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鯨たちの夢

あれだけ愛そうと必死だったのに

今ではもう、顔も覚えていない

名前すらも思い出せないのは

多分、いらなくなったからだろうか


変わりゆく思い出を確かめに

海の底

そのために、身体を横たえる


それは世界という、夢の終わり

醒めた後には、何も残ってはいない


詠人よみびと知らず

 夕飯時。もうそろそろ、できあがるころ。

 幸せな家庭。そう思っている。夫は領土紛争で片足を失ったものの、それで傷痍軍人年金が出ていて、それに近所の町工場で、職工としても働けている。息子は、ちょうどはしゃぎたい盛り。それでも家事を色々、手伝ってくれるし。

 奉公に熱心になりすぎて、嫁ぐのが遅くなったにしては、十分以上が手に入っていた。

 いつも通り。本当に幸せなひととき。つらかったのは、夫が足を失って帰ってきたときぐらいか。それでも、簡素な義足で、なんとか生活はできているし。子どもも、学舎に通わせて行けている。成績は優秀みたいだ。きっと、頭のいい子に育つだろう。

 今日は、ポトフとテリーヌ。あとは、黒いのが多いけど、美味しいパンを貰っていた。チーズも添えれる。やっぱり、十分以上。貧しい家で育ったけれど、今がこうして、充実している。三人で、食卓を囲える。それが一番、実感できる。

 さて、これで、できあがり。あとはふたりに、声を掛けて。

 ふと、音が消えたように感じた。

 居間に向かう。ソファに座っているはずの夫。家の中を走り回っているはずの、息子。

 いない。

 さっきまで、ほんの数分。火にかけた鍋を見ていた。たったそれだけの間。

 かどわかしか。

 家を出た。着の身着のまま。走った。

 道行く人に、ふたりのことを尋ねながら。ふたりの名を、呼びながら。

 一瞬。どうして。一瞬で、いつも通りが、いつも通りでなくなっている。

 寂しさに追い立てられていた。走り疲れても、走るしか道がない。どこに行ったんだい、あんた。どこに行ったんだい、坊や。

 たどり着いた。いると思った場所。でも、何かが違う。

 あるのは、墓石だけだった。

「かあちゃん」

 知らない声。隣りにいた。知らない、若い男。

「誰だい?あんた」

「何、言ってるんだよ。どこに行ったかと思えば、こんなところにいて。どうしたんだい、かあちゃん」

 心配そうな声と顔。でも、知らない。誰だい。

 もう一度、墓石を見た。ここに何かが、刻まれているはず。今、何が起きているか。それで、わかるはず。

 名前。あのひとの。

 叩きつけていた。右手にあった、あのひとの義足。どこから拾ったのかは、覚えていない。とにかく、この墓石を壊さなければ。そんなはずはないんだから。

「かあちゃん。やめてくれ。やめてくよう」

さっきまであの人、うちにいたんだよ。あのこも。どこいったんだい。

「お義母かあさん。どうか、どうかやめて」

 知らない女の声。

 なんで、墓石が喋っている。意味がわからない。おかしい。誰の声だ。

 女。そんなはず。あのひと、別の女をこさえていたのか。許せない。私を、裏切ってたっていうのか。

「かあちゃん」

 悲鳴。

 それで、我に返った。

 見渡した。ふたり、傷だらけでうずくまっている。女の方は、鼻をすすって、泣いていた。

 見たことのある風景。家の中。ものが散乱した、ひどい匂い。そんなはずはない。毎日、ちゃんと掃除して、片付けしているんだから。

 夕飯は、ない。墓石も。

 あるのは、痩せこけたふたり。息子と、その嫁。

 右手にあるのは、何かの棒きれ。何なのかは、わからない。眼の前のふたりは、うずくまって、ぼろぼろで、泣いていて。そして私は、今。何を。

 私は今、何をした。


-----


----


---


--


1.


 ビゴーから、話があると言われた。

 問いかけには、あまり応じてくれなかった。ただその顔を、渋く、苦いものを噛み続けるようにして、歩くばかりだった。ダンクルベールは、その後に付き従うことしかできなかった。

 先輩が、これほどまでの顔をする。人を理解するひとが、わかってあげるひとが、ここまでの苦悩を見せている。

 応接室。ガブリエリ。その隣で、顔を覆って泣いている男。

 見覚えがあった。

「ロリオじゃないか。随分、久しぶりだな」

 嬉しさがあったが、それ以上に、戸惑いがあった。

 ロリオ伍長。本部配属の下士官。庁舎の警備を担当していた。

 いつも穏やかな笑顔を浮かべている、気さくな男だった。人より早めに出勤して、皆に明るい挨拶をして。そういう、明るい男。いてくれるだけで、ありがたい男。

 一年ちょっと前から、母親の介護を理由に、休職していた。

 顔を上げた。頬が、こけていた。それが胸に突き刺さった。

「おっかさん、どうかしたのかい?」

「長官、申し訳ありません。俺、俺ぁね」

「ゆっくりでいいぞ。言える分から、言ってくれ」

 ペルグランが珈琲コーヒーを淹れてくれた。ペルグランやガブリエリからすれば、配属時期から考えても、面識があるかないかぐらいの男である。それでもその様子を見ただけで、ペルグランの顔には、つらいものが浮かんでいた。

 離れてもいい。眼で、ペルグランに促した。

「かあちゃんがね。もう、耐えられないんです」

「そんなに悪いのか」

「悪いってもんじゃねえんです。とにかく、かみさんも、俺も、ぼろぼろになっちまって。ラポワント先生にも診てもらいましたが、手の施しようがないって。不治の病だって」

 震える体を、ガブリエリが抱きとめていた。その顔もまた、困惑と苦悶に近いものが、大きく出ていた。

「生きているんでしょう?」

 ぽつりと。

「シェラドゥルーガは、生きているんでしょう?」

 背中に、怖気が立った。

 国家機密。何故それを、ロリオが知っている。

「何となく、わかっちまってたんです。誰にも言っちゃあいませんが。それでも、長官の仕草とか、ウトマン課長とか、そういうひとたちを見ていて、そうなんじゃあないかと」

 勘の鋭いというか、人を理解する力のある男だった。ビゴーやガブリエリには及ばないものの、それでも十分以上に、そしてその人柄とあわせて、誰の相談でも乗ってくれる、気のいい男だった。

 それが、よくない方向に傾いていた。

 一息。落ち着くために、作った。話を続けなければならない。

「それで、生きていたとして、おっかさんと何が関わりがあるんだ。おっかさんの病気と、シェラドゥルーガ。何か関係があるのか?」

 ロリオが、目を覗き込んできた。

 漆黒。

 ひとごろしのそれとは違った、虚無。何も無い、常闇。

「喰ってほしいんです」

 その言葉だけ、しっかりと聞こえた。

「かあちゃんを、喰ってほしい。殺してほしい」

「何を、言ってる」

「終わりにさせてやりてえ。俺にゃあ、できなかった。ラポワント先生にも頼んだけれど、駄目でした。そりゃあ、そうですよね。人、殺してくれだなんて。誰だってやれないことですよ。だから、ガンズビュールの人喰ひとぐらいだなんていう、おっかないひとごろしになら、きっと」

「おい、早まるな。おっかさん、治らないからってよ。天寿を全うさせてやるっていうのは」

「できねえ。もう、耐えらんねえ。かみさんも、俺も。かあちゃんにはもう、ついていけねえ」

 叫ぶように、吐き出していた。

 一度、ロリオそのものを見た。洗濯も十分にできていないだろう、汚れた服。そこから覗く肌に、青かったり、赤かったりする何かが、刻まれている。めしも食えていない。髪だって、随分薄くなった気がする。白髪も多い。

 母親の病。何かは、聞かないままにしていた。だが、思い当たるものが、ひとつだけあった。

「だから、シェラドゥルーガに、かあちゃん、喰ってほしい。もう、楽になりたい。終わりにさせてほしいんです」

 そこまで言って、また、顔を覆ってしまった。

 考えさせてほしいとだけ、伝えた。

「長官は、どうなされるんですか?」

 ムッシュの医務院に向かう途中、ペルグランが聞いてきた。庁舎から歩いて三十分程度だったので、歩きながら、それを考えようと思っていた。

「どうすればいいんだろうな」

「長官でも、そうなんですね」

「俺だってそうだ。お前もそうだろう。親を殺してくれだなんてさ。人に頼めることじゃないことを頼んできた。それほど、追い詰められているんだ」

「例えば、ジスカールの親分とかには、どうでしょうか?」

「やりたがらんだろう。任侠というのは、縁と絆を重んずる。特に、親子のそれは、一番に置くほどにな」

 おとこたることを任されたものたち。おとこは絆を反故にしない。おとこは、親兄弟の縁を無下にはしない。それを破るようなものは、おとこではない。それが、生粋の任侠たるジスカールである。

「まして思いついたものが、あたりなら」

 単純な親殺しなら、見向きもしないだろう。だが、それだというならば、ジスカールは思い悩み、そして、ことを成すはずだ。

 そしてその後、二度と顔を見せてはくれなくなる。不義を働いたと自分を責めながら、去っていくだろう。

「そうですよね。俺もきっと、それだろうと思っています」

 ペルグランの顔も、沈んでいた。

「曽祖父が、そうだったらしいんです」

 少ししてから。ひねり出すようにして。

 驚きがあった。

 ペルグランの曽祖父。立身出世の代名詞。大提督、ニコラ・ペルグラン。伝記や、それを題材とした小説が山ほど出回っているほどの、独立戦争の英雄。

 その生涯の終わりについては、詳しくは記されていなかった。

 ムッシュの医務院。その名声とは裏腹に、こじんまりとしたもの。

 はじめて会った時は、あの男は、ここでずっと飲んだくれていた。あの朗々とした美声を酒で焼きながら、ひっそり、日に何人かの患者と会うだけの生活。

 所詮、私はひとごろしだったのだ。それを悔やむことだけはすまい。ただ、嘆くことだけは、許してくれまいか。

 真っ黒な眼で、それだけ言われた。

 それを、セルヴァンとふたり。何度も通って、口説き続けた。力になってほしい。人を殺すためではなく、活かすため。死んでしまった人から、その死を確かめるため。あなたの力を、まだ必要としているひとがいる。

 通うたび、その眼に光が宿っていった。だから、通い続けた。

 酒と歌を愛する好漢。高潔にして公明正大な、そして誰よりも心豊かな人。それがフランシス・ラポワントという、本来の人となり。そっくりな顔つきの奥さまといつも笑い合っている、穏やかな町医者。

 それが、匙を投げるような病。そして記されざる、ニコラ・ペルグランの末路。

「ロリオという、うちの下士官。その母親の病について、教えてくれないか?」

 何とか出した言葉に、ムッシュは静かに、瞼を閉じた。

「認知症、というものです」

 やはり、そうだった。

「不治の病です。現在、治療法はありません。死ぬまで生きるしかない。そういう、病です」

「友だちの爺さんにも、ひとりいた。その頃はまだ、痴呆ちほうとか、呼ばれていたよ。敷地に離れを作って、そこに閉じ込めていた。まるで罪人みたいな扱いでね。見るのが、嫌だった」

「そうですよね。そういうものなんです。それの、きっと一番悪い状態です。もう、どうしようもない」

 ムッシュもつらそうに、ため息を入れた。

「殺してくれって、頼まれましたよ」

 ぼそりと。

「叱り飛ばしました。自分に向けるようにしてね。私も医者の端くれですから、“慈悲ミセリコルデ”はあります。だがね、ありゃあ、あくまでトリアージのために使うもの。病であれ、五体満足の人には使っちゃあいけない。罪になります」

「そうだな。この国では、それ以外での安楽死は、認められていない」

「それに私は、人なら殺せます」

 つらそうな表情のまま、ムッシュは静かに、瞳を見せた。

「人じゃないものを、殺すことはできません」

 真っ黒な眼。ひとごろしの、眼。

 人じゃない人。病の果てに、人そのものを患った末路。

「左様でございますか」

「左様でございますよ」

 ふたりとも、ため息しかつけなかった。

 奥さまが、紅茶を出してくれた。温かさが、身にしみた。冬に入り、寒く、つらいものばかりを、肌に感じていた。

「実家の家伝にて、曽祖父、ニコラ・ペルグランの最期。一文だけ、綴られていたんです」

 ペルグランだった。ぼそりと、呟くように。

「呆けて、亡くなった。ただそれだけ」

 重たい言葉だった。

 男一本、腕一本。立身出世の代名詞。海の男、ニコラ・ペルグラン。体ひとつで爵位をつかみ取り、時の王妹おうまい殿下のご親族にまで上り詰めた、稀代の成り上がり。

 呆けて、亡くなった。

 家伝にのみ綴られた、その一文だけで、その輝かしい生涯は片付けられていた。

「無理をするな。ペルグラン」

「大丈夫です。いやいや読まされたものです。それ以前に、面識ないですし。俺が産まれた頃にはもう、亡くなっていましたから」

 静かだが、吐き捨てるような言い方だった。

「英雄とか呼ばれてますけどね。家伝とか日誌とか読んでいると、とてもそうとは思えない。いやな人。実際、祖父や、面識のあった人の話も聞きましたが、そうだったんですって。毀誉褒貶きよほうへんの激しい人だったって。そして最期には、そんな死に方をした。そんな人の血を継いでいるのか。そればっかり思っていました。今はもう片付けが済んでいますが、周りの男連中は、その栄光にすがりついたままでいる。馬鹿馬鹿しい。上っ面しか見ないで、飾り物ばっかりに気を取られてさ。警察隊の皆さんと出会ってから、余計にそう思うようになってきました。母上とふたり、ああはなるまいって、いっつも言っています」

 いつ頃からか、ペルグランは、を使いはじめた。

 切っ掛けは、微笑ましいものだった。同期の女の子に、きっと似合うからって。だからかっこつけて、やってみた。体つきの割に幼い顔だから、皆で茶化していた。その度に、その女の子とふたり、顔を赤くしていた。

 ダンクルベールとしては、ペルグランらしいというか、年頃の男っぽさが、可愛く思えていた。。ペルグランに、似合っていた。

 だが今、こういった口調での、

 荒んだ。ひねくれた。可愛げが無くなった。あるいは今までもそうだったのが、浮き彫りになったのか。とにかくそれが、少しだけ、寂しかった。

 前のような、であれば、受け止めきれていただろう。

「呆けて死んだ男の血です。ありがたさなんて、どこにもありゃあしません」

 それだけ言って、淹れてもらったばかりの紅茶を、一息で飲み干した。

 葛藤だったのだろう。真実と事実は別のもの。ニコラ・ペルグランという、巨大な存在の、光と、闇。

 だからきっと、俺に、なりたかったのだろう。そういうものを、捨ててしまいたかったから。

 ムッシュが何も言わず、まだ口を付けていなかった紅茶を、ペルグランに差し出した。会釈だけして、それを受け取っていた。

「すっきりしたか?」

「はい。お聞き苦しい話をして、申し訳ありませんでした」

「構わない。お前のことが、ひとつ知れたのだから」

 本心だった。ペルグランは、少しだけ俯いた。

「ロリオに相談された。シェラドゥルーガに、母親を喰ってもらいたいと」

「ほう。夫人にですか」

「きっと、あいつも嫌がる。食にはうるさいからな」

「でしょうなあ。健啖家とはいえ、美食家ですから」

「話はしてみる。駄目そうなら、俺がやる」

「おやめなさい。それこそ、座敷牢なりを用意してやったほうが、まだましです」

「ムッシュ」

 呼び止めるようにして、呼んでいた。

「尊厳を、大事にしたいんだ」

 目を見て、そう言った。

 その目に、光が灯った。そして、微笑んだ。

「私がそれを忘れちまうとは、駄目なおやじですなあ」

「いいじゃないか。それだけ、離れたってことさ」

「そうなんですかねえ。そればっかり、考えていたんですがね」

 代々の死刑執行人。ムッシュ・ラポワント。

 過去を清算するために散る生命いのち嘲笑わらうことを、決して許さなかった異端児。生と死の尊厳を重んずる、高潔な男。

 今はもう、ただひとりの、気持ちのいいおやじである。


2.


 黒いカーテンと、鉄格子。それが、開く。

 いつもの応接間のレイアウトが、いくらか変わっていたのには、すぐに気付いた。

「ああ、我が愛しき人。不作法お許しあれ。今日は寒くて」

 夫人は、壁際の揺り椅子に座って、ゆらゆらと揺れながら出迎えてくれた。

 温かいのが好き、と聞いているが、今日の姿も大概である。熊の毛皮のようなものを首元まですっぽりと巻き付けて、膝掛けも毛布ぐらいに分厚い、羊毛のものを使っている。いつもは見せびらかすようにしている肌色の部分は、顔ぐらいしかない。燃え盛るように広がった髪と相まって、ひとつの毛玉のようになっていたのが、なんだかちょっと、可愛らしかった。

 揺れ椅子の隣に、サイドテーブル。それと、小さな調理口をふたつほど備えた、古めかしくも味わいのあるストーブが置いてある。そこに琺瑯ほうろうの薬缶をかけていて、きっとジンジャーティーか何かだろう、優しい香りのする温かそうな器を、両手でありがたそうに包んでいた。

 巨大な書庫でもあるこの牢獄では、きっと薪暖炉などは使いづらいのかもしれない。必要に応じて、このぐらいの小さなストーブなどで、暖をとっているようだ。夜になったら、ここで眠ってしまってもいいぐらい、居心地が良さそうだ。

 妖艶な美女の姿はしているが、きっと何百年も生きている化け物である。ただ、こうやっている姿を見ると、そこらへんのお婆ちゃんみたいで、おかしかった。

「こちらこそすまんな。時間を取らせる」

「構わない。私は虜囚で、人でなしだからね。時間なんて山ほどある。お前がもう少し爺になって、目が霞むようになり、その職を辞する時が来たならば、きっと同じ気持ちになるだろうさ」

「ひとりぼっちの爺の、ひとり暮らしか。今のうちに何か、手慰みになるようなことを、覚えておかないとな」

「ピアノがあるじゃないか?ガンズビュールのあの屋敷で、たまに弾いてくれたのを覚えている。上手だったよ。小さなものであれば、近所迷惑にはならんだろうに」

「もう弾けないさ。もとより、娘たちのために買ったものだ。ついでで覚えたようなものだし、転居ついでに、もう売ってしまった。今更買い直すのも面倒だよ」

「後で買っておくから。小さいやつ。弾きにくるといい」

 挨拶程度の軽い会話をしながら、いつもの卓の方に移動してきた。もふもふとしたあかと黒の毛玉が、正面に座す。よく見ると、鼻の頭が赤くなっていた。

 手にした盆には、きっと彼女と同じものが注がれたカップがふたつ。口にすると、ふんわりと甘さが広がった。なんだろう、と思って尋ねてみたが、ないしょ、の一言だけ。

 不思議だったが、きっと、とても簡単なもので、そして何より、懐かしい味だった。

「単刀直入に。人ひとり、喰ってもらいたい」

 ダンクルベールが話を切り出した。

「ほう?これはまた」

「警察隊の下士官。それの母親だ。病というか、そういうものを患っている。本人より、周りがもう、疲れ切っている」

 その言葉に、夫人はくすくすと笑った。あかい、けもののような瞳。

 人でなし。ガンズビュールの人喰ひとぐらい。人の生命いのちを弄び、貪り食う、本物の魔性。

「この化け物に、慈悲を与えろとでも?」

「認知症」

 一転。夫人がぎょっとした顔を見せた。

「おい。あれを、喰えというのか?」

 身を乗り出して、ものすごい剣幕で言ってきた。それこそ、人を殺すような声で。

「曲げて頼む。無茶は承知の上だ」

 そう言って頭を下げたダンクルベールに、しばらくして、夫人は、呆れたような、そして観念したような顔つきで、腰をかけ直した。

 その後、そばの棚から綺麗な塗りが施された、細長い木箱を取ってきた。開くと、豪奢な装飾が施された、細長く上品なこしらえの煙管パイプが出てきた。鮮やかな手並みで、煙草を炊き、静かにふかす。煙草は嗜まないが、それでも上質なものだろうと思うぐらい、芳醇な香りだ。

 気に入らない時、気が乗らない時、夫人は煙管パイプを咥えるがある。これは、何度か見てきた中でわかったことだ。本当に、ごく稀に、とても上機嫌な時にも。

「ペルグラン君と、ちょっとお話をしようか」

 夫人はおもむろに立ち上がり、ペルグランたちに背を向けた。何となくではあるが、話の内容は、わかった気がした。

「君は、認知症、あるいは痴呆ちほう、というものをご存知かね?」

「知識としては、あります」

「実際に見たことは?」

「ありません、夫人」

「君のような若者は、まして良家のぼんぼんだ、見る機会もなかろう。機会があれば、見ておくといい。きっといい経験になる。あるいは大きな、心の傷になる」

 そう。知識としてはあった。そして、見たこともない。その通りだ。あるいは、自分以外の、家族たちも。

「あえて君に尋ねたのは、君の大事なご先祖さま、曽祖父たるニコラ・ペルグラン提督も、晩年にあれを患ったと聞いていたからだ。ご存知かしらね?」

 知っていた。きっと、これを尋ねてくることも。

 小さな頃に嫌々読まされた、代々の家伝に記されていたので、脳裏に刻まれている。開闢かいびゃくの祖。海を制した男。船一隻で宮廷に乗り込んだ英傑こと、ニコラ・ペルグラン大将。

 呆けて、亡くなった。一文。ただ、それだけだった。

「ただそれだけ。そうだろうな。あれを言葉にすることは、とても難しい。病なのか。老いが、人を保つしくみを保てなくなったのか。ただ、若くとも発症しうる。見てきた。何人も。そして、周りの人たちが」

「シェラドゥルーガ」

 断ち切るように、ダンクルベールが言ってくれた。

「ペルグランに、何か強いものを」

 多分、自分の顔に、それが出ていたのだろう。

「ごめんよ」

 少しして、夫人はぽつりと、言ってくれた。

「大丈夫です。長官やムッシュにも、出しましたから」

 ペルグランは、つとめて平静に言ったつもりだった。

 出された、透明なもの。放り込んだ。舌では何も感じなかったが、澱んでいたものが、焼き払われた気がした。

「夫人。そして、長官」

 また背を向けた夫人に、声を掛けた。

「不作法を承知の上で、思ったことを、思ったままに。あえてまた、お尋ねいたします」

 知りたかったこと。確認したかったことを。

「夫人はなぜ、人を喰らうのですか?」

 人ならざるもの。そして、頂点捕食者。

 この第三監獄は、夫人にとっての生簀いけすでもあった。身を保つことのできなくなった高位の罪人たちは、夫人好みの味付けをされたうえで、喰われる。

 ヴィジューションから戻った後、一度、その場面に遭遇したことがあった。思っていたものとは、まるっきり違った。四肢を引きちぎり、血に塗れながら、はらわたを貪り食うかと思っていた。

 口づけ、ひとつだけ。

 ちょっとした“悪戯いたずら”で、なにか別のものを見せていたのかもしれない。熱っぽく愛を語りながら、歓喜に打ち震えて、それは途絶えていった。

 人の血肉ではなく、また何か別のもの。それを夫人は食している。魂だとか、そういうものを。

「大好きだから」

 嬉しそうな声だった。

「栄養価が高い。腹がふくれる。何より、美味い。それもあるが、それ以上に、その人そのものが大好きだからだ。愛しているから。その愛を失いたくないから。取り込んで、私の中で、ずっとしまっておきたい。時の流れで朽ち果てて、老いさらばえて消えてゆくぐらいならば。私の中で、私とともに。そう。ずっと、私の手を取り、歩んでほしいから」

 背を向けたまま、弾んだ声で続けた。まさしく精神病質者サイコパスそのままの思考。そして、人でなしという、捕食者としての嗜好。

「あのガンズビュールの時も。最終目的こそ、そこに座る男だがね。その途上で手にかけた人々も、心から愛していた。そして何より、愛してくれていた。私が著作の中に仕込んだ“悪戯いたずら”を見抜き、訪ってくれて、ふたり、向き合って。私の著作を、そして私をいかに愛しているかを、熱心に語ってくれた。嬉しかった。楽しかった。涙が出るぐらいに。愛を。愛されることを。そして愛することを。皆、顔を真赤にして、声を大きくして、伝えてくれたんだ」

 そこまで言い切って、夫人の体が、わなわなと震えだした。

「ああ、美味しかったあ」

 歓喜の、声。絞り出すようにして。

 振り向いた。恍惚とした、喜びの顔。

「二十年。まだ噛み締めていられる。まだあの余韻を、楽しむことができる。言ってしまえば養殖ものだ。それでも、たまらない。やみつきになる。愛。そう、それが何よりの美味。どんな調味料も、どんな香辛料も、どんなソースもいらない。火も通さなくったっていい。余計なことなんて、一切いらない。盛り付けも飾りつけも、あるいは、皿もカトラリーもいらない。食卓でなくたっていい。温かな日差しの中、実ったそれをもぎ取って、そのまま口に運ぶのだよ。愛。愛こそが。ああ、そう。路端の野苺を、そうするようにして」

 まるでオペラのように、狂った言葉を歌い続けていた。その、吐息が多分に含まれた、蠱惑的で、官能的な、蕩けるような声で。踊るように、身振り手振りを加えながら。どれだけそれが素晴らしいかを、体全体で表現していた。

 不思議と、恐怖はなかった。それがきっと、この人でなしの、何よりの望みなのだろうから。

 人の生命、魂。そして、愛。それを欲し、喰らう化け物。それ無しには生きられない、そういう生き物。

 そうしてひとしきりが終わったあと、夫人の顔に、陰が差した。

「故に、望まぬ贄を喰らうのは、気が引ける。ましてあの病を。いや、あの心の蝕みを喰らうなどとは、御免被ごめんこうむる」

 ぱちん、と。

 書架の林から、何冊かが飛んできた。それを上手に受け止めて、卓の上に開いて乗せていく。医学書。あとは、過去の新聞のスクラップだろうか。

 知識と、先例。特に先例の方は、いたましいものばかり。親殺し。棄老きろう。一家心中。そんな言葉が溢れていた。

「だがしかし、言わんとしていることはわかる。あれが与える苦しみは、当人だけではないのだから。家族たちや、周りの人のことを思うと、可哀想で、そして哀れで、仕方がない」

 沈んだ顔のまま、正面に座す。そしてまた、煙管パイプに口を付けた。

「はるか昔、私が神の端くれだったとき、私を奉ずるものどもにもすがられたこともある。どうか父を、どうかお婆ちゃんをお救い下さいませ、とね」

 いつぞやに、聞いた話。

 夫人はその時、軽口を叩くようにして、それを言っていた。昔、邪教のご神体をやっていたこともある。ヴァーヌ聖教にぼこぼこにされたけどね。そんな感じに。

 今、この口ぶりからすれば、それは真実であり、またその在り方というのは、ヴァーヌ聖教のような一神教のそれではなく、もっと素朴な、いわゆるシャーマニズムだとかアニミズムと呼ばれる、土着の信仰だったのだろう。そしてヴァルハリア貴族とヴァーヌ聖教の侵出により、迫害、駆逐されていった。そういう、悲しい存在。

 生死を司る、愛と豊穣の女神。シェラドゥルーガ。異端として火に焼かれ、棄てられた神性。

「大変な目にあった。あたり一面、ひどいことになった。そうならないよう、海の底に沈んでから、吐いたこともある。美しい水面の潮が、赤く染まっていった。ただひとつの、生命いのちのために」

 もはや先ほどまでの、心躍るようなものは一切、残っていない。ただ空虚で、つらいものばかりを吐き出すように。

 責務として人を喰らった。愛ではなく、毒を喰らい、それに蝕まれた。

「俺が撃ってもいい。あるいはスーリ。責任を負って、人を殺めることができるやつはいくらかいる。ただ、課せられる責任が、あまりに大きい」

 ダンクルベールの声も、沈んでいた。紫煙をくゆらせながら、その褐色は、夜そのもののように、暗くなっていた。

「俺はもう、辞表は書いてある。もうウトマンに任せても、いい頃合いだ」

「おやめ」

 はっきりと。

「私は、警察隊本部長官、オーブリー・ダンクルベールをこそ、愛している」

 あかい瞳が、愛を告げた。我が愛しき人。普段より、そう呼んでいるように。

「罪人は、愛せない」

 ぽつりと。言葉と、ひとすじが。

 締め付けられ、思わず目を逸らした。

 やはり夫人は心から、ダンクルベールを愛しているのだ。そして喰らいたいのだ。いつまでも、一緒にいるために。

 そしてダンクルベールも、あるいは、また。

「この国では、安楽死は認められていない。人は、自然の時の中で、死ぬべきだとね。“慈悲ミセリコルデ”を持つムッシュにも、頼んだそうだよ。叱り飛ばして、追い返したってさ」

「ああ。至極、正しい。自然の時の中で、あるいは、自然の摂理の中で。そして私もまた、自然の摂理のひとつ。おそらくは今、ただ唯一の、人間の天敵にして、捕食者だ」

 ペルグランは、何ひとつ、口を挟めなかった。

 ここで語られているのは、道徳であり、社会通念であり、哲学だった。普段の犯罪捜査では聞くことのできない、高尚なものだった。

 老境目前の、歴戦の捜査官。作家にして凶悪殺人犯、そして太古の女神。そのふたりの問答。

「壊れる前に収める唯一の方法こそが私ならば、赴こう。だが先程行った通り、私にとって、あれは猛毒だ。心の準備をさせてほしい。構わないかね?我が愛しき人」

「ああ。ただ、あまり余裕はないだろう。俺たちも一度、様子を見に行く。明後日。お前も来るか?」

「見たいのは山々だが、皆の迷惑になるだろう。ペルグラン君にも伝えた通り、私にとっても、きっと刺激が強いものだろうからね。その場で取り乱してしまえば、誰も抑えられまい」

 悲しい笑いを浮かべながら、夫人が言った。勝手気ままに出歩く奔放なひとが、そこまで言うのだ。ペルグランは既に、気が重くなっていた。

「そうだ、ちょっと試してみたいことがある」

 ぱん、と。手を叩いて。その顔は、打って変わっていた。

「ペルグラン君、お手を少し、いいかね?」

 不敵な笑み。いつもの、夫人の顔だ。

 ペルグランは訝しみつつも、言われたとおりにした。差し出した手に、その白い指が、絡む。

 目を、閉じてご覧?

 聞こえた。どこかから。それでも、こわさはない。

 やはり、言われたとおりにした。瞼の裏の、暗闇。

「よし。目を開けて」

 言われたとおりに。

 私の声は、聞こえるかい?

「はい。夫人」

 大成功だ。はじめて試してみたが、これはきっと、便利だ。今、君の頭の片隅を、ちょっと借りてみたんだ。

「そんなところに、いらっしゃるのですか?」

「おい、どうした?ペルグラン」

「わざわざ口に出さなくても大丈夫みたいだ。ああ、我が愛しき人、安心したまえ。気が触れたわけではない。ペルグラン君を、ちょっと借りた。今までの方法から、アプローチを変えてね?」

 にこにこと笑いながら。

 ちょっとした“悪戯いたずら”。夫人の、シェラドゥルーガとしての超常的な力であり、趣味のひとつ。こうやって、思いついたことを、思いついたままに実現できる。実際に目の当たりにして、思わず、へえ、と、声が出た。

 あんなこといいな、できたらいいな。それができるのだから、便利なものである。

「少し訓練に付き合ってくれたまえ。私は少し離れる。ペルグラン君は我が蔵書から、好きなものを一冊、選んでご覧?それが見えるか、確かめてみよう。時間はたっぷり、使っておくれ。そのあたりも、評価点のひとつだ」

 そう言って、赤と黒の毛玉は、また壁際の揺り椅子に座り込んだ。そうしてすぐに、うたた寝するように、ゆらゆらと揺れはじめる。妖しく、そしてどこか可憐な寝顔だった。

「承りました」

 それだけ、あえて口で言って、席を立った。


 不快感は、あるかね?できうる限り、気は遣っているが。

「いいえ、特には。でも変な感じですね。頭の中の、ひとり言に、返事が返ってくるような」

 素敵な表現だ。君はまだ若いから、頭の中でのひとり言ができる。もう十年すると、そいつは口から出てくるようになるぞ。それこそ、思ったことを、思ったままに。ね?

「気をつけるようにします。俺はおそらく、皆が思っている以上に、気性が荒いところがあるので」

 感情表現が豊か、と言い換えるほうがいいな。自分で自分を褒めることも、大切だ。それにしてもペルグラン君。いつから、になったんだい?きっと、女の子に言われたんだろう?かっこつけちゃってさあ。

「大当たりですよ。同期の女の子。男らしいの、好きみたいでして。俺にを押し付けて、ガブリエリに紙巻を押し付けたんです。だからお仕置きに、ガブリエリが皆の前で、とんでもなくかっこつけて、口説いてやってましたよ。可愛かったなあ。顔、真っ赤にしちゃって。動けなくなってやんの。へへ、ざまあみやがれってんだ」

 おやおや。微笑ましいものだねえ。ガブリエリ君に紙巻かあ。咥えた横顔、きっと、かっこいいだろうね。それにしても、そのこ、男臭いの好きなのかな。ハードボイルドってやつか。お父さんの趣味かしら?おっと、立ち止まったね?

「はい。たしかここを、右だったはずなんですよね」

 あらやだ。その先はちょっと、おばさん、恥ずかしいなあ。

「まあもう、何となく察しはついているでしょう?うちの母親のことをご存知なのですから、子どもにどういうものを読ませてたのかぐらいは、夫人であれば、簡単なはずです」

 でも君は、男の子だろう?あのジョゼが好きだった、“喝采。そして、赤”だとか、“女男爵の憂い”とかは。特に後者は、子どもにはちょっと、刺激が強すぎるだろう。

「仰る通り、刺激が強すぎました。“乗合馬車のふたり”なんか、描写が、まあもう、ね。うちにあるの、初版なんですが、挿絵もすごいじゃないですか、あれ。ここだけの秘密ですよ?十かそこらを越えたあたり、夜中にこっそり書庫に忍び込んで、自分の部屋に持ってって。後はまあ、男の子ですから」

 あらま。素敵な秘め事、ありがとう。勿体ないなあ。その場にいたら、私が慰めてあげてもよかったのに。ロニョン・ド・コック、好物なの。新鮮なうちに頂戴しても?

「口説き文句にしたって下品ですよ。魅力的ではありますが、流石に願い下げです。あったあった。これ。お、しかも初版だ。やったね」

 そうだよね。“ルシャドン伯の決闘”だ。

「夫人にはじめてお会いする際、行き帰りの馬車の中にも、持っていったんですよ。再販のやつですが。あのときは、まさか著者ご本人とお会いするとは、思ってもいなかった」

 あら、嬉しいこと。ちなみに誰が好き?

「ミュラトール卿かな。悪役ですが、気障きざで言い回しが格好良くって、なにより見た目が、まあ、もう。最高ですよ」

 碧海劇団だっけ?公演でやってくれた。あの時、演じた役者さん、もうすっかり爺になったけど、はまり役だったね。アンセルム・マチアス・ドゥ・モナンジュだったかな?

「そうそう、それ。その時の広告、母上が買い取って、うちに飾ってありますよ。あのとっつぁん。若い頃、男前だったんですねぇ。絵ではありますが、すらっとして、ぎんっとした吊り目で。それでもどこか、余裕綽々と云うか、飄々とした感じが。よく真似したもんです。警察隊の俺が言うのもあれですが、かっこいい悪役って、すごく好きなんですよ」

 ミュラトール卿はかなり楽しく書けた。キャラクターがばっちりしてるからね。勝手に喋ってくれた。そうそう、両隣の本も、取ってご覧?

「はい。ええと、なんでまた?」

 いいから。結構、長いこと、居座れるものだね。我ながらいい腕前だ。これならもう、あの人のびんたを貰わなくたって済むし、突如として現れる私に驚く必要もなくなる。私ってば、気が利くだろう?

「ご配慮、感謝いたします。ん、ボトルですか?」

 そう、お土産。これもまた、ちょっとした“悪戯いたずら”さ。

「あ、これかぁ。有り難く、そして、謹んで、お恨み申し上げます」

 でも気に入ったろ?たまに会う時、香りが残ってる。

「まあ、はい。最近、流通しはじめたので、よく。俺はセッコより、このアマービレのほうが合うみたいです」

 それは良かった。残り香から、アマービレだと思ったから。よし。じゃあ、戻ろうか。


 ぱん、と。手の鳴る音。

「実験、成功。ちょっと疲れるが、ごはんを多めにすれば、どうにか戻せる。ペルグラン君のほうは、大丈夫かね?」

「特になんとも。便利なものですね」

 “ルシャドン伯の決闘”と、プレフェリト・デ・ペスカトリのアマービレを抱えて戻ってきたペルグランに対し、ダンクルベールは座ったまま、ぽかんとした表情をしていた。付き合いの長いダンクルベールをしても、理解が追いついていないのか。

「後はこう、繋がるきっかけというか。そういうものを用意すれば、いつでもどこでも駆けつけれるはずだ。何にしようかな?匂いが強いものは、大丈夫かい?」

 首肯する。夫人は上機嫌に、またちょっと遠くの方に行ってから、戻ってきた。桃色の香水の瓶と、それよりちょっと小さめな、空の瓶。眼の前で、それを少しだけ移した。

「私のお気に入り。これを合図にしよう」

 差し出された小さな瓶から、一滴だけ手の甲に乗せ、香りを見る。甘い、でもすっきりとして、後ろにちょっと、生姜とか、そういうのがいる。全体的には、果実の甘さだ。確かに、夫人に近づいた時、こんな香りがした気がする。きれいな女のひとの、におい。

 前までは、近寄られたり、弄ばれたりしただけで、心臓が跳ね上がったり、最悪の場合、下の方が勃ち上がったりしたものだが、いつしか慣れてしまった。なんだか、勿体ないものを無くした気がする。あるいは、ヴィジューションでので、色々とうしなってしまったのかもしれない。恥ずかしさと、あの至高の美味。今でも思い出しては、心の中が難しくなる。

 ゴフ隊長に女遊びに連れ回されたのが、悪かったのかもしれない。しばらく控えよう。あのニコラ・ペルグランのお血筋が、よもや遊女に童貞捧げて、しかも入れ込んでるだなんて。ばれたら、母上に叱られてしまうかもしれない。でもなあ、心底に惚れてしまったものは、仕方ないよな。それにもう、会いに行けば、銭を払わなくたって、遊んでくれるぐらいになってしまっているし。

 いっそ腹を括っちまって、とっととめとってしまおうか。よし、そうしよう。叔父さんの従兄さんあたりなら、市井にいくらかの理解があるし、そこの養子にしてもらえれば、家の面目も立つだろう。最悪、廃嫡もありうるが、今となっては寂れた漁港のいくつかを持っているだけで、さして稼ぎがある家でもない。ニコラ・ペルグランのお血筋だとか、アズナヴール伯とかいうご大層な肩書きなんかより、ずっと価値のある、とびっきり愛しい、自分で見初めた人なんだから。

 会いたいなあ。行けばいっつも甘やかしてくれる。子供みたいに抱きしめて、頭を撫でてくれる。最初は恥ずかしかったが、今では嬉しさが強くなっている。それこそ今日、行こうかな。ビリヤードして、札遊びして、ゆっくりお酒飲んでさ。酒と煙草で軽く炙った、あのハスキーボイス。

 よし、決めた。遊女上がりの姉さん女房。それで行こう。政治の話を抜きにすれば、長官や局長閣下も、大笑いで。でかした、男の夢だ。なんて言ってくれそうじゃないか。

 あるいは先に、市井に理解の強い、ブロスキ男爵マレンツィオ閣下に顔合わせして、仲人なんかも頼んでしまおう。そうすれば、天下御免の箔もつく。順番としては、それがいい。

 向こうの方は、ジスカールの親分にでも頼んでみよう。面倒見もいい任侠さんだし、“あし”じゃなく、手順通りに会って、真正面から筋を通せば、聞いてくれるだろう。諸々含めると、一年ぐらいかな。決めたとなれば、ゆっくり時間を掛けて、急がず焦らずだ。

 夫人は、どうかなあ。恋愛小説の巨匠とはいえ、性格が合わないかもしれない。会いたいといわれたら、会わせるかな。一応この人も、国家機密だしね。

「あの、ペルグラン君?」

 ふと、声になって聞こえたものがあった。夫人の声。

 顔を見遣ると、その美貌を気恥ずかしそうに赤らめながら、くすくすと微笑んでいる。隣のダンクルベールは、なんだか訝しげな表情のままである。

「ごめんね?全部、聞こえちゃった」

 今度は、こちらが顔を赤くする番だった。


3.


 ロリオ伍長の、母の様子を見に行くことになった。

 ダンクルベール、ムッシュ、アルシェ、ペルグラン、そしてガブリエリ。事前にムッシュから、油合羽あぶらがっぱ以外のものを着るよう、言われていた。匂いを嫌がることも、あるらしい。

 ビゴーは、先に見てきたそうだった。話を聞き出そうにも、かぶりを振るばかりだった。ありゃあひどい。言葉としても、その程度だった。

 ガブリエリは、知識も、経験も無かった。それはあるいは、幸いなことなのかもしれない。ただ、いずれは知ることになる。ビゴーとともに歩いていく中で、必ずどこかで見ることになるだろう。

 それが、今だった。

 わかってやること。理解を示してやること。ましてビゴーができなかったことを、やらなければならない。

「貴様は、どうなんだ?」

 何となく、隣りにいたペルグランに話を振った。

「別にどうとも。知識はある。見るのは、はじめてだ」

「ご親族に、いたのかね?」

「ニコラ・ペルグランが、そうだったんだとよ」

 言われて、ぎょっとした。

「聞くべきではなかったな。すまん」

「いいさ。伍長と会ってから、色んな人に打ち明けた。すっきりしたよ」

 ペルグランは、笑っていた。

「嫌なもんだね。いいとこ産まれってのも。いらないものばっかり、物置に入っているんだもの」

「それは本当にそうだ。断捨離ひとつやりたがらない、ごみ屋敷だよ。とっとと引っ越ししちまいたいもんだね」

 ふたりでひとしきり、笑った。

 奇縁も奇縁だった。もと王家のガブリエリと、英雄の血筋のペルグラン。士官学校の頃は好敵手ライバルとしての関係が強かったが、警察隊本部に入ってから、一気に距離が縮まった。

 ペルグランが行きたいところに行けなくて、不満たらたらのぶうたれ小僧になったのが、あるいは良かったのかもしれない。現場と先輩に叩かれるだけ叩かれて、人間として大きくなった。人間味がある人間になって、付き合いやすくなった。

 あとは、ラクロワの存在も大きいだろう。中流家庭出身の、素朴な女の子。士官学校のころは、まったく目立たなかった。同期として一緒に過ごす時間が多くなったことで、男ふたり、女の子にかっこいいところ見せてやろうぜ、ということばかりやっていた。名家出身ともなれば遊んで歩いている印象が強いだろうが、実際は、同世代の付き合いだなんてほとんどない。まして異性ともなれば、尚更だった。

 どこにでもいるような女の子。新鮮だった。

 きっと、あれは恋だったのだろう。それでも、ラクロワがペルグランに対して淡いものを持っていることに気付いたため、諦めた。男ふたりの、あるいはラクロワ含めて三人の友だちという関係を、壊したくなかったから。

 今は、独身寮近くのカフェで働いている女の子と、お付き合いをしている。最初は名前で気後れされたけど、すぐに打ち解けた。これで同期三人、これからも仲良くできる。真っ直ぐに、見ることができる。

 ちょっとだけの後悔はあるが、それでいい。そういうことにした。

 ロリオの家の近くになって、おもむろにペルグランが、何かを取り出した。手首にそれを、ひとたらし。そして、香りを嗅いだ。

 手妻てづまかと思った。瞳が、あかくなったのだ。

「何だ、そりゃ」

「夫人との“交信”さ。本当は、夫人も来たがってたが、こっちのほうがいいってね。俺の感覚を間借りしているんだと」

「へえ、便利なもんだね」

 それぐらいに留めた。

 ボドリエール夫人。あるいは、シェラドゥルーガ。

 ペルグランがそれと会った後ぐらいに、ガブリエリも会っていた。

 ビゴーと町中を歩いているときに、声を掛けられた。随分な別嬪さんだと思ったが、名刺を渡されて、腰を抜かしそうになった。

 シェラドゥルーガが、生きている。

 それでもこわかったのは、それぐらいだった。たまに、ビゴーとお喋りがしたいのだという。カフェでお茶したり、ビストロでめしを食うなりして、親しくしてもらっている。

 最初は色仕掛けなど、色々と意地悪をされたが、最近はつとめて、大人の女性として接してくるようになっていた。どうやらペルグランと比べて、遊び甲斐がないらしい。

 ロリオの家。すぐに、違和感というか、嫌悪感があった。

 汚い。そして、臭い。排泄物や、汗、垢とかそういった、人の臭いだ。

 入っていく。奥の間。ロリオと奥さま。ふたりともやせ細り、虚ろな表情だった。

「おっかさん。私ですよ、ラポワントです」

 ムッシュの声。それは、寝台の上に座っていた。ぼうっとした表情の、老婆。

 骸。そうとしか、思えなかった。

 めしは、食えていないのか。休職中の下士官とはいえ、介護手当なり何なりで賄えるはず。いや、食の好みか。服の汚れ。嫌がっている。服も替えず、身も清めていない。すべて、嫌がられているのか。

 ロリオたち夫妻。傷と痣。やはり、暴力。あるいは暴言か。やせ細り、目が、虚ろでいる。

 何が起これば、そうなるのだ。

 目の前の老婆。

 それでも、わかってやらなければ。そう思ったとき。

「ひとごろしっ」

 ムッシュが、触れようとした途端だった。

 伸びっぱなしの爪。それのまま、ぶん回した。ムッシュはかろうじて、それをいなしていた。

「殺される。殺される」

 開いた目。点のような、瞳。ただひたすら、叫んで。当たりのものを掴んでは、ぶっつけて。

「あんたたち。奪いにきたんだろ。うちには何もないんだよ。あんたたちが全部、持っていったじゃないか」

「押さえます。早く」

 ムッシュの声。でも、動けない。

 立っていない。へたり込んでいる。それにきっと、気付いていなかった。

「来い。ガブリエリ、押さえろ」

 ダンクルベールの声。焦りが多い。

 返事をしたつもりだった。音になっていなかった。立とうとしても、立てない。

 誰かに、立たせてもらおうとした。手を伸ばしたが、もう皆、あの老婆に飛びついていた。

「痛い、痛い。殺される。ひとごろし、ひとごろし」

 叫び、舌を根本まで突き出している老婆。その口にペルグランが咄嗟に、自分の左腕を噛ませた。そうやって体ごと近づけて、抱き込むようにして押さえ込む。猿轡の要領だ。

「ガブリエリ、何をしている。早く」

 おそらく、アルシェ。言われた通りだ。早くしなければ。

 それでも、体が、鉛のように。

「アルシェ。腕だけ、固定できるか」

「任せろ。血管を、浮かせればいいな?」

「大丈夫です、お母さん。もう大丈夫、大丈夫ですから」

 声と、音しか、聞こえなかった。あるいは、自分の呼吸と、鼓動しか。

 何かが起きた。それで、何も、できなかった。

 老婆は、寝台に横たわっていた。静かに、眠っていた。

「よくやった、ペルグラン。痛むか?」

 大声。アルシェだった。聞いたことがないぐらいの、張り上げた声。顔も、そのひとのいつもどおりからはかけ離れたぐらいに、焦りとか、そういうものに、塗れていた。

 ペルグランの腕。白いシャツに、血が滲んでいた。

「痛ぇ、痛ぇっすよ、大尉。なんで婆さんなんかに、腕噛まれなきゃいけないんですか」

「お前から突っ込んだんだ。おかげでおっかさんは、舌噛まずに済んだ。よく考えたもんだよ」

 きっと、とりあえずのもので応急処置をしようとしている。拷問官だが、その都合だろう、傷の手当なども得意だった。

「ロリオ伍長。おっかさん、最後に歯を磨いてやったのは、いつだ?」

「すいません、すいません。もう、覚えちゃいない」

「まずいな。おかみさん、動けるか?動けるなら、湯を沸かしてくれないか?あと、なんでもいいから布切れ。ゆっくりでいい。頼む。ああ、ウォッカか、ウイスキー。無いか?」

 アルシェが、しばらくあたりを探し回ったあと、こっちを向いた。がたがたと震えている自分の方に、大股で迫ってくる。

 胸ぐらを、掴まれた。

 痛み。頬を、張られた。三度、ひっぱたかれた。

「いけるか?」

 つとめて静かに、問いかけられた。それで、ようやく頭の中に色がついてきた。眼の前のアルシェは、仏頂面はそのままだが、明らかに汗だくで、肩で息をしていた。

「ガブリエリ、よく聞け。ゆっくり言える心の余裕はないから、ちゃんと聞け。いいか。玄関を出て左に三軒、酒屋がある。一番度数の高い酒、ツケ払いで持って来い。お前の同期の腕一本、お前に任せる。いいな?よし行け」

 背中をひっぱたかれた。

 それからは、あまり覚えていない。

 覚えているのは、とんでもなく度数の高いウォッカの親戚みたいなのを、震える手でアルシェに手渡したあたりからだった。一拍置いてから、ペルグランの体を押さえつけるようにどやされた。

「また痛むぞ、ペルグラン。我慢しなくっていいからな」

 湯で清めた布切れで、何度か拭いたあとだろう。血はあまり出ていないが、傷口はがたがたで、無惨なものだった。

 そこに、酒で頬を膨らませたアルシェが、そいつを霧にするように吹きかける。外套を噛ませたペルグランが、声にならない叫びを上げた。のたうち回ろうとするペルグランを、必死に押さえつけた。

 湯で清めた布を、その上から巻きつける。荒っぽいが、応急処置がひとつ、完了した。

「帰ったら、アンリに診てもらえ。泣いて愚痴って、慰めてもらえ。そいつが一番の薬になる」

 仏頂面が、軽く笑った。それでもやはり、汗と焦りで、崩れていた。

「ムッシュ。薬が、あるのか?」

「間に合せです。興奮の瓶を、溢れさせた。それで、ふやけているだけです。ほとんど麻薬か、毒みたいなもんだ。おっかさんに使うには、本当はよくない。これで、最後だ」

「なるほどな。こいつは弱り果てるはずだ」

 ダンクルベールもムッシュも、肩で息をしていた。ダンクルベールの杖は、見当たらなかった。

 それが目を覚ましたのは、少しもしないうちだった。

「あんたたち、誰だい?警察さんかい?」

 はっきりした声だった。

 ほっとした様子で、ダンクルベールが、その手を取った。手は、震えていた。

「おう、そうだよ。おっかさん、叫んでた。ひとごろしが来たんだろう?びっくりしたろうよ。おっかさんは、隠れてて無事だったんだ。よかったなぁ。俺たちが今、取っ捕まえたからな。安心しておくれよ」

「ああ、ダンクルベールの殿さまじゃあないですかあ」

 老婆もダンクルベールも、笑顔だった。そのまま、上体を起こしてあげていた。

「ありがとうごぜぇます。本当に、ありがとうごぜぇます。ああ、お怪我をなされている方もいらっしゃって」

「俺のことは大丈夫。それよりね、お母さん。息子さんとお嫁さん、必死になって、お母さんを守ってくれてたんです。褒めて、どうか褒めてやって下さい」

 痛みに顔を歪ませながらも、ペルグランは笑っていた。出任せでも、いい嘘をついている。こんなときでも、頭が回っているのか。

 見回した。アルシェがいない。

 よろよろと、体を動かした。いた。アルシェの姿。

 汚れた家の、掃除をしていた。沸かした湯の残りで、何かしらの飲み物も、作ってあげたのだろう。ロリオ夫妻に、それを飲ませていた。

 それだけはなんとか、手伝えた。

 ひとしきり、家の掃除とか、めしの作り置きとかを済ませて、ロリオの家を出た。

 誰も彼もが、立派だった。医者としての、ムッシュ。暴走を抑え込み、老婆の話に付き合ったダンクルベールとペルグラン。そして、ペルグランの傷の手当も、ロリオ夫妻のことも、家のことだって全部やっていた、アルシェ。

 思い返したとき、足は、止まっていた。

「ガブリエリ。おい、どうしたんだよ」

 振り向いてくれたのだと思う。

 もはや、涙しか、出てこなかった。

「長官。私は、自分が」

 そこまでは言えた。後はもう、わからなくなってしまった。

「びっくりしたんだろう?あんなの、はじめて見るんだから、当たり前だよ。俺だってこわかったさ」

 ダンクルベールの、温かい言葉と、微笑みだった。いつもどおりの、深く、響くような声。

「それでも、情けないです。何も、できなかった」

「それが自覚できるだけでも、十分。十二分だ。自覚できないやつだって、山ほどいる。お前はひとつ、学びを得た」

「それだけじゃ、それだけじゃないんです」

 かぶりを、振りながら。

 思ってしまった。絶対に、そう思ってしまってはいけないことを。

「汚いって。汚らわしいものだって、思ってしまった。私たちは、ああいう人を守るために、働いているのに。それを、悍ましいとか、気持ち悪いものだって、思ってしまいました。恥ずかしい。今だって、恥ずかしいんです。皆さんと比べて、私の服は、綺麗なまんまだ。何も、何もかも」

 皆、汚れていた。それでも、輝いて見えた。

 それが何より、つらかった。

 横に並んで、肩を組んでくれた。ペルグランだった。

「俺だって、全然駄目だったよ。駄目すぎて、何やったか、覚えちゃいないんだ。頭の中にいた夫人に、ずっと怒鳴られていた。何を怒鳴られていたのかも、覚えていないぐらいにだよ。馬鹿だよなぁ。笑ってくれよ?」

 笑っていた。きっと、作り笑い。それでも、それができる。強いやつだ。本当にこいつは、強いものを持っている。

「世の中にはさ、いろんなものがあるんですよ。綺麗なものばっかりじゃない。それはきっと、頭では理解できているはずだ。それを今日、実際に見た。それは、君の理解を越えたものだった。なあ、少尉。それだけのことなんだよ」

 ムッシュ。数多くの人の生と死を見てきた人。医者としても、処刑人としても。

 それだけのこと。その言葉が、何よりも重かった。

 両肩に、手の感覚。顔を覗き込んでくる。

 アルシェ。真剣な、顔つきだった。

「なあ、ガブリエリ。お前の大好きなおやじさんだって、ありゃあひどいって、言ってたろ?あの神さまみたいな、おやじさんがそう言うんだ。お前や俺みたいなのが、そうじゃないって言えるか?そうじゃないだろ。自惚れんじゃないぞ」

 この人から出てくるとは信じられないほど、力強い言葉だった。

 一番、立派だった。母親だけでなく、ロリオ夫妻や、家のことまで、てきぱきとやっていた。

 酷薄な拷問官とばかり思っていた。謀略家とばかり思っていた。違った。誰よりも、人のことを見て、考えられる人だった。ロリオたちより側にいて、ロリオたちよりも長くいるはずなのに、それすらも、気付けなかった。

 すべてがやはり、涙と声として、出ていた。

「ちゃんと涙、枯らすまで泣くんだ。泣いて、泣き疲れて、いい男の顔で帰るぞ。それが今の、お前の仕事だ」

「はい、はい。すみません。皆さん。面目ありません」

 言われた通り、空になるまで泣いた。

 庁舎に戻ると、アンリとラクロワが待っていた。

 色々と用意をしてくれていた。身を清めるための温かい布だとか。替えの服だとか。めしも、用意してくれていた。

「ラクロワ。祝日なのに、すまんな」

「いくらかでも、力になれればと」

 ダンクルベールの労いに、ラクロワは、ちょっと固いながらも、微笑んで答えていた。

 困っている人を助けたい。それが、ラクロワというひとの、行動原理だった。それに自分たちは、大きく支えられていた。

 ビゴーが入ってきた。医務室で、アンリがペルグランを手当しているのを見ていたときだった。

「どうでしたかね?」

 瞼を閉じたままの、問いだった。

「何も、できませんでした」

「でしょうね。でも、それでいいんですよ。悔やむこたぁない。あたしだって、何にもできなかった。わかってやることも、見てやることすらも」

 そう言いながら、隣りに座ってくれた。

 いつもの落ち着く感じはなかった。ビゴーというひとの、温かさが、感じられなかった。

「あのおっかさんね。あれで、あたしの、ひとつかふたつ、上なんですよ」

 胸に、穴が空いた気分になった。

 ビゴーは、白秋はくしゅうに入って、いくらかもしない程度のはずだ。あの老婆は、もっともっと、上に見えた。

 あの病は、そこすらをも蝕むのか。

「自分が、ああなっちまうかもしれないってね。馬鹿なもんです。あたしは、自分しか見れなかった」

「准尉殿ですら、そうですものね」

「あんた、真っ直ぐだから、真っ直ぐ見ちまったでしょう。人の倍も三倍も、きついはずです」

「きつかったです。見たくないと、思うほどに」

「そう、それでいい。そういうもんなんです。だからこそね」

 握った手が、震えていた。

「シェラドゥルーガという言葉に、納得してしまった。それが、情けないんです」

 草臥れた顔に、ひとすじ、流れた。

 このひとですら、そこまで思ってしまうものなのか。

「人の生命を奪う権利は」

「ありゃあしないんですよ、誰にも」

 アンリの声に、荒げた声で割って入った。震えてもいた。

「それでいい。それが正しい。そうあってほしい。でもね、あたしがそうなるかもしれない。ガブリエリさんや、アンリさんたちを、ロリオさんみたいに扱っちまうかもしれない」

 ゆっくりと、首を振りながら。

「そうなるぐれぇだったら、死んじまいたい。でも自分ではきっと、死ぬことすら覚えちゃあいない。だから、そう。シェラドゥルーガさんなんですよ。たとえシェラドゥルーガさんが、人並み以上の感情と感性を持っていたとしても、それを望んじまう。あのひとにつらいもん、全部、おっかぶせてでもさ。だって、他のひとは守れるんだもの」

 そこまで吐き出して、顔を覆ってしまった。

「あたしがしてやれるんなら、してやりたかった。その度胸もねえんだ。人に、何が言えるかよ」

 ビゴーというひとの、痛み、苦しみ。それが、その言葉のすべてだった。

「だから、連れてきちまった。安請負をしちまった。失格ですよ、あたしは」

 顔を上げたビゴー。いつもの顔だった。

「それでも、着いていきます。私も、失格ですから」

「すまないねえ」

 そう言って、去っていった。

 あれが、ビゴーの腹の中。その、すべて。

 苦悩。その一言では、収めきれないもの。

「それでも、やはり」

 アンリだった。

「奪っては、いけない」

 だからこその、向こう傷の聖女。

 ひとしきりが済んで、ラクロワが退勤するところ。一緒に玄関まで歩いた。

「話は、聞いたんだ」

 ぽつりと。

「やっぱり、どうすればいいのかは、わからない」

「そうだね。私も、わからないよ」

 目を合わせた。自分の背丈からすると、本当に子どもぐらいの小ささだった。

「ガブリエリくん、泣いたの?」

「よく、わかったね。やっぱりラクロワには、ばれちゃうか」

 笑ったつもりだった。

 ぽふりと、その小さな体が抱きついてきた。

「ラクロワ?」

「大丈夫」

 穏やかな、声だった。

「ガブリエリくんが、私やペルグランくんたちの分まで、泣いてくれた。だから、お返し」

 声が、温かかった。その身体も。

 だから、一度離し、目線を合わせるぐらいまで腰を落として、こちらから抱き寄せた。

「ありがとう。やっぱり、ラクロワには敵わないなあ」

 この小さな体と、頼りなげな心が、ガブリエリのくじけた心を、助けてくれた。

 君に恋をすることだけは、続けていよう。心が、豊かになるから。


4.


 馬車一台、到着した。中から出てきたのは、あかと黒のドレスを纏った女である。

 シェラドゥルーガ。今回は“悪戯いたずら”ではなく、本人である。牢獄の方には、“あし”のひとりを、化かして置いておいた。

「遠いところ、ご苦労だった」

「お気遣い結構。久々の外だが、気は重いのでね」

 美貌の眉間には、皺が寄っていた。

 ペルグランを通して、様子を見ていた。それで、この様子である。おそらく、今までに見たことのないほどに、程度が悪いのだろう。

 祝日である。ほぼすべての人員は、休みとしていた。いたとしても、シェラドゥルーガと面識のある人間がほとんどである。

 少し休憩を入れてから、話をはじめる。そう告げて、別棟の司法解剖室に招いた。密室で、音も漏れにくい。秘密の話をするには、持って来いの場所だった。

 実際に様子を見た面々にくわえ、アンリとスーリを入れていた。ふたりとも、生命というものに、長く向き合ってきた。

「認知症、と呼ばれるものです」

 ムッシュから、前提を説明してもらった。

「巷では、痴呆ちほうとか、そういう言い方をします。記憶や判断を行う部分が、徐々に減衰し、社会や日常で暮らす上で、さまざまな支障がでるようになります。わかりやすいところでいえば、何度も同じことを言ったり、場所や時間がわからなくなったりする。一方で、衝動的な症状も出る。幻覚や妄想、徘徊、情緒の不安定。周囲への過剰な抵抗、あるいは攻撃的反応。まさしくあのおっかさんが、その状態です」

 そこまで一息で、言い切った。

 不治の病。現在の医学では、治療法はない。

 本人の状態もそうだが、問題はその周囲である。家族や親類、それぞれの近隣に至るまで、まさしく予測不可能な災害と化す。

 あれは、嵐だった。いつか誰もが発症しうる、人の心の、大竜巻だった。

「患者に対する理解が必要になってきます。だが、今まで述べた通り、相当に難しいことです。ロリオ伍長や奥方は、よく頑張っていますが、時間の問題でしょう。山に棄てるなり、座敷牢にぶち込むなりするほどのものだというのに。えらいもんですよ」

「それでいえば、ガブリエリ君の反応こそ、まさしく私の反応だ。あれほどのははじめて見た。ペルグラン君の頭の中で、腰を抜かして怯えていたよ」

 シェラドゥルーガ。用意した椅子にどっかりと背を掛けて、天を仰いでいた。

「普通はそうなんです。特に、少尉たちのような若い子には、より悍ましいものに見えるはずです。自分の親や、祖父母と当てはめたが最後、ひたすらに恐ろしくなる」

 あるいは自分に、それを当てはめたら。

 そこに行き着いて、ダンクルベールはそっと、目を閉じた。

「だそうだ、ガブリエリ君。決して恥じることはない。私はペルグラン君の中にいて、彼の勇敢な行動を見ていたが、頭の中は真っ白だった。無我夢中、いや、パニックを起こしていた。体だけが動いている状態だ。結果として、ご母堂ぼどうは舌を噛まずに済んだけれど、褒められたやり方ではない。とはいえあの状況で、正確な判断が下せる者など、数えるほどもおるまいしね」

 ペルグランは、傷を負っていた。

 錯乱した母が、舌を噛みそうになるぐらいになっていたところに、自分の腕を無理矢理に噛ませたのだ。

 アルシェの応急処置と、アンリの手当で、すぐによくなりそうだった。

 全員の顔を眺める。明るい表情のものなど、ひとりもいない。

 それでも、俎上そじょうに上げられたものは片付けねばならない。それが、いち隊員の家庭の問題であったとしても。

 組織の長として、ダンクルベールには、その責任があった。

「ロリオの願いを聞くべきか。今一度、議論したい。俺は、お前たちを含め、警察隊の皆には、できうる限りのことをしてやりたい。だが今回ばかりは、そのできうる限りが、具体的には思い浮かばない。情けない話だが」

「ガブリエリ、先んじて具申いたします」

 美麗の長身。起立し、敬礼。立派な姿。

「長官と同じく、正直に、何ができるかは思いつきません。恥ずかしい限りです。ですが気持ちだけでも、汲んでやりたい。差し伸べられる手があるなら、そうしたいです」

 燃え盛るような、しっかりとした眼差しだった。見慣れた美貌よりも、そっちのほうに、心を掴まれた。

「よし、立ち直ったな。アルシェは?」

「やめとけ、ですかね」

 対して、ぼそりと。

 顔を見る。仏頂面が、苦悶で歪んでいた。

「伍長も奥さんも、破綻寸前まで張り詰めている。あの状態で母親だけが死んだら、張り詰めたものが、途端に千切れる。つまりは、心が壊れる。心の死は、肉体の死に繋がる」

 アルシェは、心を取り扱うのが仕事だった。そういうものを見るのは、人一倍だった。

「俺はそれで、何人も死なせてきた」

 苦いものを、噛んだように。

 拷問はときに、死につながる。拷問官にとっては、敗北であり、屈辱である。

 そしてそれ以上に、人を殺したという、ひとつの経験。

 それをありがたがる人間は、数少ない。 

「汗を拭け。紙巻も、吸っていい」

 促した。自分もそうすると、アルシェとガブリエリも、それに倣った。

 相当に、心が荒れていた。この男をして、そこまでに、きついものだったのだろう。

「それでもやるんなら、家族丸ごと、全部まとめてやっちまった方がいい。それなら夫人ではなく、スーリの方が適任だろうが、どのみち誰も幸せになれない。それなら、全部やるか、全部やらないか。それだけです。以上」

 言い切ったようにして、天を仰いだ。

 アルシェは議論において、必ず正論を言う。あるいは、極論を。それを念頭に置くことで、話は進めやすくなる。

 だからこそいつも、真っ先に意見を求めていた。

「ムッシュは、どうだろう?無理は、しなくていい」

「大前提として、死は、救済ではありません。別れです」

 泰然としていた。こちらは、死を扱う男である。

「残されるものがいる。アルシェの言い分は正しいが、残されるものにも、生きがいがあれば、生き残れる。かけれる時間を使って、ちゃんと準備をさせてあげれば、あるいは」

「ムッシュ。あんたのその優しさを、俺は尊ぶ。だが、同時に危うくも思う。下手をすれば、あんたもまた、壊れるぞ。それならいっそ」

「この私を甘く見てくれるなよ、若僧」

 噛みつくようなアルシェの声を、一刀のもとに臥すように。

 真っ黒な目。それに、アルシェがひるんだ。

「我ら代々の死刑執行人は、残されるもののためにも、人を殺してきたのだ」

 朗々と、そして傲然とした声。

 ムッシュ・ド・ネション。万人に死を下す、公平なるもの。生涯最後の立会人。

 だが、そこまでだった。ため息ひとつ、その瞼が閉じた。

「だが確かに、難しい。アルシェの言い分に、理がありすぎる。理解はできるし納得もできるが、だが賛同はできない。これで、ご勘弁願えますか?」

「わかった。外して、少し休んでくれ。今回はお前が一番、負担が大きいはずだ」

「ご配慮、感謝いたします。お気持ちだけで」

 ムッシュは、動かなかった。あるいは、動けないのやも。

「アンリエットは、聞くまでもないな」

「生命を奪う権利は、誰にもありません。以上です」

 それでも、その顔も声も、暗かった。いつもの毅然としたものではなかった。

 やはり動いたのは、アルシェだった。

「あえて言うぞ。実際にあれを見ても、まだそれが言えるんだろうな?その覚悟は、決まってるんだろうな?」

「絶対に、なんらかの方法があるはずです。治療法以外にも、別のアプローチが」

「そこにたどり着くまで、どれだけかかる?たどり着く前に、全てが崩れ去ることだって、ありうるんだぞ」

「尽くせる手を尽くさずして、諦めたくはありません」

「そこまで。そうでなくては、サントアンリじゃないもんな」

 ぱん、と。手を鳴らして。お互いの目を見る。特に、アルシェの目。

 何か、頷いたようなものを、感じた。

「アルシェ。これ以上、悪役をやらなくてもいい。楽にしなさい」

 それだけ、告げた。

 安心したように、アルシェが椅子に腰掛けた。持ち込んでいたウイスキーをグラスに注ぎ、一息に煽った。各位、飲み物などを自由に持ち込むようにだけ言っておいた。

 汚れ役をやる男である。自分の心がどれだけ平静でなくても、やれてしまう。強さか、あるいは優しさからか。

「本部長官さま。どうかお願いです。私に、ご母堂ぼどうさまを」

「やめなさい、アンリ。あれはもはや、そういう程度のものではない」

 咎めたのは、シェラドゥルーガだった。その眼差しと声に、アンリが震えながら瞼を閉じた。

「スーリ。アルシェすらこの通りだが、殺せるか?」

「隠れて、見てました。絶対にやりたくないっす」

「どれだけ積んでもか」

 頷く。既に、難しい表情だった。

「人を、山ほど殺してきました。死ぬ前に、人は本性を見せる。受け入れるもの。命乞いをするもの。抵抗するもの。おっかさんは、それを長いことやってるんでしょうよ。最後の直線、駆け上がりに入ったはいいが、ゴール板が見つからない」

 そこまで言い切って、スーリが、顔を覆ってしまった。

「一番苦しんでるのは、あのおっかさんだよ」

 震えた声。ひとごろしの、声で。

「あれを殺すってなれば、かなりの準備がいります。特においらの、腹を括るための、準備が」

「痛いほどわかるが、それをやらされるであろう、私の前で言わないでほしかったなぁ。しかも、私が用意していたものより、洒落た表現でやってくれるとはね。可愛いやつだよ」

 相当うんざりした様子で、シェラドゥルーガが漏らした。煙管パイプをふかしているということは、そういうことだろう。

「私からも。喰う側としては、食あたりすることが分かりきっているものを喰うなんて、正直に気が引ける。アルシェ君の言い分は正しいが、三人分は、かなりきつい。絶対に腹を下す。私は人でなしだから、ムッシュもアンリも管轄外だろう?私専用の胃薬があるというのなら話は別だけどね」

「腹を下すと、やはり嘔吐か、下痢か」

「両方かもしれん。人前で無様を晒すのは淑女の恥だが、それ以上の問題がある。先にお前には言ったつもりだが、中のものをぶちまけるんだ。街ひとつ、汚染しかねない」

 たん、と。灰皿に煙管パイプを叩きつけて。

「やらせたいのなら、ヴァーヌ聖教の異端審問官どもを束で用意してくれ。神通力じんつうりきとやらで、全部まとめて燃やしてくれるだろうよ」

 吐き捨てるような言い方だった。侮蔑ともとれるような。まるで、過去に経験があるような。

 となれば、それをやらせるべきではない。

「ひとり分にしよう。お互いのためにもな」

「あとは、ちょっとした発想の転換だ。伍長と奥方を死なせて、ご母堂ぼどうを座敷牢にぶち込む」

 その言葉に、ガブリエリが飛びかかった。

 シェラドゥルーガの喉元を両手で締め付けた。眉目秀麗な顔を真っ赤に怒らせて。碧眼が、わなわなと震えている。

「そうだ、それが正しい。いずれ君が人の上に立ったとき、忠信に罰をもっってして組織や国家の繁栄があるとお思いならば、そうなさい」

 つとめて冷静に、そして穏やかに。

 眼と手で促す。それで、ガブリエリは手を放した。

「つまり?ここには正解も、最適解もないってことですね」

 部屋の隅でかがみ込んでいたペルグランが、頭を掻きながらぼやいてみせた。あえて椅子に座らず、そうしていた。

「偉いな、ペルグラン。その通りだ」

「では、思ったことを、思ったままに」

 顔を上げた。目が、そうは言っていなかった。

「おやじさんもそうですが、安請負をしたのがそもそもの間違いです。警察隊の大事な一員だからといって、いち家庭の問題でしょう?わざわざこんな面子が雁首揃えて、頭抱えて悩むことじゃない。そうじゃないですか」

「その言や良し。ガブリエリ、言ってやれ」

「それをやったら、ペルグラン。誰もついてこなくなるぞ」

 がん、と叩きつけるような言い方だった。

 両者の目。真っ直ぐなガブリエリ。どこか達観した、ペルグランの目。

 ガブリエリの言葉を、促したのだろう。本当はそれを言いたいが、ガブリエリが言うほうが、説得力があるから。

 ペルグランも、そういう小細工をできるようになった。あるいはからになり、ニコラ・ペルグランの最期を吐き出すということを経たから、手に入れたものかもしれない。

 隣においておくには、十二分以上のものである。

「そういうことだ。両名とも、いいことを言った。これでこそ、うちの両翼を担う駿才しゅんさいふたり。これからの二枚看板だ」

 ペルグランは屈んだまま、わざとらしい会釈をした。

 ここには正解も、最適解もない。まさしく、その通りだ。

「おっかさん、だな」

 しばらく置いて、決めたことを口にした。

「本部長官さまっ」

「アンリエット。すまんが、外せ」

「諦めたくない。私は、絶対に」

「ペルグラン、連れ出せ」

 わかっていたように、ペルグランがアンリを促した。アルシェとムッシュも、それにくわわった。

 少しして、アルシェとムッシュだけ、戻ってきた。

「可愛いこちゃんを泣かせたね。色男の面目躍如だ」

 スーリが、小馬鹿にするように節をつけながら、それでも疲れた声で言った。

「そうだな。さて、カードを決めよう。手札は、スーリ、ムッシュ、そして俺と、シェラドゥルーガ。一番準備が早いやつを、使う」

「私だな。今日でもいける。いや、今日がいいぐらいだ。皆の腹が決まっているうちに、済ませよう」

 言い切る前に。シェラドゥルーガだった。

「場所はどうします?あんたの寝ぐらかね?」

「どこでもいい。ちょっと広めで、汚してもいいところ。ここが、ちょうどいいんじゃないか?」

「あんたやっぱり、おっかさんを、食い散らかすつもりか」

「ガブリエリ君。私も淑女だ。テーブルマナーは心得ている。問題は、汚れるのは、その後だ」

 言葉と眼で制するだけで、ガブリエリは控えた。

「腹を下した時、ですかな」

「ご母堂ぼどうが旅立ったら、すぐに引き剥がしておくれ。それは、逃げ足の速い、スーリ君に任せたい。きっと暴れまわる。君は凄腕の殺し屋だが、正面切っての喧嘩は本領ではなかろう。本当は“錠前屋じょうまえや”とやらを揃えて欲しいところだが、大勢の前に、はしたない姿は晒したくない」

「こんな仕事を連中に任せて怪我でもさせてみろ。セルヴァンに怒鳴られる」

「お前の杖と、パーカッション・リボルバー。あとはムッシュの首切り剣法。どうせ殺されるなら、手並みのいい男たちに委ねたい。すまんがどうか、頼む」

「よし。ガブリエリ、ロリオに通達。おっかさんと一緒に来てもらうよう、伝えてくれ。つとめて、丁重にな」

「はっ。行って参ります」

 さっと、ガブリエリが退出していった。

 本当に、真っ直ぐな男である。それがなによりの美点ではあるが、扱いに困る部分も見えてきた。

 ペルグランもそうだが、若手ふたり、どう仕上げるべきか。ここが見極め時かもしれない。

「我が愛しき人が気を利かせて、手札から外してくれたことだ。アルシェ君も少し、休みたまえ」

 一息を入れるようにして言ったのは、シェラドゥルーガだった。

 アルシェは、人の心に鋭敏なところがある。だからきっと、あの苛烈な拷問でも、殺す前で踏みとどまれる。そう思っていた。

 だから、手札から、外した。きっと、殺せないから。

 その言葉に、ようやくアルシェも、いつもどおりの仏頂面に戻ったようだった。

「どうしても、思い出しちまいます。でも、あのときのほうが、随分ましでしたよ。あんたを含め、周りに人がいましたから」

「そうだったね、ラウリィ。今回は、息子夫婦だけか。そりゃあ、余計につらいよね」

 違和感。

 ふたりの顔。やけに穏やかだった。

 ムッシュとスーリの眼。困惑。自分と同じものを、感じているようだった。

「お前たち。何の話をしているんだ?」

 それを、言葉に出した。シェラドゥルーガとアルシェ。ふたりとも、怪訝な表情だった。

「おや?それで、アルシェ君を外したんじゃないのかい?」

「俺もてっきり、そう思ってました」

 それ、がわからない。首を振る。

 ふたり、おもむろに顔を合わせて。そうして、吹き出すようにして笑った。

「私とアルシェ君。ガンズビュールのころ、ご近所だったんだよ。斜向かいのデュトワさんのとこで、家族で住み込み奉公しててね。言ってなかったっけ?」

 シェラドゥルーガが、笑いながら言ってきた。

 面食らっていた。聞いていない話だし、それが今、何に繋がるのかも。

 ガンズビュールの邸宅の、斜向かい。確かに、大きな屋敷があった。ガンズビュールは別荘地だが、あの屋敷は別荘ではなく、本邸だった。住んでいたのは、為替取引か何かをやっている資産家で、結構な大所帯だったと記憶している。

「子どものころ、そこの爺さまが同じもの患いましてね。本当、こわくって。兄貴とふたり、夫人が手伝いに来てくれるたびに、泣きついたもんです」

 アルシェも、口元が綻んでいた。たまに見せる顔である。

 ひとつ、思い当たる節があった。シェラドゥルーガとアルシェを、はじめて会わせたときである。

 シェラドゥルーガの悪いが、無かった。はじめて会う人間に対し、弄んだり、貶めたりするのだが、アルシェに限って、それをやらなかった。

 そんな奇縁があったとは、思いもしていなかった。

「たまに、うちのことも頼んでたんだよ。お父さんとクリスが外のこと。お母さんと、ラウリィことアルシェ君が内のこと。そういや、君んとこ全員、ダニエルだったよね?私、お父さんに向けてダニエルさんって呼んだら、三人、返事しちゃってさあ」

「ありましたねえ。親父がマチアス。兄貴がクリストフ。んで俺が、ダニエル・ラウル。それと、メタモーフのとき、おやじさんと長官とで、うちのご主人さんところに来てましたよ。覚えてませんか?」

 アルシェの言葉に、思わず頭の中を探っていた。

 確かに、立ち寄っている。三十年前。アルシェの年齢からすれば、子どもも子どもである。ただ、そういう子どもがいたかどうかは、覚えていない。まして、そこの爺さんが認知症になっていたとは、まったく知らなかった。

 そこまで行き着いて、はっとした。

 子どものころ、あれを見たとなれば、きっと心の傷になっているのだろう。

 だからアルシェは、必要以上の仕事をしたのだ。ムッシュやアンリに、同じ思いをしてほしくないから。

 ムッシュを見る。笑っていた。きっと同じところに行き着いたのだろう。スーリもやはり、笑っていた。

「俺も、気が回らんものだな。子どもの頃のいやな思い出を、また見せてしまうとは。本当に、すまないことをした」

「いえ。むしろ、忘れないようにしないとね。誰しも、なりうるっていうんだから」

 声は、明るかった。笑ったことで、つとめて保っていた荒れたものが、晴れたのかもしれない。

「誰もが目を逸らしたがるものから、目を逸らさないことも、汚れおれの仕事です」

 アルシェの仏頂面が、口元だけ綻んでいた。相変わらずの寝ぼけ眼のままで。

 不気味な男。はじめて会った時に、そう思った。眼が、何も語ってこない。何を考えているのか、わからない。

 それがわかったのは、本当に些細なことだった。

 ラウルさんはね、何も考えてないんです。そこが可愛いの。ふくろうとか木菟みみずくみたいだなって。それで一目惚れしちゃったんです。

 奥さんの惚気話だった。行きつけのビストロで鉢合わせて以来、家族付き合いになっていた。

 驚きと同時に、納得もした。捜査官として、目線や仕草から、何かを読み取ろうというのは、一種のである。何も考えていないことは、一番、わかりづらいのだ。

 汚れたもの。あるいは、人の闇。何も考えていないからこそ、それから目を逸らさずにいられる男。

 だからこそ、拷問や奸計など、極端な事ができる。正論を言うことができる。自分の意見を通したいとかではなく、必要だから、それを出しているだけ。別の手段でも、目的地にたどり着けさえすれば、それでいい。ある意味では、横着といってもいいものである。

 鋭敏であり、横着でもある。それはあるいは、至って普通のことなのかもしれない。

 その場は一度、解散とした。各自の準備に入った。アルシェは、アンリとペルグランのもとに向かわせた。

「そういえば、世間話だが」

 控室にて。ひとつだけ、シェラドゥルーガに確かめておきたいことがあった。些細な話である。

「アルシェをはじめて連れて行ったとき、ワインではなくウイスキーを出していたよな?何と言うか、匂いが強いやつ。ヨードとか、そういう匂いだったはずだ」

 それだけ、引っかかっていた。

 指定がない限り、シェラドゥルーガは、客人のもてなしにワインを用いる。ペルグランの時のように、それを使って、小馬鹿にしたりもする。

 それが、アルシェに限り、ウイスキーだった。それも独特な匂いのもの。ただ、アルシェも別段、気にする様子もなく、それを楽しんでいた。ボトルまで持ち帰らせていた。今日、アルシェが持ち込んでいたのも、その銘柄だった。

 アルシェが前職でシェラドゥルーガと接触済みだったのか。もはや壊滅した組織ではあるが、今後、何があるかともわからない。念の為、確認しておくにくはない。

「ああ、あれね」

 ひと笑いして、気が楽になったのだろう。いつもの不敵な笑みで返してきた。

「デュトワさんが大好きなお酒。はてさて、覚えているかなっていう、ちょっとした“悪戯いたずら”さ?」

 指を鳴らしながら。

 目を丸くしてしまった。

「グレロッホの十年。確かに臭いやつだ。麦を乾燥させるのに使う泥炭ピートに海藻が混ざってる。それで強烈な香りと味になるのさ。あれ、はまる人ははまるんだよねえ。ラウリィの顔を見て、懐かしくなってね。お利口さんだったから、ちゃあんと覚えていたようだったよ」

「それであれば、ひと安心だ。前職で接触していて、酒の好みを把握していたのかと思ったのでな」

 悪い。ご近所に勤めていた奉公坊主に対して、お久しぶりの挨拶代わりとして、やっていたのだ。

 なんとまあ、わかりづらいことをする。迷惑だと思った反面、胸のつかえも取れた。

 これで心置きなく、ことを成せる。

 ムッシュもまた、当時の装束を用意してきた。人を殺めるための、心の鎧。そして、そのための大剣を引っ提げて。

 その顔は、穏やかだった。そしてその瞳も。

「心優しいラポワントさま。そして、我が愛しき人」

 穏やかな言葉の後、表情は、毅然としたものとなった。

「私を託す。私が私でなくなってしまいそうになったら、やってくれ。ひと思いにどうか、お願いします」

 死を、託す。この化け物だからこそ、できること。

 以前に言っていた。自分は心の生き物。だからこそ、肉体の死で、死を迎えることはない。しかし、疲れはするとも。

 そして疲れはいずれ、心を蝕み、殺すとも。

 殺し続ければ、その豊かな心は、死ぬ。それがシェラドゥルーガとしての、死。それを託す。

 無理を託したのだ。応えねば、道理にも、これの愛にも反する。

「わかっている。そのための俺たちだ。何度でも殺す。お前のために、全力を尽くす。今までと、同じように」

「ま。旅路とは、帰り道があるものです。どうか、お気を楽に」

 ムッシュは、いつもどおりに朗らかだった。それが何より、嬉しかった。

 シェラドゥルーガ。近寄ってきた。頬を取られ、そこにベーゼをくれた。ムッシュにも、同様に。

 これが別れにならないように。それだけは、線を引きたかった。

 司法解剖室への廊下。その扉の前に、影がひとつ。

 差し込む夕日に照らされ、小柄な体は、燃え盛るように赤かった。

「どけ、アンリ」

 向こう傷の聖女、アンリエット・チオリエ。

「何人たりとも、ここは通しません。通せません」

「どけと言った。私が、どけと言ったんだぞ、アンリ」

「どきません。生命をながらえることを諦めることなんて、できません。だから、私はここを、絶対にどきません」

 眼が、決意に染まっていた。

 誰よりも頑迷だった。一度決めたことを、絶対に覆そうとしない。だからこそ、傷を負っても、人を救えた。

 シェラドゥルーガの美貌が、悲しみに歪んだ。

「私に、お前の傷を、増やさせるつもりか?あるいは鼻でも削がせるつもりか?頼むよ、私の可愛いアンリ」

「傷が増えようと、腕や足が飛んでいこうと、私はここを」

「どけと言ったのだ」

「どかないと言ったんだっ。シェラドゥルーガ」

 叫んだ。ほぼ同時だった。

 動揺が強かったのは、シェラドゥルーガの方だった。

「アンリ。お前が、お前までもが、その名で呼ぶのか?」

 奥歯の軋みが、こちらにまで聞こえるほどに。

「そうだ、シェラドゥルーガ。何度でも、呼んでやる。我こそはサントアンリ。己が望みでは非ざれど、力なきものたちにより、力なきものたちのために、生きて聖人として列せられしものなり」

 足を広げ、両手を広げ、じっとこちらを見据えている。小刻みに、確かに震え、脂汗を滴らせながら、それでもサントアンリは、炎の壁の如く、自分たちの前に立ちはだかっている。

 忿怒の形相を、その向こう傷を、ぎらつかせながら。

 シェラドゥルーガが、指を鳴らした。アンリが、思わずと言った感じで、顔を逸らした。

 戻したその顔の、あの向こう傷。僅かではあるが、血が滴り落ちてきていた。

 それでも、アンリはその場を動こうとしなかった。大声を聞きつけたであろうペルグランが、慌ててアンリを離そうとするが、一顧だにしない。ペルグランに、目で制した。

 もはや、止めようのない状況だった。

 そうして一歩ずつ、両手を広げながら、アンリはゆっくりと迫ってきた。シェラドゥルーガの、眼の前まで。

「課せられたもののため。我は聖なるものとして、汝の前に、恐ろしきシェラドゥルーガの前に立ちはだかる。サントアンリとして、そしてただひとりの、アンリエット・チオリエとして。あかき瞳のシェラドゥルーガの前に立ちはだかり、立ち向かう」

 決意の言葉。かすれた、それでも清らかな、サントアンリの声。

「これでひとつでも多く、生命が救えるのであれば」

 そこまで言って、大きく息を吸った。

「そのために。この傷と名を、負ったんだっ」

 咆哮。

 押された。この小さな娘に、押し切られた。ダンクルベールたちは、動くことすらできなかった。

 そんな中、シェラドゥルーガだけが、わなわなと体を震わせていた。

 苦悶と、悲憤の、形相で。

「この、くそたわけがっ」

 今度、叫んだのは、シェラドゥルーガだった。

 アンリの襟首を掴み上げ、床に叩きつけた。

 うめき声。立ちあがろうとして、また、這いつくばる。それを、何度も繰り返している。

「決めたことを、覆そうとするんじゃない」

 シェラドゥルーガ。腹の底から、絞り出すような声。

 つらいものを、見てしまった。つらいことを、させてしまった。人でなしに挑んでまで、人を救わせようとしてしまった。

 呼ぶべきではなかった。それだけ、悔やんだ。

 進もうとしたが、それはすぐに止まった。

 シェラドゥルーガの足に、アンリがしがみついていた。

「アンリ、もうおやめ」

「いやだ。行かせない。行かせるか、行かせるものか」

「アンリさん。どうか、どうかもう、これ以上は」

 ムッシュとペルグラン、ふたりで引き剥がそうとするが、アンリは必死の形相でしがみついていた。

 ああ。これが、これこそが、サントアンリなのだ。尽きゆく生命を前にして、絶対に諦めない。たとえ相手が、恐ろしき、あかき瞳のシェラドゥルーガだったとしても。

 見ていられないが、今は、見ていることしかできない。

「その手を離せ、愚かなるアンリエット・チオリエ。私に、お前を星にさせてくれるな」

 もはや悲しみが、一番前に出ていた。怒りも苦しみも悲しみも、全てを混ぜっこんだ、聞いていたくもない声だった。

「死んだって、離すものか、シェラドゥルーガ。そのために、私は生きているんだ。そのために、生きてきたんだ」

「私は、お前を」

「行くならば、殺せ。殺して、それでも離さぬ私の手を投げ捨てていくがいい。私のような虫けらのごときものぐらい、お前には容易いことだろう。さあ、やれ。やるがいい、シェラドゥルーガ。それでも私は、神たる父と、御使みつかいたるミュザに代わり、炎となって立ちはだかり続けるだろう」

 まるで聖句のような、その叫びが、決め手だった。

「言ったな?」

 シェラドゥルーガのあかい髪が、燃え盛るように広がった。怒りだ。本物の、化け物の怒りが燃え上がった。

 変わった。けものの目。人でなしの、目。

「よせ」

 ようやく。

 振りかぶりかけた手を掴み、ダンクルベールは静かに、それを制した。

 見ていられるのは、ここまでだった。

「駄目だ」

 つとめて穏やかに、ゆっくりと告げた。

 獣の目が、こちらを向く。しばらくじっと、見つめ合う。

 一度、手を離し、杖を握り込む。

 それを、アンリの体に打ち据えた。叫び。目の前の獣の目が、一瞬、びくりと跳ね上がった。怯え。もう一発。また、悲鳴が上がった。獣の目に、怯えがどっと、広がっていった。

 じわじわと、怒気が萎んでいくのを感じた。燃え盛っていたあかい髪が、熾火に変わっていく。

 残ったのは、泣きじゃくっているアンリだけだった。

「ペルグラン。アルシェの手が、空いている」

 それだけ伝えて、瞼を閉じた。音だけで、すぐにペルグランが、アンリを抱き起こして連れて行くのがわかった。

「我が、我が愛しき人。何故?」

「お前があれを殺すぐらいなら、俺がやる。俺のやったことなら、俺が責任を取れる」

 声は、すっと出た。瞼も、開けることができた。

 全員が納得できる答えを出すことなど、できない。それでも、納得させたかった。

 それができなかった責任は、取る。

 シェラドゥルーガは、震えて小さくなっていた。ゆっくりと、怯えた目で、ダンクルベールの頬に両の掌を添えてきた。今にも泣き出しそうな、表情だった。

「ああ、ああ。私はお前に、あれを傷つけさせたのか?あの、私たちの可愛いアンリを、お前に傷つけさせたのか?」

「今は考えるな。心を、乱すな」

 しなだれかかるように、胸の中に入ってきた。抱いてやる。時折、伺うように向けてくる目が、懇願の色に染まっている。体がまだ、震えている。それが、収まるまでは。

 互いにとって、そして誰にとっても。あれの決意や使命を邪魔することなど、許されていない。だからこそ、ダンクルベールがやるべきだった。

「行きましょう。さっさと終わらせて、そして皆で、アンリに詫びに行きましょう」

 ムッシュは、つとめて平静だった。

 司法解剖室。

「坊や。わたしの可愛い、坊や」

 母親は、解剖台に腰掛けていた。

 自分たちを認めるなり、優しく声を掛けてきた。表情も、温かかった。

 きっと今まで、そういう顔だったのだろう。

「そうだよ。かあちゃん」

 ロリオの声だった。いつもの、ちょっとした“悪戯いたずら”だ。

「どうしたんだい?そんなに泣いて」

「ちょっとだけ、つらいことがあったんだ。でも、大丈夫」

「そうかい。それはよかった。お前は泣き虫だからねぇ」

「そうだね。かあちゃん。さあ、もう夜だ。寝る時間だよ」

「おや、もうそんな時間だったかね」

「そうだよ。明日は晴れるみたいだ。そろそろ芋掘りをしなくっちゃね。そうしてまた、人参とか腸詰とかと一緒に、煮てくれよ。俺、かあちゃんのポトフ、大好きなんだ」

「そうだよね。お前は、あればっかり食べるから」

「そうだね。おかげで、こんなに大きくなった。かあちゃんのおかげだ。ありがとう、かあちゃん」

 の手が、母親の体を抱く。ゆっくり、それを横たえた。

 穏やかな光景だった。いつも、こうあってほしいと思う姿だった。

「じゃあ、また明日。かあちゃん、おやすみなさい」

「おやすみなさい。どうか、いい夢を見るんだよ」

 錯乱していたはずの老婆の声は、どこまでも、優しかった。横たわった母親の目を、がゆっくりと閉じた。

 ひとつの生命が、終わっていく。

 そのうちに、シェラドゥルーガの体が、痛みを堪えるかのように、わなわなと震えはじめた。何かを察して、影ひとつ、横たわる老婆の亡骸に駆け寄った。

「スーリ君、早く」

「用意できてる、夫人。もうゲロって大丈夫だ」

 スーリが、老婆を抱き抱えて消えてゆく。それとほぼ、同時だった。

 くずおれる。もがき、苦しみはじめた。目を大きく開き、ただ狂ったように叫びはじめた。指を口の中に突っ込んで、何かを吐き出そうとしているが、嗚咽ばかりで、何も出てこない。髪をかきむしり、突き出した舌で、喉が詰まりそうになっている。あるいは自分の首を、自分の両手で、締め付けながら、それでも悲鳴を上げ続けた。

 はじまった。母親が巨大な嵐となって、あの中で暴れ回っている。

「我が愛しき人、ああ、我が愛しき人」

 声に思わず、杖を投げ捨てて駆け寄っていた。

 抱きとめる。目の焦点があっていない。表情に、恐怖だけが張り付いている。涙を流したくても、流せないような、震える目。

「どこだ?そこにいるのか、我が愛しき人?忘れてしまう。いやだ、忘れられたくない。ああ、頼む。六発全部、撃ってくれ。これに、耐えられない。助けて、ねえ。お願い」

 わかった、と叫び、パーカッション・リボルバーを引き抜いた。口の中に、銃口を突っ込む。

 破裂。豊満で、彫刻のように美しい肢体が、弓なりに仰け反った。ダンクルベールは立ち上がりながら、もう二発撃った。それでも、苦しみに叫びながら、ただ自分の名を叫び続けている。

「ねえ、どこなの?早く、お願い。ああ、リュシアン、愛してるの。だからお願い。わたくしを忘れないで。リュシアン、もう貴方と離れたくない、わたくし。もういやよ、もう。寂しいの」

 口調が、ボドリエール夫人にまで戻ってしまっている。シェラドゥルーガでは、なくなっている。

 早く、早くしなければ。何者ですらなくなってしまうのかもしれない。

 爆音。閃光。轟音。撃ち切った。それでも、人の姿を保ちながら、人でなしですら、なくなりつつある。床を転げ回りながら、泣き叫んでいる。

 換えの弾倉。もうふたつ、持ってきていた。撃鉄を起こし、引き金を引く。その度に、女の肢体が跳ね上がる。悲鳴と、懇願。すべて打ち切っても、止まる気配がない。

 断末魔。耳が、痛くなってきた。

 杖を拾う。鉄心入り。何度も、本気で叩きつけた。何度か頭がなくなって、それでも何処かから、それが生えてきた。立ち上がった。よろめきながら、何も見えていないように、うろつき回る。壁に、叩きつける。殴りつけ、杖をぶっつけ、それでも叫びだけが、止まらない。

「ダンクルベールさま。ああ、ダンクルベールさま。どこなの?助けて」

 あの頃の声。吹き荒ぶ嵐を前に、それでも、疲れが先に来た。左足が、悲鳴を上げはじめる。

「駄目だ。ムッシュも、頼む」

「相分かった。夫人、痛むぞ」

 ムッシュが、でくのぼうとなった自分の体を押し退けて前に出た。処刑人の時と同じ、朗々と、そして毅然と響く声。

 携えた大剣を振りかぶって、ぶっつけた。壁に一度弾んでから、跪く形になったところを、一呼吸、一気に振り下ろす。

 無音。

 首が静かに、床に落ちた。

 遅れて、血が舞った。それでも動こうとする体を蹴って、仰向けに転がした。

 大剣を放り捨て、それに馬乗りになってから、胸元から取り出した短剣で、心の臓を狙って振り下ろす。音すらない、鮮やかな手並みだった。また、頭が生えてきたので、それを押さえつけ、頸動脈。何度も、血飛沫が上がる。心臓を、喉首を、あるいは、両の目を。淡々と、無表情で殺し続ける。刃が風を斬る音や、肉を割く音は、一切聞こえない。あるいは、悲鳴すらも。見惚れるほどだった。

 ムッシュ・ラポワントだ。

 戻ってきた。いや、戻してしまった。豊かな心を押し殺し、ただ、人を殺め続けた男に。

 そのうち、動かなくなった。ムッシュとふたり、血だらけで、汗だくになって。肩で息をしながら、一旦距離を取った。

 ムッシュの目を見た。ちゃんと、光がある。それに気付いたのか、向こうもこっちを見つめてきた。大丈夫です。そう、目から聞こえた気がした。

 もうふたりとも、万策尽きていた。

 しばらくして、それはゆっくりと、起き上がった。へたり込んで、やはり大きく目を開きながら、それでも、目の焦点が戻ってきている。肩が大きく上下し、震えながら。

 しかしその姿には、自我を感じた。

「ああ、ああ。ようやく、我が愛しき人。ようやく」

 戻ってきた。戻ってきてくれた。

 ゆっくりと、怯えた目で、それでもシェラドゥルーガは、シェラドゥルーガの声で、こちらに顔を向けた。血だらけの、誰よりも美しい顔を。

「終わったか。終わったんだよな」

「ああ。終わった。顔を、見せてくれ。覚えているか、確かめさせて」

 ダンクルベールが近づくと、シェラドゥルーガは震える両手を差し出してきた。それを取り、自分の頬に添えてやる。

「ああ、リュシアン。リュシアンだ。よかった」

「ありがとう。そして、おかえり」

 そうして、しばらくすると、表情に安堵が戻ってきた。息も、整ってきた。疲れ切ったように、重そうな瞼を閉じた。

「膨大な、虚無だ。見果てぬ虚空だった。私はこんな恐ろしいものを、人の心からは見出したことがない。あれはすべて、すべて忘れ去っていた。過去も、家族も、自分自身すらも」

 嵐がひとつ、過ぎ去ったのだろう。叫んで枯れた喉で、それでも、穏やかで静かな声で、言葉を綴っていた。

「ムッシュ。なにか、飲み物があれば。できれば、少し温かいものを」

 相分かった。そう言って、ムッシュが静かに、部屋から出て行った。

 へたり込んだシェラドゥルーガを、一度抱きかかえ、壁の方に向かった。血の海の中、並んで、床に座った。

 シェラドゥルーガの頭が、ダンクルベールの胸にもたれかかってきた。腕を回して、頭を撫でてやった。

「つらい思いをさせた。お前にも、そして、皆にも」

 それで、また少し、落ち着いたようだった。

「強いひとだった」

 ぽつりと、シェラドゥルーガがつぶやいた。

「ずっと抗い続けていた。忘れることを。忘れ去られることを。ずっと、ずっと長い間。一番、苦しんでいたんだ」

 その嘆きが、その叫びが、あの衝動的な嵐だったのだろう。そう思うと、理解できたし、また、悲しくなった。

 あんたたち。奪いにきたんだろ。うちには何もないんだよ。あんたたちが全部、持っていったじゃないか。

 老婆の叫びが、何を言いたかったのか、理解できた。

「心を蝕まれることが、どれほどつらいことか、知っていたつもりだった。つもりになっていただけだった。あれには、私は耐えられない。自分自身を、忘れるなんて」

「おっかさんは、お前の中で、どうなった」

「消えた。私の中の、他の生命に押し潰されて。その消えていく様が、あの断末魔だ。私の中で蕩けていくうちに、私を飲み込んでいった。自我の崩壊、忘却、そして虚無。耐えられなかった。痛みが、紛らわせた。塗りつぶしてくれた」

「つらいよな。忘れることも、忘れ去られることも」

 言葉を選んだ、つもりだった。

 もしかしたら、自分も、周りの人も、ああなるのかもしれない。恐怖だった。自分は尊厳を柱に生きてきた。それが崩れても生きなければならないなど、認めたくないし、そして何より、そんな姿を人にさらすことなど、考えたくもない。そうなったら、拳銃でも使って自害するだろう。そのときに、握っているそれを何に使うのか、覚えていられているかは、わからないが。

「鞄に、穴が空いていたの」

 ふと、今自分が抱いているそれが、何か、変わったような気がした。

「だから、こぼれ続けていく。でも、何を入れていたのかも、覚えていない」

 それはたしかに、シェラドゥルーガの声だった。しかし、違った。ボドリエール夫人でも、シェラドゥルーガでもない、誰かの、声。

「ねえ。神さま、お願い。夜だけでも、返して欲しいの。眠るためだけの、夜を」

 誰のかも知らない、誰かの、ぽつりとした、悲しみ。

「シェラドゥルーガ?」

 問いかけに、はっとした表情でこちらを見上げた。また、目の中に恐れと不安が広がりはじめた。体が、また震える。

「今のは、何?我が愛しき人。私?」

 わからなかった。ダンクルベールは、ただ、首を横に振ることしかできなかった。

 しばらく、震えるシェラドゥルーガを抱いていた。燃えるようなあかい髪。咲き誇るような、黒とあかのドレス。それでも、彼女の体は、恐れにまみれ、冷たかった。

「お待たせしました。ホットチョコレートを、どうぞ」

 ムッシュが入ってきた。着るものは、見慣れた簡素な医務服に変わっていた。流石に、あの血塗れの姿のままではいられなかったのだろう。むせかえるような血の匂いの中、それでも、その優しい香りと、暖かさが伝わってきた。

「ムッシュ、ありがとう。何度も殺してくれたおかげで、だいぶ楽になったよ。本当に、旅立ちを任せて、よかった」

 まずは、湯で清めたのであろう温かい拭きものを、それぞれに手渡してくれた。それで、顔や手を、拭った。真っ白だったそれは、すぐに血でどろどろになった。

 その後に、ホットチョコレート。器が、温かかった。少し口にして、ようやくすべてが終わったのだと、実感できた。

「ああ、染みる。温かい。生きてるのって、幸せだなぁ」

 すこし鼻声だが、穏やかな声で、シェラドゥルーガが漏らした。言葉通り、幸せそうで、穏やかな表情だった。

「やはり夫人でも、どうにもなりませんでしたか」

「どうにもなりませんでしたな。二度とごめんだ」

「あの病は、自分だけでなく、周りの環境すらも滅ぼす。それを貴女は取り込んだ。ああなりも、するはずでしょうな。心の嵐と、虚無。替われるならば、替わりたかった」

「病人を断頭台に乗せるのは、医者にも処刑人にも、その資格はなかろうさ。皆にこんな思いを、させたくないしね」

「生命を奪う権利は、誰にもない。アンリエットが、一番正しかったな。ひどいことを、してしまった」

 アンリにも、そして、アルシェにも。

 ペルグランが、何枚かの温めた布と、着替えを持ってきてくれた。ムッシュが着ているものと同じ医務服。ふたりとも、その場で身を清め、着替えた。

 美しい裸体。何度か見ていた。その時は心のなかに、疑いや敵意があった。それがない今は、綺麗なものとして、それを見ることができた。

 それを今、何度も汚し、壊し、殺した。それを今まで、これ以外にも。拭っても取れない、血の臭い。

 それとともに、歩んできた道だった。

 別棟の入口で、ロリオ夫妻と、ビゴーとガブリエリがいた。母親の亡骸は、先に馬車に入れたようだった。

「ありがとうございました。これで、母も、俺たちも」

 一礼の後。そこまで、ロリオが言ったぐらいだった。

「かあちゃん?」

 ロリオが、シェラドゥルーガに対して。

「かあちゃん。どこいってたんだよ、かあちゃん。俺、ずっと探してたのに、どこ、ほっつき歩いてたんだよ」

「ロリオ?どうした」

 震えながら、ロリオは、涙を流していた。

「かあちゃん。さみしいよう、かあちゃん。俺、ひとりぼっちだったんだよ。かあちゃんを、ひとりぼっちに、しちまったんだよ。なあ、かあちゃん。ごめんよう、かあちゃん。なあ、許してくれよう、かあちゃん」

「しっかりしなさい。しっかりすると、応えたじゃないか」

「かあちゃんがいなくなったら、どうすれば、どうすればいいんだよ。どうすればいいのか、わからないよう。なあ」

「連れて行きます。ロリオ伍長、しっかりしなさい」

 ビゴーとガブリエリが、泣き叫ぶロリオを抱えるようにして連れ出した。呆然としていた奥さまを、ペルグランが送ってくれた。

 シェラドゥルーガは、震えていた。

「まさか、“悪戯いたずら”をしたのか?おもかげを、見せたのか」

「見せてない。私は、なにも」

 かぶりを振るばかり。怯えて、がたがたと。

 肩を、掴んだ。母親を喰らったときと同じような、瞳。

 戻ってきたのか、虚無が。

「虚無にも、おもかげがあるのか?さっきみたいに、それが出てきたのか?」

「わからないよ。もう、何もわからない」

 力が、抜けた。

 抱きとめていた。ぐったりとした、美しい肉体。腕の中で、浅い呼吸でいた。

「もう、疲れたよ。我が愛しき人」

 それだけ言って、目を閉じてしまった。


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呼ぶ声が、響きとして伝わる

内側から眺める、水面のゆらめき

大きなものが、揺蕩うようにして

雲のように、それは過ぎていった


あれは確か、鯨と呼ばれるもの

あのひとの瞳の中にも

それは住んでいるのだろうか

あの海の、どこか深くに

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5.


 目が覚めた。しばらく、眠っていたようだった。

 医務室に寝かされていた。身は一度、清めていたが、あらためて清めたうえで、厚手の病衣に変えてくれたようだった。

 燃え広がるような、あかく波打っていた美しい髪は、ぺたんとしぼんでいた。それほどまで、体力を持っていかれたのだろう。

 そばにペルグランが控えていて、目覚めたことに気がつくと、いくらか体調を心配するようなことを言ってくれて、温かいものを用意してくれた。

 口にすると、よく飲んでいる味がした。顔を見ると、してやったり、といった顔で笑っていた。どうやらあの時の味を見破られてしまったようだ。思わずこちらも笑ってしまった。

 煮沸してから、少し冷ました湯に、蜂蜜をほんの少しだけ溶かし込んだもの。寒くなると、よく飲む。心の底から、じんわりと温かくなる。

 あまり上品なものではないから、自分だけの楽しみというか、秘密のようなものだった。あの日は横着をしてしまい、同じものを出してしまったのだった。

 少しして、食事も運ばれてきた。兵隊用のものですみませんが、と詫びられたが、思った以上に美味そうだった。

 黒いものがちょっと多くて、噛み応えのあるパンは、赤茄子とか根菜とかを煮込んだスープに浸すと、香りも甘みもちょうど良くなった。真っ白いパンを好む人も多いが、黒いものがいくらか入っているほうが栄養価が高いし、雑味があって味が豊かになる。舌が肥えてくると、むしろ小麦の質が気になってしまうので、いくらか黒いのを混ぜたほうが、楽しんで食事ができる。

 どれでもそうだが、上品で、突き詰めたものよりも、素朴で、どこにでもあるようなものの方が、嬉しいものだった。

 そのスープも、味わってみると、いろんな種類の内臓肉をしっかり処理したものがいっぱい入っていて、滋味に富んでいて、見た目より優しい。

 警察隊本部名物の“内蔵料理”というやつらしい。確かに、根菜も赤茄子トマトも、家畜のはらわただって、安く買える。大人数の男どもに食べさせるには、ちょうどいい。はらわたは、処理に気を使うが、それさえこなせば結構美味いし、腸詰なんかに使えるので、応用が効く。

 チーズは新しいもので、個性はないが、どれと合わせても相手をうまく引き立てる。豚肉のリエットはバジルが効いていて、パンがいくらあっても足りないぐらいだ。物足りないのは、ワインぐらいか。糧食用のテーブルワインだろうから、そこにいちいち、けちをつけるのも不躾だろう。

「それ、牛蒡ごぼうとかいうやつです。木の根っこみたいな野菜」

 きっと顔に出ていたのだろう。ペルグランが、声を出してきた。

「こっちだと、婆羅門参ばらもんじんとかが近いのかな。瑞薬ずいやくとしては、干したものを煎じたり、粉にするみたいですが、夷波唐府いはとうぶでは普段から、煮て食べるんですって。おくまさんが市場で見つけて、滋養強壮に効果ありっていうんで、今回だけ仕入れたみたいです。俺は結構好きですが、人によっては、本当に、木の根っこにしか思えないみたいで」

「ペルグラン君」

 それの中にいた違和感。ペルグランの言葉を、あえて遮ってみた。

 目を見る。向こうは、緊張が膨れてきている。

「私もこれ、好き」

 微笑んでみせた。安心したのか、向こうも笑った。

 土っぽい何かがいた。

 しなびた、木の根のようなもの。じんわりと、優しい味がした。雑多に放り込まれた具材の一番後ろで、それを淡い色で取りまとめている。

 牛蒡ごぼうか。いいことを、教わった。

 美味しくって、具を食べ終わった後の汁を、匙で飲むのが面倒になって、器ごと煽って空にした。行儀は悪いが、出されたものを全部食べるのは、感謝の示し方としては、一番手っ取り早い。

 ひととおりを腹の中に仕舞い込むと、ペルグランがおかわりは、と聞いてきたので、感謝を述べてから断った。淑女に向かっておかわりを尋ねるなんぞ、とは思うだろうが、向こうもこちらの健啖家ぶりをよく知っているので、念のため確認したのだろう。

 少しすると、また蜂蜜を溶かした湯を持ってきてくれた。二人で、ゆっくりと温まる。

 そういえば、これの母親にも教えたような気がする。確認したところ、確かにその通りだった。子どもの頃に、よく飲んでいたのを、思い出したそうだ。

「お疲れ様でした、夫人」

「そうだね。でも、なんとか終わった」

「ご迷惑をおかけしました。いち兵士の、家庭の事情を」

「いいんだ。これはね。どうしても、難しいことだから」

 頭を下げようとするペルグランを、目で制した。

「ご母堂ぼどうは、お元気かい?」

「はい。実は、やってはいけないことを、してしまって」

 ペルグランが、おずおずと、小声になっていった。

「母に、伝えてしまいました。夫人が生きておられると」

「ほう?機密情報漏洩だ。大目玉だぞ」

「そうですね。でも、泣いて喜んでました。あの人は罪を犯したけれど、作品には罪はないから、私たちで守っていく。そう伝えて欲しいと、承ってます」

「そうか。やっぱり、あのこたちだったか」

 ボドリエール著作保護基金。

 自分が世間的に死んだ後でも、パトリシア・ドゥ・ボドリエールの著作は、市場に流通し続けている。

 ガンズビュールのあの屋敷で、色々と交流を重ねた人々の中には、僅かながらも、今でも自分を慕ってくれている人がいた。そういう人たちが、資金を出し合って、途切れないように、版権や原稿、活版の金型なんかを守ってくれているらしい。七面倒くさい各言語の翻訳権なんかも管理してくれているそうだ。

 ペルグランの母親は、猛烈な“追っかけ”のひとりだった。今頃はきっと、その中心にいるのだろう。

 書くものを用意してもらい、伝えたかったことと、ボドリエール夫人のサインを走らせて、ペルグランに渡した。

「ここに綴った通りになるが、どうか、ご母堂ぼどうにお伝えあれ。これからも、ありがとう。星になったら、また皆で、自作の詩のお披露目会をやりましょう。我が親愛なる友人、黒髪くろかみのジョゼフィーヌ。そして心から、もう一度、ありがとう。そして、愛している、と」

「承りました。ありがとうございます」

 にこやかに、敬礼をしてくれた。顔つきも、しっかりとしてきた。いい男になっているじゃないか。それでもちょっとだけ、寂しくなった。

 はじめて会ったとき、懐かしさがあった。きっと、あのこの子どもかもしれない。心が、弾んでいた。名を聞いて、飛び上がりそうになったのを、懸命にこらえていた。それぐらい、顔つきも仕草も、そっくりだった。からかったときの反応だって、まったく同じといっていいぐらい。

 可愛いジョゼ。いつだって、熱っぽく語ってくれた。格好だって真似してくれた。

 だからペルグラン家に嫁ぐとなって、嬉しさの反面、悲しさもあった。

 ペルグラン家とは、ニコラ・ペルグランの名を繋ぐためだけの家。あの頃から、そう言われていたから。

 それでも、こんなに可愛らしく、立派な男を育てた。それだけを己に課して、嫁いでいった。それがもうじき、叶う。それも同期の女の子でも、可愛いアンリでもなく、遊女上がりの姉さん女房。ジョゼのことだ。舞い上がるだろうなあ。そういうの、大好きだったから。

 でも、生意気な女なんだろうな。新婚さんを邪魔するのも悪いし、たまに会うぐらいにしておこう。嫁いびりも、やってみたいものだしね。

 心より、おめでとう。我が愛しきジョゼフィーヌ。そして、私たちの可愛いジャン=ジャック。

 明日の朝、迎えに来るらしい。今日は、すまないがここで一泊して欲しいとのことだった。簡素な医務室だったが、掛け布団はふかふかだった。それは、何よりも嬉しいことだ。

 どこでも眠ることはできるが、ふかふかで、温かい寝どこほど、ありがたいことはない。眠る時ぐらい、温かいものに包まれていたい。凍えながら眠るのは、やっぱりつらい。

 二十時。常駐の憲兵諸君はともかくとして、自分にとっては、まだ眠るのには早い時間だ。厠所トイレにいくという理由で、可能な限りの散策をしてみよう。見回りの憲兵や、居残りで仕事をしているものも幾らかいるが、気配は消せる。

 警察隊本部は中隊程度と聞いていたが、いろんな庁舎から出入りしているのも多いのだろう、祝日なのに、人が多く感じた。

 玄関に、誰かが座っていた。雪は降っていないが、まだまだ寒い。そんな中、ぼうっと座って、空を眺めていた。

 夜空を眺めて、星と語り合う娘がいることは、ダンクルベールから聞いていた。

 まだペルグランが残っていたようなので、何か肩に掛けれるようなものをふたつ、それと、とにかく温かい飲み物もふたつ、頼んだ。手際よく、用意してくれた。柔らかい色をした羊毛の肌掛けを二枚、肩に回す。トレーに乗せたホットチョコレートをこぼさないよう注意して、外に出た。

 冬の星は綺麗だった。確かに、話しかけたくなるほどに。

「まだ痛むかい?アンリ」

 星と語り合うアンリの隣に腰掛け、ホットチョコレートを手渡した。にこやかに、受け取ってくれた。

「大丈夫。お二方ともに、手心をいただきましたので」

 よかった、と答え、トレーを置いて、その小さな体に、もうひとつの肌掛けを回してやった。やはり寒かったのだろう。それぞれの暖かさに、その可愛らしい白い頬が、僅かにふやけたように見えた。

 アンリと話すのは、はじめてではない。

 そういう娘が中央に来たと聞いた時、脅かしに行った。心を暴き、信仰の嘘をつついても、震えながらも、凛とした目で、何も言わずに見つめ返してきた。

 それで、気に入った。

 基本的には、文通だった。語彙ごいつたないが、丸っこくて可愛らしい字だった。それを、便箋いっぱいに、詰め込んできた。いままでのこと。趣味のこと。気になること。何より、いかに自分が熱心なボドリエール・ファンであることを。

 愛くるしかった。だからアンリとの文通に使うものだけは、気合を入れて揃えた。封筒も便箋も、上質で、彼女の使うものより、ちょっとだけ、年上のお姉さんな選び方をして。送るときには必ず、お気に入りの香水をひとたらし。インクも、いろんな銘柄のものを調合して、今の自分のシンボルカラーとしていたあかがほんのり滲むぐらいの、深い闇の色。

 文末のサインは、その都度、変える。世間話にはボドリエール夫人。生き死にや、信仰の話にはシェラドゥルーガを。

 たまに、贈り物もする。香水、化粧品、髪飾り、それと、ちょっとした小物なんかを。

 服を贈ったことも、何度かある。休みぐらいは、おしゃれをしてお出かけしなさいな、と。遊ぶことも、信仰を確かめるには、いい寄り道だよ、と。

 全部、送り返された。それも、とんでもない量の便箋が詰め込まれた封筒と一緒に。

 まずはご厚意と、この可愛らしい贈り物について、心から感謝を申し上げます。けれども、私は神さまと御使さま、そして星になりかけている人たちに、この生涯を捧げると決めましたので、これ以外を着ることを自分に許してはおりません。ですので、本当に申し訳ありませんが云々と、感謝と謝罪と服の感想が延々と繰り返された内容である。

 その、送り返されたものたちに、何度か袖を通してくれているのは、すぐにわかった。きっと舞い上がって袖を通して、ひと通りの小物と合わせてみたり、化粧をしてみたりしてから姿見の前に立っているのだろう。あるいは、一度二度、くるっと回ってみたりして。匂いを嗅ぐと、贈った香水や、化粧品、そしてアンリの香りが残っている。

 それだけで、ワインを何本か、空にした。今でも大切にとっておいている、お気に入りのご馳走である。一度、服を嗅ぎながら酒を煽っているところを、アポ無しで訪ねてきたダンクルベールに見られて、お互い、気まずい思いをしたこともあった。

「夫人。我が無礼を、お許しください」

 ふと俯いて、アンリが詫びを漏らした。

「いいさ。私こそ、詫びるべきことは多い。お互い、やるべきことに必死だった。そういうことにしよう」

「そうですね。ご厚意を、感謝いたします」

「立派だったよ。あれこそが、皆が祈りを捧げる、向こう傷の聖女、サントアンリの姿だったのだね」

 いつからか、人々はこの娘を、聖人と呼んでいた。

 戦火、硝煙、陰謀、悪意。その中で、血と汗と泥と、そして己の涙に塗れながら、かけずり回った。敵も味方もない。目の前で人が死ぬのが、何より恐ろしいと、お星さまになんか、させたくないと、自分だけの戦いを続けた、ただひとりのアンリエット・チオリエ。

 人々はその姿に救いを求め、祈るために両手を組んだ。お救いください。お助けください、サントアンリさま。

 だが、彼女はそれすらも望まなかった。

 祈るための両手があるなら、傷にあてがえ。聖句を唱えるな。愛する人の名を叫んで、生きるために抗え。汚くたっていい。逃げ出したっていい。ただ生きて。死なないでくれ。

 救いの聖人である彼女は同時に、怒りの聖人でもあった。

 包帯がなくなれば、自分が着ているものを引き裂いて、煮沸仕立ての湯に両手ごと突っ込んで、清めた。食べる力を失ったものには、どんな醜男しこおだろうと、よく噛んだめしを口移しで流し込んだ。ものを徴発しようとした軍人にすら食ってかかり、そして、この向こう傷をもらうことになった。

 我が前に立ちはだかったのは、確かに聖人だった。御使みつかいたるミュザより炎の冠を賜った、燃え盛る怒りだった。救いの聖人。恐ろしき、怒りの聖人。そして、ただひとりのアンリエット・チオリエ。

 あの時、この小さな体で両手を広げ、脂汗を流しながら、震える声で立ちはだかったその姿の後ろに、大勢の人の姿が見えたような気がした。

 課せられたもののため、我は聖なるものとして、恐ろしきなんじの前に立ちはだかる。れっせられしものとして、そしてただひとりのアンリエット・チオリエとして、生命せいめいを脅かす汝に対し、立ち向かう。たとえ、この身が朽ち果てようと。炎となって立ちはだかり続けるであろう。

 そのために、この傷と名を、負ったのだから。

 あれはまさに聖句だ。新しい信仰の誕生だった。生命を賛美し、信愛し、しかしそれを投げ出すことだけは絶対に否定する。強い、強い人の心の力。人々の、生命の力。

 久しぶりに、竦み上がった。本気でやらなければ、この暖かい光に焼かれる。そこまで、追い詰められていた。

 そんな恐ろしき、聖なるアンリエットは今、温かい器を両手で包み込みながら、ぼんやりと空を眺めていた。

「かっこよかったよ、アンリ」

「やったあ」

 寒空と、温かいものにふやかされ、可憐な顔がにこりと笑った。それが何よりも、心を温めてくれた。

 しばらくそうして、星を眺めていた。

「アンリは、鯨を知っているかい?」

 不意に、尋ねてみたくなった。

「ええと、あの。魚のすごい、大きいような生き物の。あの鯨のことでしょうか?」

「そう。それだ。あの、でっかいやつ」

 星空を眺めているうちに、それを思い出していた。

 アンリにならきっと、受け止めて貰えると思った。だから、尋ねた。

「人は死んだら、星になる。じゃあ、鯨が死んだら、何になると思う?」

 その言葉に、アンリは、ぽかんと口を開けていた。

「わからないです。想像したことも、なかった」

 きっと、そうだろう。

 信仰とは、人の生き死にに理由をつけるために生まれたもの。人でないものの生き死にに理由をつけるものは、おそらくは少ない。あったとしても、人のために生き、人の暮らしのために死ぬ。その程度のもの。それぞれの死の先が、どういうかたちになっているかまでは、考えてはいないだろうから。

 そしてそれを、否定するつもりも、馬鹿にするつもりもない。

 ただ一度、それを見たことがある。それだけの話だった。

「鯨は死んだら、世界になるんだよ」

 懐かしさと共に、言葉が出てきた。

 大昔のこと。今、共に暮らしている人々が産まれるよりも、ずっと前のこと。

 眺めた海面に、鯨の骸が浮かんでいた。そしてその巨大な塊を、海鳥とか鮫とかが、啄んでいるのが見えた。

 生き物が死ぬと、それを別の生き物が食べる。大きな生き物の死体を、小さな生き物たちが、小さな生き物の死体を、より小さな。そうやってどんどん、目に見えないほど小さな生き物たちにまで、その流れは繋がっていく。それは既に、知識としては知っていた。

 それでも、わからなかった。あれほどの大きな生き物が食い尽くされるまで、どれほどの時間を要するのだろう。漠然とした疑問だった。あるいは自分なら、どれぐらいの時間であれを消費できるのだろうか。

 時間がある時に、眺めに言った。啄まれた肉の奥から、骨とかはらわたとかが見えはじめて、それでも、浮いていた。

 いつだったか、それが忽然と消えていた。

 食い尽くされたのだろうか。それでも、以前に見たときはまだ、山程に肉の塊があったはず。もしくは、沈んだのだろうか。気になって、海に潜ってみた。

 深い海。見つからない。青い色が、黒い色に変わっても。もっと、もっと深いところ。そのいちばん奥の、暗闇の奥底。真っ白な、砂の平原があった。

 それはそこに、横たわっていた。

 すごい景色だった。神秘的、いや、宗教的体験と言ってもいい。あの巨大な体のうちにあった、巨大な骨を天球として、その中に、山ほどの数の、山ほどの種類の生き物たちが暮らしていた。

 沢山の貝。光り輝く海月。虫のようなものたち。よくわからない、蚯蚓みみずのようなもの。土筆つくしとか、そういうかたちの、それでも確かに生きている何か。

 魚や烏賊いかとかは、たまに来て、そこにいる生き物をいくらか食べて、そして、通り過ぎていくだけだった。

 ひとつの世界だった。鯨は死んだら、世界になる。生き物たちは、その中で食べ物を探し、営みをして、増えては減って。でも、外に出ようとしない。

 その天球の外から、眺め続けていた。飽きもせず、眠りもせず。それぐらい、綺麗だった。

 だがそのうちに、生き物たちがいなくなっていった。食い尽くされて、滅びるもの。居場所がなくなって、追いやられるもの。興味がなくなって、出ていくもの。

 残ったのは、やせ細った骨だけだった。それもそのうち、ゆっくりと崩れて、水の流れの中で、どんどんと、砂の一粒になっていった。そうやって最後には、何も、なくなった。

 それがそうなるまで、ずっと、眺めていた。

「鯨は死んだら、世界になる。そこに沢山の生命が育まれ、旅立っていき、そして丸ごと、消えていく。そして思った。それは人も、同じなんじゃないかって」

「星ではなく、世界になるのですか?」

「うん。その中で思い出が生まれ、物語が生まれ、そして、忘れ去られていく。それが本当の、人の、そしてすべての生命の、死のかたちなんじゃないかな。私はあれを見て、そう思ったんだ」

 アンリが、難しそうな顔をした。

 真実と事実は別のもの。そして、真実は単一ではない。人が、生き物たちが生きていく中で、それぞれの真実を見出していくから。

 信じてもらえなくても、受け入れてもらえなくてもいい。それが唯一、見ることのできた、死の先の、かたち。

「夫人が仰る通りであれば、私たちが生まれては死んでいき、そのうちに、神たる父は、そして私たちは。砂の一粒となって、忘れ去られるのでしょうか?私は、それが」

 目を合わせてきたアンリ。その表情が、変わった。

「夫人?」

 悲しみか、困惑か。あるいは別の。

 アンリの手が。白く、ぼろぼろの手が、頬に伸びてきた。

「どうなされたのですか、夫人?」

「どうしたんだい、アンリ。私が、どうか」

 視界が、霞んでいる。アンリの顔が、よく、見えない。

 どうしたんだろう。何が、起きたのだろう。

「お涙が、お涙がこぼれております。夫人。どうなされたのですか?私も、もう」

 そこまでだった。

 しがみついていた。アンリも、しがみついてきた。そうしてふたり、声にもならないものをあげ続けた。

 こみ上げてくるもの。流しても、流し続けても、止まらなかった。

「アンリ。ああ、私の可愛いアンリ。こわいよ。こわくてたまらないよ。私もああやって、忘れていくのか?そして、忘れ去られていくのか?お前に。あの愛しき人に。そして、自分自身に?」

「夫人。私も、恐ろしゅうございます。もう、忘れてしまったものもあるのです。どこに置いてきたのかも、思い出せなくなっている。救えなかった誰かを、あるいは私自身の何かを。夫人、どうかおゆるしください。神さま、御使みつかいさま、ああ、どうか、おゆるしください」

「私も、ゆるされたい。誰かに、ゆるしてほしい。それほど、こんなに恐ろしい思いをしたことはない」

「夫人。私は、いやです。人は死んだら、星になってほしい。世界になってしまっては、その外側にいる私たちは、それを見ることができない。訪れることが、できない。海の底にまで潜らない限り、それができないなんて」

 ふたり、涙に塗れながら、空を眺めた。

 美しい星空。これが誰かの世界の内側。あまりにも美しく、そして何よりも、恐ろしく感じた。

 これがいつか、消える。いつしか、忘れて、忘れ去られて、無くなってしまう。

 この世界は、死した鯨たちの見る夢。そしてあの星たちは、また別の夢なのだろうか。

 アンリの顔。やはり涙ばかりで、ぐしゃぐしゃになった顔。このこもまた、誰かの見た夢のかけらでしかないのか。

 いやだ。アンリは、アンリであってほしい。

「私の可愛いアンリ。星を眺めておやり。お前が、あの人々を忘れないように、語り合っておやり。お前が星と語り合えなくなった時が、お前の死ぬ時だ。お前が忘れ去られる時だ。そんなのはいやだから、その時は、お前だけはどうか、星になっておくれ?」

「その時は、夫人。どうか私を」

「いやだ。お前は、星になるんだ。アンリという星に。いつの日も、私がお前を眺めるから。お婆ちゃんになって、そして星になるんだよ」

「夫人。はい、夫人。約束します。私は、お婆ちゃんになって、そうして」

 また、耐えられなくなった。またふたり、しがみついて。こみ上げてくるものを、出し続けていた。横たわった鯨の骨の中。深海の暗闇と、光り輝き、漂う海月くらげたちの下で。

「私の可愛いアンリ、優しいアンリ。ごめんよ、ごめんよ」

「ああ、恐ろしいひと。そして、優しいひと。私こそ、ごめんなさい。どうか、ごめんなさい」

 ふたり、何かに謝り続けていた。何かに、ゆるしを請うていた。

 これが誰かの夢だとしても。どうかこの夢だけは、醒めないでおくれ。ずっとずっと、続いておくれ。

 どうか、この夢だけは。


6.


 正面に、あかいドレスの女がいた。

「どうした?」

「ん」

 こちらを見て、ちょっと顎を上げながら、両手を広げた。

 抱きしめろ、ということか。この間ので、味をしめたかな。

 表情をよく見た。美しい女の顔。目がどことなく、厚ぼったい。

 なるほど。面倒な女だ。ダンクルベールは思い切りよく、ため息を漏らした。

「シェラドゥルーガ、あのな」

「やだ」

 ぼんやりとした目のまま、子供みたいに首を振った。

 周りを見渡す。さっきまでいた、人のぽつぽつがいない。廊下も、長すぎる。

 そこまでして、か。

「わかったよ」

 近づいて、お互いの頬に軽いベーゼを交わしてから、腕を回しあった。

 温かかった。ちゃんと、生き物の体温と、鼓動を感じた。

 ようやく落ち着いたんだろう。それで、寂しさが、戻ってきたのだ。自分もそうだったから、気持ちはわかった。

「ロリオたち、死んだよ。首を括ってた」

 一番にそれに気付いて、それを見つけたのは、アルシェだった。

 ロリオが一日だけ、休んだ。

 それまでは、前まで通り、人より早めに出勤して、前まで通り、にこにこして、業務に取り組んでいた。

 周囲も、こないだ母親が亡くなったんだから、疲れがきたんだろう、そういう事はある、と言って、気にしなかった。明日にはまた来るさ、と。

 だがアルシェだけは、別だった。

 真っ青な顔のまま、外で騎馬訓練をしている“錠前屋じょうまえや”たちから馬を分捕っていった。ゴフとオーベリソンが、慌てて追いかけた。

 ダンクルベールもすぐに追いかけた。馬車だと遅い。だから、部下どもの手を借りて、久しぶりに馬に跨った。

 しばらく駆けていると、道の奥から、聞いたこともないくらい、とんでもない怒号が聞こえた。

 馬鹿野郎、と。ひと言だけ。

 あれの家の前には、泡を吹いた馬がぶっ倒れていて、玄関は開け放たれていた。ゴフとオーベリソンが先にいて、中に入るか逡巡しているところだったので、手を借りて、馬から降りた。三人一緒に、恐る恐る、中に入っていった。片付けられていたが、どこか生活感がなかった。

 寝室に、アルシェの背中が見えた。その、より奥で、ぶら下がっていた、ふたつのなにかと、一緒に。

 アルシェ大尉のあんな顔、はじめて見ましたよ。ゴフは神妙な面持ちで、こぼしていた。それ以上は言いたくない、とも。ダンクルベールは呆然としていて、それを見ていなかった。そのうちに振り返って、紙巻を咥えたアルシェの顔は、普段通りの仏頂面だった。

 子どもの頃の、こわい思い出。そして、心を見る力を育てた現在。それでも、至って普通の人間。今回の件で一番つらかったのは、あるいはアルシェだったのかもしれない。

「アルシェの言った通りになったな。馬鹿な話だ。あいつも俺たちも、最初っから全部、間違えていたんだ。本当に、誰も幸せにはなれなかった」

「鯨たちの見る夢だもの。だから後には、何も残らない」

 不思議な言葉。

 不意に、あのときの恐ろしいものが蘇った。まだ虚空が、おもかげを残しているのか。

「シェラドゥルーガ?」

 一度、引き離し、顔をよく見る。目は腫れているが、いつものシェラドゥルーガの顔だった。

「大丈夫。ただなんとなく、思いついただけ」

「そうか。それ、アンリエットにも言ったのか?」

「そうだっけか?」

「鯨は死んだら、世界になる。教えてもらったって」

 昨日の退勤時、玄関で座り込んでたアンリと話した。不意にそんなことを言い出したのが、引っかかっていた。

「あのこが言うなら、そうなんだろうね」

 もう一度、抱き寄せる。お互い、柔らかい力で。

「いいなぁ。お前は温かい。私は、温かいところに、ずっといたい」

「俺もだ。暗くて寒いのは、もうごめんだ」

 しばらく、そうやって抱き合っていた。それだけでも、心地よかった。

「飲むか?」

「どうだろう?なんだか、よくわからないんだ」

「じゃあ、しばらく。お互いひとりきりで、向き合おう」

「そうだね。自分自身の、折り合いがつくまで」

「その頃には、温かくなっているといいな」

「そうだといいね。我が愛しき人」

 そうやって、離れた。そうやって、その日は過ぎた。

 寝る前に、日誌を書くのは忘れていない。最初の頃だけは、ちゃんとしたアイデアを綴って、次の日の糧になるように心がけていたが、いつの日からか、書けるのは雑多なことばかりで、読み返すことも無くなった。それでも、続けている。惰性のようなものだった。

 ふと、思いついたことを書き並べた。読み返すと、詩のようなものになっていた。我ながら、柄にもないことをしていた。それでも、なんとなく消す気にもなれず、そのままにして寝台に潜り込んだ。そうやって、目を閉じた。

 読み返すことのない日誌を、書き続けていた。これからも、それは続くのだろう。

 これは鯨たちの夢。いつか終わる、ただそれだけの、夢。


(つづく)

Reference & Keyword

・剣客商売 / 池波正太郎

・ドラえもんのうた / 大杉久美子

・銀河英雄伝説 / 田中芳樹

・鯨骨生物群集

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