私と貴様と、俺、貴様
殿方の何を手に取るかによって、女の価値は定まります。
手を取るものは、三流。心を掴むのは、二流。胃袋を掴むのもまた、二流。財布を握る?馬鹿をおっしゃい。そんなもの、醜女のやることですことよ。
生殺与奪の権利を握ってこそ、一流の女です。
ビュイソン共同新聞、連載
黒髪のジョゼフィーヌ、著
“淑女のすゝめ”より
1.
素人は戦略を語り、玄人は兵站を語る。だが当事者なら、平時の運用をこそ語るべきである。
まずはじめに、国家に何故、軍隊が必要なのか。そこからはじめる必要がある。他勢力への抑止力、攻撃力としての機能。国土内の治安を維持、あるいは制御するための機能。それぞれに求められることは、異なってくる。そしてそれぞれが求めるものもまた、異なる。
軍隊を維持するために必要な資源は、国家から捻出される。国家の資源は、国民から捻出される。無から有は生じ得ないから、軍隊を能く維持するためには、国民の生活を能く維持する必要がある。
ここにひとつ、ジレンマが生じる。軍隊とは国民の人材を消費して形成される組織であるため、軍隊の機能向上を図ろうとすれば、国民の機能低下を招く。これを防ぐため、軍隊とは効率的、簡便的なものでなければならないが、それを形成するためには試行錯誤が必須となるし、各時代ごとに価値観と意義の在り方を再定義していく必要がある。そのために必要なのは、時間と人材と資源である。
金を使わない軍隊は、よくならない。手間を掛けない軍隊は、やはりよくならない。そうしてできあがった軍隊は、理想的である反面、国民の生活を、大いに圧迫する。
軍隊と国民は、国家という支柱の両脇に据えられた、天秤の両端にあり、また同義でもある。
国家憲兵隊司法警察局、あるいは下部組織たる警察隊は、軍隊であり、国民である。これを維持するためには、予算の獲得からはじまる。予算の獲得は、存在意義の定義からはじまる。つまりは最初の問に、戻ってくる。
この場合、国民の生活の安全保証と治安維持が、それにあたる。ただし、やはり軍隊は国民であり、そして国民は敵ではない。であるからこそ、その規模と維持費は、必要最小限でなければならない。国民の生活は、武力を以て律するべきではなく、あくまで法と道徳を以て律するべきであり、警察機構とは、そのための手段に徹しなくてはならない。
司法警察と行政警察の区分については議論の余地があり、現在の法律では、司法警察局は、その双方を担っている。かつてはそれらを、司法警察としての警察隊と、行政警察としての治安維持隊というかたちで区別していたが、警察隊本部麾下、特務機動隊“錠前屋”や、衛生救護班などは、本来は行政警察機能にあたり、しかしこれを治安維持隊に配備するとなれば、警察隊捜査官が凶悪犯と遭遇した際など、安全の保証が難しくなるため、法律上での区分を廃するよう提案し、組織内において、理論上での区別のみを維持することとした。
そして現在ここに、その双方の機能を担う、司法警察局警察隊という組織が成立している。
その維持について、獲得した予算から、職員の給与と福利厚生、及び各種施設と物資を調達する。軍隊、ないし警察機能は、金を産まない。与えられたもののみで、工面する必要がある。
あるいは、古代の瑞朝で採用された軍屯制により、物資調達と資産運用は可能であるが、現状、国土のすべては、国家、ないしは諸侯の所有物であるため、これを採用することは不可能である。
中でも給与と福利厚生、特に衣食住のそれについては、これを怠れば職員の士気、意欲の低下に繋がり、つまりは組織の質の低下を招くため、絶対に疎かにしてはならない。医療費の保証と保険制度の提供。住宅費の一部保証。制服の定期供給と交換。そして給食の提供。特に食事については、各個人の健康状態に直結する部分である。
地方豪族に伝わる、領土経営の金言たる、“働く者こそ良く食うべき”は、軍隊でも大いに通用し、また無視すべからずものである。
しかし、もしくはやはりというべきか、食事については、組織運営者たる司法警察局局長セルヴァンが、酪農が中心で、麦や米などの主要穀物が育ちにくい、北西部高原地帯、フォンブリューヌの地方豪族出身であるため、その重要性を身を以て経験していることもあり、言ってしまえば得意分野である。
居住環境についても、結局は金と土地の問題なので、特段、どうこうできるものでもない。
となれば衣類、被服関連、つまりは組織としての制服が考慮すべき点ではあるが、基本的には、国家憲兵隊の制服規定に準拠すべきであるので、こちらも本来であれば、金と発注先の選定ぐらいで済む話ではある。
そう。本来であれば、である。
「やはり、か」
渡された資料を眺めながら、まさしくその課題について、セルヴァンは頭を悩ませていた。
「相関と因果の関係についても、大方、局長閣下の予測どおりとなっております」
多少のどもりはあるものの、正面に座した、小柄で若年の女性士官、ラクロワ少尉は、しっかりと言葉を続けた。ペルグランとガブリエリという同期ふたりとは違い、中流家庭出身の、気の弱いお嬢さんだが、一方で数字に強く、後方支援という業務に十分以上の理解を持っている、貴重な若手だった。
「隊員内の需要については、匿名回答が可能なアンケートを実施しております。結果としては、五分五分。現場に立つことが多い捜査官一同や“錠前屋”などは、必要不可欠との回答。しかし、後方支援、庶務課などの事務方からは、軒並み不評。特に、事務を担当している女性職員からは、拒否反応とも言える意見を頂戴しております」
「所感でいいが、ラクロワ君自体は、どうかね?」
「正直に、あまり。今のこれも油断したものですし。でも、これがないと、私」
「ああ、無理はしなくていい。それと、気に病む必要もね。君を含め、一般市民の女性でも、魔除けとして用いているという話は耳に入っている。どうか、安心したまえ」
いくらか体をすぼめてしまったラクロワに対し、つとめて穏やかに声を掛けた。副官にも、お茶菓子と紅茶を替えるように指示を出した。
司法警察局とその下部組織は、比較的、女性職員の多い部署である。それをお目当てに、他部署の調子づいた若い士官どもが、ちょっかいを出しに来るということが、多々見受けられた。熟達の捜査官や“錠前屋”隊員などはともかくとして、ラクロワをはじめとした年若いお嬢さんたちは、それがこわくて仕方ないのだ。大抵は、“錠前屋”の番頭たるゴフ中尉が飛んできて追い散らすのだが、それでも彼女たちの心理的負担は無視できない。
そこでこの油合羽が、魔除けとして役に立つのだ。これに手を出せば最後、ゴフどころか、大親分たるダンクルベールのお殿さまが現れて、神妙にすればそれでよしが待っている。
実際ダンクルベールも、彼女たちに絡んだ連中の後を、密偵である“足”で追っかけさせて、後々、その組織の人事部なりに苦言を呈しに行っているらしい。
妻の不貞で家庭を壊され、男手ひとつで娘ふたりを育て上げたという、大変な道のりを歩んできた、ひとりの父親である。女性職員たちに対しても、まさしく父親のようにして接していた。そしてまた女性職員たちも、その大きくも寂しい背中に、父性と親愛を見出すものは、少なくなかった。
「油合羽、ねえ。どうしたもんだかな」
さて本題であるが、警察隊本部が制式採用している外套、油合羽。ここ数年、値上がりが続いているのである。
後方支援教育の一環として、警察隊本部のラクロワに、調査を指示していた。支給品を含む物資調達は、後方支援業務の主軸である。
油合羽、あるいは、格好を付けて、オイルドジャケットだとか、ワックスドジャケットだとかいうもの。時の警察隊本部長官である、海運業出身のアドルフ・コンスタンが愛用していたのが、その起源である。乱世の能吏にして治世の奸雄たるコンスタン氏が、“油合羽は労働者の服である。そして我々は労働者である”と迷言ひとつぶち上げて、独断と無茶を通して、制式採用まで持っていったのだ。
前提として、蝋と油を染み込ませた綿織物である。何しろ扱いが難しい。
新品のうちはべとべとするし、匂いがきつい。椅子の背もたれにも、その油が残ったりする。縮みやすく、油が落ちれば撥水性も落ちるので、洗濯は厳禁。馬毛のブラシと濡れた布巾で手入れをする。かびも出やすく、日陰で風通しのいいところで保存する必要がある。油が抜けてくると破れやすくなるので、たまに油を染み込ませなければならない。なにより労働者の服だから、上流家庭や貴族層にとっては、心理的抵抗は大きいはずだった。
「警察隊本部が制式採用してから三十年余で、首都近郊に認知度が高まったことがひとつ。また、狩猟、乗馬、釣りなどの屋外娯楽用途、つまりはゲームウェアとしての需要が高まったことがひとつ。最後に、特に上流階級において、いわゆる外しという、カジュアルダウンするためのファッションアイテムとして、好まれはじめたことがひとつ。特に最初の、認知度が高まったことが大きいです」
「我らが、油合羽の大親分。ダンクルベールのお殿さまか」
首肯。これは、想定内である。
魔除けの案山子、商売繁盛の守護聖人、そして油合羽の大親分こと、警察隊本部長官、オーブリー・ダンクルベール中佐。
見上げるほどの分厚い巨躯と、褐色の禿頭に白い髭。そして着古した長合羽に杖という、その威厳のある容貌は、悪人どもを震え上がらせ、民衆に勇気を与える英傑のそれである。幾らかに左足を患い、白秋の手前まで年経たとしてもなお現場に赴く昔気質な捜査官であり、鉄芯入りの杖と、年代物のパーカッション・リボルバーで凶悪犯を撃滅する、歴戦の闘士である。
また当人は極めて謙遜しているが、まだ髭の黒かった朱夏の手前あたりまでは、穏やかで落ち着いた雰囲気のある、男前なパパさん軍警として、結構な人気があったのも事実である。何と言っても北東エルトゥールル、黒い肌の人と白い肌の人とのいいとこ取りの、砂漠と大河と美形の血なのだ。
家庭が崩壊した後は、その心と面持ちに陰が差したものだから、妙齢のご婦人がたからすれば、たまらないものがあっただろう。
ともかく、褐色の名捜査官の愛用品として、油合羽という象徴が、巷に大いに知れ渡った。その活躍により、市井の治安が安定した今では、商売繁盛の守護聖人としても持て囃されており、窃盗、強盗、クレーマー除けのお守りとして、油合羽を羽織らせた案山子を玄関に立てかけて、そのご利益にあやかろうという店もちらほらある。当人としては多分に迷惑そうであり、それを用意している店には決して立ち寄らない。あるいは案山子のない店こそが、お殿さまのご用達なのではあるまいかと、本当ではあるが嘘みたいな噂も囁かれていた。
案山子の有無と、被害届の相関関係。統計を取るのも面白いかもしれない。それこそラクロワにでも頼んでみよう。
「それと、あとひとり。女性なのですが」
その言葉に、思わず身を固めてしまった。ラクロワもそれを読み取ったらしく、怯えつつも、一拍を置いてくれた。
「ボドリエール夫人です」
「やっぱりかあ」
ラクロワの言葉に、セルヴァンは頭を抱え込んでしまった。
死人が生きる第三監獄の最奥に座し、その朱い瞳を輝かせる人でなし。ボドリエール夫人ことシェラドゥルーガ。彼女もまた、油合羽の愛用者のひとりであった。
恋愛小説の大家であり、絶世の美貌を誇ったボドリエール夫人は、警察隊本部で制式採用されたばかりの油合羽に、真っ先に興味と理解を示した女性であった。
本来、漁師町の作業着でしかなかったそれを、ひとつのファッションアイテムとして、普段着に取り入れたのだ。それも、ただ着るということはせず、ひと回り大きいサイズをあえて選び、袖をまくって抜け感を出したり、ぬるま湯に漬け込むなどをして、あえて油を落として着やすくするなどの、様々な工夫を凝らしてである。特にこんにちでは、例に上げたふたつについては抜群の知名度を誇り、警察隊本部の隊員を恋人に持つ女の子が、そのひとのを勝手に着たというてい、つまりは私生活面で精神的余裕があることを演出することができる彼氏合羽。そして、油抜きの作業工程の難しさから、まさしく油断ならないものの、さらりとした着こなしを楽しめる油断合羽は、若い女性にも油合羽を手に取る切っ掛けになっていた。
また当時は濃緑色のそれしか無かったが、夫人は他の色に染め直すなりして楽しんでもいた。現在それらは、衣料品企業各社に逆輸入されており、各商品ごとに、油入り、油無し、そして各色の色展開までされている。
ボドリエール夫人とは、ひとつの社会現象である。慣習と常識の破壊者であり、創造者である。
中世封建的社会構造を引きずっていた当時の我が国において、家系というコミュニティを存続させるための道具でしか無かった女性に対し、己の心のままに互いを求め合う、自由恋愛の美しさを説い、ヴァーヌ聖教会の唱える、清貧で貞淑たるべしという道徳に対し、情熱的で甘美なエロスを以て愛を渇望すべしと歌い上げた。それは男女の絆に対する価値観の破壊であり、新たなる出会いと恋の創造でもあった。
そうして文壇の中心に舞い降りた、その艶やかな才覚は、多くの女性の意欲と勇気を駆り立て、様々な分野での活躍を促進した。つまりボドリエール夫人は、女性の社会進出の先駆者でもあるのだ。
婦女子は家庭にいるべきもの、という一般常識を打ち破った一方で、ボドリエール夫人自身は抜群の家事上手であり、料理、掃除、洗濯、金勘定に家具の選別にと、多忙な執筆活動の合間であれ、それを怠ることのない、超一流の、一般常識が求める女性でもあった。
くわえて、唯一の随筆集、“向日葵を眺めながら”にて綴られた、多忙で過酷な家事の諸々における、巧妙な手抜きや横着の提言の数々は、固定観念にとらわれ続ける上流階級の男性からは不興を買う一方で、その傍らで働く女中や使用人、そしてご婦人がたにとっては天啓となり、家事という業務を効率化すべしという風潮ひとつ、作り上げてしまった。
例えば、もともと漁師の賄い料理でしかなかった“南西の漁師風スープ”を、地元の漁協がその価値と権威を高めようと、使う食材の産地やレシピを固定化し、それ以外を排他しようという強硬的な姿勢を取った際にも、南方ヴァーヌ地方で、同じく漁師の賄いとして好まれていた、似たような料理を引用しつつ洗練させた、“何でもありの南西漁師風”という、より簡便かつ美味なレシピを考案し、多くの料理人を驚愕せしめていたりもする。
教養に満ち、社会常識に理解があるからこそ、必要とあらばそれをぶち壊し、新しく築き上げる。数多くの文化や風潮を作り上げた革新者である一方、軍隊の運営という、お役所仕事に携わる我々にとっては、どこかしらにその影がちらつき、場合によってはぶち当たる、新しい常識という名の天敵でもあった。
「つまりは、需要に対する供給が追っついていないため、値上がりする一方というわけだね」
頭を抱えながら漏らした一言に、ラクロワが遠慮がちに返答した。調達物資の値上がりの原因が、よもや自分たちと、その関係者にあるなぞとは、決して認めたくない事実である。
「よし。次のステップに進もう。具体的な解決策だ。まずは、アイデアだけ出していく。そのために、油合羽というものについて、前提の確認をしようかね」
「はい。もともと作業着ですので、頑丈ですし、油の入れ直しをすれば撥水性は回復します。ですので、一着分の寿命は、相当に長いです。大量仕入であれば、いくらか値段は下がるでしょうが、警察隊本部への新規着任、転属自体が数年に一度。それも最大でも、一度で四名程度です。ですので制服としての支給は、他のそれと違って非効率なのが現状です」
このあたりこそ、ラクロワの本領といっていい。
前提の確認を怠らず、下調べを入念に行いながら、着実に業務を進めていく。最も地味だが最も大切な基礎の部分が、誰よりもしっかりしているのだ。気性や口調は仕方なしとしても、議論を行う上で必要なものは整えてくるので、それを円滑かつ闊達に行うことが可能になる。後は結論を出す決断力が備われば、というぐらいだが、それは場数を踏んで育まれるものであるから、現状で求める必要はさほど無い。
「例えば、古着を買ってきて、ほつれを直したり、油を入れ直すのはどうかね?」
「そちらについては調べております。油合羽の古着は、新品より値段が高い傾向にあります。いわゆるワインのような、オールドとか、ヴィンテージとかいうもの。参考として、ビゴー准尉がお召しになっているものをお借りして、複数店舗で査定をお願いしたところ、二頭立ての馬車が買えるほどの金額がでました。新品、中古とも需要が高まる一方であり、中古で手頃な油合羽というのは、なかなか手に入りづらい状況です」
渡された資料。言う通り、とんでもない査定金額だった。
油合羽は使っていくうちに、色が褪せ、特に肘などの関節部分の色落ちは、他の部分とコントラストができあがる。そういった、油合羽を育てる愛好家は、確かに多い。特に、警察隊本部の生き字引ことビゴー准尉のそれは、鮮やかなほどに淡い緑になっており、未だ油で黒々しい油合羽を羽織った若手たちからは、いつかはああなりたいものだと、憧憬の眼差しで見られていた。
「略式軍装以外は、各隊員の自由、というのは如何でしょうか?」
「発想はよろしい。二点、問題あり。守るべき規則を設けるということは、組織運営、ないし人材の適正評価においては重要なことである。次に過去の事例として、略式軍装のみの着用という点で問題が起きたことがある。シャツ、ジレ、トラウザーと、それほど特徴的ではないため、民衆が隊員を隊員として認識できない。あるいはそれを悪用して隊員になりすます犯罪者がいた。トレードマークとして、やはり何らかのものは欲しい」
これ即ち、組織の制服の機能そのものである。他者から見て、どこに所属しているか、どのような役職かを可視化するためである。
「そこを踏まえると、今更、国家憲兵隊全体としての制式軍装に戻すのも、些か問題だろうな。ラクロワ君のお守りになっていることもそうだが、濃緑色の油合羽とは、つまり警察隊本部隊員である、という認識は、もはや変えられまい。それがいきなり切り替われば、民衆の不安や、犯罪者の増長を招きかねない」
「自家生産というのはどうでしょうか。例えば内務省であれば、刑務局が管轄下にあります。軽犯罪者の更正労働の一環で、油合羽を作らせる」
「発想よろしい。懸念点あり。特許、商標登録、意匠登録だな。ここの確認は必ず必要になるだろう。特に、内袖のリブ加工。襟のコーデュロイに、着脱可能な頭巾。あとは袖の付け方だとかの、細かい部分だ。その上で資産と人件費を計算して、釣り合うかどうかだね」
このあたりで、アイデアが尽きてきた。セルヴァン自体、事務仕事が中心なので、油合羽は用いない。また実家が酪農中心のフォンブリューヌ地方であるため、羊毛や皮革を使った衣類のほうが、馴染があるというのも大きかった。
「ちょっと発想を変えよう。女性隊員からの需要について、意見を聞きたい。魔除け、お守り以外にも、いくつかあるかね?」
「はい。言葉では言いづらい部分がありますので、こちらを」
ラクロワが差し出した三枚の紙を受け取った。三名とも匿名だが、内容から、なんとはなしに誰のものかは、見当がついた。
ひとり目は、いわゆるガンズビュール世代、ダンクルベール世代である。現在の三十代から四十代の前半あたりだ。
並み居る悪党や凶悪犯を相手に、頭脳と剛腕を以て捻じ伏せてきた稀代の英傑、ダンクルベールに感化、影響されて、志願、入隊、あるいは他部署から転属されてきたものは、星の数ほどいた。そのほとんどは当人の神機妙算ぶりについていけず脱落したが、この一名については、挫折こそはすれど、その後に自分のやり方を確立して大躍進を遂げ、現在は、警察隊本部の女性隊員の顔と言っても過言ではない立ち位置にいた。その峻烈かつ慈愛に満ちた体育会系現場監督ぶりには、セルヴァンとしても、一目以上を置いていた。
彼女にとっては、油合羽とは自分自身。そして存在意義、そのものであるはずだろう。着倒した油合羽と咥え煙草の、黒髪の美人さん。絵に描いたような女軍警である。
「ああ、なるほどねぇ。確かにな。よく言い出してくれた、というぐらいだよ。匿名での実施は大正解だ」
さて問題は、次のふたりだった。声に出した通り、相当、お悩みのご様子である。
「特に三人目の方は、かなり気にしておられる様子です。使命感、義務感のため奔走した結果、そういうかたちになってしまった。職務と私人との間での葛藤が」
「ラクロワ君。ちょっとしたセクシュアルハラスメントをする」
ラクロワの様子に気になったところがあったので、あえて割って入った。ちょっと繊細な話である。
一呼吸、置く。その間でも、表情。目の動き。口元。そういうもので、ある程度のことは、読み取れる。
「君。筋肉、好きだろ?特に女性の」
言った言葉に、ラクロワの顔が見る間に赤くなった。それでも少しだけ、やはりその口元は、嬉しそうだった。
「すまないねぇ。口調と表情から読み取ってしまったよ。後で然るべき部署に訴え出ておいてくれ」
「いえ。むしろ、おみそれいたしました」
「まず、君の嗜好は大いに理解できる。やっぱりそういうの、格好いいよねぇ。だからこそ、この二名に対しては、可能な限りの理解を示してやってくれたまえ」
つとめて砕けて言ってみせた。ラクロワは、お花屋さんとかにいるような、素朴で垢抜けない女の子である。そして後方支援という事務方をやっているからこそ、危険な現場で活躍するかっこいい女性に対し、強い憧れがあるはずだ。
「私のようなおっさんでも、そうだがね。外見や体型というものは、とても繊細な問題だ。理解者が多いことに越したことはない。精神面のケアというのも、ひとつの後方支援だよ」
あえて格好を付けて言ってみたことばに、ラクロワも頬を赤らめたまま、自信のある表情を見せてくれた。
さて、この二名。おそらくは、ご存知、“錠前屋”のルキエ伍長と、聖アンリことチオリエ特任伍長である。
柄の悪い“錠前屋”の中でも名の知れた不良娘、ルキエ。その目の良さを活かした斥候、偵察役である。
身体能力については抜群以上。跳んでよし、走ってよしで、更に馬の扱いも卓越している一番打者だ。路地裏育ちの巡警上がりなので、喧嘩にも慣れている。
人となりについては“女だてらに気が強く”の典型かつ毒舌家なので、そのあたりを気にはしないだろうと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。字体や文体から、結構な読書家で、おそらくはボドリエール・ファンであろうことも読み取れたので、となれば女性らしさに強い憧れがあるのだろう。そして自身の、長距離走者のような、体脂肪の少ない、しなやかな筋肉美に対し、相当以上の劣等感を抱いているのかもしれない。
そして大問題児。生ける聖人、アンリエット・チオリエ。
もはや我が国においては説明不要の知名度を誇る、救命医療の守護聖人である。産まれて間もなく両親を亡くし、戦乱の故郷の中、傷を負い、涙を流しながら生命を救い続ける向こう傷の聖女。警察隊本部に招聘した今でも、その尊名は広まり続ける一方であり、町中を歩けば、その象徴たる向こう傷をみとめた民衆が、涙を流して群がるほどである。
今や葬式宗教と化したヴァーヌ聖教会としてもありがたい存在であり、あちこちから、本物の聖人として列聖してはどうかと詰められており、気持ちはわかるが生きている人間を列聖することは不可能だぞと、嬉しい悲鳴を上げているようだった。
その小柄さと可憐さにも驚いたが、それ以上に身体能力の高さには、度肝を抜かされた。疾風の如く走り抜け、動けなくなった男どもを背負い、あるいは、くわえてひとりずつを両脇に抱え込み、そしてまた駆け抜ける。痛みに暴れまわるその体を、無理矢理にでも押さえつけて傷を塞ぐ。いつぞやに腰を痛めて動けなくなったダンクルベールのあの巨躯を軽々と持ち上げたときには、戦慄さえ覚えたものだ。
となれば必然的に、あの修道服の下にある肢体は、それに然るべき筋肉量を備えているはずであり、そうでなければ、あの英霊、御使のミュザの再来とでも言わなければ、説明がつかなくなる。
そしてまた、その肉体と精神の不均衡に大いに悩む、年頃のお嬢さんでもあるはずなのだ。
立ち返って、油合羽とは作業着である。肩や腕の自由度を考慮したつくりになっており、特に袖の付け方については、いわゆるラグラン袖と呼ばれるものであり、これにより幾らか内に着込んでいたとしても、各種作業に影響が出ないようになっている。
このラグラン袖というのが、一部の女性にとっては救済となっているのだ。おそらく先の二名もそうだろうが、いかり肩だったり、肩幅の広い女性たちである。他の羽織物よりも肩が張らず、すとんと落ちるため、より女性らしい印象を与えることができるのだ。また濃紺色という暗く濃い色合いも、中に着るものを淡くすることで、縦に長い印象を持たせられる。言われてみればこのふたり、油合羽の中でも、丈の短い短合羽を愛用していた。だぼつかず、すっきりした感じを求めているのだろう。くわえて袖をまくって彼氏合羽にすれば、より女性らしさは演出できるはずだ。
路地裏育ちのアスリート、ルキエ。天より舞い降りた筋肉女子、聖アンリ。この両名にとって、油合羽のラグラン袖は、何よりの心の救いになっているのだろう。
「念の為なのですが」
ふと、ラクロワがもう一枚、裏返しの紙を渡してきた。
「司法警察局全体の女性職員向けにも、匿名可能なアンケートを行っておりました」
「ほう。これはまた。指示外だね」
「今のお話について、当人以外にも、同じ悩みをもつ女性職員は多いと思います。ですので、自信を付けてもらうため、もしくは、悪いことではないと。すなわち理解者がいることを、認識してもらうためです」
めくってみる。思わず、声が出ていた。
「司法警察局管轄内で、尊敬する、憧れる、ないしは魅力的だと思う同性。三名まで、ね。いいじゃないか。幾らか婉曲的な問いかけであるところに、配慮も見える」
これは、素直に感心した。
これを公表するにしてもしないにしても、同性間の理解者の数が可視化できる。そこにルキエなりアンリなりが含められていれば、彼女たちが持つ葛藤や劣等感を緩和させるための、いい材料になりうるだろう。
くわえて失礼な言い方にはなるが、ルキエなどは特別に容姿が良いわけでもない。目付きの悪い、吊り目の三白眼という、まさしく不良娘という顔つきである。彼女が支持されているとなれば、容姿に劣等感を持つ女性たちにとっても、いい希望になりうる。
結果の方を渡された。上位三名。期待通りだった。
活発で男勝りなスケ番伍長、ルキエ。音に聞こえた最前線の守護天使、聖アンリ。そして軍警物語から飛び出てきたようなママさん軍警、捜査二課課長を務めるビアトリクスという、かっこいい女性三人が揃い踏みだ。
「これはひとまず、しまっておこう。そもそも本題からは外れているからね。ただ、値千金以上のものがある。ラクロワ君も、なかなかどうしてだね」
成長を素直に褒めたところ、ラクロワの顔が真っ赤になった。やはり年頃の、素朴で可愛いお嬢さんだ。
「さてと。大親分は、どう出るかな」
油合羽の大親分、オーブリー・ダンクルベール。そろそろ、ヴィジューションの応援要請から戻ってくる頃だった。
2.
日差しの中。屋根の上。影ひとつを、追い回していた。
炙り出した強盗団のひとり。“錠前屋”で囲んでいたが、こいつひとりだけ、抜け出した。相当に身のこなしが素早い。壁を登り、屋根を伝い、ばんばんと逃げていく。そうはいっても、向こうは気が動転している。そのうちに燃料が底を付くはずだ。路地裏で鍛えたルキエの足であれば、造作も無い。
建物の間、二間半。向こうの屋根が少し低い。もう少しで並ぶ。いや、並ばない、並ばない。一足先に、屋根の端。
跳躍。風と、恐怖が、心地いい。
足に感触。しっかりと腰まで落とす。衝撃を逃さないと、体を壊す。さて男の方は、どうやらうまくいかなかったようだ。屋根の縁にしがみついて、必死の形相でもがいていた。
「おらっ。神妙にすれば、それでよしってんだ」
その胸ぐらを引っ掴んで、引き寄せた。これで観念するはず。そのまま、もう片方を、背中に回して。
途端、男がひときわにもがきはじめた。その両手が、屋根から離れる。重みが、手に乗った。
「しまった」
叫んでしまった。いない。手から、離れた。
三階建て。落ちれば、ただでは済まない。まして不安定な体勢と精神状況。頭から落ちれば、即死。まずい。
飛び降りた。自分なら、このぐらいは楽々着地できる。
「行きます」
燃え盛るような声。何かが、火のように駆け抜けてくる。
アンリだ。
男の体が、アンリの掲げた両手に吸い込まれていく。音もなく、やはり膝と腰を落としながら。向こう傷の聖女は、空から落ちてきた男を、しっかりと受け止めた。そのまま一拍も置かずに、抱えた体をぐるりと一回転させて、あらためて男の体を、路地の石畳に押し付けた。
「お覚悟っ」
うつ伏せになった男の腕を背に回し、アンリが一喝した。“ムッシュ”ことラポワント特任大尉から教わっているという、東洋の神秘、“柔”である。
男の体に、縄が打たれていく。これで一件落着だ。
「ルキエ。足、診せて」
うまく着地したはずのルキエに、心配そうな顔で、アンリが駆け寄ってきた。この顔になったら、もう絶対に意志を曲げない。それはもう、何度も見てきた。観念して座り込み、ブーツを脱いだ。
両足。ちょっと、こそばゆい。でも、動くと叱られるから。そのうち手の感覚が心地よくなってきた。
「捻挫無し。腱も、無事。骨も、肉の感じも大丈夫」
アンリの手。温かくて、優しくて。安心できるもののひとつ。
「よかった。ルキエ、無茶しないで」
向き直った顔。笑顔。でも、少しだけ、瞳が潤んでいた。
「あんがと、アンリ。心配しすぎだって。こういうのは、あたしの得意科目だから」
「だって、あんな高いところ飛び回って、飛び降りてきたんだもの。びっくりしちゃった」
「こっちの台詞だよぉ。落っこちたの、受け止めたと思ったら、そのまま抑えつけちまった。花丸だね、アンリ」
そうやって、ふたりで笑いあった。
アンリとの交友は、気まずさからはじまった。
出会ったのは確か、“錠前屋”に招聘された直後だろうか。それまでは、巡警をやっていた。がきの頃に面倒を見てくれた巡警さんから、学舎とか士官学校とか出てなくたって勤められるからと、紹介された。
音に聞いた向こう傷の聖女とやらめ。どんな醜女かと思ったら、随分とまあ可愛いお嬢さんだったもので、からかうつもりで修道服を引き裂いた。小柄で可憐な小娘だったので、きっとおしゃまで可愛い下着でも付けているのだろう。それをひとつ、馬鹿にしてやろうと思ったのだ。
そうして目に飛び込んできたのは、傷だらけの美しく白い肌と、見事に引き締まった、腹筋だった。
見ないで。
頬を赤らめ、目に涙を浮かべ、視線を逸らした、そのあどけない顔。か細い声で、それだけを呟いた。
大慌ても大慌てで、自分の着ているものとか、予備の軍装を借りてきたりして、アンリに羽織らせた後、ダンクルベールに叱られに行った。
向こうは娘ふたりを嫁がせた、孫持ちの爺さまである。怒鳴ることもなく、静かに諭され、説き伏せられた。娘ふたりも、そうやってお互いに、あるいは他の女の子たちと何やかんやあったものだよと、最後の方は笑ってくれていた。
そしてその罰として、アンリと仲良くすること。そう、言いつけられた。
こちらは、生まれも育ちも顔も柄も悪い、がさつな不良女。向こうは、信仰に身を捧げ、信念を以て人を救い続けた修道女。絶対に合うはずが無い。無理難題だと思っていた。
それでも、あらためて謝罪をしたら、ちゃんと許してくれたし、ぽつぽつと話をはじめてみたら、同い年だということもわかって、あっという間に盛り上がった。
そのうちに本を貸してくれて、特にボドリエール夫人の著作に大いに惹かれた。今まで男なんて、どうでもいい生き物としか見てこなかったのが、一気に蒙が啓けた。わからない言葉があれば、辞書を引いてでも読み込んだ。
それぐらい、恋というもの、愛というものの素晴らしさに、のめり込んだ。
今では、本の貸し借り含め、非番の際には、真っ先に遊びに誘うほどの仲になっている。ふたつ下の妹分のラクロワ含め、ひとりでは入りづらかったお洒落なカフェとかビストロとかに行ったり、図書館で日がな一日、だらだらとお喋りしたり。何もかもが正反対で、お互いの深い部分を理解するということまではしてないけれど、それでも一緒にいて、楽しかった。
本の趣味も、ちょっとずつ違ってきた。ルキエは淡く儚く、ほろりと泣けるロマンスを。アンリは燃え盛り、むせ返るほどに情熱的な交わりを。お互いの印象とは全く違う嗜好に、やっぱりちょっと気まずくなりつつも、それでいっか、と笑いあった。
人間というものは、自分の足りないもの、至らないものを求めるのだろうか。だから自分はアンリを、アンリは自分を、友だちとして受け入れることができたのかもしれない。
「いいよなあ」
「いいよね」
祝日。ふたりでカフェでのんびりしていた。街ゆく女の子を見ながら、恨めしげに呟いてしまっていた。
全く違うふたりでも、似たような悩みがあった。
女の子らしくない体型。
ふたりとも細身な方とはいえ、ルキエは肩幅が広く、アンリはいかり肩だった。他の女の子たちは、なで肩で、流行りの服も、そういう女の子に向けたものばかり。可愛いと思って着てみても、何となく違和感がある。他のこたちからは、似合ってるとか言われるけど、自分で見ると、やっぱり違う。そうして、諦めてしまう。
特にアンリは、相当に悩んでいた。自分はまあ、男勝りで通ってしまっていたけど、アンリはちゃんと、女の子だから。でも使命感があって、それを実現するために培ったもの。
あとは育ち方。アンリの出身は、内陸の穀倉地帯。穀物で育ち、戦場を駆け回った。結果として、筋肉が付きやすい体質になっているようだった。ルキエは、食うに困るぐらいの家庭。戸籍と姓があるだけまし、という程度。男に混ざって、食うために日雇いとか、奉公とかに出歩いて、そのうち巡警になって、走り回っていた。栄養が足りなかったのだろう、ちょっと骨ばって、肉がつきにくい。それでもふたり、そこらの男の何倍も、動き回れる。機能面としては、十分以上の肉体だった。
だから油合羽のラグラン袖は、救いであり、呪いだった。肩のかたちはごまかせるけど、一度羽織ったら最後、それしか着れなくなるから。
ふたりとも短合羽好き。ふたりとも、走るのが仕事みたいなものではあるが、腰回りがすっきりするのが、もっともの理由だった。中合羽ぐらいになると、野暮ったくなる。
「一回、気になっちゃうと、もう駄目だもんね。これ」
「アンリはまだ、修道服があるからいいじゃん。あたし、着る服がなくってさあ。結局、制服と似たような感じになっちゃう」
「ルキエは、イメージに合ってるから、いいと思うよ?」
そうかなあ。そんなことを思いつつ。
スカートとか、ドレスとか。そういうのも、着てみたかった。でも、やっぱり変。男っぽい格好が、楽でもあるし、逃げでもあった。
そんなことを悶々と考えながら、本屋に行ったり、服屋を眺めたり。ふたり、曇った顔のまま、過ごしていた。
ふと、ぽつりと。
「雨だ」
にわか雨。それも、かなり強い。
雨宿りできそうな場所は、見当たらなかった。
「私の家。すぐ近くだから。そこまで走ろう」
「わかった。ごめん、お邪魔するね」
アンリの仮住まいまで、走った。そんなに距離はなかったけど、結構、濡れてしまった。
秋雨。冷たくて、寒かった。
ストーブを炊いてくれた。少しすれば、きっと乾くだろう。着るものを貸してくれたけど、そのうちふたりとも面倒になって、どうしてか、下着だけになって、寝台の上。並んで、あぐらをかいていた。
「あの時みたいだね」
髪を下ろしたアンリ。新鮮だった。何だか、幼く感じる。
「そうだね。ごめんね、アンリ」
「いいよ。もう、ちゃんと許したし」
子どもみたいな、可愛い笑顔。
あの時。言われて、思い出してしまった。アンリの体。そして表情。そして、あの言葉。
見ないで。
それがいつだって、脳裏にひりついて、離れなかった。淫靡だった。
いやらしいものを、見てしまった。
ちゃんと、向き合わなきゃ。聖女ではなく、アンリの。あたしの大事な友だちの、本当の姿と。
そう思いながらも、じろじろと、横目で見てしまっている。白い肌。引き締まった、見事な肢体。それ以上に、どこもかしこも、傷だらけ。きっと自分の分は、簡単な処置で済ませていたのかもしれない。残る必要のない傷まで、残っていた。
どれだけ大変だったんだろう。どれだけ、泣いたんだろう。泣き虫で、意地っ張りで、でもちょっと、悪戯好きの女の子。
そんなこが、どうして、人を救おうと思ったんだろう。
「あのさ」
声に、出してみよう。そう思った。
「あたし、アンリの体さ。すっげえ好き。アンリの気持ちが、かたちになってるって、思えて」
「私も、ルキエの体、好き。しなやかで、綺麗」
笑って、言ってくれた。雨音の中、少しかすれた、それでも透き通る声。大好きだった。
「あのさ」
「うん」
「触っても、いい?」
「うん」
思わず言ってしまった言葉に、返答が帰ってきた。
「ルキエになら、いいよ」
やっぱり、にっこり笑っていた。それを見て、顔が火照ってきた。
ちゃんと見て、ちゃんと触って、確かめて。そうして、受け入れたい。
正面から。肩。悩んでいる、いかり肩。でも、柔らかい筋肉。肌が滑らかだった。傷のところだけ、ざらついているのが、ぞくりとする。二の腕とか。何人も担ぎ上げるにしては、ちょっと細いかも。体の使い方が上手いのかな。鎖骨。綺麗で、やっぱりちょっと、淫猥。胸は、そんな大きくない。それがやっぱり、いやらしい感じがする。そして、腹。くびれがあって、それでも呼吸のたび、ひとつひとつの筋肉の動きがあって、人ってこうなっているんだなって、思えた。足も細いけど、しっかりしている。
もう一度、手。今まで、何度も見てきた。白いけど、ぼろぼろの手。煮沸した湯に手を突っ込んででも布を清めたり、司法解剖で、死んだ人の体を触っている。生と死を、この手で手繰ってきた。もうひとつの、アンリの象徴。この手が、人の生命を救っている。守護天使の、翼。
くすぐったそうにしている顔。綺麗。向こう傷があっても、いや、あるからこそ。
瞼が、閉じている。長いまつげ。自分にないもの。羨ましい。でも、これがアンリだから。
唇。柔らかそう。本当に、可憐な顔つき。でも、体中、傷だらけ。それが不釣り合いで、でも、それがアンリという、女の子。
その顎が、ちょっとだけ、上がったような気がした。何かを誘うように。どうしたんだろう。
でも、温かかった。
「ごめんっ」
思わず、離れてしまった。
奪ってしまった。そして、あげてしまった。アンリのと、あたしのと。
「いいよ」
アンリは、笑っていた。ちょっと気恥ずかしそうに。
「ルキエのこと、大好きだし。お互い、あげっこ、もらいっこ」
言われて、鼓動が早まっていた。
聖女の、アンリの、はじめて。あたしが。あたしなんかが、もらっちゃった。そして、いいよって、言ってくれた。
大好きな友だちに、大好きって、言われてしまった。
難しくなって、恥ずかしくなって。何も言えなくなってしまった。
あたし、何やってるんだろう。女ふたり、下着で、体まで触って、そして。
「アンリさ」
「なぁに?」
「誘ったよね?」
「うん」
やっぱり、そうだった。こいつ、そういうところ、あるもんな。今更、すごく恥ずかしくなってきた。
なんだか、甲斐性が無いみたいじゃんか。なんでアンリが、格好つけてるんだよ。なんであたし、それに負けちゃったんだよ。
「ルキエ、意気地なしだもん」
意地悪な言葉に、ちょっと固まった。
そうだ。あたし、意気地が無いんだった。だから誘いに負けるんだ。何でも、自分から言い出せなくって、相手が何かをしてくれるのばっかり、待ってるから。
自分から、進んでいかなきゃ。今までそうしてきたのに、できなくなってたの、なんでなんだろう。何だか、馬鹿らしくなってきた。変な自信が湧いてきた。
アンリって、やっぱり聖女なんだな。勇気、貰っちゃった。
「だから、あげたし、もらった。これできっと、進めるよ。ちゃんと紹介してね?」
髪を下ろしたアンリ。笑っていた。やっぱりいつもより、ちょっと幼い感じ。それがたまらなく、可愛い。
だから、勇気づけられた。だから、頑張らなきゃ。
「うん。あたし、頑張る」
決心を付けるために、声に出した。そうしたら、アンリが抱きついてきた。下着の女ふたり、そうやって、馬鹿みたいにはしゃいで、笑いあった。
男友だちのひとりに、恋をしていた。
3.
短合羽か長合羽か。それが問題だ。
警察隊本部で制式採用されている油合羽に対する命題である。基本、中合羽とも呼ばれる、よく知られたジャケット丈のものがまずあって、フライフィッシング用に作られた短合羽、そしてコート丈の長合羽がある。
制服として支給されるのは三点あり、中合羽、長合羽、そして、それぞれの内側に装着できる、羊毛のライナーベストである。無論、いくらか厚手で、内側がボア素材になった冬用の長合羽も存在するが、些か値が張るのもあって、ライナーベストという選択肢を取っているのだろう。ただこれにより、季節や好みに応じた組み合わせが可能になっており、衣服として見た際の油合羽の機能性と魅力を、大いに高めるものとなっている。
着任より一年半余、ペルグランとガブリエリでも、嗜好の違いが出はじめていた。中肉中背というには幾らか筋肉質であり、馬車に乗ることも多く、また多趣味で活動的なペルグランは短合羽。長身ではあるが筋肉量はさほどであり、天候の変わりやすい、外回りが中心のガブリエリは長合羽である。
「へえ。いいじゃないか、それ」
満面の笑みで、それを見せびらかしてきたペルグランに、ガブリエリも感心の声を上げた。
「この前、見かけたのさ。短合羽でも分厚くならず、何より、ヘリンボーンってのが格好よくってね」
「いいなあ、貴様。何処で買ったか、教えてくれよ」
ヘリンボーン模様のライナーベスト。支給品のものとは異なり、いくらか薄いが、触った感じから中綿を使っているのはわかったので、冬場でも使えそうだ。支給品のは温かくていいのだが、いくらか着膨れし、野暮ったくなる。また油合羽と組み合わせた際、それの内側のポケットを潰すかたちになるのも気になる点だった。その点、ペルグランが買ったものは、それの内側と同じ位置に、内ポケットも備え付けられているので、機能性が損なわれない。これ単体で、ジレとして用いるのも、面白そうだった。
油合羽は、憧れだった。
家柄ばかりがいい家に産まれ、いずれは官僚や議員にと、親から育てられてきたものの、身近な働く人といえば、家の使用人だったり、衛兵だったりしたので、いまいち、ぴんと来なかった。
むしろ、身近なところで働いている人たちの方が魅力的に感じた。
炊事、洗濯、掃除などをてきぱきこなす使用人たち。馬車に使う馬を管理したり、見事な手綱さばきでそれを御する御者。庭園を管理し、色とりどりの花や草木を巧みにくみあわせる庭師。昼夜を問わず、整然とした所作で佇む衛兵たち。目の周りにある働く人は、熱心で活気があり、素敵だった。
だから自然と、そういう人たちと交わるようになった。子どもだし、主人の嫡男とあって、最初はひどく遠慮されたものの、自分の考えを口に出したら、理解を貰えた。そうやって、身近な人々のお手伝いをすることは、本当に楽しかった。家の周りだけで、こんなに沢山のやるべきことがあって、それに携わるべき人がいる。人々の暮らしというのは、これだけ大変で、そしてこれだけ沢山の楽しいことがある。そしてそれらが、周りの人々の生活に欠かせないものであり、あるいは幸せにつながる、ありがたいものであるということを、発見できた。
いつだったかは覚えていないが、雨の日だった。外を眺めていたら、傘を差さない人がいた。深い緑の服を着た人。遠目に見ても、濡れている様子がない。
最初、お化けが出たと思って、使用人のひとりに、慌てて声を掛けた。緑色の、雨に濡れないお化け。雨粒が、その肌から弾かれていく。
あれは油合羽ですよ。その使用人は、面白そうに笑っていた。
それが、そういう衣服だということを知って、びっくりした。大発見だった。雨の中、外に出ても、濡れることがない。どうしてそうなるのか、家庭教師に聞いたりして、油と水が交わらない仕組みを用いているとか、元々は港町の漁師たちが使っている作業着だとかを聞いて、わくわくした。
ここの外には、もっと、色んなことをしている人がいる。
そのうち、ひとりのおじさんに会った。家の前を通りかかった、油合羽を羽織ったおじさん。漁師が着るものだって聞いたから、不思議だった。どうして港にいないんだろう。
あたしゃあね。警察さんなんだ。悪いやつとかを、捕まえるんだよ。勿論、悪いやつが、なんで悪いことをするのかを、わかってあげてからね。
柔らかい口調の、小柄で、がっしりとしたおじさん。かっこよかった。わかってあげる。そういう仕事。それは今まで、家の中で、使用人だとか、そういう人たちと交わることと似ているのかもしれない。いっぱいの人々と会って、その人たちが、何をしているのか、何のためにそれをするのか。それが、仕事になる。
あのおじさんみたいになりたい。それだけ、真ん中に置いた。
親や親類には、理解を得られなかった。ひとり、親戚のおじさんで、警察隊をやっていた人がいた。話を聞いてもらった。どうすればそうなれるのかを、教えてもらった。
やりたいと思ったことをやりたいのが、普通だもんな、レオナルド。俺も、かの名提督、ニコラ・ペルグランさまに憧れて、海軍に入りたいって、駄々をこねたもんさ。船酔いがひどくって、警察隊になっちまったけどなあ。でもまあ、やるこたあ、どこでも一緒だよ。俺は、男一本、腕一本。自分の力でどこまでやれるか。レオナルドは、色んな人と出会って、色んなところに行きたい。お互い、面白そうと思ったことを追っかけて、面白く生きていこうぜ。そうじゃなきゃ、人生、面白くないもんな。
マレンツィオおじさんは、何をするにしても、協力してくれた。親や親族も説得してくれた。
そして、あの日のおじさんのことについても、聞いてみた。
エクトル・ビゴー。そんな名前だった。
長く、聞き込み調査ばかりをやっている変わり者。でも、そのひとがいないと、何もはじまらない。ひとりで歩いて、はぐれていて、それでも、誰からも必要とされているひと。おやじさんと、呼ばれているひと。
あの日が、美しくなった。より一層、いや、絶対に警察隊に入る。おやじさんみたいに、おやじさんのように、そして、おやじさんのような仕事をしたい。
そうして必死になって勉強して、士官学校に入って、警察隊本部配属を志願した。マレンツィオおじさん憧れの、ニコラ・ペルグランのお血筋が同期にいた。好敵手であり、親友だった。向こうは、軍総帥部か海軍本部を目指していた。
あんまり熱心に勉強はしないが、体を動かすのは大の得意。実技科目は、ほぼ最高評価。なら、自分はそれ以外であいつを打ち負かそう。座学科目は、ほぼ最高評価。ちょっとの差で三番手になったが、警察隊本部に配属が決まって、嬉しかった。向こうは政変の煽りを食らって、行きたいところに行けなくて、同じく警察隊本部配属。不満ばっかり垂れていた。まあ、向こうは向こうの事情があるし。それよりも、自分の夢が叶ったことが、嬉しかった。
そうして今、夢を見ながら。一歩ずつ、一歩ずつ。夢を叶えていた。夢をちゃんと、現実にしていくことを、踏みしめていた。憧れの人の隣で。一歩ずつ、一歩ずつ。
「ガブリエリ少尉。ちょっといい?」
その日、声を掛けてきたのは、ビアトリクス大尉。捜査二課課長。女盛りも最盛期といった、黒髪の美人軍警だった。
個室に案内された。内密な話だそうだ。
「油合羽。廃止になるらしいって話を聞いたのよ」
何を言われたのか、わからなかった。
「あんたになら、理解をもらえると思ってね」
「ちょっと、頭が追っついていないです」
「わかった。深呼吸、三回」
言われたとおりにした。それでも、衝撃が強すぎた。
憧れた油合羽。それが、着れなくなる。
「理由は、何とはなしにわかります。最近、油合羽の需要が高まっており、値段が上がっている。数年に何人か配属される、警察隊本部隊員のためだけに調達するとなれば、資金繰りの面で、負担になる。一着の寿命も長いともなれば、大量仕入れができない。一着ずつの仕入れだから、値が張る」
自分の口から出ている言葉が、理解できなかった。
「ガブリエリさ。あんたもそうだし、私だってそう。これが象徴であり、存在意義だと思ってる。生き様って言い方でもいい」
ビアトリクスも、険しい表情だった。
いわゆる、ダンクルベール世代。稀代の名捜査官、オーブリー・ダンクルベールに憧れを抱いて入隊したうちの、最後の生き残りと言ってもいいだろう。やり方は異なるが、その薫陶と気質を授かったダンクルベールの愛弟子である。
警察隊本部の象徴。それが無くなる。それを、受け入れられない。このひとだって、そうなのだ。
「私にとっては、すべてです。幼い日に出会った、ビゴー准尉殿が、この仕事の存在を教えてくれた。これを着るためだけに、ここまで来ました」
「もう一回。深呼吸、三回」
ビアトリクスの声。おそらく自分は今、冷静ではないのだろう。
五回。深呼吸をした。
「ラクロワですよね?」
出した言葉に、ビアトリクスが難しい顔で、頷いた。
後方支援を担当しているラクロワ少尉。同期の女の子。この間、油合羽に関する、アンケートを取っていた。そしてこの頃、足繁く、司法警察局庁舎に通っていた。物資調達に関する業務を貰っているとは、聞いていた。
「説得ではなく、まず、話を聞いてみます」
「やっぱり、ガブリエリに相談してよかった」
ビアトリクスが、美しい顔をはにかませた。
「私だとどうしても、感情が先にでちゃうからね。ガブリエリはさ。おやじさんの弟子だから、そういうことができるはずって、思った。だから、お願い。私が言うのもおこがましいけど、一歩ずつ、一歩ずつ、やってみてくれない?」
「かしこまりました。まして、ラクロワですから。半歩ずつぐらいでないと、こわがらせてしまいます」
真面目に答えたつもりだが、ビアトリクスが腹を抱えていた。
「よかった。あんたに相談して。ラクロワのことも、わかってくれてるんだもんね。私からはもう、何も言わない」
「お任せ下さい。結果はどうなろうと、納得の行けるかたちに、終着させます」
ふたり、頷いた。
それでも、その日は冷静になれなかった。
このためだけに、生きてきた。このためだけに、生きていた。それぐらいの思い入れがある油合羽。
これが無い警察隊には、用は無い。言い切ってもいい。
あの雨の日に見た、緑色のお化けは、きっと、今の自分なのだ。どこかの屋敷で外を眺める子どもたちに、興味を抱かせる存在。そして、その屋敷の外の世界に、興味を抱かせる存在。あのお化けのおかげで、ビゴーに会えて、マレンツィオに助けてもらって、ペルグランたちに会えた。
ラクロワをわかってあげる。その気持ちの整理に、三日、かかった。
「これは、年寄りの繰言なんですがね。ガブリエリさん」
ラクロワと話をする前に、ビゴーと話をした。この前置きが来ると、この人は必ず、含蓄のあることを言ってくれる。
「あんたはね、真っ直ぐだから。突き破んないことですよ」
「突き破る、ですか」
「あのこは、優しくて、本当に広い視野を持っている。だけど、あんたとかペルグランさんみたいにね。隣に人がいなかった」
言われて、胸が苦しくなった。
ペルグランには、ダンクルベール。そして自分には、ビゴーがいた。ラクロワには、それがいなかった。ビアトリクスが一番近いが、ビアトリクスは現場の人間であり、ラクロワは後方支援の事務方である。司法警察局局長であるセルヴァンからの指導はあるものの、ほぼひとりでここまで来なければならなかった。
困った人を助けたい。その小さく淡い思いだけで、ここまで来るしかなかった。そんな、か弱い心の女の子。
そんなこが、ひとりぼっちだったんだ。
「頼れる人がいなかった。だから、分厚くなれていない。不用意に踏み込めばね。その心の硝子を踏み割っちまう」
その通りだった。自分の歩き方では、きっと踏み割ってしまう。ラクロワの心に、傷を負わせてしまう。
「私はただ、ラクロワを、わかってあげたいんです」
「そうだよね。そういう場合はね、ガブリエリさん。足を、止めなさい。一歩ずつ、一歩ずつとは言うけれど、そういうことも必要ですよ。いっそ、一歩引く。それでもいい。まあ、気持ちの問題というか。頭の組み立て方ですがね」
思わず、目を覗き込んでいた。
いつもの、穏やかな光。歩き続けている時の、おやじさんの目。
歩みを止める。一歩引く。ビゴーの口から、はじめて聞くことば。はじめて与えられた、選択肢。
それも、歩み寄り方。真っ直ぐでも、遠回りでもなく、立ち止まり、迎え入れる。
そうやって、わかってあげる。
「やっぱり行く前に、相談してよかったです。きっと、踏み割ってました」
「そうかいね。行ってらっしゃい。ラクロワさんを、ちゃんと、わかってあげてくださいね」
ビゴーが、微笑んでくれた。それで、勇気が湧いてきた。
「大事な、大切な。そして大好きな同期ですから」
言うべきことは、本心。それが、歩み寄るということ。
時間を設けて、個室にラクロワを呼んだ。正面ではなく、隣りに座った。
小柄で、気弱な女の子。素朴なそばかす顔。三つ編みの、本当にどこにでもいる、女の子。
既に、体が震えていた。
「油合羽が廃止されるという、そんな話を聞いたんだ」
目線を合わせず、つとめて穏やかに言った。そこら辺の空気に、放り投げるように。ラクロワに、ぶつけないように。
「まず、君を悪く言うつもりはない。警察隊本部、そして司法警察局の懐事情も、ある程度は鑑みれるからね」
「ガブリエリくん。その、私ね?」
「そうだね、ラクロワ。話を聞く。ゆっくりでいいよ」
やはり、目線は合わせなかった。合わせれば、壊す。薄い壁一枚、隔てる。それぐらいの気持ち。
「私は正直、どうするのがいいか、わからない」
しばらくして、ようやく。意を決したような、小さな声。
「長官は、どちらでも構わない。負担になっているようであれば廃止でもいいって。でもやっぱり、油合羽に憧れをもって入隊してきたひとたちはいっぱいいるし。でも、嫌がっているひともいる。だから、結論が出せないの」
震える声で、ぽつりぽつりと、語ってくれた。
人数分、意見がある。人数分、嗜好がある。そして人数分の、生き方がある。それは、纏められない。当たり前のことだ。ただ、その一言で片付けては、当たり前になれない人。当たり前のことがわからない人たちを、置き去りにする。
だからそういう時は、当たり前。その一歩手前。色んな意見がある。そこまでで、終わり。
よし。整理できた。それを、伝えよう。
はじめて、ラクロワの顔を見た。向こうも、目を合わせてきた。
「なら、どうするべきかわからないが、結論でいいと思うよ。いいじゃないか。ちゃんと、皆の意見を聞けている。それをそのまま、長官なり、局長閣下に伝えてみようよ」
半歩だけ。本当に、小さな歩幅で。
少しして、ラクロワが、はにかんでくれた。伝わったようだ。
「ラクロワも頑張ってるよ。私たちは、すごくラクロワに助けてもらっている。ペルグランも、よく言ってるよ」
その名前を、あえて出した。可愛い顔が、ちょっとだけ赤くなった。
きっとそうだろうな。そう、思っていた。でも、どうなんだろうな。あいつもあいつで鈍感だしな。何人か似たような相談を受けてたけど、気付いている様子もないし。
お互いに必要と感じたなら、歩み寄るだろう。一歩ずつ、一歩ずつ。だから、どうこう言う必要はない。
また、目線を外した。話はこれで終わり。後は、世間話。
「長官にも、早く愛称で呼んでもらえるといいね。女の子たちの間でも、それを目標にしてるこ、多いもんな」
「うん」
「ラクロワは、なんだろうなあ。ヴィオレットだろ?ビビとか、可愛くて」
「やめて」
叫び。
見た。ラクロワ。震えていた。目が、怯えている。
「お願い。その名前、呼ばないで」
「どうした、ラクロワ。落ち着け」
「いや、いやだ。嫌い。呼ばれたくない」
頭を抱えてしまった。涙すら流せないようなほど、恐怖に蝕まれている。
何を、踏み抜いた。名前。愛称。ラクロワ。ヴィオレット。ビビ。
ビビ。
踏み抜いてしまった。気を抜いてしまっていた。でもまずは、ラクロワを助けなくては。恐怖から、孤独から。
「落ち着きなさい。ラクロワ、深呼吸だ。大丈夫だから」
目を見る。じっと、そうやって促す。ここにいる。大丈夫。ゆっくり、ラクロワ。戻っておいで。
すまない、私のせいで。
そのうち、落ち着いたようだった。肩で、息をしていた。
「ごめんなさい、ガブリエリくん」
「気にしなくていい。ちょっと、びっくりしただけだから」
「でも、本当にいやなの。好きな名前だったのに。本当に、好きな名前だったのに」
ビビ。
それが、ラクロワの心の傷。
「ラクロワ」
その、華奢な肩を掴んだ。
どうしていいかは、わからない。なら、真っ直ぐ行く。
「ラクロワのことを、わかってあげたい。つらいことも、悲しいこともだ。それで、私で解決できることがあれば、手伝いたい」
真っ直ぐに、伝えた。
頷いた。そして、溢れだした。そのまま、ぽつぽつと話てくれた。ラクロワの、傷。ビビ。
信じられないような話だった。怒りで、眼の前が真っ赤になるぐらいだった。ラクロワが。こんなに可愛くて、いっぱい頑張っている女の子が、そんなことでつらい思いをしなければならないなんて。
何とか落ち着かせた。ビアトリクスに後を任せようと思ったが、見当たらなかった。ビゴーに経緯を説明して、お願いした。
「そこは、見落としても仕方ぁ無い。悔やむんじゃないよ」
優しく言われた。それでも、悔しさが滲んでいた。
「許せねえな」
ぽつりと、漏らした。腹の底から出る声だった。
「あたしもね。怒るときは、怒りますよ。だからあんたもね。怒るときは、怒りなさい。面倒見てくれる人に背中任せて、思いっきり怒鳴るんだよ。あんたは真っ直ぐだから。真正面から思いっきりぶん殴って、やっつけちまいなさい」
はじめて見る顔だった。優しいけど、しっかりと刻まれた、怒りの表情。
「長官に、会ってきます」
頷いてくれた。
一歩ずつなんて、もうできない。早足、いや、走っていたかも知れない。怒りが、背中を押しまくってくる。
許せない。あまりに、理不尽すぎる。絶対に許さない。
「ガブリエリ。ちょっといいか?」
本部長官執務室に向かう途中、ペルグランが声を掛けてきた。ちょうど良かった。
「長官に会わせろ」
「貴様、どうした?機嫌が悪そうだが」
「悪いんだよっ」
出てしまっていた。
気付いた。ペルグランの胸ぐらをつかんで、壁に押し付けていた。
その目は、冷静だった。それが、いやに腹が立った。
「まずは、落ち着けよ。貴様らしくもない」
「私らしくなんて、なくたっていい。ペルグラン、長官に合わせろと言ったんだ」
「わかったよ。ちょうど、長官が呼んでたからな」
呆れたような声。やはり、許せない。
貴様も、ラクロワを大切だとは、思っていないのか。
出そうになったことばを、何とか抑え込んだ。深呼吸、五回。そして、手を離す。
「すまない」
「いいよ。あえて詮索はしない」
「恩に着る。だがな」
奥歯が、割れそうになっている。もう、出すしかない。
「いくらか、貴様を見損なったぞ。ペルグラン。貴様はもっと、人に気遣いができるやつだと思っていた」
できるやつだと、思い込んでいた。貴様を、思ってくれているひとのことを。
「そうかい。まずは、用事を済ませようぜ。詳しくは後で聞く」
やはり呆れたように、踵を返した。
導かれるままに、歩いた。どんな用事であれ、こっちが先だ。あのダンクルベールが相手だろうと、押し通して見せる。
真っ直ぐ、突っ切ってやる。
会議室。大勢いた。ビアトリクスも、ウトマンも。アルシェ。アンリ。ムッシュ。“錠前屋”のゴフ隊長、オーベリソン軍曹、ルキエ伍長。
そして、セルヴァンと、ダンクルベール。
「ようやく、準備が整ったよ」
ダンクルベールの表情は、険しかった。
「お話がよくわからないので、前提からお願いしてもよろしいでしょうか?」
まずは、聞く姿勢。それで、大した用事でなければ、押し通す。
座ったまま。ずしりと、その巨躯を前に出した。目が、深く荒れていた。
「ラクロワをいじめるやつがいる。国家憲兵総監の、息子だ」
静かだが、怒号と言ってよかった。
深呼吸、五回。それで、終わり。
「失礼しました。本人から伺っております」
「それでこそ、ガブリエリだ。そうこなくては、お前ではない」
少しだけ、笑ったようだった。
「おい。見損なったぞ、ガブリエリ」
頭の後ろで腕を組んで、ペルグランが吐き捨てた。それでもその顔は、笑っていた。
「私だって聞いてたんだ。ゴフ隊長が何度も追い散らかしても、粘着してくるってね」
それで、昇っていたものが落ち着いた。そりゃあそうだよな。こいつのことだもの。聞いているに決まってるさ。
「じゃあ、お互いさまにしてくれないか?」
「当たり前だ。こんなことで、貴様との仲を、こじらせたくもない」
「同感だね、馬鹿野朗」
「お互いさまだよ、馬鹿野朗」
それで、笑いあった。これが、自分たちなりの、仲直りの仕方だった。
「喧嘩でもしたかね?」
呆れたように、ダンクルベールが聞いてきた。
「ちょうど先ほど、この件で。この通り、ガブリエリも怒り心頭。準備万端です」
「それで、攻め立て方は。如何様に?」
「全方向から囲い込む。ペルグラン」
「はい。本作線の概要を説明します」
ペルグランが、卓に大きな紙を広げた。作戦。つまり、ラクロワをいじめるやつに対し、何らかの行動を起こすということか。
「作戦目標です。再三の注意にも関わらず、司法警察局や警察隊本部の女性隊員、女性職員に対し、ハラスメント行為を繰り返す、国家憲兵隊総局麾下の将兵と、その主軸となっている国家憲兵総監閣下のご子息さま。そして、是正対応の姿勢が見られない、閣下ご本人に対し、その組織や各位の地位、役職に影響を与えない程度の私的制裁。つまり、こわい思いをさせることにあります」
ペルグランの目が、燃えている。
上官。それも、上位組織の長に対する制裁。それも社会的ではなく、私的なもの。組織の状態を維持しつつ、問題を解決するための、最適かつ、残酷な手段。
いいね。やってやろうじゃないか。恨みひとつ買うぐらい、あのラクロワのためなら、安いもんだ。
「続いて作戦の前提と戦略について、私から話をする」
セルヴァンだった。後方支援の第一人者。戦場全体を俯瞰する、縁の上の力持ちである。
「本来であれば、これらのハラスメント行為は、国家憲兵隊という組織そのものの社会的信用を大いに損なうものである。隊の労働規約として定めている通り、それが認められた場合、最小で戒告や減給、最大で懲戒解雇の処分を下すべきであり、それについて我々より適切な処分を下すよう、具申を上げ続けているが、一向に改善が見られない。これは是正不適切、あるいは隠蔽と見做してもいい。そうなれば処分対象は、国家憲兵総局全体に及ぶ。また司法警察局、警察隊本部、そしてラクロワ少尉個人としても、総局、あるいは所属する個々人に対し、刑民双方での責任追及が可能であり、そのための証拠も十分揃っている。しかしそれを実施するとなれば、国家憲兵隊そのものの存続に関わることとなる」
ここは、同意見だった。規約上、あるいは法律上可能ではあるが、与える影響が大きすぎる。宮廷、市井は大混乱に陥るだろう。
そのために必要なのは、作戦への理解者だ。連中を囲い込み、闇の中で、袋叩きにするために必要なこと。
「そこで、私的制裁の範疇で済ませるために、法務部部長。内務尚書(大臣)閣下。ならびに貴族院議員、ブロスキ男爵マレンツィオ閣下。この三名に、現在の状況とラクロワ少尉の心的苦痛、そして本作戦について説明を行い、各位の理解と、作戦実施についての許可を貰っている。つまりは現在、どれだけぶん殴っても構わん、という状況だ」
「おじさんにまで、根回ししていたんですか?」
思わず、口にしていた。あまりに手際が良すぎる。
天下御免のブロスキ男爵マレンツィオ。親戚のおじさんである。ガブリエリ家はもと王家の名族だが、一度、断絶していることもあり、もと宗主国たるヴァルハリアの爵位を失っていた。先の政変で、多くのヴァルハリア出身貴族が地位を追われたこともあり、今となっては絶滅危惧種といっていい、ヴァルハリアの爵位を持つ御仁である。この国の公爵と並ぶぐらいには、権威の暴力がある。
「ダンクルベールが、ご内儀さまに甘えてくれてね。婦女子に狼藉を働くなぞ不届き千万と、天下御免のご印籠を頂戴してきたよ」
鼻を鳴らしたセルヴァンに、ダンクルベールが頭を掻いた。威風堂々、峻厳で知られるダンクルベールではあるが、上に対しては、案外、如才ない立ち回りができる人だった。このあたり、出自にまつわる苦労が見えて、ほろりと来る。
「他の方向からの囲い込みに関して、特別ゲストをひとり、用意している。ペルグラン少尉」
セルヴァンの言葉に、ペルグランが動いた。
少しして、ひとりを連れてきた。ヴァーヌ聖教の司祭。しかし、そう思えるのは格好だけ。かなりの巨躯の、そして強面の威容。
只者ではない。悪党の類か。
「ありゃ。いつぞやの、間抜けな盗人見習いじゃないか」
ルキエの悪態に、ちらと、その司祭が目をやった。それだけで十分だったのだろう。ルキエの体が、びくりと跳ね上がり、隣のアンリに抱きついてしまった。
それをみとめてから、あえてルキエの方に向き直り、司祭は深々と、一礼した。
「その節について、お兄さん、お姉さん方には、無礼を働き失礼さんにございました。改めて、下拙の不始末、ご勘弁を願いますれば。申し遅れまして、ヴァーヌ聖教会、司祭。悪入道こと、リシュリューⅡ世。名を、ジスカールと発します」
威容だが、静かで穏やかな笑みと声。
それで、ルキエも落ち着いたようだった。アンリはずっと、穏やかなまま。聖教会で繋がりがあるのか、あるいは肝が座っているのか。
「俺の旧知でな。ジスカールには、ヴァーヌ聖教会と悪党方面について協力してもらっている。過去にアンリエットも被害にあっていることを聖教会に伝えたところ、大激怒のご様子だ。その上で、本作戦の実施についても理解を頂戴している。悪党としては、国家憲兵隊総局の将兵や職員による不祥事や不適切な言動について、山のような情報を仕入れてくれた。これもそれぞれ改善が見られないため、是正不適切、ないし隠蔽と見做していいだろう」
司祭、かつ悪党。そして、悪入道という名前。
それで、ぴんと来た。超有名人だ。それも、その二代目。よもやダンクルベールと繋がりがあったとは。
「法で庇いきれないものを庇い、法で裁けないものを裁く。それをやるのがヴァーヌ聖教会であり、俺たち任侠の務めだ。手下どもの世話をして下すった“錠前屋”の皆さんや、チオリエ姉さんのご友人とあらば、尚更だ」
静かで厳かな声。これは頼りがいのある任侠さんだ。
アンリとゴフが近寄って、挨拶をしていた。話しの通り、顔馴染みのようだ。ウトマンやビアトリクスまで挨拶に行っている。ちらと聞こえたウトマンちゃんという呼び方から、前々から気に入られているみたいだ。あの人もまあ、武闘派だもんな。
「戦術面について。本官、アルシェ大尉より説明します。まずは将兵側。スーリ中尉を潜り込ませ、作戦当日、ラクロワ少尉にハラスメント行為を行うよう教唆を行います。ルキエ伍長とチオリエ特任伍長には、少尉の護衛として、また必要と判断あれば、あえて自身が被害にあうような言動を取ってもらいたい。特にチオリエ特任伍長が被害にあった場合、後々、聖教会を動かす口実にもなる。すまんが身をひとつ、張ってほしい」
「かしこまりました。傷のひとつぐらい、どうってことないです」
アンリも、目が燃え盛っていた。聖女と呼ばれるひとだが、慈悲ではなく、苛烈さを以て人を救っている勇者である。
「憲兵総監閣下には、本官と、“錠前屋”よりゴフ中尉とオーベリソン軍曹、くわえて悪入道猊下をぶつけます。今までの経緯や、先の隠蔽と見做せる情報を用い、猊下よりお話をさせていただき、総監閣下の身柄を確保、拘束し、現場に立ち会わせる。そこで、“錠前屋”の二名と悪入道猊下、そしてダンクルベール長官から、各位に対し私的制裁を実行する。まあ、脅すだけ脅した後、一発、怒鳴りつけるぐらいでしょうかね」
これまた大掛かりな内容である。二本立てを一本にまとめるのは、相互の状況確認などが大変だろう。眼の前にいる威容の任侠からのお話については、あえては踏み込むまい。
「念の為ですが、往生際が悪い時は、如何なさいますか?」
「ああ。そりゃまあ、俺の出番だね」
ガブリエリの質問に、アルシェは、こともなげに答えた。
「心だけをぶっ潰す。いつも通りさ」
さらりと言ってのけた。一切、表情を変えず。
何も、反応できなかった。そういえばこのひと、凄腕以上の拷問官だったもんな。
「よう。人員配置の説明は、ご存知、ゴフ中尉だ。先に名前の上がった人員以外に、ペルグラン少尉、ガブリエリ少尉の二名を、目標の逃走阻止を目的に配置する。警察隊本部庁舎の外部への出入り口に、“錠前屋”より二名ずつを配置。後詰として、弁明を行う様子が見られた場合のため、ビアトリクス大尉率いる、女性職員からなる特別班。抵抗が見られた場合の身柄確保のため、ウトマン少佐率いる捜査官を半個分隊。それぞれ用意する。作戦完了後の、目標のお見送りにはビゴー准尉。怪我人が発生した場合のために、ラポワント特任大尉を」
「お断りいたす」
憤然と。
思わず、全員がそのひとを見る。恰幅の良い偉丈夫。その瞼は閉じていた。
「ラクロワたちに害を加えたとあらば、私も剣を抜く」
静かに開いた目が、漆黒に染まっていた。
直感。ひとごろしの、目。
「辱めるものは辱めねばならん。それも我ら、代々の死刑執行人の務めである。首ではなく、尊厳を断つ。たとえそのとき、死んでいてでもだ。その後に両の腕、両足。そして、男のもの。そうしてから親族を集め、その前で犬に食わせる。目を閉じぬよう、瞼を縫い付けてでも終始を見せつける。あるいは瑞の国より伝わりし凌遅の刑。万人の前で、死ぬまで生き長らえさせ、己の愚かを学ばせようぞ」
静かだが、憤怒の形相。万人に死を授ける、死刑執行人。
これが、あのムッシュ・ラポワントの、本来の姿。
「ラポワント先生。どうぞ、落ち着きなすって」
あまりの気迫に一同が圧される中、極めて冷静にジスカールが抑えた。その一言で我に帰ったようで、ムッシュは慌てて、いつもの柔和な顔に戻った。アンリとルキエが、困惑と心配の表情を浮かべながら、ムッシュの側に駆け寄っていく。
「勘弁してくれ。音に聞いた、ラポワント家の首切り剣法。その身で味わうことになるかと思ったよ」
「あいや、長官。本当に失礼をいたしました」
「貴方でも、そこまで怒るものかねえ」
「そりゃあ。なんたって、このこたちのためですもの」
アンリとルキエの肩に手を回しながら、にこやかに笑ったその目は、未だ漆黒。
「そのためなら、冥府魔道にだって堕ちてみせましょう」
笑って言ったそのことばに、全員の喉が鳴った。
この御仁は、絶対に怒らせてはいけない。
「俺とセルヴァンの可愛い部下たちを。まして気が弱くて抵抗ができないであろうラクロワをいじめるなぞ、絶対に許すわけにはいかん。ただし国家憲兵隊という組織は存続させなければならない。だからこその私的制裁だ。これで改善が見られないようであれば、内務尚書閣下は、総監閣下の罷免までも視野に入れている」
ダンクルベール。そして皆。そこまで、ラクロワのことを考えてくれている。
ならば、自分もそれに応えなければならない。
「私たちにとっても、大切な同期です。是非にでも、我がガブリエリ家の名をお使いください。それで宮廷、あるいは王陛下も動かせましょう」
使いたくもなかった家名。だが、使えるならば、使ってみせよう。それがガブリエリ家の。いや、男の務めだ。
ペルグランも、ずいと前に出た。立身出世の代名詞。海の男、ニコラ・ペルグランの血。何を活かすか。
「我が父であるアズナヴール伯、および縁のある海軍本部にも話は通しております。国家憲兵総局庁舎に対し、艦砲射撃を行うとまで申し出てくれています」
「貴様。流石にそれはやりすぎでは?」
「母上が怒り心頭でなあ。女をいじめるやつがいるような組織など更地にしろって、父上どころか海軍元帥閣下を怒鳴りつけちまった。念の為、配備されている戦艦の艦砲性能と庁舎の位置関係から計算してみたが、十分に射程圏内だったよ」
困ったように返してきたペルグランに、思わず皆、吹き出してしまった。仏頂面のアルシェや、強面のジスカールも、手で口元を押さえてしまっている。
「いやあ。ジョゼさまも、相変わらずだなあ」
一番笑っていたのは、セルヴァンだった。
ペルグランの父、アズナヴール伯爵の恐妻家ぶり。というよりは、母であるジョゼフィーヌのかかあ殿下ぶりは、社交界の内外を問わず、つとに有名である。ペルグランの祖父が、あの怪盗メタモーフに馬鹿にされまくって以来、一族の男どもは体面と面目ばかりに拘る、典型的外戚思考に陥っていた。
そこに嫁いできたのが、あのボドリエール夫人の薫陶を授かりまくった、黒髪のジョゼフィーヌさまである。腑抜けの男どもを叱りつけ、尻を蹴飛ばし、海に放り投げるという、星の数ほどの笑い話を提供してくれた。子どもにも厳しく、男なら嫁ぐらい自分で捕まえてこいと、許婚も用意してくれない。最近、あまり名前を聞かなくなっていたが、まだまだご健在のようだ。
ご本人の外見は、まさしく生前のボドリエール夫人のミニチュアみたいで、かつ、お歳を感じさせない脅威の童顔。本当にペルグランそっくりなのだから、びっくりする。
「油合羽、廃止の件。やはり無しで頼みたい」
ダンクルベール。ごんと鳴るように、言い放った。
嬉しかった。油合羽。やっぱり、それがなくっちゃね。
「そうだな、同意見だ。商売繁盛の守護聖人。その神通力は、油合羽無しでは成り立つまい」
セルヴァンも、自信満々、かつ真剣な表情だった。
「我が恩師から受け継いだ、この警察隊本部を守り抜き、育て上げる。それが俺の生涯のすべてだ。そのためには、あのかたが遺してくれた油合羽こそが、俺たちを守り抜いてくれる唯一の鎧だったのだがな」
「油が抜けちまったようだ。入れ直さねばならん」
「そうだ。それに、かびも湧いている」
ダンクルベール。立ち上がる。褐色の巨才が、気を放っている。
「ラクロワと、俺たちの油合羽。その立て直しのためにも、一切の容赦はしない。魔除けの案山子、油合羽の大親分の名に誓い。本作戦、必ずやり遂げるぞ」
おう。声が、重なった。
ラクロワを傷つけた。相手が誰であれ、やっつける理由は、それだけで十分だ。
4.
また、はじまった。貴様同士の大喧嘩。
「また特任士官だと。非正規軍人では、大きな仕事は任せられん。貴様には常々、言っておろうが」
「“錠前屋”に精密射撃手が欲しいというから、見つけてきたんだ。腕っこきの猟師。民兵としての従軍経験もある。実績十分だろうが」
「それならそいつのところに正規軍人を教育に出せばよろしかろう。大体にして、猟師に人は撃たせられまい」
「正規採用では予算が下りん。人件費もかかる。非正規の方が雇用は楽だ。面倒なのは税金関係ぐらい。現場に必要なものを、必要な分に用意する。貴様、何が不服か」
「人は育てなければ、育たん」
「こいつをもとに、貴様が育てればいいだろう」
ダンクルベールとセルヴァンの口喧嘩である。
油合羽の件で、司法警察局庁舎に出入りするようになってから、度々、遭遇していた。最初見たときこそ怯えて竦んでしまったが、次の日になったら、双方けろっとしていたし、回数を重ねるごとに、そのみっともなさもあり、気にならなくなっていた。
大体の場合、議題は人材についてである。在野の名人を欲しがるセルヴァンと、人は育てるものだというダンクルベール。そこでよく、ぶつかっていた。
私と貴様と、俺、貴様。このふたりのやり取りで、よく聞くことば。貴様だなんて、変な二人称。でも、男の人が、よく使いたがるもの。男の美学のひとつなのかなあ。
「ラクロワも巻き込まれちまって、大変だったね」
廊下に出るよう、促してくれたペルグランが、労うように言ってくれた。部屋の中からはいまだ、ぎゃあぎゃあと声が聞こえる。
「でも、あのおふたり。本当に見ていて飽きない。楽しい」
ラクロワは、本心から笑った。
油合羽のことを任されるようになってから、この偉い人ふたりとは、よく話すようになっていた。
セルヴァンは、冷静沈着かつ迅速果断。そして剛毅。とにかく頭脳明晰で、細かいところにも目を配れる。このひとが後ろにいると思うと、安心できる。自分のことをおっさんと下げることが多いけど、まだまだ若々しくて、目を合わせるのすら、どきどきする。仕事の話以外は、結構砕けるし、話題も豊富。気っ風がよくて、話しやすいおじさまだった。
ダンクルベールは、こわかった。特に見た目と声。そして、すべてを見透かすような、夜の海のような佇まい。でも本当に、最初だけ。大きくて、静かで、穏やかな人。すべてを見透かして、理解してくれる。そして、受け入れてくれるひと。時折、帰りが遅くなるときに見る、アンリとふたりで星を眺める姿。大きな背中が、小さく、寂しく見えた。
あの話は、誰かから聞いた。つらくて、泣いてしまった。ひとりのお父さんの、悲しい話。
「あのふたり。全部、正反対だもんね。現場のかみなりおやじと、事務方の美中年。私は長官の隣にいるから、セルヴァン局長閣下の方が、優しく感じるかな。いいよねえ。見た目も振る舞いもハンサムで。今だってもてもてだもんな」
「そうだね」
ひとつ、答えながら。ちょっとだけ、心が浮ついていた。
司法警察局局長セルヴァン少将。酪農の地、フォンブリューヌの地方豪族の次男坊。ふんわりと横に流した、暗い栗毛の短髪に、切れ長の目としっかりした顎の、美貌かつ男前という、絶世の美中年。口元の皺が特に好き。いくらか線が太く、筋肉を感じさせつつも、均整の取れた体つき。声だって最高に格好いい。低く落ち着いて、色気がある。最近は眼鏡も常設で、隙がない。
でも、隣りにいるひとの方が、もっと気になっていた。
ペルグラン。同期の、男の子だった。
ちょっともみあげが強めの、黒い短髪。髪質はさっくり。丸い目の、顔つきの幼さの割に、体ががっしりしていて、かっこいいなって。最初の印象こそ悪かったけど、そのうち、打ち解けていた。素直で真面目で、ちょっと生意気。皆のおもちゃだけど、自分にとっては、いつでも助けてくれる、同い年のお兄ちゃんだった。
同期の男の子、ふたり。同い年。でも、何だかお兄ちゃんなふたり。ガブリエリは理想的な王子さまで、陰ながら見守ってくれるお兄ちゃん。ペルグランは親しみやすく、引っ張ってくれたり、隣にいてくれるお兄ちゃん。ふたりとも、びっくりするほどの名家の出身。でも、それを傘に着ることのない、立派なふたり。海の男と、もと王家。それでもどこか、等身大な男の子。いっつもふたりではしゃいで、遊んでくれる。世話好きなふたり。
可愛くて、かっこよくて、頼りになる。でも皆からは、からかわれる、末っ子みたいなお兄ちゃん。名前も好き。ジャン=ジャック・ニコラ。あまり貴族っぽくない感じ。ジャンくんって、呼んでみたい。
ふと、頭の中が、そんなことでいっぱいになっているのに気がついて、恥ずかしくなった。これってまさか。でも、そうなのかな。きっと、そうなんだろう。こないだガブリエリくんと話したときだって、何だか、ペルグランくんの話題になって、嬉しくなって。これ、なんなんだろう。
私。ペルグランくんのこと、きっと、そう思っている。
「ラクロワ、どうしたの?」
「大丈夫、大丈夫だから」
慌てて、よくわからないままに返答していた。
「そういえばさ。ペルグランくんと、ガブリエリくんも、私、貴様になったよね」
「やってみたかったんだよね。そういう男っぽいの、ふたりとも、好きなんだよ。本当は俺って、言ってみたいんだけどね」
はにかんで言った言葉に、どきっとした。
ペルグランくんが、俺。どうしよう。きっと、かっこいい。ダンクルベールと長くいるから、それもあるのかもしれない。でも煙草は、ガブリエリの方。いつの間にか、咥えはじめていた。長身と長合羽、そしてあの金髪の美貌とあわせて、ハードボイルドなかっこよさだった。
ペルグランくんの俺。ガブリエリくんの煙草。ふたりとも、男の子じゃなくって、男の人になっていく。
「ペルグランくんが、俺。かあ」
漏れた言葉に、思わず慌てた。口を抑えた。
「そう、俺。でも、似合わないよなあ」
「きっと。似合うよ」
鼓動が、すごいことになっていた。でも、願望が願望のまま、出てしまっていた。
「そう?じゃあ俺、やってみようかな」
笑った童顔の、俺。固まってしまった。
「ラクロワ?」
「ううん。大丈夫」
また、慌ててしまった。
「大丈夫だから」
なんとか、ごまかせたかな。でもきっと、顔は真っ赤で、口元、だらしない。
ペルグランくんの、俺。ちょっと刺激が強すぎる。
「あのふたりも、仲がいいこってなあ。少将閣下と中佐。伊達親父と孫持ち爺さん。どうしてまあ、不釣り合いな組み合わせですよね」
日を改めた朝早く。オーベリソンの髭を三つ編みにしながら、何人かで雑談をしていた。いかつい容貌だが、髪も髭もさらっとした、指通りのいい質感だった。
別棟にある備品庫。“錠前屋”の装備品の状態確認と、不足物の補充。あとは衛生救護班が使う、包帯などの消耗品の確認と、各種薬品の棚卸。午前中いっぱい使っても、余裕を持って終わらせれる程度の仕事量である。
「よく男の人って、貴様、って使いますよね」
「昔の兵隊言葉ですよ。貴様と俺とは同期の云々ってやつ。そのとおり、同期の仲良しで使う言葉なんですがね。どうしてかあのふたり、その定型を崩しちまってるんですよ。それが皆、面白いんでしょうねえ。仲が良ければそれでよしって、真似する連中が多いんでさあ」
「でも本部長官さまと局長閣下って、私生活での交友、あまりなさらないとも伺っています」
「単純に、ふたりとも忙しいんじゃない?組織の長だよ。管轄は同じとはいえ、部署が違えば、休日も合わないだろうし」
アンリとルキエ。このふたりは、お姉ちゃんだった。優しいアンリお姉ちゃん。ぶっきらぼうなルキエお姉ちゃん。
「ありがとうございます。やっぱりラクロワ少尉殿が一番、お上手ですな」
そして、カスパルおじさま。こわい顔だけど、いつもにこにこしている、剽軽で子煩悩な、大きな熊みたいなおじさん。
「私。自分のも、自分で結い上げてますから」
「いいよなあ。ラクロワって、本当に女の子って感じ」
「俺から見れば三人とも、女の子だよ。うちの娘たちのほうが、男みたいなもんだから。それじゃあ、また後で」
からっと笑いながら、オーベリソンが離れていった。
「そうなの?アンリ」
「どうだろう。ちょっと押しが強いかも?おばさまに似たのかしら。ビョルンは、どうなんだろう。優しいこ。お姉ちゃんふたりの末っ子長男って、ああなるのかもしれないけど」
「あたしの弟ふたりは、なよっとしてる。男らしさは、あたしが貰っちまったのかねえ。でもさ、ビョルン坊やって、かっこいいんだろ?もうペルグラン坊っちゃんぐらい、背も高いって聞いたし」
「確かに、顔は整ってるし、背も高い。でも子どもだよ。顔も仕草も性格も。お姉ちゃんふたりに我儘言われて、いっつも泣きべそかいててね。そうそう。ビョルンってさ、お菓子作りが得意なの。パンカーカっていうやつ。おじさまの血の故郷に、フィーカっていう、お菓子とお茶を楽しむ習慣があって、ビョルンがいっつも作らされてる。でもビョルンのパンカーカ、美味しいんだよねえ」
アンリは、ルキエとお喋りするときだけ、結構、砕ける。同い年の親友だった。
オーベリソンの、三人の子ども。娘ふたりは、ラクロワと同じか、少し下。ちょっと離れて、末っ子長男のビョルンくん。噂にはよく聞いていた。お父さん譲りの長身で、でもすらっとした、かなりの美少年らしい。
「そういやさあ」
ルキエが、悪そうな顔で前に乗り出した。
「昨日、ペルグランの坊っちゃん。俺って、言い出してさあ」
からかうような言葉に、顔が熱くなった。
「うっそだあ。ペルグラン少尉さまが、俺だなんて」
「ほんとほんと。皆で、からかってやった。なぁに、かっこつけやがってってさ。そしたら、むきになってやんの。ラクロワが言ったんでしょ?俺って、似合うと思うって」
ふたりの顔が、こっちに向いた。思わず、跳ね上がった。
「はい」
仕方ない。白状しよう。お姉ちゃんふたりなら、きっと大丈夫。
「あら、ラクロワ少尉さま。赤くなっちゃって」
「おいおい。もしかしたら、もしかすんのかよ」
「はい」
顔が、火照っていた。鼓動も、すごい。
返答にふたり、きゃあきゃあ言いはじめた。
「大丈夫。秘密にしますよ。でも、ラクロワ少尉さまから見れば、きっと頼りがいのある殿方ですもんね」
「あたしも、ちゃんと守るよ。坊っちゃんの俺。ラクロワの前だけにしろって、言っとくさ」
「それはちょっと、あの。やっぱり、ペルグランくんは、私のほうが」
慌ててしまった。やっぱり、迷惑をかけちゃった。ペルグランくんの、俺。ただの、自分の我儘だったのに。
「どうしたんです?せっかく勧めてあげたのに。ペルグラン少尉さま、本部長官さまとおんなじで、かっこつけたがりですもの。俺でも、いいとは思うけど」
「あの、ちょっと。よすぎて」
恥ずかしかった。そして、何を言っても、ふたりとも笑ってばっかり。
「ラクロワぁ。本っ当にお前、乙女だねえ。好きな人が私から俺になるの、けしかけといて。なったらなったで、たまらなくなっちゃったんだあ」
「だって。あの顔で、俺って」
「確かに。ペルグラン少尉さまって、体つきの割に、お顔だけ子どもですものね。それで俺って言われたら、くすぐられちゃうなあ」
「ギャップ萌えってやつ?そういや、ガブリエリも煙草、はじめたもんね。あいつらほんと、かっこつけ。いいとこの坊っちゃんって、そういうの、憧れるんだろうね」
「それかあ。じゃあ、今度はどっちかが、お髭を蓄えるのかな?ガブリエリ少尉さまだろうなあ。金髪碧眼、長合羽の咥え煙草に無精髭。でも一人称は、私。そうなっちゃったら、女の子、皆で飛び上がっちゃうかもね」
「スクリプチェンコの世界じゃん。かっこつけの大好きなやつ。それとラクロワも」
「はい。だから、俺って、いいなって」
答えた言葉に、アンリもルキエも、腹を抱えていた。
男臭いものが大好きな父親の影響か、任侠ものとか、ピカレスクロマンだとか。そういった男っぽい読み物が好きだった。スクリプチェンコという作家の、淡々とした文章と、荒んだ感じ。ほろ苦い、おじさんのお話が多い。それと、ケンタロウ・キタハラ。とにかくかっこいい男がいっぱい出てきて、出てきた順から、かっこよく死んでいく。そんなのばっかりだけれども、その鮮烈さとか寂しさとかが、突き刺さった。
俺。煙草。油合羽。男らしい人の、男の証。そういうのが、好きだった。
そろそろお昼になるので、三人で、食堂に行こうということになった。調練場経由で行くと、近道になる。一旦、外に出るかたちになるので、油合羽を羽織った。自分は中合羽の前をしっかり締めて。ふたりは、短合羽をさっくり羽織る。外にいることが多いのか、かなり育った風合いで、かっこよかった。
このふたりのお姉ちゃんは、いつもよくしてくれる。優しくて、面白くて、頼りになるかっこいい女性。自分もいつか、そうなりたいとばかり、思っていた。
思うばかりで、どうにもならないのが、もどかしかった。
途中。足が止まった。反射的に。
男、三人。にやにやしている。
「ビビちゃん。久しぶり」
汚い声。怖気が、走った。
いやな人。本当に、気持ち悪い人。何で、教えてもないのに名前を知ってるの。しかも何で、ビビって。お母さんとか、友だちの間でしか、使ってなかったのに。
「てめえ。また来やがったのか」
ルキエが前に出てくれた。
「ブスには用は無ぇんだよ。俺を誰だと思ってやがる」
乾いた音。ルキエの頬がぶれた。
ルキエの背中。震えている。我慢している。手を出せば、怪我をさせれば、問題になるから。
「誰であれ、女の子に手を上げたり、こわがらせる殿方は、許せません」
アンリも、男の眼の前に立ちはだかった。ふたりとも、すごい勇気だ。
「つけあがってんじゃねぇよ。何が聖アンリだ、傷物女が。本当に傷物にしてやろうか?ああ?」
汚い声。アンリを、突き飛ばしたが、二歩ほど下がるだけで、倒れはしない。それが気に喰わなかったのだろう。今度は、拳で顔面を殴りつけた。
三発。女の子の顔を、殴った。それでも、その顔も、体も、ほとんどぶれなかった。
「できるものなら、やってご覧なさい。所詮は女に手をあげる程度の男だと、見せてご覧なさい。ここで退くなら、女ひとり殴り飛ばせずに逃げて帰ったと、一生涯、謗られることでしょうね」
「この、傷物女が」
「貴方のような、何も知らないお坊ちゃんには、傷付けられる痛みもこわさもわからないでしょうね。私は戦乱の、あの混沌の中で生きてきた。守るべきもののためなら、傷のひとつやふたつ、あるいは生命すら捨てたって構わない」
宝石のような声。それでも、傲然と吐き捨てる。
「そのために」
ばっと、両手を広げた。
「この傷と名を、負ったんだっ」
怒号。
これが聖アンリ。向こう傷の聖女。最前線の守護天使。戦火の中、こうやって立ちはだかって、守るべき人たちを守ってきた、ただひとりのアンリエット・チオリエ。
かっこよかった。そしてそれ以上に、自分がこうなれないことが、情けなかった。
「五月蝿えんだよ」
腹に、前蹴り。よろめいたアンリに、ルキエが駆け寄った。
「てめえ、よくもアンリを」
「大丈夫、ルキエ。怒らないで」
「ほらブス。聖女ちゃんが怒るなって言ってるぜ。俺はビビちゃんに用事があるから、そのままいちゃいちゃしてなよ」
三人。近寄ってくる。立ちすくんでいる。
何もできない。こわくて、怯えるばっかりで。いやだ。声すら聞きたくない。やめて。ビビって、呼ばないで。気持ち悪い。お母さんとか、友だちとかが呼んでくれたものが、全部、汚いもので、塗りつぶされていく。
好きだったのに。ビビって名前、好きだったのに。
「これは如何したことかな」
肩に、感触。大きい手。
来てくれた。でも、違う。いつもより、大きい。影も、ずっと。
「うちの娘どもが、何かしたかね?」
深い声。暗闇に揺蕩う、夜の海のような。
振り向いた。大きくて、深くて、静かなひと。褐色の大男。
その顔を見て、思わず頬が緩んでいた。アンリもルキエも、その姿と声で、表情が和らいだ。
油合羽の大親分だ。誰であろうとやっつけちゃえる、ダンクルベールのお殿さまのご登場だ。
反対に、男たちは、唖然というか、必死の形相。滝のような汗が流れはじめた。全員、顎を上げるほどの巨躯である。
「これは、あの。警察隊本部長官殿。違うんです」
「何が違うのかを教えていただきたい。娘ふたり、貴官らに殴られるようなことをしたのかね?それであれば、父親たる本官が責任を取らねばなるまいが、そのためにも、まずは経緯の説明を願いたい」
肩に置かれた手が、そっと何かを促すように動いた。不思議とそれに導かれるように、ラクロワはダンクルベールの後ろに隠れた。
ダンクルベールの左足。ガンズビュールの際に、負傷した傷がもとで動かしづらくなった、その左足。そこに、しがみついていた。その大きな左手は、未だラクロワを守るように、静かに広げてくれている。
ふと気付いた。どうして今、ダンクルベールは、右手に杖を持っているのだろう。どうして左側に来るよう、促したのだろう。
眼の前の三人は、うろたえるばかりで、話が進まない。いや、でも、だってを繰り返している。
流石はダンクルベールだ。最低限の言葉だけで威圧感がある。悪党をぶちのめし、怪盗をふんじばって、凶悪犯を追い詰める、歴戦の勇者だ。
「らちが開かんな。こじ開けるより他あるまい」
杖が鳴った。
何人かが、近づいてくる。ゴフ隊長と、オーベリソン。その隣の、見知らぬ大男。そして見覚えのある、げっそりした中年。
国家憲兵隊総監閣下。すでに、がたがたと震えている。
「総監閣下、困りますなあ。再三、申し上げている通り、この三名の言動は重大なハラスメント行為であり、国家憲兵隊の社会的信用を大いに損なうものですぞ。司法、行政の警察機能を司る警察隊の長として、これ以上の不道徳、もはや目を瞑るほどの義理も道理もござり申さん。以降は法務部を通して連絡を差し上げますので、こちら三名、速やかにお引き取り願いたい」
「そこをどうか。私の方で、かならずや更正を」
「末席からの発言。大変、不躾ではありますが、効果のない対策を取られても困ります。これで四度目です。本官の可愛い娘どもは、度々こうやって、閣下のご子息がたによって、こわい思いをしておるのですよ?閣下も人の親なれば、可愛い我が子がいじめられる姿など、見たくはございますまい」
「そのとおりだ。しかし、その」
「今回に至っては、可愛いアンリエットに対して傷物女と暴言を吐き、殴る蹴るの暴行をなされたのです。立派な刑事事件です。これを公にしないとならば、それ相応の理由が必要になりますが、閣下とご子息さまにおかれましては、ヴァーヌ聖教会に対し、いかなる弁明をなさるおつもりか?ここでお答えできぬとあらば、ヴァーヌ聖教会所属の修道士に対する暴言と暴行の現行犯として、身柄を確保させていただきますぞ。そうなれば、国家憲兵隊という組織そのものがどうなるか。これ以上はあえて申し上げますまい。さて、如何なされますかな?」
「それは本当に、私の教育の至らぬがゆえに」
どん、と。杖の音。三人と、総監閣下の体が跳ね上がる。
「あるいは、本官がそうしてよろしいのであれば、今ここで、この三名。その性根を叩き直してもよろしいですかな?それでならば、閣下の面目も守れましょう」
その言葉に、震えながら、観念したように。
「申し訳ない。それで、どうかひとつ」
一番、偉い人。総監閣下が、俯いてしまった。
「父上。そりゃあ無ぇよ。助けてくれ」
「お前さんがた。そのあたりにしときな」
割って入ったのは、オーベリソンの隣りにいた、見覚えのない男だった。
長合羽に身を包み、軍帽を目深に被っている男。その人は、総監閣下を投げて寄越すようにして、三人の前に突き出した。
堂々と、そしてゆっくりと。そうして、ラクロワを挟み込むようにして、ダンクルベールの隣に並んだ。ダンクルベールと同じぐらい、大きい。
長合羽を脱ぎ捨てる。軍帽も。
「初の貴見にございます」
ヴァーヌ聖教の司祭。威容、としか言い表せないような、こわい顔。でもどこか、ダンクルベールに似た雰囲気を感じる。
後ろで手を組みながら、深々と一礼。そのまま、言葉が続く。
「手前。ヴァーヌ聖教、リシュリュー教会。司祭」
静かで、厳かな声。ずしりと、のし掛かるように。
「名を、悪入道」
顔を上げながら、司祭はそう名乗った。
わからないものが、全身に駆け巡った。きっと向こうの三人もそうなのだろう。凍ったようにして、動けなくなっている。総監閣下は頭を抱えて、震え上がっている。
悪入道。士官学校で習っていた。極悪人。裏社会に君臨した大悪党にして、暦を直すほどの神智を誇った、大学者。
亡くなったと聞いていたけど、この任侠さんが後継ぎなのだろうか。
すっと、その右手が動いた。ダンクルベールが広げた左手に重なるように、ラクロワの前に差し伸べられた。それで心の中が、柔らかくなっていく。
そうか。このひとも、ダンクルベールなんだ。悪党になった、長官みたいなひと。弱きを守り強きを挫く、大きなひと。
見とれていた。それぐらい、かっこよかった。
「親の威光を傘に着て、女を泣かせて楽しいか。そうして手籠めにできたとて、墓を共にと歩めるか」
任侠節。本物だ。お父さんが好きなやつ。つとめて静かに、それでも重いものを置いていくように、圧していく。
「法と親とが許そうと、お天道さまが許さねえ。ましてや聖教会の顔、聖アンリに傷入れて。頭を下げて済むとでも、今の今更、思ってくれちゃあいねえだろうなあ?」
びくりと、四人の体が跳ね上がった。司祭にして、大悪党。おっかない。かないっこない。それほど大きい声でもないはずなのに、声というものが、眼の前にあるように感じる。
これが大悪党。悪入道、リシュリューⅡ世さま。
「ヴァーヌの教えに連なるものとして。侠たることを任されたものとして。この悪入道。弱きをいたぶる畜生外道、見過ごすわけにゃあ参りゃあせん。渡世の仁義、ひとつ。果たさせていただきます」
一歩だけ。後ろで手を組む。そしてまた、深々と。
「この落とし前」
声に、どすが乗っていた。
上がりはじめる頭。見えないけれど、立ち上る何か。
「てめえの生命で足りる勘定だと思うなっ」
空気が、震えた。吹っ飛ばされるかと思った。
三人は、吹っ飛ばされていた。どでかい侠気をぶっつけられて、蜘蛛の子を散らすように走り出した。
「最果ての地。氷河の原を切り拓いた、双角王の名に誓い」
どん、と。また、大きな音。またしても立ちはだかったのは、見覚えのある巨人。
「我ら、鋼の血族」
大きくて、太い声。知っている声。
「カスパル・オーベリソン。ここに見参」
長柄の斧。目元を覆うような、旧い鉄兜。今朝、結って上げた、三つ編みの髭。
北方の雄、アルケンヤールの戦士の血。オーベリソンだ。
「よう。ご存知、“錠前屋”のお出ましだ。こじ開けれるもんなら、こじ開けてみな?」
茶化すように、“とんかち”を担いだゴフが並んだ。それに怯えて、男三人、反対側へと走り出す。
「おっと、お兄さんがた。観念しましょう。回れ右、です」
「大丈夫。もう少しで終わりですから。お父上と一緒なら、安心でしょう?」
立ちはだかったのは、ペルグランと、ガブリエリ。顔を見た途端、嬉しくなった。
「五月蝿えっ。てめえら、星の数も数えられねえのか。少尉風情がよお」
汚い声。でも、もうこわくない。本部長官と悪入道さま。ゴフ隊長にカスパルおじさま。ペルグランくんに、ガブリエリくん。アンリさんに、ルキエ伍長。
こわくない。皆が、いるから。
「遺言は、それでよろしいかね?」
朗々と。そしてまた、荘厳な。鐘の音のような。
ペルグランたちの後ろから、それは現れた。足音を響かせながら、ゆっくりと歩いてくる。
「尊厳を辱めるもの。その尊厳の重さを知らぬものどもよ」
恰幅のある偉丈夫。三角帽子。濃紺の外套。水色の肩襷。携えるは大きく長い、鈍色の剣。微かに香るは、白檀の香。
肌が、粟立った。
「なれば斬るべきは、その尊厳。それもまた我ら、代々の死刑執行人の務めなり」
聞き覚えのある、朗々とした美声。でも、聞き覚えのない、傲然とした声。その貌もまた、見覚えはあるが、見たことがなかった。
三人の前に立ちはだかり、そのひとは、大剣の切っ先を天に指し、その鍔を、眼前に掲げた。
「我こそは、ムッシュ・ド・ネション。名乗るべき名は、フランシス・ラポワント」
死刑執行人。恐ろしい声で、そう名乗った。
奥歯が、鳴っていた。あの心優しくて、歌が上手で、朗らかなおじさんじゃない。別人だ。真っ黒い眼。忿怒の表情。優しさなんて欠片も感じない。死神。いや、死、そのもの。
あれこそが、代々の死刑執行人。ムッシュ・ラポワントの、当時の姿。生涯最期の立会人。旅立ちを見送る首切り役人。
「ムッシュ。違う、違うんです。そういう意味では」
「殺しはすまい。死ぬことも選べぬような体にするだけだ。そうして、死ぬまで生きること。それこそが、貴殿らの尊厳の、死だ」
首元。頸動脈に突きつけられる、切っ先の丸められた大剣。それこそは、死の宣告。
体が、震えていた。ダンクルベールの左手が、それを抱きとめてくれた。それでも、止まらない。目を、開けていられない。
あんな優しいおじさんが、あんなに、こわいひとだったなんて。美しいことばを連ねた声が、こんなにも、恐ろしくなるだなんて。
どうして、ムッシュ。どうしちゃったの。
「ラクロワよ」
その声が、私の名を呼んだ。
優しい、声だった気がした。ゆっくりと、目を開けた。
「我らが愛娘。ヴィオレット・ラクロワよ」
その死刑執行人は、先ほどの自分と同じように、深く瞼を閉じていた。
そのままもう一度。剣を、掲げた。
「お前のためならば、私は喜んで地獄に堕ちよう。それこそが、我ら代々の死刑執行人の。そしてフランシス・ラポワントという、ひとりの人としての。望みである」
開いた瞳。知っている光が、そこにあった。
こみ上げていた。そこまでの覚悟を以て私を助けに来てくれたんだ。人を殺め続けた、死刑執行人だったころにまで、遡ってくれてまで。
やっぱり、優しいひとだった。ムッシュおじさんだった。
男たちが逃げ出す。でも、囲まれている。“錠前屋”。死刑執行人。悪入道。聖アンリとルキエ伍長。ペルグランくんとガブリエリくん。そして、油合羽の大親分。
油合羽の精鋭が勢揃いで、総監閣下を含む男四人。壁際に追い詰めていく。
「ごめんなさい、皆さん。お殿さま。どうかお許しを」
「そこに直れっ」
大喝。ダンクルベールだ。
もしかして、お殿さまの名文句。はじめて聞く。それもこんな、間近も間近で。
右手に持った杖。ゆっくりと。それぞれの鼻先に、順に突きつけながら。
「神妙にすればそれでよし。そうでないなら」
右手の杖。どん、と鳴って。
「ここで屍を晒すことになるぞ」
轟音。四人、壁に叩きつけられる。
呆気にとられていた。これが、魔除けの案山子の神通力。一発、怒鳴っただけで、男四人が、ばたりと倒れ込んでしまった。
「皆さま、お疲れのご様子だ。お送りして差し上げろ」
静かに放った言葉に、アンリとオーベリソンが頷いた。ひとりでふたりずつ、担いで持って行く。そうして、適当なあたりで、ひょいと投げ捨ててしまった。
振り向いたダンクルベール。膝を折って、目線をあわせてくれた。優しい目。深く青い、夜の海のような瞳。
さざなみ。穏やかに、広がっている。
「こわかったろう?俺が不甲斐ないばかりに。お前には、つらい思いをさせてしまったよ」
悲しそうな顔。優しいことば。それで、溢れてしまった。
「ごめんなさい。長官。私、こわくって。総監閣下の息子さんだって聞いて、何にも、できなくなっちゃって」
「そうだよな。どうしようもなかったもんな。気付いてあげられなかった」
「私も、言えなかったんです。こわくて、こわくて」
泣くことしかできなかった。それしか、できなかった。
私。何にもできなくって、人に助けられてばっかりで。
「でもな、ラクロワ。俺が、必ずお前を守る」
肩に、温かいものが乗った。大きな手のひら。
「この魔除けの案山子が、必ずお前たちを守ってみせる。そのための油合羽だ。これがあれば、どこにだって駆けつける。どんな偉いやつが相手だろうが、どんな悪いやつが相手だろうが。今みたいに、やっつけてやるからな」
涙で霞む視界の先。褐色の、お父さんの顔。本当のお父さんじゃなくて、ダンクルベールという、お父さん。
温かかった。嬉しかった。油合羽。私の、お守り。その象徴。ダンクルベールのお父さん。
ようやく、涙が枯れたあたりで、ダンクルベールが立ち上がった。
杖は、左手にあった。
「あの、長官」
思わず、声に出していた。
「どうして、左足を。悪くされた左足を」
それが、不思議だった。どうして、悪い方の足に、私を導いてくれたんだろう。
「可愛い娘に支えて欲しくてな。なんたって、相手は総監閣下のご子息だもの。お前の勇気が欲しかったんだ」
白い髭面。にっこりと笑った。
勇気。自分の勇気。そんなの、無いと思ってた。でも、ダンクルベールは、それが欲しいって。
そうか。頑張らなきゃ。勇気を、作らなくっちゃ。魔除けの案山子。その左足分の、勇気。
「よく頑張ったねえ、ラクロワ」
朗々とした美声。温和な笑顔。
「ごめんね。お前をこわがらせてしまった」
そのひとは、にっこりと笑っていた。
思わず、飛びついていた。そうしたら、抱き上げてくれた。
「ムッシュさんだ。やっぱり、ムッシュさんだったんだ。よかった。いなくなっちゃったのかと思っちゃった」
「可愛いラクロワのためだもの。でもちょっと、張り切りすぎましたかなあ」
いつもの、ムッシュの声。にこやかな顔。嬉しかった。
「いやあ、おっかなかったですよ、ムッシュ先生。俺ぁ、あんなにこわいもん、はじめて見ました。それ以上に、かっこよかったなあ。我ら、代々の死刑執行人、ってね」
からからと笑いながら、もうひとりのおじさん、オーベリソンが近づいてきた。鉄兜と大斧の、“北魔”のまんまで。でも、いつものカスパルおじさんだ。
「私も、アルケンヤールの戦士の名乗りははじめて見ました。見惚れちゃいましたねえ。今度、真似しましょうかね」
「それをいっちゃあ、あの悪入道さんの任侠節。最高だった。あれ、きっと即興でしょう?すごいもんですよねえ。ありゃ、どこ行ったんだ?帰ったかしらい」
そうだ。悪入道さま。お礼を言わなきゃ。
見渡す。どこかの出口の方。司祭の服。大きい体。
いた。背中が、ちらと見えた。
「悪入道さま。ありがとうございましたっ」
精一杯、声を張ったつもりだった。
その背中は、背中のまま、軽く手を振ってくれた。
「はい、お疲れ」
淡々とした、それでも朗らかな声。
見上げた。アルシェ大尉だ。
「ちょいと、これから毎日。三十分ぐらい、治療しよう」
「治療、ですか?」
「ガブリエリから聞いててね。お母さんとか友だちとかに、そう呼ばれてもいいようにさ。今はつらいだろうけど、少しずつ、受け入れていこう」
仏頂面が、ほんの少しだけ笑っていた。
ビビ。私の名前。汚れてしまった、呼ばれたかった名前。それを、綺麗にしてくれる。
零れそうになったのを、頑張って堪えた。
「そうじゃないと里帰りしたとき、大変だろ?」
「はい。よろしくお願いします」
「あいよ。んじゃ、またね」
それだけ言って、どこかへ行ってしまった。
心を責める拷問官。そして心を癒す専門家。そんな人も、自分の周りにいて、気遣ってくれる。
ビビ。少しずつ、取り戻せるかもしれない。
そのうち、ビアトリクス課長とか、ウトマン課長とか、皆が来てくれた。そして皆、労ってくれた。褒めてくれた。
嬉しかった。私、こわくて、なんにもできなかったのに。
「めでたしめでたし、かな」
低く落ち着いた、かっこいい声。
セルヴァンだ。でも、ちょっと普段と違う格好。
ちょっと太めのトラウザー。ざっくり編んだセーター。そして年季の入った、紺色の短合羽。
はじめて見た。絶世の美中年、セルヴァンの油合羽。しかも相当、ラフな着こなし。もともと、いくらか骨太でもあるので、普段の優美な色男よりも、男前が強く出ている。ラグラン袖が肩周りを強調して、より男性的で、かっこいいおじさま。濃緑色でなく紺色というのが、セルヴァンらしくって、素敵だった。
「局長閣下。油合羽ですか?それも紺の短合羽だなんて」
「私服だよ。休みだからね」
ペルグランの質問に、セルヴァンは、からりと答えた。
「これから家庭菜園さ。油合羽は、野良仕事にゃあ、持って来いだもの」
「少将閣下、御自ら、鋤鍬担いで畑仕事か。好きだねえ、貴様も」
「土いじりは今も昔も、私の天職だよ」
ふたり、お互いの胸に拳をぶっつけて。貴様と俺のやりとりだ。
雑談の中で知った、セルヴァンの私生活。土いじりが趣味で、邸宅の片隅で、野菜と香草とかを組み合わせて育てているらしい。子どもの頃から、農作物が不作にならないよう、畑に出ていたことの名残だそうだ。子どもたちは手伝ってくれるけど、ご内儀さまはよく思ってくれていないとのことだ。
絶世の美中年の、素朴な一面。微笑ましかった。
「まったく。子どもひとり、まともに育てられんくせに。要らぬ口を叩くことばかりは達者だからな。ああいう手合いは、あの任侠さんが最適だね。いやぁ、凄いな。あれ」
「今回は、ジスカールが大活躍だった。まあ、今度来やがったら、ペルグランのご母堂に頼んで、総監閣下ごと更地にしてもらおうかね」
「いいねえ。きっと貴族も民衆も、拍手喝采の大歓迎だろうよ。ジョゼさまの武勇伝がまたひとつ増えるんなら、アズナヴール伯さまも、喜んで叱られてくれるだろう」
そうやって笑っているふたり。いつの間にか、隣りにいたペルグランが、何故か、恥ずかしそうな顔をしていた。
「ジョゼさまってのが、ペルグランのお母さん。有名人なんだ。強烈な面白話がいくつもある」
やっぱり隣りにいたガブリエリが、からかうような口ぶりで教えてくれた。
「今回の根回しのために実家に声を掛けたら、大激怒だったんだと。こいつの縁がある海軍本部に乗り込んでって、女いじめるやつがいるところなんか、大砲ぶち込んで潰しちまえって、元帥閣下を怒鳴りつけたらしいぜ」
「やめろよ、恥ずかしい。本当、あの母上は、過激なことばっかりでさあ」
内容と、ふたりのやり取りで、思わず吹き出してしまった。そしてひとつ、結びついていた。
「“淑女のすゝめ”の、黒髪のジョゼフィーヌさま?」
「そうそう、それ。面白いよなあ。あれ目的で新聞買ってるもん。“男の何を手に取るかによって、女の価値は決まる。生殺与奪の権利を握ってこそ、一流の女”、だっけ?腹抱えて笑っちまったよ。すごいよなあ、貴様のご母堂」
「“男の本質は、海に投げ捨てた時にこそ見える。溺れるやつは、ほうっておけ”。素敵ですよね。お会いしてみたいです」
「“手の甲にベーゼをする男は、面目しか守れない。無理やり唇を奪う男にしか、女は守れない”かな。ほんとあれ、面白くって。坊っちゃんのお母さんだったんだ。こりゃあいいや。紹介してよ」
アンリやルキエも混ざってきた。ふたりとも、既に満面の笑み。よくお喋りの中で、話題に出していた。
あんなに強く殴られたのに、アンリの顔は腫れてすらいなかった。体の使い方をうまくするために、ムッシュから瑞国とかの体術を習っていたとは聞いていたけど、それなのかな。
「私は何度かお会いしたけど、内容とはまったく違うお方ですね。お淑やかで、気品のあるお母さん。特にお顔が最高でね。びっくりするぐらい童顔で、ペルグランそっくりなんですよ」
やっぱり茶化したガブリエリの言葉に、思わず声を大きくして、笑ってしまった。真っ赤な顔のペルグラン以外、げらげら笑ってしまっている。
“淑女のすゝめ”。ビュイソン共同新聞に連載されている、ひとくちコラム。その優雅な題とは裏腹に、その内容は、男の見定め方だったり、手綱の握り方だったり、尻の敷き方だったりと、かっこいい女性とか強い女性の在り方を、面白おかしく綴っている。毎回毎回、本当に強烈で、確かにそれを目当てに、新聞を買っていた。
ペルグランのお母さんだというのは、はじめて知った。きっと発言どおりの、とんでもない猛女か烈女かと思っていた。そうなんだ。ペルグランくんって、お母さん似なんだね。やっぱりペルグランくん、可愛くて、かっこいいなあ。
「本当にやめてくれ。俺、それ気にしてるんだから。皆に言われるんだよ。母上そっくりの、子どもみたいな顔だって」
「出た出た。俺。まだまだ染みっ付いてないねえ」
「ペルグラン少尉さまの、俺。かっこいいなあ。私は好き。ほら、もう一回。言ってみて?」
「アンリさんも、からかわないで下さい。ああもう。俺、ラクロワが、きっといいって言ってくれたから、決心したのにさあ」
「おや、貴様。そうだったのかよ。私の紙巻とおんなじだ。ラクロワも罪なやつだね。男心、誑かされちまった」
ガブリエリの言葉に、全員の目がこっちに向いた。
「ごめん」
それしか、出てこなかった。
皆、大笑いだった。恥ずかしかった。顔が、火照っていた。
「ラクロワ少尉さまは、殿方を持ち上げるの、お上手なんですね。いい女ってやつかしら」
「ラクロワさあ、ちゃんと自覚持ちなよ?男たらしになっちまう。でも、いいなあ。魔性の女だ。かっこいいじゃん」
「ほらほら。あんまり、からかわないで。ラクロワだってきっと、勇気を出して、俺と紙巻、勧めてくれたんですから」
「どうだかね?貴様と私に、己の願望、ぶっつけてんじゃないのかい?まあ、ラクロワの好みの男になれるんだったら、冥利に尽きるってもんだけどね」
ガブリエリの笑っていった言葉に、どきりとした。この美男子の、お眼鏡にかなうような淑女になんて。とても。
「そりゃあそうだけどさ。俺も貴様も、婦女子の前で格好つけるの、大好きだからな。特にラクロワ相手なら、とびっきり、張り切っちまうもん」
ペルグランも。ニコラ・ペルグランのお血筋が、格好を付けてくれてたんだ。しかも、張り切っちゃうほどなんて。
私。とんでもないことしてる。かっこいい男の人ふたり、両脇に置いちゃって。そのうえで、皆に頼ってばっかりで。
「少尉ふたり。俺と貴様と紙巻か。それも、女の子に唆されてとはな。貴様のかっこつけが伝染ったかねえ?」
冷やかすように、それでも最高の美声で、セルヴァンが言ってきた。
「ガブリエリの紙巻まではわからんよ。先輩も吸わないし。ラクロワの趣味だろう?大体、男ってのは、女にそう言われたら最後、張り切っちまう生き物だろうがよ」
ダンクルベールは、いくらか迷惑そうに、それでも笑って返していた。
どきりとした。確かにその通りだったから。やっぱりダンクルベールのお殿さまの眼は、ごまかせない。
「もしかしてさあ。長官も、私だったりしたんですか?」
ルキエ。茶化すような感じだった。口が悪い以前に、本当に物怖じしない。そういうところが、格好よかった。
言われて小さく、鼻の鳴る音が聞こえた。
「女の前ではね」
ダンクルベールの、明らかに作った声。
ルキエとアンリがはしゃぎだした。周りの女性隊員も、きゃあきゃあ言い出している。何だか自分も、ちょっと頬が熱くなった。
ダンクルベールの、私。しかも、女の人の前だけって。娘とか、同僚とかでなく、女。ダンクルベールの、男と女。
まさか、ボドリエール夫人。
ガンズビュール事件以前から、ふたりは交流があったことは、よく知られている話だ。母親がふたりともの大ファンで、当時のゴシップ誌をはしゃぎながら見せてくれた。捜査官と凶悪殺人犯。男と女。愛欲の果てにたどり着いた、決別。ちょっと淫猥な言葉が並んでいた。
夫人の“静”の作風のはじまりである“再びの人”という詩集が、ダンクルベールとの邂逅の後に発表されたものだから、当時は“あれ、再びの人って、もしかして”と、誰も彼もが大騒ぎしたらしい。
文壇に咲いた徒花、ボドリエール夫人。そんなひとの前で言う、稀代の名捜査官の、私。あまりにも、話ができすぎている。
「あら、課長」
嬌声の中。むすっとした、不機嫌な声。
「私のこと、女としては、見てくれてなかったんですかね?」
マギー監督こと、ビアトリクスだった。正統派美人といった美貌だが、明らかにへそを曲げている。
いわゆるダンクルベール世代で、実際にダンクルベールの薫陶も受けた時期があるとは、本人からはよく聞いていた。そして、大事なことを話す時、ビアトリクスは決まって、ダンクルベールのことを課長と呼ぶ。
まさか。まさか、そうだったんだ。マギー監督。
「そりゃあ、まあ。娘を女としてみるのは、よろしくなかろう?なあ、ウトマン」
「そうですねえ。長官からしてみれば、可愛い娘。私からすれば、可愛い妹ですよ。今だってそうですもの」
ふたりとも、楽しそうに言った言葉に、ビアトリクスの美貌が沸騰した。
女ではなく、娘と、妹。マギー監督って、末っ子なんだ。
「新任少尉のころのマギーったら可愛かったあ。ふっくらほっぺに真っ赤な口紅。とびっきり、おませなこが入ってきたって、ヴィルピンとふたりで、はしゃいじまったもんですよ」
「ちょっと、ウトマン先輩。やめて下さい」
「落ち込む度に、ヴィルピンが世話焼くんだよな。でもあいつも、話を聞いてるうちに泣いちまって、ふたりでわあわあ言ってさあ。でも終わったらふたりとも、けろっとするんだよ。あれが本当、おかしくってねえ」
「ヴィルピンがめそめそ泣いて、マギーが歯ぎしりしながら泣くんですよね。マギーったら、あの頃からずっときかん坊ですもの。もう、可愛いのなんのって」
「こらっ。ウトマン先輩」
顔を真赤にしたビアトリクスが、すごい剣幕でウトマンに詰め寄った。がみがみ言われながらも、ウトマンはずっと、嬉しそうな顔だった。
ウトマン課長。妹が大好きな、お兄ちゃんなんだ。つんけんした妹に、久々にかまってもらえて、嬉しいのかな。何だかちょっと、ほんわかした。
ヴィルピンというひとのことは、ペルグランから聞いていた。ぬいぐるみみたいな、お髭と軍帽の泣き虫支部長。転んで、泣いて、立ち上がる。本当に面白おかしい、素敵な人。
しっかりものと、泣き虫なお兄ちゃんふたり。おませな末っ子ちゃん。かっこいいママさん軍警の、可愛かった頃。きっと、ふたりの言う通り、微笑ましい光景だったんだろうな。
「さて、と」
隣から、少し張った声。
「ほんじゃあ、一服させてもらうかね?婦女子の前で煙草なんざぁご法度だが、ラクロワが見たいっていうんだから、仕方がない」
突然、ガブリエリが、そんなことを言い出した。ぎょっとした。きっと、飛び上がっていた。
ガブリエリくんの、紙巻。しかもこんな、近くで。
「あの、ちょっと待って。ガブリエリくん」
慌てて止めようとした。心の準備が。でももう、懐に、手が。
「どうして女の前で煙草吸っちゃあいけないか。ご存知かしらい?お嬢さま」
その声。入って、留まり続ける。長合羽の懐から取り出した紙巻。咥えて、マッチ。ざっという、擦れる音と、鼻をくすぐる炎。うっとりする光が灯って、消える。
横顔。一番、見たかったもの。金髪に隠れる眼。濡れた唇で咥えた、少しだけ曲がった紙巻と、紫煙。甘く蕩ける息の音が、脳を焦がしにくる。白い指が、煙を挟む。
そして碧が、こちらを向いた。
「ベーゼをしたら、恋慕をつけちまうからさ」
色香の燻りと、美貌が、微笑んだ。
固まってしまった。これが、南東ヴァーヌの、本場の伊達男。その中でも、とびきり美形なガブリエリの、口説き文句。
ひどいよ、ガブリエリくん。こんなの、お仕置きじゃん。
「ラクロワ。採点、よろしく」
おどけた感じで言われたはいいけど、もう、かっちこっちだった。周りでは、拍手とか口笛とか、やっぱり嬌声が上がっている。
「すっげえ。これが本場の伊達男かよ。あたしもちょっと、どきっとしちゃった」
「ルキエ伍長には、また別のをご用意しますよ。ちゃんと相手によって変えないと、失礼ですからね。アンリさんはごめんなさいかな?私のほうが、恥ずかしくなっちまうから」
「あら。私だって、修道女ですけれど、女の子ですよ?殿方に一回ぐらいは口説かれてみたいなあ。じゃあ、ペルグラン少尉さまにお願いしよっと」
「ちょっとちょっと、何で俺なんですか。俺は船乗りなんだから、気が利かないですよ」
「船乗りだったら、舵取りは得意だろう?男一本、腕一本。ニコラ・ペルグランのお血筋の航海図。乗船料払ってでも、拝みたいもんだがね」
固まったラクロワを置いてけぼりで、皆できゃあきゃあ、大盛りあがり。でもそのうち、気付いてくれて、皆、頬をぺちぺち叩きに来た。それでもやっぱり、動けなかった。
私って、ふしだらだ。殿方を誑かしておいて、やられたら恥をさらすような、駄目な女。ガブリエリくんの煙草と、ペルグランくんの俺。自分が言い出したことだけれども、やっぱりたまらないや。こんなの、耐えらんないよ。
「時に、貴様。ラクロワ君をビビとは呼ばんのかね?」
不意に、セルヴァンがそんなことを訪ねた。
ビビ。身構えてしまった。やっぱりまだ、聞こえる。
「おや。貴様なら気づくと思って、あえて言わなかったんだがね」
おかしなことを聞いたように、ダンクルベールが笑っていた。
そうしてまた、ちょっと気取ったふうにして。
「嫌いな男から呼ばれた名なぞ、呼ばれたくもあるまい」
優しい口調。思わず、潤んでしまった。
気付いてくれるんだ。そこまで、考えてくれるんだ。このひとは本当に、お父さんだ。大きくて、強くて、優しくて。ダンクルベールという、お父さん。
「なるほどな。そこは貴様が何枚も上手だよ。女所帯の父親だもの」
セルヴァンが、困った顔で腹を抱えていた。
「ヴィオレット。ビオ、ビビ、ヴィオラ、ヴィー。となれば、確かにビビだもんな。だが、ラクロワというのが好きでねえ。響きがいいんだよ。ラクロワにぴったりなんだ」
顎に指を掛け、考え込むような表情で、ダンクルベールがぽつぽつと漏らした。その言葉に、ちょっぴり、どきっとした。
好き。響きがいい。ぴったり。ラクロワは姓だけど、名前のひとつ。それを、あのダンクルベールから、褒められている。
「俺もそう思います。ラクロワって名前、素敵ですもんね。貴様もそうだろう?」
「そうだな。ビビも可愛いんだけど。長官の仰る通り、綺麗な響きだよね。自信持ちなよ、ラクロワ」
ダンクルベールお父さんと、ペルグランくんと、ガブリエリくんとのやりとり。好き、素敵、綺麗。戸惑った。でも、すごく嬉しかった。
ペルグランとガブリエリ。俺と貴様の、仲良し兄弟。同い年だけど、自分だけ妹な感じ。それが結構、好きだった。
「長官。あたし、あたしは?」
はしゃぎながら、ルキエが詰め寄っていった。
「ルキエなら」
「ルキエがいいです。私、ルキエのこと、ルキエって呼びたい」
ダンクルベールが何かを言いそうになった途端、アンリが割って入った。そうしたら、ルキエの顔が真っ赤になった。どうしたんだろう。
そうして、今までのやりとりを見ていた他の女性隊員たちも、我先にと、ダンクルベールに駆け寄っていった。そうして皆、愛称が欲しいと駄々をこねはじめる。ダンクルベールも困ったように、それでもどこか嬉しそうに、ひとりひとりと話をしていた。
ダンクルベールは信頼する人の前でしか、紙巻を咥えない。そんな風説があった。それとは別に、信頼する女性だけを、愛称で呼ぶ。そんな風説も、あったりした。ビアトリクスはマギーだし、アンリは既に愛称が通っているためか、あえてアンリエットそのまま。ほか何人かも同様に愛称で呼ばれているため、もしかしたらそうなんじゃないかと、女性たちの中で、まことしやかに囁かれていたのだ。
いつしかそれが、ダンクルベールから、一人前の女性として認められた証として、広まりつつあった。
ビビではなく、ラクロワ。だからもう、一人前として見てくれていたんだ。そう感じて、心の中が、温かくなった。
「長官も、子沢山のお父さんだ。いつまで経っても、子育てが終わりませんなあ」
「もう身に染み付いちまったよ。十年もすれば、お前もこうなるぞ、オーベリソン」
「楽しみにしておきますよ。いつまで経っても、可愛いもんですからね。子どもってなあ」
「いやはや。こんなに大勢に囲まれて、果報な親もいたもんですな」
「その通りだがな、ムッシュ。ちょっと手伝ってくれよ。お前も似たような歳だろうて。半分ぐらいは受け持ってくれんかね」
「それは山々ですが、皆のお目当ては、長官ですからね。私と軍曹は、賑やかし。さあさ、皆さん。お父さんに存分に甘えてやりなさいな」
「貴様もまあ、色男だな。こんな大勢、誑かして。ガンズビュールあたりまでは、相当な男前で鳴らしていたものな」
「おい、貴様。今、そういう話をするんじゃあない。ああほら。こうなるんだから。なに、ボドリエール夫人とどこまで行ったかだと?どこまでも行っとらん。はいはい。並べ、並べ。まったくもう、手間のかかる娘どもだ」
お父さんとおじさん三人。娘たちに囲まれながら、笑い合っていた。
私と貴様と、俺、貴様。アンリとルキエ。油合羽の大家族。それが、この司法警察局と警察隊本部。ダンクルベールお父さんと、三人のおじさん。ふたりのお姉ちゃんに、三つ子のきょうだい。でもちょっとだけ、私が末っ子。そして、お父さんに、お父さんだけの呼ばれ方をされたがる、我儘な娘たち。
ビビじゃなくって、ラクロワがいい。家族皆が、好きだと言ってくれたから。
(つづく)
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・日本ダービー1998
・同期の桜 / 西條八十