ひとり、去るとき
捜査の基本は、足。
人との交わり方も、足。
国家憲兵警察隊本部、部訓より
1.
緊急出動。
銀行支店への強盗、そして立て篭もり。来店客は解放されているが、銀行支店長、および銀行員数名が人質に取られている。単独犯だが、猟銃と、油の入った瓶を数本、携行しているとのこと。
ゴフ中尉以下、ご存知、“錠前屋”全名。チオリエ特任伍長以下、衛生救護班も全名。そして万一の場合に備え、特殊工作員として、スーリ中尉を動員。現場までは、早足で十五分程度で到着。現場周辺の確保、および包囲は完了。周囲の人員避難は完了。ペルグラン中尉を主軸に、精密射撃手を三名、反撃困難な位置に配置済。犯人との交渉は、ガブリエリ少尉とビゴー准尉。作戦本部として、ビアトリクス大尉、アルシェ大尉。状況記録は“デッサン”フェリエ中尉。
そして、作戦総指揮は、ウトマン少佐である。
犯人の情報も把握済。もと飲食店経営。この銀行支店から融資を受けていたが、資金繰りに失敗し、担保にしていた店を差し押さえられている。母親と同居していたが、先月、死亡届が出ている。
ここからどうするか。ウトマンは、頭を捻っていた。
正直に、評判が良くない銀行である。契約書不遵守や偽装、不当な取り立ての噂も多い。つまりは、起きるべくして起きた事案である。それでも、人は救助しなくてはならず、罪は問わねばならない。それをどう行うか、その最適解を、探っていく。
それでも、まずは順番通り。はじめは、交渉からだ。
「いけますか?ビゴー准尉」
油合羽に白みが差した、小柄な老警。首肯した。
「今、犯人の情報を」
「お構いなく。きっと、知っていることだけですから」
「しかし、念の為でも確認を。危険な状況です。どうか、万一となれば」
「万一のことが、今、起きているんです。しくじったらその時は、爺がひとり、死ぬだけですから」
目には、決意と、悲しみが浮かんでいた。
発言の通り、この人であれば、あるいはすべて知っているのかもしれない。犯人の人となりを、そして、生きてきた道のりを。
この人は、そういう人だ。市井に生きる人々の端から端までを、歩きながら見てきた人だ。
任せるしか、他はない。
「お願いします。どうか、ご無事で」
「ありがとうございます。ガブリエリさんや、行きますよ」
ゴフに一声かけ、包囲を緩めさせた。精密射撃手たちにも、弾丸を抜くよう、命じてある。
矮躯の老警。伴うは、金髪碧眼の美丈夫。
「ドナシアンや。聞こえるかい?」
老いは混じるが、よく通る。ゆっくりと、そして柔らかい声だった。
「お前、どうしちまったんだい。どうして、こんなこと、しちまったんだい。こないだ、言ってくれたろう?ようやく銀行から金、借りれたって。これで、おっかさんを休ませて、俺が店継いで、楽させてやれるんだって。そいつは、どうしちまったんだよう」
優しかった。嗜めるような感じでもない。ただ、問いかけるように。
現れた。女性銀行員を引っ掴んだ男。忘我状態といっていい表情だった。
「おやじさんかい。勘弁しておくれよ。来れば、撃つぞ」
「撃てばいいだろう。その抱えてるお嬢さんじゃなくって、あたしを撃つんだよ?それで気が済むんなら、そうしておくれよ。見てみなよ。怯えて、泣いてさあ。可愛そうだろう。お前の我儘に付き合わされて、こわい思いをしているんだ。だからさあ。そいつは、下げてくれよ。あるいはあたしに、向けてくれよう。なあ、もう、やめようよ」
「うるせえっ。おやじさんに。あんたに、何が」
「わかってやれねぇよ、もう。こんなんなっちまったらよお」
怒号。割って入った。それでも、悲痛なほどに。
「もっと早くに言ってくれればさあ。もっと、少しでもさあ、相談してくれたってよかったあじゃないか。こんなに思い詰める前に、ひとっつでも言ってくれれば、わかってやれたんだよ」
毅然としていたが、やはり悲しみが先に走っていた。
「きっと、おっかさんいなくなっちまって、どうすればいいか、自分でもわかんなくなっちまったんだろう?お前、それしか思いつかなかったんだろう?でもそれじゃあさ、なんにも良くはならないんだよ。だぁれも、幸せにはなれねぇんだってよ」
聞いていて、胸が苦しいほどに。それは向こうも、同じだったのだろう。
「だからさあ。まずはそいつを、下ろしておくれ。なあ、ドナシアン。話をしようよ?」
ドナシアン。震えている。恐怖でなく、悲しみに。
ほぼ眼前まで、前に出た。銃を持った、男の前に。
「神妙にしてくれりゃあ、それでいいんだ。そうじゃなきゃあ、お前、戻れなくなっちまうよ?」
これが、このひとの弾丸。
ドナシアンと呼ばれた男の両目から、涙が溢れ出た。
そうして銃を落とし、両手で顔を抑えて、泣き叫んだ。慟哭だった。そうやってずっと、泣き続けていた。
「すみません、すみませんでした。おやじさん。俺、俺は本当に。おっかさんが死んじまってから、真っ白になっちまったんだ」
「いいんだよ。そうやって皆にさ、謝んなさい。ごめんって、一言でいいからさ。そしたら、吐き出したいもの全部、ここで吐いちまおうよ。そうしたら皆、わかってくれると思うからよ」
ドナシアンが嗚咽の中、ぽつぽつと話してくれた。
長年、愛されてきた、小さなビストロ。父親は早くに亡くなり、母親がそれを継いで、そこで暮らし育ってきた。流行りのものは出せないが、それでもやりくりできていた。
だが店も母親も、がたが来ていた。所帯を持ち、義父から紹介されていた別の仕事をやっていたが、やはり生まれ育った店が無くなるのはさみしいと、妻子と妻親族に頭を下げて別れを告げ、店を継ぐことを決意した。
まずは常連客たちと信頼を築き、父母の味を継承した。そして店を改築する。その段階で、この銀行からその資金を融資してもらったと。
改築も済んだ。客も戻ってきて、あるいは増えてきた。これでもう、母親に苦労をさせなくてもいい。
だが、返済するべき額が多い。どう計算しても、契約時の額と合わない。なけなしの金を抱えて、税理士や弁護士にも相談した。
銀行側の契約書が書き換えられていたのがわかったのは、店が差し押さえられ、母親が心労から斃れてしまった後だった。税理士や弁護士に払う金も、もう残っていない。訴え出ることもできやしない。警察は民事不介入といって、話も聞いてくれない。
もう、どうしようもなかった。かつての家族も、帰る場所も無くなった。残っていたのは、虚しい怒りだけだったと。
ひとしきり、吐き終わった。そうして、また泣いた。
ビアトリクスが、ほろりと涙を流していた。アルシェも目を閉じ、紙巻を咥えた。
ウトマンは毅然でいられた。あるいは同情よりも、憤りが芯になりつつあるからか。それが可能だった。
解放された人々の中から、身なりの良さそうな男がひとり、すり寄ってきた。考えるより先に睨んでいた。それで、その男の足が止まった。
「彼の発言について、後ほど、我々か、あるいはいずれかの行政機関から、お話をさせていただくことがあるかと思います。その点のご留意のみ、お願いいたします」
それだけ告げて、撤収を指示した。
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コラム:はぐれ軍警人情派、涙の説得劇
夕暮れ時の銀行前に、老軍警の奏でるトランペット・ソロが、またも聞くものたちの涙を誘った。
十二日に発生した、某銀行立てこもり事件について、この度もあの名軍警、エクトル・ビゴー准尉の説得により、被害なく、めでたく解決となったのは、先日の報道でもご存知の諸兄は多いだろう。犯人はもと飲食店経営で、某銀行より、持ち店舗を担保として融資を獲得していたが、返済の目処が立たず、店舗が差し押さえられたことを理由に犯行に及んだとされるが、犯人の証言や本社の調査から、不正融資、あるいは契約書偽造の疑いが高まってきている。それもこれも、すべてはビゴー准尉が交渉の際、犯人の心情を察し、それに理解を示したうえで降伏を促し、さらに犯行現場にて、その胸中を吐き出させるまでに至らしめた、その手腕の見事さ。その一言に尽きる。この人ほど、人の心に理解を示し、心を解きほぐす人も、そうはおるまい。
氏は軍歴四十年強を誇る、現場の大ベテラン。あるいは本誌をお読みの諸兄であれば、実際にお会いしたという方も多いかもしれない。老いてなお矍鑠とし、なにより柔和で親切な姿勢から、国家憲兵警察隊といえばこの人、と語る人も少なくない。だからこそ、このような悲痛な背景から凶行に及んだものを、その身ひとつで説得してみせることが可能なのだろう。国家憲兵隊司法警察局局長セルヴァン少将閣下も「我が憲兵隊の生き字引にして、大きな財産。未だ氏から学ぶべきことは多い」と手放しで絶賛していた。直属の上長たる警察隊本部局長ダンクルベール中佐も「後進にとって最高の手本」とコメントしている。
しかし氏も、もう御年、六十五。そろそろ退役が見えてきている。後継者は、かの名族ガブリエリ家のご嫡男、レオナルド・オリヴィエーロ・デ・ガブリエリ少尉と目されているが、その薫陶を十分に発揮できるものだろうか。期待と不安、その両方があるというのは、正直にある。ただし、やはりあのダンクルベールのお殿さまのお膝元。少尉の成長も、目に見えるかたちで表れはじめている。今後も民衆の味方たる警察隊の方々と、そしてビゴー准尉には、本心より、更なる活躍を期待したい。
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2.
天を、仰いでいた。
「まぁた、やられちまった。流石はおやじさんだなあ」
ゴフは、そればかりを口にしていた。
「いいじゃない。誰も怪我しなかったし、被害もなかった。あんたたち“錠前屋”としては、大暴れできなかったのは残念でしょうけど」
「平和的に解決できたならば、それが何よりです」
「そうだよ、監督。そうなんだよ、アンリ。言うとおりだ。それが正しい。一件落着。万々歳の、めでたしめでたしだ」
口に出した通り、それでいい。それがいい。それは頭ではわかっているのである。
「でもよう。折角、気を張って、根詰めてだ。こういう日のために、調練、重ねてだよ。それを、あのおやじさんの人情ひとつでひっくりかえされるんだからさあ。うちにだって、面目っていうものがあるんだぜ?」
「使わなくなったら、捨てるに限りますよ。後々、邪魔になるだけですから」
各員に、軽食と飲み物を用意してくれたペルグランが笑っていた。実家の面目のお陰でひと悶着あった人間が言うことだから、含蓄がある。
お礼代わりに、尻に一発、蹴りをかましておいた。それで皆、笑っていた。
「まあ単純に、俺の培ってきたもんがおやじさんのそれに及ばないっていう、不明を恥じているだけさ」
「ゴフにしては、謙虚で丁寧な表現だ」
「そりゃあ、言葉はだいぶんに選ぶさ、デッサン。国語の問題は、お前の得意分野だろう?」
「流石におやじさんに対して、やってられっか畜生、とは言えねえよ。ってところかな?採点、よろしく」
「花丸だね、くそったれ」
デッサンの額を、指で軽く弾いた。それでもにこにこしていた。
「でもまあ、本当に。誰も彼もが無事で良かった。おやじさんの根性も人情も、マギー監督の泣いてる顔も見れたことだし。出した分が倍になって返ってきたかね」
「泣いてないわよ?」
「そうそう。おいらも楽ができたし、いいドラマひとっつ見れたし。それでよし、じゃんかいね」
「まったくだぜ、スーリ先生。お前が働くってなりゃ、相当に面倒な状況だからな。そうならなくってよかったよ」
あるいは本当に、そういう状況になってもおかしくはなかった。それぐらい、ドナシアンの状態は不安定だった。
人情ひとつを弾丸に、ビゴーはドナシアンの心を射抜いた。それは、誰も彼もが簡単にできることではない。
「そういや、久しぶりに聞いたけど、神妙にすれば云々って、おやじさんも使うんですよね。どっちが先なんだか」
ルキエがそんなことを言い出した。もはや警察隊本部といえば、という名調子である。
「おやじさんがきっと、先じゃねぇの?昔はコンビだったらしいし。そっから影響を受けたんだろ」
「ゴフの言う通り、元祖は先輩だよ」
後ろから声。全員、向き直り、敬礼を捧げる。
褐色の肌と長合羽。ダンクルベールである。最近、油を入れ直したのだろう。油合羽は黒々しく、その巨躯は一層、引き締まって見えた。
「ご苦労でした。事案の内容について確認した。祝着至極。一切の被害なし。犯人の身柄は無事確保。被害者である銀行の諸々の疑惑という、おまけも着いてきた。お前たち“錠前屋”やアンリエットは本領発揮できなくて無念だろうが、腕力と包帯は、使わないに越したことはない」
「すべてはビゴー准尉の交渉のおかげです、長官」
「その通りではあるが、まあ、な」
敬礼を解いて、そのあたり。ダンクルベールが苦笑いを浮かべた。
「先輩も相変わらず、無茶をするよなあ。俺より爺が体を張るなんぞ、若者どもの立つ瀬が無くなっちまう。ゴフの不満は、もっともだよ」
「でしょう?俺だってさあ、たまには格好付けたいんだぜ?最近は、ラクロワとか、新米の女の子連中に絡んでくるやつを蹴散らすぐらいしか、発散の場がねえんですよ。アタマの方はともかく、運動する機会が少なくてさあ」
「そいつは元気で何よりだ。国境警備局海上防衛隊の海兵隊とやらが、腕の立つ士官を絶賛募集中だが、顧問役で行ってみるかい?」
「船の上は駄目です。船酔いは得意科目だ」
「知ってる。よし、以上。片付けが済んだら、今日は上がっていいぞ。気を張って疲れたろう、ゆっくり休みなさい」
はぁい、と気の抜けた返事が飛ぶ。ご存知、“錠前屋”、礼儀作法は二の次、三の次である。
そうやって片付けをしている中、老人ひとり、近づいてきた。一歩ずつ、一歩ずつ。
ゴフは号令を出し、全員を集めた。敬礼。返してくれた。
「ゴフさん。そしてご存知、“錠前屋”の皆さんに、アンリさん。おかげさまで、あれを解きほぐすことができました。皆がいなけりゃあ、あたしが身を張ることもできゃあしませんでしたので」
「おやじさんの説得に貢献できました。それだけで十分ですよ」
言いたいことはあるが、いい大人である。それより先に、言うべきことを言っておくべきだった。
にこりと。そしてビゴーは全員の顔を見てから、いつもどおりの声色で。
「業務連絡がありましてね」
満足そうな顔をしていた。
「あたし、退役することにしました」
いつもどおりの、穏やかな声で。
ぽかんとしていた。本当に、いつもどおりの口調で言われたから。
「おやじさん、冗談じゃあないですよね?」
「冗談みたいな人生を歩かせてもらいました。これ以上は、ただの下世話になりますよ」
笑っていた。これも、いつもどおりに。
「待ってくれ。待ってくれよう、おやじさん」
思わずで、肩に手を伸ばしていた。それはビアトリクスやデッサンも同じようだった。
「俺たちゃあ、おやじさんに勝ち逃げされたってんなら、立つ瀬がねえんだ。おやじさんが説得しても駄目だった。それじゃあご存知、“錠前屋”だって。そういうことをやっとかないと、格好ってもんがさあ」
「あんたがたは、十分以上でしょう。この爺が前に出なくたって、どんなところでも活躍できる」
「そう言ったって、ガブリエリはどうするの?おやじさん」
「十分、歩けます。あとは、はぐれ方を覚える。そのためにも、あたしは退かなきゃあなりません」
「そう言うなら、ガブリエリ少尉とはもう、話したんですね?」
「何とか、納得してもらえました」
見渡す。ガブリエリの姿は無かった。
そして、みやる。小柄な老人。ゴフはそのひとと目線を合わせるぐらいまでに屈んだ。
駄目だった。決意の色が、瞳に満ち満ちていた。
笑うぐらいしか、やることはなかった。
「ならいいよ。ガブリエリが納得したなら、俺たちも納得しようや。退役の日までに、俺たちゃあ親離れをしなきゃあならないね。よし、お前ら。とんでもなくつらい思いをすることになるんだ。腹、括れよ。わかったか?」
「いやですっ」
アンリだった。飛びかかる体を、ルキエが抑えていた。
「私、ビゴー准尉さまと、お別れしたくない」
「アンリ。気持ちはわかる。わかるけどさ」
「もっと、いっぱいお話させて下さい。いっぱい、お話を聞かせて下さい。なにより、ガブリエリ少尉さまや、皆さまの側にいて下さい。お願いします。どうか、お願いします」
泣き虫で我儘なアンリ。こうと決めたら絶対に引かない時の目になって、ぼろぼろ泣いている。
胸が苦しくなった。でも、自分が言いたいことを言ってくれている。自分が泣きたい分を、泣いてくれているんだ。そう思って、ゴフはつとめて何もしようとはしなかった。
「ありがとうね」
一歩ずつ、一歩ずつ。ビゴーは泣きじゃくるアンリに近寄りながら。
「そのためにもね、歩けるうちじゃなきゃ駄目なんだ。あたししか出番がない時に、歩いて来れるようじゃなきゃね」
そうやって、優しい言葉とハンカチーフで、涙を拭ってやっていた。いまだぐすぐすと泣いてはいるものの、アンリはそれ以上、何も言わなくなった。
「おやじさん」
ルキエもまた、泣きじゃくっていた。
「ガブリエリだけじゃないよ。あたしに巡警の道、勧めてくれたの、おやじさんだもんね。歩いてばっかりいるから、てっきり巡警さんだと思ってたんだ。あたし、“錠前屋”になってから気付いたよ。あれ、おやじさんだったんだよね」
はっとした。
巡警上がりのルキエ。がきの頃に面倒を見てくれた巡警さんから、学舎とか士官学校とか出てなくたって勤められるからと紹介されたと聞いていた。油合羽を羽織った巡警さんだったと。
油合羽を羽織る巡警なんて、見たことがなかった。
「そうだよ。だから、泣くんじゃないよ、レベッカさんや。あんた今、大活躍じゃないか。歩くだけじゃなくて、走ったり跳ねたりできるんだもの」
「引き止めたい。でも、アンリとか、皆の手前、見送りたい。見送らなくちゃいけない。ごめんね、おやじさん。そして、ありがとうね、おやじさん」
「こちらこそだよ、レベッカさん」
やはりこちらにも、優しい言葉で。
どん、と大きな音。オーベリソン。
「寂しくなりますな。というより、寂しいですな。おやじさん。あんた本当に、すごいひとだったから」
「アルケンヤールの戦士の末裔に、そう言ってもらえるんなら、ありがたいや。あたしゃあ、荒事には向かなかったからね」
「荒事なしであんた、人が救えるんだもの。人を戒めれるんだもの。これほど立派な人はいないですよ」
大人の、いや、男のやり取り。胸にこみ上げてくるものがあった。
「俺は、引き止めません」
ペルグラン。ビゴーに、握手を求めながら。
「ただ、友だちと合わせてくれた。ガブリエリと合わせてくれた。これだけは礼を言わせて下さい。ありがとうございます。俺、あいつだけは、本当に友だちなんです」
「あのこも、そう言ってた。お願いしますね、ペルグランさん」
ビゴーは、深々と礼をしていた。
ペルグラン世代。特に、大きな師を持つふたり。ペルグランとガブリエリ。格好つけたがりな、俺と貴様の間柄。立身出世の代名詞と、もと王家。普通に考えれば、交わることのないふたつの家。
ビゴーがガブリエリの憧れになった。それが、すべての縁の切欠になっていた。
「おやじさん」
ビアトリクス。震えていた。そして、こぼれていた。
ひしと、その小柄な体に抱きついて。
「おやじさん、おやじさん」
綺麗な顔を、ぐしゃぐしゃにしながら。
ゴフもそれで、耐えられなくなった。そっぽを向いて、流れるままにしていた。目の端に入ったオーベリソンやデッサンも、同じようにしていた。
誰だって、できることなら、そうしたかったのだろう。
「まったく、マギーさんは泣き虫なんだから」
泣いてばかりのマギーを抱き返しながら、やはりビゴーは穏やかに。
別れは突然にやってくる。でも、その日までに、格好ひとつ付けなければな。手向けになるようなことを、用意しなくちゃな。
よし、親孝行しよう。泣きながら、ゴフはそればかりを考えていた。
3.
カウンター越し。人と酒。それがようやく、自分の日常になっていた。
女郎酒場を経て、今の店をいただいた。自身の力量に丁度いい広さと席数、客層だから、新しい生命を宿した今でも、インパチエンスは店に出ることにしていた。いくらか腹が膨れはじめたが、動いていたほうが、気が楽になる。
生命を宿した女というものは、きっと、そういうつくりなのだろう。体を休めろ、無理をするなと言われて、その通りにしたとしても、むしろ気を張ってしまい、愛するペルグランに、わけもなく怒鳴り散らかしたり、何があるわけでもなく、悲しくなったりすることがある。だから動けるうちは、そうしておきたかった。
カンパニュールとコロニラという、自分を慕って付いてきてくれたふたりもいる。だから本当に、顔を出すだけ。カウンターのお客さんと、いくつか会話をする。それだけでも、ひとつの仕事になる。欲している落ち着きが、やってきてくれる。
生命を宿した以上、それをかたちにし、乳離れが終わるぐらいまでは、酒も煙草も、口にはできない。そこは、あまり気にはならなかった。インパチエンス自身、両方とも嗜む程度、というぐらいにしていた。恋の真似事をし、夢をひさぐのが生業だったので、酔いはそれを鈍らせてしまうというのが、染み付いてしまっているかもしれない。
あの時は、酔うならひとりと決めていた。何も考えたくない時に、強い酒で、すべてを紛らわせてきた。今はもう、必要のないことである。
あの頃と銘柄は同じだが、飲み方だけは変えた。温かなものが身近に増えた今でも、甘さではなく、鋭さに浸りたい時があるから。
ファリガシーの十年。乾いた風の中の、潮の味。波が、切り立った心を削っていく。温かさでは拭いきれないものを、捨て去るために。
酒の飲み方、ひとそれぞれである。
ペルグランは、上司たるダンクルベールが相当な酒豪であり、それと長くいるのもあるだろう。童顔ながら上手に飲める。度を越すまで飲むようなことは、見たことがない。同期で親友のガブリエリも同じく、上手に飲む。やはり名家ともなれば、酒の飲み方ぐらいは教わるのだろうか。
大酒飲みは数多かれど、一番は、やはりジスカールの親分か。とにかくウォッカ。長くゆっくりと、それでもひと瓶からふた瓶は空けてしまう。少し多めの銭を置いて、来たときと同じ顔と声、足取りで帰っていく。前の店でも見た光景だが、見る度、やはりぎょっとする。
かの高名なボドリエール夫人も相当だそうだが、店で飲むなら物珍しいものがいいからと、カクテルを頼むことが多い。ワイン通として知られているものの、銘柄や年などといった知識云々より、食事との組み合わせや、もてなし方の方に重きを置いているそうだ。ペルグランが好んで飲んでいる、プレフェリト・デ・ペスカトリを紹介したのも、彼女だという。
楽しいのは、やはりムッシュ・ラポワントか。背が高く恰幅の良い、気持ちの良い御仁。朗々とした美声で、おそらく即興の詩とかを諳んじたり、南東の伝統舞踊で使うような、ギターの曲を弾いたりしてくれる。あの地はつらい思い出ばかりだったが、“ふたつの川”などを奏でてくれると、それでもやはり自分の郷里なのだと、思わせてくれた。
アンリの父、オーベリソン。この人も、楽しい。
父親を紹介したいと言われて会ったときは、腰を抜かしそうになった。ダンクルベールの巨躯より大きく、分厚い。深い彫りの奥に光る、ぎろりとした目。長い髭を三つ編みにした、北の巨人。でも、朗らかで剽軽なお父さんだった。
酒はエールか蜂蜜酒。すぐに真っ赤になる。話題は子どもの話ばかり。自分の子ども三人と、アンリのこと。産まれてくる我が子のことを考えると、楽しさばかりが膨らんでくる。
たまに子どもも連れてきてくれる。末っ子長男のビョルンは、背伸びして蜂蜜酒を飲み、そしてすぐ、へべれけになる。顔のあどけなさもあって、愛んこくて仕方なかった。
そしてアンリ。何よりも、アンリ。薄めたシードルなどでも、すぐに眠る。その寝顔のだらしなさがたまらない。毅然とした聖女の、無防備な姿。それが見たくて、ついつい酌を過ごしてしまう。眠るまでは、感情豊か。酒が入っていない時もそうだが、機嫌がいい時は、その向こう傷を触らせてくれるか、触ってくるようにねだってくる。くすぐったくて、それでも温かいものがあって、好きだと言っていた。
アンリとオーベリソンが一度、見知らぬ男を連れてきた事もあった。クレマンソーという、左利きの男。落ち着いた、柔和な印象。アンリたちと同郷で、養蜂をやっているようだ。
アンリさまに向こう傷を入れたものです。そう言われて、心底驚いた。とてもそうは思えなかったから。そして三人とも、本当に仲がよかったから。
ゴフとデッサン。前の店でも、ゴフはいい意味で評判が悪かった。何しろ聞き上手が過ぎるのである。女を抱く店ながら、話だけをして、抱かずに多めに金を置いて帰る。あまりの心意気から、女たちが自信を無くしてしまったので、何とか触るぐらいはしてやってくれないかと頼んだのだが、結局変わらず。自分と出会う前は、ペルグランもよく連れ回されたらしいが、あれがあの人なりの女遊びなのだという。
“赤いインパチエンス亭”になってからは、ただの酒の店になったので、気兼ねなく話ができるようになった。やはり酒を過ごすことなく聞きに徹し、朗らかな顔で、ためにもならない助言をするだけ。それだけでも皆、気が楽になる。吐き出すべきものを吐き出させてくれる。入力と理解の人間。喧嘩上手の、気遣い上手である。
デッサンは、その自分勝手さが面白い。とにかく喋っては絵を描いて、そしてげらげら笑って。出力と表現の人間。本当に、ゴフとは正反対である。たまに酒を過ごすのもあり、ゴフと一緒に来ると安心して放っておける。普段はデッサンも聞き上手とは聞くが、本性はこっちなのだろう。
ブロスキ男爵夫妻。酒が入ろうが入らまいが、面白く、そして心優しい。
マレンツィオの気前の良さ。そして悪口上手。決して不快ではなく、ちゃんと笑い話にしているのがすごい。口さがないが、悪党の親分のような人柄である。声も体も身振り手振りも大きいが、何かにぶつかったりだとか、ものを壊したりだとかはしないのが、余計に不思議だった。
シャルロットも、いつも以上にのんびりと、というよりか、ふやける。お婆ちゃんになる。それが本当に愛んこい。
意外だったのはセルヴァンだろうか。子ども舌。北方ヴァーヌ系の白ワインなど、軽くて甘めの酒が好き。ワインであればタンニンの渋みや重み、ビールであればホップの苦みが不得意。甘いカクテルを作って出したところ、目を爛々と輝かせていた。プレフェリト・デ・ペスカトリのドルチェなどでもいいかもしれない。
飲み方は鷹揚な聞き上戸。話たがりなコロニラとは相性抜群で、おじさんと姪っ子そのままの、愉快なやりとりになる。たまに家庭菜園で作った野菜や香草を持ってきてくれたりするので、絶世の美中年というよりは、気さくなおじさまという印象のほうが強くなりつつある。
母と定めたジョゼフィーヌは、いくらか注意が必要。配分が上手でないため、面倒を見ながら進めていく必要がある。人に迷惑はかけないものの、それでも情緒が不安定になる。
自分が出奔しかけた後、しばらくこちらにいてくれたことがある。その際に、店員ふたりに名を授けてくれた。淡い紫のカンパニュールと、明るい黄のコロニラ。そしてふたりとも、インパチエンスと同じく、娘と定めたいとも。ふたり、泣いて喜んでいた。素敵な名前だと。お母さんと呼べる人ができたと。
家名無きジョゼフィーヌ。その本当の意味も、教えてくれたこともあった。このひともまた、名もなき人だったのだと、ふたり、抱き合って泣いた。
今日の夕方に訪れたのは、常連のひとりである。この人は、特段に嗜むのが上手だった。
アルシェという、寝ぼけ眼の仏頂面。目が、何も語ってこない。冷たく、酷薄な印象を受けたが、話しかけてみると普通の人だった。
奥さまのサラ姉は、自分のちょうど、十ぐらい上。朗らかで綺麗なひと。サラ姉は酒が入ると、声が一段、若くなる。
あの人ね。何も考えてないのよ。そこが可愛いの。
言われて、ああ、なるほど。そう思った。
インパチエンスも、先入観を持たれる側の人間だから、よくわかる。自分はそれを利用してきた。強い女を、演じてきた。だからきっと、ダンクルベールは自分のことを、赤いインパチエンスと名付けたのかもしれない。
アルシェは、それをしていなかった。無頓着なのだろう。何も考えていないと、サラ姉が言っていたのだから。
座るのは、カウンターの端。一番奥か、一番手前。いつも同じ酒。ウイスキー、ストレートを指一本で。その一杯を、ぼんやりと、店全体をひとつの風景としているようにして、その寝ぼけ眼で見つめながら、だいたい四十分くらい。酒肴はなし。それで、終わり。代金を置いて、ひと声かけて、帰っていく。来るのはいつも、少し早めだった。引っ掛けてから帰る、というやつである。
グレロッホの十年。穏やかな汽水域。湖ではなく、潮風を感じはすれど、土の甘さがある。その甘さが、インパチエンスには合わなかった。
何も考えない人が、グレロッホの十年から、何を見出すのだろうか。
「勉強中、ってところかな」
聞いてみたところ、やはりぼんやりと返ってきた。
「がきの頃、奉公先のご主人さんが好きな酒でね。これ、色んな味、するじゃん?最初は、粘土とヨードとしか思えなかったけど、海水とか、チョコレートとか。柑橘類、香辛料もあったり」
「ほんざんすね。あたくしには、ちょっと甘すぎあんして」
「おかみさんのやつも、いいよね。塩っぱくて、さっぱりしてる」
紫煙をくゆらせながら、アルシェが口角だけで微笑んだ。
「ただ、俺には向かなかったかな。荒磯。足、滑らせそうでさ。波がぶち当たる音とかも感じて、おっかない。これから入ったってのもあるけど、こいつは、ぼんやりできるんだ。同じように見えて、日によって違う感じ。つまり、まだ、よくわかってない。だから好きなのかもね」
寝ぼけ眼が微笑んだ。
絵とか、風景を見るような例えだった。そして、自分がファリガシーの十年に求めていたものも、見抜いていた。
このひとは、本当に何も考えていないのだ。何も考えずに、グレロッホの十年と店の情景を、ぼんやりと眺めている。それを素直に楽しんでいる。だからファリガシーでは、こわく感じるのだろう。
酒というか、酒との付き合い方、あるいは人生そのものが上手なひと。驚きと感心が広がっていた。
「おかわり、いいかい?」
ふと、そんなことを言った。いつもなら、ここでお勘定である。
「あらま、珍しがんすね。勿論、よござんす」
「うん。人を待っていてね」
別のグラスに指一本を注ぎ直したものを、渡してやった。
そうして少しもしないうちに来たのは、胡麻塩頭の、小柄な老人であった。
これもよく来る顔、ビゴーである。
何も言わず、アルシェの隣りに座った。酒も、いつもと同じウイスキー。
レイニーマンの十二年。ブレンデッド。昔ながらの、蜂蜜の味。甘く穏やかなものが、落ち着きを招き入れる。
「あんたとは、ちゃんと話をしておきたかった」
お互い、目を合わせず。
「俺も、そうでした」
「嫌いなやり方だった」
「でしょうね」
「でも、自分でも、いやなんでしょう?」
「ええ。必要だから、やっています。他の人に、こんなことは任せられません」
「それは本当に、偉いと思う」
そこでようやく、ビゴーがちらとだけ、アルシェを見た。ただそれだけで、また視線は正面に戻った。
ビゴーとは、女郎酒場時代から、何度か顔も合わせていた。人となりについては理解していたから、その口から、嫌い、という言葉が出ることが、珍しく思えた。
わかってあげる力を持つ人が、わかり会えない人。それが、アルシェという男。
「俺も、おやじさんのやり方をやりたかったなあ」
「それはうれしいやね」
「でもガブリエリがいるから、それでいい」
「あいつはね。もっともっと、伸びますよ」
「わかりました。伸ばします」
「お願いします」
そこまでで、アルシェは紙巻を灰皿に押し付けた。
「さみしいなあ」
ため息ひとつ。本当の、声だった。
この老人が退役するということも、ペルグランから聞いていた。
「そう思ってくれるだけ、うれしいや」
「おやじさんは、いつも真ん中にいた感じでした。いつもどっか、歩いてるけど、いつも一緒にいる感じ」
「あんたは時々、素敵な言葉を使うよね。詩的というか、素直な、ことばということば」
「思いついたまんまですよ。それが一番、気楽ですから」
視線を合わせず、そうしてしかし、ふたりとも、穏やかに笑っていた。
「故郷とか、帰るんですか?」
「この近くだよ」
「じゃあ、会えますね」
「うん」
「じゃあ、こことか、町の中とか、そのへんの店とかで」
「そうしましょう」
そのあたりで、ふたりとも、グラスが空になった。
じゃあ、これで。たったそれだけで、ビゴーは席を立った。
カンパニュールとコロニラとの三人で、きょとんとしてしまっていた。これがおそらく、別れの盃とか、そういうもののはずだろう。こんなに何もなく終わるものなのだろうか。
「ねぼすけさま。あれで、ようごぜあんしたか?」
「うん。あれで十分」
少しだけ、気だるげに。あるいは寂しそうに。
「はじめて、ちゃんと話した。でも、いつも通りってかんじ」
寝ぼけ眼のそのひとは、そう言って席を立っていった。
4.
油脂の缶を湯煎したものを引き上げ、蓋を開ける。湯気。木綿の布に染み込ませ、少しずつ、表面に塗り拡げる。むらにならないようにだけ、気をつけながら。
愛用の長合羽。油の入れ直しである。四六時中、外で着ているものだから、油の減りは他の人たちのそれより早い。この長合羽では、二度目になる。入れてから、大体三日ぐらいからが、頃合いになる。
油を入れ直した油合羽の質感。好きだった。生地はくったりしつつ、油の照り返しの独特な感じ。培ったしわが、一層浮き出る、あの感じ。
これを羽織る切欠。ビゴーの退役。
覚悟していた。いずれ来る日。それが来た。ただ、それだけである。それまでに育ち切る。それが、弟子としての、子としての使命だと、ガブリエリは自身に課してきた。
卒業試験をひとつ、課されていた。そのために、自身を清め、引き締めたい。頃合いもちょうどよかったので、油の入れ直しをした。
油が馴染んだあたり。羽織ってみる。緑というより、黒。闇に溶ける色。闇に対峙するための装束。
「老兵死なず、ただ消え去るのみ、か」
マレンツィオは、物寂しそうに呟いた。ビゴー退役について、報告をしに伺った。
「六十五だっけか。たしかに、頃合いだよな」
「ええ。定年退役としては、適齢です」
「あの人には、俺もだいぶんに世話になった。挨拶に行かないとな。俺もそうだし、可愛いレオナルドの夢になってくれたんだから」
葉巻を咥えながら、しみじみとした表情だった。
「レオナルドよう。今、楽しいか?」
「おかげさまで。毎日、心が踊っています」
「なら冥利だ。お前の道に絨毯をひいた甲斐があったよ」
言われた言葉に、座礼ひとつ、返した。
本当に、何から何まで世話になった。ビゴーにも、マレンツィオにも。そして、ほかの人たちにも。
恩返しをしなければならない。目いっぱいのものを。
二日ほどして、それは路地に姿を表した。
「探していたんだろう。お兄さん」
ざらついた、女の声。
歩いてくる。一歩ずつ、一歩ずつ。黒い影。白目と、首元のスカーフだけが白い。黒山羊の悪魔のような輪郭。
公安局、エージェント・ミラージェ。卒業試験の相手である。
「ビゴー准尉殿から、役目を引き継ぐ」
「そうかい。親父と同じように、できるのかい?」
顔も眼も、体すらも合わせず、並ぶ。かつて師が、そうしてきたように。
「やり方を変える。それでなら、できる」
「私は、変えたくないね」
「変えてみせるさ。ノエル・ビゴー」
言った。目が、こちらを見ているような気がした。
「あんた、ビゴー准尉殿の、娘だろう?」
向いた。ミラージェは、顔を逸らしていた。
「無粋だね、お兄さん。そういうやつだったのかい」
「私は、エージェント・ミラージェではなく、ノエル・ビゴーとならやりあえる。公安局の諜報員ではなく、ビゴー准尉殿が、かつて愛した人との娘ならな」
つとめて平静に、そう言った。
独自の密偵を作っていた。それが拾ってきた情報である。それでも、それが唯一のものだった。
「これが、私の貸しだ。借りは、あんたの口から聞きたい。私は、あんたの名前までにしか、たどり着けなかった」
しばらくの間があった。
ミラージェ。フェルト帽を脱いだ。剃り上げた、輪郭のはっきりとした頭。
「親父と母親に愛があったのかまでは、知らないよ」
口調は変わらないが、顔には悲しみが浮き出ていた。
「幼い頃、母親とふたり、死にかけた。親父のお陰で私だけは助かった。母親は死んだけど、それでも助けてくれようとした。だからこれが、私の親父に対する、ふたり分の借りだ」
なぜ、そうなったかは、言わなかった。聞く気も無かった。きっと、答えないだろうから。
「母親も私も、借りを返せなかった。だから私は、捜査官である親父の駒になった。親父から捜査を学び、公安に入った。公安の情報を担保に、親父に借りを返すために」
これで、貸し借りなし。そう言って、その女は帽子を被り直した。エージェント・ミラージェに。
「ノエル・ビゴー。それは、貸し借りじゃあない」
思ったことを、思ったままに。
「父娘の愛。絆。そして、恩だよ」
ガブリエリの言葉に、表情はそのまま、ミラージェは眉間に皺を寄せ、瞼を閉じた。苦悶、なのだろうか。
「お兄さんはやっぱり、私と貸し借りはできないよ。お兄さんのやり方でやりな。お兄さんのやり方なら、私は必要ないはずだ」
そう言って、ミラージェは歩きはじめた。一歩ずつ、一歩ずつ。
「どっかの誰かから、言伝を貰っていた」
消える間際に、ガブリエリはあえて、声を上げた。
「モニクを助けてやれなかった。あんたを母親のいない子どもにしてしまった。これがふたり分の、借り。だからこれで、貸し借りなし」
振り向きはしなかった。それでも、震えているものを感じた。
しばらくして、影は戻ってきた。白い瞳から、ひとすじ、流した跡を残して。
「お兄さん。紙巻、あるかい?」
頷く。
渡して、火を点けてやった。輪郭が一瞬だけ、人のものになったような気がした。
「これで、ノエル・ビゴーも終われる。私はようやく、エージェント・ミラージェだけをやれる」
ガブリエリも紙巻を咥えた。紫煙が、何かを紛らわせてくれると信じて。
「父娘には、ならないのか?」
「やめとく。親父も私も、借りを負って生きてきた。それからようやく解放される。それでしか、やってこれなかったから、これからやるとしても、それでしかやれない。お互い、疲れるだけさ」
父娘にならないという選択。
ビゴーも、それを望んでいた。同じようなことも言っていた。ガブリエリはそれだけ、どうしてかわからなかった。
あえて、何があったのかも聞かなかった。ふたりの因果の根幹。ひとりの、死んだ女の存在。
父娘にならないとしても、あの人は名を与え、あえてスペルを間違えた。まやかしではなく人であると言って。
「それと、これも」
ひとつ、封筒。ミラージェは何も言わず、それを受け取った。
「おいおい、高かったろう?これ」
中身をあらためたミラージェが、声を上げた。口調は変わらないが、驚きの色が強く出ていた。
「私のお節介だから、返さなくていい」
「馬鹿なこと言うんじゃないよ。これ以上、何が欲しいってんだ?」
「いらないよ」
やはり目は合わせず、それでも頭を振ってみせた。
「そうかい。それじゃあ、ありがたく」
呆れた色も含まれつつ、言葉通り、感謝の色も乗っていた。
「宰相閣下の女好きも、困ったもんだね」
ミラージェは、あえてそれを、言ったようだった。
宰相閣下が、政変を企んでいる。
自身を首長とした、共和制国家の樹立。そのための、王家エンヴィザック家の排除。貴族名族の権力の無力化。
そのために、ボドリエール夫人という象徴を用いる。
凶悪殺人犯である一方で、登場から三十年以上が経過した今でも、巷を賑わせる、文化の創造者であり、破壊者。現代のあらゆる価値観の基礎を作った巨人である。これを錦の御旗とし、国民を扇動する目論見のようだ。
絵空事もいいところである。それならば、マレンツィオを神輿とした国民議会の推し進める、“緩やかな革命”で十分に実現可能なものだ。マレンツィオも神輿である自覚があるので、土壌が整い次第、次代を担うに相応しい人物にそれを託すことも、考えているはずだ。
あくまで、国の中心に自分を据えたいのだろう。浅はかな考えだった。
「おすそ分け、ね。それがお兄さんのやり方かい?」
「そうだな。あんたの言う通り、私には、貸し借りはできないからね」
「お優しいこって」
笑ったようだった。
貸し借りはできない。でも、おすそ分けならできる。手に入れたもののうち、司法警察局では扱いきれないものや、公安局からのアプローチのほうが効果的であるもの。そういったものを、渡してやることなら。
これならミラージェも肩肘を張らず、気楽にやり取りができるはずだ。
「そういや子ども、いつ頃なんだい?」
ふと。
「春の前あたりかな?どうやら逆子らしい。今から治るかどうか、すったもんだしているよ」
「ちゃんと支えてやるんだよ。ひとり目はどうしても神経が逆立つからね。まして逆子だと、ひりついてるだろう?祖父ちゃん祖母ちゃん、いるのかい?」
「おじさんとおばさんが、着いてくれている」
「そうか、それなら大丈夫かな。直前に治ることもあるからね」
「優しいんだな、あんたも」
「まあね」
影が、離れた。
「私もふたり目は、逆子だった」
手を振ったようだった。
振り向く。影は、無かった。
「母親だったんだね」
密偵でも、そこまで掴めなかった。
エージェント・ミラージェ。白い瞳のけもの。まやかしではなく人として、生きている。
5.
不意に、そのひとに会いたくなった。もう、会えなくなるかもしれない。そう思ったから。
目を閉じる。それだけでいい。その人を思えば、その人のところに会いに行ける。
篝火、いや、焚き火。湖畔の小屋。その人は、そこで楽しそうにそれを眺めていた。
「いらっしゃい」
胡麻塩頭の柔和な顔が、にこりと笑った。その顔をみとめたぐらいで、涙はこみ上げてきた。
エクトル・ビゴー。三十年余の付き合いとなる御仁。
隣に腰掛けた。火の温かさが、心地よかった。闇と、火の明るさ。あるのは、それだけ。
それだけでも、満ち足りていた。満ち足りることを、教えてくれた。
「焚き火、好きなのね。いっつもやってるから」
「火を見るのは、落ち着きますよ。薪の爆ぜる音。この熱とか、光の境目とか」
やはり、微笑んでいた。それが嬉しくも、淋しくあった。
首都近郊から、歩いて二時間ほど。湖畔に佇む小さな小屋。このひと自身が建てた、このひとの終の棲家。
かつてあった、この辺りの小さな貧民街。そこで生まれ育ったと聞いた。今は政治や悪党のお陰で、なくなってしまったとも。
「退役、なさるんですってね」
それは、ダンクルベールから聞いていた。
「うん。決めました。動けるうちに、やめるって。ずっと歩き続けてきたから、今度は、立ち止まったり、振り返ったりしてみようって。それにはやっぱり、動けなきゃね」
素敵な言葉。そう思った。歩き続けてきた人が、振り返ること、立ち止まることをやってみる。
それだけ、取りこぼしたものがあったのかもしれない。
「兄さまがいなくなると、寂しい。我が愛しき人も、寂しいって、言ってた」
「本当に皆、そう言ってくれる。恵まれました。幸せもんですよ、あたしは」
「恵んでくださったんですもの。皆に」
空を見上げる。満天の星空。そろそろ、秋に入る。色とりどりの星たちが、囁いていた。
メタモーフ事件。それが、運命の出会い。我が愛しきオーブリー・リュシアンだけでなく、この尊敬すべき人との。
逆算すると、三十代前半か。小柄ながらがっしりとした体つきで、顔つきもしっかりとした、強面の男前という印象。でも声色も口調も、極めて柔和だった。その裏腹さが、今でも鮮明に残っている。
ガンズビュール。滞在したのは、二週間足らずか。それでも誰もが、この小柄な男を覚えた。それだけの鮮烈さはなかった。ただ、何かがあった。すとん、とひと心地つくようなもの。あってうれしいもの。そこにあるのが当たり前なような、そんな存在。
最初は、文鎮に例えた。でもそれとも違う。そんな重々しくはない。文章を綴る紙や、机。そういったもの。前提のような存在。
ガンズビュールで大きな騒動が起きるたび、ダンクルベールと共に、ビゴーも必ず来てくれた。ダンクルベールに会える嬉しさも、ビゴーに会える嬉しさもあった。むしろ接する時間は、ダンクルベールよりも多かったと思う。
そうやって自然と、兄として慕っていた。
「私にとっては、兄さまは教科書だった」
整理したことを、口に出してみた。
「人とどう触れ合うべきかを、兄さまに教えてもらった。私は、人を愛し、愛されたかった。その最高の表現が、人を食べることだった。それだけじゃないってことを、兄さまが教えてくれた気がする。ただ、触れ合うだけでいい。ただ、話し合い、会うだけでいいって」
そう言って、微笑んでみせた。
「うれしいですけれど、買い被りすぎですよ。これしか、やり方を知りませんから」
微笑みが、返ってきた。
いつからか、人を食べなくても充足している自分がいた。それは驚きだった。生きるうえで必須だと思っていたから。
どうしてそうなのかを考えた。考え続けて出た結論は、自分は生命を食べているのではない。愛を食べているのだ、ということだった。人を愛し、愛されてさえいれば、この心は不滅のものになる。確証はないが、そう感じた。
生きるために、人を含むあらゆる生命を奪ってきた。そのうち、人のそれが何よりの美味と気付き、人を狙うようになった。それが今、不要になりつつある。その美味の真髄は、愛なのだから。人を食べなくても、愛を伝えあえば、それを味わえるのだから。
シェラドゥルーガは、生きている。愛するもののため。そして、愛してくれるもののために。
「でもやっぱり、兄さまには叶わないなあ。いつまでたっても、うまくいかないもの」
「花嫁修行は、長ぁく、じっくりやるもんです」
「あら。本当に、兄さまはお上手。どんなに頑張っても叱ってくださらないもの」
「叱るのは、つらいですから。自分がつらくなっちまう」
ふたりで、笑った。
差し出してくれた。炙ったマシュマロ。息で熱を冷ましながら、頬張った。温かくて、染み渡った。ウイスキー。レイニーマンの十二年。どこにでもある銘柄。うん、そうそう、これこれ、という味。ストレートでちびりとやってから、湯を足して。ああ、蜂蜜の味。
愛の味がした。これがこのひとの、私への、皆への愛の味。
「あたしぁね、シェラドゥルーガさん。あんたに、謝らなきゃいけないんだよ」
「なぁに?」
「最後まで、あんたをわかってあげられなかった」
少しだけ、寂しそうだった。
「いいの。だって私は、人でなしだもの」
「だからこそ、わかってあげたかった。言ってしまえば、神さまみたいなもんでしょうに。ずうっと、長いこと生きてきて、いろんなつらい思いをして、そうして今になって、恋をして。それが、やっぱり、わからなかったんです。今まで皆を愛してきた人が、どうしてひとりを愛するんだろうって」
「一目惚れなの。あの人が、きっと最初」
「ああ、そういう。神さまだって、心があると、そういうものもあるんだね」
「そうなのよね。私も結局、生き物だから」
生き物だから、神にもなったし、人にもなった。そして、恋に落ちた。恋をしてから、一日がずうっと長くなった。きっと人と同じ感覚で、年月を感じている。
満ち足りている。この人たちのお陰で。
「実はね。あんたがきっと神さまだったころの、おやしろだとか、ほこらだとか、そういうものの跡を、見つけたことがあるんだよ」
ビゴーの言葉に、驚いていた。
「遺ってたの?」
「全部、壊されてたよ。でも、跡は残ってた。あんた、すごく広く祀られてたんだねえ。それこそ島、ひとっつ分」
その言葉に、悲しさはこみ上げてこなかった。嬉しさばかりが、涙として溢れてきた。
焼き滅ぼされたとばかり、跡形もなくなったとばかり、思っていたから。
「恩返しひとっつ、しようと思ってる」
そこら辺に放り投げるようにして、ビゴーが言った。
「塗り潰されたって、言い伝えで遺ってたんなら、ひとつぐらい遺ってるはず。それ見っけたら、あたしの仕事は、全部、終わり」
「どうして、そこまでしてくださるの?」
「あんた、好きだったから」
言いながら、ハンカチーフを差し出してくれた。
「あんたが好いてくれたから。愛とか、そういうものとは、きっと違うのかもしれないけどね。慕うとか、頼るとか、そういうやつ」
それもまた、ひとつの愛のかたち。
いろいろなものを、この人から教わった。今、それがひと段落する。会えなくなるわけではないけれど。そのうち、本当に会えなくなるかもしれないけれど。
まずは、言うべきことを。
「ありがとう」
言おうとする、直前だった。
笑ってしまった。やっぱり、この人には、敵わない。
「先に言わないでよ。私こそ、ありがとう。兄さま」
頬に、ベーゼを。
そうしてふたり、レイニーマンのお湯割りを。
蜂蜜の味。愛の味。あの頃からずっと、幸せの味。
6.
最終出勤日。今日だけは、はぐれて歩くと決めていた。
妻を半年前、病で喪っていた。ふたりの子は、それぞれ遠方で家庭を持っている。爺ひとり、仮住まいでの暮らしである。
それでも、満ち足りたものを用意してもらった。警察隊本部。それが、ただいまと言える場所。
食うために巡警になった。そのうち警察隊のお偉方から声を掛けられ、捜査官として働いてみないかと打診された。給料が良くなる。その程度の、軽い気持ちだった。
やることは変わらない。歩いて、人と会って、話をする。わかってあげる。ただ、それに極度に干渉することだけはなかった。
深入りすれば、そのつらさは、自分のものになってしまう。それは本当に、身を裂かれるほどにつらいものだったから。
「ビゴー兄が退役か。そんなに時が経ちましたか」
協会のひとつに、訪いを入れていた。威容の司祭、ジスカール。
「先代の頃からの付き合い。いや、俺が“一家”を立ち上げる以前からですかね」
「あんたが、こっちに来てからですよ。名前も違っていた」
「モグチャヤ・クーチカ。瑞と平原の北にある国。それが俺の郷里です」
しみじみとした声だった。
いつ頃から、それは裏に根付いていた。どこのものともわからぬ、白い肌の人々。人相は明らかに、どこのものとも違う人々。
その中でも、いくらか体の大きい少年。目が、強いものをたたえていた。
スヴァトスラフ。そしてそれは、いずれ捨てる名だと、少年は強い言葉で綴っていた。
「難民だった。物心付くあたりに、アルケンヤールとヴァルハリアの連合軍に攻められてね。移動民族だとか商隊に紛れ込みながら、平原、ユィズランドを経て、ここにたどり着いた。そうやっていくうちに、かたまりが産まれて、ここでいう悪党だとか、任侠みたいなものになった。それが、俺の根幹です」
思わず、へえ、と声を上げていた。
弱きもの。それが手を取り合って、強くあろうとしたもの。それが悪党のはじまり。その根幹を経験してきたからこそ、この男は生粋の侠になれたのだろう。
「あんた、それでも人も国も、恨まなかったよね」
「余裕がなかっただけかもしれませんな。身を立て、人を守ることで、この生命は手一杯になってしまっていた」
レイニーマンの十二年を用意してくれながら、ジスカールは笑っていた。
「あるいは、カスパルさんのようになっていたのかもしれないと思うと、ぞっとしないやね」
その時だけ、悲しそうな笑みだった。
これもまた、ヴァーヌに運命を狂わされたもの。そして名を捨て、ヴァーヌの一部となることを選んだもの。
信仰ではなく、恩義と仁義で身を立てる司祭。
「俺は幸せものです。侠として、そして人として導いてくれる人がいた。求めてくれる人がいましたもの。兄もそのひとりです」
「あたしも悪党みたいなもんですから。日陰から産まれて、たまたま、お日さま浴びる機会を得ただけですもの」
「そういう人のお陰で、陽の光をありがたく思う人が増えていく。兄のあとは、ガブリエリ兄さんがそれを担うんですね」
「なんだか、大役みたいな言い方だねえ」
「大役ですよ。兄の代わりなんざ、誰も担えやしませんもの。本当、いい後継ぎを見つけましたね」
「本当に、奇縁も奇縁です。あのこの家の前、歩いただけですからね」
言いながら、思い出し笑いをしていたと思う。
十数年前か。はぐれて歩いていた時に通りかかった、大きな館の、小さな男の子。不思議そうな顔で、駆け寄ってきた。
油合羽は漁師さんの服だって聞いたよ。漁師さんなのに、海にいないの、どうして?
確かにな。そう思った。そして、不思議なことを不思議だと思えること。それを尋ねることができる利口な子だとも。
警察だと答えると、そのこの瞳はきらきらと輝いた。かっこいい。やってみたい。おじさんみたいになりたいと。頭をなでて、頑張りなさいとだけ、励ましてあげた。
そうして三年ほど前、背の高い若者が、鼻息を粗くして駆け寄ってきた。どことなく、見覚えがあった。
おやじさん。私、警察になりましたよ。これで私、おやじさんみたいになれます。
ああ、あのこだ。そう思って、思わず嬉しくなった。
何をするにも着いてきた。一緒に仕事をさせてほしいと、何度も頼まれた。それだけを目標に頑張ってきたのだから、どうか、お願いします、と。しかし、あのガブリエリ家の出身。しかも嫡男である。本来であればペルグラン同様に、ダンクルベールの近くか、あるいはセルヴァンの副官にでもするべき立場である。どうしたものかと上二役と相談したが、当人の希望通りにさせようという結論になった。
そのいくらか前に、“錠前屋”が設立したときも、見覚えのある女の子がいた。巡警上がりの、目つきの悪い不良娘。向こうは自分のことに気付いていなかったのか。だから、そのままにしていた。この間、ようやくそれを言ってくれて、泣いていた。それもまた、嬉しかった。
はぐれて歩いていたはずが、いつの間にか後ろに人が着いてきた。ガブリエリにルキエ。それだけじゃない。おやじさんの助言のお陰でこの店を開くことができた。おやじさんのおかげで、かみさんできました。そういう声も、何度も聞いた。大したことは言ってないし、やってもいなかったのだが。
それでもどこかで、人を導いていたのだな。そう思うと、気恥ずかしさと嬉しさがこみ上げてきた。それと、寂しさも。
庁舎に戻ってきた時、山ほどの人が出迎えてくれた。ちょっとだけ、驚いていた。
「准尉昇進のときのことを、思い出しましてね」
はじめに語りかけてきたのは、セルヴァンだった。
「私にダンクルベール、総監閣下に内務尚書閣下まで雁首揃えて、それでようやくご了承いただけたんですから、貴方も頑固なお人だった」
そういえば、そんな事もあった。
正直、ずっと一等とかで良かった。伍長以上だと、人を率いる必要がある。教育をしなければならなくなる。それが、いやだった。やりたいことしかやりたくなかったから、昇進はずっと、蹴り続けていた。それでも周りのためにだとか、後進のためにだとか、毎回、ひと月近い時間を説得され、それでこちらが折れるかたちで、昇進を飲んできた。
准尉。下士官の最高位。気が引けるどころの話では無かった。やりたくない。そればっかりだった。士官学校出身でないから。有望な若い者を差し置いて。管理仕事は苦手なので。そうやって、のらりくらりと躱し続けた。
最終的に、偉い人間全員に囲まれた。内務尚書(大臣)ラフォルジュまで出てきたのだから、こりゃ参ったとなり、拝領した。
希望はただひとつ。職務内容は、今まで通りであること。
「はぐれものですから。人を率いるとかは、やりたくなかっただけですよ」
つとめて穏やかに返した。
セルヴァンは背筋を伸ばし、敬礼を掲げてくれた。
「お疲れ様でした。何を言おうか考えましたが、それしか思いつきませんでした。本当に、感謝ばかりです」
「局長閣下にそう言っていただけたなら、冥利です」
そう言って、敬礼を返した。所作は、適当。どう頑張ったって、この見目麗しいひとのそれには敵わないから。
「寂しくなりますな、先輩」
ダンクルベール。これの入隊当時から、そう呼ばれていた。
破天荒なコンスタンとともにいた、褐色の大男。いつも居心地が悪そうに縮こまっていた。話を聞くと、コンスタン家の奉公人だったそうで、貧しい生まれの自分がこんなところにいていいものかと、思い悩んでいた。
中尉ぐらいになるまで、コンスタンからダンクルベールを借りることにした。そうやって歩き方を覚えさせ、独り立ちさせた。
飛び抜けたものを持っていることは、すぐに気付いた。だからそれを伸ばせるよう、ビゴーは補佐につとめた。コンスタンにも、ダンクルベールの才覚については都度、話をした。何か、とんでもないものを秘めている。それをどう引き出すかも、試行錯誤を重ねた。そうして、メタモーフ、ガンズビュールと結果を出していった。
ウトマンが異動してきてからは、役割を任せた。そうしてまたひとり、はぐれて歩ける。寂しさの反面、清々しくもあった。
「皆、そう言ってくれる。ありがたい限りです」
「俺も、手本とする人間がいなくなる。頼るべき人が、ひとり減る。心細いです」
手を、握ってくれた。大きなひとの、大きな手。分厚く、柔らかかった。
「あんたは孤高の人だった。でもそれに皆、ついてきた。だから皆、頼れる人ですよ。あたしなんかより、ずっとね」
警察隊本部は、今やダンクルベールだ。だからもう、自分がいようがいまいが、それは揺るがない。
だから大丈夫。この人がいさえすれば、すべてはそれでいい。
「おやじさんは、仕事はやめるけど、歩くことはやめませんよね?」
童顔の青年。ペルグラン。あの、ニコラ・ペルグランのお血筋。そしてそれをやめてしまった男。ただひとりの、若い俊英。
「そうだね。そればっかりは、生き甲斐ですから」
「なら、そんなに寂しくないかな。どこかで会えるんですから。寂しくなったら、俺も外を歩きます」
「そうだね。ペルグランさんは、前向きでいいやね」
敬礼。涙は、無かった。寂しさすら。
また会えるんなら、それでいい。その通り。このこらしい、前向きな考え方だ。
「旧くよりの友、西楼に別れを告げ」
朗々と。
「葉の紅くなりゆくなか、郷里へと下る。船の帆も、空に消える影となりゆき。我は唯、川の流れを眺めるのみ」
恰幅の良い偉丈夫。瞼を閉じながら、詩を諳んじはじめた。
そうしたあと、こちらに向き直り、一礼した。
「西楼にて友の郷里に之くを送る。旧い瑞朝の詩です」
「はは。これはいいものを貰った。あたしゃあ学がないものですから、これから勉強していきますよ」
ムッシュ。笑顔だった。
郷里はすぐ近く。だからまた、会える。その上で、この詩を選んだのだろう。粋な御仁である。
「物申す」
不意に、廊下から大声が飛んできた。聞き覚えのある声。
入ってきたのは大翁。驚きが強かった。
「不肖、ブロスキ男爵マレンツィオめが、国民の声を代表して物申す」
そう言って、マレンツィオは強引に、ビゴーの手をひっつかむようにして。
「お疲れ様でした」
満面の、笑みだった。周りも、笑っていた。
「先輩。まずは何より、お体にお気をつけあれ。そして、歩きたいところに歩かれよ。この島に限らず、ヴァルハリア、ユィズランド、エルトゥールルでも大平原でも。この天下こそが、これからの先輩の遊び場にござり申す。存分に、歩きなされ」
「はは。ありがたいやなあ。あんたはいつだって大仰なんだから。楽しくっていいねえ」
「人の生たるは、面白く生きねば、面白くはなりますまい」
そう言って、呵々大笑した。
メタモーフ事件の後だろうか。どこかの支部次長を捜査一課課長に据えるという話が出て、現れたのがこの男である。
何しろ名前が立派だった。南東ヴァーヌの大貴族。もと王家たるガブリエリ家の分家、尚武のマレンツィオ家である。それでいて容貌魁偉、豪放磊落と、悪党の親玉のほうがよほどお似合いな人物がやってきたものだと、大騒ぎになったほどだった。
そして仕事の仕方も独特だった。とにかく名前を使わせる。名刺を持たせる。最初は、部下の手柄を横取りする、いやなやつだと思ったものだ。
そいつはお守りだ。どうにもならない時。しくじった時。そいつを出せ。そうすれば俺が責任を取れる。そのためにも、やったことは逐次、記録を残せ。お前は俺だ。そして、俺はお前だ。お前こそが、マレンツィオ・ブロスキだ。
本当に、悪党の親玉のようだった。ついぞ名刺を取り出す機会は無かったものの、これがあることは、いつだって心の拠り所になっていた。
天下御免。その名前ひとつで仕事ができる男。そういう人だった。
「なにより先輩は、我が愛息レオナルド・オリヴィエーロの夢になって下さったお方です。あれに世間の広さを教えてくださった。あれに油合羽を教えてくださったのは、先輩にござり申す。あれの親代わりとして、厚く、厚く御礼を申し上げいたす。本当に、有難き幸せに存じ奉ります」
「そういや、そうでしたね。いい男ひとり、育てさせてもらいました。あたしこそ、礼を申し上げるべきですよ、閣下」
笑ってばっかり。だからこちらも、笑うしかやることがなかった。本当に愉快痛快な御仁である。
デッサンが一枚、額縁入りの絵を持ってきた。水彩画。新月上流の眼鏡橋。思わず声が出るほど美しかった。
「おやじさんが好きだって言ってた場所です」
瓶底眼鏡が、にっこりと。
「天気が悪くて見に行けない時でも、眺めて下さい」
「ありがとう。フェリエさんも、いい心意気だよね」
嬉しかった。それこそずっと、眺めていたいぐらいに。
絵を描くことしかできないと、いつも言っていた。でも、絵をかけるからこそ、こういう事ができる。人の心に寄り添うことが。
これもひとつの、わかってあげるかたち。
「おいらさ。おやじさん、大好きだった。そればっかりだな」
それは、いつの間にか隣りにいた。驚きはない。おや、と思うぐらいである。
「そうかいね。あんたもようやく、気ままに生きれる。あたしもそればっかりだよ」
「そういうところ。本当に、わかってくれるって、こんなに嬉しいんだって、教えてくれた。あんがと」
そうして、瞬きひとつ。
闇から解き放たれた、一匹の“鼠”。好きなところで、好きなように暮らせばいい。くれぐれも、けものや猛禽だけには気をつけて。
「最果ての地。氷河の原を切り拓いた、双角王。拓いた原に麦を植え、黄金の海を産み出した」
どん、と、胸を叩く音。
「実りを祝おう。出会いを祝おう。別れを厭わず、憂うことなかれ。王の下、我らの集いは必ず叶う。いつも、いつでも、いつであろうと」
腹の底から響き渡る深い声とともに、何かが注がれた角杯を渡された。
「さあ同朋よ、杯を干そう」
オーベリソン。笑顔で、ぐいと。
「郷里で作っている蜂蜜酒です。その杯もお手製。よければ、貰って下さい」
「こりゃまあ、粋だねえ」
こちらも、笑顔で。
蜂蜜酒。はじめて飲んだが、軽やかでべたつかず、本当に美味しい。
「戦士の角杯、ありがたく頂戴いたします」
作法に習い、とん、と胸を叩いてみせた。
異郷の角杯と心意気。いいものを貰ってしまった。戦士の故郷、アルケンヤール。歩いていける場所であれば、行ってみたいものである。
「捧げぇ、銃っ」
ダンクルベールに促され、連れて行かれた練兵場。ざっ、と音が重なる。銃剣付きの小銃。おお、と声を漏らすほど、整然と。
見やる。ご存知、“錠前屋”だけじゃない。アンリを含めた衛生救護班。ラクロワ。ビアトリクス。ウトマンまで。
号令を掛けていたのは、満面の笑みのゴフだった。
「色々、考えたけどさ。格好つくのはこれしか無かったよ、おやじさん。勘弁してくれ」
「ありがとう。ああ、こいつはいいものをもらった」
「あとさ、ここだけの話だけどよ」
そう言って、ゴフは肩を組んで、小声で。
「ここにいる連中。今日、おやじさんと話すと泣いちゃうかもってやつらなんだ。だからさ。格好つけさせるためにも、声は掛けないでやってくれよ」
言われて、もう一度見渡した。皆、顔を真っ直ぐに上げてはいるものの、震えているもの、瞑目しているもの、涙を流しているものなど。それでも皆、気丈に振る舞っていた。
「あんたは本当に、喧嘩上手の気遣い上手だね」
心底に、嬉しかった。
格好を付けさせるため、直れを出す前に、背を向けた。
「あたしゃあ、ここまで慕われてたんですね」
案内をしてくれていたダンクルベールに、思わずで言ってしまっていた。ダンクルベールは何も言わず、微笑んでいた。
ありがたい限りだ。こうやって、去れることが。
庁舎の入口。青年の影、ひとつ。
「これは、年寄りの繰り言なんですがね」
敬礼を捧げながら、ぼろぼろと涙を流すガブリエリに、並んで。
「道に迷ったら、周りの人に尋ねなさい」
顔を合わせることは、しなかった。
「そうやって、やり直すたびに上手になるもんです。あたしもいつだって、そうだった。そうやってもう一度、歩き方を覚えていく。人と話すこともね」
「はい、准尉殿」
「あたしゃあ、幸せものです。こんな孝行息子ひとり、こさえることができましたもの」
本心だった。
どこへ行くにも着いてきてくれた。何を言っても、聞いてくれた。こんな爺の下らない繰り言だって、金言だと言って、腹に収めてくれた。
本当は、もっといい仕事ができるはず。もっと上に登れたはず。それを蹴ってまで、やりたいと言ったことを、やり続けた。そして、これからも。
「准尉殿」
その声は、震えていなかった。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます、ガブリエリさん」
そうして、そこを後にした。
これからは、はじめての出来事ばっかり。何の心配もないけど、一歩ずつ、一歩ずつ、生きていけばいいかね。
でもまあ、どうしたもんかね。あたしゃ、もう、道に迷ったみたいだよ。でもまあ本当、これの繰り返しだったよね。散々、やったはずなんだけどねえ。
さてと、何からはじめようか。
(つづく)
Reference & Keyword
・タリスカー十年
・ラフロイグ十年
・ジョニー・ウォーカー
・Chuck Rainey
・B's River / Marcus Miller
・ロシア五人組
・黄鶴楼送孟浩然之広陵 / 李白
・Walk / Foo Fighters