁いできてくれた女たちを逃がせるのもそうだし、女性を味方に付けれるのが大きい。貴族豪族となれば数は少ないが、女性となれば人口の約半分だ。これを味方に付けない手はない」

 認知していない婚外子、つまりは隠し子である。そして名前を見ていけば、ほぼすべての家の男が、それを持っていた。

 眉間が痛くなったのは、父、フェルディナンの名が含まれているのを見つけたときだった。

「俺にも、きょうだいがいたとはなぁ」

 思わずで言ってしまった言葉に、周りが苦笑していた。

 ともあれ、これで母にも法的な自由を与えることができる。いいものを貰ったと解釈しておくべきだろう。

「それぞれの配偶者や、これら婚外子と家族たちに危害が及ばないようにすることも考えなければならないだろうが、もはや向こうもそんな暇はなかろう。心配ならば、ヴァーヌ聖教会あたりを巻き込めばいい。ご母堂らの家名を奪われた話などは、配偶者からの暴力防止保護法に抵触する、精神的苦痛を伴う家庭内暴力と見做せるだろうから、裁判所から接近禁止命令も出せるはずだ」

 くわえて、つきまとい行為規制法なども適用できるだろう。これで母やインパチエンスたちの身の安全を、法的視点から守ることも可能だ。

「次に、金銭関係。脱税、収支報告の虚偽申告、資金洗浄など、さまざまな疑いが見つかっている。これはすぐにでも動かしたほうがいいな。財務省国税局なら、うちに伝手がある。同じ傷を持っているやつは多いだろうから、余所からの介入を防ぐ盾にもなるだろう。あくまでニコラ・ペルグランとルイソン・ペルグランの戦いに終始することができるぞ」

「ならば、すぐにでも頼む」

 言う通り、他家が絡むと面倒である。一対一、正面切っての大勝負だ。ニコラ・ペルグランの大将首、介錯するのを、余所に任せるなどはしたくない。

「あとは各種汚職と癒着。これは内部告発やマスメディアよりも、悪党を使うほうがいいだろう。ジスカールの親分を通じて、出しゃばってる連中に流して、強請ゆすってもらえばいい。表面に滲み出た分を警察隊でしょっ引けば、表と裏、両方の掃除ができる」

 頷いて、ひとつ合図をした。下女ひとり寄ってきた。貰っていた“いもうと”のひとりである。

 “あし”から“いもうと”への以降も、着実に進んでいる。“いもうと”からジスカールたちへ接触することも、容易になっていた。

「俺は、ニコラ・ペルグランに憧れて軍人になった」

 ひとしきりの作戦会議を終え、マレンツィオが暗い顔で、言いはじめた。

「海には向かなかったし、捜査官としても大成せず、最後は消防隊の親玉と、結果はいまいちだったが、楽しかった。だが、かの血族がどんな人間かを知っていくうち、迷いばかりが産まれちまった。なんでこんなやつらがニコラ・ペルグランの名を名乗ってるのか。そればっかり、恨むようなものを持ってしまった」

 いわれて、こちらも瞼が重くなった。

 ニコラ・ペルグラン。巨大な名。それを維持することしかできなかった、子孫の不明。

 いまやルイソン・ペルグランではあるが、かつてはニコラ・ペルグランデもあった。この老人を苛んでいたもののひとつであった。それが悔しく、情けなかった。

「それも、これで終わり。俺の夢ひとつ、これで終わりだ」

 それでもマレンツィオは、そう言って、晴れやかな笑みを浮かべてくれた。

「そして、代わりの夢もできた。ルイソン・ペルグラン。ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグランだ。お前がどこまで昇れるか。お前とその周りが、どれだけ豊かになるんだか。それが楽しみで仕方ない」

「夢を、叶えてみせます。俺の夢と、閣下の夢と」

「でっかくなってくれよ。俺の息子、レオナルドと一緒に」

 差し出された手。大きく、がっちりとしたもの。

 それを、握り返した。

 銃手ガンナーの手だった。指の付け根に、硬いのある手。親父おやじの手とは、また異なる男の手。

「俺はなんにも手伝えないけれど、そばにいるよ」

 隣で、モルコが微笑んでいた。

「泣きたい時は、俺とヴィルピン次長に任せてくれ」

「それは何より、安心できるな」

「はは。孫弟子殿は、しっかりしておるなあ。これならヴィルピンめも、泣き甲斐、転び甲斐があろうものよ」

 呵々大笑。

 孫と言われたモルコは、いくらか恥ずかしそうだったが、それでも晴れやかな顔だった。

 天下御免の好漢を祖父に持ち、泣き虫勇者の父を持つ、しっかりものの参謀役。モルコもまた、羨ましいぐらいに男に恵まれていた。

「いよいよ、決戦ですね」

 日を改めて、ラングレーとともに実家に向かっていた。

 ポワソンの件で、法務部のオダン部長から紹介してもらっていた弁護士である。今回は実家を相手取っての戦いということで、いくらか気後れしていたが、なんとか説得できた。

「先生には、ご面倒をお掛けします」

「決心が着いてしまえば、楽なもんですな。なんだか、いつも通りです。きっと、ルイソン・ペルグランさんの熱に浮かされただけかもしれませんがね」

「はは。お互い、熱中症にだけは気をつけましょうか」

「それと、風邪ですかな。気温差でやられることでしょうから」

 紹介元と同じように、どこか堅苦しい見た目であるが、話してみれば案外に砕ける人であった。

 久しぶりの実家。執事のギユメットに、父を出すようにだけ、伝えた。

「若さま、ご健闘をお祈りしています」

「ありがとう、爺や。お前も、早く逃げるんだよ」

「そのうちに、こっそりと」

 そういって、昔から変わらない微笑みをくれた。

 応接間で、資料を広げていた。合戦の準備は整った。あとは、ラングレーが進めてくれる。

「ジャン=ジャック。お前、どのつらを下げて」

 血相を変えて出てきた、痩躯の男。しかし、こちらの表情と、既に卓に並べてあるそれらを見て、その顔はすぐに青くなった。

「本日は、事実の確認をしに参りました」

 ラングレーが切り出した。決戦、開始である。

「フェルディナン・ニコラさまが認知されていないお子さまが、少なくとも五人いらっしゃることが、こちらの調べで明らかになっています。またそれぞれに、養育費の支払いもしていないことも調査済みです」

 ざっと、資料を押し出す。それで、フェルディナンの震えは大きくなった。

「それぞれのご家族にもお会いし、フェルディナン・ニコラさまとの交流があったことも確認が取れています。また本件について、ヴァーヌ聖教会ともご相談させていただきましたが、甚だ許しがたいと憤慨のご様子であります」

「要求は、何だ?」

「まずは、配偶者であるジョゼフィーヌさまとの法的離婚。次に、それぞれのご家族さまとの関係を明確にしていただき、これを公表することです。愛妾を持つことが許されている立場でありながら、何故それをせず、ご落胤を成されたのか。公の場でご説明をお願いいたします」

 フェルディナンの唇が、わなわなと震えはじめた。

「お前。ニコラ・ペルグランの顔に、泥を塗るような行いを」

「したのは、あんただよ」

 思わずで、口を挟んでいた。

 見やる。怯えた目。それしか、映らなかった。ニコラ・ペルグランの血であることしか価値のない男ども。

 なら、その名を錨に、海底に沈めてやる。

「お答えいただけないのならば、それで結構。事実を公表するまでです」

「待て。それだけは」

「おさらばです、父上。いや」

 立ち上がりながら。ずっと、目を見据えながら。

「フェルディナン・ニコラ」

 あえて、そう言った。

 育ててもらった。だが、それだけだった。ここはそれだけの場所であり、この男はそれだけの存在だった。

 もはや、この男どもに用はない。

「国家と信義に背き、女を泣かせた家だ。更地にしてやる」

 決別のために、それだけを言い残した。

 館の前には、大勢のマスメディアが居並んでいた。領民たちも、憤慨した様子で集まっている。

「それでは、どうぞ」

 ラングレーが告げると、それは館の中に雪崩込んでいった。少しの間もなく、耳を塞ぎたくなるほどに騒がしくなった。

 事実は既に、公表していた。幼き日より母子おやこに理解をくれたギユメットと結託し、父の行動を監視、制御していた。

 血を分けた息子と戦えないというならば、衆目と戦えばいい。あるいはニコラ・ペルグランの血、そのものと。

 振り返る。生まれ育った故郷。しかし今は、ただそれだけになってしまった場所。

 向き直った。寂しさや悲しさは、特別、感じなかった。

 記入済みの離婚届が届いたのは、三日もしないうちだった。


2.


 法的に、ペルグラン家から離れることができた。それでも失ったものは、返ってこなかった。

 名乗るべき家名は忘れたと、人には言っていた。ジョゼフィーヌ自身に言い聞かせるために、そうしたところも大きかった。到底、納得できることではなかったから。

 実家は、途絶えていた。ゆかりのものも政変で追いやられ、あるいはヴァーヌの地に引き上げていった。だから結局、家名も帰る場所も、戻っては来なかった。

 それでも、愛する人々がいる。ジャン=ジャック・ルイソンが、そしてインパチエンス=ルージュが。そしてそれらを愛してくれる人々がいる。愛してくれる人もいた。友だちも沢山。今までに自分自身が培い、育んできたものが。

 今は、友だちの家に居候していた。随分前にご亭主を亡くされ、子どもたちも巣立っていった、ひとり暮らしの女主人。

「ご苦労でした、ジョゼフィーヌ」

 ドゥネーヴ子爵夫人、マリーアンジュ。同い年。出会ったのは、ガンズビュール。ボドリエール夫人が開催していた、詩のお披露目会だった。

「気が晴れると思っていたけど、そうでもないものね。どこかこう、澱んだものが、ずっといる」

「今すぐには、そうはならないでしょう。少しずつ。時間がそれを作ってくれる」

 マリーアンジュも少し、悲しげだった。

 ドゥネーヴ子爵は、あまりいい人ではなかった。粗暴で、妻や子ども、使用人にも手を上げることが多かった。

 家柄を傘に着た、何も無い男。どこにでもいる、男の皮を被った人形のひとつ。

 催し物の中での馬上槍試合ジョストの際、馬から振り落とされて死んだ。尚武の家系として、恥ずべき死。マリーアンジュたちには、汚れた家名しか残されていなかった。

 それでも、子どもたちは立派に育った。父の汚名を雪ぎ、将校として大成している。ひとり暮らしの母にも不自由の無いよう、こうやって屋敷や使用人たちも、用意してくれていた。

「私もそろそろ、“ドゥ”の名を捨てようと思うの」

「ご実家は、よろしいの?」

「疲れたんですって。産業の発展についていけなかったから、領地の経営は失敗しているし、縁故もほとんどが途絶えた。どこもかしこもそうだけど、色々と限界みたい。だからもう、名前を捨ててしまおうって。名前に振り回されるのを、やめようって」

「名前に振り回される。そうね。まさしく、そういうものだった。私も貴女も、そしてすべての女たちが、きっと」

 新聞。最近は、目も通したくないような内容ばかりが、書き連ねられている。

 夫であったフェルディナンを含め、ほぼすべてのニコラ・ペルグラン一族が、隠し子を持っていた。それぞれを、ニコラ・ペルグランの血筋の愛妾、および庶子として養うのは面目に響くという理由らしい。この発言に対し、今度は、愛妾を持つ貴族たちが激怒し、攻撃していた。

 すべてが些末で、馬鹿馬鹿しかった。

 本当はきっと、養う金が勿体ないとか、それぐらいの理由である。それぐらいが予想できる程度には金に五月蝿く、吝嗇けちな連中だった。脱税などの容疑で、国税局から家宅捜索が入っていることも、それを裏付けていた。

 ジャンが戦っている。家ひとつを滅ぼすために。

 最初は、止めようとも思った。暴虐のそしりを受けることになると。それでも、止めることもできなかった。

 第三監獄から生きて帰ってきたあの日、その頬を叩いてから、ジャンは燃え盛っていた。

 人の上に立つものは、一匹の鬼を飼わねばならん。父と仰いだダンクルベールから授けられた言葉と、かつて自身が死に追いやった若者の名を授けた剣を携え、あのこは今、鬼となって、生まれ育った家を、生ける屍を焼いて清めると言って、戦いに赴いている。

 己の決意だけではなく、国民議会議長マレンツィオの後押しもまた、強いのだろう。

 ニコラ・ペルグランに憧憬を抱き、しかしその家の実態に失望と諦観を抱き続け、それでもルイソン・ペルグランという英傑が誕生したことを、誰よりも喜んでいた。だからこそ、若き英傑が産まれた家に背かれたことを知り、その引導を渡すために、天下御免を授けたのだと。

 あのこは、覇道を行くことを選んだ。陽光の差す王道ではなく、血と炎に照らされた道を。それをたどった先人たちにいざなわれ、恨まれることをもいとわぬ男になる道を。

 ジョゼフィーヌの手から離れ、あれはルイソン・ペルグランに成った。だからもう、何も言うべきではないのだろう。

「貴女も、ひとりの女に戻れたのだもの。自由に、心の赴くままに生きるべきよ?」

「それが、思いつき次第、そうするわ」

「お声を頂戴しているのでしょう?答えるべきだと思うけれど」

 言われて、頬が少し熱くなった。

 目を見る。マリーアンジュが意地悪そうに微笑んでいた。

「考えておきます」

「素直でよろしいこと」

 やはり友だちは、心の中を見抜いてくる。

 昼過ぎ。“赤いインパチエンス亭”。カンパニュールとコロニラ、そしてブロスキ男爵夫人が出迎えてくれた。インパチエンスは、カウンターの奥の方で座っていた。

「ああ、母さま。なんもなんも。わざわざにおあんしてくなんして」

「なんもなんも、私のインパチエンス。無理をせず、ちゃんとお休みなさい?今はお前が一番、大事なのだから」

 立ち上がろうとしたインパチエンスを、つとめて優しく制した。

 お腹に子が宿っていた。春が終わるぐらいに、産まれるそうだ。

 つわりが過ぎ、退屈なのだろう。どうしても動きたがるのだから、ひとまずは店に顔を出すぐらいで留めるように言っておいた。店員ふたり、カンパニュールとコロニラも、十分以上に働いてくれる。今日はくわえて、シャルロットまでお手伝いに来て下さっていた。

「姉さん、今日はちょっと、つらいみたいで。お母さんが来てくださって、本当に安心しましたわ」

 淡い紫。泣きぼくろのカンパニュール。おっとりした口調の、たおやかなひと。肉付き十分ながら、インパチエンスと同じように線を強調したドレスでも不自然さがない。

「店のことは私たちで大丈夫って、何回も言ってるんだけどね。姉さんだもの、聞かないんだから。お母さんが言わなきゃ駄目だもの」

 明るい黄。日焼けした肌のコロニラ。気立てが良く、いつだって元気。ブラウスにギャルソンエプロンと、ジャンがしているようなのと同じような格好が、活発的で若々しい。

 インパチエンスを慕ってこの店に来た、もと遊女ふたり。名前は、ジョゼフィーヌが付けたものだった。ふたりとも、泣いて喜んでくれた。ふたりともインパチエンスと同じぐらい愛おしかった。インパチエンスと同じく、母娘おやこになろうとお願いをし、聞き入れてくれた。

 心穏やかな姉と明るい妹。ひとりっ子だったジャンへ、ようやく用意できた結婚祝いだった。

「シャルロットさまにも、いつもお手を煩わせてしまいまして、本当に申し訳ありません」

「なんもなんも。インパチエンスさんとお喋りするついでですもの。今、お茶っこ沸かしますので」

 ブロスキ男爵夫人、シャルロット。南東沿岸部の豪商家出身。どこまでも穏やかな老婦人。インパチエンスとは同郷にあたり、故郷のことばを気兼ねなく使えるからということで、よく手伝いに来てくれていた。

 インパチエンスはいくらか内陸寄りで、お武家ことば。シャルロットは海沿いの港市場いさばのことばだそうで、んつかばかりの違いはあるようだ。和気藹々と話しているのを聞いていくうちに、何とはなしに意味がわかってきたし、たまに使うこともある。

 特に、なんもなんもは、色んな意味合いで使うことができたし、響きの柔らかさが何より好きだった。

 自分にとっても、ブロスキ男爵夫妻は天上の人だった。それでもふたりとも、本当に優しくしてくれた。最初こそ畏れ多かったが、優しさに甘えることで、気兼ねなく接することができた。子どもたちも、自分のことも支えてくれて、守ってくれた。

 子どもは、ひとりしか産めなかった。それでもインパチエンスたちは、自分を母と定めてくれた。シャルロットのように、それを支えてくれるひとがいた。ダンクルベールのように、息子を導き、父となってくれたひとがいた。そして今、孫が産まれようとしている。

 きっと、幸せなのだろう。ジャンがそれを運んできてくれた。今、その後片付けをしているだけ。

 にわかに、店の入口が騒がしくなった。何かが割れる音まで。

「愚かなるジョゼフィーヌめ」

 憤怒の形相をたたえた男、ふたり。かつての義父、ヤン・ヴァレンティン。そしてかつての夫、フェルディナン。

 不思議と、恐怖はなかった。ただ体は、インパチエンスの前で立ちはだかっていた。

「よくもここまで辱めてくれたな。我が子、ジャン=ジャックまでそそのかして」

「何が目的か、この下賤めが。今まで我が家名を名乗らせたことを、恩とも思わぬのか」

 男の皮を被った、男ならざるものども。何を言われようが、気にならなかった。

 カンパニュールとコロニラが、他の客を外に出そうとした。それを男ふたりが、殴りつけた。

 それで、体が動いた。

「女にしか手を上げれぬ卑怯者めっ」

 ふたりの体を抱きとめながら、吠えていた。

「用事があるのは私でしょう?このこたちではない。ならば私を殴ればいいでしょう。他のお客さまの身の安全を確保しようとしたこのこたちに比べて、なんと浅ましい行いをする。未だ恥を知らぬなら、ここで教えてあげましょうか」

 カンパニュールは、立ち上がれそうだった。だから、インパチエンスを守るように促した。それで、立ち上がろうとしていたインパチエンスの前に動いてくれた。

「ニコラ・ペルグランの血に対して、何を無礼な」

「何かあればニコラ、ニコラと。それしか言うことが無いのですか?そうでしょうね。それしかもう財産が無いですものね。女に逃げられ、法を無視して蓄えた財は差し押さえられ、領民の不満は抑えられない。残ったのは名前だけの、中身のないお人形。博物館にでもお願いして、飾られていればいいんじゃないかしら?」

 拳が飛んできた。よろめいたが、まだ立てていた。所詮は年寄りの拳だ。

 こんなもの、痛みのうちに入るものか。

「家名を奪われ。好きでもない男に抱かれ。十月十日を育んで子を産んで。男になれと育ててきた。その痛みとつらさを経てきたのです。男にもなれやしない紛い物に、男たるルイソン・ペルグランの母となった私を、殺せようものか。見せてご覧なさい」

 コロニラの前に立ちはだかり、男ふたり、見据えてみせた。

 フェルディナンの平手。男のそれではない。風が吹かれたようなものだった。

「母さまっ」

 インパチエンスだった。カンパニュールを振り切って、立ちはだかってくれた。

「母と定めたひとのためなら、あたくしだって盾になりあんす。このことふたりで、母の盾になってみせあんす」

「おやめっ、インパチエンス。お前も、そのこも」

「商売女めが。その腹の子は、本当にジャン=ジャックの子か?」

「貴方がたには、もはや関係のないことでごぜあんしてよ。それに?酒場で酒も頼まずにくだを巻くなんざ、野暮も野暮。やるというならそれでよし。そうでないなら、さっさとおさらばしえっておくんなせ?」

 殴りかかろうとしたヤン・ヴァレンティンに、カンパニュールがしがみついた。それを、叩き伏せるようにして。

 フェルディナンの拳が、インパチエンスの頬に。よろめいたのを、コロニラが受け止めた。

「この商売女どもが。ただで済むと思うなっ」

「そりゃあ、あんたらの方だよ?おじさんたち」

 不意に。声は、入口から聞こえた。

 長身の男。金髪碧眼の、美貌。

「最初から全部、見させてもらいましたがね。こうなっちまったらもう、わかってやれねえよ」

 聞き馴染のある台詞回し。歩みはじめる。一歩ずつ、一歩ずつ。

「神妙にしてくれりゃあ、それでよしだけどさ」

 丈の長い油合羽あぶらがっぱを羽織った、金髪碧眼の無頼漢。どこかで見た覚えがあるが、髪型か、風貌か。いずれにしろ、何かが異なる。

「じゃないとあんたら、戻れなくなっちまうよ?」

 紫煙をくゆらせながら、それはふたりの肩に、腕を回した。

「こちら、こういうもんでしてね」

 国家憲兵警察隊手帳。

 見せつけられたフェルディナンが、一拍置いて、吹き出した。見下すような笑い。下卑た表情。

「軍警ごときが、何を偉そうに。我々は、ニコラ・ペルグランの」

「たかが漁船乗りだろ?でけえ口、叩くんじゃあないよ」

 突き刺すような、典雅な声。それに、ふたりの表情が固まった。

 紫煙をその顔に吹き付けながら、フェルディナンの目を見据える。蔑むような、そして蕩けるほどの視線。

「おひけえなすっておくんなせえよ。こちら、国家憲兵警察隊、中尉。レオナルド・オリヴィエーロ」

 やはり、そう。あのこの。でもどこか、違う。

「デ」

 はっきりと。あの国の、貴族の証。

「ガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキ」

 それは、耳に入ってきた。頭の中には、入ってこなかった。

 思わず、シャルロットの顔を見た。いつも通りの、優しい笑みだった。

 ガブリエリ家のご長男さま。ジャンと懇意にしてくださっている、あの、レオナルドさま。

 それが天下御免を、名乗っている。

「何を、馬鹿な。ブロスキ男爵殿は、お子さまがいらっしゃらないはず」

「養子なんですよ。くわえて家督も継いぢまったもんですので。新聞、読んでない?まあ、詳しくは署でお話しましょうか。暴行と器物損壊の現行犯、確保です」

「待て。金ならいくらでも」

「国家公務員を買収するつもり?いい度胸ですねえ。それならいっそ、ヴァルハリアに売っ払っちまいましょうか。独立戦争の英雄の血筋となりゃあ、いい値段がつくと思いますよ?」

 そこまで言ったぐらいだった。

 ヤン・ヴァレンティン。拳が、ガブリエリの頬をかすめた。体が離れる。

「何がガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキだ。嘘も大概にしろ。この小僧めが」

 そのあざけりに対し、ガブリエリの美貌に、怒りが差した。

「公務執行妨害も追加だねえ。晩節汚すには、いい罪状だろうよ」

 長身が、腰から警棒を引き抜く。臨戦態勢。

「うちの子さ、なあすったっきゃやっ」

 突如として、空気が震えた。

 全員が、そちらを見た。それは、怒気を纏わせながら、ふたりの前に歩み寄り、そして。

「ニコラだば、人の子さ手ぇ上げていってかやっ」

 ブロスキ男爵夫人、シャルロット。

 手にした盆。ヤン・ヴァレンティンの頬に、ぶちかました。男ひとりの体が、転がっていった。

 誰もが唖然としていた。あのシャルロットが、怒っている。慈母のようなおひとが、怒りに任せて、人をぶん殴った。

「ニコラだば、女、ふったらいていってかやっ。おの親ば、そったらこと教えてきたってかやっ。それだばニコラってのば、名前なめえっこばり立派だ馬鹿親だべさっ」

 枯れるほどの叫びを上げながらの猛追。顔を覆う腕に、縦にした盆を何度も振り下ろして。

「男爵夫人さま。どうかこれは、何かの間違いでございまして」

さ間違えれば、こったことすったっきゃや。親の名前なめえっこばり振りかざして、間違いで済むってのかやっ。親が悪いんでねば子が悪いんだすけ、親のとこさ行って謝ってこい。墓所はかしょさ行って、おねって、頭付けて謝ってこい。できねんだば、ここさ連れてこいじゃ。どったら子ば育てたんだって、お前達めどの前でふっいてけじゃあっ」

「やめてくれ。父上が、父上が死んでしまう」

「死んでまれ、こった出来無できなし」

 割って入ったフェルディナンの顔面に、縦一文字。

「死んでまればいがべさ。名前なめえっこばり立派だ馬鹿っこなんだすけ、女さ、ふったらかれて、死んでまれじゃ」

 肺腑が張り裂けるほどに。肩を上下にいからせながら。言葉の塊をぶっつけていた。

 泣いて怯えるヤン・ヴァレンティンの顔に、盆。投げつけて、その上から椅子をぶちこんでいた。

 そして今度はその椅子が、ヤン・ヴァレンティンの体にもたれかかっていたフェルディナンに降り注ぎはじめる。

「おもおだじゃ。嫁こさ来てけだ娘っこば馬鹿にして。へば、赤子ややこまで馬鹿にする親、何処どごさいるったっきゃやっ。そこの親さ、そう教わってきたんだすけ、そったら事できるんだべなっ」

「お許しください。どうか、我らが父祖、ニコラの名に誓い」

「許さねっ。だれせば、名前なめえっこば、頭も下げれねえ馬鹿おんた。頭下げるのもらでねくて、嫁こだべや。おらっ、ここさねまれ。嫁こさったこと、頭付いて謝れじゃっ」

 シャルロットの細い腕が、泣いて震えるフェルディナンの胸ぐらを掴んで、インパチエンスの前に放り投げた。

 フェルディナン。ゆっくりと顔を上げる。目には明らかに拒絶の色が。

 途端だった。

「頭下げろじゃっ」

 その後頭部に、椅子。

「謝れってったべさ。早くしろじゃ。嫁こさ早く謝れじゃっ」

「申し訳、申し訳ありません。我らがニコラの名のもとに」

「おがやったことなんだすけ、お名前なめえっこで謝れじゃ。馬鹿っこがや」

 細く穏やかな目を、真っ赤にいからせて。そこから滝のような涙を流しながら。何度も、何度も、振り上げては振り下ろして。そのたびに、人の悲鳴と鈍い音が。

「男ふたり、ニコラば名乗って、女さ、ふったらかれるのば、おしょすねと思わねのすかっ」

 その咆哮が、最後だった。

 怒りが、しなびていく。悲しみに変わって、顔を覆い、へたり込んでしまった。そこにすかさず、ガブリエリが駆け寄って、抱き寄せていた。

「おねぇ。ねじゃあ。レオちゃんば、ふっかれたの見て、私、わがねくなって、りことしてまったじゃ」

「大丈夫だよ。落ち着こうね。むしろ私とか、皆さんのために怒ってくれたんだから。それって、すごい偉いことだからね。母さん、怒ってくれて、本当にありがとうね」

「ああ、レオちゃん。私、人さ死んでまれってってまったじゃ。人、死ぬおんた事してまったじゃ。ねぇ。ねがんす」

「なんもなんも、だよ。これから、ちゃんとしたお仕置きが来るから。後は安心していようね」

 その言葉に、男ふたりの体がびくついた。

 お仕置きが、来る。それで、逃げ出そうとしたのだろう。

 ただそれも、店を出た、すぐのところまでだった。

「この恥晒しっ」

「何がニコラだっ。英雄の名を汚したごみどもめ」

 罵声と石。野次馬たちが、ぶっつけていた。

「お前たち、我々を誰だと」

「女を殴るようなやつだ。女に殴られて、家名を出すようなやつだ」

「誰がお前たちのめし代を稼いでやってると思っているんだ。名前だけの貴族めが。図に乗るな」

「そこまで」

 大喝。鳴り響いた。低く、太い声。

「国家憲兵警察隊本部長官、大佐」

 群衆が、割れる。杖の音。頭ひとつ抜けた巨躯。

霹靂卿へきれききょう、オーブリー・ダンクルベール。そして」

 それに並ぶ姿。それを見て、飛び出していた。近寄り、声をかけようとした。

 でも、できなかった。

「その息子、ジャン=ジャック・ルイソン・ペルグラン」

 ジャンは、嵐になっていた。吹き荒ぶ、暴風雨に。

 きっと、腰を抜かしていた。それを誰かが、支えてくれたのだろう。

「お母さま」

 その人の顔を見やる。七色に燃え盛る瞳と、その間に、袈裟に走った向こう傷。

「神たる父、御使みつかいたるミュザに代わり、あなたのルイソン・ペルグランが、あなたのこわいものを、打ち払います」

 救いの聖人、サントアンリ。その熱が、温かかった。

 男ふたり、男のようなものの前に、立ちはだかった。

「暴行、器物損壊、公務執行妨害の現行犯。ならびに」

 銃身ふたつ。男たちに、突きつけられた。

「国家反逆の指名手配につき」

 憤怒の声が、重なる。

 国家反逆。その言葉に、ふたり、愕然とした表情になっていた。

 そして、ぱしん、と。警棒の音。

「こちら、国家憲兵警察隊、少佐。ビアトリクス。その件に関して、貴殿ら二名に通達事項あり。よろしいか」

 ふたりの男の間に立った、絵に描いたような女軍警。峻厳な美貌と、はきはきとした口調。

「本日の現在時刻、貴族院議会において、貴殿ら二名に対し、各種問題や不祥事に対する証人喚問が行われている認識である。貴殿らより出頭要請に対する了解の旨、返答はあったとのことだが、現時刻において貴殿らはそれに出頭せず、各種犯行に及んだ認識である。ここまで、よろしいか」

 フェルディナンが真っ青な顔で、口をぱくぱくしていた。

 証人喚問要請を反故にしてまで、自分を脅しに来たのか。そう思った途端、ジョゼフィーヌの中で、軽蔑の色がより強くなった。

「王陛下、宰相閣下、および貴族院議長閣下は、これを虚偽申告、ならびに、国家権力を侮辱する極めて悪質な行為として、国家反逆と判断した。先ほど公安局、ならびに司法警察局に対し、両名に対しての指名手配の要請あり。これより、貴殿らの身柄を確保する」

 撃鉄が起きる音。ふたつ、重なった。

「国家反逆の主犯の確保は、原則として生死問わずデッドオアアライブ。抵抗すれば、即座に銃殺する。ここまで、よろしいか」

「そんな、ご無体な」

 ヤン・ヴァレンティンが言えたのは、そこまでだった。

 破裂音。ヤン・ヴァレンティンの足元から、煙が上がっている。

 小柄な軍帽の青年。すぐ側にいた。おそらく、施条ライフル銃。

 ウィル。駆け寄ってきたカンパニュールが、そう、呟いていた。

「事情聴取だ」

 ジャン。ふたりを蹴倒し、跪かせる。そうやって、着ているものの背中を引き裂いた。

 初冬。痩せた体ふたつが、震えていた。

「母上に手を上げたのは、どっちだ?」

 その言葉に、ヤン・ヴァレンティンもフェルディナンも、身を固めた。口を開こうともしない。

「ガブリエリ」

 ジャンが、何かを取り出す。

 乗馬用の鞭だった。

「両方」

 典雅な声を上げながら、ガブリエリがふたりに、引き裂いたものを咥えさせた。

 鋭い音、ふたつ。跳ねる体。野次馬から、快哉が上がった。

「カンパニュールは、爺さんの方。顔だけじゃなく、背中もぶん殴られてる」

 二発。ヤン・ヴァレンティンが声も上げられず、踊り狂った。

「コロニラは、父親だね」

 空を裂く音。痩躯が、石畳の上でのたうち回る。

「さて、俺のインパチエンスに手を出したのは、どっちだ?」

 その声だけで、ふたり、涙を流して震えだした。

 大嵐。名ばかりの船乗りたちの前に、雷雨が打ち付けられている。

「父親の方だ。それに、お三方に対しては、ふたりとも、商売女とも言ってたよ。くわえてご内儀には、その腹の子は本当に貴様の子か、ともね」

 ガブリエリの言葉に動いたのは、巨躯だった。

 雷音。顔面を踏みつけられ、横たわっていたフェルディナンの体が、逆立ちの様になっていた。

「ひとの義娘むすめに商売女とはね。親の顔が見てみたいものだ。同じ人の親として、そうは思わんかい?」

 そうやってフェルディナンの頭を踏みにじりながら、褐色の大男は、じっとヤン・ヴァレンティンを見据えていた。言われた側は何もできず、怯えてすくみ上がることしかできていなかった。

 ガブリエリ。ふたりに、冷水をぶっかける。それで、気絶していたフェルディナンも、叫びながら目を醒ました。

「人を愛するということは」

 ジャンが吠えだした。

「人を育てるということは、本当に大切で、本当に大変なことなんだ。それをわからないままに親をやるやつを。わからないままに人をやるようなやつらを、我ら父子おやこは断じて許さない」

 そうして男ふたり、へたり込んで震えてばかりの、男のようなものふたつの前に並んで。

「ヤン・ヴァレンティン・ニコラ。および、フェルディナン・ニコラ。着座のまま、姿勢、正せえいっ」

 大喝。我が子のそれだった。フェルディナンの正面で、怒気を漲らせている。

「指導、一回。用意」

 ダンクルベール。その声は雷鳴のごとく、ヤン・ヴァレンティンを打ち据えた。

「指導っ」

 爆ぜる音、ふたつ。

 人の体が、宙を舞っていた。

「暴行、器物損壊、公務執行妨害の現行犯。および、国家反逆の指名手配。確保」

 ビアトリクス。

 倒れ込んだふたつ。連れてこられた驢馬ろばのそれぞれの背に括りつけられ、運ばれていった。

サントアンリさま」

 抱きとめてくれていたひとに、向かって。

「娘たちを、どうか」

 力が抜けていく中で、それだけ言えた。

 これで、終わる。ニコラ・ペルグランのすべてが。ニコラ・ペルグランとの、すべてが。

 ありがとう、私のジャン。男に産まれ、男として育ち、男として、私の戦いを終わらせてくれた、愛しい我が子。

 あとはしばらく、まどろみの中にいた。

 誰かが、側にいた気がした。きっと、横たえられていた。

「よく、頑張りました。私はお前にとって、もう屍だから会うことはできない。けれど、夢の中でだけ、それを許しておくれ?」

 聞き覚えのある声。聞きたかった、声。

「ええ。屍は、乗り越えなければなりませんから」

 懐かしさと、何かが、溢れてくる。

「でもきっと、生きているなら、それを受け止めなければなりませんよね?」

 おそらく、差し伸べたのだと思う。そしてそれを、手に取ってくれたのだと。

「そうだね。そして、ごめんよ。またいつか、そのうちに。我が愛しき妹。黒髪のジョゼフィーヌ」

「また、いつか。何かしらの、かたちで」

 温かいものが、抱きしめてくれた。それだけで、十分だった。

「母さま」

 瞼が、開いたのだと思う。

 覗き込んでいたのは、子どもたちだった。

「ああ、母さま。あたくしたちのために」

 インパチエンス。抱きついてくれた。カンパニュールも、コロニラも。

「母上、遅くなってしまいました。つらい思いをさせてしまった」

 我が子、ジャン=ジャック・ルイソン。目に涙を浮かべながらも、笑顔だった。

「なんもなんも。可愛いお前たちのためだもの」

「お母さん、かっこよかった。ありがとう」

 カンパニュール。顔をぐしゃぐしゃにして。それが何より嬉しかった。

 見渡す。“赤いインパチエンス亭”の二階にある寝室。身を起こして、三人の娘を抱き寄せた。

「気が抜けてしまっただけ。骨も肉も無事。二日もすれば、腫れも引きます。それまではどうか、お大事に」

 側に控えていた、小柄な修道女。にこやかに微笑むその額には、向こう傷が走っていた。

サントアンリさまに介抱いただけただなんて、この身に余る光栄です」

「私は、サントアンリであり、ただのアンリエット。そして、ルイちゃんのお姉ちゃんです」

 その言葉に、ジャンの顔が赤くなった。

「ジャン。お前、ルイちゃんだったのね。素敵なお姉ちゃん、見つけていたのね」

 思わず、笑っていた。それで泣いていた娘たちも、笑ってくれた。

「アンリさん。それは、インパチエンスの前では」

「大丈夫。ちゃんと許可、貰ってるから。ね?」

「ええ。義姉ねえさまが授けてくださりあんしたもの。文句はながんしてよ?お坊も、そろそろ代替わりですから」

「いいよなあ、貴様は。素敵なご内儀に、姉に妹。くわえてアンリ姉ちゃんだなんてさ」

「貴様だって、きょうだい持ちだろう。立派すぎる親までもらったんだから、文句言うなよ」

「レオナルドさまも、ありがとうございます。シャルロットさまは、どうなされました?」

「母さんは、先に事情聴取へ。大丈夫ですよ。ちゃんと正当防衛の範疇に収まるはずですから」

「聞いて聞いて、ルイにい。シャルロットさま、すっごいかっこよかったの。ニコラ名乗っておきながら女にぶん殴られて恥ずかしくないのかって、お盆とか椅子で、ばかすか叩きながらさあ」

 コロニラの楽しそうな言葉に、ジャンはぎょっとしていた。久しぶりに見る、我が子の可愛らしい顔だった。

「先ほど伺いましたが、驚きましたなあ。あのシャルロットさまが、烈火の如くお怒りになられたとは」

 佇んでいた巨躯。困ったようにして、微笑んでいた。

「ダンクルベールさま。この度はまことに、我が子、ジャン=ジャック・ルイソンのためにご協力を賜りまして、ありがとうございました」

「こちらこそ。俺にとっても、大事な息子ですからな。お母さまをはじめとして、インパチエンスたちには大変な思いをさせてしまったのが、何より不甲斐ないことにございます」

「なんもなんもでがす。これで、母さまとルイちゃんの戦いが終わりました。あたくしたちは、これでちゃんとした親子になれあんす」

 三人の娘。向き直り、深々と礼をしていた。

「一通り、片付きました」

「ご苦労でした、マギー」

 ダンクルベールに促され、入室したのは四名。

「改めまして、サラ・マルゲリット・ビアトリクス。ダンクルベールの一番弟子です。この度、ご子息さまを副官として迎えることとなりました。同じくダンクルベール一門のきょうだいとして、粉骨砕身の覚悟にございます」

 凛々しい所作での敬礼。三十半ばぐらいだろうか。整った顔、黒髪に真紅のべに。着古した油合羽あぶらがっぱと、絵に描いたような女軍警。

 思わず、心がときめいていた。こんなに素敵な姉までいたとは。母として、これ以上の果報は無い。

 次に顔を見せたのは、小柄の童顔。しかし、しっかりとしたものを感じる若武者である。

「中尉。ウィリアム・モルコ。ご子息殿とは、俺、貴様の間柄をさせていただいております」

 名乗りが終わるやいなや、カンパニュールがそのこに飛びついていた。そうしてその胸の中で、わんわんと泣きはじめる。

「あの、まあ、このとおり。ご息女さまとは、結婚を前提にお付き合いを」

「それはそれは。では後ほど、面接を」

 困ったようにして頭を掻く青年に、つとめて平静に。

 なるほど、どこぞの馬の骨ね。ちゃんと見定めないと。そう簡単に娘をくれてやるわけには行かないのだから。

 そして、こちらも見上げるほどの巨躯。切り立った岸壁の如き、恐怖の威容。

「最果ての地。氷河のはらを切りひらいた、双角王そうかくおうの名に誓い」

 どん、と、自らの胸を叩いた。

「アンリエットが父、オーベリソンです。ご子息殿とは、第三監獄事件を共にした戦友にございます」

 強面が綻んだ。深く静かで、穏やかな声。聞いていて頼もしく、落ち着くものがあった。

「アンリさまの、お父さまでいらっしゃいますのね?」

「育ての親でしたが、本当の父娘おやこにもなりました」

 父娘おやこ、目を合わせた。そうしてふたり、微笑んでいた。

 自分とインパチエンスたちのようなもの。あるいは、それ以上のもの。北の巨人と小さな聖女。愛らしく、頼もしい父娘おやこのかたち。

 少しだけ、潤んでしまった。

「いやまあ、ただね。アンリがご子息殿の姉を気取るようになっちまったもんですから、ご子息殿も俺の息子扱いになるんですよねえ。その上で、ご子息殿は長官の息子も名乗っているんだから、縁戚関係がごっちゃになっちまいまして」

 途端、顔も声も砕ききった言葉に、皆で笑ってしまった。

 見た目とは裏腹に、朗らかで剽軽なお父さんのようだ。なんだか安心してしまった。

「それ、私も曹長の娘になるのかしら?」

「勘弁して下さいよ、少佐殿。長官じゃあないけれど、うちだって十分以上に女所帯なんですから」

「そうそう。もうひとり、娘もできたし。ね、レヴィ?」

「やめてよ、それ。人前でさ」

 オーベリソンの後ろに隠れていた、吊り目の不良っぽい若い娘。恥ずかしそうに、顔を覗かせてきた。

「あなたも、オーベリソンさまの娘さんなのかしら?」

「そう、私の妻です。法律の都合、事実婚ですけど」

「あらま」

 思わず、口に手を当てていた。

 聖女が同性婚だなんて。しかも夫で、このこが妻。なんだかちょっと、ふしだらではなかろうか。

「好きな男にいつまで経ってもアプローチができなくって、アンリさんが背中を押しまくったのに、それでも駄目。それなのに、次の男にも同じ轍を踏んだのが頭に来たって、全部まとめて貰っちまったんですって。聞いた時は、腹抱えて笑っちまいましたよ」

 ガブリエリの言葉に、そのこの頬が赤くなった。その様子が気に食わないのか、アンリがそのこを引っ張って、目の前まで連れてきた。

 気の強そうな顔。でも、目を合わせた途端、恥ずかしそうに俯いてしまった。

「怒らないの。事実じゃん。お母さまの大ファンなのに、本当に意気地無し。ほら、お母さまにちゃんと挨拶しなよ。ようやく会えたんだからさ」

「あの、レベッカ・ルキエ、です。ごめんなさい、ちょっと緊張しちゃって」

 赤い顔でもじもじとしながら、それでも挨拶をしてくれた。

「ルキエちゃんね。ありがとう。いじらしいのも可愛いけれど、女は度胸、男は愛嬌よ?」

「ちなみに、好きなひとはモルコ中尉さま」

「ちょっと、アンリさん。やめたげなよ、可哀想だろ?」

「モルコ中尉さまの、そういうところが好きなんだもんね?でも先に泥棒猫にとられちゃったんだもんねえ。そうなる前に、さっさとアプローチすればよかったのに」

 アンリの意地悪な言葉に、ルキエは真っ赤な顔で潤んでしまった。なんだか可愛そうだけれども、それすら可愛かった。

「ごめんなさいね、ルキエ。私、我慢できなくって」

「うるさい。全部、あたしが悪いからいいんだよ」

 吐き捨てるように。それもどこかおかしくて、思わず笑ってしまっていた。

「意気地なしに意地っ張りが乗っかってるのね。じゃあ、オーベリソンさまを見習って、愛嬌で進んでいきましょうか」

「そりゃあいい。年嵩のおやじ相手にはそれができてるんですから、なんとか同世代にも愛嬌で押していければいいってもんですな」

 ダンクルベールが、威厳に満ちた顔を綻ばせながら笑っていた。お父さんというか、お祖父ちゃんの顔である。

「ルキエ。もしやお前、お父さんっ子だったのかいね?」

「うん」

 オーベリソンの問いに、一拍置いて。

 それで皆、腹を抱えてしまった。

 きっと普段は小生意気だけど、根は純真で素直なのだろう。等身大で、可愛らしい女の子。

「本当にジャンは、人に恵まれましたわ」

「私たちは、ルイちゃんに恵まれました。ね?ルイちゃん」

「マギー監督まで、乗っからないで下さいよ」

「私もルイちゃんって呼ぼうかね。なんたって、ご兄弟さまだからな」

「呼んでみろよ。レオちゃんって呼んでやる。ルイちゃんレオちゃんウィルちゃんで、肩組んで歩いてやろうぜ。ラクロワが喜ぶだろうよ」

「それは本当に勘弁だ。かみさんに叱られる」

「貴様さあ、なんで俺まで巻き込むんだよう」

「貴様がそばにいるって言っただろう?それなら、肩ぐらいは貸しなさいよ」

「やれやれ。どいつもこいつも、いつまで経っても子どもだなあ、オーベリソン」

「本当に、忙しい限りでさあ。気楽なのはムッシュぐらいですもの」

「あのおやじ、そのあたり上手いからな。のらりくらりと躱しやがって。今度の若い連中、全部あいつに押し付けてやろう」

 皆の笑顔。夢のような、家族の光景。

 ひとりっ子だったジャンに、こんなにも沢山のきょうだいと、親がいてくれる。笑って過ごせる、素敵な家族が、いてくれる。

 これほど嬉しいことなんて、他に思いつかない。

「母さまに出会えたおかげ。あたくし、幸せ。本当に、ありがとうごぜあんす」

 インパチエンス。まだ涙の残る目で、それでも微笑んでくれた。

「なんも、なんも」

 インパチエンスやシャルロットから教わったことば。これだけで、何でも伝わる。感謝も、いたわりもすべて、これだけでいい。

 心が伝わる。だから、好きなことば。


3.


 男一本、腕一本。それが、終わる。

 馬車から外を眺めながら、マレンツィオはぼんやりと、そればかりを考えていた。幼き日に憧れた、大提督ニコラ・ペルグラン。その栄華の終焉を、その血を引く男が自ら行う。そしてそれを、自分が支えていく。

 夢ひとつ、終わらせる。新しい夢のために。

「閣下、お元気がなさそうで」

 正面に座したカスタニエが、珍しくそういうことを言った。セルヴァンから紹介された秘書官で、心身ともに頑健であり、極めて優秀ではあるが、どこか人間味が薄いところがあった。

「世間話だがね。誰しもが、憧れを持って道を決める。その憧れていたものが、自分が思い描いたものと違っていた。そういうことというのは、あるだろう?」

「まあ、確かに。私は経験はないですが、それで脱落した人間は、いくらか周りにいました」

「俺も、そのひとりさ。ニコラ・ペルグラン。巨大な虚像だ。そして今、ルイソン・ペルグランが戦っている。その虚像を滅ぼすために」

「些か、やり過ぎな気もしますが」

「俺がそそのかした。塵ひとつ、残すなと」

 自分に言い聞かせるように、マレンツィオは、つとめて強く、そう言った。

 はじめてあの若者と会ったとき、幼き日に見たものを、見たように思えた。

 ダンクルベールという巨才。警察隊にいたとき、マレンツィオたちは、常にそれと対峙する必要があった。マレンツィオは直属の上司であり、また捜査官より管理職としての才覚を持っていたため、直接的にやりあう必要は無かった。しかし他のものは、あの才能と並び、戦っていかなければならなかった。誰しもが比べられ、振り落とされ、突き放された。

 あの褐色の怪物は、孤高だった。誰も、並び立てなかった。並ぶには、アプローチを変えるしかない。ウトマンがそうしたように、別のかたちを取らなければ、潰れてしまう。ガンズビュールの後、他部署に異動してからも、ダンクルベールの噂は耳に入った。そしてどこか、つらいものを感じていた。

 誰も、あれについていけない。いつしか警察隊本部とは、ダンクルベールになってしまっていた。

 ジャン=ジャック・ニコラ・ドゥ・ペルグランと名乗る青年は、自然だった。そこにいるのが当たり前のように、ダンクルベールの隣りにいた。それが驚きであり、感動であった。

 あの若者には何かがある。心が踊った。

 ヴィジューションから戻った後、別件でダンクルベールが訪ねてきた際、ペルグランという若者について、詳しく尋ねた。

 本当は別の部署に行きたかったと。一年前は、不満たらたらのぶうたれ小僧だったと。何より、純朴な好青年であり、打てば響く。促せば発想ができる。素質も伸びしろも、素晴らしいものを持っていると。

 ダンクルベールに並び立つものになれるかもしれない。あるいはそれを超え、従わせることも。それ以上になるかもと。

 だから、ダンクルベールを説き伏せた。絶対に大きくしろと。お前の上に立てるつもりで育てろと。あれは必ず大成する。国のために、何よりも彼と、自分たちのためになると。

 ダンクルベールも、同じ思いを抱いてくれていた。秘めているものが大きいと。自分のようにはなれないが、それを従える、大きなものになれるはずだと。だから、今までのように、いくらでも自分を頼るようにと、すがるように説き伏せた。

 見初めた人と結ばれたいと、相談しに来てくれたこともあった。

 名門貴族なれば許嫁が当たり前である。マレンツィオもまた、許婚こそいたものの、社交界で出会ったシャルロットを見初め、妻にと説き伏せた、恋愛結婚の経験者だった。

 彼は自分のそれを行く、道ならぬ恋である。これには心服した。でかした、男の夢だと、思わず肩を叩いた。

 またインパチエンスは、売られた身とはいえ、南東育ちであり、シャルロットの同郷でもあった。シャルロットは同郷の人間と話す時だけ、あるいは感情が昂る時だけ、故郷のことばが出る。南東の海沿い、港市場いさばのことば。初めて出会った若かりしとき、その素朴なことばに、心を射抜かれた。本人は田舎のことばだと恥ずかしがって、聞かせてくれなかった。

 それがまた聞ける。何よりも嬉しかった。

 廃嫡覚悟だとは言っていたが、インパチエンスがペルグランの境遇に心を痛めていた。だからセルヴァンとふたり、アズナヴール伯家に乗り込んだこともある。

 あの時ふたりで、夫婦のどちらを立てるかで、事前に打ち合わせをした。頭を下げて、ペルグランを立てることを譲ってもらった。セルヴァンもペルグランを気に入ってはいたものの、きっとそういう思いだろうということは、汲んでくれていた。後方支援の熟達者である。性格の部分でぶつかることは多いが、仕事やそういった場面では、わかりあえた。

 そして今、一族に、信義にもとる行いをされた。あの若者は、修羅になることを選んだ。ニコラ・ペルグランを滅ぼす。男の姿をした人形どもを、火で清めると。

 ならば、あの日見た夢ごと、今のかたちを燃やしてくれ。恨みや怒りばかりを育む日々を、終わらせてくれ。

 それを、ルイソン・ペルグランに託した。新たなる男の代名詞に。

「未練を残したくない。そしてまた、虚像に夢を見る人間も、増やしたくない。俺も、そういう虚像になりたくない」

「そのための養子縁組、家督相続。そして、“緩やかな革命”ですか」

「半分はな」

 “緩やかな革命”。そう銘打った改革を、進めていた。

 この国の誰も彼もが、国のあり方に疲れ果てていた。特に貴族名族たちは、名を保つことに精一杯で、そのために愚行ばかりを犯していた。例外は、フォンブリューヌの地方豪族たちだろうか。あの場所だけは、ずっと発展を続けている。

 だから、名から実を切り離す。それは王陛下や宰相閣下ですら、変わりない。

 ユィズランド連邦では、武力と恐怖でそれを為したが、大量の血が流れていた。だから、ゆっくりと時間をかけ、国の仕組みを、民主協和的なものに変えていくべきだった。

 宰相閣下が、強硬手段に走っていた。それも、内務省によって阻まれた。

 内務尚書ラフォルジュは徹底抗戦の構えだが、マレンツィオはその間を取り持った。宰相閣下もまた、交易を中心に発展していく、民主共和制を望んでいたからだ。だから理解を示し、そのうえで説得した。

 あるいはその場に、王陛下すら交えた。王陛下もまた、保身に疲れていた。

 ゆっくりと事を為すこと。憲法を制定し、王を国家の象徴とし、貴族を含めた国民全体によってまつりごとを為すこと。立憲君主制と民主共和制は両立しうること。それを為すまでが我々の仕事であり、ことが終わり次第、次代の人間にまつりごとを託すこと。そしてそのための人間を育てていくこと。そしてすべては、試行錯誤の末に実現するであろうこと。

 現在、一応の理解は得られている。野望を打ち砕かれた宰相閣下は従順だったし、王陛下は最初こそ拒否反応を見せていたが、権威を保証することを約束したら、素直になった。玉座は玉座でさえあればいい。もとより、そういう姿勢なのだから、あり方は変わらない。

 ガブリエリと親子の関係になれたのも、うまく働いた。即座にブロスキ男爵としての家督も相続した。名を振りかざすことなく、発言していけるようになったので、他家からも理解を得られはじめている。

 何年かかるかはわからない。それでも、将来が見えてきた。国の発展という、新しい未来が。ルイソン・ペルグランとガブリエリ・マレンツィオ・ブロスキという、新しい夢が。

「レオナルドは、ただ単純に、ダンクルベールめが羨ましくなっただけさ。実家が面目のために投げて寄越した若いのを、立派な男に育て上げ、親父おやじと呼ばれるまでになったんだもの。俺もまた、親父おやじと呼ばれてみたかったのさ」

「実の父でもない人を、父と呼ぶのは、よくわかりません」

「ありがとうと言われて、嬉しくないはずもなかろう?感謝と敬意、それの表現のひとつさ」

 そう言うと、カスタニエは思い詰めた表情になった。

「私は、自分が人間であることに興味を示さないまま、ここまで来ました。機能のひとつとして、今もここにある。そう、定めております」

「それで、楽しいかね?充実しているかね?」

「はい、充実しています。そう思っております」

「なら、それでいいさね」

 それを口にすると、カスタニエの顔に、いくらかの驚きが見えた。

「別にそれを否定したくて言ったつもりではない。人によって、考え方もあり方も違うのは、当たり前のことだよ」

 思ったことを、思ったままに。それはルイソン・ペルグランから学んだこと。

 カスタニエが子どもの頃、家庭に問題があったことは、セルヴァンから聞いていた。あるいはそれが、人間性の欠如につながっているのかもしれないとも。それを否定するつもりも、矯正するつもりもなかった。

 培ったとおりに生きればいい。それが自分が切り拓いた、正しい道なのだから。

「お前は、精密な時計の歯車のようなものだ。自分では狂うことを許してはいないだろう。だが、狂ったかもしれんと思うならば、一旦、遠目で見てみなさい。あり方は変えず、視点だけを変える。例えば油が切れていたり、他の歯車がずれていたり、ぜんまいが切れていたりする。それはお前の間違いではないのだから、気にする要はない」

「仰っていることは、わかる気がします」

を通すのに、了見は広めるに越したことはない。自分がどこを通っているかを、確認するためにな。行動原理がしっかりしていれば、あとは前後左右の確認だけで、問題は少なくなる」

 それで、得心した様子だった。

「以上。爺の繰言、終わり」

「ありがとうございます。閣下はやはり、大人物です。学ぶことばかりです」

「おう。学ぶのはいいが、学んだ以上は活かせよ?俺とて、教えたことが正しいかを確認する必要があるからな」

 そうして笑った。

 人を育てるのは、楽しかった。

 本当は子どもがいればよかったが、ダンクルベールの子どもたちや、本家筋の嫡男であるガブリエリだけで、十分に楽しませてもらった。最初こそわからないことばかりで戸惑ったものだが、気を詰めず、ただ接するだけで、人は育つ。そういうものだと気付いてからは、楽しさが強くなった。

 人は、育つように育つ。側にさえいてあげれば、才能は自ずから咲いてくれる。だから、必要以上に熱心になる必要は、なかったりする。それがマレンツィオの育て方だった。

「あれは」

 しばらくして、カスタニエが声を上げた。“赤いインパチエンス”亭に、妻を迎えに行くところだった。

 みやるとその前に、何台かの憲兵馬車が並んでいた。

「止めてくれ。見に行く」

「閣下、危のうございます。御身を」

「今、危ないのは、シャルロットだ」

 馬車が止まる前に、飛び降りていた。

 多分に肥えたが、体は動かせるようにしていた。爺にもなったが、まだまだ若いものには負けない。体の頑丈さだけは、未だに自身があった。

 “赤いインパチエンス亭”。荒らされていた。女たちの姿は、無かった。

「ご内儀さまはご無事です。インパチエンスさんたちも。居合わせたジョゼフィーヌさまも。どうかご安心下さい」

 見たことのある顔。モルコ。この間、狩猟に来てくれた、ヴィルピンの副官である。

「シャルロットは何処いずこかね?」

「先に庁舎の方へ、事情聴取に。ジョゼフィーヌさまを狙った暴漢に立ち向かい、応戦なされました。犯人に怪我を負わせたと、自ら処断を仰いでおりましたもので」

「なんと」

「法的には、正当防衛の範疇で収めることができますでしょう。ですが、平静を失われておりました。御身を保護する意味で、庁舎の方にお連れしております」

「会うことは、できるかね?」

「是非とも。本官は現在、現場検証中のため、同行叶いませんが、閣下であれば、庁舎のものもすぐに対応できましょう。どうかご内儀さまの御心を安んじいただきたく」

「承知いたした。孫弟子殿。心より、感謝いたす」

 見事な所作の敬礼が帰ってきた。

 馬車に戻った。カスタニエが、難しい顔をしていた。

「申し訳ありません。こういう時、何を申し上げるべきか」

「何も要らん。自身で申していただろう。自分は、機能だと。ならば、そうしたまえ」

 労いのつもりだった。

 シャルロットが、人を傷つけた。たとえ人を守るためだとしても。

 はじめてのことだった。俄には、信じられなかった。あれはただ、心の優しいものとばかり思っていたから。

 庁舎では、アルシェという男が対応してくれた。

「ニコラ・ペルグランどもか」

 話を聞いて、はらわたが煮えくり返った。

「シャルロットの前に、あれらに会うことは叶うだろうか?」

「構いません。現在、勾留中です。これより本官が、尋問を行うところでした」

 寝ぼけ眼の、考えの読めない男。だが恬淡としていて、嫌なところはない。

「ご内儀さまは本当に、ご立派でいらっしゃいますね」

 歩きながら、アルシェが語りかけてきた。

「ペルグラン中尉のご母堂さまや、奥さまたちを守るために、あのニコラ・ペルグランのお血筋をぶっ叩いたんです。それを、激昂してやってしまったと、悔やんでらっしゃいました。他者からすれば勇敢な行為であるのに、ご自身は恥ずべき行いをしたと。人を傷付けてしまったとね」

「未だに信じがたい。俺のシャルロットは、穏やかで優しいひとなのに」

「穏やかで優しいからこそ、人のためなら苛烈になれる」

 ふと、足が止まった。何を考えているかわからない目が、こちらを覗き込んできた。

サントアンリと、おんなじですよ」

 仏頂面の寝ぼけ眼。それでもどこか穏やかで、優しいものを感じた。

 信用に足る人物と見て、間違いなさそうだ。

「貴官、なかなか見どころがあるな」

「人を見るのは得手です。長らく、尋問や拷問を担当しておりますもので」

 思わずで、笑ってしまった。

 この男ならきっと、シャルロットに対しても、礼節を以て対応してくれたことだろう。

 ふたつ、留置室に捨て置かれていた。後ろ手で縛り上げられた、傷だらけの、男のようなもの。

 これが、かのニコラ・ペルグランの血の末路。目を背け続けた、憧憬の現在。

「国民議会議長殿、お恨み申し上げますぞ。我々は、貴殿のご内儀に」

 言葉を発しはじめたその顔に、拳をぶちかました。もう片方にも、同じように。それを何回か、減らず口が消えるまで。

「女に殴られたと泣き言を抜かすのも不名誉だろう。訴えるなら、俺を訴えろ」

 どちらが誰など、確認したくもない。女に殴られて、恨み言しか吐けないような、男もどき。

 寂しかった。泣いてしまいたかった。その栄光と矜持は、もはや塵すらも残っていない。

 焼き捨てるものなど、最初から無かったのだ。

 一息入れて、アルシェに向き直った。

「暴行の現行犯だ。確保してくれ」

「ああ、すみません。余所見してました」

 こぼした言葉に、仏頂面が、口元だけで笑った。

「このとおり、仕事が嫌いなものでして。替わっていただけると助かります」

 アルシェは、顔の割に明るい声で、警棒を差し出してきた。

 きっと、心中を察してくれたのだろう。鋭敏なところがありつつ、そういった腹芸もできる。

 信用どころか、友だちにすらなれそうだ。

「馬鹿を申すな。職務に邁進したまえ」

 満面の笑みだけ、返した。

 アルシェが警棒を下げたのをみとめてから、そこから出た。しばらくして、後ろから、悲鳴が上がりはじめた。

 仕事嫌いの、如才じょさいない拷問官。そういうのも、ここにはいる。

 ダンクルベールも、同僚にこそ恵まれなかったが、部下に恵まれたものだ。

 階段の前。亜麻色の髪の、美貌の女性士官が待っていた。

「警察隊本部、中尉。ファーティナ・リュリ。ご内儀さまのところへ、お連れいたします」

 顔に見覚えがあった。それも、嫌な思い出として。

「それが、今の名前かね?シェラドゥルーガさんよ」

 つとめて、平静に。

 それは鼻を鳴らして、眼鏡を外した。

「やっぱり、バレちゃったか」

 不敵な、魔性の笑み。その瞳は、あかかった。

 人でなし。ボドリエール夫人こと、シェラドゥルーガ。

 第三監獄が襲撃されたため、寝床が無くなった。おそらくそれを、内務尚書ラフォルジュあたりが気を回して、ここに隠しているのだろう。

「私もこれから会う。アルシェ君から聞いている通り、法的には問題ない。ただ、落ち込んでいるようだから、お前が行って、落ち着かせてやりたまえよ」

「ありがとよ。で、お前もシャルロットに、素性を明かすのかね?」

「そうだね」

 言って重たそうに、その瞼を閉じた。

「あの方には、本当にお世話になった。そして、つらいものを背負わせたまま、私だけ、いなくなってしまったから」

 シェラドゥルーガの顔は、暗かった。

 ガンズビュール連続殺人事件。誰にとっても、つらいものしか残らなかった、悲惨な記憶。

 事件発生当初から、ダンクルベールはボドリエール夫人ことシェラドゥルーガを、第一容疑者と定めていた。先に発表されていた“湖面の月”に、その鍵があると信じ、それを読み進めようとした。

 しかしそれは、自分のかつての妻の末路を、思い出させるものでもあった。あれの妻の生涯は、その内容を、そっくりなぞっていたから。

 シャルロットは、それを何度も止めようとした。泣きながら、何度も諭した。絶対に違うと。ボドリエール夫人が犯人ではないから、それから目を逸らせと。それでもダンクルベールは、妻の末路と、自分の業と向き合った。結果として、それが正解だったのだから。

 シャルロットは、ボドリエール夫人にも説得に行った。ダンクルベールの捜査は間違っている。ボドリエール夫人を疑っている。だからその疑念を晴らしてほしい。ダンクルベールを、“湖面の月”から遠ざけてほしいと。そうしなければ、ダンクルベールは壊れてしまうと。

 そしてその場で、告げられたそうだ。ダンクルベールの見立ては正しいこと。つまり、自分こそが犯人であること。ダンクルベールを愛しているからこそ、犯行に及んだこと。そして自分が、人ならざる、人でなしであるということを。

 ガンズビュールが終わるまで、シャルロットはそれを抱え込まなければならなかった。人でなしの、人でなしなりの愛し方を見届けるということを、人の身でありながら、やらなければならなかった。

 マレンツィオは、それが許せなかった。きっと心から慕っていた人だからこそ、本心を打ち明けたのだろう。それぐらい、シェラドゥルーガはシャルロットに懐いており、常日頃から敬愛を見せてくれていた。友だちとして、接してくれていた。それでもシャルロットは、葛藤と自責に苛まれ続けていた。

 シェラドゥルーガは、生きている。今こうやって、目の前で。それも、シャルロットに償いをしたいと、心よりの声を上げて。

 なら全部、今日で終わり。新しくやり直せるならば、それでいい。マレンツィオは、許せないものを、許すことにした。

 何よりも、愛しい人の大好きな友だちが、戻ってきてくれるのだから。

「お互い、後片付けをしよう。俺は今、済ませた。ちゃんと謝って、また、友だちになってやってくれ。シャルロットは今でも、お前が大好きだからよ」

 やるべきことを、言葉に出した。

「ご厚意を、感謝いたします」

 それでそのひとの頬に、ひとすじ、流れた。

 シャルロットはひとり、取調室に座っていた。震えて、小さくなっていた。

「あなた」

 拒むような声色だった。それぐらい、思い詰めているのだろう。

 穏やかで、温かいひと。それが憤怒にかられるほどの、下卑た連中。自分の血が産み出したものから焼かれるほどの、愚かなものども。

 それでもお前は、その怒りを罪と思うのだね、愛しいシャルロット。ならば、その心優しさから産まれるつらさを背負うのが、俺の役目だ。あの日お前を見初めた、俺の責務なのだ。

「何も言わなくていい。もう、大丈夫だ」

 目を、合わせた。そうしてから、声を掛けた。それだけで、いくらか落ち着いてくれた。

「愛しいお前。よく頑張った。もう、俺がいる。だからもう、大丈夫だからな」

 シャルロットを悲しませないこと。それだけを芯に、俺は生きてきた。悲しみをすべて受け止め、笑い飛ばして、笑顔にしてやる。俺がお前を幸せにすると決めたのだから。

 腕の中で、シャルロットは泣いてしまっていた。何度もさせてしまったこと。本当はこうなる前に、お前を守ってやることができたならば。俺に、それだけのものが無かったから。

 我儘ばかりを、押し付けてしまった。お前が誰よりも、心優しいがゆえに。俺が何よりも、不甲斐ないがゆえに。

 すまない。だが、愛することだけは、させておくれ。俺の見初めた、ただひとりのひと。

「警察隊本部、中尉。ファーティナ・リュリ。お初にお目にかかります。そして」

 ひとしきり落ち着いてから。それは髪を解きながら、一礼をした。

「お懐かしゅうございます。我が敬愛なる、シャルロットさま」

 声を出しながら、既にその瞳からは、涙が溢れていた。

 シャルロットの手が、その濡れゆく頬に伸びた。シャルロットもまた、涙が溢れていた。

「パトリシアさま。生きてらったんだな?」

 港市場いさばの、ことば。聞きたかった、シャルロットのことば。

「生きてらった。がった。そればっかり心配だった。貴女あんたりことしたすけ。それでも生きてらったんだら、なんもがんすけさ。生きてて、がったじゃ」

 ぼろぼろと涙をこぼし、顔を歪めながら。シャルロットはそれでも、喜んでくれていた。

「はい。シェラドゥルーガとして、生きていました。本当に、貴女を傷つけるようなことをしてしまった。その償いのため、今日まで生きていました」

「私のことは、なんもがんすけ。貴女あんた、つらがんしたべ?きっと今まで、つらがんしたべ?」

 嗚咽。そして、優しい、労うことば。

 愛しいシャルロット。どうしてお前は、そこまで優しくあれるのか。お前につらい思いをさせた相手のつらさを、どうして受け止めてやろうとすることができるのか。

「つらかった。本当につらかった。それでも、ようやくお会いできた。お詫びを申し上げることが、こうやって叶いました。シャルロットさま、本当に、おながんした。どうか、お許しえってくなんせ」

「なんもなんも。嬉しい。本当に、また会えた。だすけ、今までのこと、全部忘れるべし。りことしたのも、つらかったことも全部、此処さ置いてくべし。貴女あんた、今、ファーティナってんだべ?よく、おんであんした。本当たまげだ、嬉しがす。ファーティナさまと新しく出会えたすけ。私、本当たまげだ、嬉しくてら」

「ありがとうございます。愛しております。これからも、お慕い申し上げます。どこまでも心優しきひと。我が愛しき、シャルロット姉さま」

 在りし日に見た光景。それがまた、目の前にある。

「ファーティナ・リュリ殿。かつての、パトリシア・ドゥ・ボドリエール。かつての、シェラドゥルーガ」

 震える手で、その震える手を取った。

「お疲れ様でした」

 堪えることは、できなかった。それだけしか、言えなかった。

「ありがとう、勇敢なるフェデリーゴ・ジャンフランコさま。ありがとうございます、国民議会議長閣下」

 三人、ただ涙しながら、抱き合った。

 つらい過去と別れながら。そして新しい出会いに、感謝をしながら。


4.


 ヤン・ヴァレンティン・ニコラ、およびフェルディナン・ニコラ。両名とも、暴行と器物損壊、公務執行妨害により書類送検。国家反逆罪により書類送検。他、つきまとい行為規制法、および、配偶者からの暴力防止保護法、それぞれの接近禁止命令の違反について再逮捕し、書類送検。

 国会期間中の逮捕、送検は、国会終了まで保留されることが多いが、先に第三監獄襲撃事件で親族が逮捕されていることから、当人らも関与の疑いありとして、先立って不逮捕特権の剥奪が行われていた。

 王陛下以下、宰相閣下、両議院議長、およびヴァーヌ聖教会は激怒。両名の議員資格、および爵位や称号の剥奪を通告。当日の証人喚問に応じる返答をしておきながら出頭せずに犯行に及んだこともあるが、何より妊婦であるインパチエンスに対し、暴言や暴行を行ったことが最大の非難の的となり、他家や民衆を含め、全国から、連座をも含めた、両名の極刑を求める声が上がった。

 これに対し、宰相閣下と国民議会議長マレンツィオの両名が、“犯した罪の重さは国民より教わるべし”と提案し、他がこれを承諾。全員の連名で“ニコラ・ペルグランとは、あらゆる婦女の敵の名である”という声明を全国に発表した後、すべての事案を不起訴処分とし、殺到した怒れる民衆の前で、両名を釈放した。

 両名とも、生きて郷里に戻れたというが、その道中は悲惨の一言では済まされないものだったという。

 裁判所は、ニコラ・ペルグラン一族の男たちが認知していなかった婚外子ら家族への養育費、謝罪金へ充てるため、所有地や銀行口座を含む全財産を没収。また各位への、年金を含む福利厚生制度の提供も停止する判決をも下した。言ってしまえば、ニコラと名がついているだけで、国民としての権利のすべてが失われることとなる。

 海軍を含む国防軍総帥部は、国家転覆の陰謀を企てたとして、ニコラ・ペルグラン一族に対する内部粛清を開始。また、もと海軍将帥という立場でありながら、妊婦を含む女性に暴行を働いたことについて、国防軍の信頼を損ねる行為であることとして抗議声明を出し、一族の過去の軍籍、軍歴を抹消する旨を発表した。また数年前に進水したニコラ・ペルグラン級戦艦も全隻解体が決定し、今後、ニコラ・ペルグランを士官学校の教材として取り扱わない旨も発表している。そのための費用は、裁判所に全財産が差し押さえられているのをわかったうえで、すべてニコラ・ペルグラン一族に請求しているようだ。

 ニコラ・ペルグラン一族へ嫁いだ女たちへの不当な扱いについて、連日、マスメディアで報道され、世間からは同情と擁護の声が上がっている。しかし、ニコラ・ペルグラン一族出身の女となればそうともいかず、ほぼすべてが嫁ぎ先から追い出されたそうだ。現在それらは、ヴァーヌ聖教会やフォンブリューヌ諸侯、そしてマレンツィオ家とガブリエリ家がそれらを受け入れ、保護している。女たちに対しては、暮らしが落ち着き次第、ルイソン・ペルグランの名を授けて名誉を回復するというのが、ペルグランの考えのようだ。

 司法警察局は、ジョゼフィーヌらに対する暴行事件において勇敢な行動を取ったとして、国民議会議長マレンツィオ夫人シャルロットに対し感謝状を授与。名門貴族の夫人が、狼藉を働く貴族たちの愚を懲らしめるという構図に、世間からは快哉が上がっていた。本人の築いた人徳によるものも大きいが、特にその発言の数々に対し、貴族名族からは“訓戒として、謹んで受け入れるべき金言”との声も上がっており、子弟教育に大きな影響を与えているようだ。当人は生来の穏やかな気性から、これらの声に対しては極めて謙遜と恐縮を繰り返しているが、夫であるマレンツィオや、養子となったガブリエリは、愛しい人の格好良いところを見せることができて大変に誇らしいと、胸を張って笑っていた。

 これにてニコラ・ペルグラン一族は、終焉を迎えることとなった。いつぞやにジョゼフィーヌが吠えていた、女をいじめるやつがいる場所など更地にしてしまえという言が、自分の家にて実現するかたちになった。

 立身出世の代名詞は、女を辱め、虐げる名と成り果てた。死んだものこそいないものの、誰も彼もが、死んだほうがましな境遇に落とされていた。

 今やペルグランを名乗るのは、次代の英雄、ルイソン・ペルグラン、ただひとりである。それは、愛するもののために名を捨てて、信じるもののために家を滅ぼした、覇道を歩む男の名であった。

「ああ、親父おやじ。いらっしゃいませ」

 “赤いインパチエンス亭”。ダンクルベールはティナを伴って、仕事帰りに寄ってみた。ペルグランがちょうど、店を閉めようとしていた。

「インパチエンスの調子が悪いのかね?」

「すみません。ちょっと貧血起こしちゃって。でも、親父おやじとティナさんなら大丈夫。カンパニュールとコロニラも、まだいますので」

 帰ろうとも思ったが、折角だし、お見舞いがてらで入ることにした。

「お舅さまにお姑さまも。本当に、おながんす」

 インパチエンスも妊娠中期。精神的には安定してくるだろうが、体調はころころと変わる。無理をせず、奥で休ませることにした。

 店も閉めたこともあり、自分たちの肴として、そして皆の賄いとして、ふたりで厨房を借りることにした。近くに八百屋、肉屋もあるので、足りないものがあってもすぐに買ってこれる。パン屋はそろそろ時間といったところだったので、残り物を二束三文で売ってもらった。

「まず、インパチエンス君が食べられるようなものから、はじめようか。かぶと豆で、ポタージュといこう」

かぶは、そのまま焼くだけでも美味いよな。にしんの塩漬けに、玉葱と檸檬レモン。オリーブに赤茄子トマト。ケッパーもあるのか。これだけで、いろいろ作れる」

「すみません、ティナさんもお殿さまも。せっかく来ていただいたのに」

「むしろ私、楽しみ。ティナさんは勿論だけど、お殿さまの料理とか、絶対美味しそうじゃん?」

「コロニラ君は前向きというか、何でも楽しめるよねえ」

 淑やかなカンパニュールに対して、気持ちの良い笑顔を絶やさないコロニラ。今まで顔を合わせることは少なかったが、なにしろ個性的で人好きのするふたりだから、打ち解けるのに時間は必要なかった。

 人にめしを作るとなると、なんだか張り切るものである。昔から食うために働き、働いて手に入れたもので食いつないできた。奉公先やご近所さん、娘たちの習い事の先生などからも、色々と教わった。娘たちの友だちが家に遊びに来たときなどは、次もまた来てもらえるようにと、奮発したものだ。

 勉強は不得手だが、考えるのは好きなので、それもあるのかもしれない。だから捜査官などという仕事も、長くできていたのだろうか。

「これ、セルヴァンの作ったやつかね?」

 料理するなかで、ふと気付いたので、ペルグランに尋ねてみた。

「よく持ってきてくれるんですよ。おうちで家庭菜園ポタジェやってらっしゃるって。金魚草とかビオラとか、食べられるお花もいくつか持ってきてくれたりします」

「へえ、いい腕だね。かぶなんてみっちりしてて。流石はフォンブリューヌ出身だ」

「あの方って、結構、素朴ですよね。お話してても気取ったところが全然なくって。皆さん、絶世の美中年って仰るから、もっとしゃんとしている方だとばかり」

「自分で言ってるけど、田舎の農家だよ。そこがあいつのいいところではあるしね」

「局長閣下。コロニラのこと、お気に入りなんですよ。話しやすいって」

 ペルグランに言われて、コロニラの日焼けした頬に赤みが差した。

「ここだけの話だよ?お酒入って、にこにこしているセルヴァンさま、とっても素敵なの。だからついつい、喋りすぎちゃって」

「付き合ってやっておくれ。あいつには無茶ばかりをさせているからな。酒ぐらい、楽しく飲んでほしいものさ」

「おっ、俺と貴様の惚気かい?ほんと、熱愛夫婦だよねえ。二十年来の恋女房だかなんだか知らないけどさ」

 ティナがにやにやしながら肘を飛ばしてきた。もとはと言えばこれのせい、ないしはおかげで仲良くなれた奇縁である。

「さて、ポタージュを煮込んでいる間に、ここはひとつ、シュークルートの真似事をやって、おにくを美味しく頂戴することとしよう」

 ティナの随分な口上に対し、三人、おおと声を揃えた。かのボドリエール夫人が築き上げた新しい常識のひとつ、手抜き料理である。

「本来はキャベツを塩漬けし、発酵させる保存食ではあるものの、手間もかかれば時間もかかるし、何より失敗した際にやり直しが効かない。そこで可能な限り手間暇を掛けずに似たようなものを作りたいのだが、大事なのは本物に対するリスペクトだ。だからまずは、とびきり美味しいシュークルートを味わうことからはじめたまえ。経験に変換した知識を応用することこそ、手抜きと横着の真髄だ。キャベツの名産地、そして加工品の名産地といえば、やはりフォンブリューヌ。瓶詰めであればこちらでも流通しているので、それを堪能してからはじめるとよろしい」

「シュークルートって、自分で作ろうと思うと、ちょっと面倒くさいですよね。仰ったとおり、塩漬けして十日とか」

「手間暇をかけるほど美味しくなるとか、料理に一番必要な調味料は愛情だとか、ご高説を申し述べる連中の言う事など、一切聞く必要はない。私の言うことだけを聞きたまえ」

 ペルグランの言葉に対し、ティナが口角を吊り上げた。久しぶりに見る“シェラドゥルーガ”の顔である。

 さて、善は急げだ。その一言で、調理開始である。

 キャベツは千切り。大きめの椀に入れて、塩少々をしてよく揉んで十分ほど放置。その間に湯を沸かして、芋や人参をふかすなり、ソーセージだの塩漬け肉だのを用意していた。キャベツは水気が出たのをよく切って、ワインビネガーかリンゴ酢を加えて和える。これで発酵の酸味を作るわけだ。

 フライパンが煙を上げるまで熱して、油を少し。玉葱があれば薄切りにして、炒めてやるのもいいらしい。後はキャベツを酢と一緒に敷いて、その上に肉類、芋、人参など。乗せたいものを乗せるといいと言っていた。豚肉であればローズマリーとルッコラも入れていいだろうとも。

 キャベツが柔らかくなるまで煮込む。その間に、余所事をする。鮭の冷燻とアボカドがあったので、それでタルタルを拵えていた。味付けは塩と胡椒。胡椒は多め。物足りない場合は、大体が塩だそうだ。全員、へえ、だの、ほお、だの呟きながらメモを取っていた。何しろ手際が良い。

 ボドリエール夫人の著作は食指が伸びなかったものの、一冊だけ、“向日葵ひまわりを眺めながら”というエッセイだけは、かなり読み込んだ。何しろ家事に関するあれこれが詰め込まれた指南書でもあったのだ。

 あれがいなくなる前後で、家事は娘たちと三人で分担していたこともあり、大小様々な手抜きや横着は、我が家を存えさせるための天啓であった。

 ボドリエール夫人からシェラドゥルーガになったあたりで、そのことを自分なりに褒め、感謝もしたのだが、あまりいい顔をしてもらえなかった。どうやら売れ行きが不調で、さほど思い入れもない著作だったらしい。

「あのストーブ、まだ使えているのかね?」

 ふと気になって、ティナに聞いてみた。ボドリエール夫人時代から愛用している、小さなものである。第三監獄襲撃後、荷物を取りに行った時、真っ先に確認しては無事を喜んでいた。

「おかげさまで現役。ただまあ、骨董品も骨董品だから、色々とが来ててねえ。今、鋳物屋さんに頼んで、あれの複製を特注しているところさ。やっぱりあれがないと、私の冬は寂しいからね」

「へえ。そういう職人さん、いるんですね。冬の夫人といえば、あのストーブと毛玉みたいな格好だもの」

 ペルグランの軽口に、ティナの蹴りが飛んでいた。言う通りではあるが、やはり思ったことを思ったままに言うのはよろしくない。

 そうしてティナが拵えたものは、“なんちゃってシュークルート”と、インパチエンスのためのポタージュ。あとは、冷燻鮭のタルタルである。

 ダンクルベールは、かぶとアスパラガスのグリル。にしんのマリナード。それと、血の故郷のレシピである、刻み野菜のサラダ。手伝ってもらったのもあるが、これでも、一時間とかからなかった。

 ペルグランがインパチエンスの食事の世話をしている間は、四人での歓談である。

「このにしんのマリナード、美味しい。しかも簡単で。うちでも作れそうですよね」

 淡い紫、カンパニュールが喜んでくれた。泣きぼくろとおっとりとした雰囲気で、ともすればインパチエンスより年上に思えるが、アンリやルキエと同い年とのことだ。

「確か、リリィのピアノの先生に教わったものだな。すぐに作れる。バゲットに乗せるだけでも、見た目も良くなる。確かに、店で出してみてもいいだろうね」

「サラダも美味しくって。本当にお上手ですよね。おうちでも、よく作られるんですか?」

「ひとり暮らしだから、ほとんどは外だなあ。たまに作るぐらいで、作っても、こういった簡単なものばかりだよ」

「お殿さまって、ひとり暮らし、大丈夫なの?足、痛くならない?」

「大丈夫だよ。ありがとう、コロニラ。杖は、あれば疲れにくいという程度だから、ひと通りのことはできる。それに、洗濯屋もいるし、掃除はお隣さんの使用人に、たまに来てもらっているからね」

「よかった。ちょっと心配だったんだよね」

 明るい黄、元気いっぱいのコロニラが笑ってくれた。日焼けした肌が健康的な、話し好きな子である。最近、二十になったぐらいというから、この中では一番若い。

 このふたりには、インパチエンスと同じ時期ぐらいに、ティナがどういう存在かを教えていた。にわかには信じがたいといったふうだったが、ティナとなり、よく顔を見せるようになってからは、一気に砕けていた。

「野菜のグリル、すげえ美味い。サラダもそうだけど、親父おやじは野菜が得意なんですね。ティナさんは肉と、あとは海魚のイメージがありますけど」

 インパチエンスの世話がひと段落したペルグランが戻ってきた。シュークルートの豚肉やソーセージは、ペルグランとティナ、そしてコロニラが競うようにして取り合っている。

 タルタルは、ほぼダンクルベールひとりで食べているような状態である。ここは皆、自分の好物であることもわかって譲ってくれているのだろう。

「魚は好きだよ。特に根魚。大きさがちょうどよいから。捌くのが楽しい。捌きながら、あれを作ろう、これを作ろうと考えるのがいいよね」

「俺も海の男だから、ある程度は捌けますけど、鯛とかもやれますか?大きいのだと、どうしても骨が硬くって」

「ああ、確かに鯛の大きいのはやりたくないね。鱗は硬いわ鰭は鋭いわ、はらわたは臭いわで。その割に身が柔らかいしね。一度間違えて黒鯛を買った時は、ひどい目にあった。あれは本当におすすめしないよ」

「あはは、わかります。そういえば親父おやじって、肉をあまり食べないですよね。というよりかは、体の割にあまり食べる量が少ないというか」

「脂があまり得意でなくてなあ。腹を下しやすいのだよ。食べても、鶏とか羊。それも蒸して食べることが多いかな。体は豆で作ったようなもんさ」

「タジンってやつか。お前の血の故郷だものね。となれば、砂漠そのものというよりかは、いわゆるオアシス地帯の血かもしれないよ。砂漠の中にある泉などの水源を中心にした、定住可能な地域だ」

 ティナが入ってくる。言った通り、母の方がオアシスの血であったはずだ。

「ティナさんって本当に博識。知らないことがないぐらいですよね」

「作家にして翻訳家だもの。特に、翻訳の方かな?その地の文化を知らないと、作家さんの意図が正しく伝わらないからね。語学より文化を勉強する感じさ。それもあって、作家業よりも楽しかったりするんだよね」

「勉強を楽しいと思えるのが、すごいなあ。私、全然駄目だもの。姉さんが勉強大好きで、叱られてばっかりだ」

「勉強とは本来、楽しいものだよ、コロニラ君。必要だと思ってやるから、つまらなくなるのさ。知識や経験という名の友だちを作ると思えばいい」

 思わず、ほう、と声を上げていた。上手な表現である。

「それなら、私もできるかも。勉強して、物知りになって、料理上手になって、いいひと見つけるんだ。カンパニュールばっかりずるいんだもんね」

 コロニラの言葉に、カンパニュールが指先で口元を抑えながら微笑んだ。

 カンパニュールにいい人ができた。ヴィルピンの副官、モルコである。モルコの私生活面を良くしようとしてたヴィルピンの計らいで、よく“赤いインパチエンス亭”に遊びに行っており、その度、身重のインパチエンスの世話をしている姿にときめいたらしい。猛アタックの末、モルコから男を見せるかたちをとり、めでたく恋ひとつ実ったわけである。

「でも本当に子ども。ウィルったら、人前では格好つけて。ふたりになると途端に頼りなくって。そこがまた、可愛いのだけれども」

「そうなんだ、あいつ。今度、いじってやろう」

「でもちょっと、ルキエには悪いことしちゃったかな?」

「いいんじゃないか?結果オーライで。私の可愛いアンリも、信仰に殉じつつも幸せになれたんだし」

「まさかもまさかだもんなあ。根回しを頼まれたときは、心底に笑ったもんだ」

 アンリとルキエの結婚について、青くなったのはヴィルピンぐらいで、年嵩のおやじ連中は拍手喝采の大爆笑だった。アンリがとなれば、聖女としての純潔は保ったまま、伴侶と生きる喜びを得られるし、ルキエもこれ以上、自分の意気地のなさでつらい思いをしなくて済む。

 囲んで一言ずつくれてやってくれというので、さあ誰が行くべきかと、やんややんやと盛り上がったものである。ヴィルピンは迫力がなく、デュシュマンとボンフィスは普通に祝ってしまいそうだとして、そしてムッシュは笑ってしまうからパスだと言い、それではオーベリソン、オダン、セルヴァン、ダンクルベールを第一陣とし、第二陣にウトマン、後詰めにアルシェの順で行こうと相成った。

 最終的には、途中参加のティナが“シェラドゥルーガは、生きている”をぶちかまして終着したが、ウトマンが出番がなくて残念だとこぼしていた。あれはでも本当に恐ろしいので、出さないに越したことはない。

 たるアンリに対しては、デュシュマンとボンフィスがいろいろと世話を焼いていた。ふたりでできる趣味を持つこと。休みはちゃんとふたりの時間を作ること。なにより、愚痴と小言は言わないことなど、顔を合わせるたび、実にまめやかな小言を申し伝えるのが、なんだかおかしかった。

 自分もそうだが、おやじというのは、何かと先輩風を吹かせたい生き物なのである。

「そういえばセルヴァン閣下の二番目、確か、コロニラ君と同じぐらいじゃなかったっけ?」

「ジェラルド君か。確かにそうだな。父親に似て、それでいて線の細い美男子でな。どうにも奥手で、女の子と話すのが不得意だとか、セルヴァンがぼやいていたなあ。話上手なコロニラなら、確かにいいかもしれん」

 コロニラの顔がぎょっとしたまま、赤くなる。

「あの、お気持ちだけ。流石にセルヴァンさまのお子さまは、ちょっと私だと不釣り合いだと思うし」

「そんなに気負うことはないよ。閣下も言ってるけれど、農家の嫁に行くと思えば気が楽だろうさ」

「まあ、コロニラはまだまだ若いのだから、時間をかけて、ゆっくり見つけなさい。義務感にかられて、相手をちゃんと見ないままに選ぶようなことだけは、絶対にしてはいけないよ」

 ダンクルベールの言葉に、隣から肘が飛んできた。微笑んだままのティナだった。

「実体験なんだもの。仕方なかろう」

「私がよくない」

「あら、ティナさん。どうしたの?」

「そんなに大したことじゃないよ。俺が伴侶を選ぶのを失敗した。相手のことを知らないままに結婚したから、家庭が大変だった。こいつはそこまでのことは知らずにアプローチしてきたから、自分のせいで俺の家庭が壊れたもんだと思い込んでるのさ」

「言うな。気分が悪い」

 微笑んだまま、もう一発。

「やめようよ、もう。終わった話なんだから」

「終わってない。私が悪いのだから、終わらせたくない」

「じゃあ、引きずらない。ちゃんと後片付けしなさい」

 そこまで言っても、眼だけは沈んでいた。

 本当に、いつまで経っても面倒臭いやつである。言うべきことを言うために、ため息ひとつだけ、作った。

「俺の伴侶は、ようやくお前だ。三十年、待たせてしまった。すまなかった。そして今まで通り、愛している」

 思ったことを言葉にした。それも、何度も言ったことである。

 ティナの顔に、赤みがさした。美貌も、何かもどかしそうにふやけている。

「人前で言うなよ、それ。本当、ひどい男だ」

 言葉の割に、どこか、嬉しそうだった。

 娘ふたりに、ティナがボドリエール夫人であるということが、ばれてしまった。

 あれが姿を消して以来、娘たちの中で、ボドリエール夫人を継母に迎えるという野望があった。ふたりとも大人になっても、それは燻っていたのだろう。町中で鉢合わせた途端、もしやと思ったらしく、鬼の形相で詰め寄られた。キトリーなどはあのとおり、恬淡としたところが強いので、とっくに諦めたと思っていたのだが、いざ実物を目にしたら、思いが蘇ったとのことだ。

 ダンクルベールもティナも、神妙に白状の上、事実婚として結ばれることになった。娘たちの宿願のためならば、致し方なしというべきか。

 あるいはガンズビュール事件そのものが、自分たちにとって、お互いの愛を確かめる道程のひとつだったこともあり、以降もふたりきりであれば、言葉なり行為なりで、伝え合ってきてはいた。それがティナという、ある程度の自由の身になった今、頻度が増え、かたちになっただけ。そう思うことにしていた。

親父おやじがティナさんに対して、ちゃんと言葉に出しているの、はじめて聞いたかもしれませんね。なんだか嬉しいや」

 頬を赤らめながら、ペルグランが酌をしてくれた。そういえばペルグランにはこのあたり、ちゃんと話していなかったのだと、今更ながらに思った。

「ちゃんと愛しているよ。おたがい、しがらみがあったから、表面に出しづらかっただけであって」

「まあ、主に私の方だけどな。ご内儀を奪い、お前につらい思いをさせ、リリィとキティを母親のいない子どもにしてしまった。でもさあ、私の後片付けが終わってないとはいえ、ふたりともお母さんになったのに、アプローチもしてくれないってのはどうなんだよ?」

「ああ、そういう。わかる、わかる。お殿さま、女っていうのは、男が思っている以上に面倒臭いんですからね?ちゃんとそういうところ、ある程度区切りが付いたら、やり直せるかもってなるんですから」

「そう言われてもさあ、カンパニュール。こいつを第三監獄にぶち込んだ際、ちゃんと伝えること伝えて、お互い言葉に出して、ベーゼも交わしたんだぞ?それ以上は望まないと思うじゃないか」

「望むだろうがよお。ちゃんと奪いに来てくれたまえよ。そのうちに、あのジョゼの子どもが来てくれたんだもの。少しぐらい、はしゃいだっていいだろうさ」

「よくないよ、お前。俺の視点で考えてもみろ。こいつは今やルイソン・ペルグランだが、あの当時はまだ、かのニコラ・ペルグランのお血筋だぞ?どう接していいものか、探り探りだったんだ。そこにきて、お前がちょっかい出してくるんだからさあ。本当、気が気じゃなかったよ」

「へええ。お殿さまも、案外、小心者なんだねえ」

「そうだよ、コロニラ。聞いてくれよ。ルイソンは最初、文句たらたらのぶうたれ小僧だったんだ。誰にも心を開かないで、あのアンリにまで突っかかってさあ」

「あら、ルイ兄さん。そうだったの?最初からお殿さまもアンリさんも大好きだったとばっかり」

「あの時は本当に、申し訳ありませんでした。まだニコラ・ペルグランでしたから。現場と親父おやじとティナさんに打ちのめされて、ようやく入口に立てたってもんです」

 ペルグランが恥ずかしそうに、頭を掻いた。それがなんだか、懐かしくもあり、いつも通りでもあって、微笑ましかった。

「よかった。楽しそうでごぜあんして」

 そのあたりで、インパチエンスも顔を出してくれた。腹にものを入れて、いくらか調子が戻ったようだ。

「夫婦喧嘩。ティナさん、お殿さまの前の奥さまに、負い目があったんですって」

「あらまあ。お姑さまも、随分に神経しんけたがりで」

「五月蝿い嫁だなあ。私だって気にするよ。こいつの家庭をぶっ壊した遠因なんだもの」

「気にするなって何度も言ったろう。俺とあれは、最初っから駄目だったんだから。もう一緒になったんだから、忘れようよ」

「三十年だって。すごいよねえ、人生の半分じゃん」

「長かったなあ。俺の中ではずっと、容疑者だったからさ。突然、世の中に現れた異才だよ。事あるごとに疑っていた。まさか、その相手から惚れられるとは、思わなかったもの」

 ダンクルベールの言葉に、ティナが真っ赤になった。それがおかしかったのか、皆が笑った。何回も肘が飛んできたので、笑って受け止めるだけにした。

 あれのことも、あの頃の話も、ようやくこうやって笑い話にできる。時間が、そうさせてくれた。

「一目惚れでしょ?それも、何百年も生きていて、はじめての」

「うん。それも、妻子持ちだ。どうしたものか四苦八苦したんだぞ?ご内儀や娘たちに迷惑を掛けないようにと思って、結果、大失敗だ。こいつもご内儀も、傷付けてしまった」

「あれがお前のファンだったってのも、今思えば、よくなかったよなあ。不倫だと思われてたのかもしれん。家族付き合いしていれば、うまく行ったのかもな」

「捜査官と凶悪殺人犯の恋愛反省会だなんて、滅多に聞けないや」

 コロニラがおかしそうに笑っていた。

 今度ふたりで、あれの墓にでも詣でようか。それで許してくれるかは、わからないが。

「本当、色んな人に迷惑を掛けてばかりの恋路だった。セルヴァン閣下は飲んだくれて。シャルロットさままで泣かせちゃってさあ」

「いやあ、セルヴァンは凄かった。大失恋だもの。会う度、酒臭いのなんの。それで、何をとち狂ったか、貴様と呼べとか言ってきやがってさ」

「へえ。それで、私と貴様と俺、貴様になったんですね。親父おやじとセルヴァン閣下」

「友だちが少なかったんだと。確かに、フォンブリューヌからこっちに来る人って、少ないからな。あれからだな。人となりが茫洋になったのは」

「ティナさん、ちゃんと仲直りしたの?」

「したよ。ちゃんとおたがい、愛してるって。ベーゼもしたし。今でも会うたびしてるもんね」

「ちょっと、それ。お舅さま、えがんすか?」

「構わんよ。こいつは、人を愛するのが生き甲斐みたいなもんだし」

「わお。理解のある旦那さまだ」

 コロニラがびっくりした声を上げていた。

 “ロ・ロ”の件以来、ちゃんと仲直りをしたティナとセルヴァンであるが、ティナが“ボドリエール夫人”をやめてから、より親密になっている。セルヴァンも大願成就の様子で、ことあるごとに夫である自分の前で惚気けてくるようになった。

 いろいろ大変な思いをしたのだから、幸せになってよかったという思いのほうが強かった。

「シャルロットさまさ。本当に、いいひとだから。きっと今まで出会った中で、一番に心が優しいひと。私、甘えて、押し付けてばかりきてしまった。こないだシャルロットさまに、ようやく詫びてきたよ。あのデブ含めて、三人でわんわん泣いたなあ」

「ちゃんと、謝ったか?」

「うん。でもね、やっぱり、シャルロットさまだった。つらかったよねって。何にも心配いらないからって。何より、生きててよかったって、言ってくれた。今までのこと、全部、忘れようって。今、新しい出会いがあって、嬉しいって」

 そこまで言って、ティナの声が震えはじめた。顔もいくらか、難しくなっている。

「なんであのひと、あんなに優しいんだろう」

 それで、溢れてしまった。ダンクルベールは、その肩を抱きとめることぐらいしかできなかった。

 シャルロット。本当に、慈母のようなひとである。助けてもらった。甘えさせてもらった。子どもたちも未だ、母と思って接しているし、シャルロットも、自分の子どものように愛してくれている。

 その優しさはどこから生まれるのか。確かに、そう思うことは少なくなかった。

港市場いさば女房かっちゃだすけさ」

 ふと、インパチエンスが。

 ちょっとした驚きだった。訛り方が、港市場いさばのことばだった。顔を見やると、悪戯っぽく微笑んでいた。

「南東の、港の文化でごぜあんす。何があっても、なんもとまんずで済ませる文化。腹の内がどうであれ、まずは言葉から許して見せていく。良振えふりこきの集まりであんすから」

「インパチエンス君。良振えふりこき、って、何だい?」

「かっこつけ。あたくしもそうだけど、ルイちゃんとか、お舅さまみたいなひと」

 そう言って、インパチエンスは笑った。

 確かに、格好を付けて生きてきた。貧しい生まれだったから、それを恨まないよう、人にけなされないように、身なりも言動にも気をつけてきた。警察隊の重役となり、風格が必要となれば、顎先だけだった髭も、頬まで伸ばした。

 かたちから入って、自分を作ってきた。今思えば、それ自体が不格好な行いなのだと、ちょっと恥ずかしくなる。

「んだすけ、シャルロットさまも、本当は良振えふりこきだと思いあんすよ?そのうちに、それが心に染み付いて、本当のものになっていったんでごぜあんしょね」

 その言葉に、得心がいった。自分もそうだったから。あるいは誰しもが。

 偽ったものが、作り上げたものが、そのうちに自分そのものに染み込んでくる。服が洗濯を重ねるうちに体に馴染むように、そういうものも、自分に馴染んでくる。

「なんもなんも、か。うちの娘たちも、小さい頃はよく使っていたよ。最初のうちは、何を言っているんだか、よくわからなかったがね」

「俺の母上は、最近、よく使いますよ。なんだか、便利みたいで」

「姉さんもよく使うのよね。本当に、色んな意味。どういたしましてとか、気にしないでとかもそうだし、ごめんなさいとか、そういうのでも使うのかと思っていたのだけど」

「なんか、姉さんとシャルロットさまって、ニュアンスで会話してる感じだよね。ことばそのものじゃなくって。もっと手前とか、奥の方で会話している感じ」

「私の前では、使ってくれなかった」

 ティナが寂しそうにぶうたれる。

良振えふりこきであんすもの。人前で、地元のことばは使いたがらながんしょ。それでも、シャルロットさま、本当たまげだ、訛ってあんしてよ?例えば、あなたの言い方とか」

 言われて、思い返してみる。確かに、ちょっとイントネーションは異なっていた気がした。

 そのあたりで、インパチエンスは微笑みながら、大きなため息を付いた。

港市場いさばのことば、やっぱりあたくしには、んつか難しがすねえ」

「いやいや、見事なものだ。それこそひとつ、格好を付けてくれたもの」

「ひとくちに南東訛りといっても、海沿いか内陸か、北か南かでも違いあんすからね。あたくしのは特に、教え込まれたものであんすから、本来の南東訛りとは、またちょっと違いあんすのよ」

「気になってた。インパチエンスは、言うって言わないで、るって言うんだよね。それは、男爵夫人と同じだった」

「ほんでがすね。あと、もう少し西さ行くと、しゃんべるってしゃんべるのすよね」

しゃんべればしゃんべったってしゃんべられるし、しゃんべねばしゃんべねってしゃんべられる、のしゃんべるかね?」

 ダンクルベールの、思わずで言い出した言葉に、皆が吹き出した。その様子が面白くて、自分でも笑ってしまった。

「ちょっとした早口言葉さ。知り合いにひとり、いたんだよ。面白がって皆で覚えたもんだが、もうしゃんべれねくなったもんだものなあ」

「懐かしい。お舅さまも、お上手であんすねえ」

 皆と一緒に、インパチエンスも笑ってくれた。

 人のことを悪く言えば、他の人からは“あいつは悪口を言うやつだ”と陰口を叩かれるし、そうでもなければ“あいつは腹の中では何を考えているかわからない”と陰口を叩かれる。確か、そんな意味の言葉だったと記憶している。本当は、もっと長く、そして難しいものだったはずだ。

「あたくしも、“あんつこど”のお話とか、頑張けっぱって覚えたものですけど、もうしゃんべれねくなってまったかしらねえ」

「なにそれ。気になる。言ってみてよ、姉さん」

 コロニラの言葉に、インパチエンスは額を抑えはじめた。どうやら相当、難しいらしい。

 ふと漏らした、ええっとねえ、という一言。言い方は、本当に普通のものだった。きっとインパチエンスの本来のことばは、自分たちとほとんど同じの、普通のことばなのかもしれない。

 よし、と一声。額を抑え、瞼を閉じながら、インパチエンスが口を開いた。

へちょめぇり、めにぇ、悪腫ガンぇべか?心配事あんつこどで、とさまれば。然程くしな心配事あんつこどがることぇ。ふとじじことあって、早急とっとと見て、籾殻もみがら挟まってあったね。、見てけるったっけ、そぉ腰曲がってれば腹、ねっぱって、そきぱってまって、駄目まねべしなあ。さま、相槌あひど取る。ここの親族まぎは、へっちょけぇくなる親族まぎいんたなあ」

 涼やかな声色で綴られた強烈な訛りに、全員が爆ぜた。

「インパチエンス君。おなか、おなかいたい」

「面白がっていただきあんして。久しぶりであんすので、ちょっと緊張しあんしたわ」

「俺のインパチエンス。ちなみに、それ、どういう意味なんだい?」

「お臍の周りがたまに痒くなるのだけれど、これ、もしかして悪い病気じゃないかしら?心配なのよね、とお婆さんが言うんです。いいえ、そんなに心配することでも無いですよ?私も以前、同じようなことがありましたけれど、見たところ、お臍に籾殻もみがらが挟まってあって」

「姉さん、やめて。なんでそこだけ、普通に言えるの。私、おかしくってさあ」

 に入ったのか、一番の大笑いはカンパニュールだった。

 心配事あんつこどは自分にとっては大事だが、他の人からしてみれば本当に下らなくて、なにより面白いものだ。

 そうやって笑いあっているとき、不意の訪いがあった。身なりの良い男である。

「ビュイソン共同新聞のエルランジェと申します。突然の訪問、大変、失礼をいたします」

 朱夏半ばを越えたあたりだろうか。落ち着いた雰囲気の、片眼鏡モノクルとロマンスグレーが目に焼き付く、洒脱な男だった。いわゆるイケオジという類である。

「ルイソン・ペルグランさまと、インパチエンス=ルージュさま。おふたかたに、たってのお願いがあって参りました」

「はい。何でしょう?」

「お母さまを、僕に下さい」

 その言葉に、全員、緊張が走った。

 最初に動いたのは、カンパニュール。卓上にあるものをすべて片付けはじめた。コロニラがそれに続く。ペルグランは珈琲コーヒーの用意だろうか。インパチエンスも何かしら帳簿なりをかき集めていた。

 エルランジェの正面にペルグラン夫婦。その隣に店員ふたりと、ダンクルベールとティナが並んだ。

「面接をはじめます」

「よろしくお願いいたします」

 ペルグランの一言に、エルランジェが素晴らしい所作での礼ひとつ、席についた。

 ダンクルベールとしても、青天の霹靂へきれきである。ジョゼフィーヌを見初めたとはいえ、彼女を伴わず、よもや単身、乗り込んでくるとは、どのような考えなのだろうか。

 見極めねばならない。この男、我が息子の母の夫に相応しいかどうか。

「まずはあらためて、年齢や結婚歴、家族構成を踏まえてでの自己紹介をお願いいたします」

 ペルグランが切り込んだ。信義のため、母のためにと家を焼いた男である。一番、気が気でないだろう。

「ビュイソン共同新聞、取締役社長。ジョナタン・エルランジェ。春が来ると五十二になります。弊社では主に経理、経営を担当。妻は八年ほど前に病気で他界。それとの間に二児を設けておりました。長男は現在、弊社企画部の係長。長女は児童保育施設の保育士をしております」

 インパチエンスとペルグランが顔を合わせる。好印象のようだ。

 確かジョゼフィーヌはセルヴァンよりいくらか下といった程度であり、特別、歳が離れているわけでもない。数字と経営に強いのもそうだが、お子さまが保育士をされているのは、妊娠中のインパチエンスとしては安心材料だろう。

 ダンクルベールとしては、ご子息さまを、あえて高い地位に付けていない点に良い印象を覚えた。おそらくはちゃんと下積みをさせて、順々に育てていく方針だろう。

「御社の会長であるビュイソンさまとのご関係について、差し支えなければお教えいただきたく思います」

 続いたのはティナ。はビュイソン共同新聞社で連載も持っていたはずである。

「腹違いの兄弟にあたります。私は庶子でした。もともと製紙工場の経営をしておりましたが、十年ほど前に兄に請われ、弊社の経営に携わることとなりました。兄は企画の面で才能はありますが、経営、経理にはさほど強くなかったため、その点で私を必要としてくれたというところでしょうか」

 全員、顔を合わせて頷いた。

 ビュイソン氏は名家であるものの、庶子ということであれば馴染みやすい。また、過去に一国一城の主を経験しているのは、人間として強みがある。

「夫であるルイソン・ペルグランは、自らアズナヴール伯ペルグラン家の相続権を放棄、絶縁しておりあんす。母も正式に離婚が受理。現状、我が家の財産と呼べるものは、あたくしども夫婦の貯蓄と、この店舗、兼、住宅のみという状態でごぜあんすが、この点、認識はよろしゅうござんすか?」

 インパチエンス。女郎酒場を経て、本店の経営に携わっており、金回りに関しては堅実かつ慎重である。現状、ルイソン・ペルグランの名は広まれど、所詮は憲兵中尉と兼業主婦の収入である。

 財産と名声に釣られてきたのか、というところだろう。不安はもっともだ。

「認識に相違ありません。僕も個人としての財産については、持ち家と貯蓄以外にはありません。それ以上は今後、相互の信頼を築いていければと思っております」

 ダンクルベールは、エルランジェの目を見て頷いていた。正直で大変良い。信頼は今後、築いていくべきというのも、こちらが不信感を抱いているであろうことを予測、察知しているのが伺える。

「本日、母を伴わず、おひとりでのご来訪ですが、どのような意図でしょうか?」

 カンパニュール。彼女たちふたりも、ジョゼフィーヌを母と定めた女である。父となる男を、見定めたいはずだ。

「お母さまには婚約について、ご了承をいただきました。さすれば、お母さまとご一緒でのご挨拶も考えましたが、何分、あのおかたの性分もあり、皆さまがたの心からのお許しを得るためには、まずは僕個人との信頼を築きたく思い、馳せ参じた次第にございます。」

 三姉妹、顔を合わせて頷く。

 ジョゼフィーヌは気丈なところが強い。自分の意見を押し通す力もまた、強いだろう。一緒の席では、一方的に押し切るかもしれない。そういうところも見れているということだ。

 この男は、本心から、自分たちと向き合いに来ている。

「母には家名がございません。インパチエンス=ルージュはもと遊女。同じく、もと遊女である私どももまた、ジョゼフィーヌさまを母と定めたものにございます。兄であるルイソン・ペルグランは、先ごろまで生家であるニコラ・ペルグラン家と各種係争を抱えていた身です。正直に申し上げて、素性は卑しく、また問題を経てきたものたちです。それでも家族として迎え入れて下さるということでよろしいでしょうか?」

 コロニラ。普段は砕けた口調だが、流石はインパチエンスが育てた女。礼節と教養に一切の問題はない。

「勿論、というより、願ってもいないことにございます。お三方のように麗しく、また個性豊かであり、なによりも母親思いのご息女さまがたにくわえ、かの若き英傑、次代の男の代名詞たるルイソン・ペルグランと、よしみえにしを結べるとなれば果報も果報にございます。世間がどうこう言うつもりならば、ルイソンさまを慕う男として、またその父親として、それに倣い、またその範となるべく、家族皆を守るために戦う所存にございます」

 ダンクルベールとペルグラン、そしてティナの三人、目を合わせる。及第点以上の回答。

 家族のために戦える父親こそ、この家庭に必要なものである。ルイソン・ペルグランひとりでは守りきれないものも、未だ多いだろう。そこをエルランジェが補うなり、代わりに立ちはだかることができれば、ペルグランもいくらか楽ができるだろう。

「大前提として、ジョゼフィーヌさまのどこに惹かれたのかをお伺いしたい。コラムニストとして御社への出入りはあっただろうが、それはあくまで、あのかたの側面でしかない。お付き合いの期間も勿論だし、愛する人を多角的に見れているだろうか?」

 ダンクルベールも続いた。伴侶選びで失敗している身の上なので、是非とも慎重に、ことを運んでもらいたかった。

「気丈さで隠した弱さ、儚さに惹かれました。ルイソン・ペルグランを育てるため、ひとり、戦い続けていた。これから心身に、その反動が来ることでしょう。その支えになりたい。皆さまがたもおられますが、僕もその一助に加わることを望んでいます」

 全員、顔を合わせる。頷いていた。

 今、必要なのは、癒やしだ。それをこの男が担う。子どもはどうしても、子どもだ。親として見てしまう。だからこそ、パートナーがいるべきだ。

 困っていた。迷っていた。一切の隙も、不安もない。このエルランジェたる紳士に、委ねるべきだろう。

 だがあとひとつ、何かしらの決定打が欲しい。

「アディル」

 ティナが、耳打ちしてきた。逡巡はあったが、頷いた。

 結っていた髪を、解く。それは見る間に燃え広がり、鮮やかなあかに染まっていった。

「それこそは、かつてパトリシア・ドゥ・ボドリエール」

 閉じていた瞼の奥底、宝石のようなあかが、煌々と。

「そしてそれこそは、あかき瞳のシェラドゥルーガ」

 顕現。火の粉を上げ、人ならざる、恐るべき人でなしとして。

「シェラドゥルーガは、生きている。ですね?」

 エルランジェに動揺は一切、見られなかった。

「あの方から、貴女を心からお慕いしていたと、幾度となくお伺いしておりました。また僕も、ボドリエール著作保護基金の一員です。こちらにいらっしゃる皆さま方の承諾をいただき次第、墓に詣でに参る所存でありましたが、ご存命とあれば好都合。直接、ご承諾を賜りたく思います」

 その威圧を受けてなお、姿勢は正しく、また声と表情は凛々しかった。ここで死んでもいいという、覚悟のようなものすら。

「剛毅。その意気やよし。我が愛しき妹、家名無きジョゼフィーヌの一生涯を愛せると。そして、幸せにできると、お誓いいただけますか?」

「神たる父、御使みつかいたるミュザ、そして我が身に誓い。ジョゼフィーヌさまを、ジョゼフィーヌ・エルランジェとして幸せにすることを、ここにお誓いいたします」

 まっすぐと、そのあかを見据えて、はっきりと言い放った。

 あかがゆっくりと、瞼に遮られる。笑みこそ無いが、穏やかな表情だった。

「ルイソン・ペルグラン。インパチエンス=ルージュ・ペルグラン。そして、カンパニュール、コロニラ。よろしいかね?」

「一切の不足なし。どうか母を、よろしくお頼み申し上げます」

 ペルグラン。安堵と自信の表情。

「未熟な子どもたちではごぜあんすが、何卒、よろしくお願いいたしあんす。どうか母を、お守り下さいあんせ」

 インパチエンス。ハンカチーフで目元を抑えながら、一礼した。

「母と定めた人の夫ならば、勝手ながら、父と定めさせていただきたくと思います。お父さん。どうか、お母さんを支えてあげて下さい」

 カンパニュール。既に溢れていた。

「私、家族なんてはじめて。こんなに素敵で、こんなにうれしいことなんだね。よろしくね、お父さん」

 コロニラ。感極まってはいるが、やはり明るく。

「それではあらためて、ジョナタン・エルランジェさま」

 そして、シェラドゥルーガ。そして、ファーティナ・リュリ。

「どうか、ジョゼを。我が愛しきジョゼフィーヌを、お願いいたします」

 差し出した両手。

「天地神明に誓い、承りましてございます」

 夫たるエルランジェは、それを握り返した。

 それからは、大盛りあがりだった。コロニラたちが、友だちの家にいるというジョゼフィーヌと、その友だちであるマリーアンジュを引っ張ってきた。ティナが大急ぎで、料理を数品拵えて、即席の祝賀の場のようにした。

 ジョゼフィーヌとティナ。屍を乗り越え、新しい出会いとして、ふたり、はじめましてを喜んでいた。ふたりとも、声を上げて泣きながら。

 ジョゼフィーヌ・エルランジェ。ちょっと足りないな、ということになり、名前を付け足そうとなった。

 母の花、カーネーション。愛ある女性、温かな愛情。となれば、桃色ローズカーネーションウィエ

 ジョゼフィーヌ・ウィエ=ローズ・エルランジェ。黒髪のジョゼフィーヌ、改め、花たちの母たるジョゼフィーヌ。その可憐な人は、花たちとともに、その名を喜んでくれた。

「本当に色々と、ひと段落だな」

 冬を超え、春になった。ティナに、髭を整えてもらっていた。

「これからも、新しい日々を。新しい季節のためにも、衣替えからはじめること。もうお前もお爺ちゃんなんだから、身綺麗にしないとね」

「そうだな。小洒落た老紳士でも、気取ろうかね」

 これからはもう、名前だけの仕事。現場には出ない。だから油合羽も、ほとんどいらなくなる。もう、自分を大きく、強く見せる必要もない。組織の長で大佐ともなれば、ある程度、自由な格好でも、とやかくは言われないだろう。

 姿見の前に立つ。髭は口と顎以外はすべて落とした。明るい灰色の、グレンチェックのスリーピース。靴も、濃茶の短靴にしてみた。タイは、キトリーから誕生日祝いに貰った、臙脂えんじ色のものを。フェルト帽も新調した。最近、目も悪くなってきたように思えたので、後で眼鏡もこしらえてみようか。

 杖だけは同じ。アキャールの形見。身長差から、いくらかだけ伸ばしてもらっていた。ふたりとも、同じ工房で作ってもらっていたので、そのあたりは簡単にできた。

「やはりちょっと、物足りんかな?」

「着る?似合うと思って、買っておいたんだ」

 ティナが持ってきたのは、薄手の“長合羽ちょうがっぱ”。見慣れた濃緑色ではなく、油抜きした、黒に近い灰色だった。

 羽織ってみる。さらっとして、着心地がいい。中のスリーピースが引き締まって、いい感じだ。

「うん。やはり、これがあってこそだな」

「いいじゃん。似合ってる。私ってば、気が利くだろ?」

「そうだな。ありがとう、愛してる」

「若い頃みたいだね。かっこいい、愛してる」

 お互い、頬にベーゼを交わした。

 庁舎まで、並んで歩く。いくらか冷たいが、それでも春風が心地よかった。急ぐ必要はない。ヴィルピンが、皆の仕事を作ってくれている。

 執務室に向かう途中、ビアトリクスに会った。

「長官。どうしたんですか?その格好」

 美貌に、赤みが差していた。どうやら好印象の様子だ。

「ああ」

 フェルト帽を取りながら。

「イメチェン、ってやつだよ」

 それだけ、笑って答えてみせた。


(つづく)

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・葵徳川三代

・檀流クッキング

・タサン志麻

・モロカンサラダ

・だびよん劇場 / 伊奈かっぺい

・津軽弁の日

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