悪党どものエキシビジョン
男ふたり。男と男ではなく、男ふたり。
顔と名前しか知らない。でも、それだけでいい。
求め合うとか、愛し合うとか、そんなのは、いらない。
並び立ち、向かい合う。たったそれだけ。
至福のひととき、そのためだけに。
男ふたり。今、並び立つ。
お互いを、見せびらかすためだけに。
ラ・ラ・インサル、著
詩集“恋敵たち”より
1.
ムッシュ・ラポワントの医務院で怪我人の手当をしていたところ、ペルグランが、老人をひとり連れて、訪いを入れてきた。
しばらく面倒をみてほしい。治る病だとは思わないけど、この人のやりたいことを叶える準備が整うまで、どうか看病してやってくれないか。そういう話だった。それとどうか、ダンクルベールにだけは、内密に、とも。
ラポワントが、自身の医務院の一室を提供してくれることとなった。
この頃はいくらか市井も落ち着いているので、ほとんど毎日のように、ラポワントのところに通い、医学を学んだり、患者の対応をしたりしていた。その一環で、その老人のことも、見るようにした。
その人は、カジミール・アキャールと名乗った。片腕の、線の細い、老いた男だった。
確かに、やせ細っていた。だが目には、燃えるようなものが宿っていた。自分では悪党だとか、やくざ者だとか言っているが、それでもどこか落ち着いて、穏やかな人だった。
胃の腑に傷か、できものがある。もう長くはない。そういう見立てだった。来てすぐに、軽く咳き込んでは血を吐くということを、繰り返した。食べ物も、あまり摂れない。
だから、まずは薬湯からはじめることにしたようだ。体に負担をかけず、力を蓄える。病に負けない体を作っていく。一日、それをしただけでも、つらそうなものは、かなり少なくなったように見えた。
アンリがまずやったことは、本を何冊か、用意することだった。療養の手慰みと思って、自分の本棚とか、医務院のものとかから、何冊か渡した。渡したときは、ありがとう、と笑って礼を言ってくれたが、ふと見れば、ちょっと難しそうな顔をして、まるで本とにらめっこするみたいにしていた。
もしやと思い、本を変えてみた。画集とか、文字の少ないもの。そうすると、にこにことして読みはじめた。
その嬉しそうな顔を見て、自分の配慮の至らなさを恥じ入った。
「恥ずかしいねぇ。どうにも、学が無いもんで。文字の読み書きなんてのは、そこらの子どものほうが、ましなぐらいなんです。爺さんのみっともないところを見せちまった」
「こちらこそ、配慮が至らず、申し訳ありませんでした」
「気にしなさんなって。むしろ、ありがとう。あの聖アンリさまにご厚意を頂いただけで、この爺さんは十分ですわ」
「私はただの、アンリエットですよ」
「ああ。こりゃあ、失礼ばかりしちまった。アンリちゃんは偉いおひとだなあ。俺にはできないことばっかりだ。人を救って、こんな爺に気を使ってくれて。本当に、あんたみたいな人がいて、そして出会えて。本当に、ありがとう」
気さくで、話しやすい人だった。悪人とはとても思えないぐらいに、やはり優しさと穏やかさが先に来た。何より人の行いに対して、まず、ありがとう、と言ってくれるのがとても嬉しかった。
「喧嘩をするひとだって、伺いました」
ペルグランから、ただ一言だけ、そう聞いていた。
誰であれ、どんな理由であれ、人を傷つけることは好きではない。だから、思い切って聞くことにした。
「そうさね。アンリちゃんは、人を救うお方だから、いやなやつに思えるだろうね。そりゃあそうさ。なんたって、アンリちゃんは、向こう傷の聖女なんて呼ばれるぐらいのお人だし、俺は俺で、産まれたときからの、ただの悪党だ」
本当に穏やかな声。本を閉じながら、同じくらい穏やかで、それでもどこか火の弾けるような目を向けてきた。
「でもね。勝ち負けとか、嫌いだとか、殺したいとか、そういうための喧嘩じゃあないんだ。俺は普通の人と違って、殴って、殴られてのほうが、その人のことがわかる。お喋りするより、ずっとね。ああ、こいつは、こういうやつだ。こういう、良いところがあるんだ。そういうのが、わかるんですよ。特に、いいところだ。それが見えてくる。そういう、自分の知っている、そいつらの良いところを、皆に伝えたい。いや、見せびらかしたいんだよ。こんなに凄いやつなんだ。こんなに立派なやつなんだって。そのための手段が、俺にとっては喧嘩なんだ。俺にとってこの“細腕”はね、口であり、耳であり、心なんだ」
そう言ってアキャールは、残った方の腕を、愛おしげに眺めていた。
確かに、喧嘩自慢を名乗るにしては、体格も、その腕も、細かった。病を患っていたとしても、そう感じる。
それでも、あるいは引き締まり、鍛え上げられ、研ぎ澄まされている。そういう、闘うための体をしていた。
見せびらかす。面白い言葉を選ぶ。紹介するでもなく、言いふらすでもなく、見せびらかす。人の美点や長所を、まるで自分だけの、大切な宝物のようにして。
物事を解決する手段としての暴力。大嫌いだった。それで、大勢の人が死に、居場所を失い、悲しんでいる。たとえどんな理由であっても。
でもそれを、人を褒め、尊び、そして見せびらかすために用いる。変な話だ。どういうことなのだろうか。
そして、“細腕”。どこかで、聞いた覚えがあった。
「俺の地元は、ガンズビュールでね」
多分、それが顔に出ていたのだろう。アキャールが懐かしそうな顔で、語りはじめた。
「そこで喧嘩で博打やるっていう、稼ぎをやっていた。それで三十年ぐらい前かな。メタモーフとかいう、盗人の類が流れてきた」
その名前で、頭の中で色々と繋がった。今まで聞いてきたものが、ひとつになった。
でもまずは、話を聞いてみたかった。
「忘れもしねえや。軍警の、ダンクルベールっていう男さ。俺の酒場にやってきて、何にもしねえで、酒だけ飲んでるの。こっちから用件聞いたら、友だちになりに来たっていうんだ。つまりは、こっちの流儀で認めてもらって、捜査に必要な情報が欲しいってやつさ」
「あの、本部長官さまが?」
思わずで出た言葉に、アキャールが満面の笑みで返してきた。
「お互い、まだ体がちゃんとしてた頃だね。あいつの足も、俺の腕もあったころだもの。それで喧嘩してさ。勿論、ちゃんと決まりがある。掴んだら駄目、とかね。いやあ、強かった。いいもん一発貰って、膝、着いたんだよ。そん時あいつは、反射的に追撃しようとしたんだろうね。でもうちの決まりを思い出して、踏みとどまった。あれは嬉しかったなあ。ちゃんと悪党相手に、決まり事を守ってくれるんだもの」
しみじみとした語り口。
あのダンクルベールが、そんなことをしていたのか。勿論、今だって足以外はちゃんとしていて、並み居る悪人では太刀打ちできないぐらいに強い。それでも、悪党の流儀に則って、しかも喧嘩の最中に踏みとどまれるぐらいのものを持っていただなんて。
「でも、俺も駄目なやつでねえ。それが気に食わなかった。根っこが、それを許さなかった。逆に押し倒して、馬乗りになって、ぶん殴りまくった。自分の決まり捨ててまでね。それでもそのまんま、殴り返してきたんだ。何もかも、負けちまったよ。それで、友だちさ。さっきまで殴り合ってたのに、酒盛りおっぱじめて。いやあ、楽しかった」
本当に、楽しそうな顔だった。そして聞いていて、こちらも楽しかった。
まるで、物語だった。そうやって築く絆もある。
「あいつ、口下手なんだよねぇ。それでも、困った時には必ず助けてくれる。律儀で真面目で、情が深い。心優しい大男。それが俺にとっての、オーブリー・ダンクルベールっていう、大親友さ」
その言葉に、大きな驚きがあった。
たった喧嘩を一回やっただけで、ダンクルベールの人となりを、そこまで読み取れるものなのか。
「私も、アキャールさまの感じた通りのことを、思っております。口数が少なくて、見た目はこわいけど、困った時は必ず手を差し伸べてくれる。本当に、大きな人です」
「よかった。おれの“細腕”も、いい目利きだろう?まあ、効率は、よくないけれどね」
「その“細腕”という言葉と、貴方のお名前。本部長官さまが、たまに話してくれるんです。“細腕のアキャール”。ガンズビュールにはいい思い出がないけれど、ひとつだけ、とびきりの名物があるって」
アンリの言葉に、満面の笑みが返ってきた。
「ああ、嬉しいなあ。あいつも俺のこと、見せびらかしてくれてるんだね」
本人の言う通り、それで、心を通わせて、仲良くなれる。そして、見てる皆が恥ずかしくなるぐらいに、見せびらかしてくれる。そういう不思議な人。そういう人も、いたっていい。
この人の喧嘩なら、許せるかもしれない。
「おやおや、随分と仲良くなっているみたいじゃないか」
そのあたりで、ラポワントが入室してきた。
「私も何度か、惚気話に付き合わされましたよ。“細腕のアキャール”さん。まさか本人に会えるとは思わなんだ」
「恐縮でさぁ、先生」
「あの人ね、ちょっと面白いくせがあるんですよ。心を許した人の前とか、そういう人の話をする時だけ、紙巻を吸うんです。あんたの話をする時は、必ず、紙巻を咥える。名前通りだけど、とんでもなく強くて、格好良くって、気持ちのいいやつだって。にこにこしながら、惚気てますよ」
こりゃあ、両思いだったか。恥ずかしそうに、アキャールは笑っていた。
「そういえば、“細腕”のもう片方は、何処に忘れてきなすったんです?喧嘩で腕は落ちんでしょう」
ラポワントのふとした言葉に、笑った顔そのまま、声だけ少し、暗くなった。
「ボドリエール夫人、と言えば。もしかしたら」
思わず、口元を覆っていた。
ガンズビュール連続殺人事件。その被害者であり、生存者。ボドリエール夫人、つまり“シェラドゥルーガ”に襲われて、生き残った。まさかそんな人が、いたなんて。
「よくぞ、ご無事で」
「生命があるだけ、丸儲けだよ。死ぬかと思った」
それだけ言って、また、からっと笑った。
「でもさ、変なんだよな。確か俺だけ、獲物の定め方から、外れてたんだよ。それなのに、狙われた」
ふと漏らした言葉。確かに、そうだった。
夫人は、品定めをしていた。
夫人の著作には、ちょっとした“悪戯”が仕込んであって、それを紐解くと、ご褒美がもらえる。ボドリエール・ファンであれば、常識みたいなものだった。
そして、あの事件での鍵となったのは、“湖面の月”。悲恋ものの大傑作だった。それだけは“悪戯”がいくつかあって。“本当のはずれ”を引いた人間だけが、狙われ、喰われた。
それなのに、本を読まない、いや、読めないアキャールが襲われた。
「あの時、夫人は、怒ってた。なんというか、邪魔された。獲物を横取りされた。そんな感じ」
「猟奇殺人犯に、怒られるようなことをしたんですか?」
「してないはずなんだけどねえ」
そう言って、アキャールは無くなった方の腕で、頭を掻いた。肘から下に、簡単な義手をつけている。
その後も、ぽつぽつ話をした。ほとんどは、喧嘩で知り合った、面白い人たちの話。本当に、いろんな人と喧嘩して、いろんな人のいいところを見つけている。
人の美徳を多く知っているから、穏やかで、優しくあれるのかもしれない。それに倣うことが、できるから。
ただ、自分のことは、あまり話さなかった。
その日の夜、庁舎に寄った際、ペルグランと話した。アキャールの容体や、仲良くなったことだとか。
「頼まれたんです。最後の最後に、長官と喧嘩したいって」
内密な話だということなので、庁舎からちょっと離れたところに移ってから。ふたり、星を眺めながら、ペルグランが教えてくれた。
「それも俺たち、警察隊の前で。きっと俺たちも、長官のことはよく知っている。それはわかってる。でもやっぱり最後ぐらい、あの人のお世話になってる人とか、お世話している人たちに、見せびらかしたいんだって」
「やっぱり。なんとなく、そんな気がしました。アキャールさま。いろんな人の、いろんなところを、褒めてばっかり」
「変な人ですよねぇ。喧嘩友だちが、いっぱいいる。もしくは、喧嘩しかしない、友だち。それで今、その人たちにお礼を言いにいく旅をしてるんですって。そろそろ死ぬから、ちゃんと挨拶して、その人たちの家族とかに、見せびらかして。それの最後が、うちの長官」
ペルグランは、楽しそうな顔をしていた。
「他の人たちは、言葉で見せびらかせるけど、長官だけは、言葉だけでは難しいって。だから大喧嘩して、見せびらかしたい。それまでは死ねないから、手伝ってくれって」
「本部長官さまのいいところ、いっぱいありますから。わかる気がします」
「それで、ムッシュとアンリさんに、お願いしたわけです。あとはこっそり、自分ひとりで、進めてます。長官には、ばれないようにね。いやあ、大変ですよ」
星を眺めながら、ふと、声が聞こえた。星たちの声。
ああ、“細腕”のあいつ。面白いよな。とんでもなく喧嘩が強くって、それでいて、いつだって褒めてくれる。笑顔で出迎えてくれる。悩みとか、頭に来ることも、全部、喧嘩で受け止めてくれる。すっきりするんだよね、あいつ。本当に、気持ちがいい。だってあいつ、喧嘩しかないんだもの。
「あの人。言っちゃあなんですが、悪いやつなんです。喧嘩ばかりやって、人と殴り合いして、きっとそれだけで、ここまで生きてきた人なんです。アンリさんとは絶対、相入れない人だと思った。それでも、仲良くなったんですよね?」
「はい。本当に、穏やかで優しい、お爺ちゃんですもの」
「よかった。そうそう、それでね?男の話になっちゃうけど。それ以上に、あの人は、かっこいいんですよ。長官と一度、杖の喧嘩をしたのを、見せてくれたんです。ちょうど一緒にいたスーリさんと二人で、今でも話題に出すくらい、かっこよかった。爺さんふたり、活劇ものの真似事みたいにして、見せびらかすんですよ」
ペルグランの声が、うきうきしていた。皆、惹かれていた。皆、見せびらかされていた。
そんな人の、最後の喧嘩。最後に会う、友だち。そして、最後の友だちへの、心からの、目一杯の恩返し。
それなら、見てみたいな。
「殿方って、不思議ですよね。女よりも、格好いい殿方の方に、ずっと入れ込むんですもの。私、ちょっとだけ、妬いてきちゃった。私たちの本部長官さまの、知らないいいところを、きっといっぱい知っている。それを、見せびらかされるんですよね?私、悔しくて、泣いちゃうかもしれない」
「たまんないですよね。嫉妬いっぱいです。でもきっと、見終わったら、すかっとする。だから俺も、頑張ってます。俺だって、アキャールさんに、お礼を言いたいから」
男だけの、感覚かもしれない。でも、わかる気がする。
「ああ、そうだ。アンリさん。もうひとつ、お願いがあるのです。それも、本当に、特にご婦人に対しては、ひどく失礼なお願い。聞いていただくだけでも、いいですか?」
急にペルグランが、かしこまって、しかし小声で。
「お使いの香水を、少しだけ、分けていただけませんか?」
この通りです。という感じで、深々と頭を下げた。
「もしかして、夫人にも?」
気まずそうな顔のまま、首肯だけ、返してきた。
思い当たる節があった。
夫人との文通の中で、そういう“悪戯”を思いついたことを、嬉々として語ってくれたことがある。人の感覚の部分に居座って、見えるものだとか、思っていることだとかを、共有する。あるいは、頭の中の独り言に言葉を返して、会話のようなことができる、そんな“悪戯”。捜査協力をするうえで、今まではペルグランやウトマンの体そのものを乗っ取ったり、こっそり牢獄を抜け出したりしていたけれど、こっちの方が、みんなに迷惑がかからないということだった。
その合図として、夫人お気に入りの香水を使っている。
あの香水は、夫人のお手製のものだった。本当に多趣味で、器用な人だから、香りの調合も、楽しんでやっている。なかでも、“茜の桃”と銘打ったそれは、とっておきの自信作だそうだ。果実の甘さが先にきて、その後に生姜みたいな、香辛料の香り。最後には、すっきりと抜けていく。自分にも使ってほしいと、よく送ってくれた。大丈夫、アンリの中には居座らないから。最近、そういう一文を、必ず添えて。
そういうことであれば。でも、ちょっとだけ。
「そっか、駄目なんだぁ。切らしちゃったんですね?うっかりさん。しかも勝手に、私の匂いまで嗅いでたなんて」
「ああ、いえ。それはその、そういうつもりでは」
狼狽するペルグランの目を見ながら、意識して、微笑んだ。そうして、つとめて小声で。ちゃんと声色を作って。
「えっち」
それで、ペルグランが、真っ赤になって固まった。その顔が本当に面白くって、思わず吹き出してしまった。
同世代の男の人のことは、あまり知らない。大体は、怪我をしているか、死にそうになっているか、もう、死んでいる。その時の自分は、その人を助けるために必死だから、異性として見るなんて余裕は、一切ない。そのうちに、そのぐらいの歳の男の人のことは、あまり興味がなくなった。
ペルグランだけ、ちょっと違った。異性とか、恋愛対象とかではなく、言い方が悪いが、おもちゃみたいで、からかい甲斐があった。
歳で言えば、自分が二か三、上である。ペルグランと、同期のガブリエリ。ガブリエリは、まずは家柄が文句なし。それでいて背も高く、体型もばっちりで、金髪碧眼の美形という、絵に描いたような王子さま。それでも気さくで、話し上手の聞き上手。困った人がいると放っておけない、真っ直ぐな熱血漢だ。理想の王子さまなガブリエリと、絶世の美中年ことセルヴァン局長閣下。このふたり、警察隊婦人会の中では、国家憲兵隊の双璧とか言われて、集まりでは必ず話題に上がるのだ。
ただ欠点があるとすれば、ビゴーという、お爺ちゃんぐらいの下士官に首ったけで、いつもふたりで街中を聞き込み捜査に歩き回っているものだから、庁舎にいるところなんて、ほとんど見ない。
それに、もう恋人もいるみたいだ。警察隊婦人会で一度行ったカフェで働いている、栗毛の女の子。ガブリエリに熱を上げている他の面々が、なんであんなこを、と不満げに漏らす程度の、本当に普通の、どこにでもいる女の子だった。それもあってか、かっこいいなあ、とは思いはすれど、異性としては、うん、まあ、という感じだった。勿論、仕事のやり取りも、世間話も、ちゃんとする。
対してペルグラン。こちらも、あのペルグラン家のご嫡男。いくらかもみあげが強めな、幼い顔つきで、高望みが過ぎなければ十分、十二分だ。
ただ、配属当初は、かなり感じが悪かった。ご実家の要望で、若くして本部長副官という大役を担っているが、本当は国防軍総帥部とか、ご先祖さまに縁の深い海軍本部とかに行きたかったらしく、諸々の都合で、そこしか席が空いてなかったことが、相当に不満だったらしい。
それでもそのうち、犯罪現場の凄惨さや、個性派揃いの警察隊本部の面々、そして何と言っても、ダンクルベールという大人物を知っていく中で、どんどん砕けて、伸びてきた。
純朴で気が良くて、真面目だけど、どこかちょっと抜けていて、そしてやっぱり、ちょっと生意気。一番は、ダンクルベールやセルヴァン、それにあの夫人にまでも、散々にたしなめられ、面白がられている、あの、思ったことを思ったままに口にするというくせ。いつの間にか、愛嬌たっぷりの、放っておけない弟役、子分役になっていた。
夫人の色仕掛けや“悪戯”に付き合わされ、ご存知、“錠前屋”の面々からは、鞄持ち、お坊ちゃんだなんて言われて、毎日のように遊んでもらっている。あの仏頂面の口下手なアルシェですら、多忙を気にかけつつも、面倒な仕事を押し付けている。あの人、ああ見えて、仕事嫌いなのだ。
からかいはじめたのは、夫人の手紙が切欠だった。
ペルグラン君ってねえ、可愛いんだよ。何をやっても飛んだり跳ねたり。耳を噛んでみたり、えっちな言葉で誘ったり。あるいは太腿とかも撫でてみたり、この私の肢体を押し付けたりしても、だよ。アンリも気が向いたら、遊んでみたまえ。あの可愛い顔が、きっとくせになるはずだから。
ちょうど次の日あたりに、現場でちょっとした怪我をしたのを手当した際に、軽くだけ、からかってみた。孤児院とか、修道院で、子どもたちの面倒を見ることが多かったから、ちょっと生意気な子を、からかってみたりしていたので、その延長である。あらあら、お間抜けさんね、って。
ほろりと、泣かれた。
大慌てで謝った。最後の頼みの綱だったアンリさんにまで、からかわれるなんて。本当に、子どもみたいな理由だった。それまではきっと、ペルグランは自分のことを、頼りがいのあるお姉さんだと思っていたんだろう。悪いことをしたと思った反面、ああ、これは確かに、夫人たちが遊びたくって仕方ないんだろうな、と、仄暗い悦びのようなものが産まれていた。
今まで通り、ちゃんとお姉さんをすることにしていた。でも、たまにこうやって、遊んでみる。弟くんの、可愛いところが見たいとき。それはお姉さんなら、たまにある。
「それで、夫人にも見せるのは、どうしてですか?面識があるというのは、アキャールさまから、軽く聞いていますが」
向こうが落ち着いたあたりで、話を戻した。
「これもちょっと、内緒なのですが」
照れくさそうなのが残ったまま、ペルグランが答えた。
「夫人ね。アキャールさんに、妬いてるんですよ」
「まあ。それは」
「きっと、恋敵なんでしょうね」
恋敵。そんな人が、夫人にいたなんて。それも相手は、あの“細腕のアキャール”さま。なんて素敵で、みっともない話だろう。
ふと、思い返した。左腕を奪われた時。喧嘩した後、襲われた。怒り。邪魔をした。獲物を横取りされた。
つまり夫人は、心の底から嫉妬していて、アキャールの“細腕”を奪い取ったのだ。惚れた男にちょっかい出してる恋敵。それも、自分と会っているときより、きっといきいきした顔で喧嘩するような、一番の強敵を、葬っておきたかった。
「今まで随分と意地悪されてきた、俺からの仕返しです。向こうが嫌だと駄々こねたって、最初っから最後まで、俺の頭の中っていう、特等席で見てもらおうってね」
「意趣返しだなんて、意地の悪い人。でも、たまにはいいんじゃないですか?今まで散々、弄ばれたんですもの」
「多分、本番は、頭の中でぎゃあぎゃあ騒ぎますでしょうね。おい、ふざけるな。見せるんじゃない。爺ふたりの惚気け合いなんて、願い下げだ、って。きっと終わった後、とんでもなく叱られる。でも、覚悟の上です。みんな一緒に、妬きましょうよ。それぐらい、すごいものを見せてくれるって、それだけは約束しますから」
「見事なお覚悟ですこと。本当に、楽しみですわ」
この弟くんのことだから。アキャールやダンクルベールのために、そして皆のために、大盛り上がりできる舞台を用意してくれるだろう。そのためなら、ラポワントと一緒に、あの“細腕”を、万全の状態に仕上げなければ。
そして、ペルグランにも、もっと頑張ってもらうために。
「でも、ちょっとがっかり」
自分の言葉に、ペルグランの表情が、ちょっと曇った。
「君の香水が欲しい、だなんて、素敵な口説き文句。そのまま抱きしめて、ベーゼでもしてくれるのかなって、私、期待してたのになあ。ペルグラン夫人、なりそこねちゃった」
また、ペルグランの顔が、可愛くなって、真っ赤になった。もう、堪えきれなくなって、大笑いしてしまった。そこからはまたずっと、しどろもどろの言い訳三昧。そういうつもりでは、ああいえ、決してアンリさんが嫌いだとか、そういわけではなく、できうればご好意に甘えたくって、とか。
「それに俺にも、もう、決めた人が」
ぼろっと零れた言葉に、思わず笑いが止まってしまった。
「ペルグラン少尉さま?」
「どうか、ご内密に。実は先日、プロポーズをですね」
観念したように、ペルグランが言葉を続けた。よく見ると、左手の薬指が、少しだけ煌めいていた。
思わず、抱きついていた。そして、笑っていた。ペルグランも、それで気が楽になったのか、笑ってくれた。
「おめでとうございます。終わったら、ちゃんとお話、聞かせてくださいね」
「ありがとうございます。ちゃんと、紹介しますから」
ああ、なんて幸せなんだろう。素敵なお爺さんとの出会い。あの夫人の、みっともない一面。そして、可愛い可愛い弟くんの、めでたいお話まで聞けた。
でも、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ、がっかり。
私、ペルグラン夫人に、なりそこねちゃったんだなあ。
2.
悪入道。その名を継いで、いくらか経った。
ダンクルベールの取り計らいで、ひとまず身ひとつと、“足”のいくつかが、手元に残った。“足”を使って、たとえば内に諍いを抱えている連中だとか、食い扶持に困っている連中を見つけては訪いを入れて、一言、二言、置いていく。それだけで、稼ぎになった。そうやって裏の人間たちから信用を獲得し、少しもしない内に、裏の中心、つまり玉座に昇ることができた。
かつて生粋の任侠として名を馳せた、“一家”の親分が、のっそりと帰ってきて、真ん中に腰を据えた。空白地帯を抱えた裏の連中からすると、もしかしたら、ほっとしたのかもしれない。
大通りの十字路には、交通整備の邏卒は欠かせない。表も裏も、そういうものだ。
ヴァーヌ聖教会の席は、思いのほか、簡単に手に入った。やはり向こうも、裏に精通する先代がいなくなったのは、些か不安だったのだろう。あの人とはだいぶんに性質は異なるが、やはり裏に目が届く人間として、自分のような人間がひとりは必要だったという、向こうの事情もあるようだ。ダンクルベールが気を利かせて、あの向こう傷の聖女から一筆貰っていたというのも、あるいは、大きいかもしれない。
先代、つまり悪入道リシュリューとは、同盟相手というか、部下ではないものの、色々と世話を焼いてもらった。恩がある、というのが、一番しっくりくる言い方かもしれない。元いたところが内の諍いで傾いた際、独立の話を持ちかけてくれたし、いくらかの援助も貰った。向こうからすると、盾としての任侠を一枚、持っておきたかっただけかもしれない。
任侠とは、裏の社会における、警察隊と裁判所と職業案内所とかが、一緒くたになったようなものである。でしゃばるやつを叩きのめし、諍いの間を取り持って、食いっ逸れたやつを教育し、仕事を渡す。無論、違法賭博や密造酒、あるいは麻薬なんかを取り扱う連中もいるが、かつての“一家”は、そういうことに手を出さなくても、本筋だけで食う分は稼げていた。
複雑怪奇。あるいは奇妙、とも。表向きは、神学、歴史、数学、天文学、物理学などの大学者。裏の顔は、神算鬼謀を巧みに操り、人を誑かし、貶め、争わせる謀略家だった。小柄の痩せた爺さまで、酷薄ではあるが、いつも飄々として、品性と教養に満ち満ちている。そういう、不思議な人だった。
部屋には巨大な黒板が一枚あって、いつだって、膨大な数式と図形で埋め尽くされていた。一度訪った時、何を計算しているのか尋ねたことがあった。
今の暦だと、再来年の三月が一日多くなるから、それを直そうと思っているんだよ、ジスカールや。何事もそうだけど、ずれを見出すのがね、大切なのさ。それを直すか、直さないか。あるいはもっとずらすかだ。それだけでひとつの、稼ぎになる。あるいは何もないところを歪ませて、ずれをこさえるもよし。価値観のずれ。為替のずれ。地位や役職のずれ。それを見出し、つまんでみる。そう、考えるということ。想像し、推測し、仮説を立て、それを検証するということは、何よりも楽しい。運動は体の勉強であり、勉強は頭の運動だ。私は、それにやみつきになっているだけの、道楽者なのさ。倫理や道徳は、また別としてね。
あの人は、その並ぶもののない頭脳を神通力と称した。小技、裏技、離れ技。誰にもできないことを、やってのける。名跡を継いだが、自分には、そういうことはできない。やれることは、ずれを見出し、直すことだけだ。任侠としての責務と矜持。それが、ジスカールの神通力だった。
憲兵ひとり、接触を図っている。“足”ではなく、悪入道としての手下から、そんな情報が上がっていた。
今、自分は、かなり奥まったところに潜んでいる。そう簡単には、会えない仕組みを作っていた。符牒や伝手を頼って、訪いに来させる。その道中でこぼした金も、小遣い程度の稼ぎにはなる。それをまた、懐の寂しい連中に回してやる。裏なりの、富の再分配だった。
そうやって訪いを入れたのは、何度も見たことのある顔だった。童顔の、若い男である。
「お時間を頂戴してしまい、申し訳ありません。リシュリューⅡ世猊下。そして、ジスカールの親分さん」
ダンクルベールの副官。名家の嫡男、ペルグラン。
「いらっしゃい。それにしても、いつもの通り道とは別の道で来るとはな。つまりは、別件ということか」
「そうなります。ああ、そちらの方についても、いろいろと面倒をかけてすみません」
卓に案内し、軽いものを用意させた。ふと左手を見やると、綺麗なものが光っていた。
「おお、ついにやったか」
思わず、顔が綻んでいた。
「お陰さまで。両親にも、話がつきました」
「でかしたぞ、兄さん。男の本懐、ひとつ遂げたな」
「本当に、何から何まで世話してもらって」
「構わんさ。道のりの大変な恋路を拓くのも、ひとつの仕事になるということを、こちらも学ばせてもらったよ」
ペルグランが、気恥ずかしそうに笑った。
恋をしていた。道ならぬ恋である。
悪い先輩の遊びに付き合わされて、悪い遊びを覚えていた。女遊びだ。最初は酌をもらうぐらいの店に行くぐらいだったが、そろそろ男にならねばと、ちょっと名の知れた女郎酒場に寄った時、そこの女ではなく、女主人に一目惚れしてしまった。
裏ではかなり名の知れた女で、絶世の傾城ではあるものの、気位が高く、なにしろおっかない。それを、初対面で口説き落としたそうだ。ただそこまではいいが、口説き落とすので体力を使い果たし、いざ初陣、といった手前で、疲れ果てて眠ってしまったという。逞しいというか、情けないというか。まあ若い頃は、そういうしくじりもあるだろう。
ただそれが、向こうの琴線に触れたらしい。可愛くて仕方ないと、ぞっこんだそうだ。日を改めて体を重ねて、めでたく男に成り、お互いに、恋に恋した。
ただしかし、名家である。向こうは遊女。身分の差が、あまりに大きすぎる。
そういうことを、相談された。一応、筋道は立てたが、自分は表の人間だから、裏のことはよくわからない。あのひとが裏から表に行くにあたり、何かしら問題がおきないか、不安だという。
二つ返事で了承した。あのニコラ・ペルグランのお血筋が、廃嫡覚悟で添い遂げるというのなら、背中を押すのが、侠の筋というものだ。
相手側と顔を合わせたことは何度かあったので、周辺を洗った。諍いを抱えていないか。言い寄られていないか。借金とか、そういうものとか。えらいもので、諍いは自分で叩き潰しているし、金のやりくりも問題なかった。何人か面倒な客がいたので、そいつらだけは、それぞれにお話をさせていただいて、別の店の女をあてがわせた。
後は、店をどうするかぐらいで、妓楼だとか娼館だとかの経営に詳しいやつを、何人か見繕っているところだった。これも春頃には、片が付くだろう。
「ただまあ、おそらく廃嫡にはなりそうです。でも、気が楽になりました。名前が大きすぎましたから」
「そういうもんなんだろうね。そちらはどうしても、俺たちにはわからん世界だ。ただ、ニコラ・ペルグランといえば、立身出世の代名詞だ。兄さんとしても、男一本、腕一本で、のし上がる。そういうのも、格好がいいだろう」
「そういう捉え方もありますか。いいですね。ここまできたら、格好つけて、やってみます」
そうやってふたり笑い合ってから、それで今回の件ですが、と切り出してきた。合わせて、ダンクルベールには内緒にして欲しい、とも。
「場所をお借りしたい。男ふたりが、喧嘩をしても騒ぎにならないような。むしろそれで、盛り上がれるような場所。いわゆる、喧嘩賭博をやるような場所です」
「そりゃまた、どうして」
「ご存知かどうかはわかりませんが。腕の細い男が、それを望んでいます」
腕の細い男。それを聞いて、何か鮮明なものが、頭の中で広がった。
「まさか、“細腕のアキャール”か?随分、古い名だぞ」
昔、このあたりにまで名が届いていた、とびきりの男だ。
盗みとか強請りたかりとかいう、いわゆる裏の稼ぎなんて一切やらず、名前通りの“細腕”ひとつで、ガンズビュールいちの悪党にまで昇り詰めたという、伝説の喧嘩師である。あのダンクルベールとは、歳の頃は同じぐらいか、少し上のはず。爺になった今、体も悪くなって杖つきとなり、喧嘩賭博の家業も畳んで隠居していると聞いていた。
「あの爺さん。長官とは、友だちなんです。喧嘩友だちというか、喧嘩しかしない、そんな友だち。お互いのことなんか、まったく知らないのに、会えば喧嘩だけして、楽しんでいる。おかしな、男ふたりなんです」
「“細腕と剛腕”だろう?小耳に挟んだ程度だが、知っているよ。俺の知り合いが、一度、ガンズビュールで見たって。顔を真赤にして語ってくれるよ」
ダンクルベールが若い頃、無茶をやって、アキャールと、一戦交えた。それから仲良くなって、ガンズビュールや近隣に訪れるたび、会っているそうだった。その度に、ふたりとも、嬉しそうに、喧嘩をするそうだ。しかもこだわりが強いらしく、まずは酒場の方でちょっとした小芝居をして、皆の気持ちを高ぶらせてから、さあ一丁やっちまおうか、と殴り合う。
どっしりと構える巨躯のダンクルベール。蝶のように舞い、蜂のように刺す、細身のアキャール。正反対の、とんでもなく見ごたえのある喧嘩で、いつからか賭けにならなくなるほど盛り上がるものだから、仕方なく入場料を取ることにしたそうだとも聞いた。
ペルグランも一度、見せびらかしてもらったらしい。それを見たものは、必ずその言葉を使うのが、面白かった。
「病なんですって。胃の腑から、血を吐いている。もう、長くない。だから、警察隊の連中に、お前らの親分がどんだけすごいやつなのかを、最後に見せびらかしたい。爺さんひとりの、最後の願いなんです。でも、どうせなら、もっと派手にやりたいなって」
「つまり、俺たちも見ていい、ってことかいね?」
「やだなあ。もっと欲張ってくださいよ。格好だけにはなりますが、喧嘩賭博をやるんです。絶対に盛り上がる、最っ高の大一番になりますよ」
「おお。あの“細腕と剛腕”のか。悪党ども、誰もが思い描いた、エキシビジョンマッチだ。いいねぇ。言葉にするだけで、わくわくしちまう。いいもん持ってきたな、おい」
「気に入ってもらって良かった。なんたって、活劇をやるには、かっこいい主役と敵役。どっちも欠かせませんからね」
違ぇねえ。ふたりで、大笑いだった。
「ただ本当に、申し訳ありませんが、格好だけです。あのふたり、面倒くさいんですよ。勝敗は、お互いの気が済むまで、なんて言うんですから。賭け事には、向かない喧嘩だ」
「じゃあ、入場料を取ろう。“細腕”の喧嘩なら、金を払ってでも見たい。それぐらい、悪党の間では語り草だよ。あれだろ?カウンターに背をもたれて」
「そうそう、それです。ご注文は?」
「とびっきりを、ひとつ。ってか。いやあ、楽しみだ。場所と、悪党側の客の準備は任せてくれ。兄さんは、警察隊の方と、“細腕”の看病だね?」
「はい。できる限り、密に連絡を取って、花道ひとつ、用意してあげましょう」
そうやって、がっちりと握手をした。
面識はない。ただやはり、侠を任されたものとして、とびきりの男というのは、見ておきたい。それもあのダンクルベールと並び立つというのであれば、星になってからもいい自慢になるだろう。
世の中には、いろんなやつがいる。いろんな、すごいやつらが。
ちょうど、“細腕”の賭博場に出入りしていたというやつも見つかった。どうせなら、内装にもこだわりたい。ガンズビュールのなんとかっていう酒場。それを、そっくりそのまま、再現しよう。そういう事になった。
やっていく中で、女の子がひとり、訪ねてきた。知っていた顔だった。
「これは、ラクロワ姉さん」
ペルグランの同期である。以前、組織のお偉方に粘着されていたのを助けたことがあってから、何度か顔をあわせている。
ペルグランが忙しそうにしているのを見て、普段、助けてもらっているお返しにと、手伝いを申し出たようだった。内密にしている都合、最初は渋られたそうだが、それでもと言い続け、根負けさせたそうである。
軍隊の後方支援に卓越したものを持っているとは聞いていたが、なかなか以上である。見せても大丈夫な部分の金回りの整理を頼んだところ、あっという間にこなしてくれた。資材調達の業者なんかも紹介して貰った。
「すごいもんだね。これならどこであっても、人の役に立てるよ」
「悪入道さまへの、お返しもしたかったですから」
「ありがとう。むしろ、お返し以上のものを貰っちまったよ。ペルグラン兄さんも、随分と助かっているだろうさ」
出した名前に、ラクロワが少し、難しい顔をした。おやと思い、奥に通して、話を聞くことにした。
「ペルグランくんが、結婚するって」
並んで座った、小さい体。やはり、難しい顔のままだった。
これはひょっとすれば、ひょっとする。
「話だけ、聞くよ」
目を合わせず、つとめて穏やかに、返したつもりだった。
「私、ペルグランくんのこと、やっぱり、好きだった」
それで、ぽろぽろと、こぼれてしまった。
失恋。そういうこともある。ただ、何も言うべきではないだろう。ジスカールとしても、その恋路を支えた人間であるので、何を言おうが説得力がない。
色々と、聞いてあげた。ひとりの女の子の、淡いもの。微笑ましくも、悲しくて、つらいもの。
「聞いてくださって、ありがとうございます。これできっと、ペルグランくんと、友だちでいられるはずです」
「こちらこそだ。つらくなったら、またおいで」
お互い、笑顔で。
弱いものの側にいてあげること。支えになってあげること。それが侠の務めである。
恋路ひとつ、支えてやった。それでも、その裏にあったものを、見落とした。落ち着いてから、落とし前ひとつ、つけることにしよう。それだけ、覚えておくことにした。
「おお。何をやっているかと思えば、あのジスカールじゃあないか。ここであったが百年目だなあ」
舞台となる酒場が仕上がる頃、その前で、聞き覚えのある声と鉢合わせた。
大翁と小柄な老婦人。驚きしかなかった。
「ブロスキ男爵閣下。どうしてまた、こんなところに」
もと警察隊本部捜査一課課長、ブロスキ男爵マレンツィオ、そのひとだった。そうそう見つかる場所ではないはずである。
「かみさんとのデートの帰りでねぇ。ちらっと目に入ったのが、随分、見覚えのある建物だったからね。いやはや、確かに宗教建築だ。後世に残すべき、歴史的価値のあるもののひとつには、間違いないからな」
そういって、嬉しそうに笑っていた。
「見覚えがあるということは、もしや、ご存知なのですか?」
「ガンズビュールの“細腕”だろう?懐かしいねえ。こっちに来るのかね?」
「あ、いや。この件、どうか内密に」
大慌ても大慌てで、ひとまず中に通すことにした。
ひとしきり事の次第を説明したところ、呵々大笑としていた。どうやら、あのガンズビュール連続殺人事件の際、ダンクルベールとアキャールの喧嘩を見たことがあるらしい。
「悪党どもめがエキシビジョン・マッチとは、いかしたことをやるじゃあないか。そうとなれば、不肖、このマレンツィオめも手伝わせていただこう」
前のめりも前のめりである。ご内儀さまも、楽しそうにしていた。
お互い現役時代から、このひとだけはどうも、扱いに困るところが多かった。なにしろ肩書が立派な割に小回りがきくひとだから、その身ひとつで乗り込んでくるのだ。その上で、こちらの面倒事まで引き取ってくれるのだから、ありがたいにはありがたいが、周りの目を気にしない無防備さと無頓着さには、よく困らされたものだった。
警察隊本部から消防部部長になった後は、肩書の都合、いくらかやりやすかったが、いまや国民議会議長たる御仁だ。悪党と接触していたことなど、すっぱ抜かれでもしたら大ごとである。
内装周りを覚えていたようだったので、色々と教えてもらった。流石、あのダンクルベールの上にいたひとである。その場にいたものに対し、的確に指示を与えて、てきぱき働かせていた。
「閣下のご厚意、ありがたく頂戴いたしました。これでひとつもふたつも、面倒が無くなりました」
「構わん、構わん。花道ひとつこさえるというのであれば、俺も骨の折り甲斐があるというものさ。日付が決まったら、教えてくれたまえよ」
「は?」
「当然だろう。“細腕”の大一番、この俺が見届けなくてどうするんだ。よもやお前、手伝わせておいて、とびきり大事なものを見せないつもりでいたのか?ええ?」
ずいと、その顔が迫ってきた。へそを曲げると面倒臭いのも、このひとの特徴である。
「ほら、あなた。親分さんもお困りですから」
男爵夫人が、穏やかに割って入ってくれた。
「おお、すまん。やはりお前は気が利くなあ。突然、押しかけて、お節介を焼いたのだからな。ここは確かに、引くべきだな」
「ああいえ、是非にでもご参加いただければと」
つい出た言葉に、マレンツィオの目が輝いた。
「では、よろしく」
その一言を残し、笑って帰っていった。
「昔から、ああいうひとだったんですか?」
「昔から、ああいうひとだったんだよ。だから大変なんだ」
手下の言葉に、眉間を摘んでしまった。
天下御免のご印籠。思わぬものを頂いてしまった。どうしたものか。
いくらもしないうちに、酒場ひと棟、出来上がった。加工にもこだわったので、新築ではあるが、年季の入った見た目になっている。
主催の片方も、準備が整ったようなので、内見を頼むことにした。
「何をやっているかと思えば、随分、手の込んだものを拵えたな」
褐色の大男が、呆れた顔で現れた。
「たまには、俺の我儘にも付き合えよ。そしてお前の、大事な部下のにもな」
「構わんがなあ。ここまでちゃんとしたものを見せられると、今から緊張しちまう。まったく、困ったもんだよ」
紙巻を咥えて、それでもどこか、ダンクルベールは嬉しそうだった。
中に入ると、ダンクルベールの顔が一気に綻んだ。あちこちを眺める度、感嘆を漏らしていた。ペルグランも興味津々といった感じで、走り回っていた。
「すごいな。そっくりそのまま、ひとまわり大きいだけだ」
「当事者がそういってくれるなら、ありがたい限りだね」
満足そうな顔に、こちらも安心した。
これで舞台は整った。あとは客と、もう片方の主催だけ。
「で、小芝居の準備は大丈夫だろうな」
「準備といったって、あれはほとんど即興だし」
「ならいいんだが。一応、前提の確認だけはしておくか?」
ダンクルベールが訝しげな表情を見せたので、ジスカールはわざとらしく、頭を掻いた。
これだけはおそらく、ダンクルベールも予想していないだろう。ペルグランは既に、してやったりの表情でいた。
前提として、ここは、ガンズビュールのあの店ではない。そしてアキャールは既に、引退した身である。
となれば必然的に、亭主がひとり、必要になる。
「この店の亭主は、お前だぞ。ダンクルベール」
言った言葉に、ダンクルベールの目が、丸くなっていた。
3.
ラポワントという町医者の医務院で、世話になっていた。
少し年下ぐらいの、恰幅のいい、気立も気前も気持ちもいい御仁だった。なにより声がいい。腹の底から、朗々と響き渡る。たまに気分のいい時なんかは、庭先でギターをぽろぽろと弾きながら、歌っていたりもする。
おんなじ顔をした婦長さまも、本当に優しい。たまに来る、従軍医師をやっている息子さんも、痩せてはいるが、おんなじような、柔らかい顔つきだった。
音に聞いた聖アンリ。生きた聖人。悪党の自分が、まさかその人の世話になるとは思ってもいなかった。
歳の頃、きっと二十半ば。小柄で、可憐な美貌。額の端から目の下にまで、袈裟に走った物々しい向こう傷。
これが、あの、向こう傷の聖女。心優しい娘だった。
声が、いつまでも聞いていたいほどに、素敵だった。少しだけかすれた、それでも儚げで、透明感のある声。優しい言葉ばかりが溢れてくる。時折、重病人や、大怪我を負った人が運ばれてくると、その声に決意と勇気が乗る。大丈夫。あなたを死なせない。お星さまになんかさせやしない。聞くものの、心を動かす声。
いつの間にか、できる限りを手伝ったこともあった。そうして、助かった生命にも、助からなかった生命にも、必ず涙を流していた。泣き虫で意地っ張りの、女の子だった。
違和感は、ひとつだけあった。
「先生。ありゃあ、なんだい?」
壁に掛けられていた、大剣。鈍色の刃。切っ先は、丸められている。
「ああ、昔の仕事道具ですよ」
「あれが、ですかい?」
「昔ね。ムッシュと呼ばれる、代々の職業があったんだ」
そう言って、ラポワントは少しだけ、悲しい顔で笑った。
死刑執行人。
“旦那さん”を指す言葉として、ムッシュ、あるいはムシューというのがあるが、前者は滅多に使わない。それは、その仕事と同義であるからだ。代々の死刑執行人とは、その重責とは裏腹に、死を取り扱うことから、忌み嫌われるか、あるいは、畏れ敬われるか。いずれにしろ、まっすぐに見てくれる人は少ない。
故郷にも、ムッシュ・ド・ガンズビュールがいて、悪党の首を、見せびらかすように切り落とす、酷薄な人相の男だった。
ムッシュ・ラポワント。そういう、過去があったのか。
「喧嘩ってなあ、殺すところまでやらない。まして俺のは、喧嘩賭博っていう、見世物だ。人を殺すってのは、大変なことだと思う。よほど思い詰めて、頭の中がそれしか詰まってない状態にならなきゃ、できないことだ。それを家業にするっていうのは、どれほどのことなんだろうね」
「ありがとう、アキャールさん。あんたは本当に、優しい」
薬湯を渡された。向こうはきっと紅茶だろうか。
柔らかい顔。肌艶の良い、恰幅のある偉丈夫。笑顔だが、眼は真っ黒だった。
ひとごろしの眼。直感していた。
「尊厳をね、大切にしたいんですよ。どんだけ悪いやつでも、どんだけ嫌われているやつでも。死ぬ時ぐらい、胸張って死なせてやりたい。それだけは苦労を惜しまなかった。そうして首だけになった人を、笑い物にする連中も、許せなかった。最後まで、死刑執行人としては、失格でした」
黒いものが、薄らぎながら笑った。物悲しさから、思わず目を逸らしていた。
「人間としては、百点満点だと思いますよ。あんたのその声と語り口調なら、きっと皆、心開いて、胸張って、穏やかに死んでいけたでしょうさ。俺だって、きっとそうできる」
「そうだと思いたい。ただ、政変の際、それができなくなった。尊厳もくそもない、ただ首を跳ねるだけの仕事。だから、やめた。法律も変わって、代々の死刑執行人も、いらなくなった」
やめたのか、やめたくなったのか、やめざるを得なくなったのか。聞こうとも思ったが、どれも悲しいものにしか繋がらなかった。
「ダンクルベール長官に目をかけてもらわなければ、私はここで、荒んで飲んだくれた、馬鹿者で終わっていたよ」
ラポワントは、気持ちのいいおやじの顔のまま、目だけが、悲しげだった。
代々の死刑執行人。優秀な医者。心豊かなひと。そういう、幾つかの顔。
自分には、喧嘩師としての顔しかなかった。ただそれを疎むことは無かったし、こうやって他の人の顔を見た時、羨ましいと思うことは少なかった。
どれもこれも、泣いている顔ばかりだったから。
「体を仕上げていきましょう。うつ伏せになって」
少しして、やはり朗々としたいい声で、ラポワントが促してきた。言われたとおりにする。
「東洋の医学で、鍼というものがある。体のあちこちにある点と体の仕組みが繋がっていて、そこに、こういったものを刺し込んで、揺り動かす。そうして澱んだものを吐き出したり、あるいは萎んだものを膨らませる」
「便利なもんですね」
「ただまあ、やれることは限られてくる。あんたの病は、かなり進んでいるから。まずは、整えるところまでです。力を引き出すのは、覚悟を決めてからだ」
「もう、決まってます。そのために、来たんです」
うつ伏せになりながらも、笑った。
「そうこなくっちゃね。まあ、順番でいきますよ」
ラポワントも、笑っていた。
背中に、掌が乗せられる。しばらくそれが皮膚の上を這い回った後、ずしりという感覚があった。金属の杭とか、柱を建てられたような。痛みはないが、重さにいくらかうめいた。それが、肩、腰、首筋に。
刺されたそれを、ラポワントはいくらか動かしているようだった。柱が太くなる。重さが、増していく。意識が、押しつぶされる。
気が付いたときには、陽が傾いていた。眠っていたようだった。
拳を握る。熱が、籠っている。頭から体に伝えるものが、早く、正確になっているような気分でいる。その頭も、些かにぼんやりはしているが、血が巡っているのがわかるほどになっている。
これならあるいは、本気を、本気以上、全盛期以上を出せるかもしれない。心が、沸き立っていた。
戦いの日付も、決まった。伝えてくれたのは、もしかしたら見覚えのある顔だった。背丈は低くともしっかりとした体つきで、目の細い、頑固そうな見た目の老警。
「もしや、先輩さんかね?」
思わずといったふうに出た言葉に、そのひとは柔和な笑顔を浮かべた。
「久しぶりですねえ。あたしとは、あれ以来ですものね」
「ビゴー准尉さまも、お知り合いなのですか?」
そのひとに席と紅茶を用意しながら、アンリが問いかけていた。もうひとり、背の高い、金髪の美男子もいた。
「メタモーフ、あるいはシェイプシフター。その頃にね」
やはり、そのひとだった。顔が綻んでしまった。
「お元気そうで何よりでさぁ。俺はこんなんなっちまいましたが、先輩さんは背筋もしゃきっとして、羨ましいねえ」
「なぁに。あたしももう、爺ですよ。がたが来ていないだけで、いずれ来る」
本当に爺さんの顔になってしまっていたが、それでも語り口や笑みは、変わっていなかった。
ダンクルベールとは違い、ビゴーとは、数日しか顔をあわせていなかった。それでも、覚えていられた。
「あんたも、そんなんなっちまってもまだ、喧嘩をやるんですねえ。腕も一本、無くなっちまったってのに」
「こればっかりはどうにもね。ただまあ、これで最後です。この通り、患いものをしちまったもんだから、今まで出会った連中に、挨拶回りをしていたんだ。それの最後が、ダンクルベール。あいつには礼のひとつじゃ、片付きませんから」
「お互い、悪い友だちを持っちまったもんだねえ。あのひとも素直に、ありがとうとは、言いたがらないひとですから」
朴訥としながらも、柔らかい口調。聞いていて、心が落ち着いてくる。こちらから心を、開きたくなる。
隣の美青年。金髪碧眼。二十に入ったばかり、という感じ。こちらも何故か、見ていて安心するものがあった。
「そちらの方は、息子さんかしらね?」
「そんなもんですかね。仕事としての、跡取りです。ありがたいことに、あたしと組んでくれています」
促され、若者は会釈の後、敬礼を返してきた。
「警察隊本部、少尉。ガブリエリと申します。ビゴー准尉殿に憧れて、警察隊に入りました」
凛々しい笑顔だった。
「お言葉、丁寧にござんして。“細腕のアキャール”と発します。立派なお世継ぎさまですな」
「お名前は、何度も拝聴しておりました。ペルグランというものをご存知でしょうか?」
名前を聞いて、なるほど、と感じたものがあった。
「ご同期さんにござんすか」
「はい。以前、ヴィジューションで、杖の喧嘩を見せてもらったと、今でも顔を真赤にして語っております。あの長官と互角に戦える方とお伺いしておりましたもので、お会いできて光栄です」
美貌をはにかませた。
ありがたいことだ。格好をつけてきた甲斐があった。
「あんたはね。長官もペルグランさんも、そしてスーリさんも。皆、今でも話題にしてるんですよ。“細腕”っていう、とんでもないやつがいるって。その他にも色んな人が、あんたのこと、知っていますよ。年寄りも若いのも、よく話題に出している」
ビゴーの言葉に、心が嬉しくなっていた。
「喧嘩ひとつで、そこまでできるもんなんですね」
ちょっとだけ、呆れたようにして。
「ありがたいことに、できちゃいましたね。喧嘩ってなあ、相手がいてこそ、成り立つものですから」
「その相手に恵まれたってやつですか」
「本当にそうです。遊んでくれるやつがいた。そいつ等が、友だちになってくれた。友だちが友だちを呼んでくれた。そしてこうして、助けてくれて、お膳立てまでしてくれるんだもの。俺は本当に、幸せものです」
心にあるものを、言葉にした。それで、ビゴーも納得したようにして、笑ってくれた。
「あたしとガブリエリさんは、仕事の都合、行けませんがね。どうせ無茶をするつもりでしょう。後悔のないように、大喧嘩してやってください」
「顔を見せてくれただけ、嬉しいです。本当に、お世話になりました。ありがとうございました」
差し出した右手。迎え入れてくれた。ガブリエリは、両手で迎え入れてくれた。
言葉はほとんど交わしていないが、心は通わせた。きっといい後継ぎになるだろう。
その日の朝、訪いを入れてきたのは、司祭だった。
司祭と呼べそうなものは装束だけで、その威容は悪党のそれと言って差し支えない。それも、きっと生粋の任侠者である。所作の端々が、いちいち決まりごとのようだった。
「初の貴見にございます。手前、ヴァーヌ聖教会司祭、リシュリューⅡ世。名を、ジスカールと発します」
「これは、“悪入道”さまの、二代目さまでございますか?」
驚きのあまり、思わず、割って入ってしまった。それに気付いて、とっさに手で口を塞いだ。任侠の口上名乗に割って入るなど、不作法も不作法である。
自分の動揺を察知したのか、アンリが、さっと間に潜り込み、寝台の上の自分を守るように、手を広げ、仁王立ちの構えを取ってみせた。
少しして、向こうはそっと瞼を閉じ、静かに会釈をした。構わない、と受け取って良さそうだ。アンリもそれを察したようで、こちらも会釈を返して、その身を引いた。
悪党の中でも、とりわけ任侠筋は、ともすれば一般社会や軍隊、あるいは宮廷よりも、しきたりに五月蝿い世界である。アキャールも現役の喧嘩師時代は、任侠筋に近い位置にいたので、何度もこの口上名乗をしくじって、お相手さまに怒鳴られたり、ぶん殴られたりしたものだ。そういうのが面倒だったから、できるだけ早くに稼ぐ分を稼いで、それを元手に自分の店を構えたのだった。一国一城の主となってしまえば、互いの作法にけちをつける必要もなくなる。
「手前の先代が旅立ってから幾年経ち、誼のありました警察隊本部長官、ダンクルベール中佐殿の、たってのご要望により、非才の身ではありますが、名跡を継がせていただきました次第にございます。先代同様、この首都近郊における面倒事について、取り仕切りの一切を任されております。どうぞ、お見知り置かれ、行く末万事、ご別懇に願います」
その男の声は、がっしりと太く、静かで、厳かでありながら、それでも温かく、優しいものを感じた。ただやはり、一言一句をはっきりと発する発音や、区切り方のそれは、任侠の色が多分に濃く、聴いているだけで疲れを覚える。
悪入道、リシュリュー。
悪党を名乗る以上、必須科目と言っていい。篤実な宗教家であり、高名な学者であり、そして何より、神算鬼謀を駆使する謀略家だった。自分や、眼の前の二代目さまより、もう一世代上ぐらいで、何年か前に亡くなったところまでは知っていた。よもや、こんな生粋の任侠者が名跡を継いでいて、しかもダンクルベールとも繋がりがあるとは、まったく知らなかった。
「左様でございましたか。お言葉、丁寧にございます。申し遅れまして、手前、カジミール・アキャールと発します。ご賢察の通り、しがなき隠居でありまして、また床の上からの発しとなり、御免を蒙ります。加えまして、先程の下拙の不作法についても、幾許かのご勘弁を頂ければ、有り難い限りでございますので、どうかご熟懇を願います」
先程の下手については、文字通り、目を瞑ってもらえたが、口上名乗など久しぶりが過ぎたので、端々に失礼がないか、ちょっと不安だった。向こうは、改めて静かに会釈をしたので、問題はないようだった。
このあたりで、いかめしい顔が、いくらか綻んだ。
「ご要望のものについて、手配が整いましたので、改めてご報告に参りました次第にございます。宴につきまして、本日夕刻頃より、こちらに記した店にて、席をご用意しております。ご準備が整いましたら、どうぞ、お越しくださいませ」
そう言って、招待状を一通、手渡してきた。その後、先程の立ち位置より二歩ほど下がり、ラポワントとアンリに一度ずつ目配せをしてから、深めの会釈をした。
「ムッシュ・ラポワントさま、そして聖アンリこと、チオリエさま。ご両名さまに置かれましても、この度は手前どもの嘉賓、“細腕のアキャール”さまに対し、多分のご寛恕を賜りましたこと、この場にて、厚く御礼を申し上げます。名にし負うご両名さまのご慈悲とご尽力無く、此度の宴を催すこと能わず、感謝の念に堪えません。どうぞご両名さまも、万象お繰り合わせの上、ご出席いただければ、有難き幸せと存じ上げます。神たる父、御使たるミュザと、先代の悪入道、リシュリューに代わり、改めて、手前より、心よりの感謝を申し上げます」
「ご厚意を、感謝いたします。悪入道さま。そして、ジスカールの親分さま」
そう返答したアンリに、向こうは、にっこりと笑って、また会釈をした。
では、これにて。と言って、“悪入道”は踵を返した。ちゃんと外に出たことを確認してから、ようやく、大きく息を吐くことができた。
「いやあ。久しぶりに任侠さんを相手にすると、疲れるわ」
「久々に拝見しましたが、すごいもんですな。警察隊の軍曹連中よりよっぽど形式張っていて。ありゃあ、おっかない」
「悪党には悪党の作法ってのがあるんですが、きっとあのお方は、相当厳しいところで育ったんでしょう。俺の聞いていた“悪入道”とはまるで違う。よくまあ、アンリちゃんも間に入ってくれたよ。爺が下手こいたせいで、苦労をかけたね。ああ、ありがとさんにございます」
アンリが紅茶を持ってきてくれた。生姜とか、蜂蜜を溶かし込んでいる。これで、ようやくひと心地つけそうだった。
あの峻烈な悪党を前に立ちはだかるとは、やはり生ける聖人、度胸の桁が違いすぎる。
「なぜかはわかりませんが、アキャールさまが怯えていたので、とっさに」
「そうさね。人の話は最後まで聞け、ってのが一般常識で、それを極端にしたのが、任侠の常識さ。口上を遮れば、生命に関わる。それでいて、普段はきっと、べらんめえ口調だよ?本当に、任侠さんは面倒くさい」
「きっと親分さまも、あの“細腕のアキャール”さまに失礼のないようにと、張り切っていたんでしょうね」
「張り切ってる、かぁ。やっぱり聖女さまは、肝の太さが違ぇやな。あんたきっと、いい女親分になれるよ」
「それもきっと、楽しそう。屈強な男たちを侍らせた、魔性の女かぁ。反対のものには、やっぱり憧れちゃいますよね」
自分用に淹れた紅茶を含みながら、にこにこと笑った。
向こう傷の女親分、アンリエット。どんな女か考えなくたって、その名前だけで、ぞっとしない。
最後にひととおり、体を診てもらい、鍼を打ってもらった。少しだけ眠って起きた時、力は、みなぎっていた。
装束は、いつも通りだった。短靴。七分丈程度の、暗茶のキュロットと紅い腰襷。ちょっと洒落の入ったシャツに、真紅のアスコット。これが、喧嘩師としての正装だった。まだ冬なので、羊毛の二重回しと首巻き、それと、つばの広い羽根つき帽子で格好をつけている。あとは仕事道具の、鉄心入りの杖を携えれば、それで終わり。
夕暮れ時。案内された店は、既に、ごった返していた。それでも、どこか静けさというか、緊張感が漂っていた。
内装を見てびっくりした。自分の店、そっくりそのまま、一回り大きくしたような感じだった。懐かしさと一緒に、いろんなものがこみ上げてきた。カウンターも、いい感じに煤けている。あの店は、居抜きだった。最初から結構、こなれていたのだ。それも見事に、再現されていた。
カウンターに促される。アンリとラポワントは、少し離れた憲兵達の席に行った。先に話が行っていたのだろう、見たことのある顔の、若い亭主が、温かいものを出してくれた。
酒は、やはりこわさがある。やりとりのなかで一本飲むことにはなるから、それ以外は、違うものにしておきたかった。
軽く、あたりを見回す。憲兵から悪党まで、結構揃っている。憲兵の中にも、がらの悪いのは何人かいて、こちらに向かって挑むような目つきをかましてくるやつがいた。まあ向こうも、わかったうえでやっているはずだ、余計なことはしたくない。対して悪党の方は、揃いも揃って目が爛々としている。まさしく、自分たちの喧嘩を見に来ただけの連中だ。
驚いたのは、悪党側の席に、あのブロスキ男爵マレンツィオ閣下と、その奥さまらしきご婦人がいらっしゃって、こちらの顔をみとめると、何も言わず、笑顔で手を振ってくれた。昔、働いた無礼もまとめて許してくれて、酒も交わした気のいい御仁だ。こちらも、笑って会釈だけ返しておいた。
長い旅だった。
胃の腑を患ったことを知ってから、すぐに店を畳んだ。手下どもは、気の許せる悪党たちに任せたり、幾らか包んで、独立させた。あるのは自分ひとっつだけ。親も子も、知らない身の上だ。
残った持ち物は、この“細腕”と、山ほどの友だちだけだった。
だから、会いに行った。美しい風景と、温かな家族。人の優しさ。子どもたちの、愛くるしさ。何もかもが、新鮮だった。今まで恥じていた見識の至らなさを、これほど嬉しく思ったことはなかった。世界とは、自分が住んでいるこの大地とは、これほどまでに素晴らしいものが溢れていたのかと。
既に亡くなっているものも、いくらかいた。墓になってしまったものの前で、何をするわけでもなく、しばらく座って、ただ語り合った。覚えてくれていた。楽しかった。
はからずも旅先で出会う友だちもいた。ヴィジューション。ダンクルベールだった。街道沿いの連続殺人事件を解決した帰りだったという。自分はそこら辺の女を口説いてみたり、あるいはやっぱり、お礼を言っていたところで立ち寄った酒場だった。一発喧嘩して、また大騒ぎした。
ありがとう。ただその言葉だけを携えて、歩き回った。
首都近郊にたどり着いたところで、かなりの量の血を吐いた。雨が降っていた。夜。そのまま動けなくなり、道端で倒れ込んだ。ああ、これで死ぬんだろうな。まあ、上出来かな。そう思って、眠ろうとしていた。お疲れ様でした、と。
目が覚めたのは、どこぞの娼館だったはずだ。
若い男と、本当に綺麗な女が、心配そうにしていた。見たことがあった。ダンクルベールの副官、ペルグラン。路地裏に倒れていたのを見つけて、ひとまず近いところに運び込んだという。なんでまた名家のぼんぼんが娼館だなんて、と思ったが、ひとまずは礼を言った。その後に、思いの丈を伝えて、頼み込んだ。
ダンクルベールと、喧嘩がしたい。
何度も拳を交えた友だちだった。もしかしたら、一番多く喧嘩をしたかもしれない。
ガンズビュールで腕を落としてからも、向こうも左足を悪くしたようだったから、じゃあ、杖でも使ってみるかと、ふたりで試行錯誤した。杖の喧嘩術は、ごろつき連中や、あるいは不良貴族の嗜みとして、ある程度の認知度があった。それをふたりで、切磋琢磨した。何回か打ち合うだけで、すぐに腕の延長線になった。自分は足も健在だったので、足技も絡めて多種多様な攻め口。ダンクルベールは、もとより足をあまり使わないやつだったから、どっしりと構えて、来るものをさばきつつ、一撃必殺を叩きつけるやり方に。お互い、自分のやりかたを見つけてからも、何度もやりあった。
ありがとうという言葉だけでは、伝えきれなかった。
だからやりたい。見せびらかしたい。ぽつりと、漏らした。
馬鹿な願いだとは思っていたが、ペルグランは顔を真赤にして、是非とも、と言ってくれた。それからすぐにラポワントの世話になって、体もどんどん元気になった。
後々になって、あの時の別嬪さんが、ペルグランが惚れ込んだ女郎酒場の女主人で、家の名を棄ててでも添い遂げると聞いて、飛び上がるほどびっくりした。
おめでとう。おめでとう。そして、ありがとう。
出会いに恵まれて、今があった。だから、とびっきりの恩返しをしなければならない。緊張していた。いつだってそうだった。勝てるかどうか。期待に応えることができるか。皆に楽しんでもらえるか。そして、見せびらかしてやることができるかどうか。
不安とは、いつも戦ってきた。自分には結局、この“細腕”しかなかったから。
ふと、正面のバーテンが、自分の手首に香水をふりかけてるのが目に入った。それを軽く嗅ぐと、栗色の瞳が、次第に朱が差しはじめ、そしてついに、鮮やかな朱に染まった。何かの合図か、手妻か。よくは分からなかったが、その仕草で、おそらくそろそろ始まるのだろうという、予感がした。
そして、奥から、気配が見えた。ゆっくりと、こちらに。
さあ、まずは、芝居の始まりだ。
「よう、お客さん。注文は決まったかい?」
褐色の肌。杖つきの、大男。その一声だけで、悪党どもからどよめきが上がった。
紙巻の煙をくゆらせながら、そのままカウンターの、椅子ではなく、カウンターそのものに背を委ねる。
やはり大きくて、分厚い。自分の倍以上は質量があるように思える。
緊張する。なんたって、いつもとは逆だ。自分が客。向こうが亭主だ。ちょっと小癪な客を、どう演じるべきか。
「腹ぁ減って仕方がねえんだ。もう何年も、ここのご自慢には、ありつけてなかったんでね」
「嬉しいねえ。でもうちは、これでも高級店だ。持ってくるもんは、持ってきてるのかい?」
「金は無い。あったところで、チップをはずめって、つけ上がるだろう?」
駄目だな。やっぱり慣れてないから、言葉が多くなる。ダンクルベールのように、一言でばしっと、とは、うまくできない。
「それじゃあ、これにてさようなら、だね」
ダンクルベールが、腰を浮かせた。このあたりで、憲兵たちも、おおっと、声を上げはじめた。ようやく趣旨を理解できてきたらしい。思わず、といった感じで、ダンクルベールの鼻が鳴っていた。
場は温まった。これで、あとは好きにできる。
「待ちねぇ。遠路はるばる、友だちが来たってのによ」
「どうだったかしらね。俺の知っている友だちは、もっと元気で、張り合いがあったはずだけれども?」
「どうにも、腹ぺこが過ぎてね。少し引っ掛けて、腹を膨らませてからでも良かったんだが。ただまあやっぱり、ここの前を通ると、どうにもねえ。いい匂いに、つい負けちまう」
「そいつは悪いことをした。友だちひとり、呼び込みたくってね。ついつい、張り切りすぎてしまったようだ」
「おお。そいじゃあ、たんと振る舞ってくれるってことで、よろしゅうござんすかね?」
「勿論。お得意さまですもの。とびっきりを振る舞うさ」
ダンクルベール。指を三回、鳴らしてくれた。
「一名さま、ご案内だ。丁重に、もてなしてやろうぜ」
大音声。拍手と口笛。悪党も憲兵も、肩を組んでの大はしゃぎだ。泣いているやつもちらほらいる。
頃合いとばかりに、どん、と緑の瓶がふたつ。勢いが良すぎて、ちょっと零れた。
カウンターでバーテンを決め込んでいた、ペルグランである。本日の主催だ。きっとこいつも、緊張していたんだろう。でもそれぐらいでちょうどいい。自分もダンクルベールも、おんなじぐらい、張り詰めていた。
三人、顔を見合わせて、笑ってしまった。そうして三人とも、よくできました。そう言って、労いあった。
段取りなし。しかも逆。それでもお互い、上手にできたみたいだ。この大歓声、この熱気。国家憲兵から、名の売れた悪党どもまで。一番の舞台を用意してくれた。
ありがたい。最高の門出だ。とびっきりの、花道だ。
緑の瓶を引っ提げて、奥の間へ向かう。懐かしい。殆ど同じ。そっけない空間に、木の柵の四方が、ひとつだけ。
そこに、男ふたり。そして、取り囲む熱狂の渦。
「面倒な決まりは、無し。勝敗も、言うまでもなし」
「ああ。お互い、気の済むまでやろう」
そう言い交わして、ふたり、緑の瓶を一息で飲み干した。
一旦、背を向けて、柵の隅まで寄る。今回は特別に、セコンド付きだ。向こうは、あの悪入道とブロスキ男爵さま。対してこっちはラポワント先生と聖アンリだ。
お医者さまふたり。心置きなく、死ぬまで喧嘩ができる。
「精一杯を施したつもりだ。行ってらっしゃい」
ラポワントが、拳を突き出した。同じように突き出して、拳を合わせた。
「アキャールさま。どうか、ご無事で」
アンリは、心配そうな表情だった。どれだけ格好つけた芝居を見せつけても、やはり、自分の体のことが気がかりなのだろう。女を、それも聖女を喜ばせるのは、やはり難しい。
「悪党にゃあ、聖人さまのご加護は、有り難みが過ぎるんだよなあ」
アンリの手を取り、甲に軽いベーゼをしてみせた。可愛らしい、小さな嬌声が上がった。
「けれども可愛いこちゃんに、頑張れって言われちゃうとね。ちゃんと帰って来るから、手当を頼むぜ?」
目を合わせると、笑ってくれていた。よし、ほぐせたみたいだ。
「お任せ下さい。でもほんと、殿方は幾つになっても、格好付けたがりなんですね。あのお芝居、お上手でしたわ」
「男ってのは、格好付けるために、男をやるもんさ」
向き直る。数歩。既に間合い。
「ようし。見せびらかしてやろうぜ、ダンクルベール」
「おう、アキャール。とことんまで、盛り上げてやろう」
さあ。憲兵ども、悪党ども。お集まりのご歴々よ。
とくと味わえ。“細腕と剛腕”。俺たちの妙味を。
火花。お互い、自分でも見えないほどの、鋭い横薙ぎだった。相変わらず構えは同じだが、やはり巨躯だ。だが、足は動かせまい。手の内は、お互いに知り尽くしている。
「そいじゃ、ま。お招きいただきました“お憲兵さまがた”と“小悪党ども”に、不肖、この“細腕のアキャール”の妙味。とくと御覧いただきましょうかねえ」
張り上げた。大音声が、返ってきた。思った以上に声が出る。それならば、体もきっと、思った以上に動いてくれる。
やはり、踏み出した前足。膝を蹴ると見せかけた、軸の移動。膝を守ろうとした杖を、逆回しで払った。空いた腹を、触る程度に、しかし速さを一番にして、蹴りかかった。それがぶつかるか否かのところ。ほぼ背中を、薙ぎに行く。
爆音。すんでのところで、杖が間に合った。
「くそったれ。やっぱり間に合うよな?」
「間に合わせたんだよ。くそったれ」
離れた。褐色の禿頭に、顔半分を覆った白い髭。満面の笑みで、応えてくれた。
ああ、ありがとう。ダンクルベール。
上段を二発。それから膝、腰、肩と狙っていく。向こうは剛腕。打ち合わせることは、なるべくしない。杖ごと持っていかれるので、うまくいなしていく必要がある。
体は動く。それも予想以上に。息も整っている。絶好調だ。向こうも同じようで、左足の不利なんて、まったく感じないぐらい、とんでもない一撃がばんばんと飛んでくる。いなし、かわして、間合いを作っていく。
あるいは零距離まで飛び込んで、肩に触れる。同時に、後ろ足の脹脛に対しての踵落とし。相手に痛みを蓄積させる、得意技だった。しかし今回は何でもあり。体当たり一発で、一気に引き剥がされる。上手く受け流しているので、大事には至らなかった。
客は大盛りあがりだ。憲兵も悪党も。アンリも、声を張り上げて応援してくれている。聖女さまの声援だ。応えないわけにはいかない。どんどんと前に出て、押して、押されて。たったそれだけでも、声が上がる。
見せびらかしている。それができている。本当に、ありがとう。ありがとう、ペルグラン。ありがとう、ラポワント先生。ありがとう、聖アンリ。そして、ありがとう、皆。
感謝を、杖に乗せた。思いを、叩きつけた。心のすべてを曝け出して、ありったけをぶつけていった。全部、受け止めてくれる。全部、受け入れてくれる。
やっぱり大きいな。お前は、本当に大きい男だな。そうやって全部受け入れて、溶かして、怒りも、悲しみも、全部ひとっつにしてくれるんだろうな。
でっかい海原だ。ダンクルベールという、大海原。
こめかみに、横薙ぎが飛んできた。それが見えた。そう思った。そう、思えていた。
意識だけが、立っていた。体は、かがみ込んでいた。
血が、広がっている。池ぐらいに。胸が、痛い。苦しい。一撃はすんでのところで避けたのか、あるいは、ちょうどそれが来て、助かったのか。
時間切れ、か。
「来るな。触るんじゃねぇ」
誰かの気配。叫んでいた。それだけが、唯一、できた。
見上げる。あのときと同じ、揺らいだ瞳。
「お前、病だったのかよ。先に言ってくれれば」
「五月蝿えんだよ、馬鹿野郎」
根っこが、怒鳴り返していた。はじめてのときと、同じだった。根っこの激しいものが、飛び出してきた。あるいはもう、根っこ以外は、使い切ったのか。
「何が、警察隊本部長官だ。何が、ダンクルベールの殿さまだ。ここにいるのは、ただの男、ふたりだろう。ただのダンクルベールと、ただのアキャールだ。勝ちも負けもなし。それなのに、今更、情けをかけようってのかよ」
根っこは、太かった。それだけで、立ち上がれた。口から血を滴らせながら、肩で息をしながら、脂汗が目に入っても、それでも、立っていられた。
「死にてえんだよ。俺を、世に刻みつけてよ」
綴っていた。根っこを。本当の気持ちを。
「終わりにしてぇんだよ。俺がいたってこと、刻みつけてから。生まれも、体にも恵まれなかった。あるのは“細腕”ただひとつだ。それでも、ここまで来れたんだってこと。それを刻みつけるまでは、誰の情けだって、受けるつもりはねぇ」
そこまで言って、またへたり込んでしまった。
「それまでは、死ねねぇ。それ終わってから、ちゃんと死にてえ。なあ、ダンクルベール。かかってこいよ。俺はまだ、死んでねぇぞ。やるんだろう?なら、かかってこいよ。頼むよ。かかってきて、かかってきてくれよう」
根っこがすべて、腹から出ていった。
すっきりしていた。晴れやかだった。あれはきっと、悪いものだったのだ。ずっと自分の奥底で根を張って、いらないものを育んできた、自分自身の一番いやなもの。あるいは、本当の自分自身。
「なら、意地張ってないで、さっさと立てよ」
見上げたのとほぼ同時。大きな、手のひらだった。
「やろうぜ、続き。それが見たくて、皆、待ってるんだぜ」
ダンクルベール。笑顔だった。
あんがとよ。目で、伝えた。
こちらこそ。目で、伝えてきた。
その手を取った。ゆっくり、立ち上がった。拍手が、ぽつぽつとしたものから、次第に大きくなった。アキャール。アキャールさん。よかった。待ってた。皆、呼んでくれてる。
ごめんな。みっともないところ、晒しちまってよ。
「第二ラウンド?アディショナルタイム?もう、何だっていい。貰った勇気の分、空になるまで、見せびらかしてやる。だから、付き合ってくれよ。ダンクルベール」
「参ったね。断る理由がどこにもなくて、困っちまった」
ふたり、握手した。そして、大笑いした。腹の底から、心の底から。根っこが無くなって、体が軽くなっている。
ありがとう。ダンクルベール。
閃光と爆音。唐竹割りと、切り上がり。爺の体ふたつ、宙に舞った。大歓声が戻ってきた。
「もう、格好もつけらんねぇ。生の俺だ。頬張ってくれよ」
「来いよ。いくらでも、たんと噛み締めてやるよ」
脳天。袈裟。巻き打ち。踵、そして踵から横薙ぎ。お互い爺だ。自分の放ったそれすら、目が追いつかない。眼の前できらきらするものが弾けている。無数の、何かがぶつかる音が響きまわっている。旋律と閃光、歓声の中で、勝手に動き回る体。理解だけが、追いついていない。
来る。逆回しの、袈裟に駆け上がるような一撃。そこまでは覚えている。
杖。手放してしまった。自分の、空の両手。見る。ダンクルベールには、大振りの余韻が残っていた。
ああ、そうだったな。俺の、最初で最後の、俺自身。
自慢の、これっぽっちの、“細腕”だ。
「なあ、これ。見てくれよ」
喜び、叫んでいた。がら空きの顎に、拳が吸い込まれる。
あの時、届かなかったものが。妙味が、届く。
少しして、自分の杖が落ちる音だけが、聞こえてきた。静寂。ずっと、ずっと静かだった。周囲も、心すらも。
大きなものが、動いた。ダンクルベールだった。膝から崩れ落ちて、それでも倒れきらなくて、両膝で立ったまんま。でも、動いていない。
「アキャールだ。“細腕のアキャール”の方だ」
誰かが、叫んでいた。
理解が追いついていなかった。悪入道とかが、膝で立ったまんまの大男に駆け寄って、頬を叩いている。耳に入ってくるのは、うるさいものばかりだった。
何が起きた。俺は、勝てたのか。いや、勝ったのか。
「アキャールさん、アキャールさんってば」
若い男の声。呼ばれていた。頬を、軽く叩かれていた。
「大丈夫ですか?ぼうっとして」
「ペルグランさん、どうして。いや、どうなった?」
「あんた、やっぱり凄いよ。うちの長官に勝ったんですよ」
頭に、理性が戻ってきた。両手は、空。杖はどっかに飛んでいっていて、自分はしっかりと立っている。眼の前には、顔を真赤にしたペルグランと、立膝のまま、意識を失っているダンクルベール。それに群がる、無数の人だかり。
誰かに右手を取られた。救急箱を抱えた、アンリだった。
「なあ、アンリちゃん、それに先生。俺は、どうなってるんですかね?こいつは、来世か?夢か?何も、わからねえ」
「生きておられます。アキャールさまは、ちゃんと両足で立っています。本部長官さまのお顔を、見えないぐらいの速さの、この“細腕”で。私、はじめて見ました。本部長官さまを打ち負かす人なんて、はじめて知りました」
アンリは涙を零しながら、笑っていた。
右手を、診てくれている。痛みはないし、感覚もある。つまりは、何の問題もないということだった。
とっさに打ち込んだ“細腕”が、きっちり、届いていた。
「息の整い方も、胃の腑の感じも、大丈夫だ。途中で血の溜まったのを吐いたから、すっきりしたろう?ちゃんと生きているし、動けていますよ。ご安心なさい」
「ラポワント先生。俺ぁ、勝ったんですかい」
「ああ、そうとも。“細腕のアキャール”。あんた、この細い腕で、あんなでっかい大男、ぶちのめしたんだ。それなのに、あんたが一番、わかってない顔をしているんだからね」
恰幅の良い御仁が、呵々大笑しながら、肩を叩いてくれた。それでようやく、実感が湧いてきた。
「終わったんですね。俺たちの喧嘩、終わっちまった」
嬉しさと、終わってしまった、悲しさ。噛み締めていた。
「おう、“細腕”の。お前さん、勝ったってのに、辛気臭い面しているじゃないか、ええ?」
聞いたことのある声。にこにこ笑った、太った男だった。ブロスキ男爵マレンツィオだ。
「男爵さま。ああ、男爵さまだ。俺ぁ、俺ぁねぇ」
「勝ったんだろ?知ってるよ。爺の杖つきになっても、お前の“細腕”は何ひとつ錆びちゃあいない。最高だねぇ」
「俺、勝ったんだ。勝っちまったんだよ。信じられない。あのダンクルベールにだ。男爵さま、いいのかい?」
「いいんじゃねぇの?とんでもない喧嘩だった。あいつ、まだ伸びてるよ。綺麗に顎、打ち抜いたんだもの。やっぱり、一瞬も一瞬の“細腕”の妙味だったぜ。ほれ見な。警察隊、総出じゃないと、あの図体が動かせないでやんの。はは、ざまあみやがれってんだ」
そうやって、何人かに誘われ、酒場の方に戻ってきた。
凄いことになっていた。憲兵も悪党もごったくそになって、大賑わいだった。
隅の一卓分、空けてくれていて、そこで休むように促された。アンリと、ラポワントと三人で、座った。
知ってる顔も、知らない顔も、代わる代わる、皆、泣いたり笑ったりしながら、話しに来てくれた。そうして皆、決まったように、言ってくれた。
“細腕”の妙味、見せびらかしてもらいました、と。
酒は、まだちょっとこわかった。最初の緑の瓶は、格好つけて、勢いで飲んだようなものだ。アンリが気を利かせて、薬湯とか、あるいは紅茶とかを持ってきてくれた。気をつけながら、ゆっくりと飲む。じんわりと、熱が伝わっていく。大丈夫だ。受け付けてくれる。
望んだ喧嘩ができた。生きてる。そして、勝った。
「やあ、どうも。うちの恋女房を、よくもやっつけてくれたもんだね。“細腕”とやら」
近づいてきたのは、朱夏半ばぐらいだが、びっくりするぐらい男前の、身なりの良い男だった。
「国家憲兵隊、司法警察局局長、少将。セルヴァンと申します」
「これはこれは。つまり、あれの直属の上司さまですか」
「そういうことだ。いやあ、皆に言われているだろうが、いいものを見させてもらったよ。私は荒事とか喧嘩とかは、あのダンクルベールに任せきりだから、どこがどうとか、そういうのは、詳しく褒めてあげられないけれど。本当に、面白かったよ。最初の小芝居から、最後の一撃までね」
そこまで言い切って、色男はにっこりと笑った。
「何と言っても、うちの女房が喧嘩で負けるような未熟者だったなんて、付き合いはじめて二十数年経つが、はじめて知ったよ。これで数年は、なじる話題ができたってもんだ」
「女房って、おい。何だい?そりゃ」
思わず、笑ってしまったが、セルヴァンの目は本気だった。
「貴公もそうだが、あれに恋するやつは大勢でね。私もそのひとり。ガンズビュール以来、あれの背中を預かっている、自称、正妻さ。貴公はきっと、それより長いんだろう?」
なるほど。確かに恋女房の正妻で、自分はきっと、現地妻か。あいつ、どんだけ誑し込んでいるんだか。
「どうでしょうね。俺は、きっとあなた方が思っているほど、あいつのことは知らない。家族とか、仕事のこととか、一切してこなかった。やってきたのは、ただ、喧嘩だけ」
「そう。それもよく聞いた。惚気けられたもんだ。ガンズビュールには“細腕”っていう、とびきりのがいるって。とはいえ同じように、あれも貴公のことは、喧嘩が強いぐらいしか知らないみたいだし。皆して、不思議がっていたものさ」
喧嘩でしか、語り合っていなかった。この人たちはきっと、自分とは違って、普通に語り合って、普通に仕事をする中で、ダンクルベールという男に、惹かれていたんだろう。
なんだい。惚れておいて、損したぜ。ダンクルベール。
「“細腕のアキャール”。我らが国家憲兵隊にとって、史上最強の恋敵だ。思う存分、目の敵にさせてもらったよ」
「そいつはどうも。冥利に尽きまさぁ。まあ、最後と決めた大喧嘩だ。後は皆にお返ししますんでね。ご無礼は、平に」
「どういたしまして。でもそれも、ちょっと寂しいなぁ」
緑の瓶を傾けながら、その男は笑っていた。
「恋敵ひとり、いなくなる。敵ほど、お互いを理解できるやつも、いないだろう?なあ、喧嘩自慢の“細腕”さん」
違えねえ。そうやって、ふたりで大笑いした。
4.
あれから二日、経った。
アキャールは、燃え尽きていた。帰ってきて、一晩眠ったきり、起き上がれなくなっていた。めしも、喉を通らなくなっていて、水ぐらいなら、ようやく飲める。その程度まで、力を使い果たしていた。
自分で望んだ大一番。わかって、その意志を汲んだ。淀んだものをかき乱し、整え、生命を存分に燃やせるところまで持ち上げた。そしてその分、無茶をしてくれた。
ムッシュは鳩で、今の状況をダンクルベールに伝えた。会いたくない。ただ、ひとつ頼まれてくれ。とだけ、返ってきた。あの人もまあ、強情である。
あれから、市井も宮廷も、大騒ぎだった。
あのダンクルベールのお殿さまが、喧嘩で負けたらしい。あるいは、あの大親分を腕ひとつで負かすようなやつが現れた、と。政治家たちは、喧嘩で負けるようなやつを警察隊本部長官に据えておいて大丈夫なのかと、セルヴァンに詰め寄っているし、ごろつきどもは、次は俺の番だと鼻息を荒くしている。
それを、国民議会議長ことブロスキ男爵マレンツィオと、裏社会の大物である、悪入道、リシュリューⅡ世のふたりが、うまく取りまとめているようだった。
アンリは、つきっきりで看病してくれている。本来は、相容れないふたりだ。人を救うために傷を負った娘と、人と殴り合うことしかできない男。それでも、甲斐甲斐しく、そして仲良くお喋りしながら、面倒を見てくれた。
それでも、その時はやってきた。
「そろそろ、みたいです」
寝台に横たわった老人が、ぼそりと、呟いた。あの喧嘩酒場でぎらぎら輝いていた姿は、見る影もない。
「そろそろ、ですか」
ムッシュも、つとめて優しく答えた。
男ひとり、天寿をまっとうする時が、やってきた。
「言伝を、預かっていますよ」
その時になるまで、温めていたものだった。
「“細腕のアキャール”は、もう死んだ。死んだ人間とは、会うことはできない。けれど、形見を貰うのと、手向けを送るのを、忘れてしまったと。それで、これを」
託されていた。ダンクルベールの、杖だった。
「ああ。ならそいつは、墓標にでもしてくれると、うれしいです。それと、俺からのは、そいつでお願いします」
今、動かせる唯一のもの。その目を、立てかけていた杖に向けた。アキャールの、杖。もうひとつの“細腕”。
男ふたり。形見と、手向け。腕を交わすとは。本当に、この男たちは、最後まで、見せびらかしたいんだな。
「相分かった」
その返事で、安心したようだった。
一気に力が抜けていくのが、目に見えてわかった。死が、始まりつつある。この男が、望んだものが。
「アキャールさま。どうか、お気を強く持って」
「ありがとう。でもよ。ちょっとだけ、違うんだよ」
消え入りそうな、それでもちゃんと聞こえる声。
「ちゃんと、準備が整ったんだ。ここまでの花道を用意して下さって、持ってるもん、出し切って。燃やし尽くして。それで、形見と手向けのやりとりまで済ませた。これ以上は、この“細腕”だけじゃあ、抱えきれねぇ」
表情は変わっていない。口も、ほとんど動かせていない。
それでもちゃんと、聞こえてくる。ちゃんと、笑っている。どこまでも気丈で、洒落ている。そうやって、死にたかったのだろう。それを最後まで、ちゃんと演じようとしていた。
「おふたりとも、本当に、ありがとうございました。こんな馬鹿みたいな俺を、大舞台に立たせてくれた。おかげで全部、出し切れました。この“細腕”で、沸かせることができました。俺を、そしてあいつを、見せびらかすことができました。だから後ちょっとだけ、この階段を登る分だけ、見守っては、くれませんかね?」
首肯だけ、したつもりだった。
涙は出なかった。悲しみも、ほとんどなかった。こんなに綺麗な、見惚れるような死に方は、はじめてかもしれない。
「それと、もうひとつ」
今まで動かせなかった顔が、動いた。アンリを見やる。
「女の涙を見るっていうのは、男としちゃあ、ちょっとつらい。ちょっとだけ我慢を頼むよ。いいかい?アンリちゃん」
言われて、涙を溜めていたアンリが、唇を噛み締めた。
「わかりました。我慢を、します。約束します」
その男は、細い腕を伸ばして、アンリの手を優しく握っていた。本当に、本当の、最後の力だった。
「いいこだねぇ。そう、もうすこし、もうすこしだからね」
穏やかに、ずっと優しく。そうやって、呟きながら。
その“細腕”は、動かなくなった。
その日のうちに亡骸を清めて、リシュリューⅡ世に託した。悪党の親玉であるが、れっきとしたヴァーヌ聖教の司祭でもある。ヴァーヌのしきたりに従い、火を以て亡骸を清め、ささやかな葬儀を執り行ってくれた。
セルヴァンからは、弔電を貰っていた。
我が恋女房たるオーブリー・リュシアンに、長くご厚誼を賜りました“細腕”さまへ。ひとりの恋敵として、心からの感謝と、そして心からの哀悼の意を表しますと共に、どうか安らかな旅路を送ることを、お祈りいたします。国家憲兵隊司法警察局局長、国家憲兵少将。ジルベール・クリストフ・ドゥ・セルヴァン。
流麗な文字に、濃厚な嫉妬と敬意が込められた、あの人らしくない文面だった。
ダンクルベールがようやく姿を見せたのは、埋葬の段階になってからだった。
共同墓地に遺灰を納めたあたり。ペルグランとふたり、喪服ではなく、油合羽で現れた。形見に貰ったアキャールの杖を携えて。そうしてふたり、墓の前まで行き、ペルグランが携えていたものと、自分の持っているものを取り替えた。
凄い音だった。墓標に杖一本、綺麗に突き刺さっていた。手向けに送った、ダンクルベールの、あの杖が。
あばよ。ダンクルベールは、それだけで、帰っていった。
ペルグランは、墓前で泣き崩れた。お疲れ様でした。有難うございました。鼻水を流しながら、何度もそう言って、ひとしきりしてから、すっきりした顔をして、帰っていった。
墓前で、色んな人と話をした。
悪入道、リシュリューⅡ世こと、ジスカールと名乗る大親分。裏社会の大物でもあり、ダンクルベールの良き協力者でもある、筋の通った任侠者だった。
顔も知らないが、若い頃から名前だけは知っていた。腕一本でてっぺん取った、ガンズビュールの大喧嘩師。俺たちからしたら伝説の人だった。俺のご先代も、よく話題に出していたぐらいだ。その伝説が、伝説を見せてくれて、そして伝説になるんだな。“細腕のアキャール”さんの大喧嘩、いい土産を頂いた、と。
マレンツィオ。あれに貰ったもんと、同じものだよ。そう言いながら、高そうなブランデーを、墓標にまるまる、ぶっかけていった。
ガンズビュール事件の際、“細腕”の両腕があるころに、ダンクルベールとの喧嘩を見ていた。その際に、向こうは自分のことを知らずに、角力さんだなんて呼んで、茶化してくれた。喧嘩が終わってから身分を明かしたら、真っ青な顔をして、これで勘弁してくれって、その銘柄の酒を持ってきたそうだ。
俺の一番、大好きだった大悪党だ。寂しいねぇ。しみじみしながら、語ってくれた。
馴染みの顔も。ゴフ、デッサン、アルシェに、スーリ。
喧嘩自慢のゴフをして、この人には勝てっこない。でも、やってみたかったね。それぐらい、楽しませてもらったよ。笑っていた。
デッサンは、山盛りの素描を持ってきて、それを見ながら、皆で、あの時の喧嘩を懐かしみ、語り合った。ゴフは流石に喧嘩に詳しくて、あの時の動きはどうこうで、そもそも杖を使った喧嘩ってのはラ・キャンと言ってだな、とか、いろいろ教えてくれる。実際、喧嘩を見ているときも、隣にいたアルシェに対して、ずっと解説とか講釈を垂れ流していたらしく、迷惑だったと愚痴をこぼしていた。
そうは言いつつも心底楽しんだのだろう。アルシェはあれからずっと、子どもにあの時の話をしているらしく、度が過ぎたのか、奥さまに怒られてしまったそうだ。
スーリだけは、ずっと神妙な面持ちで、素描を見ながら話し込んでいるうちに、ぼろぼろ泣き出した。
以前、ヴィジューションに長官やペルグランたちと捜査に行ったとき、たまたま出会って、杖の喧嘩を見せてくれた。それをもう一回、それも、もっとすごいもんを見せてくれたんだ。ペルグランと同じぐらい、泣きながら。旦那さん、かっこよかったよ。そう言って、敬礼ひとつ、捧げていた。
暴力で人を虜にする男。闇の中、ひとごろしに明け暮れた男には、いっとう眩しいものに思えたのだろう。
ビゴーとガブリエリも来た。あの喧嘩の日には、別件で来れなかった二人だ。
昔、さる怪盗が絡んだ捜査で、ボドリエール夫人とはじめて会った時、若かりしダンクルベールが夜遅くに帰ってきた。それも山盛りの傷とベーゼの跡を引っ提げて。呆れて、何事かと聞いてみたら、“細腕”っていう、すごいやつと喧嘩して、仲良くなりました。いろいろ聞いてきましたよ。そう、笑っていたそうだ。
長官もね、昔はそういう無茶なやり方をよくやった。困った人だよ。皆さんは、見たんでしょう?ああ、見たかったねぇ。墓標に、あの人の杖まで貰っちまうなんて。きっと、とんでもない大喧嘩だったんだろうね。一回ぐれえ、見とけばよかったね。呆れた顔で、笑っていた。
ペルグランと同期の、ガブリエリ。あいつがよく、顔真っ赤にして語ってた。“細腕”っていう、すんごい爺さんと会ったって。あの長官と互角に喧嘩ができる悪党だって?そんなやつ、いるもんかよって、呆れてました。本当に、いたんですね。ビゴー准尉殿と一緒に会ったとき、そう思いました。いくつかしか話はしていませんが、いいひとだって、すぐわかった。なんだか、勿体ないなあ。そう言って、綺麗な顔に、涙ひとすじ、零していた。
それと、チュールで顔を隠した、ご婦人がひとり。
その人は、自分たちに目もくれず、何も言わず、ただ一輪、花を捧げて帰っていった。
赤色の、シクラメンだった。
“細腕のアキャール”。最後まで、素性も過去も、殆ど話さなかった。あるいは語るほどにも、何もなかったのだろう。
たったひとつ、喧嘩が好きだっただけの、馬鹿な男。それだけでも、皆の心に鮮烈なものを、遺してくれていた。
面白い男だった。いい出会いだった。
「アンリ。もう、我慢しなくっていいよ」
帰り道に、一声だけ掛けた。
あの泣き虫なアンリが、あれから一度も、泣いていない。
「いいえ。まだです。約束したんです」
それでも、声だけは、震えていた。
「あの方は、まだ死んでいません。私の中では、まだ生きていますから。ずっと、ずっと。生きているんです。かっこつけたがりの、細い腕のお爺さん。生きてるんですから」
言いながら、体まで震えてきて、目も潤みはじめた。
よく、頑張った。男ひとり、ちゃんと見守って、看取って、約束を守ってやった。本当に、心の優しいこだ。
何も言わずに、肩を軽く、叩いただけだった。それで、溢れた。溜めていた分が、滝のように。
「ばか。ラポワント先生の、ばか。約束、破っちゃったじゃないですか」
鼻をすすり、泣きじゃくりながら、胸ぐらをひっつかんできた。そうやって、ずっとずっと、泣いていた。だから、ゆっくりと抱きとめてやった。
どうぞ、私の分も、泣いておくれ。泣き虫で意地っ張りのアンリエット。
ひとりの男。中身も過去も、殆ど知らない、老いた男。突然現れて、突然いなくなった。たった一週間。それっきりの、付き合いだった。
それでも、生き様をひとつ、見せびらかしてくれた。
5.
ふと、目が覚めた。
真夜中。自室の寝台の中。何かが、隣にいるような気がした。人のかたち。抱き寄せられた。女の体のような気がした。それでも、姿は見えない。
唇が、重なる。しばらく、じっくりと。そのあとに、耳を、軽く齧られた。足の指、あるいは、胸の先。そんな愛撫が、じっとりと続く。快感はない。ただ、ぼうっとしたまま、穏やかに、宙を浮いていた。
「あの香水を、ペルグラン君に渡したね?」
夫人。ボドリエール夫人。そして、シェラドゥルーガ。
「悪いこだね、アンリ。あんな惚気合いを見せつけられる、私の気にもなってご覧よ。爺ふたり、活劇の真似事から始まって、何もかも曝け出した、みっともない大喧嘩。しかもリュシアンめ。私の前で喧嘩に負けるとは。油合羽の大親分が聞いて呆れるね。本当に見損なった。最悪の気分だよ」
耳元で、蕩けるような声で囁きながら、それは体に舌を這わせていった。自分の身体に走る、無数の傷のひとつひとつ。指や、舌で、ねぶるように。こそばゆいとか、気持ち悪いとかは、ない。むしろ、心が落ち着いた。
叱ったり、怒ったりしに来たわけでは、なさそうだった。
「あの方に、妬いてたんでしょう?シクラメンの赤。墓前にわざわざ添えに来るだなんて、それこそ、みっともない」
まどろみの中、言ってやった。その口が、温かい唇で塞がれたような気がした。舌が、口の中に入り込んでくる。絡ませて、離してくれない。でも、不快ではなかった。
「ああ、心底。妬かせてもらったよ」
「アキャールさまの片腕を奪った話も、伺っています。本部長官さまと仲良くしていたのが、気に食わなかったんでしょうね。だから、品定めを無視してでも、殺そうとした。こちらこそ正直、見損ないました。夫人って、小さい女ですね」
途端、女のそれに、指を突っ込まれたような感覚だった。大きく、かき乱される。内側を、爪を立てて、乱雑に擦り上げられた。ちくりと、痛みが昇った。
流石に言い過ぎたか。
「そこまで話をしていたのか、あの馬鹿。後で生きていると知って、本気でがっかりした。またやきもきする羽目になるのかとね。だから、ようやく死んでくれて、せいせいしたよ」
ようやく、目が開いてきた。
綺麗な、朱い瞳。お互い裸のまま、横向きに向かい合って、抱き合っていた。
泣き腫らしたような瞼。寂しげな、微笑みだった。
「でもね、アンリ。こうも思うんだよ。恋というものは、恋敵がいないと、張り合いがない。盛り上がりに欠ける。あいつには負けてなるもんか。あんなやつに、あの人を取られて、たまるもんかってさ」
温かい。すべすべした肌だった。やはりまだ、まどろみの中にいるのかも知れない。
考えもなしに、自分の手は、夫人の豊かな乳房を触っていた。柔らかい。ふかふかしている。
「だから私だって、寂しいとは、思っているんだよ?」
また、唇が重なった気がした。強めに、抱き寄せられる。耳元で、微かな囁き。うっとりする、綺麗な声。
「さっきの、痛かったでしょ?ごめんね」
自分も言い過ぎていたし、それで、許すことにした。
「私も、寂しいです。たった一週間。顔と名前と、格好付けたがりだってことしか、わからなかった」
「私はもっと長い。それでも、それしかわからなかった。それだけしか、持ち物のない男だったのかもね」
それだけしかない男、そうなのかもしれない、たしかにあの最中、あの人は、叫んで、魂から哭いていた。
生まれも体にも恵まれなかった。あるのはこの“細腕”ただひとつ。それで、ここまで来れたんだってことを刻みつけるまでは、誰の情けだって受けるつもりはない。それまでは、死ねない。それが終わってから、ちゃんと死にたい。
腕の細い老人。己を見せびらかし、刻みつけに来た男。
「あれは、星になるのかな?世界に、なるのかな?」
人は死ねば星になると、信仰は語り、鯨は死ねば世界になると、夫人は教えてくれた。
でも、どちらでもないような気がする。あの人は、人生を最後まで使い切っていた。輝くものも、育むものも、残ってはいないだろう。
それでも、遺してくれたものは、確かにある。
「物語、ではないでしょうか?」
「へぇ。男と、男の?」
「いいえ、男ふたりの。求め合うとか、愛し合うとかじゃあない。ただふたり、並び立っている。男、ふたり」
活劇のような、お決まりの芝居。勝ち負けのない喧嘩。あの場で行われたのは、ふたりだけの戯れ。自分たちは、ただ見ていることしかできない。観客にしか、なれなかった。
だからこそ、あのふたりは、楽しませようとしていたのかもしれない。観客たちのために、格好を付けて、見せびらかしていたのだ。男ふたりの姿を、抜群の見世物として。
こわかった。血を吐いて、死んでしまうかもしれない。でもどんどんと、虜になっていた。いけ、そこだ。もっと、あとちょっと。頑張れ。声が枯れるまで、叫んでいた。
楽しかった。本当に、楽しませてもらった。
「なるほど。アンリは、上手な表現をするね。並び立つ、男ふたり。そりゃあ、割って入れないわけだ」
「求め合う仲なら、引き裂ける。愛し合う仲なら、奪い取れる。でも、あのふたりは、並び合い、向かい合っていました。だから、邪魔をしたら、いけないんだって」
「物語とは、言葉だ。解釈の余地のある言葉の羅列だ。だが、あの男は、解釈の余地がない。本当に、ただの、腕の細いだけの男。そういう碑文だ」
ただ一文だけの、碑文のような男。それが、“細腕のアキャール”という、自分たちの心に刻まれた言葉。
「だから、私たちは、妬いちゃったんですね。割って入りたかったのに、入れる隙間が無かったから」
「そうだね。心底、妬いてしまった。解釈の余地がないんだもの。そんなものを、見せびらかされてしまったんだから。それならいっそ、もっと心のままに、楽しむべきだった。あるいは男どもみたいに、口笛を鳴らしたりしてね」
思い返そう。ちゃんと、楽しみ尽くすために。
夕暮れ時。場末の、ごろつき酒場。老いた男が、カウンターで飲んでいる。そこに、親分のような男が、ぶらりと。
よう旦那、ご注文は?
たんと食いたいが、金は無いよ。友だちだろう?
そうだったっけか。そういえば、そうだったな。
そうだ。全部、決まりきっていた。次の展開なんて、わかりきっていた。それを、あるいは救うものの目線から、あるいは、ひとりの女の目線から見てしまい、行間を読もうとしてしまったのかも知れない。その奥にあるものを、読み取ろうとしてしまった。奥も、裏も、なんにもないのに。
すべて単純に、見たものを、そのまんまに受け入れれば、良かっただけなのだ。目の前に綴られた、言葉そのものを。
見えてきた。見たままの、“細腕のアキャール”という男。
「アキャールさま。かっこよかったなぁ」
「そうだね。ほんと、憎たらしかったなぁ」
豊かな胸に、顔を埋めた。温かさの中、また、眠った。
きっと、何度も語りたくなる。きっと、何度も夢に見る。たった一文だけの、あの碑文のような男のことを。
その名を“細腕”。それだけ綴れば、語り明かせる。
(つづく)
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・ザ・ロック(ドゥエイン・ジョンソン)
・ラ・キャン
・サバット(フレンチボクシング)
・ヴァレリーキック