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もうひとつの向こう傷

我らは鋼の一振りなり

打ちひしがれて、身を焦がし

打ち据えられて、身を鍛える

王たるものの、手に渡る日まで


血肉を斧に

誇りをつるぎ

仇なすかたきを打ち倒す


最果ての地より

王は来たれり

再び黄金こがねの地を切りひらくため


伝、鋼の血のエイリーク、著

“鋼の血族のサガ”より

1.


 頬を、軽く叩かれた気がした。

瞼を開ける。褐色の肌が綺麗なご婦人が、心配そうな顔で覗き込んでいた。

「大丈夫?アンリエットさん」

 食卓だった。褐色の肌が多い。ご婦人ふたり。子どもが何人か。老人がふたり。そして、ダンクルベール。

「ごめんなさい。ちょっと、眠ってしまったようで」

「大丈夫よ。気持ち悪いとか、ある?お水持ってくるよう、頼むわよ?」

「ええ。大丈夫です。お気遣い、感謝いたします」

「おいおい。お前らが、がんがん注ぐからだぞ。リリィ、キティ。少しはゆっくりと楽しませてあげなさい」

「何よ、お父さん。自分だって、遠慮なくやってくれだなんて、気前のいいこと言ってたじゃない」

「責任転嫁は良くない。どうしてまったく、素直にごめんなさいと言えないのだ。お前たちは」

「本当、誰に似たんだか。ねぇ、姉さん」

 ダンクルベールの下の娘であるキトリーがぶうたれた。

 他所に嫁いだ娘の義両親が、あのサントアンリさまにお会いしたい、とのことだった。アンリが故郷で駆け回っていた時、助けたひとりに、義両親の親族がいたようだった。ついでに、孫たちもアンリさまに会いたいと駄々をこねはじめて。と、あの大きな体を小さくしながら、ダンクルベールが頼み込んできたのだ。

 私でよろしければ。と、快く返事をした。

 上の娘、リリアーヌの義両親が自分と同郷らしく、自分たちだけは他の地方に移り住んでいたので、残された親族が気がかりだったらしい。情勢が安定し、ようやく顔を合わせた時に、自分のことを聞いたらしい。

 あの方に救われた。生ける聖人だ。向こう傷の聖女だ。

 顔合わせをした途端、老いた夫婦は、涙を流しながら抱きしめてくれた。ありがとうございます。ああ、アンリさま自ら傷を負われて、私どものために、力なきもののために。

 嬉しかった。自分の信念を貫いてよかった。

「でも、アンリさまの寝顔、本当に可愛らしくって」

「お義母かあさん、あまり茶化さないでやってください」

「あら、本当のことじゃない。オーブリーさん。聖女さまだ、尊いお方だって思ってたけど、ほんと、可愛らしいお嬢さん。こんなこが戦場で人の生命を救ってきたなんて、御使みつかいさまも素敵な贈り物をしてくださったわ」

「ああいえ。恐れ入ります」

 酒は、強くなかった。

 味がどうこうというよりは、すぐ眠くなってしまう。ひどい時は、よだれを垂らして寝息を立てるらしい。そんな姿、殿方には見せられないと、なんとか努力はするが、どうもうまくいかない。

 サントアンリには、酒を飲ませてはいけない。

 見かねた警察隊婦人会の面々が、そんな風説を流しているようだった。自分の寝ている姿を、男所帯の警察隊の前で晒すわけにはいかない、と配慮してくれた。ただ男たちは皆、酒癖が悪いらしいと捉えたようで、酒の話題が出るたびに、びくびくするようになった。事情を知っているオーべリソンには、ひどく心配されてしまった。

 警察隊婦人会というものがある。本部所属の女性隊員や、男性隊員の配偶者、出入りしている女性たちで、ちょっとした集まりをしたりする。物のやりとりや、お茶会をしたり、おしゃれなビストロやレストランなんかに連れて行ったりしてくれる。

 そこで、酒なども勧められるが、ワインであればグラス二杯で眠くなってしまう。場を設けてくれたのに、眠ってしまっては申し訳ないと、薄めたシードルなどをゆっくり飲むように心がけているが、気がつくと、仲の良いルキエに背負われている。

 こちらに来てからは、人に恵まれた。

 ダンクルベールは厳しいが、公私ともによく話を聞いてくれるし、諭す際も、決して無理を言わない。ムッシュことラポワント先生は医学の専門家で、自分は間に合せの技術、学術しかそなえていなかったから、時間があるときは医務院に通って教えを乞うている、尊敬すべき先人である。偏屈そうに見えるデッサンやアルシェも、顔を合わせれば気楽に挨拶してくれるし、何よりも優しい。たまに他の部署の若い憲兵に、遊び半分で絡まれたりもするが、何処からともなくゴフ隊長が飛んできて、傷が残らない程度にあしらってくれる。つらいことがあったときは、ビゴーや、家族同然に育ててくれたオーベリソンに、よく話を聞いてもらった。

「でもいいわよねぇ。アンリエットさん。本当に美人。肌は白いし、目も綺麗。特にこういう、金色の髪って、憧れちゃうわよね。あたしたちはこのとおりだから」

「私にとっては、お二方とも、羨ましいくらいにお綺麗です。特に肌が、まるで宝石のように思えます」

「ありがとう。どうしてもこの国だと、ちょっと少ないからね。あんまり自信が持てないのよ」

「隣の芝は青く見えるってやつだよ。お前たちは婆さんに似てくれたんだから、十分に美人だ」

「あら、褒めるだなんて珍しい」

「娘の顔を立てるのも、父親の努めだ」

 言って、娘ふたりの目がダンクルベールに突き刺さった。たちまち居心地の悪そうな顔をする。余計なことを言ったダンクルベールも悪いが、この家庭、女のほうが強いらしい。

 ダンクルベールの娘たちは、ふたりとも優しかった。それ以上に、びっくりするほど美人だった。

 褐色に輝く、艶やかな肌。うねる青鹿毛。父親までとはいかないが背も抜群に高く、目も眉も鼻立ちもばっちりしていて、紅をさした唇の妖しい輝きに心を奪われた。顔合わせした時は、首が真上を向くぐらいに見上げながら、呆けてしまったぐらいだ。

 黒い肌の人達の中にも、いろいろな人種、民族がいて、ダンクルベールたちは、おそらくエルトゥールルの北東部に広がる、砂漠と大河の民が祖先だという。ゴフとは違って、唇が薄く、肌もあの人たちほど黒々しくもない。特にリリアーヌやキトリーのような妙齢のご婦人になると、その肌の色艶が、まるで宝石のように輝いていて見える。

「アンリさま、ねむたいの?」

 綺麗な褐色の肌の男の子。ぱっちりとした目で、膝に乗ってきた。リリアーヌの子、パトリック・リュシアン。年以上に、利口で闊達な子だった。

「お酒は、あまり強くなくって。すぐ眠くなってしまうの」

「お酒を飲むの、罪?よくないことなの?」

「お酒を飲むことは罪にはなりませんわ。人は寝ている時、罪を犯しませんもの」

「なるほど。うまいことを言う」

「私たちは、お父さんに似てしまったから、大酒飲み。酔って殿方に肩を寄せるなんて、できた試しがないわよ。アンリさんぐらいだったら、とっかえひっかえできたのになぁ」

「お父さんはともかく、キティは大概よ。酒は飲むは、めしは食うわ。あんた、また太ったでしょう?その歳で腹が出たら、目も当てられないわよ」

「姉さんが痩せ過ぎなの。こっちは仕事で大変なんだから、お酒とご飯ぐらいは多めに見てよ」

「そもそも旦那の稼ぎだけで十分でしょう。あんたの旦那、羽振りがいいじゃない」

「おい、お前ら。喧嘩はよしなさい」

「お父さんは黙ってて」

 娘二人に凄まれて、あのダンクルベールが押し黙ってしまった。ふたりとも親に似て気が強く、声が大きい。

 娘たちが幼い頃に、妻が不貞を働いて身を隠し、死体となって帰ってきた。そんな話を、人づてに聞いたことがある。その頃から、男手ひとつで娘たちを育て上げた。優秀な捜査官であり、指揮官であり、そして立派な父親である。

 それでも一緒にいる時間が長い分、伝染るものは伝染るのだろう。端々に、ダンクルベールらしさ、と言えるようなものを感じるところは、確かにあった。

「こらこら。今日の主役は、アンリさまだよ?」

「わかりました、お義母かあさま。今回は、私が折れる」

「強情。誰に似たんだか」

 キトリーの言葉に、目線が一気に、ダンクルベールに集まる。思わず、皆で笑ってしまった。

「まあ、本当に、我儘につきあわせてしまったからな。今日くらいは、羽根を伸ばして欲しい。とはいえ、このとおり、店は俺の行きつけだし、周りは俺の親族ばかりで、やりづらいかもしれないが」

「いえ。本当に、このような場まで設けていただき、どう、お礼を申し上げていいか」

「かまうことは無いわよ、アンリエットさん。このかみなりおやじのことだから、毎日大変でしょう?本人の手前、言いづらいでしょうが、言いたいことがあったら、何でも言っていいのよ。この通り、私たちの方が強いんだから」

「いえ。本部長官さまは、私を含め、皆様に深い親愛を向けてくださいます。いつも、お慕い申し上げております」

「それでも、あのニコラ・ペルグラン提督のお血筋を鞄持ちにするのは、どうかと思うわよ?ウトマンさんでよかったじゃない。セルヴァンさまとか、何とも言ってこないの?」

「あれの親の要望だ。警察隊本部長官ともなれば、色々と面倒もでる。それに一度、会わせた時、あら、いい男、って色目使ったのは、どこのどいつだか覚えているかな?キトリーさんや」

「実際、可愛いこよ?もみあげがちょっと強いけど。ま、私はセルヴァンさま一筋ですから。やっぱあの方、最高よねぇ。お年を召してからいっそう色気が増して。声も素敵」

「いいわよねぇ、お父さんは。あの方に毎日、口説かれてるんでしょ?そこんところ、どうなの?アンリエットさん」

「ええ、まあ。殿方同士の、友情ですよね」

 アンリは、なんとか言葉を濁すに留まった。

 年嵩の行った男ふたり、不思議な関係だった。

 セルヴァン少将閣下は、朱夏しゅかの半ばに差し掛かるか否かぐらいの、少し骨太ながらも、美貌と呼んで差し支えないほどのハンサムで、家柄も良ければ声もとびきり。最近は目が悪くなったとかいって、眼鏡をかけることも多いが、あれひとつで色気が数段に増す。はじめて会ったときは、目を合わせただけでも顔が火照って仕方ないのに、ああ、勇名とは裏腹に、可憐なお嬢さんなんだね。なんて、あの素敵な声で言われてしまい、心臓が止まるかと思った。

 対して、ダンクルベール中佐は白秋はくしゅうの手前。褐色の巨躯で杖つきという、威厳という言葉がぴったりの老黄忠ろうこうちゅうである。貧民の出だとはいうが、誰よりも才覚が走る歴戦の捜査官であり、あの警察隊本部を束ねる大親分に相応しい、巨大なカリスマに満ちている。冷静沈着で峻厳だが、星を眺めている自分に温かいものを持ってきてくれて、話を聞いてくれたりと、公私ともに受け止めてくれる、父性の塊のような人だ。

 そんなふたりが、俺、貴様だなんていう古い兵隊言葉で、身分も階級も年齢すらも超えて、肩を抱き寄せあっている。

 ダンクルベールがセルヴァンに背中を任せ、その身を委ねることが多いが、狼狽えるセルヴァンをダンクルベールが優しく抱き止める。あるいは、取っ組み合いになるぐらいに言い合ったりして、でも次の日には、いつも通りの俺、貴様。そういう場面は、何度も見てきた。

 持ちつ持たれつというべきか、男の友情というべきか。もしかしたら、共依存、なのかも。確かに、勘繰ってしまうのも、無理はない。

「うちの旦那も司法警察局に出入りしてるから、色々聞いてるわよ。俺、貴様だなんて古い兵隊言葉。何かあるたび、頼む、セルヴァン。ああ、私が貴様を守る。だなんて。まるで恋人みたいだって。むっさい爺さまとイケオジのカップルだなんて、変な噂を流される娘の身にもなってほしいわ」

「そうは言うが、俺にとっては、もはやアニーやお前たちの次ぐらいには付き合いの長い、替えの効かない恋女房だよ。食うめしから着るものに、進退のことまで案じてくれる。隣は任せられんが、俺の背中は、あいつにしか任せられん」

「あんま駄目よ?惚気話とか、人前で言うの。そのうち名前で呼び合いはじめそうで、おっかないったらありゃしない。男と男。そういうの好きな女って、案外多いんだからね。気をつけてよ?」

 キトリーの悪態に、アンリはどきりとした。

 “一輪のしとね”という本を、最近買った。

 好きな作家の新作だった。まさかの、そして、まさしく、男と男の話だった。直接的な表現も多く、顔を真っ赤にしながら、最後まで読んで、また最初から。気付けば全部の台詞、果ては行為の回数から内容まで覚えてしまうほど、読み込んでしまった。

 男の人同士でも、ああまで乱れ、求め合うものなのか。

 あまりに恥ずかしくて、後ろめたくって、文通相手に懺悔の手紙を送った。何も恥じ入ることはない。恋も、愛も、性別を超えることもある。男と女、かたちが違うだけで、同じ人じゃあないのかしら。優しく窘められた。

 それと、実はあの本、私の別名義なの。とも。ボドリエール夫人こと、シェラドゥルーガに。

 ボドリエール・ファンだった。育った修道院に置かれていたものを、修道女の姉さまたちが、きゃあきゃあ言いながら読んでいたのを、読ませてもらったのがはじまりだった。

 流麗な表現。心の機敏。そして何より、肉体と精神の両方を求め合い、委ね合う美しい愛のかたち。

 問題は、修道女という身の上ではあるが、肉体を重ねる描写の多い“動”の作品群が、どうしてか、たまらなくなってしまったことだった。

 “女男爵の憂い”、“乗合馬車のふたり”、それと“喝采、そして、赤”。あの甘美なエロティシズムが、脳裏に焼き付いて離れない。

 はしたない、と自分を責め続けている。それは、今でもそうだった。

 そこへきての、あの“一輪のしとね”である。

 衝撃だった。ラ・ラ・インサル。それまでは、淡く儚い恋物語が多かったのに、突然、濃密な同性愛をぶち込んできたのだから。男の腕の中で乱れる男。汗を絡め、舌を吸い、そしてお互いの、白いものを。シーツを汚し合う様を。

 欲求があるのかもしれない。それも、人より強めの。

 時間いっぱい、色んな話をした。自分の故郷のこと。リリアーヌとキトリーの子どもの頃のこと。子どもたちの、普段のこと。

 特に面白かったのが、ダンクルベールのお殿さまといえば、あの、という、些か芝居がかった名口上が、実は娘たちを叱るところから始まったということだった。

 商売繁盛の守護聖人とも呼ばれるほどの、有名人である。男たちは揃いも揃って、あの口上、やってみてぇなあ、と言っている。それを、実の娘のキトリーが小馬鹿にしたように真似してみせた。うちの子どもも真似するぐらい流行ってるけど、昔の活劇ものじゃあないんだから、やめてほしいのよね。とか漏らして。やられたダンクルベールも、恥ずかしそうにしながら、実はあれ、先輩からの貰い物だよ。と言い出して、皆でぎょっとしていた。

 アンリは、何度か聞いていた。立て篭もり事件の交渉役として、ビゴーは、必ず選ばれたから。

 神妙にしてくれりゃあ、それでよしだよ。そうじゃなきゃあ、お前。戻れなくなっちまうよ。

 轟然と放たれるダンクルベールのそれとは違い、ビゴーのそれは、優しく、そして物悲しい、心を打つものだった。犯行に及んだ者たちも、その言葉を最後に、泣き崩れていく。すみませんでした、おやじさん。そして、皆さん。そう言いながら。

 わかってあげる。それが、あのひとの銃弾。ガブリエリとふたり、はぐれて歩いているおじいちゃんだからこその、心という武器。

 宴もたけなわ、というところで、リリアーヌたちは、人数も多いので宿を用意していたし、キトリーはダンクルベールの自宅に行くことになっていた。ひと眠りしたおかげで、酒は残っていなかったので、自分はぶらりひとりでと思ったところだった。

 ビストロの入り口辺り、あまり目立たないところだった。見栄えのよくない服装の男。左利き。

 正直に、汚い食べ方だった。ちょっと嫌なものを見てしまったかな、とも思いつつ、でもそういう人たちも、頑張って暮らしているのだから、と自分を戒めた。

 少しだけ、目があった。

 見覚えがあった。知っている。あの寒い冬の日。

 そうだ、あの日。あのひとだ。

 向こうが、さっと目をそらした。自分もそれで、目線を戻した。

「どうした?」

 ダンクルベールの声に、アンリは小さくだけ、返した。

「いえ、知っているひとです」

 涙が出るとは思っていたが、出なかった。

 きっともう、折り合いがついた。そして、ゆるせたから。

「この傷を、負わせたひと」

 確かに、左利きだった。


2.


 部下のことで、ちょっと。ということだった。

 おかげさまで司法警察局も、警察隊本部、支部含め、大所帯だ。職務上は問題なく、円滑に活動できている。ただ、所詮は人の集まりである。いじめ、いがみあい、ぶつかりあい。そういうのは、かならず発生しうる。しかし、あのダンクルベールのお殿さまともなれば、そういうものは必ず察知し、解決してきていた。それは、セルヴァンもわかっている。

 サントアンリこと、アンリエット・チオリエ特任とくにん伍長。

 現場における、被害者や隊員たちの救急医療のスペシャリストとして活躍してもらっている。若年ながら、この首都近郊であっても、その傷と名は知れ渡っていた。故郷の情勢が落ち着いたあたりに、是非にでも、とダンクルベールとふたりで口説いた、そのアンリである。

 場所は外。法務部の人間もひとり用意してほしい、との要望付きだった。

 五人。知り合いのレストランの個室を、頼んでいた。軽いものを食べながらでも、という雰囲気は作っておいた。

 向こうは、ダンクルベールとアンリ。そして、少年。

 十代半ばか、それでも結構、上背がある。金色の髪。幼くも、凛々しい顔つき。しっかりとした目と眉。緊張しているのか、少し縮こまりが見えるが、いい人相である。

 少年は、ビョルンと名乗った。こちらで聞く名ではない。

「私事にはなるが、この間、うちの娘家族と一緒にめしを食ってな。その際、ひとりの男と鉢合わせた」

 ちょっと言いづらそうに、ダンクルベールが続ける。

「アンリの向こう傷を、負わせた男だった」

 思わず、ほう、と口から出ていた。

「左利き、でしたか?」

「そう。こいつは、早いですな。オダン部長殿」

「チオリエ特任とくにん伍長のお名前を、先に伺っておりましたので。クレマンソー。特任とくにん伍長の故郷であるマンディアルグ伯領出身。私兵の将校で、もと大尉。ヴァーヌ聖教会所属の修道士に対する傷害罪として、懲役七年の実刑が下っており、去年、刑期満了となっています」

 国家憲兵隊、法務部部長のオダン大佐。それなり聞く名家の出身で、年若くとも才気煥発。そして何より恐ろしく峻厳だった。貴賤と役職の上下を問わず、一切の容赦なく攻め立てる、攻撃的な法律家である。

「オダン、でいいですよ。何と言っても、商売繁盛の守護聖人、ダンクルベールのお殿さまですから。聖人仲間として、気が気ではないんでしょう?」

 検察官、あるいは裁判長と言ってもいいほどの、役職と実績がそのままに出たような顔付きを緩ませながら、オダンが冗談を言った。言われた側は、お気持ちだけ頂戴します、と恐縮してしまい、アンリは少しだけ笑ってしまっていた。

 確か前歴は軍総帥部だから、まったく別の畑で育った人間であるが、ダンクルベールの大ファンだそうだ。機会があれば是非にでも、というぐらいである。対してダンクルベールは、相手は名家のお偉方、しかも自分や、恩師であるコンスタンとも縁の薄い家柄なのだから、びびっているのだ。むさい爺の分際で、可愛いところを見せてくれる。

 アンリは現在、二十の二か、三だったはずだ。逆算すれば、年端も行かない若い娘御に、この向こう傷を負わせたことになる。しかも、理由はどうあれ、ヴァーヌ聖教所属の修道士に、だ。

 この国においても総本山同様、いわゆる葬式宗教になっているが、それでも市井や政治に対する影響力は大きい。“政争の国”の三すくみにおける、第四勢力とも言っていいだろう。

 修道女に傷を負わせて懲役七年。手ぬるい、と言っていい。

 無論、軍籍は剥奪されている。貴族の私兵とはいえ、聞いた歳で大尉を任じられていたとなれば、実家は名家のはずだが、今はほとんど聞かない名前だ。どら息子の蛮行のせいで落ちぶれたのだろう。それでも、賊にも乞食にも身をやつさず、そこいらの飯屋で晩飯が食えるぐらいは稼げているか、あるいは余所から貰えているのかもしれない。

「復讐されるのが、こわいとかか?」

「それは、大丈夫です。あの方とは以前、慰問に行った際、懺悔の席で一度、お会いしました。衝動的な行動だった。後悔していると、胸の内を告白して下さいました。私はそれを信じ、ゆるしています」

 ふとアンリが、その象徴に手を乗せた。

「ただ、もうひとり。この向こう傷を負ったひと。それが、カスパルおじさま。オーベリソン軍曹です」

 アンリは、神妙な面持ちだった。

 内陸の平野部に根ざす地方豪族、マンディアルグ伯領は、豊かな穀倉地帯である。それ故に、古くより周囲から狙われ、脅かされ続けていた。

 代々の領主は、領土維持に対し極めて過敏であり、また攻撃的であった。そのため、四方八方に問題を抱え、川一本、畑ひとつの程度で、よく揉めていた。時の国王や、ヴァーヌ司教からの仲裁なんぞ聞く耳持たず、近衛師団と一戦交える覚悟に御座ござり申す、と啖呵を切るぐらいだった。

 その戦乱の地で名を馳せていたのが、サントアンリと呼ばれた若い修道女、アンリエット・チオリエであり、無辜むこの民を暴虐から守り抜く自警団の勇者、カスパル・オーベリソンであった。

 押し寄せる他領の兵士から民衆を守り、戦場で倒れた兵を救い、そして自領の物資を徴発しようとする伯爵の私兵とも、戦い続けていた。

 そのうち、伯爵が病にたおれると同時に、爵位剥奪、領地没収と相成った。

 領地は一旦、王家預かりとなり、その後、どこかの名跡を復古させて、王族の端っこのようなのを領主として復興した。これがなかなか手腕が良く、八方の領主と縁故を結び、あるいは裏で争わせるなどして、うまく自領から目を逸らさせるように立ち回っている。おかげで、領内はだいぶ活気が戻ってきているようだった。

 ふたりを招聘したのは、そのあたりだった。救命医療の達人と、実戦経験豊富な戦士であり、指揮官。

 オーベリソンの方は、はじめは辞退していた。しかしアンリが招聘に応えたと聞いた途端、それが心配になって、あらためて応じてくれた。アンリが赤ん坊の頃からの付き合いであるため、娘のようなものなのだろう。

 アンリが傷を負った時の話は、ちらと聞いた事があった。

 寒波が強かった年。修道院に身を寄せていた民衆や怪我人の量に対し、蓄えはあまりにも少なく、冬が越せるかもわからない状況。

 そこに私兵たちが、物資の徴発に乗り込んできた。アンリとオーベリソンたちが説得したのだが、激昂した将校のひとりが、アンリに斬り掛かったという。これに対し、オーベリソンら自警団も逆上し、私兵と自警団の間で衝突が発生。遅れて到着した上級将校により、その場は収まったものの、アンリの傷は、その象徴となるまでに残ってしまった。

 後ほど、アンリ達の修道院やオーベリソンの自警団には、国やヴァーヌ聖教会より、正式な謝罪と、物資の補填がなされたそうだが、その時の傷や記憶は、残ったままだ。

 アンリの向こう傷は、北の勇者、オーベリソンの心にも、同じものを残していた。

「君は、ご子息さまかね?」

「はい。改めまして、局長さま、部長さま」

 質問に対し、少年は立ち上がり、姿勢を正した。

 一礼の後。どん、と両の拳を胸に叩きつけた。見えない剣を、立てて構えるように。

「最果ての地。氷河のはらを切りひらいた、双角王そうかくおうの名に誓い。我ら、鋼の血族。カスパルが子、ビョルン」

 その凛々しい言葉に、オダンとふたり、おお、と漏らしていた。

 北方の雄、アルケンヤールの戦士の名乗りである。父親の方は何度か見たが、このような若者から、これを聞くとは思わなかった。

 まじまじと見ると、こちらの民との混血が進んだのだろう、父親ほどの威圧感は感じない。むしろ大きな目と、輪郭の、いくらかの柔らかさは、頼もしさの方が前に出ている。十五か六ぐらいだが、背は既に、ペルグランぐらいはあるかもしれない。

「つまり、そのクレマンソーと、オーベリソン軍曹が鉢合わせるのを、懸念しているというところかな?」

「はい。私は先程、申し上げました通り、あの方をゆるしています。だけど、おじさまはきっと、ゆるしていない。おじさまに負い目を負わせたのは、私です。私の我儘で、おじさまを今まで傷つけてきた」

「アンリ姉ちゃんは悪くないよ。悪いのは、あいつらだよ」

「ビョルン君、大丈夫だ。君の言う通り、悪いのは、クレマンソーたちだ」

 オダンが、つとめて穏やかに同意した。

「だが罰則を受け入れ、それをまっとうしたならば、そこまでにするべきでもある。これは法律上の話だ。感情の話ではない。そして大体の人は、感情の方に流される。それも、仕方のない話だ」

 わざわざに席を立ち、オダンはビョルンの両肩に手を置いた。

「感情に流され、新しい罪が産まれるのだけは避けなければならない。それも法律の役割だ。任せてくれ」

 強面をはにかませながら、頼もしい言葉を言ってくれた。攻めの法律家とはいうが、こういうのも案外、領分なのかもしれない。

 男ひとり、ゆるさせる。感情の問題。これもひとつの、後方支援である。

「まずは、警察隊のおやじ連中で、オーベリソン軍曹の胸中を引き出しておいてくれ。こちらは、クレマンソー側の調査。オダン部長には、法律や感情の両面で、オーベリソン軍曹を説得できる材料を確保することをお願いしたい」

「お願いされずとも言い値で買いますよ。そして、恩は安売りするに越したことはないってね」

「おや、貴官。案外、口が達者なんだな」

「法律家ですから。口八丁、手八丁です」

 こわい顔が、笑いながら言った。

 そういえばこの男と、ここまで入って話をするのも、はじめてかもしれない。自分の方こそ、知己の薄い仲と思って、避けていたのかも。

 一旦、話を切って、軽食を摂りながら世間話をすることにした。

 オダンの叔父が、士官学校時代にダンクルベールの後輩だったらしく、身分は違えど、いろいろと面倒を見てくれたそうだ。叔父とは姓が違うから、ダンクルベールは気が付かなかったらしい。ああ、あの。と驚いていた。

「それからは、一族総出での恩人みたいなもんです。叔父貴も殿さまとおんなじ緑の瓶ばっかり飲んでるから、それがうちの男どもに皆、伝染っちまってますよ。そのうちに、おお、あのメタモーフを。あのガンズビュールの人喰らいを、なんてもんですから。もう号外が出る度に、街中の酒屋から緑の瓶をかき集めて、きゃあきゃあ騒いでいましたよ。いやあ、やっぱりオーブリー大先輩だ。ダンクルベールのお殿さまだ。かっこいいなって、がきの頃からの憧れでした」

 このあたりは、泣く子も黙るガンズビュールの大英雄である。歳の頃、三十の半を越えたあたりか。ビアトリクス含め、そのあたりの世代なら感化されてもおかしくはない。話すほどに、顔に似合わず、気持ちの良い男だった。

 戻ってから、マンディアルグ伯領の情勢と、クレマンソーの身辺を洗うことにした。

「マンディアルグ伯領ですが」

 副官が、言いづらそうに持ってきた。

 言葉は出さず、受け取るだけにした。ぱっと見ただけで、気分が悪くなった。

 その地方の警察隊地方支部長を呼んだ。大至急とだけ、言ってあった。

「事情を聞こうか」

 ダンクルベールと三人で、話をすることにした。取調室である。

「仰ることの意味が、わかりかねます」

 シャミナード少佐。中堅以上、実績十分ということで、地方支部を任せていたはずだった。

 どこか覇気がないというか、状況を理解していない様子である。

「受理すべき被害届を受理していない。どうしてかね?」

「犯罪被害に当たらない内容と判断しました」

「そうか。ダンクルベールには、確認したか?」

「確認不要と判断しました」

「それぞれの判断材料は?」

 そこで、返答が詰まった。

「職務怠慢。地方支部の管理職全員が処分対象。全員、追って指示があるまで、自宅待機。補填要員も、追って通達」

「あの、他の案件が」

「具体的には?本部に都度、報告は上がっている。支部の状況は、私とダンクルベールで把握している」

「すみません。あの、対応できないのです。対応すれば、私たちが標的に」

「ならないようにするのも職務のうちだ」

 ダンクルベールが立ち上がり、シャミナードの前に、いくつかの書類を投げつけた。

「お前に贈収賄の疑いあり、だ。戻り次第、部下に調べさせておけ」

 その言葉に、シャミナードの顔が青くなった。

 見上げる顔に対し、褐色の巨躯が、憤怒を突き刺した。

「神妙にすればそれでよし。そうでないなら、後はわかるな?」

「長官。本官は、その」

「わからんようだぞ、ダンクルベール」

 それが言い終わるぐらいだった。

 杖の音、ひとつ。

 乗り込んできたのは、ウトマンたちだった。椅子のまま、シャミナードを縛り上げた。

「先輩。本当に残念です」

 ウトマン。逮捕令状を、卓に叩きつけた。

「許してくれ、ウトマン。そういうつもりでは」

「ごめんで済むなら警察は要らねぇんだよ」

 顔を覗き込みながら、底冷えするような声。

 遅れて入ってきたアルシェ。持っていたのは、警棒ひとつ。

「さあ、どいたどいた。こっから先は、俺の仕事ですんで」

 何も言わず、全員で外に出た。

 扉を締めた途端、轟音と悲鳴が響いた。

「記者会見はこちらでやっておく」

「面倒を掛けた。俺の責任でもある」

「どうせ、上にもう何枚かいる。生贄はそいつらでいい」

 それだけ言って、ダンクルベールたちと別れた。

 クレマンソーを含めた、マンディアルグ伯のもと私兵たちが、迫害を受けていた。警察隊支部はそれを無視し、あるいは加担していた。

 あの地は、あの冬の日から、時が止まったままでいる。


3.


 歴史の勉強をひとつ、頼まれていた。

 何故、自分が。そう思ったが、話を聞くと、なるほど、自分がやるべきだとも、ガブリエリは決意した。

 北の勇者、オーベリソンに、男ひとりゆるさせる。アンリを向こう傷の聖女にした、その男を。

 歴史の話は好きだし、わかってあげるのが仕事だった。

 アルケンヤール。大陸本土の、いわゆる“四強よんきょう”の一国。ユィズランド連邦という、地政学上の緩衝地帯を中心とした、東西南北の列強のうちの、北の大国だった。

 この国に、アルケンヤールの戦士がいる理由。それを理解すれば、説得材料になりうるかもしれないとのことだった。

 いわゆる“南蛮北魔なんばんほくま”の“北魔ほくま”の方。およそ千年前、北極圏に近いアルケンヤールから船を出し、ヴァルハリア、ユィズランド諸国から、この国やエルトゥールルにまで襲いかかった、蛮族の名産地である。そのひとつがこの地にたどり着き、根ざしたというのは、ありうる話だとは思っていた。

 ただ、大ヴァルハリア侵攻という出来事が、それを邪魔する。

 ガブリエリ家を含む大ヴァルハリアの勢力が、この地に侵略し、併呑した。これがおよそ、七百年ほど前の話である。土着化したアルケンヤールの戦士の血は、侵攻に対する盾として、真っ先に消費されるはずだろう。

 そして、アルケンヤールそのものも、ヴァルハリアから侵略を受けていた。そして“北魔ほくま”と恐れられたアルケンヤールの戦士団は、その際に、ほぼすべてを滅ぼされていた。大ヴァルハリア侵攻の、いくらか前の出来事になる。

 この国に攻める側も攻められる側も、オーベリソンほどに濃い血は残らないはずだ。

 思い当たるのはひとつだけあったが、それはどこにも記されていなかった。ただこれは、何もアルケンヤールの戦士に限った話ではなく、この島国における、すべての人種に言えることである。

 この国は、国土面積と、海上貿易の歴史から見ても、人種や民族が多すぎる。その事実が、ガブリエリの思い当たりを導き出したものだった。

「予想はしていましたが」

 ゆっくりと、声を出してみた。

「おそらくは、塗りつぶされています」

「そうか。やはり、そういうものなのだな」

 ダンクルベールは、仕方ないという風にため息をついた。自身も伝手を使って、色々と調べたそうだったが、同じ結論のようだ。

 歴史改竄。ヴァーヌ聖教会を国境としていた国々が抱えている、ひとつの事実であり、問題である。

 ヴァルハリア帝国の前身たる大ヴァルハリア。その開祖、西の大王ことミヒャエル・マイザリウス。大ヴァルハリア初代皇帝にして、ヴァーヌ聖教会初代教皇。そのひと自らが、それを指示していた。

 かの御使みつかいのミュザの末裔を自称し、国土と国是、そして国教を広めていくにあたり、自身の正当性を保証するため、あらゆる事をした。ヴァーヌ聖教以外の宗教を弾圧し、不都合な民族を浄化し、征く先々の国の歴史を、捻じ曲げていった。

 たしか百年ほど前の宗教改革の際、明らかになったことだった。

 ヴァーヌの火。燃やされる。塗りつぶす。それらの行為は歴史用語として、そう呼ばれていた。

 この国も、大ヴァルハリア侵攻の際、それをやられている。つまりこの国の歴史は、その宗教改革以前のものは、すべて、不確かなものであるのだ。

 確かめる手段はただひとつ。その時生きていた者に聞くこと。そしてダンクルベールやガブリエリは、それが存在することを知っていた。

「アンリさんにはおそらく、つらい話になると思います。我がガブリエリ家もそうですが、侵略した側の立場ですから」

「俺は血の都合、お前たちやオーベリソンの立場で考えるというのは、いくらか難しい。こればかりは本当に、申し訳ない」

 ダンクルベールの血は、北東エルトゥールルである。交易などで馴染みのある沿岸部ではなく、内陸の、砂漠と大河の広がる大地。ともすれば、大平原のほうが近いぐらいまであるだろう。思い当たるところとはまったく別の流れから。あるいは理想的な流れで、こちらに居着いた民族である。

「個人の話ならともかく、歴史の話ともなれば、私やアンリさんと、オーベリソン軍曹たちとは、それぞれ敵対関係にあったものです。それでも、行きますか?」

 信仰とともに生きてきたアンリに、つらいものを突きつける可能性がある。それだけ、ヴァーヌ聖教の歴史というのは、侵略的なものだったのだから。

「歴史の話は、私は不得意です。それでも」

 真っ直ぐに、見つめ返してきた。

「育ててくれたカスパルおじさまの心を癒やす。そのためなら、私はヴァーヌとヴァルハリアの罪咎のすべてを背負います。そのための、傷と、名なのですから」

 やはり、サントアンリ。生ける聖人。信仰の象徴。

「お覚悟、汲みました」

 言えるのは、それぐらいだった。

 念の為、可能かどうかを確認してから、訪うことにした。返答は、可能、とのことだった。

「おや、まあ」

 ボドリエール夫人ことシェラドゥルーガ。長命で博識な人でなし。

 あかと黒の組み合わせはいつもどおりだが、いくらか簡素で、前掛けなんかをしている。燃え盛るように踊る長い髪も、ちょろっと結い上げていた。いつもの、むせ返るほどに妖艶な、文字通りの魔性の女という趣とは異なり、つい見惚れてしまうような、色っぽい若奥さまといった風情である。

 手に持っていたのもそれっぽい、よく見るような琺瑯ほうろうの鍋だった。おそらくは、根魚ねうおとかあの辺りの、いい匂い。心当たりがひとつあって、ちょっとわくわくした。

「少し早かったか。めしまで、用意してもらえるとは。手を煩わせたな」

「なに。もうじき出来上がるよ。私の可愛いアンリにくわえて、ガブリエリ君まで来ると聞いたから、大奮発して、お得意の家庭料理だ」

 そう言って、台所の方に戻っていった。

 何度か顔をあわせてはいるが、ここに来るのははじめてだった。事前にペルグランなどに話を聞いていたが、ここでの生活のすべては、夫人ひとりでやっているそうだ。埃ひとつない、綺麗な独房である。

 さあさ、どうぞ。そう言って並べられたのは、確かに大奮発といった量の品数であり、また、魅力的なほどに見慣れた、素朴なものだった。

 家鴨の肉と肝のテリーヌ。茹で卵とツクリタケの白さが印象的な田舎風サラダ。フォンブリューヌはセルヴァンのご実家のところの名産品である、青カビのチーズ。その他も色々あるが、何と言っても“何でもありの南西の漁師風”である。

「これ、大好物なんですよ。うちの実家の使用人たちが、まかないで作ってたやつにそっくりで。お手伝いのご褒美に、よく食べさせてもらってました」

「南東ヴァーヌのあれだよね。確かに引用しているから、似ていると思う。私のは、南西の漁師風から面倒なのを差っ引いた感じ。君の方のは、最初から手抜き料理。たどり着くところは同じだったってところかな」

「よく聞く話ではあるのですが、本場のと夫人のとで、何か違いがあるのですか?私、海のことはよくわからなくって」

「めんどくさいんだよ。地元の漁協が憲章だとかぶち上げて、レシピを固定化してるのさ。そうじゃなきゃ、“南西の漁師風スープ”とは呼ばせないってね。私、そういうの大っ嫌い。これをエッセイに書いたおかげで、殺害予告もらったことがあるぐらい、連中には疎まれてるよ」

 からからと笑いながら言った言葉に、ダンクルベールが眉間を押さえていた。つまりはダンクルベールが、それに対応したということなのだろう。

 うちの実家の方面にも、この料理に似たものがふたつあり、今、食べている方でないほうが、まさしく面倒だった。名前に五つと入ってるから五種類以上の魚介類を入れなきゃ駄目という話である。親戚のひとりが、それが好きなくせに小煩こうるさく、出されるたびに、ちゃんと五つ以上入っているかを確認し、そうでなければ使用人を怒鳴りつけるという、馬鹿馬鹿しいことをやっていた。

 子どもの頃に食事に招かれた際、まさしく目の前でそれをやられたことがある。子ども心に嫌な気分になったので、同席していたマレンツィオと結託して、ふたりで散々に怒鳴りつけてやった。今でもマレンツィオとふたり、笑い話にするほどには、痛快な武勇伝である。

 アンリは内陸部の生まれだから、海魚はいつだって新鮮だそうだ。小柄で、肉付きがある方ではないが、結構、食べるひとだった。人の何倍も働くから、それもあるかもしれない。夫人も、所作の美しさで気になることはないが、底なしの健啖家だということは、今までの付き合いから知っていた。

 食事がひと段落して、本題に入る。事前にある程度の話は、手紙で連絡していた。

「この国にいる、アルケンヤールの戦士の血について、という話だったよね?」

 夫人を正面として、三人、並んで座っていた。ダンクルベール曰く、いつもより広い卓とソファらしい。ご馳走を振る舞う都合だろうか。

「アンリエットの父親代わり。オーベリソンという男に、男ひとり、ゆるさせたい。まさしく、アルケンヤールの戦士の血だ。偏見ではあるが、おそらくは、頑なだろう」

「となると、つまりはアンリの、その傷だね?」

 夫人の言葉に、つんと、アンリが額を差し出した。夫人は笑って、その向こう傷を白い指で撫でた。それでふたり、にっこりと笑った。

 たまに見るである。アンリは、傷のことを気にしない。むしろその向こう傷は、気に入っているすらある。相手の気を和ませるため、それを触らせたりするのだ。

「アンリ。お前は、優しいこだね。きっともう、そのひとのことを、お前はゆるしたのだね。その上で、オーベリソン殿にもゆるさせたいのだね?」

「はい。おじさまのこの傷を、癒やしてあげたいのです」

 笑いながら、それでもその傷と同じく、決意の色を瞳に宿して。

「“南蛮北魔なんばんほくま”の、“北魔ほくま”の方かあ」

 夫人はそう言って、奥の方から、透明な瓶を何本か持ってきた。中身も透明。かなり強いやつだろう。

 ほとんど、一瞬。その一本を、一気に喇叭らっぱにしてしまった。

「ああ、畜生。これがやっぱり、一番だなあ」

 酒場のおやじのような飲みっぷりに、思わず唖然としてしまった。表情も、まさしくそれである。

「おい。何もそこまで、無理をしなくても」

「いいんだ、我が愛しき人。私もたまに、自分自身の整理整頓としてやっておかないといけないからさ。ちゃんと言葉に出していかないと、記憶というものは、どうしても捻じ曲がるから」

「やはり、大ヴァルハリア侵攻ですか」

 ためらいつつも言った言葉に、夫人は頷いてくれた。

 一枚、裏返したままで渡した。

 受け取ってくれた。ちらと見て、観念したような、つらい笑い方だった。

「大正解」

「であれば、これ以上は」

「いや、やる。さっきの通り、これは私のためでもある」

 美しいが、沈んだ声だった。

 整理整頓。捻じ曲がる記憶。それはきっと、記されていないもの。夫人の中にしかないもの。

 真実ではなく、事実。夫人が見てきた、大ヴァルハリア侵攻。

「とはいえ、言葉では理解しづらいと思うから、見てもらったほうが早い。ごはんのあとで申し訳ないけれど、ちょっと刺激が強いよ。よろしいかね?」

「覚悟の上です。おじさまのことを理解しなければ、先に進めません」

「ガブリエリ家も、当事者です。貴女を含め、オーベリソン軍曹のことを、わかってあげることが、私のやりたいことです」

 こちらの返答に、夫人は軽く、微笑んでくれた。

 気持ちの準備が出来次第、眼を閉じるようにだけ、言われた。

「ちょっとした“悪戯いたずら”。そして」

 瞼の裏の闇の中。ぱちん、と。

「私の、思い出」

 はじまりはじまり。それだけ、聞こえた。


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 まどろみ。何かが、五月蝿い。あわせて、目を開けた。

 見渡す。暗い。昼か夜かも。見えるのは、黒と、赤。そして。

 屍。あたり一面の。

 少し高いところから、それを見ていた。眼下のすべてが、焼き尽くされていた。

 ひとり。呆然と、立ち尽くしていた。

 これが、このひとの記憶。そして自分たちがこの地に対し、やってきたこと。

 水平線に見える大船団。火を纏った大岩を、投げ飛ばし、転がしている。高い建物から、放り投げられる人々。進軍する敵兵の槍の先に掲げられた、人の頭と思しきもの。

 くわえて、雨のような火矢だとか。弩を並べ立てたものだとか。横一列、鎖に繋がれ、鬣に火を付けられた馬だとか。

 これは、悪夢だ。そうとしか、形容できない。

 咆哮。おそらくは、シェラドゥルーガの。飛び出して、襲いかかる兵たちを、引き裂いていた。食いちぎり、吹き飛ばし、踏み潰していた。

 襲い来る兵たちの顔。白い肌の人。黒い肌の人。そして、巨躯。見覚えのある鉄兜に、長柄の斧。

 “北魔ほくま”。無数の、オーベリソンに似た顔。

 聞こえた。双角王そうかくおうの名に誓い。我ら血族。血に塗れ、血を守るために。父祖の無念のため。

 もう一度。黄金こがねはらひらくために。

 そして、ヴァーヌ。ヴァーヌ。よくも、ヴァーヌ。そのひとの声。悲痛な、叫び声。嗚咽し、枯れ果てても、吠え続けていた。

 そして、敵兵も叫んでいた。あかき瞳。あかき瞳だ。叫んで、怯えていた。

 遠吠えのように。私はシェラドゥルーガだ。あかき瞳の、シェラドゥルーガだ。よくも、ヴァーヌ。よくも、ミュザ。

 倒れた人の顔を、覗き込んでいた。よく見えない。でも、何かを言っている。

 母さま。

 その人は、そう呟いていた。母さま、我らが生命を。それを嫌がり、断り、そしてゆるしを請いながら、立ち上がった。襲い来る人の波を、ただひたすらに、殺し尽くしていた。

 シェラドゥルーガの声。お逃げなさい。私が守る。母が、お前たちを必ず守るから。どうか、お逃げなさい。そう叫びながら。血と肉と、矢と火、そして敵意の雨に、晒されながら。

 そして、よくも、ミュザ。よくも、ヴァーヌ。

 暗くなる視界の中。鳴り響いていたのは、慟哭だけだった。


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 瞼を開けた。

 夫人の姿。夷波唐府いはとうぶごしらえの煙管パイプをふかしながら。濁ったあかい瞳で、ぼんやりとしていた。

 手元。殴り書きで、色々と書いていた。見たもの、聞いたもの。そしておそらく、シェラドゥルーガと読むべき綴り。字こそ今のそれだが、知っているシェラドゥルーガとは、まったく違う綴りだった。

 つらいものがあった。それでも、言葉に出さなければ、わかってやれないから。

「やはり、戦争奴隷ですか」

「そうだね」

「勝てば自由が手に入る。その言葉にそそのかされ、ここを侵略した。そして、それぞれが土着化した」

「そう」

「そして、貴女にとって、我々はやはり」

 表現が、難しかった。この人にとっての、我々とは。

「侵略的外来種」

「ありがとう。言葉を、選んでくれて」

 シェラドゥルーガ。これもまた、焼かれた歴史のひとつ。焼かれて、塗りつぶされてもなお、生き残ってしまった、神たる

 すべて、嘘っぱちだったのだ。地方豪族の争いも、そこに侵入してきたヴァーヌ貴族とヴァーヌ聖教も。

 この島に暮らしていた、生ける神と、それを信奉する人々の暮らしを焼き滅ぼして、その上に描きあげた、醜い油絵だ。

 我々はそれを、してきた側なのだ。

「これを忘れないこと。これを、正しく覚え続けること。それをしないと、私はこの島の人々を、愛せなくなる。たとえ歴史が嘘に塗れていようと。たとえ、それ以前の人々が塗りつぶされようとね」

「そうでなければ、人を、憎しみ続けるだけになるから、ですね?」

「流石は、あにさまのお弟子さんだ」

 声も、表情も、変わらなかった。淀み、濁ったままだった。

「ガブリエリ君でよかった。ペルグラン君であれば、これを理解できなかっただろう。あのこの血の歴史は、せいぜい二百年。君の血は、私の過去の当事者であり、そしてあにさまの薫陶を受け、人のことを、わかってあげることができる」

 その言葉に、嬉しさを覚えることは無かった。

 所詮は、我々は、このひとを傷付けていた。わかってあげる土俵にすら、立っていなかった。

「あえて、聞く」

 ダンクルベール。瞼は、閉じたままだった。

「俺を含め、お前は愛する人を喰う。お前の中で共に生きるために。その時、それは選べなかったのか?どちらにせよ、死んでしまうなら」

「島ひとつ分、喰らえというのか」

 絶叫、といっても、いいもの。

 皆、震えていた。夫人は目を開いたまま、ずっと、こちらを見据えていた。複雑な色の感情が、混ぜ込まれたあかが。

 お互い、真っ直ぐに。それでも、夫人のそれからは、溢れはじめていた。

「そうだ、我が愛しき人。きっと、そうするべきだった。そうするのが正しかったんだ。でも、選べなかった。私の中で、共に生きられるとはいえ、どちらにせよ、死ぬ。だから、選べなかった。そしてただ一夜で、すべてが焼き尽くされた。ひとりになってしまった。喰らうことも、守ることも、できないままに」

 炎の奥に置き去りにされたそれが、火の爆ぜる音のように、静かに綴り続ける。悲しい、たきぎの音が。

 俯いていた。俯いて、わなわなと震えていた。痛みに苛まれるようにして。

「人として生まれたものではなかった。そのうちに、人から神として愛されたが、愛する人々を守れずに、それすらも保てなかった。だから未だ、何にもなれていない。私はそういう、生き物なのだ」

 震える声。歯の音。何もかも、わからないものが。

「私は。人でなしなんかじゃない」

 俯いていたものを、ゆっくりと。

「ただの、仲間はずれなんだ」

 歯を食いしばりながら。苦悶と後悔に、美貌を歪めながら。

 それはただ、眼を閉じることもなく、涙を流し続けていた。

 瞼を閉じることなど、許されなかった。見なければならないと己に課した以上、絶対に。

 それでも、ただひたすらに。おそらくは同じ痛みを感じていた。だからだろう、視界は極端にぼやけていた。

 残っていたうちの一本。それをまた、一気に飲み干した。それでも足りないのだろう。続けてある分の透明なものを飲み干してなお、もともと嗜もうとしていた赤のボトルもそのまま喇叭らっぱにした。そして取り出したハンカチーフで、軽く顔を拭う。

 毅然とした夫人の顔が、戻ってきた。

 ガブリエリも、それに倣った。手元にあったグラスを、一息であおり、そしてハンカチーフで顔を拭った。

 それで、真正面。真っ直ぐに、見ることができた。

 ひと息、入れましょう。いつもどおりの夫人の声だった。ガブリエリは、懐から紙巻を取り出していた。隣のダンクルベールも、そうしていた。

 紫煙は、いろいろなものを紛らわしてくれる。ただ今日のそれに対しては、何の役にも立たなかった。

「わかってやれたかね?」

「いいえ。あまりに、大きすぎます」

 問いかけと同じように、沈んだ声で答えた。

「でもきっと、受け止めることは、できたと思います」

 それだけは、自身があった。

 あとは時間を掛けて、ゆっくりと、わかってやりたい。シェラドゥルーガという、膨大な歴史を。

 それまでずっと、つとめて、アンリの方は見なかった。見なくても、その様子はわかったから。

 ひと心地いれた夫人は、化粧も服も改めていた。よく見る、あかと黒のドレスに、左肩のフェザーボアの組み合わせ。あれだけ強いものを煽っても酒臭さはなかったし、所作には何の不都合もなさそうだった。

 つまりは、いつもどおりの夫人である。

 飲み物なども、改めてくれた。ジンジャーティー。くわえて、ダンクルベールには、緑の瓶。夫人と自分は、ユィズランドの白を。

 ジンジャーティーの香りと温かさが、嬉しかった。張り詰め、縮こまってしまっていたものを、柔らかくしてくれた。

「さて、アルケンヤールの“北魔ほくま”たちは、海の民だ。生き残った連中を沿岸沿いに住まわせると、海賊行為に走るだろう。だから、内陸部にまとめて住まわせた。これが、オーベリソン殿の祖先になるはずだ」

 口調もきわめていつも通り、不遜かつ不敵。

 短時間で、取り戻したようだった。強い心。羨ましいぐらいに。

「彼の地の歴史サガの残し方には様々あるが、戦士のそれは、ほぼすべてが口伝くでんだそうだ。だからヴァーヌの火に焼かれず、細々と生き残ったのだろう。あるいはこちらに来てから、文字として書き起こされて復興した。いわゆる、最果ての地。氷河のはらを切り拓いた、双角王そうかくおうの名に誓い。我ら云々うんぬん何処其処どこそこなにがしの子。ってやつだよ」

「おお。まさしく、それだ。オーベリソンとその息子が、その名乗りを受け継いでる」

「あら、嬉しい。焼かれた歴史は戻ってこないから、そういうかたちで生き残っているのがわかるのは、本当に喜ばしいことだよ」

 にっこりと。でもどこか、悲しみが見えた。

 このひとも、神として、残したいものがあったのだろうか。あるいはそれが、パトリシア・ドゥ・ボドリエールとしての、著作の数々なのだろうか。

「北の戦士の血は、汚された誇りの残滓ざんし。そして恨みや怒りが書き加えられた、悲しみの英雄譚サガになっている。そうであれば、他者が介入する余地はないでしょうね」

 ガブリエリは、結論を伝えた。

「難しいだろうね。彼の地はもとより、痩せて凍えた大地。閉鎖的、排他的で、心を開かせるのは、尋常にはいかない。それでも、やるというのであれば」

 立ち上がり、ガブリエリの隣に座るアンリのもとへ。

 いまだ泣きじゃくり、俯いている聖女の両肩に、手のひらを乗せて。

「オーベリソン殿に、いや」

 しっかりとした口調。そして、一拍を置いてから。

「お前のお父さんに、伝えておくれ?」

 その言葉に、その震えは、一層、大きくなった。

「先へ進みましょう。焼かれ、塗りつぶされたものは、戻ってこない。振り返ろうと、掘り返そうとも、そこには過去しかない。現在は、そして未来は見つからない。だから、先へ進みましょう。そうして歩んだ道を、あなたの歴史サガにしてほしいと。どうか、お伝えあれ」

 ひとすじ。それでも微笑み、毅然とした表情で。

「私は今、そうしている。だから今、とても幸せだと。我が愛しきオーブリー・リュシアンに。心優しきレオナルド・オリヴィエーロに。そして、ただひとりのアンリエットに出会えたと。また再び、愛すべき人とまみえることが成し得たと。どうか、お伝えあれ。憎しみで、心と己を焼き尽くし、凍て尽くすことだけは。決して、してはならないと。どうか、どうかお伝えあれかし」

「はい。必ず、お父さんに。私のお父さんに、伝えます」

 震えて、嗚咽で声をひくつかせながらも。

 そうしてアンリは飛びつくように、卓の上に立て置かれた白のボトルに手を伸ばし、それを煽りはじめた。

 ぎょっとしていた。ひとつの噂を、聞いていたから。

 サントアンリには、酒を飲ませてはいけない。

「アンリさん、ちょっと」

 思わずといったかたちで、身を寄せた。

 その肩に手を伸ばしたぐらいで、その首が、かくりと、後ろに倒れた。

 ほぼ、反射だった。その手から滑り落ちたボトルと、後ろに倒れ込む小さな体。両方、片腕ずつで、支え取れた。

 ボトルの方は、夫人が受け取ってくれた。傾いたままの首を戻すようにして、抱え直した。

 そしてそれを、見てしまった。

「おや、まあ」

 夫人の、くすくすといった笑い声。

 いつぞやに見たもの。聖女の、寝顔。

 口を開け、そこからよだれを垂らしながら眠っていた。ふたつ上のお姉さんとはとても思えない、ほんのりと赤く、ふやけた顔。

 どうにかなっていた。

 夫人とダンクルベールがいてよかった。そうでなければ、理性が。いや、そうでなくても。

「アンリエットがな」

 鼓膜は、機能しているようだった。ダンクルベールの声。

「いいことを言っていた。酒を飲むことは罪ではない。人は眠っているとき、罪を犯さないんだと」

「それは素敵だ。だからアンリは、無垢であれるんだね」

「無垢すぎる。刺激が、強すぎます」

 それだけ、吐くようにして。

 それできっと伝わったのだろう。おかしさに笑いながら、夫人がアンリの体を受け取ってくれた。

 鼓動の高鳴りが、耳に聞こえるほどになっている。ボトルのまま、何回も煽った。それでも、収まらない。

「あらあら。ガブリエリ君も、可愛いところがあるじゃないか。そういうのに弱いんだね?覚えとく。楽しみにしててね」

「お前は本当に、真っ直ぐだなあ。そこがいいんだがな」

 ダンクルベールも、おかしそうに笑っていた。そりゃそうだ。娘ふたりを嫁がせた、孫持ちの爺さまだもの。夫人は、むしろ面白いものを見つけたようにして、はしゃいでいるし。

 人は眠っているとき、罪を犯さない。嘘っぱちだ。この聖女は、眠っているときにこそ、罪を犯すのだ。今までの、楽しい食事会や、夫人のつらい思い出も。何もかも、吹き飛ばされた。ただ必死に、頭の中に、栗毛のあのこの顔を思い浮かべて。それでも目の前のそれが、塗りつぶしていって。あのこや、ラクロワの顔すら。

 やはり、サントアンリには、酒を飲ませてはいけない。


4.


 オーベリソンの心を溶かすことは、やはり難しそうだった。

 ダンクルベールがシェラドゥルーガを訪ねているのと並行して、ムッシュやビゴー、そして法務部のオダンを含めた何人かに、オーベリソンと話をして貰っていた。

「義理も道理も、あるいは倫理でも、駄目そうですな」

 ムッシュがそう言って、かぶりを振った。

「俺がいても、駄目だっただろうな」

「まことに。感情どころの問題ではない」

「やはり、血か」

 その言葉に、ムッシュは眼を閉じたまま、それでも得心したような頷きを見せた。

サントアンリが、憎い。そう言っていました」

 ムッシュの一言に、アンリの顔が曇った。

 ビゴーがそっと、アンリの側に寄ってくれた。

「あんた、夢を見たんだってね?」

 不思議なことば。

「いわゆる、神託ってやつでしょう」

 ビゴーの言葉に、体がひとつだけ、震えた。

 神託。宗教的体験。

「言えるかい?」

「はい」

 ビゴーがその肩に、手を乗せた。それでいくらか、落ち着いたようだった。

 アンリは、深呼吸ひとつ。

「たしか、十歳ぐらいのときに。あの方にまみえました。白というか、生成りの装束。白金の髪。男性か女性かはわかりませんでしたが、綺麗なお顔をされていました。そして」

 一拍。いやな予感がした。

「背に頂いた、炎の冠」

 御使みつかいのミュザ。

「長官。飲み物を、どうぞ」

 アルシェの声だった。おそらくは、心が顔に出ていたのだろう。

 宅に置かれていた紅茶。口に運んだが、味も熱も、わからなかった。

 そういうことが、あるのか。そればかりが頭の中にあった。

「ミュザさまは、泣いておられました。人を救うために剣を取り、龍を討ったあと、太陽になってしまった。だから今、その光の中で、人が傷ついて、苦しんでいくのがつらいと。ミュザさまは、それを照らすことしかできないと。だからどうか、ミュザさまの代わりに、人々を助けてほしいと。私は、ミュザさまから、そう、お願いされました」

 アンリの瞼が、閉じた。

 お願い。歳幾ばくもない子どもに対して。

 ムッシュの顔。何か、諦めのようなものが見えた。

「アンリちゃん」

 大きな音。誰かは、声でわかった。

 入ってきたのは、オーベリソンだった。大汗をかいている。

「アンリちゃん。俺のことは、考えてくれなくていい」

「カスパルおじさま、私は」

「いらないと言っているっ」

 がんと鳴るぐらいの大声。その表情に、一切の余裕は見られない。

「ビョルンもそうだが、これ以上、他の人を巻き込むんじゃない。もしそうしたいなら、引っ張ってでも郷里に帰るぞ。わかったな?」

「聞いてください、おじさま。どうか、先に進みましょう。先に進んで、皆で」

「どこにだっ」

「オーベリソン、よしなさい」

 ダンクルベールは思わずで、割って入ってしまっていた。アンリは怯え、竦み上がっていた。

 ほぼ同じ目線、いやそれ以上。“北魔ほくま”の顔。恐ろしいとすら。

「長官、申し訳ありません。俺のせいで、皆さんに迷惑を掛けました。これ以上はもう、ここにはいられません。家族とアンリちゃんを連れて、郷里に帰ります」

「帰って、どうするというんだね?」

 また、割って入ってきた声。

 法務部部長、オダン。峻厳な顔つきのまま、歩み寄ってくる。

「言ったはずだ。マンディアルグ伯領。貴官たちの郷里で、貴官たちを傷付けた人間が、どういう扱いを受けているか」

 その言葉に、オーベリソンの顔が苦悶に歪んだ。

「あの頃と逆のことが起こっている。虐げられた人々が、虐げた人々を虐げている。それに加担するつもりか」

「オダン部長殿。どうか、お願いします。俺はもう、他人に迷惑を掛けるものでしかない」

「そうだ。その状態で郷里に戻ってみろ。貴官は他人に迷惑を掛けるまま、そこに戻るのだ。かつて貴官らを傷付けた人間がいる場所にだ」

「なあ、オーベリソンさん」

 今度、割って入ってきたのは、柔らかな声。ビゴーだった。

「話ひとつ聞いてくれりゃあ、それでいいんだ。じゃなきゃあ、あんた。もう、戻れなくなっちまうよ?」

 最も大きな男と、最も小柄な老人。それでもどうしてか、その姿は真逆の大きさに見えてしまった。

 咆哮ひとつ。オーベリソンは飛び出していってしまった。

 荒んだものだけしか、残らなかった。

「話題に出したことで、傷口が開いたか」

「もとから開いてます。膿んでいた。瘡蓋かさぶたもできないまま、ずっと血を流している」

 アルシェ。仏頂面だが、気圧されたのだろう。いくらか脂汗が滲み出ていた。

「アンリが負った分の傷を負っている。それを治そうとすることに、過剰に反応しちまってるんです」

「“二尊院酔蓮にそんいんすいれん”の際、マギーの作戦に対し、拒否反応と思えるぐらいの反対を示したのも」

「あるいは、そういうことなのかもしれない」

 その言葉が、つらかった。

 あのとき、オーベリソンは見たくなかったのだ。聖者であるアンリを。傷つき、それでも立ち向かう姿を。それを今まで、誰よりも側で見てきたがゆえに。そうやって今まで、その心に、同じだけの傷を負ってきたのだから。

 心優しい男。そして、戦場に赴く娘の姿を、ただ見ていることしかできない、悲しい父親。

 自分の至らなさを、ダンクルベールは悔やむしかなかった。

「誰のせいでもないですよ。アンリさんも、オーベリソンさんも。あるいは、あんたに傷を負わせた、クレマンソーさんも」

 ビゴーの言葉がすべてだが、心には、響かなかった。

 セルヴァンがクレマンソーと接触できるよう、取り計らってくれていた。日を改め、アンリとビョルンを伴って、行くべき場所の近くで待ち合わせとした。

 クレマンソー。ガブリエリが、連れてきてくれた。

 おそらく、セルヴァンが気を利かせたのだろう。身なりは、こざっぱりとしていた。髭も剃り、髪も整っている。歳の頃、三十ちょっとぐらいか。

 やはり今までの経験からか、おどおどとした、弱々しいものばかりが目立った。

「まずは、俺から」

 ダンクルベールは、その目を見ながら言った。

「お前を含めた、すべての人を、どうにかしたい。攻撃するつもりも、過剰に保護するとかいうつもりもない。今の状況を、少しでもよくする。それだけを、したい」

「お気持ち、ありがたく頂戴します」

 口調は、弱かった。

「ビョルンは、言いたいことはあるか?」

 隣に佇む少年に、促した。

 難しい顔。それでも、まずは一歩、前に出た。

 右手を、差し出す。少し、震えていた。

「これが、俺とアンリ姉ちゃんの、気持ちです」

 毅然とした、男の顔だった。

 クレマンソーは、いくらかの戸惑いを見せた。

「ごめんなさい」

 そう言いながらも、右手を。そして。

「俺、左利きだから。こういうかたちでも、いいですか?」

 震える両手で、ビョルンの右手を包みこんだ。

「こちらこそ、ごめんなさい。自分のことばかり、考えてた」

「俺もです。本当に、ごめんなさい」

 それだけで、よかったようだ。ふたりとも、ぎこちないけれど、笑顔だった。

「周りの理解を得よう。郷里と、オーベリソンたちの。そして、オーベリソンに理解をもらおう。ゆるす、ゆるされないではなく、わかってもらおう」

「本当に、お気遣いを感謝いたします。ダンクルベールのお殿さま」

 気が弱ってはいるが、礼儀正しい青年だった。本当に、衝動的な行為だったのだろう。

 まずは、郷里。会うべきはひとりでいい。

 ひとつの教会。そこに、それは待っていた。

 歳の頃、自分と同じ程度ではあるが、堂々とした佇まいの司祭。やはり威容、としか表現しようのない、その顔つき。

 悪入道あくにゅうどう、ジスカール。

 ビョルンが一歩、前に出た。それを威容の司祭は、そっと手で制した。

手前てまえからはっしますれば。どうぞ、お控えなすって」

 静かに、そして厳かに。そうして、一礼した。

手前てまえ、ヴァーヌ聖教リシュリュー教会、司祭。悪入道あくにゅうどうこと、リシュリューⅡ世にせい。名を、ジスカールとはっします。どうぞ万端、よろしくお頼申たのもうします」

 生粋の任侠の名乗り。

 対して若き戦士は、見えない剣を、掲げるように。

「最果ての地。氷河のはらを切りひらいた、双角王そうかくおうの名に誓い。我ら、鋼の血族。カスパルが子、ビョルン」

 威迫に臆すること無く名乗った戦士に、ジスカールは、厳つい顔をいくらか解すことで返答とした。

 遅れて、やはりふたりのやりとりに圧されたのだろう。おずおずと、クレマンソーが頭を下げた。

「クレマンソーと申します。こちらのアンリさまに、傷を負わせました」

 その言葉に、ジスカールは一切動じず、静かに一礼した。それが意外に感じたのだろう、クレマンソーが、戸惑いを浮かべていた。

「あの、それは、どういう」

「人が過ちを犯すのには、それなりの理由わけがあるもんよ」

 その言葉に、クレマンソーの目が、少しだけ潤んだ。

 奥に促してくれた。応接間。綺麗に整っていた。

「これの実家を含め、マンディアルグ伯の、もと私兵たちが迫害を受けている。サントアンリを傷つけた、とな」

「こいつは、つとめをまっとうしたんだな?」

「ああ。罪は、償った。アンリもゆるしている。だからもう、終わりにしてやりたい」

「そうだな。そうしなければ、繰り返しになるだけだ」

 そう言って立ち上がり、書棚からいくつか、資料らしいものを取ってきた。

「マンディアルグ伯領の悪党なら、ほとんどが自警団崩れだ。目的を見失って、民衆なり、もと私兵どもに手を出している。だから、目的を与えてやれば、使えるはずだ。チオリエ姉さんを傷つけられた恨みも、恩ひとつ売ってやれと言えば、格好もつけるだろう」

 その言葉に、ビョルンが少しだけ、苦い顔をした。

 父親であるオーベリソンも、自警団の出だ。戦乱が終わった後、そういった人々が、悪党にまで落ちぶれているとは、思いもしなかったのだろう。

 それをみとめた後、ジスカールは、クレマンソーの目を、じっと見た。それの怯えが無くなるまで、ゆっくりと時間を使った。

「法と感情は、別物だ。だからこそ、法で庇いきれないものは、俺たちが庇い、守り抜く。それが俺たち悪党の、そして任侠の本来の務めだ」

 静かで厳かだが、強い言葉だった。

 それで、クレマンソーがこぼれた。ダンクルベールは、背中だけ、軽く叩いてやった。

「司祭さまは、任侠さんなのですか?」

「そう。司祭と任侠さんの兼業だ。ダンクルベールとは別の方向から、人を守ったり、助けたりするのさ」

 ビョルンの声に、いくらか朗らかに答えた。

 “一家”の頃から、孤児院をいくつか持っていると聞いていた。子どもや、こういった年頃の少年などの扱いには、かなり慣れていた。クレマンソーやラクロワのように、気が弱いものに対しても、優しかった。

 おとこを任されるということ。それは、人に優しくあるということ。それができるジスカールを、ダンクルベールは尊敬し、信頼していた。

「親分さま。ご厚意を、感謝いたします」

「こちらこそだ。先に進むんなら、皆、一緒にだ。チオリエ姉さんも、坊やのお父さんも、クレマンソーさんも。そして、皆さんの故郷に住む、人々もだ」

 そこまで言って、立って控えていたガブリエリに、目を向けた。

「俺が言うのも何だが、クレマンソーさんのこと、わかってやってくれないか?俺の方は、これから準備に取り掛かるのでね。それまでは、ガブリエリ兄さんや、ビゴーあにいみたいな人が近くにいてあげたほうがいい」

「親分さんの頼みとあらば、喜んで」

 ガブリエリが、朗らかな笑みで敬礼した。

「ペルグラン兄さんもそうだが、若手がいいねえ。お前もセルヴァン閣下も、そしてビゴーあにいも、楽ができていいだろう?」

「本人を前に、言わせるかよ」

「おや。そのために、連れてきたんだろう?」

 言われて、頭を掻くしかやることがなかった。周りの皆は、笑っていた。

 毎度のことではあるが、ジスカールの察しの良さと物怖じのしなさだけ、いくらか恨んだ。お節介が大好きだから、任侠なんていう仕事ができるのかもしれないが。

 そして、オーベリソンの周り。つまりは、“錠前屋じょうまえや”を含む、警察隊本部隊員。

 そのままジスカールも連れて、庁舎に向かった。先にガブリエリを連絡に出して、主だった面々を集めさせていた。

 まずアンリ以外の男連中で、ひとり、会わせることにした。

 瓶底眼鏡の、風采の良くない男である。

「警察隊本部、中尉。フェリエ、というより、デッサンと呼ばれています」

素描デッサン、ですか?」

「僕は、絵を描くことしかできない。それでも、人の役に立つことができるって、皆に教わりました」

 そう言って、傍らにあるものを、広げはじめた。

「アンリは、よく描くんです。表情が豊かで、動き回っていて、いつも人といる。絵の題材として、すごくいい」

 アンリを描いたもの。本当に、いっぱいあった。クレマンソーたちも、興味津々といった風に見ていた。

 それらは全部、笑顔だったり、真剣な顔だったりだった。悲しい顔や、泣いている顔はひとつも無かった。

 そのうち、ちょっとおかしなものが、いくつかあった。

「たまにね。傷のないアンリを、描くんです。どうなんだろうって。傷を負わせたご本人の前で言うのもどうかなと思うけど、やっぱり女の子だし。きっと傷が無い方がいいと、そう思う時がある」

 傷のないアンリの顔。どこか、別人を見ている気分だった。その表情も、どことなく陰鬱というか、生気が無かった。

「これは、アンリ姉ちゃんじゃない」

「そう。傷のないアンリの笑顔を、描けない。不思議ですよね。なんか、変になる。崩れちゃうんです」

 言いながら、実際に描きはじめた。てきぱきと、実にまめやかに、そして何より、早い。

 そして浮かび上がる、傷のないアンリの顔。やはり作り物というか、デッサンらしくない絵。

「やっぱり、変。でもね」

 そこに、向こう傷を、足していく。やったのは、それだけ。

「ほら。これで引き締まる」

 これには、ダンクルベールも驚いていた。

 傷を描き入れた途端、いきいきとした表情に見えた。

「今のアンリは、あの傷をちゃんと受け入れて、理解している。それは心だけじゃなく、体もそうなんだと思う。そうじゃなきゃ、線一本で、ここまで変わらない」

「フェリエ兄さん。こりゃあ、すごいなあ」

「僕も描いてみて、気付いたことです。傷があって、絵として完成する。不思議ですよね」

 クレマンソーが、ぽかんとしていた。対してビョルンは、どこか得心したような顔だった。

「アンリ姉ちゃん、あの傷、好きなんだと思います。機嫌がいいと触らせてくれる。俺もよく、触ってます。あったかくなるって、言ってました」

 ビョルンの言葉に、クレマンソーが、少し震えた。

「誇りとかそういうんじゃなく、単純に気に入ってるんだろうね。街の人たちも、あの傷を見て、ああ、アンリさまだって」

「親分さんの言う通り、クレマンソーさんのご郷里以外では、あの傷こそアンリなんです。皆、それを見て、安心する。あの傷に、救いを求める。それはきっと、向こう傷の聖女という名前だけが、先に広まったからもあるとは思いますが」

「ありがとうございます。気が晴れるとまではいいませんが、とても楽になりました」

 絵を描くことしかできない男。アンリの絵を見せて、心を落ち着けてくれるだろうと思っていた。予想以上のものを、見せてくれた。

 向こう傷とともに生きてきた聖女、それが、サントアンリ。

「これから会う、ゴフっていうやつ。僕の親友。すっごい乱暴者。でも、曲がったことが大嫌い。だから、弱いものいじめが、大嫌い。わかりやすいやつです。きっと、すぐに仲良くなれる。僕が紹介しますから」

 調練場。獰猛な獣たち。その雰囲気に、クレマンソーが圧されていた。

「ゴフ。クレマンソーさん。アンリに傷を負わせたひとだよ」

 デッサンが、大声で呼びかけた。その言い方に、ちょっと慌てた。クレマンソーもびっくりした様子で、頭を下げてしまった。

 ゴフ。屈強な、黒い肌。顔をしかめながら、近付いてきた。ご自慢の“とんかち”まで、担いでいる。

「おい」

 頭を下げているクレマンソーの目の前。ゴフは、かがみ込んで、その顔を見上げた。クレマンソーの体が、跳ね上がる。

「頭、下げるのは、こっちなんだ。頭、上げてくれねえか?」

 そう言って、満面の笑み。

 クレマンソーが、やはりびくつきながら、頭を上げた。背が、伸びる。

 それに対して、ゴフが一礼した。

「ご存知、“錠前屋じょうまえや”の隊長、ゴフっていう。会いに来てくれて、ありがとう。そして、アンリに傷をつけてくれて、ありがとう」

 クレマンソーが、きょとんとしていた。

 ダンクルベールは、笑ってしまっていた。どこまでも、こいつらしいやり方だ。

「俺たちはサントアンリ原理主義者だ。向こう傷がないアンリは、アンリじゃない。向こう傷があってこその、俺たちのサントアンリだ。だからあんたは、俺たちの恩人なんだ」

「隊長殿。それは、どういう」

「あんたのおかげで、アンリはサントアンリになれたんだよ。そのおかげで、長官と局長閣下がアンリを見つけることができた。ふたりがここに連れてきてくれたから、俺たちはアンリに出会えた。そして今日、アンリを俺たちに出会わせてくれた、あんたに出会えた。そして俺は、俺たち皆を出会わせてくれたあんたに、ありがとうって言うことができた。いいね、わかりやすくって。それでいいじゃねえか?」

 そう笑って言いながら、クレマンソーの肩をばしばしと叩いていた。

「刑期満了。ご苦労でした。これからも頑張っていきましょう、ってやつだ。今更、どうこう言うやつは、ご存知、“錠前屋じょうまえや”がこじ開けてやっからよ。びくびく生きるのは、やめにしようぜ?」

 クレマンソーの顔が、嬉しさのようなものに歪みながら、潤んでいった。そうして、顔を覆ってしまった。

 ゴフが、振り向いた。視線の先には、アンリとビョルン。そして、他の隊員たち。

「アンリ、ビョルン。やること、これでいいんだよな?」

 アンリもビョルンも、とびっきり嬉しそうだった。アンリもいくらか、潤んでいた。

「はい、ゴフ隊長。花丸です」

 大声で。それで、砕けた。

 皆で、クレマンソーに声を掛けていった。お疲れ。ありがとう。よろしく。そういう、優しい言葉が、降り注いでいた。そのうち、吹っ切れたようにして。それでも泣きながら、クレマンソーは、皆と話し合い、笑い合っていた。

 こういうことをやらせたら、ゴフとデッサンが、一番、強かった。

「あのゴフっての。いいやつだな」

 ジスカール。威容が、朗らかになっていた。

「ああ。うちの大黒柱だよ」

 言いながら、思い出していた。

 八年ぐらい前。手のつけられない乱暴者と、あのひとにデッサンと呼ばれていた、頑固な絵描き。士官学校の落ちこぼれ。正反対のふたり。

 でも、仲がとびきりよかった。冗談を言い合って笑い合ったり、殴り合いになるぐらいの喧嘩もする。どちらも一歩も引かない。だからこそ、手を携えることもなく、ふたり、並んで歩いていた。

 ウトマン大尉は百貨店。でも僕たちは、専門店です。僕は絵を描くことしかできませんし、ゴフは、気に入らないやつをぶっ飛ばすことしかできない。ゴフ工務店と、フェリエ絵画教室。前に、ゴフが言ってくれたんだ。僕は、それがすごい気に入っているんです。

 こいつはさ、すげえんですよ。俺のできないことができる。でも俺だって、こいつが逆立ちしたってできねえことができる。だからそれで、おあいこ。俺が前で、こいつが後ろ。役割分担としては、それでいいでしょう?

 心の底から、笑ってしまった。本当にふたり、気持ちのいいやつだった。

 だからふたりとも、軸に据えた。そうすることで、組織はよく回った。ふたりとも、見た目はとっつきにくいが、少しでも話せば、すぐにわかる。それぐらいの魅力があった。男も女も、このふたりによく頼る。

 ゴフ工務店と、フェリエ絵画教室。看板事業にはしづらいが、皆の暮らしには欠かせない。そんな、ふたつの専門店。

 そういや校長から、リュシアンのこと、頼んだぜ、って言われたんすよ。でもリュシアンって、誰なんですかね。長官は、オーブリー・ダンクルベールって、名前でしょ?

 あの頃のゴフが、不思議そうな顔で尋ねてきたのも、面白かった。あのひと、言いたいことしか言わないで、肝心なことを、ちゃんと教えていなかったのだ。

「アドルフ・コンスタンだ。覚えているだろう?」

飲兵衛のんべの殿さまだろ?忘れもできやしない」

 警察隊本部長官を務めた後は、士官学校の教官を経て、校長になっていた。名目上は学校だというのに、酒と煙草を持ち込んで、好き放題やっていたらしい。他部署や他軍、官僚たちにまで、お前のもと上官、どうなっているんだと、小言を貰ったものだ。

 だがやはり、人の本質を見抜く力は、活きていた。ひとりひとりの本質を見定め、適したところに行くよう、導いていた。その集大成が、あのふたりだった。

「あいつと絵描き。あの方の、最高の置き土産だ」

 ゴフたちが来て、ひと月経たないうちに、旅立った。


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 我が親愛なる友人、アンリエット・チオリエが父、カスパル・オーベリソン殿へ。


 友人に言伝を頼んでおりましたが、聞き入れてもらえずということでしたので、筆を執った次第にございます。どうかご寛容のほど、お願いいたします。

 私はこの国で、長らく生きてきた、人にあらざるものです。そしてヴァーヌの火がこの地に訪れた際、私を愛してくれた人々を守れずに、ただひとり生き残ってしまった、恥ずべきものでもあります。

 それでも、私は、生きている。ひとつだけ、選んだから。

 先へ進むこと。塗りつぶされたものは、戻ってこないから。振り返ったところで、過去しかないから。愛する人々とともに暮らしていたという、現在ではないものしか、見つからないから。

 歩んだ道を、新しい歴史にしていくことにしました。たとえ、それまでの歴史が嘘に塗れていようとも。それ以前の人々が、存在しないものとして扱われたとしても。その上を、歩んでいく。そうでなければ、憎しみしか持ち物が無くなってしまうから。ただ、つらい旅路になってしまうから。

 そのために、私は先へ進むことを選びました。そうすることで、新しい、愛すべき人々と出会うことが叶いました。過去は幸せでした。それでも、今、この現在は、もっと幸せです。また、巡り会えたから。そしてきっと未来も、幸せでしょう。また、巡り会えるから。

 先へ進みましょう。誰のためでもなく、貴方自身のために。憎しみで焼かれたとて、苦しみで蝕まれたとしても。先に進むことで、その傷を癒やすことができます。貴方が育ててくださった、ただひとりのアンリエット・チオリエが、私にそうしてくれたように。

 憎しみで、心と己を焼き尽くし、凍て尽くすことだけは、決してなさらないように。貴方の大切な娘の、ひとりの友人として、心よりお願い申し上げます。


 シェラドゥルーガは、生きている。

 愛するもののため。そして、愛してくれるもののために。


 貴方と、貴方の愛しきご家族へ。親愛と、敬愛を込めて。


 パトリシア・ドゥ・ボドリエール、そして。

 あかき瞳のシェラドゥルーガより。

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5.


 郷里の警察隊支部が刷新されるようだった。

 マンディアルグ伯のもと私兵たち。自分がいた自警団をはじめ、多くの民衆が、それらを攻撃していた。暴行、器物損壊、ひどいものであれば、婦女暴行まで。それを、金をもらって見逃していたようだった。伯領出身の議員などが金を出して、民衆の扇動や、警察隊支部への干渉を行っていたこともわかった。

 それらもすべて、捕まったそうだ。

 司法警察局局長セルヴァン、および警察隊本部長官ダンクルベールの辞職が発表されたが、内務尚書、および両議院がこれを不要と判断。両名の数カ月間の減給で処分を収めるとのことだった。ウトマン率いる捜査一課の数名が、緊急対応部隊として現地に乗り込み、事態の把握と、迫害への対応を行っている。新領主にも、管理能力に問題ありと、追求がはじまっていた。

 余計なことをしてくれる。そうされて、然るべき連中だというのに。恨みをそそぐ、それは正しい行いだというのに。

 アンリを傷付けた。万死に値する。死ぬまで、苦しめばいい。

 しばらく家族から離れて暮らしていた。それほどに、血のざわめきが収まらなくなっていた。

 アンリに向こう傷を負わせた男が、去年、釈放された。郷里に帰ったが、迫害を受け、首都近郊に逃げてきた。今はどこかで、保護されているらしい。

 見つけて、殺してやる。血がそれを、囁き続けていた。

 ビゴーが会いに来たのは、そういうときだった。

「あんたのことだもの。皆から離れて、こういうところにいますよね」

 ほとんど、山の中である。それでも、見つけてきた。

「色んな人に、色んなことを頼まれちまった。話しだけでも、いいですかね?」

 ひとまず、小屋の中に招いた。小柄な老人。それでも、目がしっかりと、こちらを見据えていた。

「ガブリエリさんが、あんたに謝りたいんですって」

「あの、ガブリエリ少尉殿が、ですか?」

「あの人の祖先が、あんたの祖先にひどいことをしたってさ。謝って許されるようなことじゃないけど、それしか方法を知らないから、そうさせてほしいって」

 その言葉に、血が、傷んだ。

 父祖がこの地に来た理由。語られ続けてきたもの。それの根本。ガブリエリ家。もと王家。つまり、ヴァルハリア。

 ヴァーヌの火。すべてを燃やす、偽りの火。

 それが、気付いた。己の過ちに。そして、謝りたい。

「難しい、話です」

「ですよね。だから、そういう気持ちでいることだけ、わかってあげてください。あんたのこと、わかってあげようとしていく中で、気付いたんですって。だから、そこまで」

 そこまで。後は、必要に応じて。一歩ずつ、一歩ずつ。

 それが、ビゴーとガブリエリの歩き方。

「次にね。あんたと似たようなひと、いたんです」

 似たようなひと。その意味は、わかりかねた。

「アンリさんの友だちでね。あたしゃ、よくわからないです。そういう、生き物」

「人でなく、生き物ですか?」

「人でなし、って、呼んでたりしてました」

 ぞくりと、背中に何かが走った。

「ボドリエール夫人、ですか?」

 人でなし。そう呼ばれた、凶悪殺人犯。

 それとアンリが、つながりがあった。知らなかった。確かに、ボドリエール夫人の著作が好きなことは、知っていた。

 つまりまだ、シェラドゥルーガは、生きている。

 ビゴーが、胸元から一通、封筒を渡してきた。

 女の、流麗な文字だった。

「あのひとね。この島で、ずうっと前から生きていた。そしてヴァルハリアが攻めてきたときに、誰も守れなくって、自分だけ生き残ったって、悔やんでるんですって」

 読みながら、ビゴーも付け足してくれた。

 何も、言い出せなかった。

 神話の存在が、生きている。ヴァーヌの火に焼かれ、塗りつぶされて、なお。

 そして自分たちは、本意では無いとはいえ、攻め込んだ側。殺し、傷付けた側である。

 それが憎しみを捨て、新たなる愛を求め、先へ進むことを選んだ。

 そして見出したひとりが、ヴァーヌの象徴たる、生ける聖人。そして育てた娘。

 それをゆるし、受け入れ、愛している。

「やっぱり、クレマンソーさんもね」

 血の湧き立ちは、それほどなかった。

ゆるしてくれ、とは、もう言わない。わかってほしいとも、わかってやりたいとも。ただ、会ってほしいって」

「俺は、あの男を殺すかもしれない」

「承知の上だそうですよ」

 その言葉に、胸が傷んだ。

 殺すつもりだった。それでもいい。そう言われた。

 果たしてその先に、何があるのか。それこそシェラドゥルーガの手紙にあったとおり、過去しか無くなってしまうのではないか。

「最後に、ゴフさんからね」

 隊長。

「とっとと帰ってこい、だそうです」

 言って、にっこり笑った。

「ゴフさんらしいですよね」

「そうですね。隊長らしい」

「どうしますか?」

「クレマンソーに、会いましょう。そして、帰りましょう」

 多分、本心を言ったのだと思う。

 身を清めてから、服も改めた。ビゴーは待っていてくれた。

 導いてくれたのは、ひとつの教会だった。

「最後に、あたしから」

 ぽつりと。

「いなくならないでくださいね」

「承知、つかまつった」

 頭では、理解できているつもりだった。

 玄関から、訪いを入れた。扉が開く。

 巨躯。そして、威容の司祭。

悪入道あくにゅうどうさん」

 面識があった。

 その司祭は、静かに一礼した後、言葉を発した。

手前てまえ悪入道あくにゅうどう。名を、ジスカール。そして」

 静かに、厳かに。そしてそこまで言って、並んだ。

「スヴァトスラフという」

 体が、動かなかった。

 どこの名だ。父祖の地でも、ヴァルハリアでも、そしてこの地のものでもない。

 顔を見る。静かな、そしていくらか、悲しい顔だった。

「俺もまた、焼かれた側だ。気持ちは、痛いほどにわかる。その上で、先に進むことを選んで欲しい。俺は先へ進むために、親から貰った名も捨てた」

「何故、それができた?」

「過去のものだからだ。焼かれたものは、戻ってはこない。掘り返しても、骨と灰しか出てきてはくれなかった。死んだ人間は、墓の中にしかいない。心の中には、自分の都合のいいかたちでしか残ってはくれない。だから、亡霊に囚われるんじゃない。生きた人間として、先に進もうや」

 焼かれたシェラドゥルーガと同じようなことを言ってきた。やはり焼かれて、それでも進むことを決めたものたち。

 今、この身は、焼かれている最中にあった。

「これは、あんただけの話じゃない。チオリエ姉さんや、クレマンソーさん。あんたの息子に、あんたの郷里にいる、全員の話だ。一歩、先へ進もうや。連れて行くのは、子どもたちと、戦士の誇りだけ。他は全部、ここに埋めていきな」

 それだけ言って、スヴァトスラフと名乗った男は、踵を返した。

 先へ進むこと。過去を、振り返らないこと。

 それがどれだけ難しいかは、この流れる血が、刻みつけてきた。

 入れ替わるようにして、小柄な影が近寄ってきた。

「ラクロワ少尉殿」

 思わず、頬が緩んでいた。

「オーベリソン軍曹に、お願いがあるんです」

 体どおりの、小さな声。

「おひげ、結ってもいいですか?」

 見上げた瞳が、潤んでいた。

 きっと、何かに気付いて、来てくれたのだろう。

 膝を折った。ちょっとだけ、上を向く。

「お願いいたします。少尉殿」

 それで、そのこは手を伸ばしてくれた。

 最初はこわがられた。顔を見て、泣き出しそうになっていた。それでも少しずつ、仲良くなれた。そういう、ひとりの女の子。

 会いに来てくれた。この先どうなるかがわからなくとも。それが、嬉しかった。

「ありがとうございます。やっぱり、少尉殿に結ってもらうのが一番ですな」

 自身のおさげのとおり、綺麗に結ってくれた。痛みも違和感もない。気持ちが、温かくなる。

 ダンクルベールほどではないが、娘に恵まれた。

 では。そう言って敬礼ひとつ。そうして、中に入ろうとした。

「お願いっ」

 叫ぶような、大きな声。

「言っちゃ駄目だって、思ってた。きっと、軍曹の決めたことを邪魔しちゃうから、言わないでおきたかった。でも」

 わなわなと震えながら、小さな体と、小さな声で。

「また、軍曹たちと一緒に、皆で、お喋りしたいです。だからちゃんと、ただいまって、帰ってきて下さいね」

 ラクロワは、ぐしゃぐしゃな顔で、泣いていた。

 心に、痛みと、小さな温かいものが。

「勿論ですとも。また、髭をお願いしますから」

 つとめて笑顔で、その身体を抱きしめた。

 また、会えるといいな。それだけを伝えるようにして。

 中に入る。教会の中央。そこに卓と、椅子ふたつ。

 三十ぐらいの男だろうか。手つきから、左利きだとわかった。

「クレマンソーさんだね?」

 席に付きながら、つとめて穏やかに言ったつもりだった。

「はい。貴方がたの大切なアンリさまに、あの傷を負わせた、クレマンソーです」

 小さい声だったが、毅然とした表情だった。

「法の下、それを償いました。それ以上のことは、申し上げません。すべて、オーベリソンさんに委ねます」

 やはり、震えもない声で。

 左手で、卓の上に何かを置いた。

 短剣。

「その覚悟があるとは、聞いていた」

「はい」

「自裁しろと言われて、できるのか?」

「お目汚しだけ、お許しいただければ」

 そう言って、瞼を閉じた

「そうか。なら、その必要はない」

 償った男。ゆるすべきなのだろう。アンリも、そうしたように。

「俺が、そうする」

 口から出た言葉は、違っていた。

 短剣。手にしていた。卓を蹴り飛ばす。そして、立ち上がっていた。燃え立っていすらいた。腹の奥底にいた怒りが、体のうちを、駆け巡っていた。

 理性が、塗り潰される。激情に。形容できない感情に。

「死ぬまで、殺してやる。アンリと同じだけの、傷を負わせて」

「カスパルおじさま」

 声。そして、ふたつの影。飛び出してきた。

「アンリ」

 向こう傷。それを負わせた男を背に、立ちはだかっていた。震えている。涙すら浮かべて。

 心優しい娘よ。何故、お前は、そうなってしまった。

 涙が溢れてきた。怒りに熱せられ、頬を焼くほどのものが。流れれば流れるほど、怒りが身を焦がしていた。

 焼き尽くす。何もかも。このこに責務ばかりを押し付けた、御使みつかいの灯火すらも。ヴァーヌ、そのものすらも。

「アンリ。その傷を負わせた男をゆるしただと?それが許せん。お前を傷つけた人々を救うことを、俺は許さん。お前は小さな女の子のままでいるべきだ。聖女だなんて呼ばれるべきでない。どけ。さもなくば、サントアンリ。聖人であるならば、お前は俺のアンリではない」

「どきません。私は、立ちはだかります。私は、御使みつかいさまの名代みょうだい。たとえ、おじさまの手で死のうとも、炎となっておじさまの前に立ちはだかり続けます。そのために、この傷と名を、負ったんです。人々を救うために、そしておじさまの心を、救うために」

 サントアンリ。震えながら、目に涙を、浮かべながら。

 そうだ、サントアンリ。その姿が気に食わん。俺からアンリを奪った聖者。俺たちからあのこを奪い、御使みつかいの生贄にした、ヴァーヌの火よ。

 異教徒。我が父祖たる地から、いにしえよりのものを追いやった、偽りの炎。

 相入れん。北の吹雪。その火を、消さねばならん。

「ビョルン。お前までも、そいつを庇うか」

 息子を見た。大きくなった。しかし、それまでだ。

 俺の血を継ぐならば、俺たちのこの怒りもまた、継がねばならん。何故、そちらにいる。お前は戦士の子だ。報仇雪恨の心はないのか。お前はそれでも、俺の息子なのか。

「そいつらのために何人死んだ?そいつらのために、何度アンリは傷ついた?それをわかって、俺の前に立ちはだかるか。息子よ」

「わかってる。わかってるんだ。でも、親父。でも駄目だ。親父がこのひと殺したら、親父みたいなひとが、また増えるんだ。アンリ姉ちゃんが救わなきゃいけない人が、増えちまうんだよ」

「それもまとめて、殺してやる」

 建物が、震えるほどに。

 戦慄わななきが収まらなかった。体の中を食い荒らし、表面に現れ出て、人のかたちを保てなくなるほどに。

 おお、双角王そうかくおうよ。あらわいでよ。我が身から、我が身に刻まれた、あらゆる傷から。

 北の魔物。血に潜んでいたそれが、外に出てきた。

「俺は魔物だ。北の魔物だ。最果てより来て、すべてを殺し、奪い尽くす、北の魔だ」

 自分の声が、それでなく聞こえた。けもののそれのように。

「どけ。さもなくば殺すぞ。我が血を分けた子であれ、幼き頃より時を共にし、我が子と思って過ごした娘であれ。そして、サントアンリ。お前であれだ」

 振り上げていた。そして、振り下ろそうと。

「お父さん」

 涙が流れ続ける目で、そのこを見た。

 そのこもまた、泣いていた。

 アンリが、俺のアンリが、泣いている。泣きじゃくりながら、しがみついていた。

 俺が、泣かせたのか。俺がアンリを、泣かせたのか。

「ねえ。もう、やめよう?もう、いいの。お父さん。私の傷は、私だけのもの。お父さんの傷じゃないの。だから、もういいの。私の傷まで、背負わないで?」

 お父さん。

「アンリ」

 嬉しかった。言われたかった。

 産まれてすぐに、両親を戦乱の中でうしなった、乳離れが終わったばかりの赤ん坊。歳の近いチオリエ夫婦から託された、可愛い女の子。

 修道院に預けはしたが、何かあったときは、どうか頼む。それだけ言って、あの夫婦は、戦場からは帰ってこなかった。

 アンリエット・チオリエ。娘に名前だけしか残さずに、消えていった。

 何人も助けてもらった。だから、あなたがたの娘ひとりぐらい、育てきってみせる。何も無い墓に、こっそり通い続けた。

 自分の子どもたち。娘ふたりと、息子ひとり。修道院に子どもたちを通わせて、友だちになった。ビョルンは末っ子だった。お姉ちゃんっ子になった。

 十を超える辺りに、戦場に出るようになった。出るな。危ない。やめろ。言っても、聞かなかった。どうしてなのかを聞いた。

 ミュザさまに、お願いされた。

 信じられなかった。そして、許せなかった。こんな小さなこに、そんな重責を負わせる御使みつかいとやらが、許せなかった。

 そしてあの冬の日。めしも、薪も、包帯に薬まで、あいつらが奪いに来た。

 アンリが、泣きながら食ってかかった。それを、こいつは、クレマンソーは斬ったのだ。

 襲いかかっていた。殴り飛ばし、踏み潰し、放り投げていた。

 よくも娘を。叫んでいた。あのときの自分もまた、魔物だった。

 そうして、アンリは死んだ。サントアンリになってしまった。

 俺が、そうしてしまった。

「それでも、それでも許せんのだ。俺自信が、何よりも。お前を御使みつかいの生贄にした。お前を、あの戦場に駆り立ててしまった。お前に傷を負わせてしまった。俺自身を殺して魔物にしなければ、耐えられんのだ」

 そうだ。俺がアンリを、サントアンリにしたのだ。その責任を、取らなければ。

 サントアンリを殺して。アンリを、取り戻さなければ。

「そこをどけ。アンリ、ビョルン。俺の弱さを清算させてくれ。俺はもう、北の魔物なのだ。もう、お前たちの父親には、戻れないのだ」

 魔物よ。縮こまるな。俺を満たせ。怒りに焼き尽くせ。父祖の地の、氷河の風よ。俺の心を、凍てつかせてくれ。

 優しさなどいらない。温かさなど、いらない。

 俺を、そしてサントアンリを。殺さなければ。

「お父さんは、魔物じゃない。カスパルお父さん。私の、私たちの、お父さん」

 言葉が、嬉しかった。そして何より、苦しかった。

「親父。どうか聞いてくれ。アンリ姉ちゃんの、お父さんになってくれ。親父。魔物になんか、ならないでくれ」

 ビョルン。お前まで。

 ふたり。突き飛ばしていた。吠えて、振り下ろした。

 刺していた。腹。根元まで。

 痛みは、感じなかった。ただ、膝を折っていた。駆け寄ってきたアンリに、腹から抜いた短剣を、差し出していた。

「殺せ。殺せ、アンリ。俺を殺してくれ。お前を傷つけてしまった俺を。聖なるものにしてしまった、この魔物を」

 アンリが怒りの表情で、それをはたいた。

 体を押さえ付けてくる。叫んだ。哭いていた。それでも押し倒され、腹の傷に、手をあてがわれた。

 救うな。俺を、もう、救わないでくれ。お前を聖なるものに、しないでくれ。

「やめろ。何故、そこまでして人を救う。何故、神託を受けたなどとまで、嘘をついて。俺は、お前が耐えられない。俺は、お前が傷つくたびに、聖なるものになっていくことに耐えられない。いっそ魔物になってしまえば。いっそ、人でなくなってしまえば」

 魔物よ。この傷から、現れ出よ。すべてを、すべてを。

 おお、まこと旧き双角王そうかくおうよ。俺を贄として、甦れ。

 すべてを殺して、滅ぼすために。

「嘘じゃ、ないから」

 覗き込んできた。

「皆を救って欲しいって、ミュザさまに言われたの。ミュザさまは、照らすことしかできなくて、つらいって、泣いてたから。だから、私は戦うって決めた」

 ぼろぼろと泣いた、可愛い、女の子。何度も見たことのある。させてしまったことのある、可哀想な顔。

「私は戦います。ミュザさまから炎の冠を託されたから。だからこれは、私の戦い。お父さんの戦いでも、お父さんの傷でもないの。だから、もう、やめよう?お願い。もう、私の傷を負わないで」

 アンリだった。サントアンリではなく。俺の、娘。

「お前は、あの頃の、小さなアンリエットのままじゃなくなったのに。聖人になってしまったのに」

 ぐしゃぐしゃになった顔に、手を差し伸べた。温かい。凍てついたものが、すべて、溶けていく。

 何だ。何も、変わってはいなかったじゃないか。

「私はそれでも、アンリエット。ただひとりの、アンリエット。そして、ただひとりの、カスパルお父さん」

 アンリ。俺の娘。俺の、可愛い娘。

 俺は間違っていた。ずっと、間違っていたんだ。アンリはずっと、俺の娘だったんだ。

 ああ。すまない、アンリ。すまない、ビョルン。俺はもう、魔物として、この生命を。

 ごめんよ。それだけ、言って。


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 ぼうっと、ただその火を眺めていた。これを道標みちしるべに訪ってくれるようにだけ、願い続けていた。

 おれがお願いをしてから、アンリエットは、いっぱいを助けてくれた。いっぱいの傷を負いながら。いっぱい、泣きながら。それでも皆は、アンリエットをありがとうしてくれている。それが、嬉しかった。

 おれはアンリエットにお願いしたことは、悪いことじゃなかった。

 でも、俺のお願いのせいで傷ついた人もいる。それを知った。いっぱいのつらいが、心のなかに広がった。

 だから、ごめんなさいを、しなければいけない。

 足音。がさがさと、草を踏み荒らす音。

 来てくれた。

 大柄な男。髭を三つ編みにした、荒々しいひと。

 おこした火を挟んで、そのひとは腰を下ろした。

「あんたは、誰だい?」

 戸惑った様子で、尋ねてきた。

「ごめんよ。おれはきみに対して、名乗るべきではないだろうから」

 伝えた。伝わっているようだった。

「ただ、ごめんなさいを、したかった」

 溢れそうになるのを、何とか堪えながら、伝え続けた。

「おれのお願いのせいで、きみの大切なアンリエットは、沢山のつらいをしてしまった。そしてきみも一緒に、沢山のつらいを、させてしまった。だから、ごめんなさいを、させてほしい」

 その人の顔は、つらいがこみ上げて来ていたように見えた。

「そして、ありがとうも、させてほしい」

 こみ上げながらも、何とか頑張って、微笑んでみた。

「アンリエットを育ててくれて、ありがとう。アンリエットを愛してくれて、ありがとう。そして、アンリエットのごめんなさいを聞いてくれて、ありがとう。本当に、いっぱいのありがとうが、きみにある」

 耐えられるのは、そこまでだった。溢れるままにしていた。

 そのひとは、難しいを顔に出しながらも、大きく息を吸った。

「ミュザ。ヴァーヌの、御使みつかいだな?」

「それでいい。きみが嫌がると思って、名乗らなかった」

「言いたいことはわかった。ひとつだけ聞かせろ。何故、アンリなのだ?」

 その声は、震えていた。難しいと、怒りが込められていた。

「おれの声が届くのが、あのこだけだった。ようやく見つけた。だから、沢山のごめんなさいをしてから、お願いをした」

「お前もまた、つらかったと聞いた」

「うん。おれはもう、何もできなくなってしまったから」

 おれはもう、アンリエットを通じて、会うことしかできない。それも、短い時間。そして、本当かどうかもわからないかたちでしか。

「おれの火は、ただ焼くものだけになった。本当は、いっぱいの力があった。温めること。慰めること。勇気づけること。そして、愛すること。全部、どこかに行ってしまった」

「ヴァーヌの火、か」

「そうだね。でも、あの地には、おれは行ったことがない」

 それを伝えると、そのひとは、はっとした表情になった。

「お前もまた、焼かれたと?」

 戸惑いの声。

 どう答えればいいかは、わからなかった。だからひとつのものを見せるだけにした。

 それを見たそのひとは、やはり難しいを顔に出した。

「俺は、お前をゆるせない」

 ひねり出すように。

「だが、わかってあげることは、できると思う」

「ありがとう。ゆるす、より、嬉しい」

 それを伝えると、その人の顔は、柔らかくなった。

 火が、暗がりに飲み込まれはじめた。そろそろ、このひとの夢が覚める。

「あのこたちが呼んでいる。行かなければ」

「そうだね。行ってらっしゃい。もうきっと、大丈夫だから」

「そうだな、ありがとう。行ってくる」

 ふたり、きっと笑顔で。

 そうして、火は闇の中に溶けていった。おれの意識と一緒に。


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6.


 親父の傷は、大したことはないようだった。

 あれから、憑き物が落ちたかのように、親父は穏やかになった。いつか見たときの、穏やかで優しい、親父に戻ってくれた。ビョルン。顔を見ると、そう言って、笑ってくれる。

 でもきっと、腹の中には、まだあの魔物がいる。

 恐ろしかった。人ではないものだった。慟哭しながら、巨大なものが襲いかかってきた。姉ちゃんとふたり、必死になって止めた。あのときの親父の声は、親父のそれではなかった。

 きっと、魔物の声だった。血の中にあった、双角王そうかくおうの声だった。

 何故、親父は、腹を刺したのだろうか。

 軍病院。はじめて来る施設。親父の大きな体は、ちゃんと寝台に収まっていた。姉ちゃんと自分は、ずっとふたり、そこにいた。大したことじゃないから帰りなよ。いつも、笑って言ってくれる。

 親父の魔物を育んだのは、自分たちと、姉ちゃんだ。

 ふたりで、ずっと話していた。姉ちゃんは、ずっと泣いていた。お父さんを追い詰めてしまった。自分の我儘のせいで、お父さんを魔物にしてしまった。

 姉ちゃんの体は、いつの間にか、小さくなっていた。ちょっと前までは、見上げていたはずだったのに。本当に、ちょっとの間で、小さくなっていた。そして、か弱くなってしまっていた。

 親父と姉ちゃん、両方ともずっと、わだかまりがあった。それが姉ちゃんを小さくし、親父を魔物にした。

 親父の魔物を、どうにかしなくてはいけない。

 軍人さんに、お願いをした。親父がいる部隊の隊長さん。黒い肌の、ゴフ隊長。やりたいことがある。だから、お殿さまか局長さまに合わせてほしい。そうして、ふたりに会って、話をした。

 姉ちゃんを、親父の、本当の娘にしたい。

 わかった。とだけ、言ってくれた。用意するから、親父と姉ちゃんの隣りにいてあげてくれと、言われた。次の日には、親父のところに向かわせる、ということだった。

 隊長さんにも、同じことを言った。笑って、賛同してくれた。

 次の日。まだ用意したものは来ていなかった。

「アンリ姉ちゃんを、本当の娘にしようよ」

 でも意を決して、言葉にした。いたのは親父と、姉ちゃんと、ペルグランという軍人さんだった。

「俺、アンリ姉ちゃんと、結婚する」

 本心だった。

 考えたけど、方法は、それしか見つからなかった。全員が、ぎょっとした顔をしていた。知ったことじゃない。もう、決めたんだ。

「俺が、アンリ姉ちゃんと結婚するんだ。それならアンリ姉ちゃんを、親父の娘にできるよな?」

「馬鹿なことをいうな。アンリは、修道女だぞ」

「助祭であれば、結婚は許されるって聞いた」

「ビョルン。ちょっと、なんてことを」

 姉ちゃんの顔は、真っ赤になっていた。事前に相談なんてしていない。

「だって、本当の父娘おやこにならないと、またきっと、親父が魔物になっちまう。親父は、親父のままでいてほしい。そのためにはアンリ姉ちゃんが必要なんだ」

 真っ赤になった姉ちゃんの肩を掴んだ。姉ちゃんは、固まっていた。

 でも、もう、俺は決めたんだ。親父のために。そして、姉ちゃんのために。

「アンリ姉ちゃん、親父の本当の娘になってくれ。俺の本当の姉ちゃんにするために、俺は姉ちゃんをお嫁さんにしたい」

「そんな事言われても、困ります。落ち着いて、ビョルン」

「いやだ。姉ちゃんと、結婚するんだ」

 そうこうしていると、病室の扉が開いた。男ふたり、入ってきた。隊長さんと、こわい顔の部長さまだ。

 これが、お殿さまと局長さまの、用意したもの。

「よう。ご存知、“錠前屋じょうまえや”のお出ましだ。はじまってるみたいだが、が開いてねぇようだな。こじ開けに来たぜ?」

 隊長さんは笑いながら、親父の側に寄った。

「受け止めてやりなよ、ビョルンの気持ち。方法はどうあれ、アンリを娘にする。やることはそれだけ。それだけで、皆が幸せになれるんだぜ?」

「しかし、やはりですな」

「勿論、面倒なこともあるだろうさ。そのための顧問をひとり、雇ってみた。説法ひとつ、聞いとこうぜ」

「やあ。ご存知、自称、“錠前屋じょうまえや”の特別顧問。法務部のオダンだ。こじ開けに来たよ」

 隊長さんの挨拶に乗っかるかたちで、部長さまはにっこりと笑った。法律家として、姉ちゃんを親父の娘にする方法を、教えに来てくれたそうだ。

「ビョルン君の提案どおり、ビョルン君とアンリ君が結婚するのがひとつ目だ。ただこの場合、助祭でなくて、終身助祭、という地位が正しい。これについては以前、アンリ君が、司祭の叙階を辞退していることもあり、聖教会に事情を説明すれば、すぐ貰えるはずだ」

「そうですよね。だから俺、アンリ姉ちゃんをお嫁さんにしたい」

「ただ問題は、感情の方面だ。まずは、アンリ君の気持ち。それと、世間の目。なんたって、みんなの聖女さまをお嫁さんにするんだから、相当なやっかみをくらうことになるぞ?ビョルン君には申し訳ないが、これはおすすめしない」

 自分の顔を見ながら綴ったその言葉に、ぐっと、歯を噛み締めた。

 姉ちゃんの気持ち、という言葉に、決意が揺らいだ。姉ちゃんの気持ちも知らずに、勝手に言いだしてしまったからだ。

「ふたつ目は、養子縁組。これは、時間と金がかかる。裁判所の決定が必要になるからな。加えてヴァーヌ聖教会は、成人済の修道士を養子にすることをいやがる傾向にある。つまり、アンリ君は破門になる可能性が高い。信仰はアンリ君の尊厳とか信念に関わる部分だと思うから、できうる限りは避けたいよね。ただし法律としては何ら問題はない。むしろアンリ君が戦災孤児であるという側面を押していこう。そうすれば、法律上の手続きも速いし、聖教会側も文句は言えなくなる。世間にも美談に映るはずだ。やるとすれば、こちらがいいだろう。手続きの一切は、私に任せてもらえればいい」

 詳しくは分からなかったが、どうやら単純に、親父の娘にすることができるみたいだった。

「部長殿。どうして、そこまで」

「私は一族総出でダンクルベール長官の大ファンなんだ。お殿さまと、その友だちのための苦労なら、言い値で買いたいところだったんでね。それに、ご自慢の万能鍵にくよくよされてちゃあ、ゴフ隊長だって大変だろう。貴官たちが元気になるために、を蹴りに来たってわけさ」

 部長さまは、親父の肩に手を乗せた。

「法は、人を律し、人を罰するためだけにあるものじゃない。本来は人を助け、人が幸せになることを促すためにあるものなんだ。私は法を活用して、人を幸せにするほうが楽しい性分でね。貴官たち家族を幸せにするための法律は、いくらでもある。これはほんの一例だ。まだまだあるから、不安なことがあったら、いくらでも言ってくれ」

 その言葉に、親父は柔らかなため息を入れた。

「本当に、ありがとうございます。決心がつきました。アンリを俺の、本当の娘にします」

 穏やかな顔で言った親父。

 跳ね上がるほど、嬉しかった。横たわる親父に、抱きついていた。姉ちゃんも、抱きついていた。

「ああ、ビョルン。アンリ。俺の子どもだ。可愛いなあ」

 親父の顔だった。いつもの、親父の顔だった。

 いくらかして、隊長さんが、自分を廊下に連れ出した。

「お前に、招待状が来ている」

 いかつい顔を困ったようにして、紙切れを差し出してきた。書いていることは難しすぎてよく分からなかったが、どうやら自分に対して、思う所があるらしい。

「査問会だ。サントアンリ原理主義者、それも過激派からのな」

 なんだそりゃ。そう思った。

 とりあえず、隊長さんに連れられて、違う建物の、ひとつの部屋に案内された。どうか無事に帰ってこいよ、とだけ、言われた。

 訪いを入れ、中に入った。

「掛けたまえ、少年」

 両脇に立つ、ふたりの若い男。片方は、病室にいた、ペルグランという軍人さん。もう片方は、ガブリエリさんだった。

 真ん中の椅子に腰掛けたのは、同じく軍人の格好をして、油合羽を肩に掛けた、綺麗な女の人だった。鮮やかに燃え広がるあかい髪と、あかい瞳が、目に焼き付いた。

 一礼の後。両の拳を、胸の上。音が鳴るぐらいに。

 親父は斧。俺は、剣だ。

「最果ての地。氷河のはらを切りひらいた、双角王そうかくおうの名に誓い。我ら、鋼の血族。カスパルが子、ビョルン」

 そう言ってから、椅子に腰掛けた。

 査問というのは、何なのだろう。尋問みたいなものなのだろうか。

「アンリと結婚する。そう、言ったそうだね?」

 耳に残るほど、甘く、艷やかな声。魔性の女だ。

 でも俺は、戦士だ。女には屈しない。

「はい。言いました。俺は、アンリ姉ちゃんと、結婚する」

 はっきり言ってやった。決意は、変わらない。そうすれば皆、幸せになれるはずだから。

 両脇の男ふたり、むっとした顔になった。

「聞き捨てならないな、ペルグラン」

「ああ、聞き捨てならないよな。まず、アンリ姉ちゃんが聞き捨てならないよなあ、ガブリエリ」

「そうだな。アンリ姉ちゃんって呼び方、いいよなあ」

「呼びたいよなあ、アンリ姉ちゃん」

 これは、やっかみなのだろうか。

 ペルグランという人のことは、姉ちゃんからたまに聞いた。真面目で、でも生意気で、からかい甲斐があって面白い。でも、見るからに屈強な軍人さんだ。姉ちゃんはこんな人をからかっているのだろうか。別人じゃあないのだろうか。

「君たち、欲望が漏れているぞ。それにふたりとも、恋人持ちだろう?」

「それとこれとは別です。長男のロマンです。長男に必要なのは、優しくて、可愛くて、優しい、お姉さんなのです」

「ガブリエリの言や良し。まして俺はひとりっ子です。貴官の影響を大いに受けた母親の教育方針のおかげで、どれだけさみしい思いをしたか、おわかりか?」

「知らんよ。ジョゼに文句を言いたまえ」

 男ふたりは、やっかみでいいだろう。きっと姉ちゃんに惚れているんだ。真ん中の綺麗な人だけは、よくわからなかった。

 その人は豪華な拵えの煙管パイプで、煙草をふかしはじめた。心がぐらつくが、きっと三十代後半だろう。そう思うことで、心は動かなくなる。おばさんだもんね。

「ともかく、アンリを娶るというのは、大いに聞き捨てならんなぁ、少年。まず君。いくつだい?」

「十六です」

「アンリは、このふたりのふたつ上だっけ?だから、二十の三か、四だ。年の差がありすぎるね。仕事は?」

「船大工で、住み込み奉公しています」

「薄給だなあ。アンリはここの仕事の他にも、ヴァーヌ聖教会の助祭、兼、祓魔師ふつましでもある。収入は結構あるはずだ。君が養われる側になるぞ。それじゃあ男として、甲斐性がないとは思わないかね?」

「思います。でも、アンリ姉ちゃんと親父のためなら」

「そこだな、ビョルン君。お父君もそうだし、アンリさんの気持ちもないがしろにしている。夫たるもの、まず心からアンリさんを愛するべきである。そもそも、ヴァーヌの教えを破ってでも娶るのが、北の戦士の習いとは思わんのかね?」

 ペルグランという男が刺してきた。

 思わず、揺らいだ。親父の気持ちも、姉ちゃんの気持ちも知らないで、言い出してしまったことだったから。

「第一に、アンリさんをお父君の娘にしたいというのであれば、養子縁組では駄目なのかね?それなら君の本当のお姉さんにもなるだろうに」

 ガブリエリさんは養子縁組という言葉を出してきた。部長さまが言っていたおすすめの方法だ。手続きは部長さまがやってくれるし、周囲の理解も得られる。

 でも俺は、それをしたくなかった。

「アンリ姉ちゃんのことは、大好きだ。だから、俺は姉ちゃんと結婚する」

 これが本心だ。負けてられない。俺は、姉ちゃんと結婚するんだ。姉ちゃんが、大好きだから。

 綺麗な人が立ち上がった。近づいてくる。煙草の匂いと、女の人の匂い。

 来やがれ、おばさん。心は動かないぞ。

 そのまま屈み、目線を合わせてきた。綺麗だった。でも、そこまでだ。

 俺は戦士だ。女には屈しないぞ。

「少年。君には、隠し事があるようだね」

 言われて、どきりとした。

 即座。綺麗な人の口元が、つり上がった。目尻まで届くほどに。そのあかい瞳は、邪悪なもののように見えた。

 ぱちんと、指が鳴る音。

「好きな女の子、いるだろう?」

「います」

 はっとした。答えたつもりはない。でも、口に出た。

 綺麗な人を見る。悪魔のような、それでも美しい顔。

「歳は?」

「ふたつ、上」

「相手から、告白された」

「はい」

「返事は?」

「しました」

「何て?」

「こちらこそ、よろしく」

「なんてやつだ、少年。二股はよくないぞお?」

 言いながら、綺麗な人は高らかに笑っていた。

 顔が熱い。鼓動が、すごいことになっている。

 全部、言わされた。姉ちゃんにも、隠してたのに。

 綺麗な人が、笑いながら頬にベーゼをしてきた。そのまま、ちょっとした“悪戯いたずら”さ。そう言った。

「幼い頃から一緒にいたアンリお姉ちゃんに淡いものを持っておきながら、向こうも好きになっちゃったんだあ。きっと君も、告白しようと思ってたんだろう?それはそれで素敵なことだが、アンリを娶った後、その子はどうするつもりだい?」

「でも、俺には、これしか思いつかなくて」

 ずいと、ガブリエリさんが前に出た。

「少年。物事は一歩ずつ、一歩ずつだ。君は既に一歩ぶん進んでしまっている。ここから先、選べるのは、どちらか片方だ。アンリさんを選べば、そのこを捨てなければならない。そのこを選べば、アンリさんはお姉ちゃんのままだ。次の一歩を選びたまえ」

「でも、その」

 言い淀んでいたところ、その綺麗な人は、もう一度、ぱちんと指を鳴らした。

 いやだ。言わされる。

「アンリとは、違う感じのこだね?」

「はい」

「でも声は似てる」

「はい」

「それで好きになった」

「はい」

「ベーゼはしたのかい?」

「はい」

「えっちも?」

「はい」

「どっちから?」

「向こうから」

「一度に何回?」

「いっぱい」

「頻度は?」

「会うたび」

「主導権は?」

「向こう」

「なんてやつだ、少年。めろめろじゃないか」

 また、腹を抱えて笑っていた。

 全部、言わされてしまった。隠していたことを、全部。

 姉ちゃんは修道女だから、一緒になれない。だから知り合いの、ちょっとだけ年上のこに誘われて、ふたつ返事で。

 そして、そのまま、家に連れて行かれて。

 恥ずかしかった。涙がこみ上げてきた。

「女の子にエスコートされちゃって、やみつきになっちゃってるじゃないか。若い子は元気でいいねえ。そんなこを相手に十代でみさおを捨てれただなんて、このふたりからすれば、羨ましくてたまらんだろうなあ」

「これほどニコラの名とジョゼフィーヌの子であることを疎ましいと思ったことはありません。ただの男に産まれてあれば、もっと早くにみさおを捨てられたものを」

「こちらはもと王家だぞ、ペルグラン。あてがわれるのは、家柄しかいいところのない醜女しこめどもだ。そんなものにみさおを捧げるなぞ御免被ごめんこうむると言い続けたら、いつの間にやら二十を迎えていた。あのこのおかげで男に成れたものの、名家の男として、そしてひとりの本場の伊達男エスト・ヴァーナとして、これ以上の恥辱はあるまいぞ」

 男ふたり、唇から血が出るほどに噛み締めていた。このふたりは、もうどうでもいい。気にする気になんかなれない。

「戦士に、辱めをするのか。それでもお前、軍人か」

 叫んでいた。声は、震えていた。

「御免遊ばせ。君の、本当のことを知りたかったんだ」

 そのひとは、ぐしぐしと、頭を撫でてきた。

「少年。君の父親を思う気持ちは大いによし。だが、君の人生を棒に振ってまで、そうするべきではない。アンリは信仰に純潔を捧げ、君は素敵な女の子と添い遂げるべきだ。その上で、お父君と、アンリと君と、君のきょうだいたち。皆で家族になる手段はやはり、養子縁組だよ?」

 おすすめの方法。きっと、それがいいんだろう。でも、いやだった。

「俺は、アンリ姉ちゃんが、それでも好きなんだ」

 震える声で、本心を言った。

「でも、修道女だったから、言えなかった。だから、あのこが好きって言ってくれたときに、逃げるように、答えてしまった。でも、こないだの事件で、助祭になったって聞いたから、もしかしたらと、思って」

 姉ちゃんをお嫁さんにする方法を、調べていたことがあった。助祭。それだけ、覚えていた。姉ちゃんが、それになった。だったらきっと、一緒になれる。姉ちゃんを、お嫁さんにできるはずだ。ただその気持ちだけが、先走っていた。

「気持はよく分かる。アンリは素敵なこだ。恋をするのもわかる。このふたりだって、アンリに恋をした。ふたりとも、既に、別の素敵な人を見つけている。君とおんなじ思いをしてきた、先輩なんだ」

 改めて、三人を見た。全員、穏やかな顔をしている。

 俺の気持ちを、理解してくれたのかな。

「だから少年、失恋しよう。そしてまた、アンリ姉ちゃんって呼べるようにしよう。アンリは君のお姉ちゃんだ。泣き虫で意地っ張りの、お姉ちゃんだ。そのために、家族、皆で先に進むために、ひとつだけ、失恋をしようよ」

 肩に、手を乗せられた。優しい顔だった。それで、溢れてしまった。

「アンリ姉ちゃんを、お嫁さんに、したかったんだ。でもそれだと、アンリ姉ちゃんは、姉ちゃんじゃあなくなっちゃうんだ。俺、わからなかったんだ。でもきっと、アンリ姉ちゃんは、俺の姉ちゃんのほうが、いいんだ」

 泣きじゃくってしまった。

 そうだ。姉ちゃんは、姉ちゃんのままがいいんだ。俺のお嫁さんじゃなくて、姉ちゃんはもう、サントアンリなんだから。 

「よく、頑張りました」

 そう言って、抱きしめてくれた。温かかった。

 姉ちゃんは、お嫁さんじゃない。姉ちゃんなんだ。それでいいんだ。それが、きっと、いいことなんだ。

 これまでも、これからも。アンリ姉ちゃんなんだ。


7.


 今日もひとり、宙に浮いていた。

「元気いっぱいだなあ、オーベリソン軍曹」

「娘に叱られたいんじゃないか?ほら来た。アンリさんだ」

 ガブリエリとふたり、二階の窓から眺めていた。

 ビョルンをはじめて見たとき、おや、と思ったことがあったので、香水を使って、夫人にビョルンを見せた。夫人も、自分と同じことを考えていた。

 ビョルン君は、アンリに恋をしている。

 それは別に、構わないことだった。もともと家族みたいなものだったのだ。ふたり、年の差はあれど、結婚してもいいと思っていた。

 だが、夫人の目はやはり、自分のそれを上回っていた。

 ビョルン君は、おそらく別に、好きなこがいるぞ。

 それを言われたとき、あの査問を決めた。

 どちらかの恋を終わらせなければ、彼のためにならない。夫人も同意見だった。

 夫人のやり方は強引も強引だったし、十六歳で男に成ったというのには流石にむっときたが、それでもすべて、彼のためをと思ってやった、お節介だったのだ。

 ゴフにはひどく苦い顔をされたが、ガブリエリとふたりがかりで、なんとか説得できた。

 後ほどダンクルベールからは、お小言を頂戴した。多感な時期に、そういうのはよくないと思う。でもまあ、そうするべきではあるのも理解はできるので、まずはよし。とのことだ。

 あの後、オダンとセルヴァンの二頭立てで、養子縁組の手続きと、ヴァーヌ聖教会への根回しを行ったそうだ。ヴァーヌ聖教会は、オーベリソンとアンリの関係について、大いに理解を示し、一筆までしたためてくれたそうだ。

 ふたりは晴れて、正式な父娘おやことなった。アンリエット・チオリエ、あらため、アンリエット・チオリエ・オーベリソンだ。

 ビョルンは、三人目の、本当のお姉さんを迎えることになる。他にふたりいたのかよ、と、ガブリエリとふたり、またひがんでいた。上のいない長男だからこその、憧れである。

 自称、“錠前屋じょうまえや”の特別顧問こと、法務部のオダン部長も遊びに来るようになった。ダンクルベールの大ファンとのことで、今回の件でお近づきになれたことを、皆に言いふらしたりするぐらいに喜んでいた。ダンクルベールも、今まで法律関係に強い協力者がいなかったことから、感謝感激のご様子だ。裁判官とか検察官みたいなおっかない顔つきだが、気っ風が良くて、楽しい人。まさしく法律家になったゴフみたいな人で、実際にゴフとも盛り上がっていた。

 クレマンソーは、郷里へ帰ったそうだ。

 彼の実家を含め、かつてのマンディアルグ伯の私兵たちは、人々から恨まれていた。それらをまとめて、ジスカールの親分たちが守ってくれるという。

 あの戦乱に生きた人々、そのすべてを、先に進めるために。

「最果ての地。氷河のはらを切りひらいた、双角王そうかくおう、か」

 ぽつりと、ガブリエリが漏らした。

 夫人がガブリエリたちに見せてくれた過去。塗りつぶされた、この国の事実。焼かれてもなお生き残ってしまったシェラドゥルーガの記憶。

 もと王家たるガブリエリ家や、アンリが身を捧げるヴァーヌ聖教と同じく、アルケンヤールの戦士たちは、この島に踏み入った侵略種のひとつだった。誇りを汚され、ただその血を長らえるためだけに。

 それを確かめるべく、ガブリエリはあの後、ビョルンやオーベリソンに、血族に伝わっているものを教えてもらったそうだ。それはまさしく、戦士の矜持と怨恨の歴史サガだった。アルケンヤールの戦士たちを屈辱を受けた過去に囚え続ける、つらいものだったという。

 双角王そうかくおう。恨みと怒りを育むためだけに、戦士たちの血の中に宿り続けた、悲しい歴史サガ。オーベリソンの向こう傷を癒やすことを許さず、ただずっと、血と涙を流させ続けた、北の魔物。

 そしてあの場で、北の魔物はあらわれた。瘡蓋かさぶたができることもなく、膿んだ傷から這いずり出て、育てた子すらをも殺そうとした。

 それを癒やし、鎮めることができたのは、やはり聖女であり、そして本当の娘であるアンリ。そして、その戦士の血を継ぐ、ビョルンだけだったのだろう。

 時間に余裕があったので、ビョルンの戦士の名乗りを真似したあと、恒例の言い合いでも見に行こうぜ、となった。調練場に出ると、やはりふたり、いつものように言い合っていた。

「だから、やり過ぎです。打撲もそうですが、足首を捻っています。三日は動かせませんからね」

「ごめんよ。でもさあ、わかってくれって、アンリ。こうでもしないと、“錠前屋じょうまえや”の皆は、言うことを聞かないんだよ」

「もっとやり方があるはずです。言葉で諭すなり、反省文を書かせるなり、アプローチを変えるべきです。これではただの体罰、ないしは暴行です」

「そこまで言わなくったっていいじゃあないか。ここは軍隊なんだぞ?学舎まなびやじゃあないんだ。なあ、頼むよ。アンリ」

「いやです。お父さんなんて、大っ嫌い」

 そこまで言われてしまい、オーベリソンが肩を落としてしまった。目には涙まで、浮かんでいた。

 それに気付いたのだろう。アンリが慌てて駆け寄っていった。小さな体で、大きな体に抱きついて。そうして大きな声で、ごめんなさい、ごめんなさいと泣きはじめる。

 こうなったらもう、調練どころではない。ご存知、“錠前屋じょうまえや”一同は、父娘おやこふたりをなんとか宥めすかそうと頑張っていた。

 これが最新の“錠前屋じょうまえや”名物、オーベリソン家の父娘おやこ喧嘩である。

「めでたしめでたし、みたいだな」

 その様子を見ながら、ガブリエリがからからと笑った。

「そうだな。でもなあ。いいよなあ、アンリ姉ちゃん」

「それはなあ。捨てきれんよな。アンリ姉ちゃん」

 未練がましく、男ふたり、そればっかり言っていた。

 いいよなあ、ビョルン君。素敵なお姉ちゃんがいて。


(つづく)

Reference & Keyword

・ペイザンヌサラダ

・ブイヤベース憲章

・アクアパッツァ

・カッチュッコ

・鬼平犯科帳 / 池波正太郎


改版履歴

・24.5.29:初版

・24.11.11:加筆修正

・25.2.22:5章、加筆修正

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