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ボドリエール夫人は、生きている

 その叡智に敬意を。その勇気に、称賛を。


 それこそは、あなたが思い描いたもの。あなたが恋い焦がれたもの。そう、私はあなたが思う、ただひとりのもの。


 さあ、しとねを共にしましょう。

 夢ならば、うつつではできないことを楽しむべき。私は鏡。あなたの願望を映し出す、一夜限りの鏡。夢ならば、いつかは忘れる。忘れないためには、体か、あるいは心に刻み込むより他はない。


 求めなさい。あなたの思うものを。


ヴァーヌ正教会チオリエ聖堂、保管

差出人不明の手紙より

1.


 警察隊婦人会たるものについて、話をしなければならない。

 現代社会において、女性の地位役職や選挙権、あるいは参政権は一定の保証がされているものの、未だ中世封建的社会構造を色濃く残す我が国においては、その実、その認知や整備が行き届いているとは言い難く、女性にとっての不自由は、大小さまざま残っている、というのが現状である。

 例えば、国家公務員であり軍隊である国家憲兵隊においては、制度面で言えば、同階級であれ、男性と女性では給料に些かの差はあるし、育児休暇制度、あるいは公営児童養護施設への推薦制度は存在こそすれど、その内容については女性構成員、およびその配偶者を満足させる程度には至っておらず、そのため、その認知度と利用率は著しく低い。

 設備面に目を移しても、組織の長たるセルヴァン少将の慧眼が行き届いた司法警察局、およびその下部組織はともかく、他部署の庁舎における女性用の厠所トイレの設置数、およびその配置場所については、都度都度、女性職員たちから不満の声が上がる程度には、配慮の至らない点が見られる。

 また個々人の認識についても問題は多く、特に名門出身者の、女性に対する価値観、あるいはその存在の捉え方は、未だ中世のそれを引きずっており、それに起因するハラスメント行為は、組織運営を担う面々の頭を大いに悩ますひとつになっている。

 サントアンリことアンリエット・チオリエ特任とくにん伍長のように、ヴァーヌ聖教会に所属している宗教家であれば、その組織の加護、口さがない言い方をするのであれば後ろ盾があるため、やはり中世的な教育を施された名門子弟に対しては大きな効能となりうるが、その場合は正規軍人としての雇用が困難となり、特任とくにん伍長のように、捜査協力、および衛生救護への指南、顧問というかたちでの、特任とくにん士官、あるいは特任とくにん下士官、つまりは非正規雇用という形式を取らざるを得なくなる。

 その上で、現場においては男女平等という大義名分が浸透しているため、目に見えるもの、見えないものを問わず、女性が被る負担は、巨大なものになっている。あるいは外務省のように、その中世封建的社会構造を大いに有効活用して、名門貴族のご夫人、ご令嬢、あるいはご愛妾という肩書を使った、権威と権力の札遊びを楽しめるような組織を除けば、公民を問わず、女性の社会進出とその状態の維持というのは、困難以上のものが存在していると断言していい。

 立ち返って、司法警察局の下部組織である警察隊の支部、および本部は、求める人材は基本的に“たださいあるのみ”であるがゆえに、特に後方支援、各種事務、総務としての雇用は多く、国家憲兵隊の中でも比較的、女性構成員の多い組織である。また各構成員の出身、出自についても多種多様であり、各部署への転属、異動に伴い、男性構成員の配偶者の環境が大きく変化することは、十分に憂慮すべき点である。

 そういった背景から、自然と女性隊員や各隊員の配偶者が手を取り合い、各々の境遇や身の安全を確保し、相互に協力しあうため、蓋然的、あるいは必然的に形成され、組織化されはじめた。これを時の警察隊本部長官であるアドルフ・コンスタンであったり、その薫陶を受けたオーブリー・ダンクルベールによって、組織運営の保証と、幾許かの援助を獲得したことから、警察隊婦人会と銘打たれたそれは、その確固たる地位を獲得した。

 その活動内容については、その沿革とは裏腹に、極めて穏やかであり、会員間の相互交流と慰安、または育児協力が主たるものとなっている。

 中には、その地位と警察隊本部長官の後ろ盾を以て、攻撃的な行動をとるものもあるが、会員の大多数が、それを望まない方針にあることから、そういったものは自然と萎んでいく傾向にある。

 言ってしまえば、ご婦人がたの井戸端会議に権威が備わったようなものであり、であるからこそ、各々にとって、これほど有り難いものは存在しないのである。

 構成員の階級については年齢層ごとであり、これも世代ごとに必要とされるものが異なるがゆえにそうしているだけに過ぎず、上等会員が初等会員を使い走りにする、ないしはいびり散らかすなどというものは存在しない。

 性別あるいは性自認が女性でさえあれば、所属するだけで得をするという組織構造である。

 それを踏まえたうえで、を娶った身であるペルグランは、警察隊婦人会終身名誉会長たるブロスキ男爵夫人シャルロット女史の取り計らいもあり、最愛のインパチエンスを、その初等会員として入会させることにした。そして本当に有り難いことに、各位には諸手を上げて歓迎してもらっており、また、そのひとが経営する“赤いインパチエンス亭”を、今後の主拠点とする声明を発表してくれた。

 もともとは裏社会の人間であり、また遊女出身ということもある。その出自や、婚約にあたってその環境が著しく変化することを、きちんと理解したうえで受け入れてくれた。

 最愛の配偶者に、同性の理解者、そして女友だちほど、いてくれるだけで嬉しいものはない。

 クラリス・インパチエンス=ルージュ・ドゥ・ペルグラン。もと遊女であり、もと女郎酒場の女主人。五歳ほど上の、姉さん女房である。

 長身で、すらりとした細身。豊満ではないものの、その凛とした佇まいは、美貌だとか妖艶だとかではなく、まさしく別嬪さんと呼ぶに相応しい。よくまあこんないい女を捕まえたものだなと、自分でも感心している今日この頃である。

 相当に気位が高く、下に見られるのは大嫌いだが、下から見られる分には大変に弱く、お陰さまで、毎日のように甘やかされていた。とはいえ未だ気の強さは健在であり、以前に遊びに来たルキエが、自分のことをと茶化してみせた際、そう呼んでいいのはあたくしだけでごぜぁんすえ?と氷の微笑みで凄まれていた。後々ちゃんと砕けたが、流石に申し訳なく思い、後で謝りに行った。ルキエもしっかり腰が引けていたらしく、お互いに頭を下げあった次第である。

 まあ諍いとも呼べないが、あったこととしてはそれぐらいで、ラクロワに恍惚とした目で追っかけられていたり、まんまるなドゥストに、料理を頬張ってくれるのがんこいと甘やかし散らかしたりと、色々と仲良くなっているようだ。

 後で聞いた話ではあるが、実はラクロワが自分に淡いものを持っていたらしく、しかし紹介されたのが、ばっちばちの美形だったので、小さな失恋と運命の出会いに、二進にっち三進さっちもいかなくなっているそうだ。来る度、やはり褒められ煽てられ甘やかされ、その小さく華奢な体を抱きしめられ、頬ずりされながら、えらい、えらいと頭を撫でられて、天に召されるような表情を見ていると、何だか悪いことしちまったなあと思う反面、今が幸せそうで何よりだ、とも、思ったりする。

 その頃には昼営業もはじめていた“赤いインパチエンス亭”が主拠点となったことで、お昼に遊びに行くところができたし、何よりアンリに気兼ねなく酌ができると、皆が喜んでいた。

 サントアンリには酒を飲ませてはいけない、という風説がまことしやかに囁かれていたので、まさかあのアンリさんが酒豪か酒乱なのかしら、とも思っていたが、まったくの逆。ワインの二、三杯で、いつぞやのように、口を開けたまま、ぐうすかと寝息を立て、あの可憐な美貌をふやかしながら眠ってしまうのである。

 はじめて見たインパチエンスは驚愕していたが、やはりその無防備すぎる寝顔が、琴線に触れるべくして触れたらしく、眠ったままの聖女さまを抱きしめて頬ずりしたり、その顔を眺めながらウイスキーを傾けていたりした。聖女と呼ばれた人の、こんな寝顔を、公衆の面前で晒すわけにはいかないと、婦人会の方々が風説を流していたようだが、皆も結局、その寝顔が見たかったらしく、おくまさんやラポワント婦長さまあたりまでも、可愛いわねぇ。本当にアンリちゃんよねぇ。と心からの穏やかな微笑みを浮かべていた。

 大抵は一時間もしないうちに目を覚ますが、時たま本当に寝入ってしまうので、その時は愛しのインパチエンスと同じしとねに寝かせて、自分はソファとかで眠るようにしていた。

 また、インパチエンスと服の着せあいっこなどもしているらしく、うちにくるたび、都度、きゃあきゃあ楽しんでいる。以前、かの“細腕ほそうでのアキャール”氏に、あんたはいい女親分になれるよ。と太鼓判を押されていたらしく、輪郭を強調したドレスに、ボリュームのあるガウン、そしてあれの愛用の、夷波唐府いはとうぶごしらえの煙管パイプを持って、それっぽく決めた姿を見せられた時は、正しく向こう傷の女親分であり、見惚れたと同時に、心底に戦慄した。

 救命医療の第一人者であり、熟達の衛生兵である。小柄で細身な印象ではあるが、相当に絞り込まれた筋肉女子であり、特にドレスで輪郭を強調された腹回りのそれは、所帯持ちとはいえ、些かに刺激が強すぎる。

 そういえば一度、シャルロットに連れられて、あのダンクルベールの娘ふたり、リリアーヌさまとキトリーさまにも、あわせてご来店頂いたこともあった。ダンクルベールが男手ひとつで育てていた子どもの頃に、何度となくシャルロットや当時の婦人会の面々に面倒を見てもらっていたらしく、その伝手で婦人会名誉顧問という席についているようだった。

 お二方とも遠方にお住まいということもあり、特に、ほぼすべての初等会員とは顔を合わせるのははじめてだったため、あのおやじの娘がこんなに美人だなんてと、皆で仰天していた。ペルグラン自身、お二方とは何度かお会いしていたが、父親に似て背が高く、その上で、褐色の肌が光り輝き、うねる青鹿毛が空を舞い、目も鼻もばっちりとした、エキゾチックで妖艶なご夫人がたである。砂漠と大河の広がる、北東エルトゥールルの血を引く女性は、右も左もとびきり美人だとは聞いていたが、実際見ると、とんでもないものがある。

 ご結婚おめでとう。あら、本当に綺麗なお嫁さんね。と格別に綺麗なご夫人ふたりに一気に迫られたものだから、あの気の強いインパチエンスですらしどろもどろになっていた。ふたりとも父親に似て気が強く、声が大きいので、場を支配する力が強すぎる。特にリリアーヌは大のボドリエール・ファンでもある情熱的なお方なので、インパチエンスの出自を知るやいなや、目の色を変えて、馴れ初め話だとか、お付き合いをしていたときの話だとか、挙げ句は夜の営みにまでがんがん突っ込んできては、その度に、恬淡としたところの強いキトリーに窘められていた。

 パトリック・リュシアン君を含めたお孫さんにもご来店いただいており、やはり綺麗な褐色の肌と、丸っこく、ぱっちりとした目に、皆で可愛い、可愛いと、大騒ぎした。あのダンクルベールも昔はこうだったのだろうか。どうか母親に似た美丈夫に育ってほしいものである。

 その警察隊婦人会終身名誉会長ことシャルロットであるが、インパチエンスにとってしてみれば、天上のお人であるにも関わらず、本当に心お優しく、まめやかに気を使って下さる、慈母のようなお方である。

 この頃は来る度に、おうちにいても時間ばかりあるものだからと、店の手伝いや給仕、挙句の果てには賄いまで用意して下さるので、下げれるだけの頭を下げている次第だ。ただ、お給仕として店に来てくださる場合、訪れるお客さんが、おやブロスキ男爵夫人では、と腰を抜かしたりするのと、インパチエンスとふたり、がんす、あんす、ごぜあんすを連発するので、本当にここは首都近郊なのかどうかが、わからなくなる。

 これは顔合わせした時にわかったことであるが、インパチエンスと同じく、南東部ご出身とのこと。ご本人は田舎の言葉だからと謙遜しているが、やはり同郷の人間というのは気が楽なのだろう。時折、インパチエンスでも首を傾げるほどの激烈な訛りをお出しくださっている。厳密にはインパチエンスは内陸寄りの、お武家ことば。シャルロットは沿岸部の、港市場いさばのことばらしいのだが、馴染の薄いペルグランとしては、何がどう違うのかはさっぱりである。

 甘え下手なインパチエンスの、甘える練習相手として、色々と身の上話も聞いていただいており、いつぞやの一件の後、行方をくらまそうとした時のことを話した際は、そっとその手をとり、一言。

 つらがんしたね。

 インパチエンス、決壊。人目も憚らず、シャルロットに抱きついて、つらがんした、つらがんしたと、おんおんと声を上げて泣いてしまった。

 そうこうしている内に、奥さまを迎えに来た天下御免そのひとが、かっかと笑いながら、何を泣くことがあるのかね、美しい君よ。今が幸せならば、そのための苦労とも思えば、つらい思いも輝き出すであろう。過去を疎めば、今をも疎まねばならん。それでは面白くなかろう。さあ、顔をお上げ。その美しい顔を見せてご覧。そう、それでいいんだよ。楽しみたまえ。泣いたらその分、笑いたまえよ。そう、呵々大笑して和ませてくださった。

 聞いたところ、お二方とも子どもができにくい体質らしく、ついぞ子宝には恵まれなかったが、その分を、お互いのための時間とすることにしたそうだ。ジスカールの親分ともども、仲人も務めていただいたこともあり、人生の大先輩として大変に尊敬すべきご夫婦である。

 その上で現在、その警察隊婦人会の中で、穏やかならざる風説が話題になっている。それこそは、ただ一文のみ。

 シェラドゥルーガは、生きている。

 老いず死なずの生命力と神域の叡智を持ち、人類種の天敵であり捕食者でもある、超自然的、そして超科学的な脅威。通称を人でなし。あるいは我が国史上最悪とも評される、あのガンズビュール連続殺人事件の犯人でもある。

 傲慢で残忍、尊大で冷酷。今もなお、あの暗闇に陰る第三監獄の最奥に座し、世の影から生命を弄び、脅かす存在。また本人の談によれば、かつては邪教のご神体をも務めていたという、正真正銘の化け物である。

 そしてそれ以前に、パトリシア・ドゥ・ボドリエール。つまりはあの、ボドリエール夫人、その人でもある。

 没落貴族の愛妾という出自でありながら、その処女作“三十二年の赤”をもって颯爽と文壇に躍り出て以降、一時代を築き上げた、未だ知らぬ者がいないほどの大文豪である。鮮烈な愛の描写。心躍る、肉体と心の交わり。あるいは引き裂かれ、決して交わることのないそれを渇望し続ける悲しみの涙。道徳と信仰により、緩やかに抑えつけられていたそれを解放した、甘美なエロスと、情熱的な人生への賛美を、思うがままに綴り続けた著作の数々は、当時の巷を熱狂させ、あの事件を経てもなお、未だ人の心を掴んで離さず、また新たな世代へも受け継がれ続けている。

 またその本人も、比喩、比較することすら憚られるほどの絶世の傾城けいせいであり、当時はその華やかな装束から、ファッションリーダーとしても名が高かった。

 当時、まだ女性の社会進出が一般的でなかったこともあり、彼女の登場は多くの女性の意欲と勇気を駆り立て、様々な分野での活躍を促進したという、女性の社会進出の先駆者という一面も持っていたりもする。

 また文学以外にも精通した、聡明な知識人でもあり、あのダンクルベールの見立ての指南役でもあったりする。ガンズビュール連続殺人事件では、その犯人でありながらダンクルベールの捜査に積極的に協力するという、屈折したと言うべきか、度量が広いと言うべきか。兎にも角にも肝の太さと頼り強さを見せていた。

 その人となりについても未だ慕う人は多く、唯一の随筆集“向日葵ひまわりを眺めながら”では、その華やかな印象とは裏腹な、素朴で静謐とした暮らしを垣間見ることもできる。

 本著で綴られている通り、相当な多趣味でもあり、特にワインへの造詣が深く、あるいは達人級の料理上手、もてなし上手としても有名で、彼女の邸宅へ招かれ、その手ずからの品々を頂戴することは、これ以上ないほどの名誉でもあった。

 ペルグランにとって、今となっては気軽に会える存在のひとつではあるものの、一応は国家機密である。前述の通りの超然的な性質以前に、本人は自身の置かれている立場の一切を理解する気はなく、そこかしこに突如として出現し、堂々と、あるいは飄々と遊んで歩いている。司法警察局や警察隊に面白そうな人物が配属されたと知るやいなや、何の前触れもなく参上し、茶化したり脅かしたりして楽しんでいる、酔狂な人である。

 自身の維持費については、数々の偽名で著作を発表し、いずれも好評を博していることからも余裕があるらしく、まさしく書に親しみ、花鳥風月を愛でるような暮らしを満喫している。

 対してやはり機密の維持という点では相当に面倒であり、ダンクルベールやセルヴァンはとっくに諦めているものの、上位層は今でも真面目に頭を抱えている。一応は王陛下マルテンさまにも話は行っているらしいが、ああ、うちにも似たようなのがいたな、の一言で済まされたらしく、どこの国も大変なんだなあ、と感心すらしたものだった。

「いいんじゃないか?もう。公表しちまえば」

 ことの大事を理解したうえで、ダンクルベールは、諦観と、どうでもよさに満ちた口調で、そう答えた。

「もとよりこの国では、第三監獄に送られたということは、死を意味している。その先の一切は、公表しないからだ。生きてたとして、世間からすれば、きっと俺と同じく、白秋はくしゅうを迎えたであろう、お婆ちゃんだ。今の今更、誰も彼もが腰を抜かすほどに、驚くことでもなかろうて」

「あら失礼だね、我が愛しき人。今も美容と健康に気を使って、あの頃と同じように、この美貌を保ち続けているのだよ?少しは褒めてくれたまえよ」

「ああ、シェラドゥルーガ。今日も綺麗だね。それで、何でお前は俺の家にいるんだ?」

「寂しいんですもの。最近は市井も穏やかだから、お前が会いに来てくれない。己を慰め、涙と愛のしるししとねを湿らす日々にも、うんざりしてきたんだよ?」

「繁殖の必要も、雌雄の概念も無いと言っていたが?」

「そういう不粋を言うのが良くないところだよ、朴念仁」

 相変わらずの惚気と皮肉の応酬である。

 仰る通り、どういうわけか議題の人そのものが、ダンクルベールの隣で腕を組んで並んでいた。あかき瞳のシェラドゥルーガ、その人である。

「警察隊本部の主要な面々には、その存在は公表されています。それにあたり、一筆、書かされておりますし、それを破れば国家機密漏洩に問われることも念を押されております。その上で、夫人の自由気ままな、あるいは軽率な振る舞いについては、些か許容の範囲を越えており、そろそろ真面目に向き合うべき議題ではないかと思い、本日、ご相談にまかり越した次第であります」

「私に自由は無いとでも言いたいのかい?ペルグラン君」

「夫人は虜囚です。もとより自由はありません」

「ひどいなあ。人生は謳歌するために存在するのだよ」

「だったら、ガンズビュールなんかやらなきゃよかったじゃないですか?」

「それはそれ、これはこれ、さ。我が愛しき人と本懐を遂げるには、手段は選んではいられないからね」

 まあ、何を言おうがこの通りになることはわかりきっていた。顎の勝負を挑むだけ、無駄である。

「とはいえ、言う通り、警察隊婦人会にまで知られると、些かに面倒ではある。言うべきことではないことは百も承知の上、どうしてもご婦人というのは、口が軽いからな」

「そこを心配しています。隊員たちはともかく、隊員の配偶者の皆さんにまで知られると、どこまで広がるか想像もできない。これでも一応、国家機密ですから」

「機密は守らねばならん。これは規則であり、規則もまた、守らねばならん。これは軍隊の、あるいは司法の原則だ」

「憲兵隊の資産としての有用性は言うまでもありませんが、問題はリスクのほうが大きすぎるという点ですね。人となりも同様ですが」

「言うようになったじゃないか。またお仕置きが必要か?今度は何処をいじめられたい?おへそ?おしり?それとも?」

「人間社会、あるいは国家の一部としての自覚を持って頂ければ、何をしていただいても、文句は言いませんよ」

「それは御免被ごめんこうむるね。私は人じゃないから、治外法権さ」

「傍若無人が正しいかと」

「あら生意気。嫁の前で、股ぐらに跨ってやろうかしら?」

「やめなさい。見苦しい」

 注意を受けながら、本当に膝の上に腰掛けて、首に両手を回して、その美貌を近づけてきた。

 残念ながら、ペルグランはすでに愛しのインパチエンスに操を立てるどころか、あれの所有物であり、この程度では心が揺らがなくなってしまっていた。本当に、残念なことである。

「それで、どこから足が出たんだ?」

「偽名での著作です。スクリプチェンコ、ゼーマン、ラ・ラ・インサル。スクリプチェンコ名義では、いわゆるハードボイルドものが多いので、気付かれることは無いかと思いますが、ゼーマンとラ・ラ・インサルのふたつ。ゼーマンは淡く儚い恋物語で綴られている、独特の語彙から。ラ・ラ・インサルでは“一輪のしとね”以降、解放されたように並べられる、濃密なエロティシズムから、あるいは、と推測されているようです。ビアトリクス大尉も相当、憂慮されておりました。ああ、スクリプチェンコ名義の新作、“降将と姫君”。買いましたよ。白箭卿はくせんきょうハンズリーク。最高に格好良かったです」

「ありがとう。じゃ、ベーゼで許してあげる」

 そう言って、いつぞや以来に唇を奪われた。ただ、あまり反応が良くないのが不満だったらしく、のそのそと、またダンクルベールの横に座った。幾らか前のヴィジューションでは、これをやられて、相当に恥をかいたものだった。

「でもまあ、繰り返しになるが、知られても今更だしな」

 そこまで言って、ダンクルベールが何かを思いついた顔をした。

「もう一度、ガンズビュールをやればいいんじゃないか?」

 思わず、夫人とふたり、怪訝な表情をした。何をいい出したんだ、このおやじ。また猟奇殺人をやれとでも。

「つまり、著作に“悪戯いたずら”を仕込む。“悪戯いたずら”にたどり着いた連中だけが、会えるようにする。“悪戯いたずら”の答えは、たどり着き、ご褒美がもらえた後でも、言いふらせば痛い目に遭うとかいう、お約束もあったよな?」

 ちょっとした“悪戯いたずら”。

 かつての夫人の著作には、確かに、ちょっとした“悪戯いたずら”が仕込んであって、それを紐解くと、ご褒美がもらえる。ボドリエール・ファンならではの常識である。

 何だかんだ言いつつ、セルヴァンも熱心に取り組んでいたらしく、いくつかの著作の“悪戯いたずら”にたどり着いては、例えば直筆のお手紙だったり、あるいはご自宅にお招きいただいて、たったふたりだけの晩餐会を楽しんだりと、時たま、あの美貌をうっとりさせながら振り返っていた。かの“湖面の月”のそれにはついぞたどり着かなかったらしく、ダンクルベールには、命拾いしたなぁ貴様、と今でも茶化されているが、本人もそれで足一本やらかしているので、お互い様である。

「疑うならば、こちらから仕掛けてみせる。たどり着いたならご褒美をあげる。約束と決まり事は、決して破ってはいけない。“悪戯いたずら”の暗号も警察隊ならではのものにすれば、他の連中はたどり着けまい。あるいは婦人会所属人員については、名簿が都度、提示されているので、それと照らし合わせて、招待客は絞り込める」

「たどり着いたとして、私にどうしろと?」

「めしでも振る舞ってやれ。あるいはベーゼのひとつでも」

 自分で言った言葉に面白くなったのか、ダンクルベールが鼻を鳴らした。

「夢ひとつ、見させてやるのさ。夢なら、そのうち忘れる」

 そう言って、ダンクルベールは、かっかと笑った。

 ペルグランはその顔に、どこか年相応の老いを見たような気がして、そのうち忘れる夢という言葉と合わせて、少し寂しいものを感じた。


2.


 本が一冊、販売された。ただ、それだけのことである。

 それでも市井、あるいは職場は相当な熱気に包まれていた。アンジェーリン・ゼーマン氏の新作、“明かりが灯る頃に”である。

 ゼーマン氏は、かのボドリエール夫人の“静”の精神的後継者と評されるほどの心情描写の妙手であり、ラブロマンスの達人である。“動”の精神的後継者たるラ・ラ・インサル氏と共に、現在の文壇における両翼を担っていると言っても過言ではない。

 特に、警察隊婦人会の面々としては、待ってました、とばかりの時節での発売である。どうやら婦人会の中で、シェラドゥルーガは、生きている。という風説が蔓延っていたらしい。

 歩き回る国家機密ことボドリエール夫人、あるいはシェラドゥルーガではあるが、その存在を知らされているのはごく一部であり、婦人会の面々であれば、数えるぐらいしか面識は無いだろう。大抵は事後にはなるものの、機密保持に関する書類への署名、捺印を求められる程度には重大な機密である。本人のそれに対する理解と認識に関しては、あえて言及はするまい。

 そしてどうやら、その本の中に、求めていたものがあるそうだった。つまりは、ちょっとした“悪戯いたずら”が、である。

「警察隊婦人会の皆、大騒ぎみたいだな」

 さも興味なさげに、隣のペルグランが口笛を吹いていた。

「貴様の悪巧みだろう?今更、あの夫人が“悪戯いたずら”を仕込む理由もない。貴様や長官がけしかけたんだろうさ」

「ばれたか。仕方ないな」

 ガブリエリの言葉に、ペルグランは神妙に白状した。

 まず、ゼーマン氏の正体については、何とはなしに予想していたし、確認も取れていた。

 夫人に、そんなに都合よく、精神的後継者がふたりも出てくるわけはない。から、夫人のフォロワーは山程いたが、ついぞあのボドリエールぶしの域に到達できたのは、あのふたりだけである。

 となれば自然に、ゼーマンとラ・ラ・インサルは、ボドリエール夫人、つまりはシェラドゥルーガ本人である、という予想立ては可能となる。

 ちょうどそのあたりで、夫人が遊びにきたので、確認してみたところ、うきうきと白状してくれた。むしろ作風に応じて名義を変えることができる今のほうが、整理もしやすいし、新聞や雑誌の連載も抱え込まなくていいと笑っていた。やっぱり連載って、大変なのだろうか。

 そのゼーマン名義で、今、“悪戯いたずら”をする必要は、まったく無い。

 以前こそ度重なる捜査妨害、あるいは犯罪教唆を行ってきていたが、都度、ダンクルベール直々の、懇々こんこんとしたにくわえて、あのムッシュ・ラポワントが現役当時の格好のまま大剣担いで乗り込んだのが効いたらしく、この頃はだいぶ落ち着いてきている。またダンクルベールと夫人の関係も、現在、極めてであることから、あえて今、ダンクルベールの逆鱗に触れるような行いはする必要がない。

 となれば、必要に迫られて、ダンクルベール、あるいは副官のペルグランが提案したと考えるのが妥当である。

 ガブリエリと夫人が出会ったのは、任官して二年目あたりだった。ビゴーとかなり昔から面識があり、たまに遊びに来るのだ。やはりあの素朴で柔和な人となりが気に入っており、あにさまと呼んで慕っていた。

 自分に対しては、最初のうちこそ、あらいい男、とからかわれたが、話をしているうちに、なんだか可愛げがない、と不満を漏らして帰っていった。流石にかちんと来たが、後になって、同期のペルグランと比較してとのことだったらしく、まあ、あいつと比べられたらなあ、と納得した。

 ペルグランは、とんでもない美人のご内儀を貰った今でも、皆のおもちゃであることには変わりない。着任当初は不満たらたらのぶうたれ小僧が、現場と人に叩かれるだけ叩かれて、残ったのが純朴さと生意気さだけになったのだから、皆、遊びたくって仕方ないのだ。

 何より夫人の、強制猥褻あるいは性的暴行に等しいセクシュアルハラスメントの数々には、泣かされるほど困っていた。ダンクルベールの眼の前で無理やりファーストキスを奪われ、しかもあまりの濃厚さに、が張り切っちゃったそうだから、可哀想にもほどがある。

 インパチエンスとの逢瀬によりある程度克服したものの、今度はあのサントアンリが親切丁寧にいじめてくるようになったそうだ。予想外である。以前、あの可憐な顔と声で、えっち、だとか、口説いてくれるかと思ってたのに、とか言われたとか、惚気みたいなことを困った顔でぬかしやがったものだから、思わず手が出てしまい、殴り合いの喧嘩に発展した。自分にだって、羨ましいという感情ぐらい、ある。

 その後、両名とも、アンリ直々の手当てとお説教を頂戴し、その上で、じゃあ今度からはガブ君にも遊んでもらおっかな、と耳元で囁いていただいたので、夢ひとつ叶った気分である。入隊当初、彼女の魅力について夜通し語り合ったほどには、アンリさんは憧れのお姉さんなのだ。

「夫人が生きている。それについて、警察隊婦人会の目を欺く、あるいは逸らす必要が出てきた。機密保持の一環だよ。マギー監督からも、ちょくちょく言われてたからね」

「なるほどね。女は口が軽い、といえば角が立つから、口の軽い女はいる、というべきかね」

「前段が余計だよ。その通りではあるのだが」

 ことが公になれば、またガンズビュールか、という恐怖にもなりうるし、国家あるいは国営組織の信用も失墜する。とはいえ、もとより超自然的存在なので、人間のやれることは数少ない。小技と裏技で、なんとか凌ぐくらいだ。

「そういえば、貴様の悪巧みの方はどうなんだよ?」

 精神面で余裕ができてきたのだろう。ペルグランがにやにやしながら尋ねてきた。

「ああ、それがな」

 言われて、どうするべきか悩みつつ、ガブリエリは頭を掻いた。そういえば、これもいずれ、皆に話さなければなるまいことであったのだ。

「不覚をとった」

「はあ?」

「できちまった」

 自分の言葉に、ペルグランは唖然とした表情をしていた。そうしてしばらくして、ことの重大さと、同期の未来、あるいは末路を悟ったのだろう。大笑いで背中を叩いてきた。

 そう、不覚をとってしまったのだ。

 独身寮近くのカフェで働いている女の子と交際をしていた。栗毛の可愛いこだったので、思わず声をかけていた。女友だちのひとりでも作ろうかな、ぐらいの軽い気持ちだったのだが、いつしかちゃんとした恋心となり、結婚を前提に交際することとした。

 ただし、何をするにも、実家が足かせになった。

 何代か前の王族である。名家も名家で、一度嫡子が途絶えたことから玉座から降りたものの、その後すぐに繁栄を取り戻し、一応は自分の家が本家筋になっていた。

 そして自分が、その嫡男にあたる。この仕事を志すのにも、女ひとりを娶るにも、家の体面と面目という言葉がついて回った。親は泣き、親族には足にしがみつかれ、そのうちに先にペルグランが結婚し、正直うんざりしている。あまりの精神疲労から、一度したたかに酔いどれたまま出勤し、散々迷惑をかけてしまったことすらあったものだ。

 そうこうしているうちに、相手も遂に我慢の限界が来たのだろう。いくらか前、女豹の顔で押し倒され、文字通り三日三晩を費やして搾り取られた。

 営み自体は、あれの仮住まいや、非番の際の旅行先などで都度行っており、その際は自分が気を付けていたのだが、今回ばかりはそうもいかず、またどこで身につけたのかも知りたくもないが、相手の手練手管の数々に散々に打ち負かされ、一滴たりともからだの外に出すことなど許してくれなかった。

 出すべきところに出すべきものを出せるだけ出してしまったため、めでたく最高速でご懐妊と相成った次第である。

 当事者としては、不覚云々以前に、よく腹上死しなかったなと、褒めてやりたいぐらいの惨状であった。ただそれも、腹の膨らみが見えはじめた今ですら、耳元で、またやろうね、と蠱惑の囁きをしてくるのだから、あるいは時間の問題かもしれない。

「焦らしすぎちまったらしい。押し倒されたよ。本当、女というものは、恐ろしいな」

「甲斐性無しに年貢の取り立てか。おめでとう、馬鹿野郎。それで、どうするんだよ?」

「ありがとう、馬鹿野郎。それについては、奸計ひとつ実施中だ。うちより家格は高いが相続権のない男を婿に入れて、末妹にあてがう。私はお家騒動に負けたことにして廃嫡。あのこの元に転がり込むって寸法だ。いいだろ?」

 これこそが、稀代の謀略家、アルシェと相談して進めていた本筋であり、最終手段である。

 現王朝の血筋において、傍系に、十数歳程度の三男坊を抱えた家があるらしい。ここが諸々の事情で、王陛下の覚えがめでたくなく、上手く立ち回れていないようなので、幾らか強めの後ろ盾が欲しいとのお考えのようだった。

 血筋と家格、権威においては文句がないところが、我が家唯一の取り柄である。そろそろ末妹も嫁ぎ先を、と考えていたので、じゃあ婿に貰っちまえとそそのかしたのだ。現王朝との繋がりもできて家格と血筋も上がるし、現王朝の面目を立てるという大義名分で自分を廃嫡すれば、親不孝者の自分とも繋がりが切れる。

 実家側は、王家にすり寄ったと顰蹙ひんしゅくを買うこともありうるが、どの勢力にも肩入れしたがらない現王朝としては、もと王家の本家筋とあらば、些かの文句もあるまい。馴染の薄いこちらで、三大勢力にはほぼ影響なく、後ろ盾だけが強くなるかたちだ。後は自分が新聞屋の前で涙ひとつでもこぼせば、市井の理解はもらえるはずだ。

 正式な婚約発表は、諸々が落ち着いてからになるだろうが、ひとまず本懐を遂げる目処は立ったというわけだ。

 いずれは実家の家名を使った立ち回りをも視野に入れていたであろうダンクルベールやウトマンには本当に申し訳ないが、まずは自分の人生をどう幸せにしていくかを考えていかねばなるまい。ちょうど、これからその二名に、ことの説明と謝罪を申し入れに行くところだった。

「これで晴れて、私はレオナルド・オリヴィエーロ・デ・ガブリエリ、あらため、レオナール・ガブリエル・トルイユさ。相変わらず、ガブリエリと呼んでくれたまえ」

も同じようなものか。よろしく、ガブリエリ」

 そう、ふたりで笑いあった。

 同期ふたり、人生の目処が立った。あとはラクロワだが、もともとあれの面倒を見ていたペルグランに淡いものを抱いていたこともあり、今のところ浮いた話がない。大丈夫だろうか。マレンツィオおじさんあたりに工面してもらうよう、準備だけでもしておくことにしよう。当初は自分も面倒をみていたのだが、逆に他の女性隊員からやっかみをくらったため、やむなく手を引いていた。今度は、自分が格好をつけたっていいだろう。

「報告内容については、まずはよし。対応内容についても、アルシェの策ともあれば、問題はなかるまい」

 さて、本部長官執務室に訪いを入れ、あのダンクルベールとウトマンの前で、先の件を報告した。

 ふたりとも、今のところ表情は険しい。

「ただし、ひとつ叱っておくべき点がある」

 語気を荒げ、ダンクルベールが立ち上がる。ずい、と褐色の巨躯が目の前に迫った。

 剃り上げた禿頭。顔半分を覆う、短く刈り揃えた白い髭。そしてすべてを見透かす、夜の海を思わせるような、深い青の瞳。

 思わず、震え上がりそうになった。

 歴戦の捜査官。熟達の指揮官。ガンズビュールの英雄にして、勲功爵“霹靂卿へきれききょう”である。目は穏やかだが、どんなが飛んでくるか、心の底が震え上がった。

 ため息ひとつ。ぽん、と肩に手を置いてきた。

「女に恥をかかせるようなことは、するんじゃないぞ」

 笑っていた。

 それで、急に体の力が抜けていった。

「結婚おめでとう。そしてご内儀のご懐妊も、おめでとう」

 温かい声。

「ありがとう、ございます」

 言われて、大粒の涙が溢れてきた。

「はは。怒られると思って、気を張っていたか。むしろ怒るべき部分など何もない。つらい中、よくがんばったよ」

「本当に、大変でした。ようやく、目処が、つきました」

「少尉は、雁字搦めでしたからねえ。ご苦労でした」

 着席を促され、そのまま、えぐえぐと泣いた。ふたりとも、笑って慰め、そして祝ってくれた。

 ここまで、長かった。本当に、長かった。

 そこからしばらく、身の上話をした。家のことや、相手のこと。それと、人生の先輩である、ふたりのこと。

「俺の下の娘も、旦那が意気地がないと憤慨して、押し倒してにしていた。そういうこともあるさ。ふたり目はちゃんと、お前が格好をつけなさい。それで、帳尻はとれる」

「ありましたねぇ、そんな話。リリィちゃんはともかく、キティちゃんがそれをするとは思いませなんだ」

「ウトマン少佐殿も、娘御さまとはお知り合いですか?」

「まあ、長らく副官を務めさせていただいたものでね。何度も家にはお邪魔させてもらっているよ。今はふたりともお母さんだ。ロマンチストのリリィちゃんと、ドライなキティちゃん。ふたりとも可愛いけれど、怒ると本当におっかない。リリィちゃんは感情任せで、キティちゃんが理詰めだ」

「男手ひとつで育てたのが、色々と仇に出た。きっぱり性格がわかれている。あいつらが喧嘩すると、まあ長いんだよ」

「親というのは、大変なのですね」

「そう。本当に、大変だ。かまえて覚えておきなさい。人を愛するということ。人を育てるということ。これは本当に大切で、本当に大変なことだ。最初のうちは、わからないことばかりだろうから、どんどん人に頼りなさい。そして一切、疎かにしてはいけないよ。それは後々、子どもが大人になった時に、自分に返ってくるものだからな」

「委細承知いたしました。肝に銘じます」

「お前のいいところは、素直で真っ直ぐなところだ。人の話をよく聞き、人とよく話せる。人に頼られる人だ。だから次は、人に頼ることを覚えること。仕事のことだけじゃない。それだけで人生は、幾分か、楽になるんだよ」

 ダンクルベールの言葉は、含蓄の塊だった。

 親戚のマレンツィオから、ダンクルベールという人は、並の人間の五倍程度の苦労をして、今の地位に座っている人間だと聞いていた。出自も仕事も、私生活においても、気が休まるところがない人生を歩んできた男だと。学べるものしかないから、目を離さず、聞き漏らすなと教えられた。

 貧民の出。奉公先の三男坊、飲兵衛のんべの殿さまことアドルフ・コンスタンに引っ張られて士官学校入り。中尉以降はほぼ功績での昇進。怪盗メタモーフ事件、そしてガンズビュール連続殺人事件で活躍した褐色の巨才。

 しかし、良家のご令嬢との結婚生活は、妻の不貞により破綻し、その妻はガンズビュールの直前に、不倫相手と一緒に水死体で見つかった。そこからは男手ひとつで娘ふたりを育て上げ、嫁がせた。ガンズビュール事件の際、あの夫人の抵抗にあい、左足に障害が残るほどの重症を負い、以降は杖をついてでも現場に出続けた。

 厳粛ながら寛大でもあり、市井からはダンクルベールのお殿さまと呼ばれ、恐れられ、また敬われている。

 自分の上に立っている人は、そういう人だった。努力と実力でここにいる。ダンクルベールとは、そういう人なのだ。それに手を差し伸べ、あるいは手を貸し、背中を支えてきた人たちとともに。

 心からの尊敬と、羨望があった。自分にはできないことを積み上げ、成し遂げてきた。自分が枷と思っていたものすらをも羨み、それでも妬むこともせず、やり遂げた。

 ダンクルベール。ウトマン。ビゴー。そういう人たちだった。

「私は、長官たちのようになりたいです。だけど、なれないだろう、という、よくわからない諦めがあります」

 心のものが、声に出ていた。

「お前はガブリエリだ。俺じゃない。だから、それでいい」

「それは、どう捉えればいいのでしょうか?」

「アプローチが違う、というだけの話だ。俺は、俺の人生のやり方しか知らん。ウトマンがいくらか境遇は近いとはいえ、やはりウトマンのやり方でここまで来た。先輩、いや、ビゴー准尉も同じ。だから、人それぞれ、歩む道は異なる」

「そこまでは、わかります」

「そこまでわかっていれば、それでいい。その先を悩む必要は、実はあんまり、なかったりする」

 そう言って、ダンクルベールはにっこりと笑った。

「先の分かっている道を行くだけの旅行に、面白さはなかろう?下手な例えだが、そういうことさ」

 それで、何となく分かった気がした。思わず、笑ってしまった。そうして、みんなで笑った。

「そうだ。先輩には、話をしたか?」

「いえ、まだです。まずは長官にと」

「馬鹿者っ」

 いきなり、怒鳴られた。びくりとした。

 ダンクルベールはそれでも、笑顔だった。

「一番、世話になっている人に、一番、先に言うべき話だろうが。まったく、頭の回らんやつだな」

 そう言って、大笑いした。

 そうだ。一番、お世話になっている人。思わず立ち上がっていた。

「仰るとおりであります。これから、行って参ります」

 敬礼ひとつ、急いで扉に向かった。

「ガブリエリ」

 ダンクルベールの声。

「先輩は、厳しいぞ。気を付けてやりなさい」

 笑っていた。だから、笑い返した。

 それは一番、知っていたことだった。


3.


 却下。それだけ、伝えた。

 司法警察局の情報解析室、そこの捜査協力が欲しいという話だった。警察隊本部の女性士官。ビアトリクス大尉、ラクロワ少尉、新任少尉のシャルチエとクララックの四名。いわゆる、警察隊婦人会所属の面々だ。

 ラブロマンスの名手、アンジェーリン・ゼーマン氏と、あのボドリエール夫人が同一人物である可能性がある、という話だった。まずは警察隊本部長官ダンクルベールと話をしたのだが、取り合ってもらえず、司法警察局局長たるセルヴァンのところに直談判しに来た、というわけだ。

「ボドリエール夫人ことパトリシア・ドゥ・ボドリエールは、ガンズビュール連続殺人事件の犯人として身柄確保される際に抵抗し、その際、現在の警察隊本部長官であるオーブリー・ダンクルベールが応戦し、意識不明の重体となった。その状態で病院に搬送された三日後に、死亡が確認されている。事実として、公式文書として、そうなっている」

「しかし、複数名の作家がその存在を確認できておらず、またその著作の性質から、あるいは彼らこそがボドリエール夫人そのひとではないかという風説があります」

 ビアトリクス大尉。三十代半ば、既婚。捜査官としては概ね優秀だが、それ以上に現場指揮官としては逸材中の逸材。ただ些か感情に流されやすく、視野狭窄に陥りやすい。

「風説は風説に過ぎん。通したいなら、根拠が欲しい」

「アンジェーリン・ゼーマン氏の新作、“明かりが灯る頃に”において、ボドリエール夫人の言を借りるところの“悪戯いたずら”に該当する、ある種の暗号が仕込まれていることが確認できました。現在、解析中ですが、あるいは第二のガンズビュール事件に繋がるおそれがあります」

 ラクロワ少尉。小声、弱気。しかし後方支援に長けた才媛。司法警察局としても欲しい人材であり、中。もうひと息で花が咲く、というところだろうか。

「惜しいな。解析が済んでいれば、通せたところだ」

 ひとしきりの意見を聞いて、セルヴァンは席を立った。

「そもそもアンジェーリン・ゼーマン氏は男性だよ。彼の出身地では、男性と女性で、名や姓の呼称が異なる。女であれば、例えばアンゲーリカ・ゼマノヴァーになるはずだ」

「ですが、ペンネームという可能性も」

「私は一度、お会いしたことがある。前作の出版にあたり、こちらにご来訪なさった。ゼーマン氏は男性だ」

 一気に割って入った。存在を確認できていない存在と会ったことがある。これならば、ぐうの音も出まい。

 ビアトリクス以外、顔が曇った。このあたりでいいだろう。席に戻り、もう一度、全員の顔を見回した。

「仕事に戻りたまえ。平時で気が浮ついているか、持て余しているかしているだけだ。適度に忙しくなければ、余計な考えが思い浮かぶのも、よくあることだ。大したことではないので問題にはすまい。以降は気を付けること。以上だ」

 一様に、小声で返答し、退室していった。

 少し落ち着いてから、副官が珈琲コーヒーを淹れて、差し出してくれた。淹れ加減がちょうどよく、香り高い。人が変わるだけで、これほどに味と香りに変化が出るものなのだろうか。

「これでよろしいかね?シェラドゥルーガ君」

 その言葉に、半歩後ろで控えていた副官が、深めに被っていた軍帽を脱いだ。鮮やかなあかが燃え広がる。

 絶世の美貌。そして心に突き刺さるような、あかき瞳。

 シェラドゥルーガ。

「よろしゅうございますわ。セルヴァン局長閣下のお手を煩わせたこと、改めて、お詫び申し上げます」

 半歩後ろに控えたまま、きっと美しい所作で一礼した。あえて、ここまでの動きには目をくれなかった。そういう動きだろうというのは、何とはなしに感じることはできた。

「そいつはどうも。私やダンクルベールはとっくに諦めてはいるものの、機密の保持というのは重要なことだ。機密そのものであるご本人が、その認識に気付いていただけたというだけ、そのご厚意に感謝を申し上げるよ」

「認識はしているし、その重要性についても理解はしている。守るつもりも義理もないというだけだよ」

「一番、厄介だな」

 応接席の方に促す。おたがい、正面に腰掛けた。

 事前に、ダンクルベールと、副官のペルグランに相談を持ちかけられていた。

 ボドリエール夫人ことシェラドゥルーガの存在について、警察隊婦人会の面々が勘ぐりはじめている。死んだ。いない。それではもう、通用しない。いっそ“悪戯いたずら”をもって迎え撃ち、追い払う。あるいはたどり着いたなら、ご褒美として、それらしく仄めかす程度で終わらせる。つまり、夢を見せるということらしい。

 これを知る誰もがそう思っているだろうが、一応は国家機密の存在だ。本人はそんなこと知ったことではないだろうが、組織を運営するにあたっては、そういう面倒も考慮すべきではある。まして警察隊婦人会は、女性隊員だけでなく、男性隊員の配偶者、つまりは一般人も所属している組織である。

 機密の漏洩は、避けなければならない。

 これもすべて、当人が大人しくしていれば、何の問題もないことである。言うて詮無せんなきことなれど、というやつだ。

 この小手先の策については、シェラドゥルーガ本人も了承の上、アンジェーリン・ゼーマンという、もともと使っていた偽名での著作にて、今回、“悪戯いたずら”を用意した次第とのことだった。もともと話自体は組み上がっており、後は推敲という段階だったそうで、そのついでに仕込んだという。久しぶりにやるので骨が折れるとは言いつつ、手並みは見事だ。

 シェラドゥルーガの執筆活動については、黙認している。

 第三監獄の囚人たちは、政争で追いやられた貴族、思想犯、政治犯、あるいは凶悪犯で構成されており、特に貴族層については、明日の生命が保証されていない他の分類とは異なり、自分の食い扶持は自分で用意しなさい、というのが原則である。内職するなり、実家から送ってもらうなり、財産を切り崩すなりして、なんとか昔の栄華を保っている。保てなければ、シェラドゥルーガの夕餉になるだけだ。

 そのうえで、シェラドゥルーガ自体の維持費についても、貴族層同様、自給自足ということにしていた。

 もとより天才的な作家であり、翻訳家である。収監直後から、あっという間に四、五作の作品を手掛け、さっさと生活資金を確保していた。紙とペンさえあれば、生活の工面なんて苦もないのだろう。金勘定や、著作の権利関係の管理についても非常に丁寧であり、実のところ、国家憲兵隊としての金銭的負担はまったく無く、むしろ収益にすらなっている。

 特に食費管理は見事の一言。近隣市場に出入りしている各種生産者と直接契約を結び、規格外品や売れ残り、値段のつかないものを買い取っては、常備菜から保存食、あるいはフルコース並みのご馳走まで拵えてしまう。いつの間にか、実家の領土内の酪農家とも契約していた。ありがたい話である。

 とはいえ、基本的には毎食、一汁一菜程度であり、“向日葵ひまわりを眺めながら”に綴られた通り、素朴で慎ましやかな食卓だ。ワインに造詣が深いとは言え、人に振る舞うのは気兼ねないものが多く、自身で消費する分も、いわゆる費用対効果の高いものを選ぶ傾向にあり、その中で食事の内容に合わせて、適宜最適な組み合わせマリアージュをしてみせる。勿論、ヴィンテージ、オールドなども買い揃えるが、よほど余裕ができた時ぐらいで、コレクションの意味合いが強かった。

 蔵書に関しても、翻訳関係や作家活動としての資料文献を除けば、基本的には中古品や古書の類を中心に揃えるため、さしてかかるわけでもない。

 あるとすれば各種家具類や、化粧品や香水、各種装飾品ぐらいだが、もとより多芸多趣味の人である。自分で使う分は自分で作るぐらいはやってのけるので、たまに奮発して家具を新調する程度だ。

 三室ぶち抜きのあの独房が、ひとつの書庫でもあるため、火災の可能性のある暖炉は置かず、お気に入りの可愛らしいストーブひとつで暖を取っていた。冬の間は、食事もそれで作ってしまう。まめやかだからこそ、横着するのが好きらしい。

「まあこの新作、“明かりが灯る頃に”だが、かなり好評なご様子だね。私も家族も、全員で一冊ずつ買い込んで、何度も読み込んでいるよ。概ね、最高傑作だ。大人から子どもまで読みやすい語彙や表現の幅だし、展開がなにより美しい。ペルグラン中尉の提言が無ければ、“悪戯いたずら”が仕込まれていることになんか、気付きもしなかっただろう」

「お褒めに預かり光栄ですわ。苦労した甲斐があったよ」

「意図としては、ガンズビュールと同じく、狙い撃ち。まあ、疑っている連中まとめて、ゼーマン名義のお手紙で、はい残念、で済ませる程度の認識でよろしいかな?」

「おや、見損なってくれるじゃない。もうちょっとは夢を見させるよ。贈り物程度はするつもりさ?また、貴方の大切な人材を奪うつもりもないので、安心してくれたまえよ」

「そうかい。なら私も少し、頑張ってみようかね」

「あら。貴方に頑張っていただけるのなら、ご褒美に、温かいしとねをご用意して、お待ちしておりますわよ」

 見やると、意地悪そうな笑みを浮かべていた。

「おや、ダブル不倫は、良くないんじゃないかな?」

「体だけの関係であれば、構わないでしょう?この私が相手ならば、ご内儀さまも納得していただけるでしょうよ」

「体を許せば、心も許してしまうものだよ。男は、特にね」

「あら素敵。本当にご愛妾として、お側に控えさせていただきたいほどだわ。朱夏しゅかも半ばに差し掛かり、ますます男に磨きがかかっているご様子でしてよ。セルヴァン閣下」

「中身が伴わなければ何の意味もない。衰える一方だ」

 そこまでやりとりしたまでだった。

 頭に、何かが走った。知っている痛みと、寒気。吐き気も込み上がってきた。心拍と同時に、痛みが来る。

 急いで、忍ばせていたものを、口に放り込んだ。珈琲コーヒーで流し込む。ぬるま湯か水で飲むことと言われているが、そんな余裕はなかった。どうせ効き目が出るまで、幾らかの時間はかかるものだ。

「もしかして、ご病気?」

 シェラドゥルーガが、急いで近寄ってきた。表情が曇っている。本心から、心配してくれているのか。

「大丈夫。気にかけてくれるな」

 痛みはまだ、走っている。それでも、気の持ちようで抑えることは可能だった。

 異変を感じたのは、二月ほど前だったと記憶している。

「頭痛がするようになった。あとは吐き気。肩とか、背中のこわばりも感じる。ムッシュにはりをしてもらうようになってからは、だいぶ楽にはなってきたのだが、どうにも」

「駄目よ。ちゃんと養生しなくちゃ。頭の血管が詰まって、脳が壊れるやつかもしれない。私はいや。体も動かせなくなった貴方を看取り、喰べることなんて、したくない」

 頬に差し伸べられた手は、温かかった。嬉しさと、懐かしさを覚えるほどに。

 信用ができない存在だと、ずっと思っていた。

 国家憲兵隊司法警察局次長に就任しての、はじめての案件。ガンズビュール連続殺人事件。その犯人だった。手口の残虐さ、巧妙さ、そして誰が狙われるかわからない恐怖に晒されながら、心を乱しながらも、あらがい続け、生き延びた。

 すべては、あの褐色の巨才、ダンクルベールという捜査官の手腕によるものであり、自分はもとより、その背中を預かり、守ることだけしかできなかった。

 あのボドリエール夫人が、まさか。それも人知の及ばぬ暗黒の存在、人でなし。殺しても死なず、囚われていても誰よりも自由であり、人間の道徳や倫理など一切通用しない、お伽噺の中の存在。あるいは、シェラドゥルーガそのもの。

 だから、信用できなかった。信用できなくなった。無論、自分やダンクルベールの立場もあるが、心を許したら最後、取り込まれるか、虜にされるか、どうなるかわからない。ダンクルベールはあれと相対する頭脳と度量を持っていたが、自分はそれを備えていなかった。だからずっと、恐怖と闘い続けていた。

 それ以上に、ずっと恋焦がれていた、憧れの人だった。

 最初は、書として出会った。目の前がひらかれた。色とりどりの世界が広がっていた。それを与えてくれた人。

 そしてふと、その文章の中に、どこか引っかかる部分がいくつかあることに気づいた。それを並べていき、ある法則を持って組み替えるなどをすると、ひとつの住所と、合言葉が出てきた。おそるおそる、手紙を送った。

 返ってきたのは、夫人直筆の、感謝と愛を伝える手紙だった。とても甘い香りのする封筒。流麗な文字で綴られた、自分の名前。

 夫人は実在し、交流ができる存在なのだと知って、歓喜に打ち震えた。

 人として出会ったのは、それを続けていくうちに、手紙ではなく、招待状が届いた時だった。

 その時にはすでに、家が定めた相手と結婚していた。それでもどうにかして、訪いを入れた。

 思い描いていたままのひとが、そこにいた。パトリシア・ドゥ・ボドリエール。美しい人だった。優しく、気品に溢れた、理想的な女性だった。

 ふたりだけの晩餐会。自分がどれだけそのひとの著作を愛しているか、どれだけそのひとを愛しているかを、熱心に伝えた。その度にあのひとは、感謝と愛を伝えてくれた。嬉しかった。

 ただ同時に、そこから先には踏み込めないのだという、確信も得てしまった。夫人は聖域だった。そして、偶像でもあった。自分のものにはできない。

 それでも、愛を、想いを、伝えることはできた。

 恐るべきシェラドゥルーガである前に、彼女は、自分にとっては、パトリシア・ドゥ・ボドリエールだったのだ。

 シェラドゥルーガはきっと、今も燻る自分の恋慕には気づいているのだろう。尊大で超然的だが、どこか敬愛をもって接してくれたのが、嬉しく、そして、後ろめたかった。

「まだ、やるべきことが山ほどある。あれの背中を支えるのもそうだが、それ以外にも。私はこの国家の、この組織の骨として、やらねばならないことがある。支える骨が整うまでは、倒れることはない。矜持だけでも、心の臓は動かせる」

「大変なお覚悟ですこと。でもね、人間は肉体のいきもの。それを疎かにすれば、矜持も意地も、いずれ肉体に愛想を尽かされる。気持ちはわかるけれど、休息は何よりも肝要よ」

 言うやいなや、ぱっと副官姿に戻り、部屋を出ていった。しばらくして、いい香りのする飲み物を携えて戻ってきた。

「はい。まずは、体を温めて、血行を良くすること。後は運動して、筋肉を解すのも大事」

 紅茶に、蜂蜜と生姜を溶かしたもの。

 受け取る。口に含んだだけで、穏やかな気持になれた。

「ありがとう。感謝するよ」

 シェラドゥルーガがおもむろに、自分の後ろに立った。その細い指が、両肩に乗せられた。些かの力が加えられる。たったそれを繰り返されただけで、気分も、頭痛も、幾分か和らぎを見せはじめた。

「貴方がいたからこそ、我が愛しき人は私を捕まえることができた。返せる分の恩は、返したいわ」

「随分、屈折した感情だね」

「出会いに感謝しているだけよ。我が愛しき人にも、そして貴方にも」

 出会いに感謝。言われて、ふと、思い返していた。

 名家とは名ばかりの、地方豪族の次男坊。それが成り行きとはいえ、国家憲兵隊の重役となり、四十手前で閣下と呼ばれる身の上となった。部下や友だちにも恵まれた。その上、こうやって、心から恋焦がれ、憧れたひとに淹れてもらった茶を堪能しながら、肩や首を揉んでもらうような身になるとは、思ってもいなかった。

 そうだ。私は、幸せものだったのだな。

あかい瞳の貴女に、これを言うのは、はじめてだったかもね」

 出逢いに、感謝をするべき時というのは、必ずある。

「愛している。シェラドゥルーガ、そして、パトリシア」

「嬉しい。私も、愛している。ジルベール」

 本心を。言うべきことを、ようやく言えた。そしてきっと本心が、返ってきた。

 軽く、唇を重ねていた。穏やかな、優しい笑みだった。


4.


 膠着していた。

 本日祝日のため、最低限の人員以外は、休暇である。揃っているのは、ビアトリクス。ラクロワ。シャルチエ。クララック。ルキエ。それと、男性隊員の奥さまが三名。あとは自分と、“赤いインパチエンス亭”の面々である。

 祝日という掻き入れ時なのに、貸切にしてでも場を提供してもらっている。インパチエンスは、あまり忙しくないほうがいいとは言っていたものの、ちゃんと渡すべきものは渡していた。

 ご亭主のペルグランは、ワインの問屋さんに行っているらしい。好みのワインが、流通量と価格が安定しはじめたので、この店で出せるか検討中だそうだ。舶来品の安酒で、一度飲ませてもらったが、甘く軽やかで美味しかった。度数も低いらしく、これならあるいは自分もと、期待大である。

 現在、見つけた“悪戯いたずら”は三つ。共通項は無い。

 情報解析室の協力は、取り付けられなかった。ボドリエール夫人が生きているのでは、というお題目を掲げて、ダンクルベールやセルヴァンに直談判に行ったものの、軽くあしらわれたそうだ。

 アンリとしては、ゼーマンとボドリエール夫人、つまりシェラドゥルーガが同一人物であることは、文通を通じて既に知っていたので、本件については、付き合いのつもりである。

 夫人の腹積もりも、何となく見えている。というより、これはきっと、ペルグランやダンクルベールの妙案だろう。

 世間一般では、夫人は既に亡くなっていて、ゼーマンやラ・ラ・インサルは、その精神的後継者である、というのが論調である。対して警察隊婦人会は、ゼーマンやラ・ラ・インサルが、あるいはボドリエール夫人と同一人物ではないか、と疑いを持っていた。

 まあ大正解なのだが、それでは不都合が起きる。あの人、一応は国家機密だ。そのあたりを、この“赤いインパチエンス亭”のご主人でもあるペルグランが憂慮して、その疑念を晴らすため、ただ、言葉で伝えたところでどうにもならないだろうから、じゃあひとつ一計を以て迎え討ってやろう、というところだろうか。夫人に、あえて“悪戯いたずら”を仕込ませて、我々が解き明かしたところで、ゼーマン名義のお手紙一通、残念でした、ぐらいで終わらせるつもりのはずだ。

 インパチエンス含め、当店の面々は夫人とは会っているようだ。ペルグラン曰く、たまに嫁いびりに来るらしく、丁々発止のやり取りをしては、最後にはお決まりのように、これ飲んだら帰りやがれ、とばかりに差し出される、インパチエンス渾身のカクテルを頂戴して、満足した様子で帰っていくらしい。またインパチエンス本人も、著作は読みはすれどファンではないので、あくまで場を提供しているだけに留まっている。

 議論の輪に入っているビアトリクスも面識はあるはずだが、お目付け役か、あるいはあえて、挑戦しているのか。

 というわけで、アンリは適度に口を挟みつつ、インパチエンスのカクテルに舌鼓を打つ方に神経を傾けることにしていた。アルコールの入っていないカクテルというのも相当数あるようで、これなら自分でも気分以上を味わえる。

「テーマが分からない。これが問題よね」

 険しい顔をしたビアトリクスが呟いた。仕事熱心な家事下手という、まさしく絵に描いたような女軍警。ダンクルベールの一番弟子とも称されるが、家庭で大変な思いをしたダンクルベールとしては、その私生活を大変に憂慮しており、事あるごとに優しく窘めてはいるものの、改善の様子は見られない。

「偶然で見つけたのが“目移りしないで”、その後に“信頼”と続いたので、花言葉かとも思ったのですが、次が“素描”です。一貫性は、確かにありません」

 ラクロワ少尉。かっこいい女性に憧れを持つ、素朴で可愛らしい女の子。ペルグランに淡いものを持っていたが、彼の入籍により失恋。ちょうどその頃、あの悪入道あくにゅうどう、ジスカールの親分が絡んだ仕事があり、その際、心中を吐露。ジスカールはペルグラン夫妻の後押しをした手前、申し訳ないと、として、こそこそと良縁を探しているようだった。本当に律儀な御仁である。

「そもそも、これが“悪戯いたずら”なのかどうか、そいつも確信が持てないのが正直なところだね。ボドリエール夫人の過去の著作の法則性には則ってはいるものの、偶然ってこともありうるだろ?ちょっと見切り発車な気もするよ」

 ルキエ伍長。ご存知、“錠前屋じょうまえや”下士官。同い年の大親友。男勝りの毒舌家だが、本を貸して以降は恋愛小説に没頭。ボドリエール・ファンでもあり、“静”派。友達以上恋人未満のひとがいて、背中を押すつもりで女を見せたが進展せず。本当に意気地なし。いっそ私が全部、貰っちまおうかな。よし。今度、押し倒そう。

「前提の確認からはじめるのは、どうでしょうか?今、“悪戯いたずら”を仕込んだことについて、何らかの目的があるはずです」

 シャルチエ新任少尉。警察隊本部としては久々の新人。ダンクルベールのお殿さまに憧れての入隊。気性や素質の面から、まずは捜査二課でビアトリクスに基礎を作ってもらうとのこと。早速、懐いていて、どこへいくのにも付いていく姿が、多忙に荒むウトマンの心の癒しになっている。

「“悪戯いたずら”の先に何があるのかも、憂慮すべきかと思います。本当に第二のガンズビュールであれば、踏み込むのは危ない。一度市井に、同じく“悪戯いたずら”を見抜いたものがいるかどうか、確認を取ってみるのもいいかもしれません」

 クララック新任少尉。同じく新人。推理小説が大好きで、自分でも書いているほど。かの名探偵ポワソン氏の著作の大ファンでもあったが、知識と現場のギャップに戸惑い、また氏の現在の凋落ぶりについて、大いに肩を落としていた。一方で凋落の原因となったペルグランには心をときめかせている。

 この通り、議論は進んでいない。

「アンリ。助け舟、出したほうがいいんじゃないの?」

 店員のひとり。淡い紫のカンパニュールが、小声で。

 シニヨンで纏めた艷やかな黒鹿毛。たおやかな雰囲気に、泣きぼくろまで備えた大人のお姉さんだが、実は同い年。だからすぐに砕けた。豊満な肢体が羨ましすぎて、たまに揉む。

「大丈夫だよ。ああやって、頭抱えるのが楽しくてやってるんだから」

「そう?そうならいいんだけど。私も謎解きとかミステリとか好きだから、ひとりでやってはみてるんだけど、やっぱり見つけたのは三つまでだったなあ」

「単純にお話として綺麗で面白いから、それまでで終わっちゃった。私はラ・ラ・インサルのほうが好みかな。アンリねえもそうだもんね」

 明るい黄のコロニラ。金髪に日焼けした肌で、シャルチエたちと同じぐらいの歳の、底抜けに明るい女の子。誰にでもすぐに懐き、胸襟を開かせる脅威の妹力いもうとりょくを備える。外見から声、所作の一挙手一投足まで、すべてが賑やかで愛くるしい。

「まあ、確かにラ・ラ・インサルかなあ。私は“動”のほうが好きだから。最近、フォロワーさんも増えてきて、書棚が足りなくなってきちゃったんだ」

義姉ねえさまは本当に、お本が大好きであんすねえ。あたくしどうも、不得意であんして」

 そして鮮やかな赤、女主人インパチエンス。南東訛りの別嬪さん。甘やかし上手の褒め上手だが、甘やかされるのも褒められるのも大下手。こちらから抱きしめた時のむず痒そうな顔が、たまらなく可愛い。ピアス愛好家であり、耳どころか臍や舌にまで入れているが、舌はペルグランの要望でやめたそうだ。何だよ、要望って。ちょっと、えっちじゃんか。

 本日は貸し切りということで、三人とも、お召し物もギャルソンスタイルに初挑戦。今後のための実験ということである。

 ブラウスにシングルのジレ、フレアしたスラックスにヒールの高いパンプス。肉付きの良さから倒錯したものを感じさせるカンパニュールや、着崩したブラウスが闊達さを印象付けるコロニラと、三者三様の魅力があるが、やはり長身で細身のインパチエンスは中性的な色香が凄まじい。

「姉さんが読んでる本のほうが、ずっと難しいわよ?簿記とか経営とか」

「てか姉さんと私たちで、本の読み方っていうか、読む目的が違うもんね。姉さんは勉強だもん。ボドリエール夫人の本も、色んなところに注釈入れててさあ」

 カンパニュールとコロニラが揃ってぶうたれる。

 何度か私室にお邪魔させてもらっていたが、確かにインパチエンスの書架は、一般教養、経営学に各種資格の指南書などの学術書が中心で、くわえてその時々の流行りの本があったりして、それも、どれもこれもに丁寧な注釈が書きくわえられていたり、何かのアイデアらしきメモが挟まっていたりと、印象とは裏腹な、独特なものだった。

「接客業であんすから、流行と一般教養の知識は必要不可欠。飲食店ならば食品衛生管理に防災管理。そもそも店舗ないし企業の経営ともなれば簿記や登記、各種危機管理あたりは基礎も基礎。酒と料理は二の次、三の次でがすよ?いずれ貴女がたも自分の店を持つのだから、今のうちからちゃんと勉強しなんせ?」

 インパチエンスが険しい表情になり、卓をぺしぺしと叩いた。ふたり、観念したように、はぁい、とだけ。女郎酒場の頃から女という女を育て続けた、まさしく教育ママである。

 ペルグランからもたまに聞くが、見た目の鮮やかさとは裏腹に、中毒といっても差し支えないほどの勉強家だった。その身ひとつでニコラ・ペルグラン家の嫁にまで昇り詰めた、とは聞こえはいいが、その出自はアンリよりも過酷な、売られた女である。物心ついた頃から、身をひとつ立てるためだけに、ありとあらゆる努力をしてきたという。

 特に金銭関係については苦労があったのだろうか、相当に気を遣っており、嫁入りの際にはペルグランの親族一同に対し、金を貸すことはあっても借りることはない旨を誓約書にしたためて、渡して歩いていたとも聞いていた。

 さて、“赤いインパチエンス亭”の経営に関しては、その売上のみで経営にまつわるすべてを賄っており、その余剰から夫婦の老後分、いずれ産まれる子どもの分、店員ふたりが独立する際に包んで渡す分を貯蓄に回し、さらにいくらかをペルグランの実家への仕送りに回したら、あとは全部、ペルグランに渡しているという。つまり、ペルグラン側の収入の一切には手を付けていないことになる。

 社交的で多趣味な伴侶のため、何よりもニコラ・ペルグランのお血筋たるおひとに金で困ることだけはさせまいとの配慮だろうが、流石にペルグランとしても申し訳ないと、ふたりの生活に関しては、ペルグラン側の収入から出しているし、インパチエンスの着るものや勉強に使うものなども、ご褒美の名目で買ってあげているそうだ。

 またペルグランもペルグランで、将来に向けた貯蓄は行っているし、趣味の競馬では負け知らずなので、そこで増やしては、インパチエンスに渡してあげているという。ただインパチエンスとしては、賭け事自体がおっかないのでやめてほしいと、ちょっとしたぶつかり合いが起きているらしいことを、スーリが面白おかしく喋っていた。

 伴侶を思い、義実家いえを立て、憩いの場を設ける。そのための努力なら一切を惜しまない。素性卑しき姉さん女房なんぞと世間は言うが、その名を海に捨ててでも貰う価値はあるだろう。ちゃんとした花嫁修業だけはできていなかったと悔やんでいたのことで、かの完璧主婦、ブロスキ男爵夫人シャルロットさまが、現在進行系で薫陶を授けているとのことである。

「ねえ、アンリはどう思う?」

 不意に、ビアトリクスに話を振られた。

「今までの発言から拾っていくと、前提、あるいは目的。これを絞り込むのがよろしいかと。例えば、ゼーマン氏は、夫人の精神的後継者という評判を得ています。ならばその評判に応えるべく、後継者として“悪戯いたずら”も倣ってみるべし、というぐらいの魂胆かもしれません。とすれば、解き明かしたとしても、ご褒美はお手紙ぐらいのものでしょう」

 ゼーマンと夫人は別人である。とりあえずひとつ、ミスリードでも入れてみるべし。どうせやる気なら、とことん知恵を絞ってもらおうかな、という、こちらも悪戯いたずら半分である。

 発言は思いの外、効果覿面てきめんだったらしい。皆で押し黙り、あるいは頭を抱えはじめた。

 ひとまずインパチエンスに声をかけ、皆に適当なものを配らせた。折角、店を貸してくれているのだ。落とす分は落としていかないと、店のためにもならない。それでも誰も、配られたものには手を付けない。

 沈黙ばかりが、続いていた。

「話は聞かせてもらったわっ」

 それを破ったのは、大きな声。どこぞで聞いたような言葉と共に、“赤いインパチエンス亭”が、勢いよく開かれた。

 現れたのは、影ふたつ。たゆたう青鹿毛。日に煌めく褐色の肌。インパチエンスを幾らか凌ぐほどの、手足の長い長身。そしてその、羨ましいぐらいに咲き誇る美貌。

 ダンクルベールのふたり娘。リリアーヌとキトリー。どういうわけか、颯爽とご登場である。これはまったくの予想外であり、皆で仰天の声を上げてしまった。

「うちのお父さんが不甲斐ないせいで、あのボドリエール夫人を継母ままははにできなかった私たちの無念、ここで晴らさせていただきますわよ。ねえ、キティ」

「言っといて何だけど、私はもう十分よ?生きてたとして、お父さんと同い年ぐらいの婆さまじゃない。私、いやよ?老人介護なんて。やるなら姉さん、お願いね?」

 鼻息の荒いリリアーヌに対し、キトリーは至って恬淡。

 顔はそっくりの美人姉妹だが、見分け方としては、幾らか細身の方がリリアーヌで、幾らか肉付きがいいほうがキトリーである。どちらにしろ均整はばっちり取れていて、警察隊婦人会の面々が気後れするほどには、格別に存在感がある。

「勿論よ、心配しないで。男やもめの長いお父さんにも、きっといい土産になるはずだわ。かつての捜査官と殺人犯。そして男と、女。時は流れて、愛憎の天秤が愛の側に傾いて、老いさらばえながらもめぐり逢い、愛を確かめるように同じ墓まで手を取り合う。ああ、早く親孝行がしたいわあ」

「そういうわけで、愚かな姉ではございますが、どうかよろしくお願いいたします。あたしは付き添い。インパチエンスさんと楽しんでるから、どうぞごゆっくり」

 リリアーヌは、さっと思いつくはずもないような言葉を、早口ですらすらと並べ立てた。やる気十分もいいところである。対してやはり淡々と、キトリーはカウンターに陣取って、インパチエンスに酌を貰いはじめた。両方とも父親の血か、天賦のものなのか。

「お二方とも、はるばるのご協力、ありがとうございます」

「お久しぶりです、マギーさん。微力ながらお付き合いいたしますわ。ただお恥ずかしいことに、買ったはいいものの、まだ読んではいなかったの。そこは御免なさいね?」

 ビアトリクスの挨拶に、リリアーヌのほうが、気恥ずかしそうに微笑んだ。

「付き添いとはいいつつ、まずはどうして今更、っていうところからが、はじまりよねぇ」

「ええ、キティ。その通りよ」

 ワインを傾けながら、まずはいきなり、キトリーの方から切り込んできた。その言葉に、リリアーヌの顔が一瞬で、毅然としたものに変幻する。

 リリアーヌが歩を進める。堂々とした佇まい。褐色の巨才、その血を継ぐものに、相応しい姿である。

「ボドリエール夫人のフォロワーは未だ数多かれど、今の今更、あの“悪戯いたずら”までも倣うものが出てくるか、と言われれば、そうでもなし。あるいは本当にあの夫人だというのなら、理由があって現れたはず。それも些か、不都合な理由」

 店内を歩きながら、リリアーヌが虚空を睨みつつ、言葉を並べる。あるいは、そこいらの卓の上を、指でなぞりつつ。

 どうしてか、知っている仕草と、言葉の並べ方である。特に語りはじめに、若干、舌を打つような音が入るところ。

 そして言葉にしてくのは、やはり前提の確認からだ。それも、ゼーマンと夫人が同一人物であった場合のところまで、一気に持っていった。

「察したものがいる。自分が何者かを。ならばいっそ引き込んでやろう。そういう腹積もりは、ありうる。となれば、その察したものが持っている情報を鍵とするのも、ひとつ」

 夜の浜辺の、さざなみのような声。

 ダンクルベールの声が、不思議と重なった。それに気付いたのか、皆、押し黙ってしまっている。

「少し戻って、ゼーマンの過去の著作に、同様のものがあるかどうかは、皆さん、ご存知?」

 キトリーがまた、割って入ってきた。こちらの瞳の色も、どこかで見たことのある、海の色になりはじめていた。

「いえ、おそらくは無いはずですが」

「であれば、ゼーマンの著作の傾向。ラブロマンス、あるいは悲恋もの、か。そこを夫人と重ねれば、“喝采、そして、赤”のような“動”ではなく、いわゆる“静”の作品群になる。“再びの人”や“きらきらするものと”、それに“湖面の月”ね。そこが案外、ヒントになりうるかも」

 姉妹ふたり、絶妙な噛み合いである。リリアーヌの、駆け抜けるような推測を、キトリーが補足、補強するかたちだ。

「姉さん、“湖面の月”の、“本当のはずれ”、確かエルトゥールルの砂漠とか大河に因んだものが、鍵だったはずよね?」

「そうね。言ってしまえば、私たち、あるいはお父さんのルーツとなるものが鍵になっていた。お父さんを引き摺り出すのが夫人の目的だったからね。そうすれば今回、引き摺り出したい相手は誰なのか。そこが論点になってくる」

 椅子ひとつ引きずって、リリアーヌがどっかりと腰掛けた。そうして体を前に倒し、少し首を傾け、瞼を閉じたまま、言葉を続けた。言葉の途中途中、ほんの少しだけ出した舌で、唇を湿らせつつ。

 やはりこれも、見た仕草だった。

「この“悪戯いたずら”は、“はずれ”の方。“あたり”は無い。獲物を狙い撃ちにするための、罠。そして獲物は、顔見知り。あるいは先ほど見立てた、自分が何者かを察したやつ」

「となれば、つまりは皆さん、警察隊婦人会ってこと?」

「その可能性は高いわ、キティ」

 ふたりの声が一段、落ちた。リリアーヌの瞼が、開く。

 やはりそのすべてが、ダンクルベールの、それ。

「誘われてる。疑ってくれるなら、やってみなさい。勝てたらご褒美。負けたらそこまで。貴女がたは今、見えざる夫人、あるいはあのシェラドゥルーガに、試されている」

 真っ直ぐに、見据えられている。身動きが、取れないほどに。その霹靂の如き眼光が、突き刺さってくる。

「試されているのは、懐に入り込む勇気があるのか、否か。お父さんが左足を駄目にしたように、あえて“はずれ”を引く勇気があるか、かしら?姉さん」

「そう。つまりこれは、ガンズビュール」

 また一段、声が落ちた。

 結論が、来る。

「我らが父、オーブリー・リュシアン・ダンクルベール。かつて愛したその人の部下たるに。あるいはその関係者たるにふさわしいかどうか。これはそのための、試験よ」

 誰も彼もが、戦慄していた。

 ここに居るのは、ふたりのダンクルベールだった。

「まあ、私たちの当てずっぽうは、ここまでねぇ」

「そうね、キティ。あとは実際に読み込んでからね。インパチエンスさん、一杯、いただけるかしら?」

 声色を戻したふたりに、あのインパチエンスが、我を取り戻したかのように、慌てて支度をはじめた。

「凄いです。リリアーヌさま、キトリーさま。まるで長官そのもののような見立て方です」

 ラクロワが興奮した様子で駆け寄っていった。

「ありがとう。でも私たちのは、どこまでいっても当てずっぽうよ。子どもの頃、お父さんと、上司のコンスタンさま。あるいは、お父さんとウトマンさんが、うちでやり取りしていたのを真似しているだけだもの。ねぇ、キティ」

「そうそう。特にウトマンさんは凄かったわよねぇ。ばんばん、ばんばんと一問一答。ほとんどテニスのラリーみたい。よく姉さんとふたりで、学び舎の宿題とかを解くのに使ったわ。頭が回転していいのよね、あれ」

「恐れ入りあしてごぜあんす。あたくし思わず、固まってしまってあんした。お舅さまもそうですが、大姉おおねえさま、小姉こねえさまのお二方とも、本当にご聡明でごぜあんして」

「当てずっぽう、当てずっぽう。しかもやったのは、前提の確認よ?“悪戯いたずら”そのものを当てたわけじゃないし」

「でもこれで、取っ掛かりはできたってわけです。どっから漏れたかは知らないが、あたしらを見つけ出した。それなら、釣り糸を垂らしてみようってことでしょ?なら、その釣鉤ごと、竿をふんだくってやるのが一番早い」

 ルキエの顔に興奮と活気が差した。突破口ひとつ、こじ開けたわけである。

「そう。いわゆる、神妙にするならそれでよし、よ」

「そうでないなら、その腕ひっ捕まえてでも婚姻届書かせてやるんだから。ねぇ、キティ」

 まだまだ蒼みを増すリリアーヌの瞳に対し、キトリーはすっかり平静になっていた。

「姉さん、まだやる気?後は皆さんに任せましょうよ。私ら、所詮は素人よ。役割分担は大切でしょう?大体皆、夢見すぎよ?解き明かしたところで、お手紙一通、おめでとう、よくできました、で済まされたら、どうするのよ?」

「お父さん引っ張って第三監獄まで怒鳴り込みに行くわよ。死人が生きているとすれば、きっとそこでしょう」

「ほんと、どうぞご勝手になさいませ」

 カンパニュールが注いだ白を、さっと飲み干すキトリー。父親に似て大酒飲みと自分で言っていたが、何しろペースが早い。

 活気に湧く店内で、ひとりだけ、俯いていた。シャルチエである。

「私、やっぱり駄目なのかも」

 ぽつりと。目にたくさんの涙を浮かべながら。

 ダンクルベールに憧憬を抱き、警察隊を目指した女の子。鬼才の血を受け継いだ娘たちの姿に、心を折られたのかもしれない。

「どうしたん?大丈夫だって。まだシャルチエは一年生なんだからさ。これから頑張れば、リリィねえとかキティねえみたいになれるし、お殿さまみたいにだってなれるからさあ」

 駆け寄ったのはコロニラだった。肩に手を乗せ、満面の笑みで慰めていく。明るさが、癒やしを呼んできてくれる。

「コロニラちゃん。私ね、いっぱい、長官に憧れたの。ダンクルベールのお殿さまに。でも、おふたりを見て、なんだか自分が情けなくなっちゃって。私、お殿さまみたいに、なりたいのに。そのために頑張って、士官学校でも、あんまりいい成績、残せなくって。それでも、それでも。ようやく、本部所属、決まったのに」

 それでも。コロニラが精一杯を言ったとしても。

 シャルチエの目からは、大粒のものが溢れてしまっていた。

「ちゃんと謝んなさい?姉さんが張り切りすぎたせいよ」

 みとめて、ばつが悪くなったのだろう。キトリーが声を落として、リリアーヌを刺していた。

「何よ?キティだって、のりのりだったじゃない」

「ここで責任転嫁?せめてふたりで一緒にとかさあ。本当、姉さんったら強情よね」

 途端に空気が悪くなる。カンパニュールが何とか間に入ろうとするものの、ふたりともがんとして譲らない。

 ぱん、と。手の鳴る音だった。

「シャルチエ新任少尉」

 やや早口の、てきぱきとした声。

 誰もが見やる。下ろしたままの黒髪と、真っ赤な口紅。

「姿勢、正せ」

 反射的、といった感じで、泣いたままのシャルチエの背筋が伸びた。

 峻厳な美貌。立ちはだかる。サラ・マルゲリット・ビアトリクス、そのひとである。

「指導、一回。用意」

「はい」

「指導」

 そして、ぱん、と。

 指導という軍事行動をはじめて見る面々は、誰もが口元を抑えていた。一般的価値観で見れば体罰であるが、警察隊という軍隊において、この指導という行為は、そうでない意味合いが強かった。

 特に、ビアトリクスのそれについては。

「深呼吸、三回。その後、聞く姿勢。用意」

 そこまでで、既にシャルチエの涙は止まっていた。深呼吸三回。そしてまた、背筋が伸びる。

「本指導の前提の確認。本日は休暇のため、これから述べる内容について、重要性は低い。以降の業務において、必ずしも留意、あるいは念頭に置くべき事項ではない。また、あくまで精神論の範疇はんちゅうであり、貴官の不安事項について、具体的な解決策を提示するものでもない。ここまで、よろしいか」

 返答。はっきりとした、いい声である。

「よし、はじめ。先の教育において、自分自身を型に嵌め込み、隙間を埋めるよう助言をした。これについて幾らかの補足をする。型は選び方を間違えると隙間だらけになる。業務に順番があるように、成長にも順番がある。ここまで、よろしいか」

 返答。

 己を型に嵌め込み続けること。ダンクルベールの教育における、第一の助言である。アンリも幾度となく、それを言われてきた。

「目標をダンクルベール本部長官と定めるならば、それは最終目標。まずは、その周辺人物を経由すべし。一例として、本部長副官であるペルグラン中尉。氏は先の一件にて、冷静な判断と勇敢な行動により、自身の配偶者を含めた、多くの国民の安全を確保した、尊敬に値すべき人物であり、また在籍期間や年齢についても貴官と近く、手本とするには適している。あくまで一例のため、選出と判断は貴官に一任する。ここまで、よろしいか」

 返答。力がこもっている。話題に出されたインパチエンスも、少しはにかんでいた。

「また、ダンクルベール本部長官のご息女、ご両名については、家庭内の生活や教育などから、本部長官の薫陶を多分に授かっていることは十分に予測できる事項であり、これに対し、劣等感、ないしは自虐感を感じる必要性は一切ない。あるいは本日以降、両氏に助言を請い、交友を深め、目標とする人物の経歴や人間性について理解を深めることも、今後の業務における一助となる点、考慮すべし。ここまで、よろしいか」

 返答。リリアーヌとキトリーが顔を合わせる。ふたり、ちょっとおかしそうにして笑った。

「一旦、深呼吸、三回。用意」

 促され、深呼吸、三回。

 そしてそのひとは、美貌を笑みで崩した。

「お疲れ。多分なんだけど、びっくりしちゃったんだよね?」

 そうやって、両肩に手を置いて。

「はい、びっくりしました。お二方とも、すごくって」

「わかる。私も最初、そうだった。リリアーヌさんとキトリーさん。ふたりとも、長官そっくりだったもんねえ」

 からからと笑いながら。

 思わずで、ルキエを見た。これを経験したことのある人間である。微笑みながら、少しだけ目が潤んでいた。

 マギー監督の名物。鞭と飴の、熱血指導。

「自分の話になるけれど、私も、ダンクルベールになりたかったから、いっぱい頑張った。でも、なれなかった。仕事、辞めようと思ったの。でもね、ダンクルベール課長とウトマン主任に、お昼ご飯を奢ってもらって。助けてくれた。まずは、になりなさいって。だから私はになった。だからシャルチエも、まずは、シャルチエになろう?大丈夫。私だって、になれたんだからさ」

 ダンクルベールになりたかったひと。そして、ダンクルベールになれなかったひと。だから彼女は、になった。

 同じことを経験してきた。だからきっと、シャルチエを正しく導ける。ダンクルベールとビアトリクスは、そう感じて、の下に、シャルチエを着けたのだろう。

「焦らなくたっていい。ゆっくりいこう。一緒に、隣りにいるからさ。そしていつか、シャルチエになって、それでも余裕があるようなら、ダンクルベールを目指してみよう?私がなれなかったダンクルベールに、なってみよっか。皆がなりたかったものになれるんだから。だから、ゆっくりやっていこう?大丈夫?」

「やります、やれます。課長。監督」

「よし。指導、終わり」

「ありがとうございましたっ」

 しっかりとした声と礼。涙に震えながらも、シャルチエが戻ってきた。

 駆け寄っていった。ビアトリクスにリリアーヌが。そして、シャルチエにキトリーが。

「かっこいいっ。マギーさん、これがマギー監督なのね。本当に絵に描いたような、素敵な女軍警だわあ」

「だからさあ、姉さん。まず、謝んなさいよ。ごめんね、シャルチエさん。うちの姉さんが自分勝手でさ」

「何よ、キティ。急に大人になっちゃってさあ。でもごめんなさいね?素人が出しゃばっちゃって。それじゃ、一緒にお話しましょうか」

「ほら、シャルチエ。おふたりが構ってくれるってさ。クララックも一緒に行っておいで」

「はい。フランセット、よく頑張ったね」

「ありがとう、ジャネットちゃん」

 そうやってダンクルベール姉妹ふたりと新任少尉ふたり、同じ卓に座った。飲み物を運びながら、コロニラも加わっていく。

「いやぁ、おふたりの前でやったもんだから緊張しちゃった。インパチエンスさん、ロゼの甘いやつ、ある?」

 カウンターに腰掛けたビアトリクス。勿論、という笑みを返し、インパチエンスが酌をした。

「お坊もそうですが、軍人さんというのは不思議であんすね。頬、ふったらかれて元気になるだなんて」

「やらないに越したことは無いんだけどね。流行りじゃないし。でもこれが一番、いい気付け。私はあんまり経験ないけどさ。現場とかで、こわい時、立ち止まっちゃった時でも、戻ってこれるから」

 ダンクルベールの一番弟子。ウインクひとつ、グラスを煽った。

「マギーさんも、お殿さまから直接、頬をはたかれたりしたの?」

 カンパニュールの問いに、ビアトリクスは笑顔で首を振った。

「女の子は叩けないってさ。笑って言われた。でもその分、言葉ではちゃんと叱られたし。私のは、アニー大先輩の受け売り。アナベル・エチエンヌっていう、もう退役しちゃったひと」

「そんな方がいらっしゃったんですね」

「長官と同い年で、もうお婆ちゃんだものね。後方支援の人。今でもいれば、ラクロワの師匠になってたかも」

 その言葉に、ちょっとだけラクロワが寂しそうに笑った。

「ペルグランくんには長官が。ガブリエリくんには、おやじさんが」

「ラクロワ少尉さま。あまり気を落とさずに」

「私には、皆がいます」

 そう言って、目一杯の笑顔を見せてくれた。

 それが、嬉しかった。頼ってくれること。信頼してくれること。何より、そうやって大きくなっていけていること。

 小さくか弱いだけのラクロワも、もう昔の話。頼りがいのある隊員に、育っている。

「あらあら、良振えふりこいちゃって」

「なんですかっ、インパチエンスさんったら。意地悪なんだから」

「他意はながんすよ?さあさ、今日の勉強会はお開きであんすね。皆でのんびりいたしあんしょ」

 ぷんすか怒るラクロワを余所に、インパチエンスが何度か手を叩いた。それで場は砕けた。

 “赤いインパチエンス亭”でラクロワが真っ先に向かう先は、インパチエンスのところである。憧れのかっこいい女性でもあるし、なにより恋敵でもある。いつだってふたり、ペルグランの話で盛り上がっていた。

 ペルグランそのものはインパチエンスのものになったけれど、ラクロワはペルグランのにした。そこだけ、ラクロワがインパチエンスを出し抜いていた。インパチエンスもそれに対し、尊敬と嫉妬を抱いているようだった。だから、それで。ふたりの間では、ペルグランはなのだそうだ。なんだか可愛らしい関係である。

「シャルチエとクララック。何になるんだろうね」

 ふと、ルキエがそんなことを尋ねてきた。

「フランセットとジャネットでしょ?フランと、ジェーンかな」

「いいなあ、可愛くって。あたし、アンリのお陰でルキエのままだしさ」

「ベッキーが良かった?」

 あえて意地悪に言ってみた。ルキエの頬が染まる。

 好きな人から、そう呼ばれていた。最後の一歩を踏み出せないまま、今の今までこうやっている。

「意気地なし」

「五月蝿い。頑張ってるんだってば」

「でも、レベッカなら、レヴィのほうがいいと思う」

 アンリの言葉に、もう一段、ルキエの顔が赤くなった。

「あらあら、ルキエったら」

「カンパニュールも、乗っかってくるなよう」

「可愛いじゃん、レヴィ。じゃあ今日から、ルキエはレヴィね?」

「いいわね。私もそう呼ぼうかな。いい?レヴィ」

「やだっ」

 今度はルキエがぷんすかしはじめた。それを、周りの皆で笑った。

 やっぱり可愛いなあ、レヴィ。がさつで、恥ずかしがり屋で、意気地なしな女の子。何よりも大切で、大好きな私の友だち。

 でも、そろそろ教えなきゃいけないな。そうじゃなきゃ、レヴィのためにもならないしね。

 向こうさん。とっくに恋人、できてるんだよね。


5.


 リリアーヌの見立ては、当たっていた。

 何処かで聞いたことのある言葉が、湧いて出てきた。“素描”、“錠前”、“提督”、“北の魔物”、“女軍警”、“拷問”、“百貨店”、“栗毛の女の子”、“断頭台”、“老警”。そして“向こう傷”に“霹靂”。

 ただ幾つかが、引っかかっていた。

「“目移りしないで”は、色違いだけど、インパチエンスの花言葉。つまりはクラリス・インパチエンス=ルージュさん。“信頼”もゼラニウムの花言葉だけど、誰が由来?」

「それ、私に聞くのかい?マギー君」

 訝しげな表情で答えたのは、ゼーマンこと、ボドリエール夫人である。

 本日、非番。夫は仕事、子どもは学舎で、夕方までは帰ってこない。サラ・アルシェとふたりで“悪戯いたずら”でも解こうか、となっていたところに、どういうわけか夫人が遊びに来た。

 サラとも、に近所だったというアルシェ経由で面識があり、また、サラがそこまでファンでもなし、ということで、気楽に接しているようだった。

 アンリが午前上がりだということなので、呼んでいる。午前中は今まで出てきた“悪戯いたずら”の整理である。

「あとは“黒髪”かしら。私やマギー含め、黒い髪の婦人会会員なんて山ほどいる。これだけは、別。つまり暗号を整理するための、最後の鍵なのかも」

「サラ君、いい勘してるねえ。それとこの紅茶、美味しい」

「ありがとう、夫人。使用人の頃、ご主人さまの奥さまから習ってたの。うちの家庭で紅茶好きなのは私ぐらいだから、こういうときにしか淹れれなくって」

「フォンブリューヌって、茶葉も特産か。思いつくものはなんでも作ってるものだねえ」

 サラは、夫人がお土産で持ってきた青カビのチーズと紅茶の組み合わせマリアージュを楽しんでいた。ビアトリクスはその独特の香りが好みでなく、新鮮なもののほうが好きである。

「マギー君が“悪戯いたずら”に挑戦する理由が知りたくってだね」

 話を進めているうち、夫人が悪そうな顔でビアトリクスに尋ねてきた。聞かれるであろうことは、わかっていた。

 夫人とは、“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”事件以来の付き合いである。ビアトリクスが軽犯罪担当のため、仕事では会うことは少ないが、“赤いインパチエンス亭”で同席したりと、私的に会うことはたまにある。

 夫人がゼーマン、ないしラ・ラ・インサルであることも知っている。だから自分が“悪戯いたずら”に積極的に挑戦する必要は無い。

「卒業試験」

 それだけ、意を決して言葉にした。

「ダンクルベールにはなれなかった。だから、ダンクルベールに並び立つ、あるいは越えるものになりたい。ガンズビュール当時のあのひとの、知恵と勇気。それを今、私はどれぐらいを備えているのかを、知りたい」

「たとえ私に喰い殺されることになっても?」

「貴女を迎え撃つことも、含めて」

「お覚悟、天晴。と言いたいところだけれど」

 あくどい笑みのまま、夫人が鼻を鳴らす。

「些か、女々しくもあるよね」

 サラの顔が、いくらか歪んだ。ただ、ビアトリクスは平静だった。これも言われると、わかっていたから。

「昔の男に未練のある女。あるいは、親離れができない子ども。その切欠を探していた。その切欠がちょうどよく来た。それだけのことを、卒業試験だなんて仰々しい言葉で飾り立てている」

 あげつらったような言い方だった。サラは明らかに、むっとした表情である。

 実際、そうだと言っていい。ダンクルベールへの恋情は、未だ胸中で燻っていた。

 女軍警って、かっこいいじゃん。それぐらいの、軽い気持ちで、決めたことだった。

 母親世代とは違い、自分たちの頃には、女性の社会進出には、それほどの苦労は伴わなかった。ましてあの飲兵衛のんべの殿様ことコンスタンが率いていた国家憲兵警察隊であれば、“唯才ゆいざい”のひとことで、四方八方から人を取り寄せる土壌ができ上がっている。そこならきっと、できるかもしれない。その思いひとつで、飛び込んでいた。

 ガンズビュール連続殺人事件は、士官学校に入った初年度だったはずだ。一連の報道を新聞で知って、心が躍った。オーブリー・ダンクルベールという人に。

 なりたくなった。ダンクルベールのような人に。いや、ダンクルベールに。

 最終年度、教頭として学校にやってきたコンスタンとは、よく話をした。ダンクルベールという人のこと。ダンクルベールになりたいということ。

 そうして、会えた。ダンクルベール。

 きっと、恋に落ちていたのだと思う。憧れ以上のものを抱いていた。だから、自分が壊れるところまで追い込むことができたのだろう。

 そして私はになった。ダンクルベールになれなかったから。追いかけても、追いつくことはできなかったから。

 そうやってになった今、自分はダンクルベールという指標の、どのあたりにいるのか。ガンズビュール当時のダンクルベールに並び立てているのか、凌ぐものになれているのか。あるいは、今のダンクルベールの。

「それでもいい。他人がどう捉えようとも、成長を確かめ、その先が見えるのであれば」

 なれないなら、越えるまでだ。

 答えた本心に、また夫人は鼻を鳴らした。

 席を立ち、少しして戻って来る。ワイングラスと、ボトルひとつ。

 ケルクショーズ・プルヴのロゼ。以前に頂戴した、とびきりの逸品。未開封のそれを開け、サラとビアトリクスに、それぞれ注いでくれた。

 人でなしというものも、便利で小粋なものである。

「ありがとうございます。こればっかりは、高くて買えないもので」

「いい女にはいい酒を、だよ。そのためには、蓄えを怠らないことだね。マギー君」

 グラスにロゼを継ぎ足しながら、夫人は笑っていた。

「ごめんなさい、遅くなりました」

 サラが昼食を用意してくれているあたりで入ってきたのは、アンリだった。

「アンリさん、“黒髪”とゼラニウムでわかることって、ある?」

 サラの問いに、アンリはいくらかの戸惑いを見せた。

黒髪くろかみのジョゼフィーヌさま」

 聞いたことがあった。

「ペルグラン中尉の、お母さんよね?」

「はい。確か、ボドリエール著作保護基金の理事をしてらっしゃったはず」

「となれば、夫人とは生前に、繋がりがあるかもしれない」

「ゼラニウムの方は」

 そこまで言って、アンリが深く、瞼を閉じた。

「本部長官さまの、密偵のひとり。先の“おろし”の件で、亡くなられました」

 声が、震えはじめる。

「ミシエル。ゼラニウムが好きな、女の子でした」

 アンリの言葉に、ビアトリクスの瞼も、重くなった。

 “おろし”。北方ヴァーヌから渡ってきた、国家転覆を目論んだ、大胆不敵な賊。

 あの案件については、ビアトリクスは関わっていなかった。ウトマンが組織運営に回った都合、一課と二課の両方の案件をさばいていた。だから、それほど詳しくは知らない。

 それでも、色々なことが聞こえてきた。スーリが悔しがるほど巧妙な殺しをすると。あのマレンツィオが毒殺されかけたと。ペルグランが都合により副官を外されたと。

 そして、“あし”ひとり、殺されたと。それも、若い娘だったと。

「お殿さまのおうち、今年もゼラニウムが咲いていた」

 サラ。もう、流れていた。

「尋ねてきたの。土いじりのやり方、知らないかって。私もわからなかったし、花言葉とか好きで、興味もあったから、ついでにふたりでやってみようか、ってさ」

「サラねえ、無理しないで」

「セルヴァン閣下とか、他の婦人会の人たちに教えてもらいながら、やってみたの。うちはうちで、別の花にしたけど、お殿さまはゼラニウム。白と真紅以外の、色とりどりの。特に、黄色が多かった」

 サラは、しばらく泣いていた。ハンカチーフで目元を抑えながら。

「信頼。偶然の出会い。あれはそのこへの、弔いだったのね」

 そのひと言で、ビアトリクスも溢れた。

 浜に上がった亡骸。湖面に浮かんだ満月。そして、ゼラニウム。ダンクルベールとは、そういう骸の上にある存在。いつぞやにアルシェに言われた通り、常人では耐えられない道を歩んできた人間。人間の感情に塗れ、愛した女を撃ち殺し、手に入れたものをうしない続けてきた男。

 あれは本当に、夜の海なのだ。鎮魂の歌を哭き続ける、巨大な涙の海なのだ。

 私は、愚かだった。そんなものに、なりたがっていたなんて。

「いいこだったよ」

 ふと、夫人が。

 声が、違った。男の声である。

「素直で、可愛くってねぇ。育て甲斐もあったし。俺も未だに引きずっている。それぐらい、思い入れがある」

「頭目さん?」

「信頼を、抱いていた。親子の情すら」

 どこかしらからその人は、それを取り出し、卓の上に置いた。

 黄色と赤の、ゼラニウム。

「卒業試験、頑張んなよ。マギーちゃん」

 不敵な美貌に、ひとすじ。

 そうやって、瞬きひとつ。その人はいなくなっていた。

「あれ、夫人じゃなかったの?」

 サラは動転している様子だった。その様子が、なんだかおかしかった。

「長官の“あし”の頭目さん。昔、遊び歩いていた怪盗だったの。悪戯いたずら好きは、夫人といい勝負よね」

 微笑むことができた。涙は、どこかへ行ったようだった。

 あの人もまた、多くの密偵こどもを育て、愛した、ひとりの親なのだろう。

「ちょっと、いいかね?」

 入れ替わるようにして、女、ひとり。表情も息遣いも、その人とは似つかわしくない様相である。

「ここに私が来なかったかい?」

「来ましたよ、夫人。ちょうど入れ替わりで、帰られましたけど」

「ああ、もうっ。やっぱりだっ」

 憤怒の表情。ボドリエール夫人こと、シェラドゥルーガである。

 そうして卓の上にあるものを見て、苛立たしげに吠え声を上げた。

「食料品の整理していたら、チーズとワインがひとつずつ足りないんだよ。あいつ、またやりやがったな」

「あらあら、それは大変でしたね。そうとも知らず、頂いちゃいました」

「サラ君のチーズはともかくとして、ケルクショーズ・プルヴのロゼは、そうそう手に入らないんだぞ。畜生め。マギー君、私にも呑ませろ。アンリも呑みたまえ。一緒にお昼寝だっ」

「ええっ、夫人。いやです。それにここ、マギー監督のおうちですよ?」

「五月蝿い。お前みたいな可愛いこは、ごはんの後にお寝んねするんだよ」

 そう言ってどっかりと卓に混ざり、それでも見事な所作で、サラの拵えたものを掻き込みはじめた。やはりどこからか取り出したグラスをアンリの前に置き、ロゼを注いでいた。

「ふたりとも、まあ、だらしない顔だこと」

 昼食後、サラとふたり。くすくすと笑って。

 ワインの一杯か二杯で真っ赤になり、ぐうすかと眠る聖女を抱きかかえながら、うっとりした顔で眠る夫人を眺めていた。

 整理は終わった。鍵も揃った。

 まずはひとりで、開けてみた。現れたのは、ひとつの住所と、合言葉。

 シェラドゥルーガは、生きている。

 やはり。それが、まず。そしてその後に、震え。恐怖。言いようのない、堪えきれないもの。

 この一文が何を表すかは、誰もが知っている。

 ここから先を踏み出せるかどうか。結局は、それだけなのだろう。ダンクルベールはその時、踏み出した。そして追い詰め、腹を刺されながらも、あのひとを撃ち殺した。

 ご褒美はこの先にある。この先に待ち構える人でなしを越えた先に。

 婦人会の面々には、鍵が開いたとだけ、鳩を送った。あとはそれぞれの勇気だけだと、ひと言を添えて。

 そしてその勇気の持ち合わせは、十分にあった。

「マギー宛に、招待状みたいなの、届いてるけど」

 それが家に届いたのは、三日もしないうちだった。朝食時、新聞を取りに行った夫が、それを持ってきた。

「ありがとう。そう、招待状。多分、今夜だと思う」

「社交パーティーとか?珍しいね」

「婦人会でね。先に出欠取ってるから、これは形式上のもの」

 心にいくらかの痛みを感じながら、そう、笑って告げた。

 しとねを共にしましょう。

 職場で内容を確認した。その言葉で、やるべきことはわかった。

 鳩、ふたつ。夫には、今日は帰らないことを。仕事で使うことの多いホテルに、一室、用意してほしいことを。

 用意すべきものはあらかじめ、家から持ってきていた。

 定時上がり。ホテルに向かい、チェックインする。適当なワインとグラスふたつ、ルームサービスとして頼んでおいた。

 食事は、する気になれなかった。

 招待状。部屋に入り次第、寝台の枕の下に仕込んで、化粧室に行く。

 決戦。そのための、女としての戦装束を纏うべく。

 まずは、すべて脱いだ。下着も。この日のために、いくらか体も絞っていた。肉体も、勘も、いつでも動かせるようにしている。

 髪は、結い上げた。化粧も直す。アイシャドウも、赤。ネックレスに、イヤリング。普段は着けない装飾品も整えた。

 ドレスは、黒を。インパチエンスに教えてもらった店であつらえたもの。肩口から二の腕をさらけ出した、大胆なイブニングドレス。

 回転式拳銃リボルバー。あのひとのとは違い、金属式薬莢。いくらか口径は小さいが、威力は同等である。ならば人でなしのひとつぐらいは、無力化できるはずだ。

 結婚指輪は、外した。夫の名と、謝罪を口にしながら。

 姿見を見る。黒と赤。あのひとみたいね。少しだけ、自嘲した。そうやって、化粧室を後にした。

 死ぬとしても、これで格好はつけられる。

「やあ、どうも」

 寝室に戻った時、そのひとは寝台に腰掛けていた。にっこりと、笑ってくれていた。

「課長」

 きっと呆けていたと思う。思わずもなく、声が出ていたから。

 大きくて、筋肉質。それでいてごつすぎず、不自然さがない。そこにいるのが当たり前のような、そんな出立いでたち。濃茶のシングルジレに灰色のスラックス。それとポーラータイ。あの頃の、普段着。

 輪郭の柔らかな、褐色の肌。剃り上げた頭。だから、自然とそこより視点が下にいく。しっかりとした鼻立ち。厚すぎない、白が差した唇。顎髭まで繋がった口髭は、短く整えられていた。

 小さく、穏やかな目。眉との間は狭く、彫りは深め。瞳が穏やかな、さざなみのようだった。

 オーブリー・ダンクルベール課長。

「綺麗になったね、ビアトリクス。いや、もう君は、になったんだものね」

 そのひとは立ち上がって、迎えてくれた。杖は、無かった。

 ならばあの頃よりも、若いのかも。

「私は、課長のようになりたかった。課長そのものに、なりたかった。でも私は、オーブリー・ダンクルベールには、なれませんでした」

「そうだね。だから君は、になった。俺は、それが嬉しい」

 並んで寝台に座った。肩を、抱いてくれた。

「君は、俺の一番弟子だ。誰よりも可愛い、愛弟子だよ」

「ありがとうございます。でも、課長。やっぱり私」

 もう、溢れていた。

「ダンクルベールになりたい。サラ・マルゲリット・ダンクルベールに。あなたを、愛していたいんです」

 待ち望んでいたものに、唇を重ね。

 そうやって、その夢に、身体を委ねた。

 ダンクルベールになれる。一夜だけでも、たとえ夢まぼろしだとしても。今まで、恋焦がれ続けたものに。

 それを忘れないために、体に刻みつけたかった。


6.


 どこか皆、上の空だった。

 それでも皆、仕事に手がつかないわけでもない。受け答えにも問題はない。でもどこかこう、ぼうっとしていた。何かの余韻に、浸るようにして。

 いつも堂々としているビアトリクスだって、やはり覇気がない。書類を渡しても、ああどうも。それで終わり。いつもはすぐに目を通し、ここがどうだ、そこがああだと、がみがみと小言を言ってくるのに、それすらない。逆に書類に不備がないか、心配になる。

 少し離れてから、もう一度、その顔を見た。

 瞼がいくらか、厚ぼったかった。

 香水。手首にひとたらし。聞いてみるのが、一番早い。

「朝早く失礼いたします。夫人」

 おはようございます、ペルグラン君。今しがた、遅めの朝食を終えたところだったよ。どうかしたかしら?

「警察隊婦人会の方々、たどり着いたんですかね。なんかこう皆、様子が変なんです。すごいもんを見た、って感じ。答えられる範囲で結構ですが、何したんですか?」

 夢ひとつ、見させたのさ。文字通りね。

「夢、ねえ」

 夢は、それぞれで捉え方が異なる、一枚の絵画。甘美な愛を見出すもの。穏やかな幸せを見出すもの。あるいはもっと、燃え盛るようなものを。でもそれは、抽象画。覚えているうちに刻みつけない限り。記憶が薄れゆく前に、書き連ねなければ。あるいは君も、えっちなお姉さんとあんなことやこんなことをする夢を見て、が張り切りすぎてしまった覚えはあるだろう?無いとは言わせないよ?

「まあそこは、男の子ですから。女の子でも、同じものはあるんでしょうね。程度の大小はいざ知らず」

 女のほうが、そういう欲求は強いと聞くよ。だから皆、存分に楽しんだんじゃないかしら?激しい方も、穏やかな方も、ね。切欠を作っただけだから、私の負担は殆どない。焼き立てのパンに、ちょっとしたサラダとジンジャーティーで、すっきりとした目覚めを堪能したところさ。そろそろお化粧の時間だから、このあたりで失礼するよ。

「ああ、その前に」

 どうしたい?ペルグラン君。

「マギー監督。相当、泣いてましたかね?」

 どうだろう。私は夢を見せただけ。会ってはいないからね。ダンクルベールになれた夢でも見たんじゃないかな?

「ああ。それなら、きっと。野暮を言いました。すみません」

 構わないさ。思ったことは、思ったままに、だろう?ペルグラン君。それでは、良い一日を。

「はい、夫人。良い一日を」

 まあ、そういうことらしい。

 “悪戯いたずら”を仕掛けた。皆、懸命になって、たどり着いた。そして招待状が届き、夢を見た。ボドリエール夫人という、抽象的な、夢を。

 そういえば今日の朝、愛しのインパチエンスも、どこかぼうっとした顔をしていた気がする。あれもきっと、夢を見たのかもしれない。

「ラクロワ、大丈夫?」

 一番ぼんやりしていたラクロワにだけ、声をかけておいた。頬にほんのりと、赤が差したままだった。

「ラクロワ?」

「ああ、ペルグランくん。大丈夫、大丈夫だから」

「気分が悪いようであれば、ちょっと休めば?最近は事案も少なくて、逆に事務仕事が増えて負担になっているんじゃないかな」

「本当に、大丈夫だから」

 そうして、寂しそうに俯いた。夢の余韻が、残っている。

「変なこと、言っても、いい?」

 小声で、ぼつりと言った。

「いいよ。どうしたの?」

「夢を、見たの。綺麗な、女のひとの夢」

 ボドリエール夫人。あるいは、シェラドゥルーガ。

「ベッドに誘われて、抱き合って眠った。たったそれだけ。それが、忘れられない。けど、どんどん、ぼやけていく感じ。そのひとは、夢ってそういうものだからって、そう言って、頭を撫でてくれた。でも薄まって、延々と広がり続ける一方で、無くならないの。それを、どう受け止めればいいか、わからない」

 ぽつりと漏れた言葉に、何を返すべきかは分からなかった。

 心に一滴の、ボドリエール夫人というインクが染み渡っている。それが望む結果だったのか、望まぬ結果だったのかが判断ができないのかもしれない。

「夢はいつか忘れる。でも、もう一度、同じ夢を見ることもある。それでいいんじゃないかな?」

 気の利いたことは思いつかなかったが、とりあえず、思ったことと思ったままに、言ってみることにした。

「気持ちの整理の付け方、人それぞれだよ。まずは眼の前にあることからはじめようよ」

 うん、と頷いても、やはりラクロワは、ぼうっとしていた。

 その日の夕方も、警察隊婦人会の集まりがあった。やはり皆、余韻に浸るようにして、ぼんやりとしていた。お互いに自分の見たものを語り合い、そしてまたぼうっとして。私たち、夢を見たんだね。そんなことばかり言っていた。

 アンリだけははっきりしていて、楽しかった、と笑っていた。夫人と仲が良いだけあって、ちゃんと対応できたのだろう。

 不意の来店があったのは、そんなときだった。ラポワント夫妻である。

 ラポワント婦長さまもやはり、夢を見たそうだ。ムッシュと出会った頃の思い出だった。

 婦長さまは、海を渡って、ユィズランド連邦と、その南東のエルトゥールルとの国境付近の出身だという。そこでは情熱的な伝統舞踊が盛んで、家庭の事情でこちらに渡ってきてからは、それが楽しめなくなり、寂しくなっていた。

 そんなところに、母を通わせていた医務院から、聞き馴染みのある音が聞こえたという。ムッシュだった。彼のギターの師匠が婦長さまと同郷らしく、その伝統舞踊で用いられる旋律や吟じ方も学んでいたらしい。

 そうして恋をして、結ばれたのだそうだ。

 インパチエンスに、頼みごとがあるそうだった。遊女時代の芸事のひとつとして、その伝統舞踊を嗜んでいたという。あれがいた南東部は、ちょうど海向かいが婦長さまの故郷にあたるので、結構、文化が近いのだ。

「素敵な夢を見せてくれた。嬉しかった。でも夢を、夢のままに終わらせたくはないの。我儘を、許して下さる?」

 ムッシュとおんなじような顔つきの、輪郭の丸く、優しい老婦人。穏やかな瞳で、そう言ってきた。

 二つ返事だった。

 自分たちの私室がある二階から降りてきた赤いインパチエンスの姿を見た時は、思わず、皆と一緒に声を上げてしまった。

 それぐらい、美しかった。

 いつものはっきりとした赤は同じだが、花びらのように広がった、華々しいフリルが施された装束は、普段の凜とした佇まいとはまた趣が変わり、鮮烈に咲き誇る、日を浴びる花の束だった。

 曲調に合わせて、思うままに手拍子や足踏み、あるいは卓を叩くなどしておくれ、とのことだった。

 そうやってはじまったそれは、激しく、あでやかで、そして鮮やかであった。ムッシュの、弦の上を暴れ回るようにして、忙しなく動く指から弾き出される、奔放で情熱的で、それでいてどこか悲しみを感じさせる旋律。我々のそれとは異なり、婦長さまの、熟達に熟達を重ねたであろう、複雑で分厚い手拍子がそれに噛み合う。

 その旋律と弾ける音の中、スカートの裾を掴みながら回転し、些か太く短いヒールを、曲調に合わせて細かく踏み鳴らし、あるいは婦長さまのそれに負けないほどの、複雑で、しかし軽やかに手を弾きながら、インパチエンスは舞い、咲き乱れていた。

 時に力みながらも、ゆっくりとした所作。そしてそこから解放されたかのように弾き出され、それでもただただ華麗な残像。時折入る、ムッシュや婦長さまの朗々とした、あるいは魂の底からの吠え声のような歌が、さらにそれを持ち上げていく。躍動的。扇情的。官能的。それでもどこか陽の明るさと影の侘しさを感じさせるものが広がり続けていた。

 三曲、終わる頃には、インパチエンスの白い頬は真っ赤に燃え上がり、汗を激らせ、それでも心から満足げだった。

「ああ。楽しゅうごぜぁんした。久しぶりも久しぶりで、色々とおぼっつかないところもござんして、ああもう」

「最高。最高だったよ。これほど弾き手冥利に尽きる踊り手も、そうはいるまいて。私も久しぶりだから、もう指が痛くなっているよ」

「夢が、続いた。それだけで十分よ。また見せて頂戴ね」

 三人で抱き合い、頬にベーゼを交わしながらしている姿に、拍手喝采を以て迎えた。皆笑顔で、あるいは涙し、恍惚とした表情をしていた。皆、わいわいと騒いで、見た夢をもう一度語り合って、その日の集まりは、満足して終わった。

 たとえ一夜の夢であれ、望むのならば、夢は続く。

「君は、どんな夢を?」

 その夜、抱き合った後に、インパチエンスに尋ねてみた。

「暖かい、日差し」

 ぽつりと、一言。それも、しばらく置いてから。

「お坊と、あたくしと。そしてきっと、そのお子。んこいお子にごぜあんした。ぱあっと笑って、走り回って、お母、お父って、呼んでくれた。嬉しかった」

 そう言って、インパチエンスは、ひとすじをこぼした。

 体を重ねることが増えるにつれ、兆しがこないことを、インパチエンスは気に病んでいった。お互いを昂り合うことはする。快楽を与え合うことはする。それでも必ず終わった後、涙を流すようになった。

 体の蝕みが、心をも、蝕み出したのかもしれない。

「ねえ、お坊。いつかあたくしが、子を授かる時が来たとして、どんなお名をつけてくださりあんしょかね?」

 頬を濡らしながら、それでも凛とした声で、尋ねてきた。

 ふと、頭の中によぎった。それはひとつ、染みを作って、駆け抜けていった。

 叫び声。嘆き、懇願する声。冬の寒さと、痛みだった。

「ひとつ、思いついたものがある。けど、それは付けたくないとも、思ったりもする」

 エーミール。

「俺がこの仕事をしているうちに、心を通わせ、そして唯一、裏切った人だ。嘘つきと言われることを、嫌っていた。未だにその言葉に、苛まれることもある」

 “おろし”。本当の名前は、知らない。

 北の霊峰から降りてきた、狡猾な賊。情報を巧みに操り、手玉に取られ、追い詰められた。ダンクルベールの渾身の巻き返しにより、どうにか殲滅できた。

 任されたのは、拷問だった。それも、奸計つきの。

 捕まえた賊のうち、ひとりだけ、あえて逃がす。根城を押さえるため。それ以上に、内部不和を引き起こすため。いずれ人の上に立つにあたり、そういう汚い仕事も覚えなければならない。

 アルシェとふたりでやった。心を追い詰め、嘘を吹き込み、死に、追いやった。

 つらい仕事だった。アルシェを憎もうとすら、しようとした。

 ただアルシェも、自分の思いつきとはいえ、やりたくはなかったらしい。彼の拷問は、必ず時間を区切ってやる。その休み時間のたび、心底につらそうな顔をして紙巻をふかし、あるいは酒を持ち込んで煽っていた。

 つらいなぁ、やりたくねぇなぁ。でも仕事だしな。お前もさぼっていいからな、俺もさぼりたいし。そうやって延々と、愚痴をこぼしていた。

 やりたくないことでも、必要であれば提案し、自らやる。そういう人だとわかったから、憎しみはなくなった。

 それでも、人が目の前で壊れていくさまを見るのは、つらかった。

 俺は、嘘つきじゃない。俺は、嘘つきなんかじゃない。

 泣いていた。心の痛みに、叫んでいた。

 終わった後、黒幕だったヘルツベルク宮中伯の別邸で、その男の骸が見つかった。引き取って、ささやかに弔った。別れ際に言ってくれた、彼の本当の名前を、墓に刻んだ。

 エーミール。姓は、知らない。

 必要な仕事だった。わかっている。向こうは悪人だった。それも、わかっている。でもどこかで、償いたい。贖い、弔いたい。そして何より、別のかたちで、幸せな道を歩んでほしかった。エーミール。生まれ変わって欲しい。ちゃんと、語り合いたい。

 でも自分の子どもになるひとに、それを押し付けたくはない。

「エーミールが言っていた。嘘つきじゃない。嘘つきなんかじゃない。泣きながら言っていたんだ。それを、受け入れてあげたかった。そうだよって、言ってあげたかった。それができなかったのが、いまだに悔しいんだろうね」

 言って、頬が濡れていることに気付いたのは、しばらくしてからだった。

「ねえ、俺のインパチエンス。甘えても、いいかい?」

「ええ、お坊。でもあたくしも、甘えたがんす」

「じゃあふたりで、甘え合おうか」

 そうやって、抱き合った。重なり合った。泣きながら、微笑んで、笑ってくれた。きっとふたりとも、いつもいるのに、寂しかったのだ。

 そうやって、抱きしめ合いながら、眠った。

 それはきっと、夢だった。インパチエンスに灯されていた、その残り香が、そうさせたのかもしれない。

 雪。山を、登っていたのかもしれない。しんしんと降る白のなか、歩いていた。着込んでいたので、寒くはなかった。

 ただ、寂しかった。

 一件の小屋。温かい光が漏れていた。

 訪いを入れた。声だけが返ってきた。扉を開けると、ひとりの男がいた。

「いらっしゃい」

 エーミール。

「寒かったろ。ちゃんと雪はほろって、お入りよ」

 穏やかに笑って、誘ってくれた。

 暖炉の前で、ホットチョコレートを振る舞ってくれた。ふたりで、他愛もない話をした。自分のこと。皆のこと。愛しのインパチエンスのこと。

 そして彼の父親のこと。

 厳しくも、優しい人だったって。いつも自分のことを気にかけてくれた。血は繋がっていない。母と縁がある人だった。そして何より、守ってくれた。育ててくれたって。

「あのときは、ごめんな」

 それをようやく、言うことができた。

「いいよ。お互い様だ。俺たちも、君の上官の、娘のような人に対して、ひどいことをしたんだから」

「許してくれとは、言わない」

「許してあげるとも、言わないよ。許してほしい、ともね」

「ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」

 ふたり、ずっと穏やかに、笑っていた。

「きっとまた、出会えるといいな」

「そうだな。会いに行くよ。俺じゃないかたちかもしれないけれど、そうしたら、今日のように、またお話してくれよ」

「本当に、来てくれるのかい?」

「本当だよ」

 彼は、エーミールは、笑ってくれた。

「大丈夫。俺は、嘘つきじゃない。俺は、嘘つきなんかじゃない」

 笑って言ったその言葉に、涙が溢れていた。

「そうだね。君は、嘘つきじゃない。君は、嘘つきなんかじゃない」

「ありがとう。じゃあね」

「うん、ありがとう。それじゃあね」

 そう言って、白いものが、積もっていった。

 それから、しばらく経った。

 元気な男の子ですよ。ラポワント婦長さまに、言われた。

 生命が、来てくれた。涙が止まらなかった。ふたりを、抱きしめた。

 ありがとう。ありがとう。それだけしか、言葉は出てこなかった。

 あの日、インパチエンスの方にも、彼らしい人の訪いが、あったそうだ。体が大きいけど、どこか幼さの残る、柔らかい顔をした、男の人。やはりその名を、名乗ったという。

 友だちかどうかはわからないけど、約束したんだ。会いに行くって。だから、そのうち行くから。待ってて。

 それだけ言って、笑っていたそうだ。

「ありがとう。ありがとう、俺のインパチエンス。ありがとう、エーミール」

「おんであんしてくなんした。義理堅い、おひとです。エーミールさまは、本当に、意気な方にごぜあんす」

「ありがとう、エーミール。君は、嘘つきじゃなかった。君は、嘘つきなんかじゃなかった」

 ありがとう。エーミール・ルイソン・ペルグラン。


(つづく)

Reference & Keyword

・Black Lagoon / 広江礼威

・蒼天航路 / 王欣太

・ルパン三世 / モンキー・パンチ

・少年の日の思い出 / ヘルマン・ヘッセ


Words

良振えふりこき:格好つけ

・プレフェリト・デ・ペスカトリ:Il Preferito dai Pescatori

・ケルクショーズ・プルヴ:Quelque chose pour vous


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